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作品ID:455
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約15535文字 読了時間約8分 原稿用紙約20枚
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マザー・ネイチャーズ・ドーター
作品紹介
大自然、海と風、森と人
あたしには大好きなものがある。それも、両手の指を使っても数え足りないくらい、たくさんある。優しいお父さんとお母さん、今はもう海の中に消えてしまった兄さん、お隣のウィル、ウィルのお父さんとお母さんと妹のアイリ、それに夜明け前の海や、お日様の光を吸い込んで熱くなった砂浜、きらきら輝き始めるお星様とお月様、そよ風と、そよ風に揺れるココナッツの木、あたしより背の大きな岩、お魚と、鳥と、カニの行進、それと、お父さんが遠くの街で買ってくるミルクとイチゴ。まだまだあるかも。
ウィルはあたしを変な子だと言って笑う。あたしが時々、ぼんやりとしているから。お魚を獲る時も、木船を作るのを手伝っている時も、ご飯を食べている時も、あたしは魂が抜けてしまったようにぼうっとすることがある。ウィルはそんなあたしを見つける度に指をさして、「どんな夢を見ているの?」と尋ねてくる。
ううん、あたしは、けして夢を見ているわけじゃないの。ただ、皆が静かに語りかけてくるから、耳を澄ましてそれを聴いているだけ。皆って言っても、あたしのお父さんでもお母さんでも、ウィルの家族でもない。人間じゃなくったって、皆、言葉を持っているのよ。
例えば、あたしの髪を梳いてくれる風は、遠い国のお伽噺を教えてくれる。足許を撫でる白波はいつも優しい。よくあたしのベッドや椅子になってくれる岩はむすっとしていて、空を横切る鳥達は忙しいと文句を言っている。泡はぷつぷつと小声で呟く。東の海から顔を覗かせるお日様は「おはよう」を告げて、白い千切れ雲は「こんにちは」、貝殻みたいに光る月は「こんばんは」を言って、夜の透明な空気は「おやすみなさい」と静かな子守唄を歌ってくれる。
それを教えてあげると、ウィルはいつも小首を傾げて、最後にはやっぱりまた笑いだす。あたしの言うことを信じてないの。そんな時、あたしはいつも悲しい気持ちになる。でも、寂しくはない。言葉が解れば、話すことができれば、お友達はいっぱいできる。あたしにはお友達がたくさんいるから、ちっとも寂しくない。
「お母さんにもね、昔、そんな友達がいっぱいいたのよ」
お母さんは敷き詰めた絨毯の上で籠を編みながら、よく話してくれた。
「ウィルはきっと忘れちゃっているの。あなただけじゃないのよ。お父さんも、あなたのお兄さんも、そうだったんだから」
「ほんと?」
あたしが尋ねると、ハンモックで寝ているお父さんが目を瞑ったまま頷く。
「本当さ。お父さんは、なかでも森と仲良しだった。どの木に甘い実があるのか、どの木に珍しい虫が集まるのか、彼らは教えてくれたし、スコールの時にはお父さんを雨露から守ってくれたこともある」 お父さんはそこで瞼を開き、眠そうな灰色の瞳をあたしへ向ける。 「今はもう、声は聞こえないけどね」
あたしは、森とはあんまり仲良くない。少し怖いのだ。海と違って背も高いし、なんだか暗くてじめじめしている。もっとお前が大きくなったら、きっと仲良くなれるだろう、とお父さんは笑ったけれど、あたしには全く想像がつかない。
兄さんは二年前、海の一部になった。漁の途中、嵐に遭って死んでしまった、とお父さんは悔しそうに言った。お母さんはずっと泣いていた。村の人達も皆、涙を流して悲しんでいた。
でも、あたしは知っている。兄さんは、海の中で生きているということを。
明け方の海辺を歩いていると、すっかり凪いだ波の音に混じって、兄さんの声が聞こえることがある。それはとても楽しげで、村の祭の時のようにはしゃいだ、懐かしい声。時々、あたしの名前を呼んでくれる。あたしはそんな時、海の向こうへ、精一杯声を張り上げて返事する。すると、寄せて返す波がざざざ、と嬉しそうに震える。嘘じゃないよ。
あたしだって、死ぬという言葉の意味くらいは知っている。だからこそ、あたしは胸を張って、姿は見えなくなってしまったけれど、兄さんは海の中で生きていると断言できた。だって、死んだものは話すことができないもの。風も、海も、皆生きているのよ。
あたしがそう言うと、お父さんもお母さんも、優しく微笑んで頭を撫でてくれる。その時になって初めて、兄さんはもう、こうやって頭を撫でてもらうこともできないのだな、と考えて、あたしは哀しくなる。もう少しだけ、兄さんと暮らしていたかった。
どんなに周りが賑やかであっても、お父さんとお母さんに挟まれて寝床についている時も、ウィルやアイリと一緒にココナッツの実を採っている時でも、胸にぽっかり穴が空いたような寂しさに包まれる瞬間って、絶対あると思うの。あたしにはしょっちゅうあるわ。そういう時、あたしは風の唄を、波の優しさを、眠る夜の大気を、木霊する兄さんの声を思い出すのよ。そうすれば寂しさは紛れて、彼らの形と同じように、あたしはお父さんとお母さんの子として、ウィルやアイリのお友達として、あるべき姿でいられるの。そういう実感って、何よりも幸せな気分にしてくれるんだよ。だから、あたしは、あるがままの自分が一番好き。
◇
その日の晴れた朝、ウィルと一緒に木船に乗って、お魚を釣っていた。ウィルはあたしと同い年で、まだ十歳になったばかりだけど、船を扱うのが物凄く上手いと村では評判だった。ウィルも、ウィルのお父さんも、それを誇らしげに自慢する。凄く羨ましいから、あたしも教えてもらうことがあるけれど、どうしても上手くできない。「これは男の仕事だから、できなくて当然だよ」としょっちゅうからかわれる。ウィルは、本当は優しい男の子なのだけど、意地悪な所もあるの。
釣り糸を垂らしながら透明な水面を眺めていると、また風が歌い始めた。あたしはその声に耳を傾ける。海の向こうに広がる大きな雲を、風は報せていた。もうじき嵐が来る。嵐は乱暴者で、いつも穏やかな海を虐めて荒らす困った連中だ。
ウィルがまたあたしを笑ったので、あたしは親切にそれを教えてあげた。彼は目を丸くして、遠くの空を眺めた。
「嵐? そんな雲、どこにもないじゃないか」
「見えなくても来るの。お昼過ぎには荒れ始めるわ」
少し怯えた表情を覗かせたものの、ウィルはごまかすように笑った。
「そんなの、嘘っぱちだ」
「嘘じゃないわ。今はまだ大丈夫だけど、すぐに戻らないと大変なことになるから」
「臆病だなぁ」
彼は笑っていたけれど、あたしは必死に説得を続けた。ようやく、彼は釣りを止めて、しぶしぶ船を村に引き戻してくれた。その時には多少風が強くなっていて、彼の顔は不安げだった。お昼になると、やっぱり遠くの空に大きな黒い雲が、布地にできた染みのように広がっていた。
「ほんとうだ、ほんとうに嵐がきた」 ウィルは呆然と立ち尽くして呟いた。
あたしは少しだけ得意になって、彼の隣で微笑んでいた。
ウィルは船を扱うのがとっても上手。だから、彼は、船のことならなんでもわかる。船とお友達なのだ。お日様とお月様よりも、木船のオールや漁で使う網や銛なんかをとっても愛している。だから、お魚の集まる場所や船の漕ぎ方がわかっていても、風や波の声はわからないのだろう。
雲に気付いたお父さんやお母さん、それに村の人達が向こうで土嚢と石塀を作っている。声を掛け合っていて、忙しい雰囲気だ。あたしたちは言いつけを守って、それぞれの家で大人しくしていた。ウィルの家との距離はほんの僅かだから、窓から彼とお話ができる。ウィルは蔀を開けて身を乗り出し、あたしとお話をしていた。
「なんで、嵐が来るってわかったのさ」
「風が教えてくれたのよ。皆、色んなことを知っているの。あたしは彼らとお友達だからそれがわかるの」
「変なの」 ウィルはいつも通りに笑った。
「変じゃないよ。お父さんもお母さんも、それに兄さんだって、昔は皆とお友達だったって言っていたもの。ウィルは、船と仲良くなったから忘れているだけだよ。お父さんは森とお友達だったのよ」
「でも、今の村じゃ、ぼんやりしているのはきみだけじゃないか。へんてこなことばっかり言ってさ」
「へんてこじゃない」 あたしは強い口調で反論した。
「へんてこだよ。ぼく、きいたんだ。きみのお父さんとぼくのお父さんが話しあっているのをね。きみのお父さんが、もしかしたら、きみは大自然の子かもしれないって言って、笑っていたんだ。村の皆も、きっと同じように思っているよ」
「嘘よ、そんなの。あたしは、お父さんとお母さんの子だもん」
「じゃあ、なんでそんなに変な声が聞こえるの? きみのお父さんも、お母さんも、それに死んじゃったシャイクだって、そんな素振りはなかったのに」
「兄さんは死んでない!」 あたしは身を乗り出し、びっくりしたウィルを正面から睨んだ。
「死んじゃったじゃないか。きみのお父さんだって、嵐で死んだって皆に……」
「見えなくなっちゃっただけで、海の中でちゃんと生きているもん! 時々、あたし、声を聞くんだから……」
また始まった、とでも言いたげに、ウィルが今度は呆れた顔であたしを見た。
「とにかく、村でそんなことを言うのはきみだけだよ。変なことばっかり言っている。きみのお父さんが話していたことはほんとうかもしれないね、エイダ。きみは、大自然の子だよ、きっと。人じゃないんだ」
「そんなはずない」 と言いつつも、あたしはこの時にはほとほと自信を失くしていた。萎んだあたしの声を聞いて、ウィルはきっと勝ち誇っていただろう。 「だって、お父さんも、お母さんも、昔は……」
「だから、それはきみをごまかす為の嘘だよ。誰も、風と友達になんかなっていないさ」
その言葉が、あたしの心を決定的に打ち負かした。あたしは真っ赤になって、やり切れず、窓の向こうにあるウィルの顔目掛けて胡桃の殻を投げつけた。当たったのかどうかはわからない。何か喚いていたけれど、あたしはろくに耳も貸さず、一目散に家から飛び出した。もしかしたら、喚いていたのはあたしだったのかもしれない。わからない、怒りで頭が真っ白になっていたから……。
ううん、違う。
本当は、怒っていたのではなくて、恐ろしかった。
もちろん、ウィルの言う事には腹が立った。お父さんが変な冗談を言っていたのも頭にきた。けれど、それを覆い尽くすほどの不安と恐怖があたしの中で渦を巻いていた。
お父さんとお母さんを疑う気持ちなんて微塵も無い。
だけど……。
もし、お父さんもお母さんも、それに気が付いていなかったら?
つまり、あたしも、それにお父さんとお母さんも、あたしのことを家族だと信じているけれど、本当は、あたし達も知らないなにか途轍もなく大きな存在が、悪戯を仕込んでいたのだとしたら? 神様か、あるいは悪魔が、本当は風や、波や、岩や、あるいは星の申し子として生まれるべきだったあたしを、気紛れでお父さんとお母さんのもとに送り込んでいたのだとしたら? 無理に割り込んできたあたしのせいで、兄さんが嵐に呑まれたのだとしたら?
それはとても恐ろしくて、信じたくないことだったけれど、その時はそう考えるのが何よりも自然に思えた。そうでなければ、あたしを取り巻く全ての状況に折り合いがつかない気がした。考えるだけで涙が滲んでくるのに、そうでなければいけないんだ、という諦めの溜息。
外は湿った横風が叩きつけるように吹き荒び、蜂の巣のような形の大きな雲があたし達の村まで迫っていた。暗い海は乱暴な風に虐げられるがまま、うねったり、砕けたりして荒れ始めている。あたしはその不穏な景色の中で、愕然として立ち尽くしていた。
大人達はまだ海岸近くで作業をしているはず。そちらへ行こうかと考えたけど、怒られるのは目に見えているし、何より、お父さんとお母さんの顔を見たくなかった。もちろん、嫌いになったわけじゃない。むしろ、顔を見て安心したいのに、会いたくない。こんなに矛盾した気持ちは初めてだった。家にもいたくない。誰かと話がしたかった。けれど、ウィルはだめ。アイリは幼すぎる。
あたしの目は自然と、波頭のぶつかり合う海へ向かった。海ならば、あるいはあたしの疑問に答えてくれるかもしれなかったが、震え、さざめき、逆巻く、混乱した波達にそんな余裕があるとは思えなかった。雨の降らぬうちから、海原は泥に似た不吉な色をしていた。やがてやってくる暴風雨によって、多くのものを巻き込もうとする殺戮の意思の波と化すだろう。そうなっては話すどころか、近付くこともできない。あたしまで波に攫われたら、お父さんとお母さんはきっと、もう一生、海とお友達にはなれないだろう。海を憎みながら生きていくはずだ。それは悲しいことだと思ったから、海には近付かなかった。
◇
村の裏手側、つまり森の広がる方向へはけして近付くな、と子供達は言いつけられてきた。農作地の先には湿地が広がっていて、昔、その底なし沼に子供が一人食べられたという。あたしもウィルも、それを聞く度に震えあがった。けれど、実際目にしてみると、その人食い沼は穏やかに横たわっているだけで、海よりも大人しそうだった。その日も、嵐がやってくるというのに、低い水面が風に揺れているくらいで、いつもと変わらぬ姿でそこにいた。ただ、水が濁っていて、陰湿そうではあった。
あたしは慎重に沼を迂回して、柔らかい湿地を通って森へ向かう。あたしは疑問の答えを、少し苦手な森へ求めることにした。海は言わずもがな、お日様は今やすっかり隠れてしまっていたし、砂浜は降りだした雨と勢いを増した波によってくしゃくしゃ、ココナッツの木も風を受けて萎びるように傾いていた。皆、あたしの言葉に応えてくれる余裕はなさそうだった。あまり気が進まなかったけれど、うやむやにしてしまうのはもっと嫌だった。
森の入口へ立った時には、もうすっかり天気は荒れ狂っていた。風が何もかも吹き飛ばそうと躍起になって、手当たり次第に殴りつけている。あたしの髪は浅瀬の海藻のように踊り狂って、身体ごと飛ばされそうになった。温い雨はほとんど斜めに降りつけ、時々雷を起こしながら、小さな池をそこかしこに作り上げていた。祭で使う太鼓みたいに騒々しく、激しい一定のリズムで、嵐はあたし達の村を襲っていた。
けれども、あたしは、森の姿を視界に認めてとても驚いた。一本一本の木々は確かに枝葉を震わせているけれど、お互いを支え合うように密集して、森は静かな秩序を作り上げていた。海や空、それに雲や星と同じように、森は、一つの存在になってそこにいた。
すごい。
あたしは吹きつける風と雨に堪えながらも、すっかり目を奪われて呟いた。
前に一度だけ、あたしはこの森を訪れた事がある。大人達の狩りに面白半分でついていった時だ。よく晴れた、青い空の日。お日様が高い位置にあって、海を渡って吹いてくる風がとても心地良かった。心が弾むような、素敵な一日。なのに、その大森林は、異様なほど静かで、木々の間に覗く深遠な薄闇の世界は身震いするほど恐ろしかった。表情の無い木彫りの人形を見つめるような、あの感じ。そう、森は、無口だった。あたしは、苦笑するお父さんに張り付いたまま、村まで戻った。
その姿は今日まで変わりがなかったようで、やっぱり森は静かだった。けれども、その時のあたしには、何故だか、その無口な森が何よりも頼もしく思えたのだった。あたしのことはもちろん、全てを脅かす嵐すら、眼中にないように佇んでいた。じっと何かを待つように根を張っている木々の間で、怯えるように身を潜めている背の低い木や草がいじらしくもあった。
あたしは鬱蒼とした森へ踏み込む。森は頭上で絡まり合う枝葉の影で覆われていた。空気はひんやりとして眠りについている。目覚めることがあるのかな、とあたしは少しだけ思った。そう、高く聳える大木達以外は、何もかも眠っているようだった。鳥の声も聞こえない。聞こえるのは、かさかさと葉の擦れ合う乾いた音と、雨が葉を打つ音。
あたしは少しだけ、お父さんとお母さんのことを考えた。
きっともう、家に戻っているはず。
心配しているだろうな。
でも……。
少し気が引けたが、あたしは頭を振って、それ以上考えないようにした。躊躇いかけた脚を森の奥へと運ぶ。
◇
奥に進むに連れ、嵐の喧騒は遠のいていった。枝の隙間から垂れ落ちる雨の滴も、しだいに途切れていく。お日様はもちろん、澱んだ空すら眺められない。風も無く、あたし達が住むのとは違う世界が、まるで箱詰めされてそこに置かれているかのようだった。耳を澄ませば雨露の砕ける音が聞こえるが、それ以上に、霞のように立ちこめる静寂の幕が圧倒的に辺りを支配していた。
森は無口。何も語りかけないし、試しにあたしが話しかけても何も答えなかった。やっぱり、あたしがもう少し大きくならないと気付いてもらえないのかもしれない。無造作に連なる木々と比べて、あたしはずっとチビだ。あたしはお父さんが話してくれたことを思い出し、無駄足だったかもしれない、と感じ始めていた。
だけど、ずっと同じ景色のように見えて、実は進む度に変わっていく光景は眺めているだけで面白かった。蔦の絡まる太い木を過ぎると、次には様々な色の実をつけた木が現れる。枝にぶら下がって居眠りをする蛇もいれば、大事そうに木の実を抱えて走る栗鼠も現れた。のろのろと木を登る虫や、根っこの片隅で車座となっているキノコが可愛らしい。相変わらず、皆無口ではあったけど、生命の躍動する様は海と一緒で、あたしは何となく嬉しかった。静寂の心細さはあったけれど、結局は、もっとこの森と接してみたい、という好奇心が勝り、あたしは奥へとずんずん歩いていった。
そして、半刻ばかり歩いた頃、あたしの周りに変化が起こり始めた。初めは小さな違いに過ぎなくて、あたしは脚を止めては、気のせいか、それとも暴風雨達の遠い雄叫びかと思いこんだ。でも、歩を進める度にそれは違うと気付く。
木々が緩やかに、小気味よく、葉を打ち鳴らしていた。それは決して嵐に耐える響きではなく、もっと陽気で、もっと安らかな、暑い日に木陰を作ってくれるマンゴーの木に似た優しさがあった。あたしは耳を澄まして、その旋律に聴き入る。
森は唄を歌っていた。あたしは心底驚いて辺りを見回した。景色には何も変化はない。けれど、透明な感情の波が、深閑とした森の奥底に漂っていた。あたしに向けられた唄ではない。森は相変わらず、あたしに気付いている様子ではなかった。
「誰なの?」 あたしは無心で問い掛ける。答えはもちろん知っている。
しかし、唄声は答えなかった。
やがて、その歓喜の唄が幾重にも折り重なっていくのを感じた。声が、唄が、枝葉のさざめきが、静かに集まって来ているのだった。あたしはそれが聞こえてくる方向へ駆け出していた。怖くはなかった。むしろ、その唄声を聴いているだけで、あたしの胸は不思議な嬉しさで満たされていくようだった。空が赤く染まる夕暮れ時、遊び終わって帰っていると、自分の家にランプの灯がともっているのを見つけた時のように。
「おや、この子は誰だい?」
唄声の中で、突如投げかけられた問いにあたしは立ち竦む。頭上を見上げ、辺りをきょろきょろ窺ったけれど、当然、人の姿なんてなかった。
くすくす笑う声が楽しげに響く。
「どこ見ているのさ。僕達は、君の周りにいるよ」
森の声!
あたしは確信した。けれど、同時に動揺もしていた。風や波と違って、森の声はあまりにもはっきりとあたしの内側へ響いてきたからだ。それに、あたしが想像していたのと違って、その声はとても陽気な調子だった。むっつりと黙りこんでいた森の姿とは似ても似つかないもので、その落差にびっくりしていたのだ。
「あなた達は、森ね?」 あたしは恐る恐る尋ねた。
「わぁ、驚いた。君、僕達の言葉がわかるの?」 森は嬉しさを隠す様子もなく言った。 「人が語りかけてくるなんて、いつ以来だろうなぁ。もうすっかり忘れられたと思っていた」
「あたし、風や海の言葉もわかるのよ。でも、あなた達は他と違って少しお喋りなのね。びっくりした」
「そうだよ、僕達はいつもお喋りしているんだ。だって、こんなに仲間がいるんだもの、人や海や風だって、同じだろう?」
「うん、そうかも」 あたしはここでやっと微笑むことができた。 「ねぇ、さっきの唄は何? 何を唄っていたの?」
「あぁ、そうそう、僕達はお祝いをしていたんだ。君の目の前、少し窪んだ場所があるだろう? そこをごらん」
あたしは言われた通り、少し慎重に身を屈めて覗いた。けれど、緑に覆われた薄暗い地表には何も無いように思えた。
しばらくして、あたしはようやくそれを見つけた。
小さな新芽がそこに芽吹いていた。まだ眠たげに顔を出したばかりの、薄闇の中できらきら輝く翡翠色の二又の葉。身体を少しでも伸ばそうと、無邪気に背伸びをしていた。辺りをよく観察すると、木々はまるでその新芽を取り囲むように屹立していて、見守っているようにも思えた。
祝福の唄声が続いている。
「今日、僕達の新しい仲間が生まれたんだ。可愛いだろう? だから、他の皆にも報せてあげているんだよ」
「そうだったの……」 あたしは思わず溜息をついた。 「うん、とっても可愛い。ねぇ、触ってもいい?」
「そっとだよ。優しくね」
あたしはゆっくり手を伸ばして、新芽の小さな葉に触れた。指先にその柔らかな、赤ちゃんの頬っぺたにも似た感触を確かめ、あたしは自然と幸福感に包まれた。愛らしい姿をしたその芽をしばらく眺め、心からの祝福の言葉を掛けてあげた。
「この芽の為に、僕達は枝をどけてお日様の通り道を作ってあげなくちゃいけないんだ。けど、今日は嵐が来ているみたいだね。雨が水溜りを作ってしまったら大変だ」
「そう、村の皆も、海も、大変なの。でも、ここはすごく静かなのね」
「うん、ここは、僕達の一番深い場所だからね。だから、君みたいな子が一人で来るなんて珍しいよ」
「うん……」 あたしは少し俯いた。
「もしかして、迷子になったの?」
「ううん、違うわ。あたし、あなた達に訊きたいことがあって、ここに来たの」
「訊きたいことって?」
でも、あたしはそこで今更のようにうろたえ始めた。
あたしは、大自然の子なの?
あたしの居場所は、どこにあるの?
その疑問は胸につかえて、吐き出されることを望んでいたけれど、でも、あたしはぐっと我慢して呑みこんだ。だって、その質問をして、もし期待と違う答えが返ってきたら、あたしはどうすればいいのかわからなかったから。
「どこかに、休める場所はないかしら? あたし、あなた達ともっとお話したいわ」 あたしは結局、一番尋ねたかったことを口にしなかった。
「あぁ、じゃあ、僕が案内してあげる。いい場所があるんだ。僕達も、君と話したいよ」
それからあたしは、森の声に導かれるまま、木々の隙間を歩いていった。歩きづらかったけれど、藪や大きな蜂の巣があるところを森は避けて案内してくれた。森は饒舌だった。擦れ違う木々からは「こんにちは」と挨拶されたし、軽い冗談を言う声すらあった。(例えば、「あなたの髪は樹皮の剥がれた幹みたいにすべすべね」などだ。あたしはなんだか嬉しくなった)
歩いている間も唄声は絶えず響いていた。けれど、あたしは途中から、それが小さな訪問者を歓迎する、賑やかな内容に変わっているのに気付いた。あたしは嬉しくなって手を伸ばし、擦れ違う幅広の葉っぱや、穂先の尖った草達と握手を交わした。
「皆、言葉がわかる子が来てくれて嬉しいんだ」 あたしを先導していた声が言った。
「あたしも、あなた達と言葉が交わせて嬉しい」 あたしは本心から言った。
森は喜ぶように、風に任せてざわざわと騒ぎ立てた。
◇
「ここなんか、ちょうどいいんじゃないかな」
木々がわずかに開けた場所で、まるで珊瑚礁のようにふっくらした岩場に当たった。苔をうっすら生やした四枚の大岩が綺麗に組み合わさって、屋根のある小さな洞穴を作り上げていた。絶好の休憩所だ。あたしは海ヘビになった気分で、その狭い穴の中に身をねじ込んで座った。ぽたり、ぽたりと頭上の屋根を叩く雨音を聴きながら、岩壁に挟まれてじっとしていると、それだけでわくわくする気分になった。
「うん、素敵な場所ね」 あたしは笑いかけた。
「それはよかった。昔からね、狩りにやってくる人間がここを休憩所として使ってきたんだ」
岩壁に挟まれた中では、雨音も、あたしの声も、森の声も、そして森の声を内包する静寂も反響して聞こえた。滞留する空気はひんやりと湿っていて気持ちがいい。
あたし達はそこで、長いことお喋りをした。核心に迫ったことは訊かず、他愛もないお話。そう、自分の家族や親しい人達について、あたしたちは語り合った。あたしのお父さんとお母さん、海に消えた兄さん、お隣のウィルの悪戯とアイリの作ってくれる花飾り。森が生まれた太古の日々、朽ちていった仲間達と新たに生まれてきた子供達、枝葉に身を寄せる動物達の追憶、過去から未来への命の連鎖。
森が語る言葉は、人間のそれよりも豊かな色彩に溢れ、あたしはまるでお母さんや風が語りかけるお伽噺に耳を傾けているような、うっとりした気分になった。あたしはまったく飽きなかったし、彼らも、応答するあたしの声の響きや表情を楽しんでいるようだった。とにかく、お互いに楽しんでいたのは間違いないと思う。
やがて、日が暮れた。いつの間にか辺りは神秘的な闇夜に包まれ、岩肌の苔が淡く光り始めていた。どこかで梟が鳴いている。それは森の欠伸のように伸びやかで、安穏とした響きだった。あたしもそれを聞いて、思わず欠伸を漏らした。
「夜なのね。全然気が付かなかった」 あたしは洞穴の中で横たわりながら言った。
「うん。すっかり話しこんじゃったね。嵐も、どこかに行っちゃったみたいだよ」
森の言う通り、雨音も、樹冠をなぶる風の音も、すっかり止んでいた。あたし達の語り合った場所では頭上の枝葉が大きく開かれていたので、お月様の浮かぶ穏やかな夜空が眺められた。洞穴の天井、岩と岩の接ぎ目からは微かに燐光が切れ込んで、あたしの周囲を透き通った青色できらきらと輝かせていた。鍾乳洞の水底のような光景。
「不思議。海辺で見上げるお月様と、ここで見上げるお月様が、まるで別物みたい」
「見上げる時の気持ちで、お月様はいくらでも姿を変えるよ」
あたしは心地良く響く森の声に耳を傾けながら、洞穴に射し込む月光に指で触れる。
あたしの指先で、光の欠片が戯れる。
くるくると、きらきらと。
砕けるように、拡散しながら。
閉じた瞼の内側では、まだお月様の欠片が踊っている。
くたくたに疲れきって、なんだか無性に眠かった。
「素敵」 あたしは唄うように呟いた。 「ここが、あたしの新しいおうちかもしれない」
「ここで暮らすの?」 森は驚いたように尋ねた。
あたしは目を閉じたまま頷いた。
「でも、お父さんとお母さんが、君を探しているんじゃないかな」 森は心配そうに尋ねる。
「たぶんね……、でも、いいの。あたし、きっと、生まれてくる場所と形を間違えたのよ。だから、あたし、あなた達に会いにきたの」
「どういうことだい?」
あたしは少し躊躇ったけれど、結局は話す事にした。だって、その為にあたしはここに来たのだもの。
「あのね、お父さんが、あたしのこと、ほんとうは大自然の子じゃないかって話していたの。村でも、風や波の声が聞こえるのはあたしだけだから……、いつも変だって笑われていたわ」
目を瞑りながら話していると、小川の調べのように言葉が次々と溢れ出てきた。だけど、話しながら、あたしはふと哀しい気持ちを思い出した。あの村にはあたしの居場所はないんだと考えると、色々な感情が、まるで荒れた海のようにぶつかり合い、涙が滲んでくる。
あたしは瞼を開き、こぼれた涙の一粒を指で拭って口に含んだ。それは海岸の岩盤から採れる塩の結晶と同じくらいしょっぱかった。
「だから、あなた達を訪ねて来たの。あたしは大自然の子なのかなって……、ほんとうはあなた達の仲間で、村の皆とは違うのかなって……、ウィルはあたしをへんてこだって笑ったわ。あたし、腹が立ったけれど、でも、ウィルの言う通りなのかもしれない。だって、あたし、普通じゃないもの」
森はしばらく何も語りかけなかった。考え込むように押し黙り、その間、夜風に会わせて葉を震わせるだけだった。あたしは答えを待ちながら、止めどなく流れる涙を払い続けた。声を上げはしなかった。哀しいけれど、とっても落ち着いた気分だったの。たとえば、雨後の虹を見上げているような、切ないけれど、何もかもがぴったり収まっているあの感じ。
やがて、森は静かに口を開いた。
「君の目許は、きっとお母さんに似ているんだろうね。すごく優しい眼差しだもの。それに、身体はお父さんのほうを受け継いだのかな? ちっちゃいけれど頑丈そうだ」
何の事かわからず、あたしは言葉を返せないでいた。
森は続ける。
「君は水面に映る自分の姿を見た事がある? 君は間違いなく人間の子だよ。言葉は通じるけれど、僕達の仲間ではないよ」
「でも……、村の皆は誰もあなた達の言葉がわからないわ。今では、わかるのはあたしだけだもの」
「そんな違いはいくらでもあるよ。僕達だってそうさ。僕達は一つのまとまった存在、つまり、君達が森と呼ぶ存在ではあるけれど、でも、元は一本一本独立した木々の集まりなんだ。同じに見えるかもしれないけれど、皆違うんだよ。木の実をつける奴もいるし、細い奴や太い奴、葉をつけない奴、鳥の巣を飾っている奴だっている。人間や、他の生物だってそうだろう? 男と女がいて、痩せた人や太っている人、泳ぎが上手い人、下手な人、君みたいに言葉が解る人、解らない人がいるじゃないか」
あたしは何故だか息を潜めて、懸命にその言葉に耳を傾けていた。
「神様はきっと考えがあって、一つ一つを違うものとして創り上げたんじゃないかな。君も僕達も、何か深い意味があって生まれてきたんだよ」
「そうかしら」
「きっとそうだよ。だから、自分の形や自分の本質、他と違う箇所を悲しんじゃいけないし、拒むこともいけないよ。自分という存在を疑うのは良くないことなんだ」 森は優しい口調で語る。
あたしはと言えば、燐光に手を翳して、精一杯目を凝らして掌を見つめていた。
あたしの体。
あたしの形。
こんなに、くっきりと浮かんでいる。
「そういえば聞いていなかったけれど、君の名前は?」
「エイダ」
「そう、素敵な名前だね。お父さんとお母さんが一生懸命に考えてくれた名前なんだろうね」
そう、あたしは自分の名前が大好きだった。だって、それはお父さんとお母さんが与えてくれた一番の贈り物だから。
「もしかしたら君は、僕達と人間を結ぶ架け橋として神様が遣わした人なのかもしれないね。けれど、それ以前に君は、君のお父さんとお母さんの子であり、さっき話してくれたウィルっていう子の友達であり、僕達の新しい友達でもある。君は、今日生まれた僕達の仲間のあの子と同じで、エイダという名の、小さくて可愛い、大切な存在なんだよ」
その言葉の一つ一つが、あたしの内側で深く響くようだった。まるで空洞だったあたしの体は今や透明な感情で満ち溢れ、この上ない至福と愛で囲まれているように思えた。
あたしはお父さんとお母さん、それに兄さんの顔を思い描く。
それから、ウィルやアイリ、二人のお父さんとお母さん、村のおじさん達やおばさん達、東の海から顔を覗かせるお日様、幽かな明かりを放つお月様、砂浜と、ココナッツ、鳥と岩、風と波。それに、森の優しく明るい声。
皆、あたしが大好きなもの。
一度、星の瞬く夜空を岩の隙間から見上げる。お月様の光は眩しかった。
「信じられないんだったら、夜が明けた後で村に戻ってごらん。君はきっと、自分のいるべき場所を見つけるよ」
「うん」 あたしは頷いた。
もう涙は出なかった。代わりに喜びの微笑みが、胸の奥底から湧き出てくるかのようだった。
「もう眠りな。僕達が子守唄を歌ってあげるから。お日様が昇ったら、出口までまた案内してあげる」
「うん、ありがとう」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
あたしは目を瞑る。
微風に擦れ合う枝葉の囁きが、穏やかに鳴く梟の声が、やがて懐かしい旋律を紡ぎ出す。聴いたことがないはずなのに、懐かしいなんておかしいでしょう? でも、聴き覚えがあるの。たぶん、大昔の、あたし達がまだ一つであって、神様の腕の中で眠っていた頃に聴いた唄なんじゃないかな。
あたしは眠った。
温かく、静かな旋律に包まれて。
優しい闇の中に光の欠片を探しながら。
あたしは夢を見た。
あたしに宿る、愛の手に抱かれて。
輝かしいお日様の光を待ちわびながら。
森と、海の。
空と、大地の。
風と、人の。
大好きなもの達の夢を見て眠った。
◇
空が乳白色に染まった頃、あたしは起き出した。辺りは静か。射し始めた金色の陽に当てられ、森は段々と緑を取り戻していくかのような淡い色だった。鳥もまだ眠りについているみたい。
「おはよう」
「おはよう」
あたしが声を掛けると、森はすぐさま返事をくれた。
あたしは洞穴から這い出て、まだ完全に目を覚まさない木々の間を、案内に従って歩いた。雨を吸った地表はまだ冷たく、所々濡れていた。しかし、それすらも気持ち良く、あたしの心を弾ませた。
森は道中にも様々な話を聴かせてくれた。夏の季節や、冬の季節の森のお話。彼らの生活。あたしも知っている限りのこと、人の暮らしや、海のことなんかを話してあげた。
「そうか、切り倒された仲間達は、君達の生活で役立っているんだね」
「うん。家になって、あたしの家族を雨や陽射しから守ってくれるの」
「よかった。なんで斧なんかで僕達を傷つけるのか、ずっと不思議だったんだ」
「ごめんなさい。あたしのお父さんはね、あなた達のような木とか、お魚や木の実とかの食べ物にちゃんと感謝しなさいって言うの」
「どういたしまして、と伝えてくれるかい。限度を過ぎさえしなければ、僕達も、君達の役に立てて嬉しいよ」
「ほんとうに?」
「本当さ」 見えない森の顔が、にっこりと微笑んだように思えた。
やがて、連なる木立の向こうに、懐かしい光が見えた。森の出口だった。
「さぁ、あとはまっすぐ行けば、湿地帯に出られるよ」
「うん、ありがとう」
「またいつでも来なよ。僕達、君と話せて楽しかった」
「あたしもよ。新しいお友達ができて、ほんとうによかった」
照れるかのように、木々の隙間を縫う風が震えた。
「気をつけて」
「ありがとう。またね!」
あたしは頭上に茂る葉っぱや枝に手を振って、出口へと駆けた。左右を挟んでいた木の列が途絶え、あたしの身体にお日様の眩しい光が当たった。来た時と同じ、無愛想な沼が少し水かさを増して横たわっていて、その向こうに白い煙が上がる村と懐かしい海の姿が見えた。
あたしはお日様と沼と風に「おはよう」を告げて、村へと駆け出した。途中で、村一番の早起きであるおじさんと会った。挨拶をすると、おじさんは仰天してひっくり返り、すぐさま村に戻って皆を呼んできた。
真っ先に駆けつけてきたのはお母さんだった。目を赤く腫らして顔をくしゃくしゃにしたまま、あたしを抱きしめた。次にお父さんが怖い顔をしてやってきたけど、あたしが素直に謝ると拍子抜けしたように、あるいは心底安心したかのように微笑んだ。二人ともあたしを交互に抱いて、頬っぺたにキスをした。
それから、ウィルとウィルの家族がきた。ウィルは怒ったようにあたしを睨んでいたけれど、その目許に涙の跡がくっきり残っているのを見つけて、あたしは彼に心の底から謝った。あたしの気持ちは伝わったと思う。彼はぷいっとそっぽを向いて、村の方へと駆けて行ってしまったけど。
大人達は皆、口々に「よかった」と言って胸を撫で下ろしていた。あたしはたくさん謝った。中には叱る人もいたけれど、あたしは泣かなかった。むしろ、嬉しくて仕方なく、ずっと微笑んでいた。「やっぱり、変わった子だ」と皆が笑った。
それから村に戻るまでの間、お父さんとお母さんの手を両手で繋ぎながら、あたしは一夜の冒険を一生懸命話した。森が語ってくれたことを二人に細かく伝えてあげたのだ。
「それはすごい冒険だったな」 お父さんが微笑んで、頭を撫でてくれた。 「だけど、もう勝手なことはしちゃいけないぞ」
新しくお友達になった森は、凪いだ海や、午後の眠気を誘うお日様、髪を梳く微風と同じくらい優しかった。そして、あたしの村に住む人々も、また彼らと同様に優しかった。それがわかって、あたしはずっと嬉しかったのだ。
◇
お母さんが微笑みながら、こんなお話をしてくれた。
「エイダ。海も、森も、風も、皆大切なお友達よ。それはあなたが一番よくわかっているわね? でもね、人間でも、海でも、誰か他の代わりになれるなんてことは、けしてないのよ。あなたになれるのは、世界中であなたしかいないの。あなたの兄さんの代わりがいなかったようにね。だからこそ、お母さんもお父さんも、あなたを、そして海にいるシャイクを愛しているの。いなくなったら、寂しいんだからね」
あたしはこれを聞いて、森が語ってくれた、一つ一つを違うものとして創り上げた神様の話を思い出した。それぞれ独立した存在だからこそ、こんなにも愛おしく、こんなにも大切なのだろう。
とにもかくにも、あたしは、正真正銘、大好きなお父さんとお母さんの子だとわかって幸せな気分だった。それはなによりもぴったりと収まり、喉の下をすっと落ちていくような、当たり前の幸福だった。
ウィルはあたしを変な子だと言って笑う。あたしが時々、ぼんやりとしているから。お魚を獲る時も、木船を作るのを手伝っている時も、ご飯を食べている時も、あたしは魂が抜けてしまったようにぼうっとすることがある。ウィルはそんなあたしを見つける度に指をさして、「どんな夢を見ているの?」と尋ねてくる。
ううん、あたしは、けして夢を見ているわけじゃないの。ただ、皆が静かに語りかけてくるから、耳を澄ましてそれを聴いているだけ。皆って言っても、あたしのお父さんでもお母さんでも、ウィルの家族でもない。人間じゃなくったって、皆、言葉を持っているのよ。
例えば、あたしの髪を梳いてくれる風は、遠い国のお伽噺を教えてくれる。足許を撫でる白波はいつも優しい。よくあたしのベッドや椅子になってくれる岩はむすっとしていて、空を横切る鳥達は忙しいと文句を言っている。泡はぷつぷつと小声で呟く。東の海から顔を覗かせるお日様は「おはよう」を告げて、白い千切れ雲は「こんにちは」、貝殻みたいに光る月は「こんばんは」を言って、夜の透明な空気は「おやすみなさい」と静かな子守唄を歌ってくれる。
それを教えてあげると、ウィルはいつも小首を傾げて、最後にはやっぱりまた笑いだす。あたしの言うことを信じてないの。そんな時、あたしはいつも悲しい気持ちになる。でも、寂しくはない。言葉が解れば、話すことができれば、お友達はいっぱいできる。あたしにはお友達がたくさんいるから、ちっとも寂しくない。
「お母さんにもね、昔、そんな友達がいっぱいいたのよ」
お母さんは敷き詰めた絨毯の上で籠を編みながら、よく話してくれた。
「ウィルはきっと忘れちゃっているの。あなただけじゃないのよ。お父さんも、あなたのお兄さんも、そうだったんだから」
「ほんと?」
あたしが尋ねると、ハンモックで寝ているお父さんが目を瞑ったまま頷く。
「本当さ。お父さんは、なかでも森と仲良しだった。どの木に甘い実があるのか、どの木に珍しい虫が集まるのか、彼らは教えてくれたし、スコールの時にはお父さんを雨露から守ってくれたこともある」 お父さんはそこで瞼を開き、眠そうな灰色の瞳をあたしへ向ける。 「今はもう、声は聞こえないけどね」
あたしは、森とはあんまり仲良くない。少し怖いのだ。海と違って背も高いし、なんだか暗くてじめじめしている。もっとお前が大きくなったら、きっと仲良くなれるだろう、とお父さんは笑ったけれど、あたしには全く想像がつかない。
兄さんは二年前、海の一部になった。漁の途中、嵐に遭って死んでしまった、とお父さんは悔しそうに言った。お母さんはずっと泣いていた。村の人達も皆、涙を流して悲しんでいた。
でも、あたしは知っている。兄さんは、海の中で生きているということを。
明け方の海辺を歩いていると、すっかり凪いだ波の音に混じって、兄さんの声が聞こえることがある。それはとても楽しげで、村の祭の時のようにはしゃいだ、懐かしい声。時々、あたしの名前を呼んでくれる。あたしはそんな時、海の向こうへ、精一杯声を張り上げて返事する。すると、寄せて返す波がざざざ、と嬉しそうに震える。嘘じゃないよ。
あたしだって、死ぬという言葉の意味くらいは知っている。だからこそ、あたしは胸を張って、姿は見えなくなってしまったけれど、兄さんは海の中で生きていると断言できた。だって、死んだものは話すことができないもの。風も、海も、皆生きているのよ。
あたしがそう言うと、お父さんもお母さんも、優しく微笑んで頭を撫でてくれる。その時になって初めて、兄さんはもう、こうやって頭を撫でてもらうこともできないのだな、と考えて、あたしは哀しくなる。もう少しだけ、兄さんと暮らしていたかった。
どんなに周りが賑やかであっても、お父さんとお母さんに挟まれて寝床についている時も、ウィルやアイリと一緒にココナッツの実を採っている時でも、胸にぽっかり穴が空いたような寂しさに包まれる瞬間って、絶対あると思うの。あたしにはしょっちゅうあるわ。そういう時、あたしは風の唄を、波の優しさを、眠る夜の大気を、木霊する兄さんの声を思い出すのよ。そうすれば寂しさは紛れて、彼らの形と同じように、あたしはお父さんとお母さんの子として、ウィルやアイリのお友達として、あるべき姿でいられるの。そういう実感って、何よりも幸せな気分にしてくれるんだよ。だから、あたしは、あるがままの自分が一番好き。
◇
その日の晴れた朝、ウィルと一緒に木船に乗って、お魚を釣っていた。ウィルはあたしと同い年で、まだ十歳になったばかりだけど、船を扱うのが物凄く上手いと村では評判だった。ウィルも、ウィルのお父さんも、それを誇らしげに自慢する。凄く羨ましいから、あたしも教えてもらうことがあるけれど、どうしても上手くできない。「これは男の仕事だから、できなくて当然だよ」としょっちゅうからかわれる。ウィルは、本当は優しい男の子なのだけど、意地悪な所もあるの。
釣り糸を垂らしながら透明な水面を眺めていると、また風が歌い始めた。あたしはその声に耳を傾ける。海の向こうに広がる大きな雲を、風は報せていた。もうじき嵐が来る。嵐は乱暴者で、いつも穏やかな海を虐めて荒らす困った連中だ。
ウィルがまたあたしを笑ったので、あたしは親切にそれを教えてあげた。彼は目を丸くして、遠くの空を眺めた。
「嵐? そんな雲、どこにもないじゃないか」
「見えなくても来るの。お昼過ぎには荒れ始めるわ」
少し怯えた表情を覗かせたものの、ウィルはごまかすように笑った。
「そんなの、嘘っぱちだ」
「嘘じゃないわ。今はまだ大丈夫だけど、すぐに戻らないと大変なことになるから」
「臆病だなぁ」
彼は笑っていたけれど、あたしは必死に説得を続けた。ようやく、彼は釣りを止めて、しぶしぶ船を村に引き戻してくれた。その時には多少風が強くなっていて、彼の顔は不安げだった。お昼になると、やっぱり遠くの空に大きな黒い雲が、布地にできた染みのように広がっていた。
「ほんとうだ、ほんとうに嵐がきた」 ウィルは呆然と立ち尽くして呟いた。
あたしは少しだけ得意になって、彼の隣で微笑んでいた。
ウィルは船を扱うのがとっても上手。だから、彼は、船のことならなんでもわかる。船とお友達なのだ。お日様とお月様よりも、木船のオールや漁で使う網や銛なんかをとっても愛している。だから、お魚の集まる場所や船の漕ぎ方がわかっていても、風や波の声はわからないのだろう。
雲に気付いたお父さんやお母さん、それに村の人達が向こうで土嚢と石塀を作っている。声を掛け合っていて、忙しい雰囲気だ。あたしたちは言いつけを守って、それぞれの家で大人しくしていた。ウィルの家との距離はほんの僅かだから、窓から彼とお話ができる。ウィルは蔀を開けて身を乗り出し、あたしとお話をしていた。
「なんで、嵐が来るってわかったのさ」
「風が教えてくれたのよ。皆、色んなことを知っているの。あたしは彼らとお友達だからそれがわかるの」
「変なの」 ウィルはいつも通りに笑った。
「変じゃないよ。お父さんもお母さんも、それに兄さんだって、昔は皆とお友達だったって言っていたもの。ウィルは、船と仲良くなったから忘れているだけだよ。お父さんは森とお友達だったのよ」
「でも、今の村じゃ、ぼんやりしているのはきみだけじゃないか。へんてこなことばっかり言ってさ」
「へんてこじゃない」 あたしは強い口調で反論した。
「へんてこだよ。ぼく、きいたんだ。きみのお父さんとぼくのお父さんが話しあっているのをね。きみのお父さんが、もしかしたら、きみは大自然の子かもしれないって言って、笑っていたんだ。村の皆も、きっと同じように思っているよ」
「嘘よ、そんなの。あたしは、お父さんとお母さんの子だもん」
「じゃあ、なんでそんなに変な声が聞こえるの? きみのお父さんも、お母さんも、それに死んじゃったシャイクだって、そんな素振りはなかったのに」
「兄さんは死んでない!」 あたしは身を乗り出し、びっくりしたウィルを正面から睨んだ。
「死んじゃったじゃないか。きみのお父さんだって、嵐で死んだって皆に……」
「見えなくなっちゃっただけで、海の中でちゃんと生きているもん! 時々、あたし、声を聞くんだから……」
また始まった、とでも言いたげに、ウィルが今度は呆れた顔であたしを見た。
「とにかく、村でそんなことを言うのはきみだけだよ。変なことばっかり言っている。きみのお父さんが話していたことはほんとうかもしれないね、エイダ。きみは、大自然の子だよ、きっと。人じゃないんだ」
「そんなはずない」 と言いつつも、あたしはこの時にはほとほと自信を失くしていた。萎んだあたしの声を聞いて、ウィルはきっと勝ち誇っていただろう。 「だって、お父さんも、お母さんも、昔は……」
「だから、それはきみをごまかす為の嘘だよ。誰も、風と友達になんかなっていないさ」
その言葉が、あたしの心を決定的に打ち負かした。あたしは真っ赤になって、やり切れず、窓の向こうにあるウィルの顔目掛けて胡桃の殻を投げつけた。当たったのかどうかはわからない。何か喚いていたけれど、あたしはろくに耳も貸さず、一目散に家から飛び出した。もしかしたら、喚いていたのはあたしだったのかもしれない。わからない、怒りで頭が真っ白になっていたから……。
ううん、違う。
本当は、怒っていたのではなくて、恐ろしかった。
もちろん、ウィルの言う事には腹が立った。お父さんが変な冗談を言っていたのも頭にきた。けれど、それを覆い尽くすほどの不安と恐怖があたしの中で渦を巻いていた。
お父さんとお母さんを疑う気持ちなんて微塵も無い。
だけど……。
もし、お父さんもお母さんも、それに気が付いていなかったら?
つまり、あたしも、それにお父さんとお母さんも、あたしのことを家族だと信じているけれど、本当は、あたし達も知らないなにか途轍もなく大きな存在が、悪戯を仕込んでいたのだとしたら? 神様か、あるいは悪魔が、本当は風や、波や、岩や、あるいは星の申し子として生まれるべきだったあたしを、気紛れでお父さんとお母さんのもとに送り込んでいたのだとしたら? 無理に割り込んできたあたしのせいで、兄さんが嵐に呑まれたのだとしたら?
それはとても恐ろしくて、信じたくないことだったけれど、その時はそう考えるのが何よりも自然に思えた。そうでなければ、あたしを取り巻く全ての状況に折り合いがつかない気がした。考えるだけで涙が滲んでくるのに、そうでなければいけないんだ、という諦めの溜息。
外は湿った横風が叩きつけるように吹き荒び、蜂の巣のような形の大きな雲があたし達の村まで迫っていた。暗い海は乱暴な風に虐げられるがまま、うねったり、砕けたりして荒れ始めている。あたしはその不穏な景色の中で、愕然として立ち尽くしていた。
大人達はまだ海岸近くで作業をしているはず。そちらへ行こうかと考えたけど、怒られるのは目に見えているし、何より、お父さんとお母さんの顔を見たくなかった。もちろん、嫌いになったわけじゃない。むしろ、顔を見て安心したいのに、会いたくない。こんなに矛盾した気持ちは初めてだった。家にもいたくない。誰かと話がしたかった。けれど、ウィルはだめ。アイリは幼すぎる。
あたしの目は自然と、波頭のぶつかり合う海へ向かった。海ならば、あるいはあたしの疑問に答えてくれるかもしれなかったが、震え、さざめき、逆巻く、混乱した波達にそんな余裕があるとは思えなかった。雨の降らぬうちから、海原は泥に似た不吉な色をしていた。やがてやってくる暴風雨によって、多くのものを巻き込もうとする殺戮の意思の波と化すだろう。そうなっては話すどころか、近付くこともできない。あたしまで波に攫われたら、お父さんとお母さんはきっと、もう一生、海とお友達にはなれないだろう。海を憎みながら生きていくはずだ。それは悲しいことだと思ったから、海には近付かなかった。
◇
村の裏手側、つまり森の広がる方向へはけして近付くな、と子供達は言いつけられてきた。農作地の先には湿地が広がっていて、昔、その底なし沼に子供が一人食べられたという。あたしもウィルも、それを聞く度に震えあがった。けれど、実際目にしてみると、その人食い沼は穏やかに横たわっているだけで、海よりも大人しそうだった。その日も、嵐がやってくるというのに、低い水面が風に揺れているくらいで、いつもと変わらぬ姿でそこにいた。ただ、水が濁っていて、陰湿そうではあった。
あたしは慎重に沼を迂回して、柔らかい湿地を通って森へ向かう。あたしは疑問の答えを、少し苦手な森へ求めることにした。海は言わずもがな、お日様は今やすっかり隠れてしまっていたし、砂浜は降りだした雨と勢いを増した波によってくしゃくしゃ、ココナッツの木も風を受けて萎びるように傾いていた。皆、あたしの言葉に応えてくれる余裕はなさそうだった。あまり気が進まなかったけれど、うやむやにしてしまうのはもっと嫌だった。
森の入口へ立った時には、もうすっかり天気は荒れ狂っていた。風が何もかも吹き飛ばそうと躍起になって、手当たり次第に殴りつけている。あたしの髪は浅瀬の海藻のように踊り狂って、身体ごと飛ばされそうになった。温い雨はほとんど斜めに降りつけ、時々雷を起こしながら、小さな池をそこかしこに作り上げていた。祭で使う太鼓みたいに騒々しく、激しい一定のリズムで、嵐はあたし達の村を襲っていた。
けれども、あたしは、森の姿を視界に認めてとても驚いた。一本一本の木々は確かに枝葉を震わせているけれど、お互いを支え合うように密集して、森は静かな秩序を作り上げていた。海や空、それに雲や星と同じように、森は、一つの存在になってそこにいた。
すごい。
あたしは吹きつける風と雨に堪えながらも、すっかり目を奪われて呟いた。
前に一度だけ、あたしはこの森を訪れた事がある。大人達の狩りに面白半分でついていった時だ。よく晴れた、青い空の日。お日様が高い位置にあって、海を渡って吹いてくる風がとても心地良かった。心が弾むような、素敵な一日。なのに、その大森林は、異様なほど静かで、木々の間に覗く深遠な薄闇の世界は身震いするほど恐ろしかった。表情の無い木彫りの人形を見つめるような、あの感じ。そう、森は、無口だった。あたしは、苦笑するお父さんに張り付いたまま、村まで戻った。
その姿は今日まで変わりがなかったようで、やっぱり森は静かだった。けれども、その時のあたしには、何故だか、その無口な森が何よりも頼もしく思えたのだった。あたしのことはもちろん、全てを脅かす嵐すら、眼中にないように佇んでいた。じっと何かを待つように根を張っている木々の間で、怯えるように身を潜めている背の低い木や草がいじらしくもあった。
あたしは鬱蒼とした森へ踏み込む。森は頭上で絡まり合う枝葉の影で覆われていた。空気はひんやりとして眠りについている。目覚めることがあるのかな、とあたしは少しだけ思った。そう、高く聳える大木達以外は、何もかも眠っているようだった。鳥の声も聞こえない。聞こえるのは、かさかさと葉の擦れ合う乾いた音と、雨が葉を打つ音。
あたしは少しだけ、お父さんとお母さんのことを考えた。
きっともう、家に戻っているはず。
心配しているだろうな。
でも……。
少し気が引けたが、あたしは頭を振って、それ以上考えないようにした。躊躇いかけた脚を森の奥へと運ぶ。
◇
奥に進むに連れ、嵐の喧騒は遠のいていった。枝の隙間から垂れ落ちる雨の滴も、しだいに途切れていく。お日様はもちろん、澱んだ空すら眺められない。風も無く、あたし達が住むのとは違う世界が、まるで箱詰めされてそこに置かれているかのようだった。耳を澄ませば雨露の砕ける音が聞こえるが、それ以上に、霞のように立ちこめる静寂の幕が圧倒的に辺りを支配していた。
森は無口。何も語りかけないし、試しにあたしが話しかけても何も答えなかった。やっぱり、あたしがもう少し大きくならないと気付いてもらえないのかもしれない。無造作に連なる木々と比べて、あたしはずっとチビだ。あたしはお父さんが話してくれたことを思い出し、無駄足だったかもしれない、と感じ始めていた。
だけど、ずっと同じ景色のように見えて、実は進む度に変わっていく光景は眺めているだけで面白かった。蔦の絡まる太い木を過ぎると、次には様々な色の実をつけた木が現れる。枝にぶら下がって居眠りをする蛇もいれば、大事そうに木の実を抱えて走る栗鼠も現れた。のろのろと木を登る虫や、根っこの片隅で車座となっているキノコが可愛らしい。相変わらず、皆無口ではあったけど、生命の躍動する様は海と一緒で、あたしは何となく嬉しかった。静寂の心細さはあったけれど、結局は、もっとこの森と接してみたい、という好奇心が勝り、あたしは奥へとずんずん歩いていった。
そして、半刻ばかり歩いた頃、あたしの周りに変化が起こり始めた。初めは小さな違いに過ぎなくて、あたしは脚を止めては、気のせいか、それとも暴風雨達の遠い雄叫びかと思いこんだ。でも、歩を進める度にそれは違うと気付く。
木々が緩やかに、小気味よく、葉を打ち鳴らしていた。それは決して嵐に耐える響きではなく、もっと陽気で、もっと安らかな、暑い日に木陰を作ってくれるマンゴーの木に似た優しさがあった。あたしは耳を澄まして、その旋律に聴き入る。
森は唄を歌っていた。あたしは心底驚いて辺りを見回した。景色には何も変化はない。けれど、透明な感情の波が、深閑とした森の奥底に漂っていた。あたしに向けられた唄ではない。森は相変わらず、あたしに気付いている様子ではなかった。
「誰なの?」 あたしは無心で問い掛ける。答えはもちろん知っている。
しかし、唄声は答えなかった。
やがて、その歓喜の唄が幾重にも折り重なっていくのを感じた。声が、唄が、枝葉のさざめきが、静かに集まって来ているのだった。あたしはそれが聞こえてくる方向へ駆け出していた。怖くはなかった。むしろ、その唄声を聴いているだけで、あたしの胸は不思議な嬉しさで満たされていくようだった。空が赤く染まる夕暮れ時、遊び終わって帰っていると、自分の家にランプの灯がともっているのを見つけた時のように。
「おや、この子は誰だい?」
唄声の中で、突如投げかけられた問いにあたしは立ち竦む。頭上を見上げ、辺りをきょろきょろ窺ったけれど、当然、人の姿なんてなかった。
くすくす笑う声が楽しげに響く。
「どこ見ているのさ。僕達は、君の周りにいるよ」
森の声!
あたしは確信した。けれど、同時に動揺もしていた。風や波と違って、森の声はあまりにもはっきりとあたしの内側へ響いてきたからだ。それに、あたしが想像していたのと違って、その声はとても陽気な調子だった。むっつりと黙りこんでいた森の姿とは似ても似つかないもので、その落差にびっくりしていたのだ。
「あなた達は、森ね?」 あたしは恐る恐る尋ねた。
「わぁ、驚いた。君、僕達の言葉がわかるの?」 森は嬉しさを隠す様子もなく言った。 「人が語りかけてくるなんて、いつ以来だろうなぁ。もうすっかり忘れられたと思っていた」
「あたし、風や海の言葉もわかるのよ。でも、あなた達は他と違って少しお喋りなのね。びっくりした」
「そうだよ、僕達はいつもお喋りしているんだ。だって、こんなに仲間がいるんだもの、人や海や風だって、同じだろう?」
「うん、そうかも」 あたしはここでやっと微笑むことができた。 「ねぇ、さっきの唄は何? 何を唄っていたの?」
「あぁ、そうそう、僕達はお祝いをしていたんだ。君の目の前、少し窪んだ場所があるだろう? そこをごらん」
あたしは言われた通り、少し慎重に身を屈めて覗いた。けれど、緑に覆われた薄暗い地表には何も無いように思えた。
しばらくして、あたしはようやくそれを見つけた。
小さな新芽がそこに芽吹いていた。まだ眠たげに顔を出したばかりの、薄闇の中できらきら輝く翡翠色の二又の葉。身体を少しでも伸ばそうと、無邪気に背伸びをしていた。辺りをよく観察すると、木々はまるでその新芽を取り囲むように屹立していて、見守っているようにも思えた。
祝福の唄声が続いている。
「今日、僕達の新しい仲間が生まれたんだ。可愛いだろう? だから、他の皆にも報せてあげているんだよ」
「そうだったの……」 あたしは思わず溜息をついた。 「うん、とっても可愛い。ねぇ、触ってもいい?」
「そっとだよ。優しくね」
あたしはゆっくり手を伸ばして、新芽の小さな葉に触れた。指先にその柔らかな、赤ちゃんの頬っぺたにも似た感触を確かめ、あたしは自然と幸福感に包まれた。愛らしい姿をしたその芽をしばらく眺め、心からの祝福の言葉を掛けてあげた。
「この芽の為に、僕達は枝をどけてお日様の通り道を作ってあげなくちゃいけないんだ。けど、今日は嵐が来ているみたいだね。雨が水溜りを作ってしまったら大変だ」
「そう、村の皆も、海も、大変なの。でも、ここはすごく静かなのね」
「うん、ここは、僕達の一番深い場所だからね。だから、君みたいな子が一人で来るなんて珍しいよ」
「うん……」 あたしは少し俯いた。
「もしかして、迷子になったの?」
「ううん、違うわ。あたし、あなた達に訊きたいことがあって、ここに来たの」
「訊きたいことって?」
でも、あたしはそこで今更のようにうろたえ始めた。
あたしは、大自然の子なの?
あたしの居場所は、どこにあるの?
その疑問は胸につかえて、吐き出されることを望んでいたけれど、でも、あたしはぐっと我慢して呑みこんだ。だって、その質問をして、もし期待と違う答えが返ってきたら、あたしはどうすればいいのかわからなかったから。
「どこかに、休める場所はないかしら? あたし、あなた達ともっとお話したいわ」 あたしは結局、一番尋ねたかったことを口にしなかった。
「あぁ、じゃあ、僕が案内してあげる。いい場所があるんだ。僕達も、君と話したいよ」
それからあたしは、森の声に導かれるまま、木々の隙間を歩いていった。歩きづらかったけれど、藪や大きな蜂の巣があるところを森は避けて案内してくれた。森は饒舌だった。擦れ違う木々からは「こんにちは」と挨拶されたし、軽い冗談を言う声すらあった。(例えば、「あなたの髪は樹皮の剥がれた幹みたいにすべすべね」などだ。あたしはなんだか嬉しくなった)
歩いている間も唄声は絶えず響いていた。けれど、あたしは途中から、それが小さな訪問者を歓迎する、賑やかな内容に変わっているのに気付いた。あたしは嬉しくなって手を伸ばし、擦れ違う幅広の葉っぱや、穂先の尖った草達と握手を交わした。
「皆、言葉がわかる子が来てくれて嬉しいんだ」 あたしを先導していた声が言った。
「あたしも、あなた達と言葉が交わせて嬉しい」 あたしは本心から言った。
森は喜ぶように、風に任せてざわざわと騒ぎ立てた。
◇
「ここなんか、ちょうどいいんじゃないかな」
木々がわずかに開けた場所で、まるで珊瑚礁のようにふっくらした岩場に当たった。苔をうっすら生やした四枚の大岩が綺麗に組み合わさって、屋根のある小さな洞穴を作り上げていた。絶好の休憩所だ。あたしは海ヘビになった気分で、その狭い穴の中に身をねじ込んで座った。ぽたり、ぽたりと頭上の屋根を叩く雨音を聴きながら、岩壁に挟まれてじっとしていると、それだけでわくわくする気分になった。
「うん、素敵な場所ね」 あたしは笑いかけた。
「それはよかった。昔からね、狩りにやってくる人間がここを休憩所として使ってきたんだ」
岩壁に挟まれた中では、雨音も、あたしの声も、森の声も、そして森の声を内包する静寂も反響して聞こえた。滞留する空気はひんやりと湿っていて気持ちがいい。
あたし達はそこで、長いことお喋りをした。核心に迫ったことは訊かず、他愛もないお話。そう、自分の家族や親しい人達について、あたしたちは語り合った。あたしのお父さんとお母さん、海に消えた兄さん、お隣のウィルの悪戯とアイリの作ってくれる花飾り。森が生まれた太古の日々、朽ちていった仲間達と新たに生まれてきた子供達、枝葉に身を寄せる動物達の追憶、過去から未来への命の連鎖。
森が語る言葉は、人間のそれよりも豊かな色彩に溢れ、あたしはまるでお母さんや風が語りかけるお伽噺に耳を傾けているような、うっとりした気分になった。あたしはまったく飽きなかったし、彼らも、応答するあたしの声の響きや表情を楽しんでいるようだった。とにかく、お互いに楽しんでいたのは間違いないと思う。
やがて、日が暮れた。いつの間にか辺りは神秘的な闇夜に包まれ、岩肌の苔が淡く光り始めていた。どこかで梟が鳴いている。それは森の欠伸のように伸びやかで、安穏とした響きだった。あたしもそれを聞いて、思わず欠伸を漏らした。
「夜なのね。全然気が付かなかった」 あたしは洞穴の中で横たわりながら言った。
「うん。すっかり話しこんじゃったね。嵐も、どこかに行っちゃったみたいだよ」
森の言う通り、雨音も、樹冠をなぶる風の音も、すっかり止んでいた。あたし達の語り合った場所では頭上の枝葉が大きく開かれていたので、お月様の浮かぶ穏やかな夜空が眺められた。洞穴の天井、岩と岩の接ぎ目からは微かに燐光が切れ込んで、あたしの周囲を透き通った青色できらきらと輝かせていた。鍾乳洞の水底のような光景。
「不思議。海辺で見上げるお月様と、ここで見上げるお月様が、まるで別物みたい」
「見上げる時の気持ちで、お月様はいくらでも姿を変えるよ」
あたしは心地良く響く森の声に耳を傾けながら、洞穴に射し込む月光に指で触れる。
あたしの指先で、光の欠片が戯れる。
くるくると、きらきらと。
砕けるように、拡散しながら。
閉じた瞼の内側では、まだお月様の欠片が踊っている。
くたくたに疲れきって、なんだか無性に眠かった。
「素敵」 あたしは唄うように呟いた。 「ここが、あたしの新しいおうちかもしれない」
「ここで暮らすの?」 森は驚いたように尋ねた。
あたしは目を閉じたまま頷いた。
「でも、お父さんとお母さんが、君を探しているんじゃないかな」 森は心配そうに尋ねる。
「たぶんね……、でも、いいの。あたし、きっと、生まれてくる場所と形を間違えたのよ。だから、あたし、あなた達に会いにきたの」
「どういうことだい?」
あたしは少し躊躇ったけれど、結局は話す事にした。だって、その為にあたしはここに来たのだもの。
「あのね、お父さんが、あたしのこと、ほんとうは大自然の子じゃないかって話していたの。村でも、風や波の声が聞こえるのはあたしだけだから……、いつも変だって笑われていたわ」
目を瞑りながら話していると、小川の調べのように言葉が次々と溢れ出てきた。だけど、話しながら、あたしはふと哀しい気持ちを思い出した。あの村にはあたしの居場所はないんだと考えると、色々な感情が、まるで荒れた海のようにぶつかり合い、涙が滲んでくる。
あたしは瞼を開き、こぼれた涙の一粒を指で拭って口に含んだ。それは海岸の岩盤から採れる塩の結晶と同じくらいしょっぱかった。
「だから、あなた達を訪ねて来たの。あたしは大自然の子なのかなって……、ほんとうはあなた達の仲間で、村の皆とは違うのかなって……、ウィルはあたしをへんてこだって笑ったわ。あたし、腹が立ったけれど、でも、ウィルの言う通りなのかもしれない。だって、あたし、普通じゃないもの」
森はしばらく何も語りかけなかった。考え込むように押し黙り、その間、夜風に会わせて葉を震わせるだけだった。あたしは答えを待ちながら、止めどなく流れる涙を払い続けた。声を上げはしなかった。哀しいけれど、とっても落ち着いた気分だったの。たとえば、雨後の虹を見上げているような、切ないけれど、何もかもがぴったり収まっているあの感じ。
やがて、森は静かに口を開いた。
「君の目許は、きっとお母さんに似ているんだろうね。すごく優しい眼差しだもの。それに、身体はお父さんのほうを受け継いだのかな? ちっちゃいけれど頑丈そうだ」
何の事かわからず、あたしは言葉を返せないでいた。
森は続ける。
「君は水面に映る自分の姿を見た事がある? 君は間違いなく人間の子だよ。言葉は通じるけれど、僕達の仲間ではないよ」
「でも……、村の皆は誰もあなた達の言葉がわからないわ。今では、わかるのはあたしだけだもの」
「そんな違いはいくらでもあるよ。僕達だってそうさ。僕達は一つのまとまった存在、つまり、君達が森と呼ぶ存在ではあるけれど、でも、元は一本一本独立した木々の集まりなんだ。同じに見えるかもしれないけれど、皆違うんだよ。木の実をつける奴もいるし、細い奴や太い奴、葉をつけない奴、鳥の巣を飾っている奴だっている。人間や、他の生物だってそうだろう? 男と女がいて、痩せた人や太っている人、泳ぎが上手い人、下手な人、君みたいに言葉が解る人、解らない人がいるじゃないか」
あたしは何故だか息を潜めて、懸命にその言葉に耳を傾けていた。
「神様はきっと考えがあって、一つ一つを違うものとして創り上げたんじゃないかな。君も僕達も、何か深い意味があって生まれてきたんだよ」
「そうかしら」
「きっとそうだよ。だから、自分の形や自分の本質、他と違う箇所を悲しんじゃいけないし、拒むこともいけないよ。自分という存在を疑うのは良くないことなんだ」 森は優しい口調で語る。
あたしはと言えば、燐光に手を翳して、精一杯目を凝らして掌を見つめていた。
あたしの体。
あたしの形。
こんなに、くっきりと浮かんでいる。
「そういえば聞いていなかったけれど、君の名前は?」
「エイダ」
「そう、素敵な名前だね。お父さんとお母さんが一生懸命に考えてくれた名前なんだろうね」
そう、あたしは自分の名前が大好きだった。だって、それはお父さんとお母さんが与えてくれた一番の贈り物だから。
「もしかしたら君は、僕達と人間を結ぶ架け橋として神様が遣わした人なのかもしれないね。けれど、それ以前に君は、君のお父さんとお母さんの子であり、さっき話してくれたウィルっていう子の友達であり、僕達の新しい友達でもある。君は、今日生まれた僕達の仲間のあの子と同じで、エイダという名の、小さくて可愛い、大切な存在なんだよ」
その言葉の一つ一つが、あたしの内側で深く響くようだった。まるで空洞だったあたしの体は今や透明な感情で満ち溢れ、この上ない至福と愛で囲まれているように思えた。
あたしはお父さんとお母さん、それに兄さんの顔を思い描く。
それから、ウィルやアイリ、二人のお父さんとお母さん、村のおじさん達やおばさん達、東の海から顔を覗かせるお日様、幽かな明かりを放つお月様、砂浜と、ココナッツ、鳥と岩、風と波。それに、森の優しく明るい声。
皆、あたしが大好きなもの。
一度、星の瞬く夜空を岩の隙間から見上げる。お月様の光は眩しかった。
「信じられないんだったら、夜が明けた後で村に戻ってごらん。君はきっと、自分のいるべき場所を見つけるよ」
「うん」 あたしは頷いた。
もう涙は出なかった。代わりに喜びの微笑みが、胸の奥底から湧き出てくるかのようだった。
「もう眠りな。僕達が子守唄を歌ってあげるから。お日様が昇ったら、出口までまた案内してあげる」
「うん、ありがとう」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
あたしは目を瞑る。
微風に擦れ合う枝葉の囁きが、穏やかに鳴く梟の声が、やがて懐かしい旋律を紡ぎ出す。聴いたことがないはずなのに、懐かしいなんておかしいでしょう? でも、聴き覚えがあるの。たぶん、大昔の、あたし達がまだ一つであって、神様の腕の中で眠っていた頃に聴いた唄なんじゃないかな。
あたしは眠った。
温かく、静かな旋律に包まれて。
優しい闇の中に光の欠片を探しながら。
あたしは夢を見た。
あたしに宿る、愛の手に抱かれて。
輝かしいお日様の光を待ちわびながら。
森と、海の。
空と、大地の。
風と、人の。
大好きなもの達の夢を見て眠った。
◇
空が乳白色に染まった頃、あたしは起き出した。辺りは静か。射し始めた金色の陽に当てられ、森は段々と緑を取り戻していくかのような淡い色だった。鳥もまだ眠りについているみたい。
「おはよう」
「おはよう」
あたしが声を掛けると、森はすぐさま返事をくれた。
あたしは洞穴から這い出て、まだ完全に目を覚まさない木々の間を、案内に従って歩いた。雨を吸った地表はまだ冷たく、所々濡れていた。しかし、それすらも気持ち良く、あたしの心を弾ませた。
森は道中にも様々な話を聴かせてくれた。夏の季節や、冬の季節の森のお話。彼らの生活。あたしも知っている限りのこと、人の暮らしや、海のことなんかを話してあげた。
「そうか、切り倒された仲間達は、君達の生活で役立っているんだね」
「うん。家になって、あたしの家族を雨や陽射しから守ってくれるの」
「よかった。なんで斧なんかで僕達を傷つけるのか、ずっと不思議だったんだ」
「ごめんなさい。あたしのお父さんはね、あなた達のような木とか、お魚や木の実とかの食べ物にちゃんと感謝しなさいって言うの」
「どういたしまして、と伝えてくれるかい。限度を過ぎさえしなければ、僕達も、君達の役に立てて嬉しいよ」
「ほんとうに?」
「本当さ」 見えない森の顔が、にっこりと微笑んだように思えた。
やがて、連なる木立の向こうに、懐かしい光が見えた。森の出口だった。
「さぁ、あとはまっすぐ行けば、湿地帯に出られるよ」
「うん、ありがとう」
「またいつでも来なよ。僕達、君と話せて楽しかった」
「あたしもよ。新しいお友達ができて、ほんとうによかった」
照れるかのように、木々の隙間を縫う風が震えた。
「気をつけて」
「ありがとう。またね!」
あたしは頭上に茂る葉っぱや枝に手を振って、出口へと駆けた。左右を挟んでいた木の列が途絶え、あたしの身体にお日様の眩しい光が当たった。来た時と同じ、無愛想な沼が少し水かさを増して横たわっていて、その向こうに白い煙が上がる村と懐かしい海の姿が見えた。
あたしはお日様と沼と風に「おはよう」を告げて、村へと駆け出した。途中で、村一番の早起きであるおじさんと会った。挨拶をすると、おじさんは仰天してひっくり返り、すぐさま村に戻って皆を呼んできた。
真っ先に駆けつけてきたのはお母さんだった。目を赤く腫らして顔をくしゃくしゃにしたまま、あたしを抱きしめた。次にお父さんが怖い顔をしてやってきたけど、あたしが素直に謝ると拍子抜けしたように、あるいは心底安心したかのように微笑んだ。二人ともあたしを交互に抱いて、頬っぺたにキスをした。
それから、ウィルとウィルの家族がきた。ウィルは怒ったようにあたしを睨んでいたけれど、その目許に涙の跡がくっきり残っているのを見つけて、あたしは彼に心の底から謝った。あたしの気持ちは伝わったと思う。彼はぷいっとそっぽを向いて、村の方へと駆けて行ってしまったけど。
大人達は皆、口々に「よかった」と言って胸を撫で下ろしていた。あたしはたくさん謝った。中には叱る人もいたけれど、あたしは泣かなかった。むしろ、嬉しくて仕方なく、ずっと微笑んでいた。「やっぱり、変わった子だ」と皆が笑った。
それから村に戻るまでの間、お父さんとお母さんの手を両手で繋ぎながら、あたしは一夜の冒険を一生懸命話した。森が語ってくれたことを二人に細かく伝えてあげたのだ。
「それはすごい冒険だったな」 お父さんが微笑んで、頭を撫でてくれた。 「だけど、もう勝手なことはしちゃいけないぞ」
新しくお友達になった森は、凪いだ海や、午後の眠気を誘うお日様、髪を梳く微風と同じくらい優しかった。そして、あたしの村に住む人々も、また彼らと同様に優しかった。それがわかって、あたしはずっと嬉しかったのだ。
◇
お母さんが微笑みながら、こんなお話をしてくれた。
「エイダ。海も、森も、風も、皆大切なお友達よ。それはあなたが一番よくわかっているわね? でもね、人間でも、海でも、誰か他の代わりになれるなんてことは、けしてないのよ。あなたになれるのは、世界中であなたしかいないの。あなたの兄さんの代わりがいなかったようにね。だからこそ、お母さんもお父さんも、あなたを、そして海にいるシャイクを愛しているの。いなくなったら、寂しいんだからね」
あたしはこれを聞いて、森が語ってくれた、一つ一つを違うものとして創り上げた神様の話を思い出した。それぞれ独立した存在だからこそ、こんなにも愛おしく、こんなにも大切なのだろう。
とにもかくにも、あたしは、正真正銘、大好きなお父さんとお母さんの子だとわかって幸せな気分だった。それはなによりもぴったりと収まり、喉の下をすっと落ちていくような、当たり前の幸福だった。
後書き
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