小説鍛錬室
小説投稿室へ運営方針(感想&評価について)
投稿室MENU | 小説一覧 |
住民票一覧 |
ログイン | 住民登録 |
作品ID:478
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約16741文字 読了時間約9分 原稿用紙約21枚
読了ボタン
button design:白銀さん Thanks!※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。
あなたの読了ステータス
(読了ボタン正常)一般ユーザと認識
「サノバビッチ・マザーファッカー」を読み始めました。
読了ステータス(人数)
読了(303)・読中(0)・読止(0)・一般PV数(919)
読了した住民(一般ユーザは含まれません)
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /
サノバビッチ・マザーファッカー
作品紹介
逃亡、恋人、少年、モーテルの風景。 某所の企画に参加して書いたものです。限りなく自己満足。タイトルがアレすぎて申し訳ないです(汗
時計を失くしていたし、それまで眠っていたから自信はないけれど、車が停まったのは恐らく午後九時頃だったと思う。乗っていたのは彼女のおんぼろのシボレーで、確かに、いつ故障するのかひやひやだったが、けして壊れて停車したわけではない。とりあえずの目的地に着いたということだ。つまり、何処か身体を休められる場所に。
ハイウェイから下りて続く荒涼とした道路の脇には安いモーテルが集まっていて、さながらインディアンの集落のようだ。僕達はその一つに宿泊することになった。ずっと運転していた彼女は「受付に行ってくるから待っててね」と言い残して出ていく。薄闇の中でも彼女が疲労しているのがわかった。
恐らく彼女の言葉には、大人しく車内に残っていろ、という意図が込められていたのだろうけど、僕も座りっぱなしで窮屈だったので、助手席から這い出て外に出た。伸びをすると骨がぼきぼきと鳴る。晩夏の夜空は暗く沈んでいて、雲が掛かっているのか星も月も見えない。しかし、集合したモーテルの看板や照明、南に下ったすぐ先にある都市の明かりが強くて、地上は眩しいくらいだった。
煙草に火をつけながら、ぐるりと辺りを見回す。駐車されている車の台数の割には閑散としていて、ちかちかと輝くピエロを描いたネオンの看板がまさしく滑稽に映った。道路を挟んだ向かい側にはガソリンスタンドとカフェ、それに小さなストアがあり、そちらには疎らに人影が確認できる。そういえば僕達は夕飯を食べていないけど、彼女はどうするつもりなのだろう。あちらのカフェで済ませることになるのだろうか。
彼女はすぐに戻って来た。僕が外で素顔を晒しているのに怒ることもなく、微笑んで部屋の鍵を掲げた。場違いに嬉しそうだ。どういう反応を示せばいいのかわからず、僕はとりあえず頷いておいた。
「どうしてそんなに嬉しそうなの?」 僕は純粋な疑問を投げかける。
「受付のおじさんにね、お一人ですかって尋ねられて」 彼女は親指で駐車場の隅に建つ受付小屋をさす。 「いいえ、親子で来たのって答えてやったの。おかしいでしょ?」
彼女はくすくす笑いながら運転席に乗り込むが、上手く笑えなかった僕は煙草を踏み潰してから、ゆっくりと助手席へ滑り込んだ。彼女は時々、僕にはわからない冗談で笑うことがある。その笑顔が途轍もなく魅力的なのだけど、センスを培ってこなかった僕はそれに共感することができないから、時々辛い。辛く感じるようなことでもないのだけど。
車を五十メートルほど奥へ進ませてから後進で駐車し、再び車外へ。モーテルは二階建てで高さはないが、横に広い平屋だった。よく見るタイプの造りだが、僕は利用するのはこれが初めてだった。駐車場からすぐにドアが続いていて、僕はいつ外に出てもいいように、部屋のナンバーを確認する。僕達の部屋は二十四号室。ということはなんと一階だけで二十四部屋以上あるということ。まるで蜂か蟻の巣だ。
部屋は想像していたより狭くはないが、驚くほど広いわけでもなかった。しかし、埃っぽい黴臭さとくすんだ黄色い照明は期待通りである。入った右手にすぐバスルームがあって、奥にはソファとベッド、小さなテレビが乗ったテーブルにモーター音の煩い冷蔵庫。窓の隣には奥行きの浅いクローゼットまである。値段が幾らなのかは知らないが、なかなか上等だ。毛羽立った絨毯も懐かしい雰囲気に誘ってくれて好感的。
空気がこもっていて、忘れかけていた夏の蒸し暑さを漂わせている。彼女はハンドバッグを下ろしてクーラーのリモコンを操作するが、あまり性能はよろしくないらしい。初動に妙な臭いを撒き散らしたので、僕はたった一つだけの窓を開けた。窓は南側に向いていて、すぐ鼻先に迫った街の明かりが眺められる。花火のような華やかさと照度があって、あちらが賑やかなのが苦も無く察せられた。確かもう西海岸近くまで来ているはずだから、と僕はその都市の名前を推測する。
「さて、これからどうしようか」
窓を閉めて振り向くと、彼女はショールを取り、露出した腕を組んでいた。僕のとは違う細身の煙草に火をつけ、難しい顔をしている。
「とりあえず、朝になったらここを出て、街に入ったほうがいいんじゃない?」
僕は無難な提案をするが、彼女はぽかんと僕を見返し、笑いを堪えながら首を振った。
「違う、違う、そういうことじゃなくて……、シャワーを浴びるのか、先に食事を済ませるのか、コーラを飲むべきなのか、ビールを飲むべきなのかってこと」
「ドリンクは冷蔵庫と相談するべきだと思う。もしあれば、僕はコーラの方が断然いいけど」 言いながら僕もシャツを脱いだ。部屋がある程度快適になるまで半裸でいることにする。 「シャワーは、外で食事するなら後がいいと思うし、ストアで買うなら先に浴びたい」
「うん、うん、そうよね。あんたの言う通りよ、お利口さん」
彼女は僕を抱きしめて頭をごしごし掻き撫でた。どうしていちいちハグをする必要があるのか不思議だったけれど、昔住んでいた施設で飼われていた犬の気持ちが少しわかった気がした。こんな小さな収穫でも、僕は道理のわからない事を割と我慢することができる。
「そうね、食事は……、買うことにしましょう」
「じゃあ、僕が買ってくるから、君はシャワーを浴びていいよ」
「だめよ、君はここから出ないで」
「あ……、そうか」 僕は頭を掻く。いまいち自覚が足りないのかもしれない。
「それと、シャワーは二人で浴びます」
「は?」
「いいでしょう?」 彼女はにっこりと笑う。疲労が滲んでいるが、なかなかの爽快さがあった。
「まぁ、悪いことはないけど……」
そういうわけでシャワーを浴びることになった。着替えは最低限の量しかないから、替えの服を着たらすぐに新しいのを買ってくる、と彼女は言った。彼女はちゃっちゃっと衣服を脱ぎ、一糸纏わぬ姿になる。部屋の様相も相まって、僕は施設でこっそり観たポルノ映画を思い浮かべた。確かこんな退廃的な雰囲気だったはずだ。
ベルトを外す時、そこに挟んでいた拳銃を足許へと置いた。銀色のボディに照明の光を鈍く滑らせるその凶器を目にした瞬間、彼女の瞳が揺らぐのを僕は見逃さなかった。無理もない、あの惨劇を目の当たりにしてから、まだ二日も経っていないのだから。当然の反応だと思う。
彼女は不愉快な連想を振り払うように笑顔を繕い、僕の手を引いてバスルームへと入る。お湯の出はいまいち良くなかったが、二人ともそれには不満を漏らさず、ただ黙々とシャワーを浴びた。そんなことをする必要は全くないのに、彼女はまるで仔犬を洗うかのように、僕の身体へ丁寧にお湯を掛けてくれた。彼女の精神は余計とも言えるほどの親切心で構成されている。それを知っている僕は、やはり何も言わず、何の抵抗もしなかった。仔犬よりかは賢いという自負もあったし。
彼女はシャワーのノズルを握ったまま、僕を抱き寄せる。相手の素肌に流れる雫の一滴一滴までもが感じ取れるくらいに密着した。彼女の細い身体は温かい。長いブロンドの髪を頬や肩にひっつけた彼女は柔らかく微笑み、僕の口へ唇を重ねた。
異性と肌を重ねるのは、けして嫌いじゃない。彼女とこういう仲になる前だって、僕は仲間達と共にストリートで女の子を引っ掛けて過ごしていたくらいだ。それを自慢するほど酔狂ではなかったが。
僕達二人の間では、いつも決まって彼女の方から誘ってくる。十以上も歳の離れた彼女は職業柄、その手の術を熟知していて、僕はいつも彼女のするままに身を委ねていた。
けれど、彼女が行為の合間に時折、辛そうな表情を浮かべるのを僕は知っている。
たぶん、彼女は無意識だ。
自分自身、それに気がついていない。
葛藤や苦悩というものが、自分の身体から切り離されているのだと、本気で信じているのだ。
僕は、彼女には……、彼女にだけは、笑っていて欲しかった。
それだけが、彼女への望み。
それだけが、唯一の希望。
そして、それだけあれば、他には何もいらない。
これがたぶん、僕が持ち合わせている中で最も純粋な愛情。
そう、これがきっと、愛。
そうでなければ、これほど盲信的になれるわけがない。
彼女の悲しげな顔を、僕は見たくない。
そして、今が、その時だった。
僕は、彼女の肩を掴んでそっと押し、身体を離す。
初めてのことだったけれど、彼女は驚く素振りも、失望の色も見せることなく、ただあるがままの美しい顔で僕を見つめ返した。白い頬にはシャワーの水滴が垂れていて、まるで茫然と涙を流しているようにも思えた。自分が泣いていることにも気付いていない少女の面影を、僕は見ていた。
「お腹が空いたな」 僕は嘘を吐く。
でも、その嘘は彼女を微笑ませた。
「そうね」 彼女はそっと僕の額に口づけをする。 「出よっか」
彼女がバルブを捻るとお湯は途切れ、ノイズのように続いていたタイルを打つ水音もぴたりと止まった。そんな風に、感情や、執着や、時間を止められればいいのに、と僕は思った。でも、そんな万能のバルブが無いからこそ、この世に惰性的なものが生まれるということも、僕は知っている。
◇
彼女は髪も乾かないうちから服を着て、ハンドバッグから財布を取り出した。用意されていたバスタオルがあまりにも汚かったので、自前の小さなタオルしか使えなかった。彼女は水滴を拭い切れていなかったようで、着替えのブラウスが張り付いて肌の線が浮かび上がっていた。
僕はタオルで頭を拭きながら、煙草を取り出す。最後の一本だった。
「煙草も買ってくるよ」 彼女はそれに気付いて言う。 「あと、コーラと、そうね……、食べ物はたぶんレトルトくらいしかないだろうけど、いい?」
冷蔵庫には缶ビールしかなかったのだ。そんなものが無くても、部屋の雰囲気で酔えそうな気もするのだけど。
「問題ない」 火をつけ、煙を吐きながら僕は答えた。 「コーラは、別にいいよ。ビールでも我慢できる」
「そう?」 彼女は一瞬だけ顔を輝かせたが、すぐに顰めて首を振った。 「だめだめ。お酒なんて発育に良くないんだから」
僕は思わず笑ってしまった。吹き出した拍子に紫煙の塊が浮かび上がる。
「じゃあ、行ってくるね」
「本当に一人で大丈夫?」
「どういう意味?」 彼女は怪訝な顔。
「あ、いや……、ほら、荷物とか、一人で持てる?」
「キャンプに行くわけじゃないのよ、そんなに買い込むわけないじゃない」 今度は彼女がおかしそうに笑った。 「お子様のくせに一丁前の口利いて。でも、優しいのね、ありがとう」
僕は、なんだか身体中を撫でられたような、こそばゆい感覚に表情を崩した。
「気をつけて」
彼女は、例えば場末のモーテルで時間を潰すような下品な男達を欲情させるには、充分すぎる美貌とプロポーションを備えている。彼女が仕事をこなしている時間ならば、それは大きな武器になるのだろうけど、少なくとも今、僕達はプライベートで、来た事もない土地に来ているのだ。この土地の男が余所者に対して礼節を重んじるかどうかは、ちょっとした賭けである。
いや……、僕はどうして、そんな過ぎた心配をしているのだろうか。そう思い至ってからようやく、自分が普段より緊張しているのがわかった。きっと、彼女も同じ心情のはずだが、彼女の表情にそれは全く見えない。自分の心配に振り回されている様子もない。その差が、たぶん、僕と彼女の間に横たわる埋められない距離なのだろう。つまり、お子様と大人、という意味だ。
僕のささやかな杞憂をよそに、彼女はすたすたと行ってしまった。
仕方なく、僕はジーンズだけ履いてベッドに腰掛ける。そこから窓を覗くと、駐車場に新たに二台の車が停められているのがわかった。どちらもくたびれた感じの車。こんな所に泊まりにくるのは、もしかしたら僕達と同じで、何かから逃げてきた連中なのかもしれない。不思議とそう思った。心なしか、夜空の闇が一層濃くなった気がする。
床に置きっぱなしだった拳銃に気づく。
それを拾い上げて、しばらく眺める。五発装填、二十二口径、少し錆びたシリンダーの、時代遅れのリボルバー。銃声は思っていたよりもたいしたことなかった。僕の手にもぴったり納まるサイズ。元の持ち主は、もうこの世にいない。皮肉なことに、彼の護身用の銃が、彼の命を奪った。
違う。
奪ったのは、引金を引いた僕の指と、僕の意思だ。
それ以外の何者でもない。
僕という人間が、この小さな道具に殺意と憎悪を込めて、弾を発射したのだ。
彼は、彼女の夫だった。
そして同時に、彼女の生命を危険に晒す凶暴な男だった。
それだけで、殺すのに充分だった。
それだけで、全てを投げ出すのに充分だった。
一切躊躇わずにやってのけられたのは、彼女を心から愛していたからだ。
あの男は、まだあのアパートのキッチンで倒れているのだろうか。
床に広がるあの夥しい量の血は、もう固まったのだろうか。
僕は、彼女の前で、あの男を撃ってみせた。
愛を示す為に。
生まれて初めて抱いた愛情を、表現する為に。
その感情は時として、言葉という信号では足りないほど、膨張してみせる。
この世の全てを犠牲にしてもいいと断言できるほど愛しい人。
両手いっぱいの花束を贈りたいと願える人。
誰にだって、そんな存在がいるはず。
僕の場合は、彼女だった。
僕が贈ったのは、花束じゃなくて、彼女自身の解放だった。
それだけの話だ。
それだけの、つまらない話だ。
拳銃を脇へと放る。壁に寄りかかり、前髪を掻き上げて目を瞑った。煙草の灰が崩れて腹の上に降ったけれど、気にはしない。そんなことを気にしている場合じゃない。
これから僕達はどうすればいいのだろう。
食事を済ませて、ベッドに潜り込んで、車に乗って、街へ入って、抜け出して。
それから、どうする?
どこへ、向かうのだ?
もう僕は、漫然と人生を彷徨える立場ではない。
逃げなければいけないのだ。
僕は目を開いて、現実の重みを忘れる為に、何となしに立ち上がる。煙草を灰皿で押し潰し、テレビが乗ったテーブルの引き出しを開けてみた。中には、誰かが使用した避妊具の残骸と分厚い聖書だけ。最低のジョークだ。迷うことなく引き出しを閉める。それも、やや強く。
テレビをつけてみたけれど、やっていたのは三秒でつまらないと判断できる類の映画だけだった。チャンネル数が異様に少ない。最高に馬鹿っぽい8ビートのロックンロールが聴きたかった。もしくは、鼠が蒸気船を操作する古臭いアニメでもいいし、くすぐり程度の笑いを誘うコメディドラマでもいい。けれど、そんな番組は見当たらない。僕は日頃からテレビというものをあまり信用していないけれど、やっぱり、この文明機器は僕の敵であるようだ。
仕方なく、ニュースを観る。本当はそれを真っ先に観るべきだったのだろうけど、やはり気は進まないし、観ても、今の僕達の状況が劇的に好転するわけでもない。
幸いにも、まだ僕達のことは報道されていなかった。つまり、遺体を発見されていないということ。検死を受けて現場を鑑識されれば、犯人が逃亡したと出回るはずだ。それも時間の問題だろうけど。公表していないだけで、警察が捜査を開始している可能性もある。
事件が発覚したら、どういう報道をされるのだろう。僕の写真や名前は出されるのだろうか。
いや、僕よりも、彼女は?
そう、彼女が一番危ない。間違いなく、彼女が疑われる。むしろ、僕の存在が捜査線上で早々に結び付くとは思えない。彼女が、本来潔白であるはずの彼女が、逃亡幇助だけでなく、殺人の罪に問われる可能性だってある。もちろん、僕がやったのは間違いないのだが、もし捕まって自供しても、それが事実として受け取られるとは到底思えない。
だって、僕はまだ子供なのだから。
内容がセンセーショナルすぎるし、そもそも警察や裁判といった公の場で、子供の言い分が理解されるとは到底思えない。大人には、子供の姿が目に映っても、子供の言うことには耳が全く反応しない人種というのが往々にして存在するのだ。それも、施設育ちで脱走中という札付きの小僧ならば尚更だ。
僕は、今更になって、ほんの少しだけ後悔した。
あの男を殺した事を悔いているわけではない。
ただ、浅はかすぎたのだ。
僕は、年上の彼女の為、子供なりに、必死に考えて実行した。
彼女の自由の為に。
しかし、結果的には悪い状況を招いてしまった。逃げ切れると楽観していた。少し考えればわかることじゃないか。大人というのは無能な生物ではない。むしろ、狡猾な生物なのだ。捕まれば、幇助罪で彼女は数年の懲役を受けるだろう。それも、僕の中で描く最上の希望的観測に過ぎないが。
溜息をつく。
自分のこの馬鹿さ加減が、後先考えない幼稚さが、憎い。憎んでも仕方がないのに。今夜の僕はどうも最低な仕上がりだ。
大人になりたい、と思った。
もっと早く生まれればよかったのだ。そして、もっと早くに彼女と出会うべきだった。彼女と同い年で、彼女が今の職業に就くよりもっと昔、彼女がまだ今の僕ほどの年齢の時代に出会えれば、きっと遥かにマシな未来になったはずなのだ。
引き出しに眠る、誰かの精子に汚れた聖書を思い出す。
神は、誰に対しても平等だ。
しかし、それは、全員が同じスタートラインに立っているという意味でも、人間的な価値が同じという意味でもない。
きっと、神はダイスを振っただろう。気だるげに。何人目ともつかぬ、人間の子供の為に。
そうして転がり出た目は、最悪の数字。
まぁ、出てしまったものは仕方ない。
神はそう溜息をついて。
そして、その最悪の目の下に生まれたのが、僕か、彼女か、それか僕達両方だったのだろう。
平等というのは、結局そんなものなんだ。
どうして、自分だけがこんな目に?
そう思わせる理不尽さこそが、平等という概念の罠。
誰もが、サイコロを転がした時にそう言うのだろう。
ああ、こんなはずではなかった、と。
何かの間違いだ、と。
自分の何が悪かったのだ、と。
それが、平等の正体だ。
そう、人間の意思など、平等という言葉の前では塵にも等しい。
僕達が平等と呼ぶものは。
決して抗えない、絶対的な運命の事だ。
僕達は、運命の、そして、平等という幻想の奴隷だ。
平等と公平は、全くの別物。
そして、どちらの概念も、人が生み出した幻想に過ぎない。
僕は、平等や公平を謳う神のことなど、けして信じない。
彼女が扉を開ける気配。
はっと我に返り、滅裂な思考を意識の隅に追いやる。指が勝手にテレビの電源を切った。
戻って来た彼女は、僕の呆けた顔を眺めて吹き出した。
「どうしたの?」 くすくすと笑う。 「神様に会ったみたいな顔してるわよ」
その冗談に、僕も遅れて吹き出してしまった。今夜の彼女は、なかなか悪くない仕上がりだった。
◇
夕飯は予想通り、宇宙食のようなレトルトだった。クリームソースのペンネとオムライスらしき卵料理。どちらも温めて調理するもので、とんでもなく不味かった。プラスチックの容器に包まれていたが、食材までプラスチックで出来ていたのかもしれない。コーラが飲めたのは幸いだったけれど。
彼女は缶ビール二本をあっという間に空けて、そしてあっという間に酔っ払った。冬の夕暮れのように早い移り変わりだった。
「こんな時でも酔えるもんなんだね、人間って」 彼女は缶ビールを握り潰しながら、しみじみと言った。
「そう考えるとアルコールってすごいね」 僕はオムライスの方をとっくに諦めて、時々ペンネだけ齧りながら答える。
「嫌なこととか、全部忘れさせてくれるもんね。そりゃ依存しちゃうわけだ」
彼女の顔に翳りが差す。僕達はビールとコーラを片手に、取り留めのないことを話し合っていたけれど、二日前のあの事だけは話題に上らなかった。車に乗って、住んでいた街を離れた時から、ずっとそうだった。二人で避けていたのだ。
「飲みたいんなら、もっと飲んでいいよ」
「わお、ボク、どこのバーでそんな言葉を覚えたの?」 彼女は愉快そうに笑い、煙草に火をつける。彼女の食事はとっくに終了していたようだ。 「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっと」
彼女は僕の膝元を軽々と飛び越え、冷蔵庫を開ける。扉を閉める前から缶の蓋を開けて、マラソン直後のような勢いでそれを飲んだ。僕は彼女の肝の太さを少し羨ましく思う。
「あぁ、生き返る」 彼女は溜息と一緒にそう言った。
「今まで死んでたの?」 僕は笑う。
「そういう揚げ足取り、わたし嫌い」
彼女はわざとらしく口を尖らせて、壁際にあった椅子を引っ張って座る。指に挟んだ煙草から灰が盛大に落ちたけれど、彼女は気にかける素振りさえ見せなかった。まぁ、絨毯は僕達の所有物じゃないからいいけれど。
「ねぇ、何か面白い話をしてよ」 彼女は突然言う。
「無いよ、面白い話なんか」
「施設を脱走して、ストリートで暮らしていた時のこと話してよ」
「何回も話したじゃないか」
「わたしの前に付き合っていた子のことを話して」
それはあまり良い思い出ではない。僕の場合、良い思い出なんてそうそうないのだが。
「ラテン系で、背が低くて、髪はブルネットで短い」
「わたしと正反対」
「僕の他に、二人の男と付き合っていた」
「あぁ、その辺は似てるかも」 彼女は肩を震わせて笑う。とろんと垂れた目は、崩れたプリンのように危うい印象。
「その他の男が僕の根城に乗り込んできて、頬をぶん殴られた」
「やり返さなかったの?」
「そいつは大人だったからね。トラックの運転手。腕だけで、僕の腰くらいあるんだよ、勝ち目なんか最初からない」
「そのラテン女は何歳だったの?」
「え? 僕と同い歳だけど。一年前だから、十三歳かな」
彼女は吹き出す。けらけらと、子供のように笑った。
「その子、相当のくせものだね」
「僕もそう思う」
「いや、君、人の事言えないでしょうが」
彼女は笑いすぎて浮かんだ涙を指で払いながら言う。いつもより、笑い方が大袈裟だった。単純に酔った為か、あるいは僕と同じで緊張している所為なのかもしれない。彼女の笑う顔を見るのが好きな僕は、それだけで満足だったけれど。
「ていうかさ……、君、こんなおばさんで本当にいいの?」
一通り笑い治めた彼女は、悪戯っぽい表情で言った。
それは、彼女と出会ってから何度も受けた質問だった。
「君は、おばさんなの?」 僕は尋ね返す。
「二十八はもうおばさんだよぉ。あんたのちょうど二倍じゃない。それこそ、犯罪になっちゃうよ」 彼女はビールをぐいっと傾ける。早くも空になったようだ。
「僕はもう犯罪者だから、今更どうでもいいよ」
「違うよ、わたしがだよ。十四歳に手ぇ出してるわたしが犯罪者になっちゃうの」
あぁ、確かに、それは困る、と感じた。もっとも、僕を連れて逃げている時点で彼女もとっくに罪を犯している身なのだけど。
「ごめん」 僕は謝る。本心からの謝罪だった。
「うそ、うそ。何でも真剣に受け取っちゃうんだからなぁ」
「でも君は、僕の歳で子供を産んだことがあるんだろう? それは犯罪?」
「うーん……、どうかな」 彼女は難題にぶつかったような顔を作る。 「うん、たぶん、それも犯罪だろうね。住んでた修道院、追い出されたし」
「どうして?」
「え?」
「どうして、それが罪になるの?」
「そんなの、わかんないよ」 彼女は鼻で笑い飛ばす。 「わかんないけど、悪いんだからしょうがないじゃない。世間がそう言うんだから」
そうだね、と僕はやや遅れて頷いた。その時の彼女の言い分には、容易に飲み下せないものがあったけれど、結局僕はその意見を自分の中で消化した。世の中は「しょうがない」という言葉で溢れている。今に始まった事ではないのだ。しょうがないことに固執するのは子供でしかない。
それから、彼女は自分の話をし始めた。それはベッドの中で何度も聞いた話だった。幼い頃から厳格なクリスチャンの家庭で育てられ、修道院に入れられたこと。そこで働いていた庭師の男と恋仲になり、子供を身籠ったこと。問題が発覚し、修道院から追い出され、男と二人で駆け落ちしたこと。生まれた子供を養う金も無く、死なせてしまったこと。それでも彼女は男を愛していたが、その男に騙されて売春宿に売られてしまったこと。何人もの男に抱かれ、何人もの男に裏切られたこと。聞く度に毎回細かい所が違っているが、大体は僕が知っている話だった。それ自体も嘘なのかもしれないけれど。
彼女はきっと、存在している証が欲しいのだ。だから、こんな話を僕に聞かせるのだろう。小さな子供が眠る時にクマのぬいぐるみを抱きしめるように、彼女も誰かに抱きしめられたいのかもしれない。あるいは、抱きしめたいのか。僕はぬいぐるみのようには従順になり切れないから、せめて話は聞いてあげるし、彼女が求めれば肌だって重ねる。
けれど、それでは足りないのだ。
それでは足りないほど空虚な夜を、彼女は過ごしてきたのだ。
自分が信じられなくなるほどの時間を、彼女は過ごしてしまったのだ。修道院で恋に落ちた時からか、子供を産んだ時からか、売春宿で働くようになった時からか。
僕はその虚無を知っている。
僕と彼女は似ている。
当然だ。だからこそ、こんなにも惹かれ合ったのだろう。
だからこそ、こんなにも純粋に、愛に身を焦がせたのだろう。
彼女が次のビールを漁っている間、僕は再び、これからの事を考えた。
僕達は、いつまで逃げ切れるのだろう。
ずっとこのままというわけにはいかない。
どこかで、区切りをつけなければいけないのだ。
警察へ出頭するか?
出頭すれば、罪はだいぶ軽くなるだろうか。
けれど……、それは、彼女の身も危険に晒してしまうことだ。
きっと、彼女には殺人罪を言い渡されてしまうだろう。
僕の勝手な行動の為に。
裁判所で、そして檻の中で項垂れる彼女の姿を、一瞬だけ想像した。
嫌だ。
それだけは、絶対に嫌だ。
捕まれば、幾千、いや、幾万もの悪意と好奇が彼女に降りかかるだろう。
彼女をそんな目に遭わせたくない。
そうなってしまったら、もう僕の手には負えなくなる。
あの男にしたように、全員を撃ち殺すなんて不可能なのだから。
ああ……、なんて、生き辛いのだろう、人生というのは。
そこまでして生きる価値が、本当にこの世界にあるのか?
何もかも醜く、汚く、そのくせ粘り着く。
泥沼だ。
そこまで考えて。
僕の目が、自然と拳銃へと向いた。
そうだ……。
まだ、その手があった。
いや、実を言えば、ずっと前からそれを考えていたのだけど。
僕の腕は、自然に、緩やかに、そちらへ伸びる。
「死ぬのは、なしだよ」
僕の顔が、弾かれたように上がった。
彼女はやや目を伏せて、煙草を銜えながら微笑んでいた。
とてもびっくりして、鼓動が疾駆していた。寝込みを襲われた猫がこんな感じなのかもしれない。どうしてわかったのだろう。
「わたし、どこか山に行きたいなぁ」 彼女は唄うように言う。 「アルプスみたいな、すごく長閑な草原で君と寝転びたい。そんな場所までさ、逃げてみようよ」
「うん」 僕の声は掠れていた。 「ごめん」
「可愛い」 彼女は煙草を口から離して微笑んだ。ビールはテーブルの上だった。 「おいで」
僕は素直に立ち上がり、座っている彼女に歩み寄って、抱きしめる。
ブラウスの奥に潜む彼女の体温。
それを認識した途端、発作のような衝動を覚え、彼女の唇に自分の口を当てていた。彼女はそれに応える。互いに目を瞑ったまま、己の意識の加速度に従い、手触りだけで相手を確かめる。
空調は、最初の頃に比べるとだいぶ素直になっていて、部屋は涼しかった。けれど、彼女の頬は汗に濡れていた。アルコールが入ったからだろう。息も熱くなっている。僕はその一滴すらも愛撫した。
薄く目を開けて、僕は驚く。
彼女は静かに泣いていた。
頬を伝っていたのは汗ではなく、涙だった。
顔を離して、無言のまま彼女を眺めた。彼女は目許を何度も擦って、必死に笑おうとするのだが、その試みの度に彼女の瞳からは新たに液体が滲み、表情は崩れた。彼女は俯き、僕の肩に頭を預ける。
「そうだよね……、無理だよね、逃げ切るなんてさ」 彼女は鼻を啜る。 「ずっとこのままってわけにはいかないよね」
「ごめん」 僕は彼女の頭を撫でた。 「僕の所為だね」
「ううん、違う、謝らないで」 彼女は頭を離して首を振る。 「あぁ、どうしたのかしら、わたし。本当、こんなはずじゃなかったのになぁ」
「よくあることだよ」
「何が?」 彼女は微笑んだ。もう泣いてはおらず、ただ涙の残骸が零れるばかりだった。
「こんなはずじゃないっていうのは、人生じゃよくあることだよ」
「子供のくせに」
彼女は僕の額に接吻した。
「もう、寝よう。疲れただろう」 僕は微笑んで、彼女を立たせた。
彼女は素直に頷いて、僕の手をしっかりと握ったまま、ベッドに潜り込んだ。照明を消してから、僕も彼女が空けてくれたスペースに身を滑り込ませる。間近で見る彼女の瞳は、まだ濡れて光っていた。薄闇の中でもそれがわかる。いつまでもそれを眺めていたかったけれど、彼女が瞼を閉じると、幻のようにその輝きは失われてしまった。
彼女に手を握られたまま、僕も目を閉じた。互いの呼吸が梟の声のように静かで、意識はすぐに遠のいていった。
◇
僕は助手席で目を覚ます。がくん、と車体が揺れたのとほぼ同時だった。
「あ、起きた?」
運転席に座る彼女は、ハンドルを握りながらこちらに微笑んだ。 「ずっと眠ってたね」
車窓の外は戸惑いを覚えるほど明るく、すぐに山道を走っているのだとわかった。開けた窓から入り込む風に少し薄さを感じたからだ。太陽は澄みきった青空の頂点にあり、暖かい陽射しを落としている。山道の右手に剥き出しの岩肌が迫り、左手にはなだらかな起伏の向日葵畑が広がっていて、鮮やかな黄色が眩しい。そうか、今は夏か、と思い出す。向日葵畑の遥か向こうには山脈の影が遠景となって連なっていた。
「これは、夢?」 僕は尋ねる。
「寝惚けてる」 彼女はくすくす笑った。 「しっかりしてよ」
あぁ、そうだ。
あれは、昔の風景。
昔の出来事を夢に見ていたのだ。
僕は気付いて、次にうずうずと身体が震えだすのを止められなかった。煙草を探したけれど見当たらない。そうだ、前の街で煙草を買うのを忘れてしまったのだ。だから、吸いたいのを我慢して眠っていたのだ。
「止めてくれ」
「え?」
「頼む」
「わ、わかった」
彼女は困惑してブレーキを踏む。車が停まるなり、僕はドアを開けて立ち上がった。目の前には向日葵が作る黄色い海原が広がっていた。深呼吸をすると、だんだん頭がすっきりしてくる。標高が高い為か、夏なのに風は冷たくて涼しく、吸い込んだ肺も程良く冷えた。あのモーテルの空調よりも遥かに涼しく、透き通った風だった。
モーテル?
僕は息を漏らして笑う。
ずいぶん、懐かしいな。
振り返ると、まだ車中で彼女が怪訝な顔をしていたので、僕は手招きした。彼女はおずおずと出てくる。夢の中での彼女と寸分違わぬ服装をしていたけれど、その顔に疲労の滲みはなかった。横風に靡く髪を手で押さえながら、僕に近寄る。
「どうしたの?」
「昔の夢を見た」 僕は遠くを見つめて答えた。
「昔って?」
「ほら、僕が君の男を殺した二日後くらいに、モーテルで泊まっただろ?」
「あぁ、あぁ、あったね。懐かしい」 彼女は目を細くして笑った。 「何年前だろ」
「君は、長閑な場所に行きたいって言っていた」
「言ったかなぁ」
「言ったんだよ」
僕は微笑み、彼女の手をそっと握った。彼女はぽかんとしていたが、すぐに優しく僕の手を握り返した。
「あの時は、無理だって思ってた。君もそう言って泣いていた。けど、見てみなよ。僕ら、こんな所まで来れたんだ」
彼女は頷き、僕と同じように一面の黄色い海原を眺め出した。
僕もそちらを眺め、雲ひとつない空を眺め、山脈を眺め、笑いだすのを止められなかった。僕達の他には誰もいない。街がある気配すらない。それが、何よりも素晴らしかった。この調子じゃ今日の宿を探し出せるか心配だったけど、構うもんか。何日だって野宿してやる。
僕は、隣の彼女へ振り向く。
知らない少女が、そこに立っていた。
えっ、と息をのみ込むのと同時に、僕は悟る。
あぁ、この子は、彼女だ。
彼女が、まだ子供だった頃の姿だ。
ブロンドの髪にも、高い鼻筋にも、頬の輪郭にも、彼女の面影があった。
あぁ、これが、僕の望んでいた世界か。
これは夢だ。
こっちが、夢なんだ。
僕は絶望する。
どうしてそう断言できたかって?
だって……、僕は、彼女のこの姿を知らないのだ。
彼女が子供だった頃、僕は、この世に生まれ落ちてもいないのだ。
僕は目を瞑り、蹲って、誰かに向かって懇願する。
この世界に、僕を残してくれ。
目を覚まさないでくれ。
このまま……、僕を殺してくれ。
けれど、恐る恐る目を開けた瞬間には、その夢は終わっていた。
◇
そんなに長くは眠っていなかったようだ。意識の感触からそれがわかる。しかし、僕の身体は発汗し、小刻みに震えていた。青空はそこに無く、暗い天井と空調の黴臭い風。身体に纏わりつく重力。窓から射し込む、不穏な微弱の明かり。モーテルの風景。
ゆっくり身を起こし、残っていたコーラを一口飲む。温くなっていた。僕の隣では彼女が眠っている。そう、大人の彼女だった。少女の頃の面影を残した、大人の女だった。
終わった、と直感した。
何かを無邪気に信じられていた時間が、終わりを告げた。言いかえれば、僕の中の子供らしさが死んだ。それが今、はっきりと、冷静にわかる。
僕はしばらく虚空の闇を見つめ、そして額を押さえて笑いを噛み殺す。
滑稽で、あまりにも、残酷。
結局、またここに戻って来てしまった。いや、ここから抜け出せなかったというのが正しいか。笑いを堪えているつもりだったけど、顔の筋肉が緩むことはけしてなかった。当然だ、面白くもないのに笑うことなどできやしない。
なぜ、僕は、生きているのだろう?
こんな場所で、なぜこんなにもちんけな生に縋っているのだ?
なぜ、命なんか大事にしなくちゃいけないんだ?
生まれたい、と乞うたか?
神の加護を求めたか?
人は、生きるという事の意味を求め過ぎている。
生まれた赤子は祝福を受ける。
死んだ老人には祈りが捧げられる。
本当は何でもないことなのに。
本当は、もっとまっさらで、美しいものだったのに。
それを穢して、汚して、醜く飾って、命を重くするのだ。
死なせない為に。
出し抜けを許さない為に。
生きる事も、死ぬ事も、本当は大して違いはないのに。
そうじゃないか。
こんな世界で怯えて生きて、それが本当に生きていると言えるのか?
半分死んでいるようなものだ。
だったら、もう、いっそのこと……。
僕は、疲れた。
慎重にベッドを抜け出す。僕達はまだ手を繋いだままだったけれど、そっと離しても彼女は起きなかった。その方がいい。彼女は何も悪くないのだから。
拳銃を拾い、ソファに腰掛ける。
これでまた、彼女を困らせることになるな。
辛いのは、いつだって残される側だ。
僕は微笑み、銃口をこめかみに当てた。固い感触。撃鉄を親指で起こした。かちり、とどこまでも響き渡るような乾いた音。その音で彼女が目を覚まさないか心配だったけれど、幸い彼女の身体は動かなかった。
僕は、何となく、撃ち殺したあの男のことを思い出す。
そして、ふと、気付いた。
違う。
あれで、あんな無駄な事で、愛を示したつもりになっていた。
全く違う。
別物だ。
あれは、ただ、僕の欲望の事象化にすぎなかった。
遊びのセックスなんかと同じことだ。
愛を本当に示したかったのなら。
あんな下らない男を、僕達の間に介入させるべきじゃなかった。
撃つべき相手は。
彼女だったのかもしれない。
あるいは。
僕が、彼女に撃たれるべきだったのかもしれない。
本当の恋人だったならば。
本当の他人だったならば。
僕は、そうしていたかもしれない。
少なくとも、彼女の夫を撃った後に、そうするべきだったのだ。
じゃあ、何が、僕を止めた?
道徳?
違う。
感情?
違う。
モラル?
違う。
きっと。
血だ。
血が、僕を止めたのだ。
なぜなら、彼女は、僕の……。
僕はまた笑いたくなったけれど、やっぱり顔は動かなかった。
その代わり、息を吸い込み、目を瞑る。
さぁ、これで終わり。
さようなら。
全ての愛よ。
全ての生よ。
僕には、君達が重すぎた。
願わくば彼女に幸あれ。
人差し指が。
引金を引く。
かちっ、とまた乾いた音。
ぶるっと銃口が震え。
シリンダーが回る感触。
発砲の幻想に、銃自身が目を覚ましたかのような。
僕は、止めていた息を再開し、ゆっくりと、拳銃を下ろす。
深く、溜息。
知っていたさ。
死ねないことなど、知っていた。
最初から、弾丸など入っていないのだ。
それはきっと、彼女のハンドバッグの中にある。
そう、彼女は、余計なほど親切なのだ。
胸の奥底から、何かが押し寄せてきて、息が詰まった。
熱い。
目の奥が熱を帯び出す。
きっと泣いているな、と思ったけれど、指を目許に当てると意外なほど乾いている。そうだ、哀しくもないのに、涙なんか流れやしない。感情が無ければ誰も笑わないし、誰も泣きやしないのだ。
何度も、何度も、引金をひいた。かちっ、かちっ、と撃鉄は起き上がり、シリンダーは回り続ける。
そうしている内に、彼女が起き出した。僕が拳銃を握っているのを見るや否や、豹のようにベッドから跳ね上がり、悲鳴を上げながら僕の頬を平手で打った。弾丸が入っていないのを知っているくせに、拳銃を弾くように取り上げる。
茫然としている僕の身体を、彼女が抱きしめた。僕自身はいたって冷静なのに、彼女はそれこそ、まるで子供のように嗚咽していた。僕の肩に顔を埋めながら何か言っているが、聞き取れない。
僕は力無く彼女を抱き返し、打たれた頬の痛みを噛みしめながら、ぽつぽつと昔の話を聞かせてやった。物心つく前に捨てられ、親の顔を知らないこと。施設での酷い暮らし。飼っていた犬の特徴。初めて観たポルノ映画。脱走した冬の夜の凍えるような寒さ。不良児のグループに入って好き勝手やったこと。売春宿で出会った親切な女と、彼女を苦しめる男の存在。初めて撃った拳銃の感触。
何度も何度も、聞かせてやった話。
「ねぇ」 僕は泣き続ける彼女の耳元にそっと囁く。 「さっき、君が話してくれたことには嘘が混じっていたよね?」
「うん」 彼女は震えた声で答えた。
その嘘はきっと、彼女が望んでいたことなのだろう。
だから、僕は、否定しなかった。
僕は、生きているよ。
生き延びてしまったんだよ、と。
二人でそれに気付きながら。
共鳴しながら。
目を背け続けたのだ。
「僕を産んだ時、君はどう感じたの?」
「嬉しかったよ」 彼女は涙を拭いながらも微笑んだようだ。 「今まで生きてきた中で、一番嬉しかったよ」
彼女は涙で濡れたまま、僕に頬擦りする。おかげで僕の頬も濡れてしまったけれど、気にはしなかった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉は、きっと、何よりも正直な言葉。
僕は、ずっと年上の、最も愛しい女の身体を抱き寄せる。そうして、彼女の温もりを抱きしめながら、僕は夢を見た。
それは、ここから遠く離れた、何処かの風景。
そう、全ての清算を終えた後、僕達は草原へと出かけているのだろう。向日葵畑かもしれない。とにかく、長閑な場所。
そこにはモーテルもなければ、拳銃も、聖書もない。
青空の下で、爽やかな風に吹かれながら、彼女はきっと、僕を待っているのだろう。
そしたら、彼女に、花束を贈ろう。
そして、プラカードにはこう記すのだ。
世界で一番愛しいあなたへ、僕から。
彼女はきっと僕を待ってくれるし、僕も彼女をずっと待っているだろう。
そして、出会った時には。
また手を繋ぐのだ。
世界で一番愛しい女性と共に。
この汚れた世界から逃げ続けてやるのだ。
ハイウェイから下りて続く荒涼とした道路の脇には安いモーテルが集まっていて、さながらインディアンの集落のようだ。僕達はその一つに宿泊することになった。ずっと運転していた彼女は「受付に行ってくるから待っててね」と言い残して出ていく。薄闇の中でも彼女が疲労しているのがわかった。
恐らく彼女の言葉には、大人しく車内に残っていろ、という意図が込められていたのだろうけど、僕も座りっぱなしで窮屈だったので、助手席から這い出て外に出た。伸びをすると骨がぼきぼきと鳴る。晩夏の夜空は暗く沈んでいて、雲が掛かっているのか星も月も見えない。しかし、集合したモーテルの看板や照明、南に下ったすぐ先にある都市の明かりが強くて、地上は眩しいくらいだった。
煙草に火をつけながら、ぐるりと辺りを見回す。駐車されている車の台数の割には閑散としていて、ちかちかと輝くピエロを描いたネオンの看板がまさしく滑稽に映った。道路を挟んだ向かい側にはガソリンスタンドとカフェ、それに小さなストアがあり、そちらには疎らに人影が確認できる。そういえば僕達は夕飯を食べていないけど、彼女はどうするつもりなのだろう。あちらのカフェで済ませることになるのだろうか。
彼女はすぐに戻って来た。僕が外で素顔を晒しているのに怒ることもなく、微笑んで部屋の鍵を掲げた。場違いに嬉しそうだ。どういう反応を示せばいいのかわからず、僕はとりあえず頷いておいた。
「どうしてそんなに嬉しそうなの?」 僕は純粋な疑問を投げかける。
「受付のおじさんにね、お一人ですかって尋ねられて」 彼女は親指で駐車場の隅に建つ受付小屋をさす。 「いいえ、親子で来たのって答えてやったの。おかしいでしょ?」
彼女はくすくす笑いながら運転席に乗り込むが、上手く笑えなかった僕は煙草を踏み潰してから、ゆっくりと助手席へ滑り込んだ。彼女は時々、僕にはわからない冗談で笑うことがある。その笑顔が途轍もなく魅力的なのだけど、センスを培ってこなかった僕はそれに共感することができないから、時々辛い。辛く感じるようなことでもないのだけど。
車を五十メートルほど奥へ進ませてから後進で駐車し、再び車外へ。モーテルは二階建てで高さはないが、横に広い平屋だった。よく見るタイプの造りだが、僕は利用するのはこれが初めてだった。駐車場からすぐにドアが続いていて、僕はいつ外に出てもいいように、部屋のナンバーを確認する。僕達の部屋は二十四号室。ということはなんと一階だけで二十四部屋以上あるということ。まるで蜂か蟻の巣だ。
部屋は想像していたより狭くはないが、驚くほど広いわけでもなかった。しかし、埃っぽい黴臭さとくすんだ黄色い照明は期待通りである。入った右手にすぐバスルームがあって、奥にはソファとベッド、小さなテレビが乗ったテーブルにモーター音の煩い冷蔵庫。窓の隣には奥行きの浅いクローゼットまである。値段が幾らなのかは知らないが、なかなか上等だ。毛羽立った絨毯も懐かしい雰囲気に誘ってくれて好感的。
空気がこもっていて、忘れかけていた夏の蒸し暑さを漂わせている。彼女はハンドバッグを下ろしてクーラーのリモコンを操作するが、あまり性能はよろしくないらしい。初動に妙な臭いを撒き散らしたので、僕はたった一つだけの窓を開けた。窓は南側に向いていて、すぐ鼻先に迫った街の明かりが眺められる。花火のような華やかさと照度があって、あちらが賑やかなのが苦も無く察せられた。確かもう西海岸近くまで来ているはずだから、と僕はその都市の名前を推測する。
「さて、これからどうしようか」
窓を閉めて振り向くと、彼女はショールを取り、露出した腕を組んでいた。僕のとは違う細身の煙草に火をつけ、難しい顔をしている。
「とりあえず、朝になったらここを出て、街に入ったほうがいいんじゃない?」
僕は無難な提案をするが、彼女はぽかんと僕を見返し、笑いを堪えながら首を振った。
「違う、違う、そういうことじゃなくて……、シャワーを浴びるのか、先に食事を済ませるのか、コーラを飲むべきなのか、ビールを飲むべきなのかってこと」
「ドリンクは冷蔵庫と相談するべきだと思う。もしあれば、僕はコーラの方が断然いいけど」 言いながら僕もシャツを脱いだ。部屋がある程度快適になるまで半裸でいることにする。 「シャワーは、外で食事するなら後がいいと思うし、ストアで買うなら先に浴びたい」
「うん、うん、そうよね。あんたの言う通りよ、お利口さん」
彼女は僕を抱きしめて頭をごしごし掻き撫でた。どうしていちいちハグをする必要があるのか不思議だったけれど、昔住んでいた施設で飼われていた犬の気持ちが少しわかった気がした。こんな小さな収穫でも、僕は道理のわからない事を割と我慢することができる。
「そうね、食事は……、買うことにしましょう」
「じゃあ、僕が買ってくるから、君はシャワーを浴びていいよ」
「だめよ、君はここから出ないで」
「あ……、そうか」 僕は頭を掻く。いまいち自覚が足りないのかもしれない。
「それと、シャワーは二人で浴びます」
「は?」
「いいでしょう?」 彼女はにっこりと笑う。疲労が滲んでいるが、なかなかの爽快さがあった。
「まぁ、悪いことはないけど……」
そういうわけでシャワーを浴びることになった。着替えは最低限の量しかないから、替えの服を着たらすぐに新しいのを買ってくる、と彼女は言った。彼女はちゃっちゃっと衣服を脱ぎ、一糸纏わぬ姿になる。部屋の様相も相まって、僕は施設でこっそり観たポルノ映画を思い浮かべた。確かこんな退廃的な雰囲気だったはずだ。
ベルトを外す時、そこに挟んでいた拳銃を足許へと置いた。銀色のボディに照明の光を鈍く滑らせるその凶器を目にした瞬間、彼女の瞳が揺らぐのを僕は見逃さなかった。無理もない、あの惨劇を目の当たりにしてから、まだ二日も経っていないのだから。当然の反応だと思う。
彼女は不愉快な連想を振り払うように笑顔を繕い、僕の手を引いてバスルームへと入る。お湯の出はいまいち良くなかったが、二人ともそれには不満を漏らさず、ただ黙々とシャワーを浴びた。そんなことをする必要は全くないのに、彼女はまるで仔犬を洗うかのように、僕の身体へ丁寧にお湯を掛けてくれた。彼女の精神は余計とも言えるほどの親切心で構成されている。それを知っている僕は、やはり何も言わず、何の抵抗もしなかった。仔犬よりかは賢いという自負もあったし。
彼女はシャワーのノズルを握ったまま、僕を抱き寄せる。相手の素肌に流れる雫の一滴一滴までもが感じ取れるくらいに密着した。彼女の細い身体は温かい。長いブロンドの髪を頬や肩にひっつけた彼女は柔らかく微笑み、僕の口へ唇を重ねた。
異性と肌を重ねるのは、けして嫌いじゃない。彼女とこういう仲になる前だって、僕は仲間達と共にストリートで女の子を引っ掛けて過ごしていたくらいだ。それを自慢するほど酔狂ではなかったが。
僕達二人の間では、いつも決まって彼女の方から誘ってくる。十以上も歳の離れた彼女は職業柄、その手の術を熟知していて、僕はいつも彼女のするままに身を委ねていた。
けれど、彼女が行為の合間に時折、辛そうな表情を浮かべるのを僕は知っている。
たぶん、彼女は無意識だ。
自分自身、それに気がついていない。
葛藤や苦悩というものが、自分の身体から切り離されているのだと、本気で信じているのだ。
僕は、彼女には……、彼女にだけは、笑っていて欲しかった。
それだけが、彼女への望み。
それだけが、唯一の希望。
そして、それだけあれば、他には何もいらない。
これがたぶん、僕が持ち合わせている中で最も純粋な愛情。
そう、これがきっと、愛。
そうでなければ、これほど盲信的になれるわけがない。
彼女の悲しげな顔を、僕は見たくない。
そして、今が、その時だった。
僕は、彼女の肩を掴んでそっと押し、身体を離す。
初めてのことだったけれど、彼女は驚く素振りも、失望の色も見せることなく、ただあるがままの美しい顔で僕を見つめ返した。白い頬にはシャワーの水滴が垂れていて、まるで茫然と涙を流しているようにも思えた。自分が泣いていることにも気付いていない少女の面影を、僕は見ていた。
「お腹が空いたな」 僕は嘘を吐く。
でも、その嘘は彼女を微笑ませた。
「そうね」 彼女はそっと僕の額に口づけをする。 「出よっか」
彼女がバルブを捻るとお湯は途切れ、ノイズのように続いていたタイルを打つ水音もぴたりと止まった。そんな風に、感情や、執着や、時間を止められればいいのに、と僕は思った。でも、そんな万能のバルブが無いからこそ、この世に惰性的なものが生まれるということも、僕は知っている。
◇
彼女は髪も乾かないうちから服を着て、ハンドバッグから財布を取り出した。用意されていたバスタオルがあまりにも汚かったので、自前の小さなタオルしか使えなかった。彼女は水滴を拭い切れていなかったようで、着替えのブラウスが張り付いて肌の線が浮かび上がっていた。
僕はタオルで頭を拭きながら、煙草を取り出す。最後の一本だった。
「煙草も買ってくるよ」 彼女はそれに気付いて言う。 「あと、コーラと、そうね……、食べ物はたぶんレトルトくらいしかないだろうけど、いい?」
冷蔵庫には缶ビールしかなかったのだ。そんなものが無くても、部屋の雰囲気で酔えそうな気もするのだけど。
「問題ない」 火をつけ、煙を吐きながら僕は答えた。 「コーラは、別にいいよ。ビールでも我慢できる」
「そう?」 彼女は一瞬だけ顔を輝かせたが、すぐに顰めて首を振った。 「だめだめ。お酒なんて発育に良くないんだから」
僕は思わず笑ってしまった。吹き出した拍子に紫煙の塊が浮かび上がる。
「じゃあ、行ってくるね」
「本当に一人で大丈夫?」
「どういう意味?」 彼女は怪訝な顔。
「あ、いや……、ほら、荷物とか、一人で持てる?」
「キャンプに行くわけじゃないのよ、そんなに買い込むわけないじゃない」 今度は彼女がおかしそうに笑った。 「お子様のくせに一丁前の口利いて。でも、優しいのね、ありがとう」
僕は、なんだか身体中を撫でられたような、こそばゆい感覚に表情を崩した。
「気をつけて」
彼女は、例えば場末のモーテルで時間を潰すような下品な男達を欲情させるには、充分すぎる美貌とプロポーションを備えている。彼女が仕事をこなしている時間ならば、それは大きな武器になるのだろうけど、少なくとも今、僕達はプライベートで、来た事もない土地に来ているのだ。この土地の男が余所者に対して礼節を重んじるかどうかは、ちょっとした賭けである。
いや……、僕はどうして、そんな過ぎた心配をしているのだろうか。そう思い至ってからようやく、自分が普段より緊張しているのがわかった。きっと、彼女も同じ心情のはずだが、彼女の表情にそれは全く見えない。自分の心配に振り回されている様子もない。その差が、たぶん、僕と彼女の間に横たわる埋められない距離なのだろう。つまり、お子様と大人、という意味だ。
僕のささやかな杞憂をよそに、彼女はすたすたと行ってしまった。
仕方なく、僕はジーンズだけ履いてベッドに腰掛ける。そこから窓を覗くと、駐車場に新たに二台の車が停められているのがわかった。どちらもくたびれた感じの車。こんな所に泊まりにくるのは、もしかしたら僕達と同じで、何かから逃げてきた連中なのかもしれない。不思議とそう思った。心なしか、夜空の闇が一層濃くなった気がする。
床に置きっぱなしだった拳銃に気づく。
それを拾い上げて、しばらく眺める。五発装填、二十二口径、少し錆びたシリンダーの、時代遅れのリボルバー。銃声は思っていたよりもたいしたことなかった。僕の手にもぴったり納まるサイズ。元の持ち主は、もうこの世にいない。皮肉なことに、彼の護身用の銃が、彼の命を奪った。
違う。
奪ったのは、引金を引いた僕の指と、僕の意思だ。
それ以外の何者でもない。
僕という人間が、この小さな道具に殺意と憎悪を込めて、弾を発射したのだ。
彼は、彼女の夫だった。
そして同時に、彼女の生命を危険に晒す凶暴な男だった。
それだけで、殺すのに充分だった。
それだけで、全てを投げ出すのに充分だった。
一切躊躇わずにやってのけられたのは、彼女を心から愛していたからだ。
あの男は、まだあのアパートのキッチンで倒れているのだろうか。
床に広がるあの夥しい量の血は、もう固まったのだろうか。
僕は、彼女の前で、あの男を撃ってみせた。
愛を示す為に。
生まれて初めて抱いた愛情を、表現する為に。
その感情は時として、言葉という信号では足りないほど、膨張してみせる。
この世の全てを犠牲にしてもいいと断言できるほど愛しい人。
両手いっぱいの花束を贈りたいと願える人。
誰にだって、そんな存在がいるはず。
僕の場合は、彼女だった。
僕が贈ったのは、花束じゃなくて、彼女自身の解放だった。
それだけの話だ。
それだけの、つまらない話だ。
拳銃を脇へと放る。壁に寄りかかり、前髪を掻き上げて目を瞑った。煙草の灰が崩れて腹の上に降ったけれど、気にはしない。そんなことを気にしている場合じゃない。
これから僕達はどうすればいいのだろう。
食事を済ませて、ベッドに潜り込んで、車に乗って、街へ入って、抜け出して。
それから、どうする?
どこへ、向かうのだ?
もう僕は、漫然と人生を彷徨える立場ではない。
逃げなければいけないのだ。
僕は目を開いて、現実の重みを忘れる為に、何となしに立ち上がる。煙草を灰皿で押し潰し、テレビが乗ったテーブルの引き出しを開けてみた。中には、誰かが使用した避妊具の残骸と分厚い聖書だけ。最低のジョークだ。迷うことなく引き出しを閉める。それも、やや強く。
テレビをつけてみたけれど、やっていたのは三秒でつまらないと判断できる類の映画だけだった。チャンネル数が異様に少ない。最高に馬鹿っぽい8ビートのロックンロールが聴きたかった。もしくは、鼠が蒸気船を操作する古臭いアニメでもいいし、くすぐり程度の笑いを誘うコメディドラマでもいい。けれど、そんな番組は見当たらない。僕は日頃からテレビというものをあまり信用していないけれど、やっぱり、この文明機器は僕の敵であるようだ。
仕方なく、ニュースを観る。本当はそれを真っ先に観るべきだったのだろうけど、やはり気は進まないし、観ても、今の僕達の状況が劇的に好転するわけでもない。
幸いにも、まだ僕達のことは報道されていなかった。つまり、遺体を発見されていないということ。検死を受けて現場を鑑識されれば、犯人が逃亡したと出回るはずだ。それも時間の問題だろうけど。公表していないだけで、警察が捜査を開始している可能性もある。
事件が発覚したら、どういう報道をされるのだろう。僕の写真や名前は出されるのだろうか。
いや、僕よりも、彼女は?
そう、彼女が一番危ない。間違いなく、彼女が疑われる。むしろ、僕の存在が捜査線上で早々に結び付くとは思えない。彼女が、本来潔白であるはずの彼女が、逃亡幇助だけでなく、殺人の罪に問われる可能性だってある。もちろん、僕がやったのは間違いないのだが、もし捕まって自供しても、それが事実として受け取られるとは到底思えない。
だって、僕はまだ子供なのだから。
内容がセンセーショナルすぎるし、そもそも警察や裁判といった公の場で、子供の言い分が理解されるとは到底思えない。大人には、子供の姿が目に映っても、子供の言うことには耳が全く反応しない人種というのが往々にして存在するのだ。それも、施設育ちで脱走中という札付きの小僧ならば尚更だ。
僕は、今更になって、ほんの少しだけ後悔した。
あの男を殺した事を悔いているわけではない。
ただ、浅はかすぎたのだ。
僕は、年上の彼女の為、子供なりに、必死に考えて実行した。
彼女の自由の為に。
しかし、結果的には悪い状況を招いてしまった。逃げ切れると楽観していた。少し考えればわかることじゃないか。大人というのは無能な生物ではない。むしろ、狡猾な生物なのだ。捕まれば、幇助罪で彼女は数年の懲役を受けるだろう。それも、僕の中で描く最上の希望的観測に過ぎないが。
溜息をつく。
自分のこの馬鹿さ加減が、後先考えない幼稚さが、憎い。憎んでも仕方がないのに。今夜の僕はどうも最低な仕上がりだ。
大人になりたい、と思った。
もっと早く生まれればよかったのだ。そして、もっと早くに彼女と出会うべきだった。彼女と同い年で、彼女が今の職業に就くよりもっと昔、彼女がまだ今の僕ほどの年齢の時代に出会えれば、きっと遥かにマシな未来になったはずなのだ。
引き出しに眠る、誰かの精子に汚れた聖書を思い出す。
神は、誰に対しても平等だ。
しかし、それは、全員が同じスタートラインに立っているという意味でも、人間的な価値が同じという意味でもない。
きっと、神はダイスを振っただろう。気だるげに。何人目ともつかぬ、人間の子供の為に。
そうして転がり出た目は、最悪の数字。
まぁ、出てしまったものは仕方ない。
神はそう溜息をついて。
そして、その最悪の目の下に生まれたのが、僕か、彼女か、それか僕達両方だったのだろう。
平等というのは、結局そんなものなんだ。
どうして、自分だけがこんな目に?
そう思わせる理不尽さこそが、平等という概念の罠。
誰もが、サイコロを転がした時にそう言うのだろう。
ああ、こんなはずではなかった、と。
何かの間違いだ、と。
自分の何が悪かったのだ、と。
それが、平等の正体だ。
そう、人間の意思など、平等という言葉の前では塵にも等しい。
僕達が平等と呼ぶものは。
決して抗えない、絶対的な運命の事だ。
僕達は、運命の、そして、平等という幻想の奴隷だ。
平等と公平は、全くの別物。
そして、どちらの概念も、人が生み出した幻想に過ぎない。
僕は、平等や公平を謳う神のことなど、けして信じない。
彼女が扉を開ける気配。
はっと我に返り、滅裂な思考を意識の隅に追いやる。指が勝手にテレビの電源を切った。
戻って来た彼女は、僕の呆けた顔を眺めて吹き出した。
「どうしたの?」 くすくすと笑う。 「神様に会ったみたいな顔してるわよ」
その冗談に、僕も遅れて吹き出してしまった。今夜の彼女は、なかなか悪くない仕上がりだった。
◇
夕飯は予想通り、宇宙食のようなレトルトだった。クリームソースのペンネとオムライスらしき卵料理。どちらも温めて調理するもので、とんでもなく不味かった。プラスチックの容器に包まれていたが、食材までプラスチックで出来ていたのかもしれない。コーラが飲めたのは幸いだったけれど。
彼女は缶ビール二本をあっという間に空けて、そしてあっという間に酔っ払った。冬の夕暮れのように早い移り変わりだった。
「こんな時でも酔えるもんなんだね、人間って」 彼女は缶ビールを握り潰しながら、しみじみと言った。
「そう考えるとアルコールってすごいね」 僕はオムライスの方をとっくに諦めて、時々ペンネだけ齧りながら答える。
「嫌なこととか、全部忘れさせてくれるもんね。そりゃ依存しちゃうわけだ」
彼女の顔に翳りが差す。僕達はビールとコーラを片手に、取り留めのないことを話し合っていたけれど、二日前のあの事だけは話題に上らなかった。車に乗って、住んでいた街を離れた時から、ずっとそうだった。二人で避けていたのだ。
「飲みたいんなら、もっと飲んでいいよ」
「わお、ボク、どこのバーでそんな言葉を覚えたの?」 彼女は愉快そうに笑い、煙草に火をつける。彼女の食事はとっくに終了していたようだ。 「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっと」
彼女は僕の膝元を軽々と飛び越え、冷蔵庫を開ける。扉を閉める前から缶の蓋を開けて、マラソン直後のような勢いでそれを飲んだ。僕は彼女の肝の太さを少し羨ましく思う。
「あぁ、生き返る」 彼女は溜息と一緒にそう言った。
「今まで死んでたの?」 僕は笑う。
「そういう揚げ足取り、わたし嫌い」
彼女はわざとらしく口を尖らせて、壁際にあった椅子を引っ張って座る。指に挟んだ煙草から灰が盛大に落ちたけれど、彼女は気にかける素振りさえ見せなかった。まぁ、絨毯は僕達の所有物じゃないからいいけれど。
「ねぇ、何か面白い話をしてよ」 彼女は突然言う。
「無いよ、面白い話なんか」
「施設を脱走して、ストリートで暮らしていた時のこと話してよ」
「何回も話したじゃないか」
「わたしの前に付き合っていた子のことを話して」
それはあまり良い思い出ではない。僕の場合、良い思い出なんてそうそうないのだが。
「ラテン系で、背が低くて、髪はブルネットで短い」
「わたしと正反対」
「僕の他に、二人の男と付き合っていた」
「あぁ、その辺は似てるかも」 彼女は肩を震わせて笑う。とろんと垂れた目は、崩れたプリンのように危うい印象。
「その他の男が僕の根城に乗り込んできて、頬をぶん殴られた」
「やり返さなかったの?」
「そいつは大人だったからね。トラックの運転手。腕だけで、僕の腰くらいあるんだよ、勝ち目なんか最初からない」
「そのラテン女は何歳だったの?」
「え? 僕と同い歳だけど。一年前だから、十三歳かな」
彼女は吹き出す。けらけらと、子供のように笑った。
「その子、相当のくせものだね」
「僕もそう思う」
「いや、君、人の事言えないでしょうが」
彼女は笑いすぎて浮かんだ涙を指で払いながら言う。いつもより、笑い方が大袈裟だった。単純に酔った為か、あるいは僕と同じで緊張している所為なのかもしれない。彼女の笑う顔を見るのが好きな僕は、それだけで満足だったけれど。
「ていうかさ……、君、こんなおばさんで本当にいいの?」
一通り笑い治めた彼女は、悪戯っぽい表情で言った。
それは、彼女と出会ってから何度も受けた質問だった。
「君は、おばさんなの?」 僕は尋ね返す。
「二十八はもうおばさんだよぉ。あんたのちょうど二倍じゃない。それこそ、犯罪になっちゃうよ」 彼女はビールをぐいっと傾ける。早くも空になったようだ。
「僕はもう犯罪者だから、今更どうでもいいよ」
「違うよ、わたしがだよ。十四歳に手ぇ出してるわたしが犯罪者になっちゃうの」
あぁ、確かに、それは困る、と感じた。もっとも、僕を連れて逃げている時点で彼女もとっくに罪を犯している身なのだけど。
「ごめん」 僕は謝る。本心からの謝罪だった。
「うそ、うそ。何でも真剣に受け取っちゃうんだからなぁ」
「でも君は、僕の歳で子供を産んだことがあるんだろう? それは犯罪?」
「うーん……、どうかな」 彼女は難題にぶつかったような顔を作る。 「うん、たぶん、それも犯罪だろうね。住んでた修道院、追い出されたし」
「どうして?」
「え?」
「どうして、それが罪になるの?」
「そんなの、わかんないよ」 彼女は鼻で笑い飛ばす。 「わかんないけど、悪いんだからしょうがないじゃない。世間がそう言うんだから」
そうだね、と僕はやや遅れて頷いた。その時の彼女の言い分には、容易に飲み下せないものがあったけれど、結局僕はその意見を自分の中で消化した。世の中は「しょうがない」という言葉で溢れている。今に始まった事ではないのだ。しょうがないことに固執するのは子供でしかない。
それから、彼女は自分の話をし始めた。それはベッドの中で何度も聞いた話だった。幼い頃から厳格なクリスチャンの家庭で育てられ、修道院に入れられたこと。そこで働いていた庭師の男と恋仲になり、子供を身籠ったこと。問題が発覚し、修道院から追い出され、男と二人で駆け落ちしたこと。生まれた子供を養う金も無く、死なせてしまったこと。それでも彼女は男を愛していたが、その男に騙されて売春宿に売られてしまったこと。何人もの男に抱かれ、何人もの男に裏切られたこと。聞く度に毎回細かい所が違っているが、大体は僕が知っている話だった。それ自体も嘘なのかもしれないけれど。
彼女はきっと、存在している証が欲しいのだ。だから、こんな話を僕に聞かせるのだろう。小さな子供が眠る時にクマのぬいぐるみを抱きしめるように、彼女も誰かに抱きしめられたいのかもしれない。あるいは、抱きしめたいのか。僕はぬいぐるみのようには従順になり切れないから、せめて話は聞いてあげるし、彼女が求めれば肌だって重ねる。
けれど、それでは足りないのだ。
それでは足りないほど空虚な夜を、彼女は過ごしてきたのだ。
自分が信じられなくなるほどの時間を、彼女は過ごしてしまったのだ。修道院で恋に落ちた時からか、子供を産んだ時からか、売春宿で働くようになった時からか。
僕はその虚無を知っている。
僕と彼女は似ている。
当然だ。だからこそ、こんなにも惹かれ合ったのだろう。
だからこそ、こんなにも純粋に、愛に身を焦がせたのだろう。
彼女が次のビールを漁っている間、僕は再び、これからの事を考えた。
僕達は、いつまで逃げ切れるのだろう。
ずっとこのままというわけにはいかない。
どこかで、区切りをつけなければいけないのだ。
警察へ出頭するか?
出頭すれば、罪はだいぶ軽くなるだろうか。
けれど……、それは、彼女の身も危険に晒してしまうことだ。
きっと、彼女には殺人罪を言い渡されてしまうだろう。
僕の勝手な行動の為に。
裁判所で、そして檻の中で項垂れる彼女の姿を、一瞬だけ想像した。
嫌だ。
それだけは、絶対に嫌だ。
捕まれば、幾千、いや、幾万もの悪意と好奇が彼女に降りかかるだろう。
彼女をそんな目に遭わせたくない。
そうなってしまったら、もう僕の手には負えなくなる。
あの男にしたように、全員を撃ち殺すなんて不可能なのだから。
ああ……、なんて、生き辛いのだろう、人生というのは。
そこまでして生きる価値が、本当にこの世界にあるのか?
何もかも醜く、汚く、そのくせ粘り着く。
泥沼だ。
そこまで考えて。
僕の目が、自然と拳銃へと向いた。
そうだ……。
まだ、その手があった。
いや、実を言えば、ずっと前からそれを考えていたのだけど。
僕の腕は、自然に、緩やかに、そちらへ伸びる。
「死ぬのは、なしだよ」
僕の顔が、弾かれたように上がった。
彼女はやや目を伏せて、煙草を銜えながら微笑んでいた。
とてもびっくりして、鼓動が疾駆していた。寝込みを襲われた猫がこんな感じなのかもしれない。どうしてわかったのだろう。
「わたし、どこか山に行きたいなぁ」 彼女は唄うように言う。 「アルプスみたいな、すごく長閑な草原で君と寝転びたい。そんな場所までさ、逃げてみようよ」
「うん」 僕の声は掠れていた。 「ごめん」
「可愛い」 彼女は煙草を口から離して微笑んだ。ビールはテーブルの上だった。 「おいで」
僕は素直に立ち上がり、座っている彼女に歩み寄って、抱きしめる。
ブラウスの奥に潜む彼女の体温。
それを認識した途端、発作のような衝動を覚え、彼女の唇に自分の口を当てていた。彼女はそれに応える。互いに目を瞑ったまま、己の意識の加速度に従い、手触りだけで相手を確かめる。
空調は、最初の頃に比べるとだいぶ素直になっていて、部屋は涼しかった。けれど、彼女の頬は汗に濡れていた。アルコールが入ったからだろう。息も熱くなっている。僕はその一滴すらも愛撫した。
薄く目を開けて、僕は驚く。
彼女は静かに泣いていた。
頬を伝っていたのは汗ではなく、涙だった。
顔を離して、無言のまま彼女を眺めた。彼女は目許を何度も擦って、必死に笑おうとするのだが、その試みの度に彼女の瞳からは新たに液体が滲み、表情は崩れた。彼女は俯き、僕の肩に頭を預ける。
「そうだよね……、無理だよね、逃げ切るなんてさ」 彼女は鼻を啜る。 「ずっとこのままってわけにはいかないよね」
「ごめん」 僕は彼女の頭を撫でた。 「僕の所為だね」
「ううん、違う、謝らないで」 彼女は頭を離して首を振る。 「あぁ、どうしたのかしら、わたし。本当、こんなはずじゃなかったのになぁ」
「よくあることだよ」
「何が?」 彼女は微笑んだ。もう泣いてはおらず、ただ涙の残骸が零れるばかりだった。
「こんなはずじゃないっていうのは、人生じゃよくあることだよ」
「子供のくせに」
彼女は僕の額に接吻した。
「もう、寝よう。疲れただろう」 僕は微笑んで、彼女を立たせた。
彼女は素直に頷いて、僕の手をしっかりと握ったまま、ベッドに潜り込んだ。照明を消してから、僕も彼女が空けてくれたスペースに身を滑り込ませる。間近で見る彼女の瞳は、まだ濡れて光っていた。薄闇の中でもそれがわかる。いつまでもそれを眺めていたかったけれど、彼女が瞼を閉じると、幻のようにその輝きは失われてしまった。
彼女に手を握られたまま、僕も目を閉じた。互いの呼吸が梟の声のように静かで、意識はすぐに遠のいていった。
◇
僕は助手席で目を覚ます。がくん、と車体が揺れたのとほぼ同時だった。
「あ、起きた?」
運転席に座る彼女は、ハンドルを握りながらこちらに微笑んだ。 「ずっと眠ってたね」
車窓の外は戸惑いを覚えるほど明るく、すぐに山道を走っているのだとわかった。開けた窓から入り込む風に少し薄さを感じたからだ。太陽は澄みきった青空の頂点にあり、暖かい陽射しを落としている。山道の右手に剥き出しの岩肌が迫り、左手にはなだらかな起伏の向日葵畑が広がっていて、鮮やかな黄色が眩しい。そうか、今は夏か、と思い出す。向日葵畑の遥か向こうには山脈の影が遠景となって連なっていた。
「これは、夢?」 僕は尋ねる。
「寝惚けてる」 彼女はくすくす笑った。 「しっかりしてよ」
あぁ、そうだ。
あれは、昔の風景。
昔の出来事を夢に見ていたのだ。
僕は気付いて、次にうずうずと身体が震えだすのを止められなかった。煙草を探したけれど見当たらない。そうだ、前の街で煙草を買うのを忘れてしまったのだ。だから、吸いたいのを我慢して眠っていたのだ。
「止めてくれ」
「え?」
「頼む」
「わ、わかった」
彼女は困惑してブレーキを踏む。車が停まるなり、僕はドアを開けて立ち上がった。目の前には向日葵が作る黄色い海原が広がっていた。深呼吸をすると、だんだん頭がすっきりしてくる。標高が高い為か、夏なのに風は冷たくて涼しく、吸い込んだ肺も程良く冷えた。あのモーテルの空調よりも遥かに涼しく、透き通った風だった。
モーテル?
僕は息を漏らして笑う。
ずいぶん、懐かしいな。
振り返ると、まだ車中で彼女が怪訝な顔をしていたので、僕は手招きした。彼女はおずおずと出てくる。夢の中での彼女と寸分違わぬ服装をしていたけれど、その顔に疲労の滲みはなかった。横風に靡く髪を手で押さえながら、僕に近寄る。
「どうしたの?」
「昔の夢を見た」 僕は遠くを見つめて答えた。
「昔って?」
「ほら、僕が君の男を殺した二日後くらいに、モーテルで泊まっただろ?」
「あぁ、あぁ、あったね。懐かしい」 彼女は目を細くして笑った。 「何年前だろ」
「君は、長閑な場所に行きたいって言っていた」
「言ったかなぁ」
「言ったんだよ」
僕は微笑み、彼女の手をそっと握った。彼女はぽかんとしていたが、すぐに優しく僕の手を握り返した。
「あの時は、無理だって思ってた。君もそう言って泣いていた。けど、見てみなよ。僕ら、こんな所まで来れたんだ」
彼女は頷き、僕と同じように一面の黄色い海原を眺め出した。
僕もそちらを眺め、雲ひとつない空を眺め、山脈を眺め、笑いだすのを止められなかった。僕達の他には誰もいない。街がある気配すらない。それが、何よりも素晴らしかった。この調子じゃ今日の宿を探し出せるか心配だったけど、構うもんか。何日だって野宿してやる。
僕は、隣の彼女へ振り向く。
知らない少女が、そこに立っていた。
えっ、と息をのみ込むのと同時に、僕は悟る。
あぁ、この子は、彼女だ。
彼女が、まだ子供だった頃の姿だ。
ブロンドの髪にも、高い鼻筋にも、頬の輪郭にも、彼女の面影があった。
あぁ、これが、僕の望んでいた世界か。
これは夢だ。
こっちが、夢なんだ。
僕は絶望する。
どうしてそう断言できたかって?
だって……、僕は、彼女のこの姿を知らないのだ。
彼女が子供だった頃、僕は、この世に生まれ落ちてもいないのだ。
僕は目を瞑り、蹲って、誰かに向かって懇願する。
この世界に、僕を残してくれ。
目を覚まさないでくれ。
このまま……、僕を殺してくれ。
けれど、恐る恐る目を開けた瞬間には、その夢は終わっていた。
◇
そんなに長くは眠っていなかったようだ。意識の感触からそれがわかる。しかし、僕の身体は発汗し、小刻みに震えていた。青空はそこに無く、暗い天井と空調の黴臭い風。身体に纏わりつく重力。窓から射し込む、不穏な微弱の明かり。モーテルの風景。
ゆっくり身を起こし、残っていたコーラを一口飲む。温くなっていた。僕の隣では彼女が眠っている。そう、大人の彼女だった。少女の頃の面影を残した、大人の女だった。
終わった、と直感した。
何かを無邪気に信じられていた時間が、終わりを告げた。言いかえれば、僕の中の子供らしさが死んだ。それが今、はっきりと、冷静にわかる。
僕はしばらく虚空の闇を見つめ、そして額を押さえて笑いを噛み殺す。
滑稽で、あまりにも、残酷。
結局、またここに戻って来てしまった。いや、ここから抜け出せなかったというのが正しいか。笑いを堪えているつもりだったけど、顔の筋肉が緩むことはけしてなかった。当然だ、面白くもないのに笑うことなどできやしない。
なぜ、僕は、生きているのだろう?
こんな場所で、なぜこんなにもちんけな生に縋っているのだ?
なぜ、命なんか大事にしなくちゃいけないんだ?
生まれたい、と乞うたか?
神の加護を求めたか?
人は、生きるという事の意味を求め過ぎている。
生まれた赤子は祝福を受ける。
死んだ老人には祈りが捧げられる。
本当は何でもないことなのに。
本当は、もっとまっさらで、美しいものだったのに。
それを穢して、汚して、醜く飾って、命を重くするのだ。
死なせない為に。
出し抜けを許さない為に。
生きる事も、死ぬ事も、本当は大して違いはないのに。
そうじゃないか。
こんな世界で怯えて生きて、それが本当に生きていると言えるのか?
半分死んでいるようなものだ。
だったら、もう、いっそのこと……。
僕は、疲れた。
慎重にベッドを抜け出す。僕達はまだ手を繋いだままだったけれど、そっと離しても彼女は起きなかった。その方がいい。彼女は何も悪くないのだから。
拳銃を拾い、ソファに腰掛ける。
これでまた、彼女を困らせることになるな。
辛いのは、いつだって残される側だ。
僕は微笑み、銃口をこめかみに当てた。固い感触。撃鉄を親指で起こした。かちり、とどこまでも響き渡るような乾いた音。その音で彼女が目を覚まさないか心配だったけれど、幸い彼女の身体は動かなかった。
僕は、何となく、撃ち殺したあの男のことを思い出す。
そして、ふと、気付いた。
違う。
あれで、あんな無駄な事で、愛を示したつもりになっていた。
全く違う。
別物だ。
あれは、ただ、僕の欲望の事象化にすぎなかった。
遊びのセックスなんかと同じことだ。
愛を本当に示したかったのなら。
あんな下らない男を、僕達の間に介入させるべきじゃなかった。
撃つべき相手は。
彼女だったのかもしれない。
あるいは。
僕が、彼女に撃たれるべきだったのかもしれない。
本当の恋人だったならば。
本当の他人だったならば。
僕は、そうしていたかもしれない。
少なくとも、彼女の夫を撃った後に、そうするべきだったのだ。
じゃあ、何が、僕を止めた?
道徳?
違う。
感情?
違う。
モラル?
違う。
きっと。
血だ。
血が、僕を止めたのだ。
なぜなら、彼女は、僕の……。
僕はまた笑いたくなったけれど、やっぱり顔は動かなかった。
その代わり、息を吸い込み、目を瞑る。
さぁ、これで終わり。
さようなら。
全ての愛よ。
全ての生よ。
僕には、君達が重すぎた。
願わくば彼女に幸あれ。
人差し指が。
引金を引く。
かちっ、とまた乾いた音。
ぶるっと銃口が震え。
シリンダーが回る感触。
発砲の幻想に、銃自身が目を覚ましたかのような。
僕は、止めていた息を再開し、ゆっくりと、拳銃を下ろす。
深く、溜息。
知っていたさ。
死ねないことなど、知っていた。
最初から、弾丸など入っていないのだ。
それはきっと、彼女のハンドバッグの中にある。
そう、彼女は、余計なほど親切なのだ。
胸の奥底から、何かが押し寄せてきて、息が詰まった。
熱い。
目の奥が熱を帯び出す。
きっと泣いているな、と思ったけれど、指を目許に当てると意外なほど乾いている。そうだ、哀しくもないのに、涙なんか流れやしない。感情が無ければ誰も笑わないし、誰も泣きやしないのだ。
何度も、何度も、引金をひいた。かちっ、かちっ、と撃鉄は起き上がり、シリンダーは回り続ける。
そうしている内に、彼女が起き出した。僕が拳銃を握っているのを見るや否や、豹のようにベッドから跳ね上がり、悲鳴を上げながら僕の頬を平手で打った。弾丸が入っていないのを知っているくせに、拳銃を弾くように取り上げる。
茫然としている僕の身体を、彼女が抱きしめた。僕自身はいたって冷静なのに、彼女はそれこそ、まるで子供のように嗚咽していた。僕の肩に顔を埋めながら何か言っているが、聞き取れない。
僕は力無く彼女を抱き返し、打たれた頬の痛みを噛みしめながら、ぽつぽつと昔の話を聞かせてやった。物心つく前に捨てられ、親の顔を知らないこと。施設での酷い暮らし。飼っていた犬の特徴。初めて観たポルノ映画。脱走した冬の夜の凍えるような寒さ。不良児のグループに入って好き勝手やったこと。売春宿で出会った親切な女と、彼女を苦しめる男の存在。初めて撃った拳銃の感触。
何度も何度も、聞かせてやった話。
「ねぇ」 僕は泣き続ける彼女の耳元にそっと囁く。 「さっき、君が話してくれたことには嘘が混じっていたよね?」
「うん」 彼女は震えた声で答えた。
その嘘はきっと、彼女が望んでいたことなのだろう。
だから、僕は、否定しなかった。
僕は、生きているよ。
生き延びてしまったんだよ、と。
二人でそれに気付きながら。
共鳴しながら。
目を背け続けたのだ。
「僕を産んだ時、君はどう感じたの?」
「嬉しかったよ」 彼女は涙を拭いながらも微笑んだようだ。 「今まで生きてきた中で、一番嬉しかったよ」
彼女は涙で濡れたまま、僕に頬擦りする。おかげで僕の頬も濡れてしまったけれど、気にはしなかった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉は、きっと、何よりも正直な言葉。
僕は、ずっと年上の、最も愛しい女の身体を抱き寄せる。そうして、彼女の温もりを抱きしめながら、僕は夢を見た。
それは、ここから遠く離れた、何処かの風景。
そう、全ての清算を終えた後、僕達は草原へと出かけているのだろう。向日葵畑かもしれない。とにかく、長閑な場所。
そこにはモーテルもなければ、拳銃も、聖書もない。
青空の下で、爽やかな風に吹かれながら、彼女はきっと、僕を待っているのだろう。
そしたら、彼女に、花束を贈ろう。
そして、プラカードにはこう記すのだ。
世界で一番愛しいあなたへ、僕から。
彼女はきっと僕を待ってくれるし、僕も彼女をずっと待っているだろう。
そして、出会った時には。
また手を繋ぐのだ。
世界で一番愛しい女性と共に。
この汚れた世界から逃げ続けてやるのだ。
後書き
未設定
|
読了ボタン
button design:白銀さん Thanks!読了:小説を読み終えた場合クリックしてください。
読中:小説を読んでいる途中の状態です。小説を開いた場合自動で設定されるため、誤って「読了」「読止」押してしまい、戻したい場合クリックしてください。
読止:小説を最後まで読むのを諦めた場合クリックしてください。
※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。
自己評価
感想&批評
作品ID:478投稿室MENU | 小説一覧 |
住民票一覧 |
ログイン | 住民登録 |