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作品ID:461
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約9571文字 読了時間約5分 原稿用紙約12枚
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見えないモノを見ようとする症候群
作品紹介
曲、彼女、何でもない夜の記憶。 歌詞引用・Bump of Chicken『天体観測』
アキコの怒り狂った顔が目に浮かぶようだった。
彼女はきっと僕の鼻先十センチメートル程まで人差し指を突き付け、目くじら立てて僕を責めるだろう。いつもの光景だ。彼女が怒る時は、まるで指揮者がタクトを振って演奏者を叱咤するように、あるいは黒人ギャングが生意気なラッパーの口に拳銃を突っ込んで脅すように、人差し指を駆使して迫ってくるのだ。ヒートアップすれば僕の腕を華麗に捻り上げ、こちらが訴える情状も酌量も頑として認めない。そういう女性だ。
半ば酩酊した目にちらちら瞬く不吉な予想図を振り捨て、僕は必死にアズサを探す。
念の為、携帯を開いてメールを確認するが変化はない。時刻は午前一時四十五分ちょうど。週末の大学生達にとってまだまだ宵の口と言える時間だ。事実、飲み屋が密集する路地ですれ違うのは、アルコールで上気した、学生と思しき若い連中ばかりだった。二次会に関する話題だろう、大声で何か楽しそうに言い合っている。僕はそれを背中越しに聞きながら、とても羨ましく思った。
僕だって彼らと同じ大学生であり、しかも今夜は新歓コンパで楽しい夜になるはずだったのに、いったい、何をやっているのだろう。いったい、彼女は毎度毎度、何がしたいのだろう。
◇
アズサとは、交際して三カ月ほどになる。
彼女は僕と同じ三年生で、サークルも同じだ。今夜の飲み会の出席者の一人でもある。とびきり綺麗だとか、派手な女性というわけではないが、いつもぼんやりとしていて大人しく、夢見る乙女という形容がぴったりな、可愛らしい人だった。裏表が無く、憎しみを抱く余地もないほど抜けているので、異性だけでなく同性からも好かれていた。いや、好かれるというよりかは、純粋に心配されているだけなのかもしれない。とにかく、目立つようなことはしないが、マスコットのように、そこにいるだけで周囲を和ませられる、不思議な女性だった。
僕とアズサが正式に付き合い始めると、サークル内では俄かに不穏な空気が漂った。男連中からは羨望と野次の言葉を、アキコを筆頭とする女連中からは脅迫めいた警告を投げられるようになった。曰く「泣かしたら殺す」だとか、「浮気したら去勢」だとか物騒なことこの上ない。
殺気立った周囲を知ってか知らずか、アズサはいつもふわふわと微笑んでいるだけだった。その笑みが、アズサがアズサたる由縁だ。恥を忍んで言えば、僕はその微笑みに惚れたのである。
しかし、交際を始めてから気付いたのであるが、アズサには少々面倒な癖があった。よくよく思い返せば、交際以前からその兆候はあった。いざ親密になってみてから、ようやくそれが目に付くようになったのだ。
癖と断定すべきなのかどうかは知ったことではない。しかし、病気と判断するのはなんだか心苦しい。僕は、いわゆる『中二病』だとか、『ピーターパン症候群』というような呼び名が嫌いだった。それを発症した者達を擁護するつもりも糾弾するつもりもさらさらないのだが、そんな俗称に、例えば『売女』だとか『気違い』だとかと同じニュアンスの悪意が込められているような気がして、口にするのも耳にするのも抵抗がある。蔑む言い方が不愉快なのだ。自分が当事者だからそう感じるんじゃないの、という鋭い指摘はしなくてもよろしい。
アズサは、奇行癖と呼ぶべきか、徘徊癖と呼ぶべきか、とにかく独りで街を歩くのを好む。それ自体は彼女の当然の権利であるが、それが今晩のような飲み会や、僕とのデートの間などにしょっちゅう、しかも何の断りも無しに、トイレや注文を装って、ふらりと消えてしまうから問題なのだ。アルコールを摂取するとその傾向は特に顕著になる。電話も通じず、メールの返信も無い。この暑苦しい情報社会の中にあって、アズサはいつの間にか完璧な孤立を成し遂げるのである。その身の引き様は、まるで忍者かスパイのように鮮やかだ。
そんな奇行を繰り返しているのにも関わらず、嫌われないのがアズサ・マジックだ。そして、皆の不満の皺寄せは、僕にやってくる仕組みである。テーブルの隅に彼女の支払い金が置かれているのに気付いて、当然、残された者達は騒然とする。そうして、必然的に僕へと非難が集中する。口火を切るのは決まってアキコだ。
「あんた彼氏でしょ、どうにかしなさいよ」
そんなことを言われたって困る。僕は思わず泣きたくなるのを堪えて、罵声に追われて宴会を後にする。あてもなく夜の街を彷徨い、失意に陥りながら彼女を探す。今までの経験では、見つけられたことは一度もない。
翌日になれば、アズサは平然と電話にも出るし、メールも返してくる。学校で出会うなり、僕が詰め寄ると、彼女はとても申し訳なさそうな表情で謝るのだ。
「泣かしたら殺す」と脅されているので、きつくも言えないのだが、それ以前に、彼女のその悩ましげな表情を見ると、僕の頭からは怒りや失望といった感情が雲散して消えてしまう。「まぁ、いいか、可愛いし」というどうしようもない気持ちになるのだ。嘘のようであるが、嘘ではない。
これが、第二のアズサ・マジックである。
◇
今宵の新歓コンパを開催するにあたって、幹事役のアキコから念を押された。
「あんた、ちゃんとアズサに目ぇつけときなさいよ」
まるで、万引き犯を監視する職員のような物言いだった。
「俺に言うより、アズサ本人に言った方がいいんじゃない?」
「うるさい、口応えすんな。言っとくけどね、あの子、前からいなくなることはあったけど、あんたと付き合い始めてから急激に早退回数が増えたんだからね」
「え、そうなの?」 僕は平然さを繕ったが、もちろん内心は穏やかでなかった。
「嘘ついて何になるのよ。何やったか知らないけど、明らかにあんたに原因があるわけでしょ。責任持て」
「いや、でも、金は払っているし、後で謝ってくるし、自由なんじゃない? アズサの」
「コンパは基本、出席から解散まで強制です。うち、ほとんど呑み専門のサークルだし。それに、アズサがいなかったら、男連中のトーンがダウンすんのよ。本当、失礼な奴らだよ。あたしらじゃ駄目みたいな感じでさ」
それはお前らの努力不足だろ、と言いかけて飲みこむ。危ないところだ。口にしてしまえば半殺しは必至だ。
びしっとアキコは僕に人差し指を突き付ける。
「とにかく、目を離さないようにして。後輩とも打ち解けなきゃいけないし、いつもより気を遣いなさい」
「あの、もし、アズサが脱走したら、俺はどうなる?」
「考えていないけど、あんたにとって愉快なことにはならないわね」 アキコは背を向けてさっさと行ってしまう。僕より男前な態度だった。 「じゃ、よろしく」
僕はさっそく、アズサに事の顛末を語り、切実に頼み込んだ。
「うん、わかった。ごめん、わたしのせいで変な苦労かけて」 彼女は悪戯な笑みを浮かべることもなく、素直に詫びた。
これで万事解決だと信じ、僕は今日の飲み会に臨んだ。
呼び込んだ新人の数は予想よりも多く、宴会場はいつも借りる座敷よりもさらに広い場所を借りていた。背の低いテーブルが八つ設置されており、仕切り戸も全て外され、座布団が数え切れないほど並べられた。それでも、参加者が全員揃うと窮屈に感じるほどだった。
サークルメンバーはそれぞれ上手く散るように席を割り当てられ、小学校の給食時に作る班のように新人達と卓を囲んだ。アキコは僕の任務を慮って、僕とアズサを同じ班にしてくれた。席も隣同士で、これなら今日は大丈夫そうだと高を括り、僕は宴会が始まるやいなや、さっそく対面に座る新人達に酒を勧めた。アズサも人見知りせず、いつも通りのマイペースな調子で後輩達と接していた。
法律や条例とは別の次元で、おおっぴらに酒を飲めるようになった新入生は、羽目を外しやすい。それを上手いことサポートしてやり、盛り上げるのが先輩の役割だ。僕は深くなり始めた酔気を感じながら、僕と同じように顔を赤くした新人達を眺めた。たった二歳しか違わないのに、ずいぶん子供のように見えるから不思議である。僕らには既に無い瑞々しさや新鮮さといったものも感じ取れる。
その点に関して、アズサは変わりがないな、と思った。彼女はいつまでもふんわりと甘く、水飴細工のような煌めきを決して絶やさない。見れば見るほど可愛らしい。こんな女性と交際できる僕って、実は地球規模で幸福な位置にいるのではないかしらん、と真剣に思われた。その身に余る幸福を確かめるように、僕はそっと、密やかな愛情をこめて、隣を見た。
隣では、顔を火照らせた胡麻塩頭の男が軟骨のから揚げにむしゃぶりついていた。
「誰だ、君は」
「スズキです」
「……あれ? アズサは?」
「どこか行っちゃいましたけど」
テーブルの隅にひっそりと置かれた現金を発見した時、腹の底が冷たくなるのを感じた。
素早くアキコの方を窺うと、彼女は仲良くなったばかりの後輩達と大声で笑い合っていた。こちらを振り返る気配は無い。他のメンバーもそれぞれ陽気にやっていて、がやがや騒がしい。僕はその愉快な騒がしさの中で独り危機感に駆られ、「トイレ行ってくるから、好きに飲んでいて」と言い残し、早急に座敷を出た。これがアズサのやり方なのだな、と考えるくらいの余裕は残されていた。
そして、店を飛び出し、繋がらないアズサの携帯電話に連絡を入れ続けながら、今に至る。
◇
飲み屋街から少し離れた橋までやってきた。街灯が夏の夜の大気の中で、喧騒を孕んで光っている。蛾が二匹、飛び回っていた。橋上は、飲み屋帰りのサラリーマン達で埋もれ、賑やかである。眼下を流れる川は細く浅く、黒い水面では街の明かりが揺らめいていた。どこもかしこも騒がしい雰囲気だ。
欄干に肘を乗せながら、遠くの、川を横断するように掛かる高架線路を眺める。終電を過ぎているので、電車はもちろん通らない。夜空を見上げると、わずかに星が見えた。片手で数えられるほどしかない。正確に数えてみて、酔いが醒めつつあることを自覚した。
時刻を確認すると、店を抜け出してからまだ十分ほどしか経っていなかった。酔っ払いは時間や周囲の状況に疎くなる傾向があるので、まだ戻らなくても心配ない、といい加減な目算を立てる。結局は、僕やアズサがいなくなった所で飲み会の進行には何の支障もない。清算までに戻れば文句を言われる筋合いもない。諦めだとか、酔いが煽る自嘲なんかが混ざり合って、僕は少し強気に構えていた。今ならアキコにもこう言えるだろう、「もっとおしとやかになれば?」と。
サラリーマンの集団が渡り切って、ようやく辺りは静かになる。水辺の草むらから虫の声が、車の排気音が時々橋沿いの道に響くだけだ。やっぱり、夜は静かなほうがいい。僕は、今度は欄干に背をもたれる恰好になる。
振り返った時、向かい側の欄干に、見覚えのある女の子が立っているのに気付いた。こちらに背を向けているものの、背丈や服装、髪型、それに彼女を取り巻く和やかなオーラでアズサだと確信した。おぉ、奇跡だ、と僕は呑気に思った。
川を見ているのか、空を見上げているのか、とにかく彼女は物思いに耽っているらしかった。こちらに気付いている様子はなく、僕が声を掛けても振り返らなかった。小幅の車道を渡り、思い切って背後に立ってみると、彼女の両耳にイヤフォンが差さっているのがわかった。何を聴いているのだろう。
隣に立って、じっと見つめていると、ようやくアズサは僕に気付いた。物憂げに伏せていた目をはっと開く。
「あ……」 彼女は慌てて片耳だけイヤフォンを外す。
その眼差しに怯んだわけではなかったが、僕は何となく気まずさを感じて、川を挟む柳の連なりへ目を逸らした。
「何聴いていたの?」 厳しい口調にならぬよう、できるだけ柔らかく尋ねる。
「バンプ・オブ・チキン……」 彼女も僕と同じ方向へ目を移す。
「懐かしいな。俺、中学まで聴いていたよ」
「わたしは、今も聴いてるよ」
「曲は何?」
「『天体観測』……」
「あぁ、いいね」 僕は本当に懐かしさを感じて、思わず微笑んだ。 「定番だね」
「うん、大好きなの」
「ちょっと聴かせてくれる?」
「いいよ」
彼女は外したほうの、右耳用のイヤフォンを、僕の左耳に差す。丁寧に最初から再生してくれた。アズサは大人しそうな外見と裏腹に、爆音で音楽を聴く。それを知っていた僕は、少し耳から浮かして調節した。
フィードバックするギターから始まるその曲が、僕の胸を懐古の情で満たす。心臓をそっと握られたかのような、肌の粟立つ感覚を覚えた。友達から教えてもらい、もはや「古き良き」と言っても抵抗の無いMDプレーヤーで、登下校中に聴き浸った中学時代の記憶が脳裏をよぎった。あの頃は楽しかったな、と思う。
ボーカルが一度目のサビを歌い終わった頃に、僕はようやく意識を現実へと戻す。川の水面に映る街灯の光を眺め、暗い柳の連続を眺め、街ビルの輪郭を眺め、アズサの横顔を盗み見た。彼女は聴き入るかのように瞑目し、項垂れていた。眠いのかもしれない。いつもこうして音楽を聴きながらぼんやりしているのか、と尋ねたかったのだが、なかなかタイミングを計れなかった。
結局、曲をエンディングまで聴き通した。しかし、曲が終わって、イヤフォンを耳から外しても、すぐには何も言いだせなかった。曲の余韻がイヤフォンから、僕達の鼓膜から、心臓から、周囲に溢れて漂っているように感じた。耳を澄ませば鮮明にそれを聴き取れるような錯覚。
しばらく、そんな沈黙を過ごした後、アズサが口を開いた。
「探しにきたんだよね。ごめん」
「いや……、いいよ」
「アキコ、怒ってた?」
「まだ気付いていないと思う。予想以上の盛り上がりだから」
「そう……」
僕は溜息を挟んで、アズサの横顔を見る。
「どうして、いつも抜け出すの? つまんない?」
「ううん、そうじゃない。楽しいよ」
「じゃあ、なぜ?」
「うーん……、実際、自分でもよくわからないんだよね」
よくわからない、でアキコの制裁を食らうのではこちらとしても堪ったものではない。そんな厭味な考えが浮かんで、僕は慌てて頭を振った。しかし、理性も虚しく、僕の口は意地の悪い言葉を放つ。今日だけは、アズサ・マジックも通用しない。
「独りになりたいの?」
「えっと……、たぶん、そう、かも……」
「じゃあ、俺、迷惑だよな」
「ううん! 違うよ、そういう意味で言ったんじゃない」
「君がどういう意味で言っても、残される側はそう受け取っちゃうんだよ。わかる? 今日もそうだし、二人だけで飯食ってる時もそうだよ。俺、あの時、マジで傷ついたんだからな」
アズサは瞳を揺るがせて、空気が抜けるように肩を落とした。
「ごめん……、ごめんなさい」
「いや……、まぁ、別に、いいけどさ」
胸のもやもやは発散されるどころか、その濃度を一層増した。そんな自分を嫌悪しつつ、僕は、もう黙っていようと決める。そんな誓いが守れる自信は欠片もなかったが。
「本当に、ごめんなさい」 アズサはまだ謝っていた。
もしや、このまま別れを告げられるのでは、となんとなく焦り、今度は大袈裟に肩を竦めて反応した。誓いは早々に破られる。
「大丈夫だって。今日はともかく、デートの時は退屈させた俺が悪かったんだから」
「ううん、退屈なんかじゃなかったよ。映画だって面白かったし、君の話も面白かった」
「じゃあ……」 なんで、と続けかけてやめる。彼女にもよくわからないのだろう。
そういえば、と突然思い出す。アキコは、僕と付き合い始めてからアズサの逃避行の数が多くなったと言っていた。その理由を無性に尋ねたくなったが、やはりやめておいた。無粋か、あるいは野暮だと思ったのだ。どのような思考展開でそう思ったのか、自分でもわからない。
アズサは欄干に乗せた両手を見下ろし、しばらく口を利かなかった。僕もその隣で煙草を取り出し、火をつけた。黙って煙を吐き続ける。紫煙は街灯から離れた闇に吸い込まれて溶けていった。煙草が短くなるまで、それを眺める。体内のアルコールが凝固したかのように、頭が重くなってきた。
「『天体観測』の始めで、こんな歌詞があるでしょ」 アズサは突然語り出す。忘れかけていたが、彼女も酒を飲んでいるのだ。 「『午前二時、踏切に、望遠鏡を担いでった――』……」
「『ベルトに結んだラジオ、雨は降らないらしい』」 僕はその後を諳んじる。
彼女は顔を傾けるようにして微笑んだ。
「『二分後に君が来た、大袈裟な荷物背負ってきた』」 アズサはそう続けて、また目線を伏せる。 「初めて買ったCDもこれなの。小学校の、三年生だったかな?」
「早熟だね」
「本当はお姉ちゃんから貰ったんだけどね。五百円払って、譲ってもらったの」
「酷い姉ちゃんだな」
「うん、本当にね。でも、どうしても欲しかったから……」 彼女は一旦、口を噤んで目を閉じる。 「ある時ね、夜中にこっそり、家を出たことがあるの。初めて夜更かしした日。曲にすごく影響されてね、天体観測っていうわけじゃなかったけど、好きだった男の子と約束して、地元の踏切で待ち合わせしたの。午前二時に」
「ロマンチックだね」 僕は少し複雑な気分で言った。
「ここよりも田舎だったから、街灯も疎らでね。暗くて、人もいなくて、すごく怖かった。踏切にやっと着いても、あの赤い点滅灯が大きな目に見えて、ずっと不安だった。どうしてあんなに怖かったのか、今でもわかんないけど……、でも、空は、それこそ望遠鏡で覗きたくなるくらい、星がいっぱい出てた。そっちを見上げながら、ずっと、相手の子を待ってたの」
「その男の子は、来たの?」
「来なかった」 アズサは、僕も初めて見るような、寂しい微笑みを浮かべていた。 「わたしとの約束なんて忘れて、ぐっすり眠ってたみたい。次の日になったら謝ってきたけど……、でも、わたし、本当はその子が来ても来なくてもどっちでも良かったの。あの、初めて夜更かしして、家を抜け出した時のことが、踏切までの暗い道のりが、踏切で見上げた星空が、全部、宝物のように思えたから。誰も知らない景色を、わたしだけが知っているんだぞって、誇らしかったの。それを見られただけで良かったの。曲みたいにドラマチックじゃなかったけど……、だけど、あの時のことが鮮明に、今でも思い出せるよ。何でもない、静かな夜のことが」
僕は何と言うべきなのかわからず、吸殻を足許に落とした。アズサは恥ずかしいのか、それとも純粋に思い出に浸っているのか、僕の方を見なかった。僕は何となく携帯で時刻を確認して、少し驚いた。
「今、午前二時だよ」
彼女は小さく口を開けて、幸せそうに笑った。
「二分後に、誰かが来るのかな」
「誰かを待ってるの?」
「さぁ」 彼女はとぼけるように言った。
自分が二分後に来るべきだったのだ、と僕は思った。その薄ら寒い冗談を口にするかどうか、一瞬迷う。
「わたしね、男の子と付き合うの、君が初めてなの」 アズサは思い切ったように言った。
「俺も、付き合うのは君が初めてだよ」
「嬉しい」 彼女は微笑む。 「だからっていうわけじゃないけど……、わたし、どうしたらいいか、本当はよくわかっていないんだ」
「俺もだよ」 それは嘘ではない。 「でも、そんな無理に張り切らなくていい。君は君のままで……、って、そうか、だから気儘に抜け出しちゃうんだね」
アズサは小さく頷いた。
「小学校から、時々、今日みたいに街を歩いてるんだよ。あの時みたいに……、踏切はないけど……、もう、あの夜みたいな興奮はないけど……、でも、自分の本当の居場所がきっと、あの夜にある気がしてならないんだ。あの時の気持ちに、もう一度なりたいの」
僕はその時、唐突に悟った。
彼女は、探しているのだ。
自分を取り巻く現実から抜け出して。
彼女が体験した、何でもない夜の思い出を。
年月が経っても、未だにそれは彼女の心の奥深くに根を張り、そして今も淡く輝いているのだろう。
誰もが忘れてしまうような、そんなありがちな記憶を、彼女は今も大事にしているのだ。
また、その光景を目にする為に。
もう見つけられないものを、見つける為に。
見つからない、と諦めるまで。
大人になるのだ、と覚悟するまで。
そうだ。
僕にだって、そんな記憶があったはずなのだ。
何かを探すようにしてMDプレーヤーを再生した日々。それが目の裏で蘇る。
もう一度だけでいい。
あの時のような情熱とか、感動とか、何でもないことがもう一度だけでも訪れてくれたら。
そうすれば僕はきっと、腐りきった毎日でも、平気で過ごすことができるだろう。
どんな平坦な人生でも、一生退屈せずに済むだろう。
「君は」 僕はぽつりと呟く。 「見えないモノを見ようとする症候群だな」
アズサは僕の顔をまじまじと見つめ、そして吹き出して笑った。そんなにウケるとは思わなかった。
「そうだね」 彼女は気に入ったのか、唄うように繰り返す。 「見えないモノを見ようとする症候群、かぁ……、悪くないね。思春期病だね」
「皆、一度は発症してる」
「わたしは慢性だけどね」
「ごめん」
「え、何が?」
「いや……、症候群とか、なんとか病とか、そういう言い方、俺、あんまりしたくなかったから」
「気にしないよ」 アズサは可笑しそうに表情を崩す。 「君のそういう優しいところ、わたし好きだよ」
「どうも」
「うん……、謝るのはわたしだね。ごめん。もう、途中で抜けたりしないから……、アキコ達が気付く前に戻ろ」
彼女は歩み出すが、僕はその細い手を掴んだ。驚いたように、彼女は振り返る。
「今日は、このままバックレちゃおう」 僕は言った。
「え? でも……、怒られちゃうよ」
「いいよ」 僕は微笑んだ。 「もう少し、ここにいよう」
「大丈夫なの?」
「ああ、平気。他におすすめの曲、教えてよ。二人で見えないモノを見つけようぜ」
彼女は呆けて突っ立っていたが、だんだんとその小顔に笑みを浮かべて頷いた。
「発症したね」
「伝染したんだ。空気感染、ウイルスだ」
「素質があるんだよ」 アズサは言った。
「これで晴れて君の同志だ。いなくなる時は俺も誘ってくれ」 僕は本心から言う。 「望遠鏡ないけど、天体観測でもする?」
「望遠鏡がなくたって」 彼女は言う。 「見えないモノを見つける事はできるよ」
僕は笑った。それは一つの真理だ、と思ったからだ。
きっと、僕達は正気の沙汰じゃない。けれど、見えているモノしか見ないでいるよりかは幸せだと思った。後から思い返せば恥ずかしいことだが、そんな事を言ってしまえば、素っ裸で生まれた時だってよほど恥ずかしい。何が言いたいかというと、まぁ、何も気にしないでくれ、ということ。
結局、僕達はそのまま、朝まで街を歩いて過ごした。見えないモノを見つけられたかどうか、それは些細な問題だ。少なくとも僕は、久しぶりに何かを見つけられた気がして、ちょっぴり幸せだった。アズサが繰り返す探究の旅も、僕という仲間を加えて、少しだけ前進したと信じている。僕達の仲は、これくらいささやかな方が、ちょうどいいのかもしれなかった。
後日、僕が、怒り狂ったアキコから酷い目に遭わされたのは言うまでも無い。
彼女はきっと僕の鼻先十センチメートル程まで人差し指を突き付け、目くじら立てて僕を責めるだろう。いつもの光景だ。彼女が怒る時は、まるで指揮者がタクトを振って演奏者を叱咤するように、あるいは黒人ギャングが生意気なラッパーの口に拳銃を突っ込んで脅すように、人差し指を駆使して迫ってくるのだ。ヒートアップすれば僕の腕を華麗に捻り上げ、こちらが訴える情状も酌量も頑として認めない。そういう女性だ。
半ば酩酊した目にちらちら瞬く不吉な予想図を振り捨て、僕は必死にアズサを探す。
念の為、携帯を開いてメールを確認するが変化はない。時刻は午前一時四十五分ちょうど。週末の大学生達にとってまだまだ宵の口と言える時間だ。事実、飲み屋が密集する路地ですれ違うのは、アルコールで上気した、学生と思しき若い連中ばかりだった。二次会に関する話題だろう、大声で何か楽しそうに言い合っている。僕はそれを背中越しに聞きながら、とても羨ましく思った。
僕だって彼らと同じ大学生であり、しかも今夜は新歓コンパで楽しい夜になるはずだったのに、いったい、何をやっているのだろう。いったい、彼女は毎度毎度、何がしたいのだろう。
◇
アズサとは、交際して三カ月ほどになる。
彼女は僕と同じ三年生で、サークルも同じだ。今夜の飲み会の出席者の一人でもある。とびきり綺麗だとか、派手な女性というわけではないが、いつもぼんやりとしていて大人しく、夢見る乙女という形容がぴったりな、可愛らしい人だった。裏表が無く、憎しみを抱く余地もないほど抜けているので、異性だけでなく同性からも好かれていた。いや、好かれるというよりかは、純粋に心配されているだけなのかもしれない。とにかく、目立つようなことはしないが、マスコットのように、そこにいるだけで周囲を和ませられる、不思議な女性だった。
僕とアズサが正式に付き合い始めると、サークル内では俄かに不穏な空気が漂った。男連中からは羨望と野次の言葉を、アキコを筆頭とする女連中からは脅迫めいた警告を投げられるようになった。曰く「泣かしたら殺す」だとか、「浮気したら去勢」だとか物騒なことこの上ない。
殺気立った周囲を知ってか知らずか、アズサはいつもふわふわと微笑んでいるだけだった。その笑みが、アズサがアズサたる由縁だ。恥を忍んで言えば、僕はその微笑みに惚れたのである。
しかし、交際を始めてから気付いたのであるが、アズサには少々面倒な癖があった。よくよく思い返せば、交際以前からその兆候はあった。いざ親密になってみてから、ようやくそれが目に付くようになったのだ。
癖と断定すべきなのかどうかは知ったことではない。しかし、病気と判断するのはなんだか心苦しい。僕は、いわゆる『中二病』だとか、『ピーターパン症候群』というような呼び名が嫌いだった。それを発症した者達を擁護するつもりも糾弾するつもりもさらさらないのだが、そんな俗称に、例えば『売女』だとか『気違い』だとかと同じニュアンスの悪意が込められているような気がして、口にするのも耳にするのも抵抗がある。蔑む言い方が不愉快なのだ。自分が当事者だからそう感じるんじゃないの、という鋭い指摘はしなくてもよろしい。
アズサは、奇行癖と呼ぶべきか、徘徊癖と呼ぶべきか、とにかく独りで街を歩くのを好む。それ自体は彼女の当然の権利であるが、それが今晩のような飲み会や、僕とのデートの間などにしょっちゅう、しかも何の断りも無しに、トイレや注文を装って、ふらりと消えてしまうから問題なのだ。アルコールを摂取するとその傾向は特に顕著になる。電話も通じず、メールの返信も無い。この暑苦しい情報社会の中にあって、アズサはいつの間にか完璧な孤立を成し遂げるのである。その身の引き様は、まるで忍者かスパイのように鮮やかだ。
そんな奇行を繰り返しているのにも関わらず、嫌われないのがアズサ・マジックだ。そして、皆の不満の皺寄せは、僕にやってくる仕組みである。テーブルの隅に彼女の支払い金が置かれているのに気付いて、当然、残された者達は騒然とする。そうして、必然的に僕へと非難が集中する。口火を切るのは決まってアキコだ。
「あんた彼氏でしょ、どうにかしなさいよ」
そんなことを言われたって困る。僕は思わず泣きたくなるのを堪えて、罵声に追われて宴会を後にする。あてもなく夜の街を彷徨い、失意に陥りながら彼女を探す。今までの経験では、見つけられたことは一度もない。
翌日になれば、アズサは平然と電話にも出るし、メールも返してくる。学校で出会うなり、僕が詰め寄ると、彼女はとても申し訳なさそうな表情で謝るのだ。
「泣かしたら殺す」と脅されているので、きつくも言えないのだが、それ以前に、彼女のその悩ましげな表情を見ると、僕の頭からは怒りや失望といった感情が雲散して消えてしまう。「まぁ、いいか、可愛いし」というどうしようもない気持ちになるのだ。嘘のようであるが、嘘ではない。
これが、第二のアズサ・マジックである。
◇
今宵の新歓コンパを開催するにあたって、幹事役のアキコから念を押された。
「あんた、ちゃんとアズサに目ぇつけときなさいよ」
まるで、万引き犯を監視する職員のような物言いだった。
「俺に言うより、アズサ本人に言った方がいいんじゃない?」
「うるさい、口応えすんな。言っとくけどね、あの子、前からいなくなることはあったけど、あんたと付き合い始めてから急激に早退回数が増えたんだからね」
「え、そうなの?」 僕は平然さを繕ったが、もちろん内心は穏やかでなかった。
「嘘ついて何になるのよ。何やったか知らないけど、明らかにあんたに原因があるわけでしょ。責任持て」
「いや、でも、金は払っているし、後で謝ってくるし、自由なんじゃない? アズサの」
「コンパは基本、出席から解散まで強制です。うち、ほとんど呑み専門のサークルだし。それに、アズサがいなかったら、男連中のトーンがダウンすんのよ。本当、失礼な奴らだよ。あたしらじゃ駄目みたいな感じでさ」
それはお前らの努力不足だろ、と言いかけて飲みこむ。危ないところだ。口にしてしまえば半殺しは必至だ。
びしっとアキコは僕に人差し指を突き付ける。
「とにかく、目を離さないようにして。後輩とも打ち解けなきゃいけないし、いつもより気を遣いなさい」
「あの、もし、アズサが脱走したら、俺はどうなる?」
「考えていないけど、あんたにとって愉快なことにはならないわね」 アキコは背を向けてさっさと行ってしまう。僕より男前な態度だった。 「じゃ、よろしく」
僕はさっそく、アズサに事の顛末を語り、切実に頼み込んだ。
「うん、わかった。ごめん、わたしのせいで変な苦労かけて」 彼女は悪戯な笑みを浮かべることもなく、素直に詫びた。
これで万事解決だと信じ、僕は今日の飲み会に臨んだ。
呼び込んだ新人の数は予想よりも多く、宴会場はいつも借りる座敷よりもさらに広い場所を借りていた。背の低いテーブルが八つ設置されており、仕切り戸も全て外され、座布団が数え切れないほど並べられた。それでも、参加者が全員揃うと窮屈に感じるほどだった。
サークルメンバーはそれぞれ上手く散るように席を割り当てられ、小学校の給食時に作る班のように新人達と卓を囲んだ。アキコは僕の任務を慮って、僕とアズサを同じ班にしてくれた。席も隣同士で、これなら今日は大丈夫そうだと高を括り、僕は宴会が始まるやいなや、さっそく対面に座る新人達に酒を勧めた。アズサも人見知りせず、いつも通りのマイペースな調子で後輩達と接していた。
法律や条例とは別の次元で、おおっぴらに酒を飲めるようになった新入生は、羽目を外しやすい。それを上手いことサポートしてやり、盛り上げるのが先輩の役割だ。僕は深くなり始めた酔気を感じながら、僕と同じように顔を赤くした新人達を眺めた。たった二歳しか違わないのに、ずいぶん子供のように見えるから不思議である。僕らには既に無い瑞々しさや新鮮さといったものも感じ取れる。
その点に関して、アズサは変わりがないな、と思った。彼女はいつまでもふんわりと甘く、水飴細工のような煌めきを決して絶やさない。見れば見るほど可愛らしい。こんな女性と交際できる僕って、実は地球規模で幸福な位置にいるのではないかしらん、と真剣に思われた。その身に余る幸福を確かめるように、僕はそっと、密やかな愛情をこめて、隣を見た。
隣では、顔を火照らせた胡麻塩頭の男が軟骨のから揚げにむしゃぶりついていた。
「誰だ、君は」
「スズキです」
「……あれ? アズサは?」
「どこか行っちゃいましたけど」
テーブルの隅にひっそりと置かれた現金を発見した時、腹の底が冷たくなるのを感じた。
素早くアキコの方を窺うと、彼女は仲良くなったばかりの後輩達と大声で笑い合っていた。こちらを振り返る気配は無い。他のメンバーもそれぞれ陽気にやっていて、がやがや騒がしい。僕はその愉快な騒がしさの中で独り危機感に駆られ、「トイレ行ってくるから、好きに飲んでいて」と言い残し、早急に座敷を出た。これがアズサのやり方なのだな、と考えるくらいの余裕は残されていた。
そして、店を飛び出し、繋がらないアズサの携帯電話に連絡を入れ続けながら、今に至る。
◇
飲み屋街から少し離れた橋までやってきた。街灯が夏の夜の大気の中で、喧騒を孕んで光っている。蛾が二匹、飛び回っていた。橋上は、飲み屋帰りのサラリーマン達で埋もれ、賑やかである。眼下を流れる川は細く浅く、黒い水面では街の明かりが揺らめいていた。どこもかしこも騒がしい雰囲気だ。
欄干に肘を乗せながら、遠くの、川を横断するように掛かる高架線路を眺める。終電を過ぎているので、電車はもちろん通らない。夜空を見上げると、わずかに星が見えた。片手で数えられるほどしかない。正確に数えてみて、酔いが醒めつつあることを自覚した。
時刻を確認すると、店を抜け出してからまだ十分ほどしか経っていなかった。酔っ払いは時間や周囲の状況に疎くなる傾向があるので、まだ戻らなくても心配ない、といい加減な目算を立てる。結局は、僕やアズサがいなくなった所で飲み会の進行には何の支障もない。清算までに戻れば文句を言われる筋合いもない。諦めだとか、酔いが煽る自嘲なんかが混ざり合って、僕は少し強気に構えていた。今ならアキコにもこう言えるだろう、「もっとおしとやかになれば?」と。
サラリーマンの集団が渡り切って、ようやく辺りは静かになる。水辺の草むらから虫の声が、車の排気音が時々橋沿いの道に響くだけだ。やっぱり、夜は静かなほうがいい。僕は、今度は欄干に背をもたれる恰好になる。
振り返った時、向かい側の欄干に、見覚えのある女の子が立っているのに気付いた。こちらに背を向けているものの、背丈や服装、髪型、それに彼女を取り巻く和やかなオーラでアズサだと確信した。おぉ、奇跡だ、と僕は呑気に思った。
川を見ているのか、空を見上げているのか、とにかく彼女は物思いに耽っているらしかった。こちらに気付いている様子はなく、僕が声を掛けても振り返らなかった。小幅の車道を渡り、思い切って背後に立ってみると、彼女の両耳にイヤフォンが差さっているのがわかった。何を聴いているのだろう。
隣に立って、じっと見つめていると、ようやくアズサは僕に気付いた。物憂げに伏せていた目をはっと開く。
「あ……」 彼女は慌てて片耳だけイヤフォンを外す。
その眼差しに怯んだわけではなかったが、僕は何となく気まずさを感じて、川を挟む柳の連なりへ目を逸らした。
「何聴いていたの?」 厳しい口調にならぬよう、できるだけ柔らかく尋ねる。
「バンプ・オブ・チキン……」 彼女も僕と同じ方向へ目を移す。
「懐かしいな。俺、中学まで聴いていたよ」
「わたしは、今も聴いてるよ」
「曲は何?」
「『天体観測』……」
「あぁ、いいね」 僕は本当に懐かしさを感じて、思わず微笑んだ。 「定番だね」
「うん、大好きなの」
「ちょっと聴かせてくれる?」
「いいよ」
彼女は外したほうの、右耳用のイヤフォンを、僕の左耳に差す。丁寧に最初から再生してくれた。アズサは大人しそうな外見と裏腹に、爆音で音楽を聴く。それを知っていた僕は、少し耳から浮かして調節した。
フィードバックするギターから始まるその曲が、僕の胸を懐古の情で満たす。心臓をそっと握られたかのような、肌の粟立つ感覚を覚えた。友達から教えてもらい、もはや「古き良き」と言っても抵抗の無いMDプレーヤーで、登下校中に聴き浸った中学時代の記憶が脳裏をよぎった。あの頃は楽しかったな、と思う。
ボーカルが一度目のサビを歌い終わった頃に、僕はようやく意識を現実へと戻す。川の水面に映る街灯の光を眺め、暗い柳の連続を眺め、街ビルの輪郭を眺め、アズサの横顔を盗み見た。彼女は聴き入るかのように瞑目し、項垂れていた。眠いのかもしれない。いつもこうして音楽を聴きながらぼんやりしているのか、と尋ねたかったのだが、なかなかタイミングを計れなかった。
結局、曲をエンディングまで聴き通した。しかし、曲が終わって、イヤフォンを耳から外しても、すぐには何も言いだせなかった。曲の余韻がイヤフォンから、僕達の鼓膜から、心臓から、周囲に溢れて漂っているように感じた。耳を澄ませば鮮明にそれを聴き取れるような錯覚。
しばらく、そんな沈黙を過ごした後、アズサが口を開いた。
「探しにきたんだよね。ごめん」
「いや……、いいよ」
「アキコ、怒ってた?」
「まだ気付いていないと思う。予想以上の盛り上がりだから」
「そう……」
僕は溜息を挟んで、アズサの横顔を見る。
「どうして、いつも抜け出すの? つまんない?」
「ううん、そうじゃない。楽しいよ」
「じゃあ、なぜ?」
「うーん……、実際、自分でもよくわからないんだよね」
よくわからない、でアキコの制裁を食らうのではこちらとしても堪ったものではない。そんな厭味な考えが浮かんで、僕は慌てて頭を振った。しかし、理性も虚しく、僕の口は意地の悪い言葉を放つ。今日だけは、アズサ・マジックも通用しない。
「独りになりたいの?」
「えっと……、たぶん、そう、かも……」
「じゃあ、俺、迷惑だよな」
「ううん! 違うよ、そういう意味で言ったんじゃない」
「君がどういう意味で言っても、残される側はそう受け取っちゃうんだよ。わかる? 今日もそうだし、二人だけで飯食ってる時もそうだよ。俺、あの時、マジで傷ついたんだからな」
アズサは瞳を揺るがせて、空気が抜けるように肩を落とした。
「ごめん……、ごめんなさい」
「いや……、まぁ、別に、いいけどさ」
胸のもやもやは発散されるどころか、その濃度を一層増した。そんな自分を嫌悪しつつ、僕は、もう黙っていようと決める。そんな誓いが守れる自信は欠片もなかったが。
「本当に、ごめんなさい」 アズサはまだ謝っていた。
もしや、このまま別れを告げられるのでは、となんとなく焦り、今度は大袈裟に肩を竦めて反応した。誓いは早々に破られる。
「大丈夫だって。今日はともかく、デートの時は退屈させた俺が悪かったんだから」
「ううん、退屈なんかじゃなかったよ。映画だって面白かったし、君の話も面白かった」
「じゃあ……」 なんで、と続けかけてやめる。彼女にもよくわからないのだろう。
そういえば、と突然思い出す。アキコは、僕と付き合い始めてからアズサの逃避行の数が多くなったと言っていた。その理由を無性に尋ねたくなったが、やはりやめておいた。無粋か、あるいは野暮だと思ったのだ。どのような思考展開でそう思ったのか、自分でもわからない。
アズサは欄干に乗せた両手を見下ろし、しばらく口を利かなかった。僕もその隣で煙草を取り出し、火をつけた。黙って煙を吐き続ける。紫煙は街灯から離れた闇に吸い込まれて溶けていった。煙草が短くなるまで、それを眺める。体内のアルコールが凝固したかのように、頭が重くなってきた。
「『天体観測』の始めで、こんな歌詞があるでしょ」 アズサは突然語り出す。忘れかけていたが、彼女も酒を飲んでいるのだ。 「『午前二時、踏切に、望遠鏡を担いでった――』……」
「『ベルトに結んだラジオ、雨は降らないらしい』」 僕はその後を諳んじる。
彼女は顔を傾けるようにして微笑んだ。
「『二分後に君が来た、大袈裟な荷物背負ってきた』」 アズサはそう続けて、また目線を伏せる。 「初めて買ったCDもこれなの。小学校の、三年生だったかな?」
「早熟だね」
「本当はお姉ちゃんから貰ったんだけどね。五百円払って、譲ってもらったの」
「酷い姉ちゃんだな」
「うん、本当にね。でも、どうしても欲しかったから……」 彼女は一旦、口を噤んで目を閉じる。 「ある時ね、夜中にこっそり、家を出たことがあるの。初めて夜更かしした日。曲にすごく影響されてね、天体観測っていうわけじゃなかったけど、好きだった男の子と約束して、地元の踏切で待ち合わせしたの。午前二時に」
「ロマンチックだね」 僕は少し複雑な気分で言った。
「ここよりも田舎だったから、街灯も疎らでね。暗くて、人もいなくて、すごく怖かった。踏切にやっと着いても、あの赤い点滅灯が大きな目に見えて、ずっと不安だった。どうしてあんなに怖かったのか、今でもわかんないけど……、でも、空は、それこそ望遠鏡で覗きたくなるくらい、星がいっぱい出てた。そっちを見上げながら、ずっと、相手の子を待ってたの」
「その男の子は、来たの?」
「来なかった」 アズサは、僕も初めて見るような、寂しい微笑みを浮かべていた。 「わたしとの約束なんて忘れて、ぐっすり眠ってたみたい。次の日になったら謝ってきたけど……、でも、わたし、本当はその子が来ても来なくてもどっちでも良かったの。あの、初めて夜更かしして、家を抜け出した時のことが、踏切までの暗い道のりが、踏切で見上げた星空が、全部、宝物のように思えたから。誰も知らない景色を、わたしだけが知っているんだぞって、誇らしかったの。それを見られただけで良かったの。曲みたいにドラマチックじゃなかったけど……、だけど、あの時のことが鮮明に、今でも思い出せるよ。何でもない、静かな夜のことが」
僕は何と言うべきなのかわからず、吸殻を足許に落とした。アズサは恥ずかしいのか、それとも純粋に思い出に浸っているのか、僕の方を見なかった。僕は何となく携帯で時刻を確認して、少し驚いた。
「今、午前二時だよ」
彼女は小さく口を開けて、幸せそうに笑った。
「二分後に、誰かが来るのかな」
「誰かを待ってるの?」
「さぁ」 彼女はとぼけるように言った。
自分が二分後に来るべきだったのだ、と僕は思った。その薄ら寒い冗談を口にするかどうか、一瞬迷う。
「わたしね、男の子と付き合うの、君が初めてなの」 アズサは思い切ったように言った。
「俺も、付き合うのは君が初めてだよ」
「嬉しい」 彼女は微笑む。 「だからっていうわけじゃないけど……、わたし、どうしたらいいか、本当はよくわかっていないんだ」
「俺もだよ」 それは嘘ではない。 「でも、そんな無理に張り切らなくていい。君は君のままで……、って、そうか、だから気儘に抜け出しちゃうんだね」
アズサは小さく頷いた。
「小学校から、時々、今日みたいに街を歩いてるんだよ。あの時みたいに……、踏切はないけど……、もう、あの夜みたいな興奮はないけど……、でも、自分の本当の居場所がきっと、あの夜にある気がしてならないんだ。あの時の気持ちに、もう一度なりたいの」
僕はその時、唐突に悟った。
彼女は、探しているのだ。
自分を取り巻く現実から抜け出して。
彼女が体験した、何でもない夜の思い出を。
年月が経っても、未だにそれは彼女の心の奥深くに根を張り、そして今も淡く輝いているのだろう。
誰もが忘れてしまうような、そんなありがちな記憶を、彼女は今も大事にしているのだ。
また、その光景を目にする為に。
もう見つけられないものを、見つける為に。
見つからない、と諦めるまで。
大人になるのだ、と覚悟するまで。
そうだ。
僕にだって、そんな記憶があったはずなのだ。
何かを探すようにしてMDプレーヤーを再生した日々。それが目の裏で蘇る。
もう一度だけでいい。
あの時のような情熱とか、感動とか、何でもないことがもう一度だけでも訪れてくれたら。
そうすれば僕はきっと、腐りきった毎日でも、平気で過ごすことができるだろう。
どんな平坦な人生でも、一生退屈せずに済むだろう。
「君は」 僕はぽつりと呟く。 「見えないモノを見ようとする症候群だな」
アズサは僕の顔をまじまじと見つめ、そして吹き出して笑った。そんなにウケるとは思わなかった。
「そうだね」 彼女は気に入ったのか、唄うように繰り返す。 「見えないモノを見ようとする症候群、かぁ……、悪くないね。思春期病だね」
「皆、一度は発症してる」
「わたしは慢性だけどね」
「ごめん」
「え、何が?」
「いや……、症候群とか、なんとか病とか、そういう言い方、俺、あんまりしたくなかったから」
「気にしないよ」 アズサは可笑しそうに表情を崩す。 「君のそういう優しいところ、わたし好きだよ」
「どうも」
「うん……、謝るのはわたしだね。ごめん。もう、途中で抜けたりしないから……、アキコ達が気付く前に戻ろ」
彼女は歩み出すが、僕はその細い手を掴んだ。驚いたように、彼女は振り返る。
「今日は、このままバックレちゃおう」 僕は言った。
「え? でも……、怒られちゃうよ」
「いいよ」 僕は微笑んだ。 「もう少し、ここにいよう」
「大丈夫なの?」
「ああ、平気。他におすすめの曲、教えてよ。二人で見えないモノを見つけようぜ」
彼女は呆けて突っ立っていたが、だんだんとその小顔に笑みを浮かべて頷いた。
「発症したね」
「伝染したんだ。空気感染、ウイルスだ」
「素質があるんだよ」 アズサは言った。
「これで晴れて君の同志だ。いなくなる時は俺も誘ってくれ」 僕は本心から言う。 「望遠鏡ないけど、天体観測でもする?」
「望遠鏡がなくたって」 彼女は言う。 「見えないモノを見つける事はできるよ」
僕は笑った。それは一つの真理だ、と思ったからだ。
きっと、僕達は正気の沙汰じゃない。けれど、見えているモノしか見ないでいるよりかは幸せだと思った。後から思い返せば恥ずかしいことだが、そんな事を言ってしまえば、素っ裸で生まれた時だってよほど恥ずかしい。何が言いたいかというと、まぁ、何も気にしないでくれ、ということ。
結局、僕達はそのまま、朝まで街を歩いて過ごした。見えないモノを見つけられたかどうか、それは些細な問題だ。少なくとも僕は、久しぶりに何かを見つけられた気がして、ちょっぴり幸せだった。アズサが繰り返す探究の旅も、僕という仲間を加えて、少しだけ前進したと信じている。僕達の仲は、これくらいささやかな方が、ちょうどいいのかもしれなかった。
後日、僕が、怒り狂ったアキコから酷い目に遭わされたのは言うまでも無い。
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