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作品ID:452
こちらの作品は、「お気軽感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約4908文字 読了時間約3分 原稿用紙約7枚
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裏庭のフランケン・シュタイン
作品紹介
出会い、春、桜、少女と青年。
庭先に聳える太い幹の木からは、薄く色づいた花弁がひらひら舞っている。降り積もった雪が残らず解け、その後すぐに咲き誇ったあの可愛らしい花が早くも朽ち始めているのだ。これは毎年、この季節になると見られる光景らしい。日毎に枝から桃色の欠片が消えていくのは淋しいと思えたが、一方で、暖かい微風に躍るように散っていく姿はとても綺麗に思えた。散り際が美しい花というのも、そうそう無いのではないか。
わたしは、その花の名を知らない。散っていくその花弁の一つ一つを目で追う内に、その名を呟きたくなるのだが、でもどうしてもわからない。縁側で独り、素敵なもどかしさに捉われる一瞬だった。
わたしには、まだまだわからないことが沢山ある。
例えば、毎朝軒下にやって来る猫や雀が昼間はどこに行っているのかわからないし、陽射しを浴びるとどうして幸せな気分になるのかもわからない。なぜ雪が解けた後にあんな可憐な花が咲くのかもわからない。
本を開けば知りたいことはだいたい載っていると、おじい様は言っていた。でも、そこに書かれていることを鵜呑みにしてはいけない、とも教わった。それは、とても難しいことだと思う。
一番わからないのは、人の生死に関して。
どの本を開いても、そこには命を大切にしようとしか書いていない。人の命を奪ってはいけない、とも書いてある。生きていくことは素晴らしい、と笑顔を添えて書かれているのだ。でも、肝心の理由については、ほとんど載っていない。書かれていても、なんだか当たり障りがないというか、納得しづらいものばかりだ。これだけ共通している結論なのに、どうしてその理由がないのだろう、と随分不思議だった。
なぜ、命を大切にしなければいけないのだろう。
だって、全ての生物は、やがては死んでしまうのに。
生きている、ということよりも、やがては死ぬ、という前提のほうがよっぽどしっかりした事実なのだ。むしろ、死というものを大切に扱うべきではないのか、とも思うのだけれど……。
わたしは今朝、誤って小さなダンゴムシを踏み潰してしまった。少し可哀想な気がしたけれど、その潰れた残骸を眺めているうちに、やはり頭の中が疑問でいっぱいになってしまった。
なぜ、命ってこんなにもあっけないのだろう?
こんなにも壊れやすいものを、なぜ大事にしなければいけないのだろう。
あぁ、それとも、壊れやすいから尊いのか。
病的なまでに脆いから、慈しみの手を差し伸ばそうとでも?
命って、わからないなぁと思う。
◇
その青年は久方ぶりに訪れた恩師の邸宅の前に立ち、つば広の帽子でぱたぱた顔を煽いでいた。バスに乗り遅れて、仕方なく、急勾配の道を歩いていきた為に汗をかいているのだった。今年の春は暖かいので、なおさら汗が出た。凍えていた冬が少し懐かしく思える。
灰色の羽織を着た白髪の老人が門をくぐって現れると、青年は満面の笑みを浮かべて低頭した。
「お久しぶりです、先生」
「うん」 老人は銜えていた煙草を指に挟んで頷く。 「変わってないね」
「先生こそ」
「僕は変わったさ」 老人はくすっと笑うと、青年を門の内側へ招き入れた。
「研究のほうはいかがです?」 青年は師に続きながら尋ねる。
「もう、とっくに止めてる」 前を向いた老人の声に、少しだけ寂しさが滲んだ。 「静かなもんだよ、今は」
その空気を敏感に察知して、青年は口を噤んだ。かわりに、踏み締めている石畳の道を、右手に聳える鮮やかな木々を、静けさに彩られた緑の池の水面を眺めた。まるで、現在の師の心境がそのまま具象化したような光景。和みこそするものの、情熱を焚きつけるような刺激はもうどこにも見当たらなかった。
「僕を軽蔑するかい?」
「いえ……」 青年は俯きかけながら、首を振る。 「先生を軽蔑するなんて、できやしませんよ」
ふふふ、と煙を吐いて老人は笑った。
「お茶を出そう。菓子には期待しないでくれ」
「あ、お土産が沢山ありますんで、よかったら一緒に」
◇
静まり返った場所にじっと座っていると、自分が生きているということに気付ける。もっと正確に言うと、自分の命の音が聞こえてくる。
低くこもるような鼓動。
ひゅうひゅうと擦れる呼吸。
駄々をこねるように軋む関節。
それが、歩き始めたり、喋ったり、何かしら活動し始めると、もっと騒がしくなる。気付かないほど微弱だけれど、耳を澄ましてみるとこれほど近くで聞こえてくる音もあまり無い。それに耳を傾けるうちに落ち着いた気持ちになれるから、わたしは好きだけど。
なぜ生きているものって、音がするのだろう。
活動しているものって言った方がいいのかな。
そう、不合理だ。
生物はもちろんそうだけど、時々この家の前を通っていく車なんかも、走っている間はエンジンがうるさい。あれはたぶんバスだと思うけど、やっぱりエンジンが活きているから音が立つのだろう。死んでしまっては、音は発せない。音を発せないというのは、つまり死んでいるのと同じことだろうか。
別に、わたしは死にたいわけじゃないけれど、でも、なぜ、生きているということが、こんなにも不合理なのかなって時々思う。
小説を読んだりすると、登場する人物は皆、自分で蒔いた不合理の種で泣いたり、怒ったり、時々笑ったり、あるいは……、自分で死を選ぶくらい落ち込んだりする。
生きているからこそ辛い、という言葉もあった。
じゃあ、なぜ、生きているということが、辛いものになってしまったのだろう。
その理由は、でも、やっぱりどこにも書かれていなかった。書かれていないけれど、生きているということは、不合理の種を蒔くことなのだな、とは思う。
◇
「研究所を移るそうじゃないか。出世と聞いたが」 老人は湯呑の茶を啜りながら尋ねる。
「いえ、その話は無くなりました」 青年は羊羹を包丁で丁寧に切り分けながら、首を振った。 「正確には、僕、断っちゃったんですよ」
「じゃあ、これからどうするんだい?」
「独立しようかと思っています」
「ほう……」 白い眉を吊り上げて、老人は目を丸くした。
「先生と同じ道ですね」 青年は無邪気な笑みを浮かべる。
「馬鹿、気楽に行ける道じゃないぞ」 老人も、笑みを噛み締めるようにして忠告した。 「あぁ、じゃあ、今日はアドバイスでも聞きにきたってわけか?」
「えぇ、それもありますが……」 青年は改まって座り直して老人に向く。
「あ、なるほど……」 老人は察したように頷いた。 「譲ってほしいというわけか」
「えぇ、実は」
「しかし、もう、研究は続けていないからね、残念だが……」
だが、老人はここで躊躇うように目を逸らし、しばらく卓の表面に浮かんだ木目を眺めた。じっと睨むようなその目線は、隠居した穏和な老人には似つかわしくないほど鋭角的だった。かつての彼は、この眼光を持って研究に明け暮れていたのだ。
「いえ、先生、あの……」
青年は言いかけたが、「いや」と老人は手を上げて制した。そして、息を漏らす様に笑った。
「この歳になってもまだ、いわゆる執念というか、未練が残っているとは思わなかったな」 老人は目を上げ、まだまだ若い最後の弟子を眺めると、にっこりと微笑んだ。
「どういうことです?」
「いや、実はね、研究は止めたと言ったが……、実は数年前にね、一度だけ、造ったんだ」 老人は虚空を眺め、なぞるように、吶々と語る。 「野心といったものはもはやなかったはずなんだがね、どうしても、と最後の衝動がやってきたんだよ。ずっと放置していた設計図も残っていたから……、いや、むしろ、残していたからこそ、そうやって突き動かされたんだろうけど……」
そこで、老人は一拍置いた。青年は驚いたような、真剣な表情で話を聞いている。
「ところが……、その場限りの欲求を満たす為だけに造ったはずのそれが、設計に改良さえ加えれば、未だかつて造り上げた事の無い作品に成りえると気付いたんだ。そして、僕は、それを造り上げた」
「造り上げた……」 青年はぼんやりと繰り返す。 「それは、今、どこに……」
「裏の庭で遊んでいるんじゃないかな」 老人は力無く笑った。 「世間に発表するつもりはなかったし、誰にも教えないつもりだった。君にもね……、でも、それでは、あの子が可哀想だからな。君に、譲るよ」
「……いいのですか?」
「いいさ」 老人は頷く。 「きっと、驚く。今までになかったパターン性だからな。君の新たな仕事のパートナーになってくれるはずだ。世界を、見せてやってくれ」
◇
青空を眺めながら生き死にについて考えていると、なんだか疲れてきた。疲れるのも、きっと生きている間の特権だろうと思う。そして、疲れを癒すのは死んでいる間の特権かもしれない。
疑問はさっきから行ったり来たり、堂々巡りを繰り返している。きっとわたしが考える以前から世界中の人々が考えていた事柄に違いない。だからこそ、普遍的な問いに思えるのだろう。だけど、人々が納得できるような答えは結局得られなかった。答えがないという可能性もあるけれど、とりあえずは、という妥協の気持ちで、今の世の中の生死観が定着したのかもしれない。確かに、一筋縄ではいかない難問だ。
ひとまず頭をリラックスさせて、脚をぷらぷら縁側に投げ出していると、背後で襖の開く音がした。おじい様だと思って振り返ったけれど、そこには知らない男が立っていて、心底驚いた。眼鏡の奥の瞳が、わたしを柔らかく眺めている。直感で、この人は優しい、と思った。
「やぁ、こんにちは」
「こんにちは……」 わたしはおずおずと返す。
少し緊張したけれど、男の背後におじい様が微笑んで立っているのを見て安心した。
「お名前は?」 男がしゃがみ込み、わたしと同じ目線になって尋ねた。
「β-8です」
「そう……、僕はギザノだ。よろしく」
「よろしく……」
わたしはとりあえず頷き、そしておじい様のほうを見る。
「今日からお前の面倒を看てくれる男だよ。マスターだ」
「マスター……」 わたしはぼんやりと繰り返す。その言葉の実感は、すぐにはやって来なかった。
「まぁ、僕についてくるかどうかは、君次第だ」 ギザノという男は立ち上がり、サンダルを履く。庭先に出て、例の桃色の花弁の降る下に立った。 「すごいな、立派だなぁ」
おじい様がわたしの傍らに立ち、わたしの頭を撫でてくれた。
「世界を見てきなさい。お前は、全てを知りたくて仕方がないのだろう」
世界……。
その言葉が、ぐるぐると、わたしの頭の中を巡る。同時に、今まで保留にしてきた疑問の数々が、びっくり箱の中身のように、狭い箱のなかで身を折り重ねている空想をした。
「あの……」 わたしは呼び掛ける。
「ん?」 ギザノは振り返る。眩しそうに、目を細めてこちらを見ていた。微笑んでいるようだ。
「この、散っている花の名前、わかりますか?」
「あぁ、知っているよ」 彼は舞い降りる花弁の一つを手に取って頷いた。 「サクラだろう」
「サクラ……」
ずっと知りたいと願っていた、その三文字の単語。わたしは口の中で何度も繰り返して記憶した。
「この花、好きなの?」
「うん……」
「じゃあ、君の名前にしてしまおう」
「え?」
「君の名前は、今日からサクラだ」
わたしは、ぼんやりと彼の顔を見返した。
そうか、そんな手があったか、と思って、急に可笑しくなった。
「もう一つだけ、訊いていいですか」
「いいよ」 ギザノは頷いた。
「生きているって、どういう意味ですか?」
「死んでいるっていう意味と同じだね」 彼は笑顔を崩さすに、しかし間髪入れずに言う。 「ついてきてくれるかい、サクラ」
「はい」
わたしは頷き、そして、今度は手をしっかりと組んで、慎み深く礼をしてみせた。 それも、わたしの性能の一つだったからだ。
「これから、よろしくお願い致します、マスター」
わたしは、その花の名を知らない。散っていくその花弁の一つ一つを目で追う内に、その名を呟きたくなるのだが、でもどうしてもわからない。縁側で独り、素敵なもどかしさに捉われる一瞬だった。
わたしには、まだまだわからないことが沢山ある。
例えば、毎朝軒下にやって来る猫や雀が昼間はどこに行っているのかわからないし、陽射しを浴びるとどうして幸せな気分になるのかもわからない。なぜ雪が解けた後にあんな可憐な花が咲くのかもわからない。
本を開けば知りたいことはだいたい載っていると、おじい様は言っていた。でも、そこに書かれていることを鵜呑みにしてはいけない、とも教わった。それは、とても難しいことだと思う。
一番わからないのは、人の生死に関して。
どの本を開いても、そこには命を大切にしようとしか書いていない。人の命を奪ってはいけない、とも書いてある。生きていくことは素晴らしい、と笑顔を添えて書かれているのだ。でも、肝心の理由については、ほとんど載っていない。書かれていても、なんだか当たり障りがないというか、納得しづらいものばかりだ。これだけ共通している結論なのに、どうしてその理由がないのだろう、と随分不思議だった。
なぜ、命を大切にしなければいけないのだろう。
だって、全ての生物は、やがては死んでしまうのに。
生きている、ということよりも、やがては死ぬ、という前提のほうがよっぽどしっかりした事実なのだ。むしろ、死というものを大切に扱うべきではないのか、とも思うのだけれど……。
わたしは今朝、誤って小さなダンゴムシを踏み潰してしまった。少し可哀想な気がしたけれど、その潰れた残骸を眺めているうちに、やはり頭の中が疑問でいっぱいになってしまった。
なぜ、命ってこんなにもあっけないのだろう?
こんなにも壊れやすいものを、なぜ大事にしなければいけないのだろう。
あぁ、それとも、壊れやすいから尊いのか。
病的なまでに脆いから、慈しみの手を差し伸ばそうとでも?
命って、わからないなぁと思う。
◇
その青年は久方ぶりに訪れた恩師の邸宅の前に立ち、つば広の帽子でぱたぱた顔を煽いでいた。バスに乗り遅れて、仕方なく、急勾配の道を歩いていきた為に汗をかいているのだった。今年の春は暖かいので、なおさら汗が出た。凍えていた冬が少し懐かしく思える。
灰色の羽織を着た白髪の老人が門をくぐって現れると、青年は満面の笑みを浮かべて低頭した。
「お久しぶりです、先生」
「うん」 老人は銜えていた煙草を指に挟んで頷く。 「変わってないね」
「先生こそ」
「僕は変わったさ」 老人はくすっと笑うと、青年を門の内側へ招き入れた。
「研究のほうはいかがです?」 青年は師に続きながら尋ねる。
「もう、とっくに止めてる」 前を向いた老人の声に、少しだけ寂しさが滲んだ。 「静かなもんだよ、今は」
その空気を敏感に察知して、青年は口を噤んだ。かわりに、踏み締めている石畳の道を、右手に聳える鮮やかな木々を、静けさに彩られた緑の池の水面を眺めた。まるで、現在の師の心境がそのまま具象化したような光景。和みこそするものの、情熱を焚きつけるような刺激はもうどこにも見当たらなかった。
「僕を軽蔑するかい?」
「いえ……」 青年は俯きかけながら、首を振る。 「先生を軽蔑するなんて、できやしませんよ」
ふふふ、と煙を吐いて老人は笑った。
「お茶を出そう。菓子には期待しないでくれ」
「あ、お土産が沢山ありますんで、よかったら一緒に」
◇
静まり返った場所にじっと座っていると、自分が生きているということに気付ける。もっと正確に言うと、自分の命の音が聞こえてくる。
低くこもるような鼓動。
ひゅうひゅうと擦れる呼吸。
駄々をこねるように軋む関節。
それが、歩き始めたり、喋ったり、何かしら活動し始めると、もっと騒がしくなる。気付かないほど微弱だけれど、耳を澄ましてみるとこれほど近くで聞こえてくる音もあまり無い。それに耳を傾けるうちに落ち着いた気持ちになれるから、わたしは好きだけど。
なぜ生きているものって、音がするのだろう。
活動しているものって言った方がいいのかな。
そう、不合理だ。
生物はもちろんそうだけど、時々この家の前を通っていく車なんかも、走っている間はエンジンがうるさい。あれはたぶんバスだと思うけど、やっぱりエンジンが活きているから音が立つのだろう。死んでしまっては、音は発せない。音を発せないというのは、つまり死んでいるのと同じことだろうか。
別に、わたしは死にたいわけじゃないけれど、でも、なぜ、生きているということが、こんなにも不合理なのかなって時々思う。
小説を読んだりすると、登場する人物は皆、自分で蒔いた不合理の種で泣いたり、怒ったり、時々笑ったり、あるいは……、自分で死を選ぶくらい落ち込んだりする。
生きているからこそ辛い、という言葉もあった。
じゃあ、なぜ、生きているということが、辛いものになってしまったのだろう。
その理由は、でも、やっぱりどこにも書かれていなかった。書かれていないけれど、生きているということは、不合理の種を蒔くことなのだな、とは思う。
◇
「研究所を移るそうじゃないか。出世と聞いたが」 老人は湯呑の茶を啜りながら尋ねる。
「いえ、その話は無くなりました」 青年は羊羹を包丁で丁寧に切り分けながら、首を振った。 「正確には、僕、断っちゃったんですよ」
「じゃあ、これからどうするんだい?」
「独立しようかと思っています」
「ほう……」 白い眉を吊り上げて、老人は目を丸くした。
「先生と同じ道ですね」 青年は無邪気な笑みを浮かべる。
「馬鹿、気楽に行ける道じゃないぞ」 老人も、笑みを噛み締めるようにして忠告した。 「あぁ、じゃあ、今日はアドバイスでも聞きにきたってわけか?」
「えぇ、それもありますが……」 青年は改まって座り直して老人に向く。
「あ、なるほど……」 老人は察したように頷いた。 「譲ってほしいというわけか」
「えぇ、実は」
「しかし、もう、研究は続けていないからね、残念だが……」
だが、老人はここで躊躇うように目を逸らし、しばらく卓の表面に浮かんだ木目を眺めた。じっと睨むようなその目線は、隠居した穏和な老人には似つかわしくないほど鋭角的だった。かつての彼は、この眼光を持って研究に明け暮れていたのだ。
「いえ、先生、あの……」
青年は言いかけたが、「いや」と老人は手を上げて制した。そして、息を漏らす様に笑った。
「この歳になってもまだ、いわゆる執念というか、未練が残っているとは思わなかったな」 老人は目を上げ、まだまだ若い最後の弟子を眺めると、にっこりと微笑んだ。
「どういうことです?」
「いや、実はね、研究は止めたと言ったが……、実は数年前にね、一度だけ、造ったんだ」 老人は虚空を眺め、なぞるように、吶々と語る。 「野心といったものはもはやなかったはずなんだがね、どうしても、と最後の衝動がやってきたんだよ。ずっと放置していた設計図も残っていたから……、いや、むしろ、残していたからこそ、そうやって突き動かされたんだろうけど……」
そこで、老人は一拍置いた。青年は驚いたような、真剣な表情で話を聞いている。
「ところが……、その場限りの欲求を満たす為だけに造ったはずのそれが、設計に改良さえ加えれば、未だかつて造り上げた事の無い作品に成りえると気付いたんだ。そして、僕は、それを造り上げた」
「造り上げた……」 青年はぼんやりと繰り返す。 「それは、今、どこに……」
「裏の庭で遊んでいるんじゃないかな」 老人は力無く笑った。 「世間に発表するつもりはなかったし、誰にも教えないつもりだった。君にもね……、でも、それでは、あの子が可哀想だからな。君に、譲るよ」
「……いいのですか?」
「いいさ」 老人は頷く。 「きっと、驚く。今までになかったパターン性だからな。君の新たな仕事のパートナーになってくれるはずだ。世界を、見せてやってくれ」
◇
青空を眺めながら生き死にについて考えていると、なんだか疲れてきた。疲れるのも、きっと生きている間の特権だろうと思う。そして、疲れを癒すのは死んでいる間の特権かもしれない。
疑問はさっきから行ったり来たり、堂々巡りを繰り返している。きっとわたしが考える以前から世界中の人々が考えていた事柄に違いない。だからこそ、普遍的な問いに思えるのだろう。だけど、人々が納得できるような答えは結局得られなかった。答えがないという可能性もあるけれど、とりあえずは、という妥協の気持ちで、今の世の中の生死観が定着したのかもしれない。確かに、一筋縄ではいかない難問だ。
ひとまず頭をリラックスさせて、脚をぷらぷら縁側に投げ出していると、背後で襖の開く音がした。おじい様だと思って振り返ったけれど、そこには知らない男が立っていて、心底驚いた。眼鏡の奥の瞳が、わたしを柔らかく眺めている。直感で、この人は優しい、と思った。
「やぁ、こんにちは」
「こんにちは……」 わたしはおずおずと返す。
少し緊張したけれど、男の背後におじい様が微笑んで立っているのを見て安心した。
「お名前は?」 男がしゃがみ込み、わたしと同じ目線になって尋ねた。
「β-8です」
「そう……、僕はギザノだ。よろしく」
「よろしく……」
わたしはとりあえず頷き、そしておじい様のほうを見る。
「今日からお前の面倒を看てくれる男だよ。マスターだ」
「マスター……」 わたしはぼんやりと繰り返す。その言葉の実感は、すぐにはやって来なかった。
「まぁ、僕についてくるかどうかは、君次第だ」 ギザノという男は立ち上がり、サンダルを履く。庭先に出て、例の桃色の花弁の降る下に立った。 「すごいな、立派だなぁ」
おじい様がわたしの傍らに立ち、わたしの頭を撫でてくれた。
「世界を見てきなさい。お前は、全てを知りたくて仕方がないのだろう」
世界……。
その言葉が、ぐるぐると、わたしの頭の中を巡る。同時に、今まで保留にしてきた疑問の数々が、びっくり箱の中身のように、狭い箱のなかで身を折り重ねている空想をした。
「あの……」 わたしは呼び掛ける。
「ん?」 ギザノは振り返る。眩しそうに、目を細めてこちらを見ていた。微笑んでいるようだ。
「この、散っている花の名前、わかりますか?」
「あぁ、知っているよ」 彼は舞い降りる花弁の一つを手に取って頷いた。 「サクラだろう」
「サクラ……」
ずっと知りたいと願っていた、その三文字の単語。わたしは口の中で何度も繰り返して記憶した。
「この花、好きなの?」
「うん……」
「じゃあ、君の名前にしてしまおう」
「え?」
「君の名前は、今日からサクラだ」
わたしは、ぼんやりと彼の顔を見返した。
そうか、そんな手があったか、と思って、急に可笑しくなった。
「もう一つだけ、訊いていいですか」
「いいよ」 ギザノは頷いた。
「生きているって、どういう意味ですか?」
「死んでいるっていう意味と同じだね」 彼は笑顔を崩さすに、しかし間髪入れずに言う。 「ついてきてくれるかい、サクラ」
「はい」
わたしは頷き、そして、今度は手をしっかりと組んで、慎み深く礼をしてみせた。 それも、わたしの性能の一つだったからだ。
「これから、よろしくお願い致します、マスター」
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