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作品ID:477
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約4087文字 読了時間約3分 原稿用紙約6枚
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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /
ゆきこさん
作品紹介
回想、思春期、年上の女性。 原曲・ミドリ。 少し前に某所で投稿したものを修正(といってもあまり変わっていませんが)してタイトルを変えたもの。暗い上に短いです。
人気の無い駅の構内で、彼は階段を下っていた。終電から降りた直後で、時刻はもう日付を越えていた。
ホームから見えた街の風景には街灯がぽつぽつと灯るだけで、熱帯夜の闇に圧されてずいぶん寂しげだった。元々が地方の閑静な街なので、東京や大阪のような妖しい賑やかさはない。当然構内もひっそりと静まり、改札口の向こうのロータリーでは疎らなタクシーが暇そうに並んでいた。
切符を取り出して改札口を通ろうとした瞬間、彼は背中に妙な視線を感じた。否、誰かに呼ばれた気がした。彼は反射的に脚を止めて、振り返った。
人影は数えるほどしかなかった。彼と同じように帰路を急ぐサラリーマン、酔っ払った足取りの大学生、眠った子供を抱えた三十代ほどの女。
どくん、と鼓動が重みを増した。イヤフォンを外した手がわずかに震えるのを彼は感じた。
「久しぶり」 子供を抱えた女が親しげな微笑みを浮かべていた。
「雪子さん」 彼はその名前を思い出すよりも一瞬早く、口にしていた。
雪子は、迫りくる追憶の風景とほとんど変わらない姿でそこにいた。あれからもう五年は経っているはずだった。もちろん、彼女の腕に抱かれて眠る少女にも見覚えがあったし、年月を計算して少女が七歳になったことも彼は知っていた。しかし、少女の名前だけは咄嗟に思い出せなかった。
彼は蛇に睨まれた蛙のように身じろぎできず、その場に立ち尽くしていた。
一方で雪子は、蛇とは程遠い、実にあっけらかんとした表情で彼を見つめていた。その瞳には一切の疑念も不信も無いように思えた。
彼は、忘れ去ろうとしていた記憶が、焼きたての写真のように鮮明に色づき、蘇ってくるのを感じた。夏の熱気を孕んだ夜気も手伝い、彼の頬には冷たい汗が流れる――。
当時、彼がまだ高校生だった頃のことだ。
彼は高校生活の三年間を部活にも入らず、年中アルバイトをして過ごした。特に金が必要だったわけではないが、アルバイト先の中華料理屋は大変居心地が良く、親切な先輩ばかりだったので働くことが純粋に楽しかった。彼はまたそこで、学校では決して教わることのない、しかし、人生において重要な意味を持つ事柄を多く学んだ。厨房で働いていた彼は、最後の一年には調理場の実質の責任者として働いていた。未だに油臭い調理服とバンダナの感触を懐かしく思う。
雪子とはそこで知り合った。彼の知る限り、彼女はずっとホールの仕事をこなしていた。初めて入った年、まだ高校一年生で右も左もわからなかった彼は、なんとなく雪子を、綺麗な人だなと思うだけに留まっていた。
中華料理屋は職場の雰囲気も良く、実際、従業員同士の仲も良かった。未成年であるにも関わらず、彼は飲み会の誘いを幾度も受け、幾度も誘いに乗った。彼の身長が高く、また同年代の少年よりも非常に落ち着いていたこともあって、年齢確認の咎めは一度も受けなかった。彼は酒と煙草をそこで覚えたのである。
平均年齢が若いその職場では、二十七歳の雪子は年長の部類に入っていた。そして、彼は最年少の位置にいた。しかし、一旦酒が交わされると誰もが開放的になり、年齢と性別の仕切りが取り払われ、無礼講の様相を成していた。もちろん、彼と雪子も例外ではなかった。半ば困った表情の彼のグラスに、雪子は豪快に麦酒を注いでいた。
雪子はその時、人妻であり、一女の母でもあったが、しかし年上の夫との仲が芳しくないと聞いた。詳しい事情を彼は知らなかったが、雪子の磊落な性格と生活が原因であることは察せられた。時に娘を飲み屋の座席に座らせていたことも不和の理由の一端であろう。
彼が高校三年生に上がった年、彼女は離婚した。それまで住んでいた家を離れ、実家に戻ったという話だった。しかし、実家との距離はそれほど遠くなく、今まで通り職場に通うと知った時、彼は深く安堵した。その時の彼の胸には、あの虚しい恋情が芽生えかけていたのである。
彼は大人びていたと同時に、話の聞き上手でもあった。彼の相槌や会話の合間の質問は、話し手の意欲や甘えを大きく引きだすものだった。雪子以外にも彼は同級生や、先輩や、後輩の愚痴を苦もなく引き受けていた。彼もまた他人の話を聞くのが嫌ではなかったのである。
しかし、雪子の場合は別だった。いつも朗らかな彼女の内密の相談を受けている時、彼は心の底から彼女を支えてやりたいと願っていた。それはまた、雪子の実は脆い一面が彼にそうさせたのであるし、彼自身の胸に燻っていた、あの思春期特有のドラマに憧れる情念がそれを後押しした。成熟していたかのように見えた彼の精神も、一皮剥けばまだ高校生だった。
いつしか、彼と雪子は職場や飲み会以外の場所でも逢瀬を繰り返すようになった。デートのような異性との経験がなかった彼は、表面上は平静を繕いつつも、内心では高く舞い上がっていた。食事を重ねるにつれて、雪子も、彼にしか見せない表情を浮かべるようになった。それがまた彼の心を深く捉えた。初めての口づけを経験したのも、その食事の帰りである。
秋の深まったある夜、飲み会が終わった後で彼と雪子母娘は店長の家のリビングを借りて泊まった。飲食店の業界では珍しく、店長は女性だったので、彼はともかく、雪子を家に誘うのには何の下心もなかったはずだ。あの人はもしかしたら、自分達の仲を知っていたのではないか、と彼が勘付いたのはずっと後のことである。
家主の店長が早々に二階へと引き上げ、彼らは敷いてもらった布団に横になった。照明の消えた薄闇の中、酔気にまどろんだ目でお互いを見つめていた二人が、触れ合い始めるのにたいして時間は掛からなかった。
その初めての経験の最中、彼は急に吐気を感じた。今までアルコールで嘔吐したことなど一度もなかった彼だけに、それは薄気味悪い現象にも思えた。彼は雪子を押しのけ、すやすやと眠る雪子の娘を跨ぎ、シンクに吐いた。
再び、薄闇に浮かぶ雪子の体を眺めた時、彼はもう自分の中に何の感情も見出せなかった。恋情も、性欲も、何もかもが弾けた泡のようにさっぱり消失していたのである。まるで、今の嘔吐で全てが吐き棄てられたかのように。彼は自分自身に激しい戸惑いを覚え、呼び掛ける雪子の顔も見ずに眠ったふりをした。早朝、目が覚めると、彼は雪子も起こさず店長の家を独り飛び出し、帰路につきながら、得体の知れない恐怖と悔恨を味わった。甘い余韻など、微塵もなかった。
それからもしばらく雪子と交際を続けたが、彼は以前のような情熱はもう感じられなかった。あの夜を境に雪子という女性が、否、世界が全く別のものになったように感じた。幾度か彼女と枕を共にしたのだが、それでもあの感情が戻って来ることはなかった。むしろ、彼は出所の知れない罪悪感さえ抱くようになったのである。彼の苦悩に反して、その罪悪感は実にありがちな、思春期に現れる思考だった。
彼はその重圧に耐えきれず、進学と同時にアルバイトを辞めた。雪子は最後まで反対していたが、彼は返事すらしなかった。やがて、雪子と交わしていたメールの数も減り、彼はしばらく雲隠れして息を潜めた後、唐突に縁切りの文面を送った。返信はなかった。それは、彼にはありがたいことだった。
以降、彼はあの中華料理屋の傍にも近付かなかった。どうしても通る場合は足早に、なるべく店内を見ないようにして通り過ぎるのが常だった。そして、そうする度に彼の胸には都合のいい痛みが走った。その痛みは自分の正当性の主張、あるいは悲劇の主人公として着飾るのに充分であった。
あれから五年が経った。彼の胸にはもはや風化した瓦礫のように虚しく、淋しく、霞んだ記憶が横たわるだけである。
彼は五年越しに再会した、かつての恋人をまじまじと見つめた。彼は雪子の瞳の中に、殴りたいほど青臭かった自分の幻影を無意識に探していた。
「仕事帰り?」 雪子は微笑んだまま、尋ねた。
彼は居心地の悪さを思い出して、目を逸らして頷いた。「はい」の一言も喉から上がらなかった。
「立派になったね」
「雪子さん……、変わっていませんね」 絞り出すように彼は言った。
「変わったよぉ。ひどいなぁ」 雪子は快活に笑った。
彼女の薬指にきらりと輝くものを見つけ、彼の目線はしばらくその煌めきに注がれた。気付いて、雪子は気恥かしそうにそれを掲げてみせる。
「あたしね、再婚したの」
「そう、なんですか」
その瞬間、自分がどう感じたのか、それは彼自身にもわからないことだった。
解放からの喜びか。
抱く義理もない嫉妬か。
若かった自分への悼みか。
幼さへの焦燥か。
見せかけだけの恋情か。
自分が大事にしていた何かを、跡形も無く壊された気分。
あの夜に感じた吐気が、腹の内で起こったような気がした。
ううん、と彼女の腕で眠る少女が呻いた。
「旦那が迎えに来るのを待っているの。よかったら、一緒に乗っていく?」
雪子の瞳に一瞬、鋭利な光が差したように彼は思えた。
「いえ……、大丈夫です。近いので」
「そう」
「はい……、じゃあ、また」
「うん、またね」
彼は逃げるように改札口へ向かい、切符を通す。背中に視線を感じる。けれど、決して振り返らなかった。出来るだけ死角へと歩み、アーケード街から離れた街灯の下に立った時、雪子が浮かべていた微笑みを反芻した。
それは、あるいは冷笑にも思えた。
いや、それはない、と彼は自分を笑う。
五年経った今、初めて自分の幼さがわかった気がする。雪子の佇まいがそれを突き付けていた。自分は今も、何も変わっていない。雪子こそが変わっていた。彼女は、自分よりも遥かに大人だったのだ。当然だ、今更それに気が付くなんて。
彼はひとしきり自嘲した後、未だ腹の内側に居座る吐気を堪えながら、苦い唾を路傍へと吐き棄てた。何もかも吐き棄てることができる。彼はどこかで縋るようにそう信じていた。
熱帯夜の闇は、彼の歩く道を暗く沈ませている。
ホームから見えた街の風景には街灯がぽつぽつと灯るだけで、熱帯夜の闇に圧されてずいぶん寂しげだった。元々が地方の閑静な街なので、東京や大阪のような妖しい賑やかさはない。当然構内もひっそりと静まり、改札口の向こうのロータリーでは疎らなタクシーが暇そうに並んでいた。
切符を取り出して改札口を通ろうとした瞬間、彼は背中に妙な視線を感じた。否、誰かに呼ばれた気がした。彼は反射的に脚を止めて、振り返った。
人影は数えるほどしかなかった。彼と同じように帰路を急ぐサラリーマン、酔っ払った足取りの大学生、眠った子供を抱えた三十代ほどの女。
どくん、と鼓動が重みを増した。イヤフォンを外した手がわずかに震えるのを彼は感じた。
「久しぶり」 子供を抱えた女が親しげな微笑みを浮かべていた。
「雪子さん」 彼はその名前を思い出すよりも一瞬早く、口にしていた。
雪子は、迫りくる追憶の風景とほとんど変わらない姿でそこにいた。あれからもう五年は経っているはずだった。もちろん、彼女の腕に抱かれて眠る少女にも見覚えがあったし、年月を計算して少女が七歳になったことも彼は知っていた。しかし、少女の名前だけは咄嗟に思い出せなかった。
彼は蛇に睨まれた蛙のように身じろぎできず、その場に立ち尽くしていた。
一方で雪子は、蛇とは程遠い、実にあっけらかんとした表情で彼を見つめていた。その瞳には一切の疑念も不信も無いように思えた。
彼は、忘れ去ろうとしていた記憶が、焼きたての写真のように鮮明に色づき、蘇ってくるのを感じた。夏の熱気を孕んだ夜気も手伝い、彼の頬には冷たい汗が流れる――。
当時、彼がまだ高校生だった頃のことだ。
彼は高校生活の三年間を部活にも入らず、年中アルバイトをして過ごした。特に金が必要だったわけではないが、アルバイト先の中華料理屋は大変居心地が良く、親切な先輩ばかりだったので働くことが純粋に楽しかった。彼はまたそこで、学校では決して教わることのない、しかし、人生において重要な意味を持つ事柄を多く学んだ。厨房で働いていた彼は、最後の一年には調理場の実質の責任者として働いていた。未だに油臭い調理服とバンダナの感触を懐かしく思う。
雪子とはそこで知り合った。彼の知る限り、彼女はずっとホールの仕事をこなしていた。初めて入った年、まだ高校一年生で右も左もわからなかった彼は、なんとなく雪子を、綺麗な人だなと思うだけに留まっていた。
中華料理屋は職場の雰囲気も良く、実際、従業員同士の仲も良かった。未成年であるにも関わらず、彼は飲み会の誘いを幾度も受け、幾度も誘いに乗った。彼の身長が高く、また同年代の少年よりも非常に落ち着いていたこともあって、年齢確認の咎めは一度も受けなかった。彼は酒と煙草をそこで覚えたのである。
平均年齢が若いその職場では、二十七歳の雪子は年長の部類に入っていた。そして、彼は最年少の位置にいた。しかし、一旦酒が交わされると誰もが開放的になり、年齢と性別の仕切りが取り払われ、無礼講の様相を成していた。もちろん、彼と雪子も例外ではなかった。半ば困った表情の彼のグラスに、雪子は豪快に麦酒を注いでいた。
雪子はその時、人妻であり、一女の母でもあったが、しかし年上の夫との仲が芳しくないと聞いた。詳しい事情を彼は知らなかったが、雪子の磊落な性格と生活が原因であることは察せられた。時に娘を飲み屋の座席に座らせていたことも不和の理由の一端であろう。
彼が高校三年生に上がった年、彼女は離婚した。それまで住んでいた家を離れ、実家に戻ったという話だった。しかし、実家との距離はそれほど遠くなく、今まで通り職場に通うと知った時、彼は深く安堵した。その時の彼の胸には、あの虚しい恋情が芽生えかけていたのである。
彼は大人びていたと同時に、話の聞き上手でもあった。彼の相槌や会話の合間の質問は、話し手の意欲や甘えを大きく引きだすものだった。雪子以外にも彼は同級生や、先輩や、後輩の愚痴を苦もなく引き受けていた。彼もまた他人の話を聞くのが嫌ではなかったのである。
しかし、雪子の場合は別だった。いつも朗らかな彼女の内密の相談を受けている時、彼は心の底から彼女を支えてやりたいと願っていた。それはまた、雪子の実は脆い一面が彼にそうさせたのであるし、彼自身の胸に燻っていた、あの思春期特有のドラマに憧れる情念がそれを後押しした。成熟していたかのように見えた彼の精神も、一皮剥けばまだ高校生だった。
いつしか、彼と雪子は職場や飲み会以外の場所でも逢瀬を繰り返すようになった。デートのような異性との経験がなかった彼は、表面上は平静を繕いつつも、内心では高く舞い上がっていた。食事を重ねるにつれて、雪子も、彼にしか見せない表情を浮かべるようになった。それがまた彼の心を深く捉えた。初めての口づけを経験したのも、その食事の帰りである。
秋の深まったある夜、飲み会が終わった後で彼と雪子母娘は店長の家のリビングを借りて泊まった。飲食店の業界では珍しく、店長は女性だったので、彼はともかく、雪子を家に誘うのには何の下心もなかったはずだ。あの人はもしかしたら、自分達の仲を知っていたのではないか、と彼が勘付いたのはずっと後のことである。
家主の店長が早々に二階へと引き上げ、彼らは敷いてもらった布団に横になった。照明の消えた薄闇の中、酔気にまどろんだ目でお互いを見つめていた二人が、触れ合い始めるのにたいして時間は掛からなかった。
その初めての経験の最中、彼は急に吐気を感じた。今までアルコールで嘔吐したことなど一度もなかった彼だけに、それは薄気味悪い現象にも思えた。彼は雪子を押しのけ、すやすやと眠る雪子の娘を跨ぎ、シンクに吐いた。
再び、薄闇に浮かぶ雪子の体を眺めた時、彼はもう自分の中に何の感情も見出せなかった。恋情も、性欲も、何もかもが弾けた泡のようにさっぱり消失していたのである。まるで、今の嘔吐で全てが吐き棄てられたかのように。彼は自分自身に激しい戸惑いを覚え、呼び掛ける雪子の顔も見ずに眠ったふりをした。早朝、目が覚めると、彼は雪子も起こさず店長の家を独り飛び出し、帰路につきながら、得体の知れない恐怖と悔恨を味わった。甘い余韻など、微塵もなかった。
それからもしばらく雪子と交際を続けたが、彼は以前のような情熱はもう感じられなかった。あの夜を境に雪子という女性が、否、世界が全く別のものになったように感じた。幾度か彼女と枕を共にしたのだが、それでもあの感情が戻って来ることはなかった。むしろ、彼は出所の知れない罪悪感さえ抱くようになったのである。彼の苦悩に反して、その罪悪感は実にありがちな、思春期に現れる思考だった。
彼はその重圧に耐えきれず、進学と同時にアルバイトを辞めた。雪子は最後まで反対していたが、彼は返事すらしなかった。やがて、雪子と交わしていたメールの数も減り、彼はしばらく雲隠れして息を潜めた後、唐突に縁切りの文面を送った。返信はなかった。それは、彼にはありがたいことだった。
以降、彼はあの中華料理屋の傍にも近付かなかった。どうしても通る場合は足早に、なるべく店内を見ないようにして通り過ぎるのが常だった。そして、そうする度に彼の胸には都合のいい痛みが走った。その痛みは自分の正当性の主張、あるいは悲劇の主人公として着飾るのに充分であった。
あれから五年が経った。彼の胸にはもはや風化した瓦礫のように虚しく、淋しく、霞んだ記憶が横たわるだけである。
彼は五年越しに再会した、かつての恋人をまじまじと見つめた。彼は雪子の瞳の中に、殴りたいほど青臭かった自分の幻影を無意識に探していた。
「仕事帰り?」 雪子は微笑んだまま、尋ねた。
彼は居心地の悪さを思い出して、目を逸らして頷いた。「はい」の一言も喉から上がらなかった。
「立派になったね」
「雪子さん……、変わっていませんね」 絞り出すように彼は言った。
「変わったよぉ。ひどいなぁ」 雪子は快活に笑った。
彼女の薬指にきらりと輝くものを見つけ、彼の目線はしばらくその煌めきに注がれた。気付いて、雪子は気恥かしそうにそれを掲げてみせる。
「あたしね、再婚したの」
「そう、なんですか」
その瞬間、自分がどう感じたのか、それは彼自身にもわからないことだった。
解放からの喜びか。
抱く義理もない嫉妬か。
若かった自分への悼みか。
幼さへの焦燥か。
見せかけだけの恋情か。
自分が大事にしていた何かを、跡形も無く壊された気分。
あの夜に感じた吐気が、腹の内で起こったような気がした。
ううん、と彼女の腕で眠る少女が呻いた。
「旦那が迎えに来るのを待っているの。よかったら、一緒に乗っていく?」
雪子の瞳に一瞬、鋭利な光が差したように彼は思えた。
「いえ……、大丈夫です。近いので」
「そう」
「はい……、じゃあ、また」
「うん、またね」
彼は逃げるように改札口へ向かい、切符を通す。背中に視線を感じる。けれど、決して振り返らなかった。出来るだけ死角へと歩み、アーケード街から離れた街灯の下に立った時、雪子が浮かべていた微笑みを反芻した。
それは、あるいは冷笑にも思えた。
いや、それはない、と彼は自分を笑う。
五年経った今、初めて自分の幼さがわかった気がする。雪子の佇まいがそれを突き付けていた。自分は今も、何も変わっていない。雪子こそが変わっていた。彼女は、自分よりも遥かに大人だったのだ。当然だ、今更それに気が付くなんて。
彼はひとしきり自嘲した後、未だ腹の内側に居座る吐気を堪えながら、苦い唾を路傍へと吐き棄てた。何もかも吐き棄てることができる。彼はどこかで縋るようにそう信じていた。
熱帯夜の闇は、彼の歩く道を暗く沈ませている。
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