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作品ID:496
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約5881文字 読了時間約3分 原稿用紙約8枚
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The Fairest Of The Season
作品紹介
檻、親友、雪の降る季節 原曲・NICO
どれだけの時間をここで過ごしたのか、もうすっかり忘れてしまった。彼女がこの閉じられた世界に来るまで、わたしは時間という概念すら忘れてしまっていた。
格子の外に広がるのは不毛な砂の大地と無愛想なコンクリートの建物。時折、荘厳な鐘の音が響き渡る。この世界を支配する神の咆哮かもしれない。あるいは、欠伸みたいに間抜けなものかもしれない。長年ここに囚われているわたしにとって、それはもう外界に満ちる自然の一つでしかない。陽射し、風、時々の雷雨、それらと同類的なものでしかなかった。
新参者の彼女は格子の間に頭を挟み入れ、珍しそうにその鐘に聞き入っていた。
「綺麗な音色」 彼女はうっとりした顔で言った。 「あの鐘の音は何?」
しかし、誰も返事をしない。彼女は頬を膨らませて、そっぽを向く様にまた外へ目を戻した。
ここに囚われた者は、わたしと同様に他への関心を失くしていく。言葉を忘れ、感情もやがては意味を失い、時間が凍りつき、命は硬化して麻痺する。与えられる食事を済まし、排泄を済まし、睡眠を貪り、そして死への到達をただ静かに待つ。そんなわたし達にとって、好奇心旺盛に振る舞う彼女はまるで異質な存在に映った。しかし、それは映るだけで何の感慨も生みはしない。やがては彼女も、わたし達と同じようになる。皆それをわかりきっているから無駄なことなどしないのだ。
ところが彼女は、わたし達の予想を裏切っていつまでも活発にあり続けた。彼女の瞳から輝きが失われたことは一度たりともなかったし、木偶人形のように蹲るわたし達に飽きることもなく声をかけ続けた。特に、何が気に入ったのか、やたらとわたしに対して親密な態度を取ってくる。あれは何、これは何、とわからないことがあるとすぐさまわたしに訊ねるのだ。最初のうちは無視していたが、あまりにしつこいのでわたしは彼女に対して苛立ちを感じ、そして、その苛立つ自分にとても驚いた。まだ、感情が残っていたのか、と。
わたしは言葉少なに彼女へ回答を送り、彼女は満足げな微笑みをわたしに返す。その瞬間からわたしの中では時間が逆巻く様に戻り、命が温度を持ち始めた。徐々に、そして確実に。彼女の話に耳を傾けながら食事をし、彼女と会話をしながらまどろむ夜を過ごす。そうしているうちに、わたしはすっかり彼女を好きになった。生まれて初めての友達。かけがえの無い存在なのだと心の底から思えた。
彼女は雪の降る季節を好んだ。何もかもが真っ白に染まる景色が美しいのだという。けれど、わたしはそれほどの量の降雪を見たことがない。なぜなら、その季節になると、わたし達が凍死しないよう格子の隙間に板が打ちつけられ、外の景色が遮られてしまうからだ。わたし達が積もるほどの雪の存在を知るのは、板の向こうから滲み寄ってくる厳しい冷気に触れる時だけだ。彼女は残念そうに項垂れる。わたしはその姿に嫉妬すら覚える。その時には、彼女の感情表現の豊かさが羨ましいと思えるほどまでに、わたしの心は融けていたのだ。
「でも、ボク、寒いのも好き」
「なぜ?」 わたしは短く尋ねる。
「寒いと凍えちゃうけど、でもその分、自分の身体の温かさがわかって、生きてるって気がするの。それがわかるのが好き」
不思議な子だと思った。でも、そんなのはとっくにわかっていること。
わたしと彼女は並んで壁際に座り込み、取り留めもない話を続ける。
「キミは、外に出たくない?」
「さぁ……」 わたしは首を傾げる。事実、その願望を持ち合わせているのかどうか、自分でも不明瞭だった。
「ずっとここにいるつもりなの?」
「どうかしらね。嫌かもしれない。けど、ここから出られるわけないから、どっちにしたって意味がないわ」
「そんなの、努力次第だよ。ボク、ちゃんと脱走する為に努力しているんだから」
「そうなの?」 わたしは少し驚く。 「あなたは外に出たいのね?」
「もちろん。いつかお父さんとお母さんが待つ故郷に戻りたい。雪が降ったら一面真っ白になる所だよ。すごく綺麗なんだ。ここと違って、食べる為に働かなくちゃいけないけど、良い所だよ。キミも行こうよ」
「わたしは……」 言い淀んで、目を逸らす。
とても素敵だという想像はできた。
そして、絶対に無理だなという予想もできた。
「それにさ」 彼女はうきうきとした口調で言った。 「外はきっと楽しいと思う。知らないものが沢山あると思うの。耳を澄ましてみて。色んな音が外から聴こえるでしょ? あれが何か、知りたくない?」
わたしは呼吸すら止めて、懸命に格子の外へ耳を澄ます。けれど、何も聞こえてはこなかった。彼女が何のことを言っているのかわからず、振り返ろうとした時、唐突に鐘の音が轟いた。わたしは驚いて跳ね上がる。彼女は腰を上げて、待ち詫びたというように牢獄の片隅へ向かい、そこに蹲った。
「どうしたの?」 わたしはおずおずと彼女に尋ねる。
「十五回目の鐘」 彼女は声を潜めて答えた。内緒の響きが愉しげだった。 「朝起きてからちょうど十五回目の鐘。あの鐘が鳴ったら、食事を運ぶ人も掃除する人も来なくなるでしょ。ボク、それを見計らって、毎日少しずつやってるの」
彼女は地面の一部に当てがわれた板を難儀そうに動かし、その下にある湿り気のある土に手を触れ、脇目も振らずに掘り出した。土は少し盛られた形跡があって、彼女が前日まである程度まで掘ってまた埋めたことを示していた。穿った穴を隠したという感じだ。
その作業を時々目にすることはあったが、過去に気が狂った者がそうしているのを見たことがあったので、わたしは今日まで尋ねなかった。しかし、彼女の話を聞いた後とあっては、否が応でも興味を駆りたてられる。鼓動が僅かに躍動するのを感じた。それもずいぶん久しぶりのことだ。
「それって、もしかして……」
「そうだよ、穴を掘って、ここから抜け出すの」 彼女はにっこり笑う。
「無理よ。素手で、何年かかると思っているの?」
「ううん、最初から、ある程度まで穴が掘られた跡があるの。たぶん、前までここにいた人がやったんだね。ボク、それを偶然に見つけてさ。穴掘りは得意じゃないけど、でも、たぶん毎日やれば来年には何とかなると思う」
来年、というのがいつのことなのかわたしにはわからなかったが、近い将来なのだということはわかった。わたしは背筋がちりちりとするのを感じた。望む事すらなくなっていたはずの夢が、そこまで迫っているのを感じた。
「わたしも、手伝っていい?」 わたしは申し出る。
「うん、いいよ」 彼女は何の恐れも見せない表情で頷いた。 「一緒に逃げよ」
板床の底で穴を掘るわたし達を周囲の者達は物憂げに眺めていたが、数時間もすれば誰も見向きもしなくなった。わたしも、冷たい土を掻き分けている間は周囲を、つまり牢獄の景色をできるだけ眺めないようにした。そちらに目を向ければまた、自分の内側に残る何かが奪われてしまいそうな気がしたのだ。
雪が解け、格子を塞ぐ板が取り外されてからも、わたし達の作業は続いた。毎日、休みなくそれを繰り返し、たまに食事をして、水を飲み、労働の後の心地良い溜息を吐きながら彼女との会話を楽しんだ。くたくたに疲れきって二人で横になっている時、ふと格子の隙間から覗く夜空の星や月を見上げ、その美しさに勇気づけられたりした。わたしはもうすっかり、それらを美しく感じることができていた。月の光に触れて神秘と物寂しさを覚え、星の瞬きに愛しく微笑むことができた。
彼女には、感謝しても感謝しきれない。
わたしに命を吹き込み、時間を戻し、心に温もりを与えてくれた。彼女と出逢わなければ、もしかしたらわたしは死ぬまで抜殻のように生きていたのかもしれないのだ。それを考えるのは恐ろしい。無味で乾燥しきった生を終えるくらいなら、たとえ辛くても、足掻きに思えても、自分を見失わずに生きた方が遥かにマシなのだ。彼女はそれを教えてくれた。つまり……、生きる事の希望を、彼女はわたしに教えてくれたのだ。
陽の眩しさを。
風の心地良さを。
月の寂しさを。
星の可愛さを。
自分の身体の温もりを。
そして……、素敵な友人の存在を。
わたしに教えてくれたのだ。
けれど。
彼女はもう一つだけ、わたしに残していった。
それが、生きる上でどうしても避けられないもの。
希望の反義。
つまり、絶望だ。
暑い季節が終わり、虫の音がひと際高くなる頃、彼女は病に倒れた。十五回目の鐘が鳴り終わり、二人でいつものように穴を掘っている時のことだ。
それは、牢獄の不衛生な環境によって発症する病気で、彼女の他にも何人かが倒れた。過去にその病気の脅威を目の当たりにしたことがあるわたしにとって、それは救いようのない絶望的な宣告にも思えた。彼女は苦しげな息遣いをし、床に伏したまま、何度か痙攣を繰り返した。わたしはどうすることもできず、格子の外に向かって誰かに助けを求めたが、あの鐘の後に誰かがやってくるなどあり得ないということを、わたしは怖いくらいにわかっていた。発症していない者達は一様に壁際に下がり、ぼんやりした眼差しで病人達を眺めるだけだった。正気なのは、わたしだけしかいない。
「お願い、死なないで」 わたしは彼女の手を握って懇願した。
「死にたくない」 彼女は薄ら目を開けて首を振った。その紅い瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちた。 「嫌だよ。もうすぐだったのに、こんな所で死にたく、ない」
気付くと、わたしの目からも雫が垂れていた。視界はぼやけ、彼女の苦しげな表情も輪郭が定まらない。胸が痛くて、目を拭って彼女の顔を見つめる度、その痛みはさらに増した。こんなに苦しいのは初めてだった。
「二人で一緒に逃げるのよ」 わたしは彼女に囁くように言う。
「そう、だよ。ボク、キミと一緒に逃げる。一面の雪を見せてあげるの。故郷に連れて行ってあげる。素敵な場所だよ」 彼女は微笑んだ。そして、一層涙が溢れる。 「ああ……、お父さん、お母さん」
「会えるよ。会えるから、死んじゃだめ」
彼女の荒い呼吸がふと治まった。微笑みが失せて、茫洋とした顔付きになる。
「ねぇ、聴こえる?」
「え?」
「ほら……、あの音は何だろ。地響きかな。ほら、もう一つ、擦れるような音も……、ああ、鳥かも。それとも草のざわめきかなぁ。風が強いんだね。水の音も聴こえるよ。知らない音も聴こえる。何だろう……」
わたしは耳を澄ませる。けれど、やっぱり何も聞こえない。彼女にはいったい、何が聞こえているのだろう。
その時、わたしは唐突に悟った。彼女はわたしと違って、外の世界を知っているのだ。わたしがとうに忘れてしまったものを、彼女はまだ覚えているのだ。外での生き方を……、何かを知ろうとする意志が彼女にはあるのだ。
つまり、それが、生きるということ。
わたしがまだ遠く及ばない意志。
彼女は、存分に、生きていたのだ。
生きようとしていたのだ。
まっさらな存在、それが、彼女だった。
彼女という、かけがえのない、一つの生命だった。
閉塞された場に留まるわたしは、まだスタートラインにも立っていなかった。
それが、はっきりとわかった。
生きたい、という強い願いが。
ようやく、わたしの中に生まれた。
わたしの涙が彼女の顔に降る。
彼女はもう動かない。
あの紅い綺麗な瞳が現れることも、もうない。
それは安らかな、寝顔のような死顔だった。
「ありがとう」
わたしは彼女へ語りかける。
何度も何度も感謝を繰り返し、それでもまだ足りなかった。
陽が沈み、辺りが闇に包まれても、淡い月光が射しても、再び燃えるような朝陽が昇っても、わたしは彼女の傍を離れなかった。
やがて、建物から様子を見に来た監視員が、彼女を始めとする息絶えた者達を無造作に掴んで出ていった。わたしは力無くそれを眺め、彼女の生とはいったい何だったのだろうと幾度も考えた。
答えは出ない。
けれど、答えを求めることはできる。残されたわたしは、その答えを求める。
それからも毎日、十五回目の鐘を待ち、わたしは穴を掘り続けた。労力は減ってしまったが、けれど、ゴールまであとわずかだということはわかっていた。
そして、ついに、ある肌寒い日にわたしは穴を開通させた。それは潜り込んで一歩二歩進めばくぐり抜けられるような、浅く短い穴だった。けれど、それだけの規模の脱出口を、わたしは来る日も来る日も夢見ていたのだ。
穴は壁のすぐ外の地表に繋がっている。雪はまだ降っていなくて、向こうの穴から光が射しこんでいるのが見えた。わたしはひりひりする掌の痛みも忘れ、突き上げられるような歓喜に身を震わせ、最後に牢獄を見渡した。薄暗い部屋の囚人達は興味が無さそうに全員俯いている。彼女達がこの穴から出るかどうかは、彼女達の判断に任せることにする。
もう、ここには戻って来ないのだな、という予感があった。外ではここより遥かに危険なことが待ち構えているという懸念もあった。けれど、戻りはしない。この自由への道は、彼女がその生命を尽くして、わたしに繋いでくれたものなのだから。
穴をくぐって顔を出すと、やっぱり風が冷たかった。けれど、わたしは目を瞠り、初めての外の世界に圧倒された。寂莫とした砂の大地の背後には深い杉林が迫っていて、小さな虫が忙しく飛び交っていた。踏み締める草の感触は柔らかく、陽射しを受けて暖かい。わたしの背丈を越える草がそこらに生え並び、まさに未知へと続く景色だった。
わたしは、これから、戦わなくてはならない。
危険も安心もなかったあの牢獄から抜け出した今、わたしは、自分で自分を生かさなければならないのだ。けれど、それはきっと、辛いことではない。本当に辛いことは、何も考えず、何も感じずに生を貪るということなのだから。
いつか、彼女の言っていた景色を見ようと思う。一面の雪化粧。それはきっと、何物にも勝って美しいに違いない。あの美しい季節まで、わたしは生き延びてみせる。
わたしは長年萎れさせていた耳を、ぴん、と張り詰める。彼女がやっていたように、わたしは、わたしがいるのと同じ世界に満ちる生命の音に耳を傾ける。素晴らしく鮮やかな、一つの音楽のような音色が、一気に聴こえてきた。
格子の外に広がるのは不毛な砂の大地と無愛想なコンクリートの建物。時折、荘厳な鐘の音が響き渡る。この世界を支配する神の咆哮かもしれない。あるいは、欠伸みたいに間抜けなものかもしれない。長年ここに囚われているわたしにとって、それはもう外界に満ちる自然の一つでしかない。陽射し、風、時々の雷雨、それらと同類的なものでしかなかった。
新参者の彼女は格子の間に頭を挟み入れ、珍しそうにその鐘に聞き入っていた。
「綺麗な音色」 彼女はうっとりした顔で言った。 「あの鐘の音は何?」
しかし、誰も返事をしない。彼女は頬を膨らませて、そっぽを向く様にまた外へ目を戻した。
ここに囚われた者は、わたしと同様に他への関心を失くしていく。言葉を忘れ、感情もやがては意味を失い、時間が凍りつき、命は硬化して麻痺する。与えられる食事を済まし、排泄を済まし、睡眠を貪り、そして死への到達をただ静かに待つ。そんなわたし達にとって、好奇心旺盛に振る舞う彼女はまるで異質な存在に映った。しかし、それは映るだけで何の感慨も生みはしない。やがては彼女も、わたし達と同じようになる。皆それをわかりきっているから無駄なことなどしないのだ。
ところが彼女は、わたし達の予想を裏切っていつまでも活発にあり続けた。彼女の瞳から輝きが失われたことは一度たりともなかったし、木偶人形のように蹲るわたし達に飽きることもなく声をかけ続けた。特に、何が気に入ったのか、やたらとわたしに対して親密な態度を取ってくる。あれは何、これは何、とわからないことがあるとすぐさまわたしに訊ねるのだ。最初のうちは無視していたが、あまりにしつこいのでわたしは彼女に対して苛立ちを感じ、そして、その苛立つ自分にとても驚いた。まだ、感情が残っていたのか、と。
わたしは言葉少なに彼女へ回答を送り、彼女は満足げな微笑みをわたしに返す。その瞬間からわたしの中では時間が逆巻く様に戻り、命が温度を持ち始めた。徐々に、そして確実に。彼女の話に耳を傾けながら食事をし、彼女と会話をしながらまどろむ夜を過ごす。そうしているうちに、わたしはすっかり彼女を好きになった。生まれて初めての友達。かけがえの無い存在なのだと心の底から思えた。
彼女は雪の降る季節を好んだ。何もかもが真っ白に染まる景色が美しいのだという。けれど、わたしはそれほどの量の降雪を見たことがない。なぜなら、その季節になると、わたし達が凍死しないよう格子の隙間に板が打ちつけられ、外の景色が遮られてしまうからだ。わたし達が積もるほどの雪の存在を知るのは、板の向こうから滲み寄ってくる厳しい冷気に触れる時だけだ。彼女は残念そうに項垂れる。わたしはその姿に嫉妬すら覚える。その時には、彼女の感情表現の豊かさが羨ましいと思えるほどまでに、わたしの心は融けていたのだ。
「でも、ボク、寒いのも好き」
「なぜ?」 わたしは短く尋ねる。
「寒いと凍えちゃうけど、でもその分、自分の身体の温かさがわかって、生きてるって気がするの。それがわかるのが好き」
不思議な子だと思った。でも、そんなのはとっくにわかっていること。
わたしと彼女は並んで壁際に座り込み、取り留めもない話を続ける。
「キミは、外に出たくない?」
「さぁ……」 わたしは首を傾げる。事実、その願望を持ち合わせているのかどうか、自分でも不明瞭だった。
「ずっとここにいるつもりなの?」
「どうかしらね。嫌かもしれない。けど、ここから出られるわけないから、どっちにしたって意味がないわ」
「そんなの、努力次第だよ。ボク、ちゃんと脱走する為に努力しているんだから」
「そうなの?」 わたしは少し驚く。 「あなたは外に出たいのね?」
「もちろん。いつかお父さんとお母さんが待つ故郷に戻りたい。雪が降ったら一面真っ白になる所だよ。すごく綺麗なんだ。ここと違って、食べる為に働かなくちゃいけないけど、良い所だよ。キミも行こうよ」
「わたしは……」 言い淀んで、目を逸らす。
とても素敵だという想像はできた。
そして、絶対に無理だなという予想もできた。
「それにさ」 彼女はうきうきとした口調で言った。 「外はきっと楽しいと思う。知らないものが沢山あると思うの。耳を澄ましてみて。色んな音が外から聴こえるでしょ? あれが何か、知りたくない?」
わたしは呼吸すら止めて、懸命に格子の外へ耳を澄ます。けれど、何も聞こえてはこなかった。彼女が何のことを言っているのかわからず、振り返ろうとした時、唐突に鐘の音が轟いた。わたしは驚いて跳ね上がる。彼女は腰を上げて、待ち詫びたというように牢獄の片隅へ向かい、そこに蹲った。
「どうしたの?」 わたしはおずおずと彼女に尋ねる。
「十五回目の鐘」 彼女は声を潜めて答えた。内緒の響きが愉しげだった。 「朝起きてからちょうど十五回目の鐘。あの鐘が鳴ったら、食事を運ぶ人も掃除する人も来なくなるでしょ。ボク、それを見計らって、毎日少しずつやってるの」
彼女は地面の一部に当てがわれた板を難儀そうに動かし、その下にある湿り気のある土に手を触れ、脇目も振らずに掘り出した。土は少し盛られた形跡があって、彼女が前日まである程度まで掘ってまた埋めたことを示していた。穿った穴を隠したという感じだ。
その作業を時々目にすることはあったが、過去に気が狂った者がそうしているのを見たことがあったので、わたしは今日まで尋ねなかった。しかし、彼女の話を聞いた後とあっては、否が応でも興味を駆りたてられる。鼓動が僅かに躍動するのを感じた。それもずいぶん久しぶりのことだ。
「それって、もしかして……」
「そうだよ、穴を掘って、ここから抜け出すの」 彼女はにっこり笑う。
「無理よ。素手で、何年かかると思っているの?」
「ううん、最初から、ある程度まで穴が掘られた跡があるの。たぶん、前までここにいた人がやったんだね。ボク、それを偶然に見つけてさ。穴掘りは得意じゃないけど、でも、たぶん毎日やれば来年には何とかなると思う」
来年、というのがいつのことなのかわたしにはわからなかったが、近い将来なのだということはわかった。わたしは背筋がちりちりとするのを感じた。望む事すらなくなっていたはずの夢が、そこまで迫っているのを感じた。
「わたしも、手伝っていい?」 わたしは申し出る。
「うん、いいよ」 彼女は何の恐れも見せない表情で頷いた。 「一緒に逃げよ」
板床の底で穴を掘るわたし達を周囲の者達は物憂げに眺めていたが、数時間もすれば誰も見向きもしなくなった。わたしも、冷たい土を掻き分けている間は周囲を、つまり牢獄の景色をできるだけ眺めないようにした。そちらに目を向ければまた、自分の内側に残る何かが奪われてしまいそうな気がしたのだ。
雪が解け、格子を塞ぐ板が取り外されてからも、わたし達の作業は続いた。毎日、休みなくそれを繰り返し、たまに食事をして、水を飲み、労働の後の心地良い溜息を吐きながら彼女との会話を楽しんだ。くたくたに疲れきって二人で横になっている時、ふと格子の隙間から覗く夜空の星や月を見上げ、その美しさに勇気づけられたりした。わたしはもうすっかり、それらを美しく感じることができていた。月の光に触れて神秘と物寂しさを覚え、星の瞬きに愛しく微笑むことができた。
彼女には、感謝しても感謝しきれない。
わたしに命を吹き込み、時間を戻し、心に温もりを与えてくれた。彼女と出逢わなければ、もしかしたらわたしは死ぬまで抜殻のように生きていたのかもしれないのだ。それを考えるのは恐ろしい。無味で乾燥しきった生を終えるくらいなら、たとえ辛くても、足掻きに思えても、自分を見失わずに生きた方が遥かにマシなのだ。彼女はそれを教えてくれた。つまり……、生きる事の希望を、彼女はわたしに教えてくれたのだ。
陽の眩しさを。
風の心地良さを。
月の寂しさを。
星の可愛さを。
自分の身体の温もりを。
そして……、素敵な友人の存在を。
わたしに教えてくれたのだ。
けれど。
彼女はもう一つだけ、わたしに残していった。
それが、生きる上でどうしても避けられないもの。
希望の反義。
つまり、絶望だ。
暑い季節が終わり、虫の音がひと際高くなる頃、彼女は病に倒れた。十五回目の鐘が鳴り終わり、二人でいつものように穴を掘っている時のことだ。
それは、牢獄の不衛生な環境によって発症する病気で、彼女の他にも何人かが倒れた。過去にその病気の脅威を目の当たりにしたことがあるわたしにとって、それは救いようのない絶望的な宣告にも思えた。彼女は苦しげな息遣いをし、床に伏したまま、何度か痙攣を繰り返した。わたしはどうすることもできず、格子の外に向かって誰かに助けを求めたが、あの鐘の後に誰かがやってくるなどあり得ないということを、わたしは怖いくらいにわかっていた。発症していない者達は一様に壁際に下がり、ぼんやりした眼差しで病人達を眺めるだけだった。正気なのは、わたしだけしかいない。
「お願い、死なないで」 わたしは彼女の手を握って懇願した。
「死にたくない」 彼女は薄ら目を開けて首を振った。その紅い瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちた。 「嫌だよ。もうすぐだったのに、こんな所で死にたく、ない」
気付くと、わたしの目からも雫が垂れていた。視界はぼやけ、彼女の苦しげな表情も輪郭が定まらない。胸が痛くて、目を拭って彼女の顔を見つめる度、その痛みはさらに増した。こんなに苦しいのは初めてだった。
「二人で一緒に逃げるのよ」 わたしは彼女に囁くように言う。
「そう、だよ。ボク、キミと一緒に逃げる。一面の雪を見せてあげるの。故郷に連れて行ってあげる。素敵な場所だよ」 彼女は微笑んだ。そして、一層涙が溢れる。 「ああ……、お父さん、お母さん」
「会えるよ。会えるから、死んじゃだめ」
彼女の荒い呼吸がふと治まった。微笑みが失せて、茫洋とした顔付きになる。
「ねぇ、聴こえる?」
「え?」
「ほら……、あの音は何だろ。地響きかな。ほら、もう一つ、擦れるような音も……、ああ、鳥かも。それとも草のざわめきかなぁ。風が強いんだね。水の音も聴こえるよ。知らない音も聴こえる。何だろう……」
わたしは耳を澄ませる。けれど、やっぱり何も聞こえない。彼女にはいったい、何が聞こえているのだろう。
その時、わたしは唐突に悟った。彼女はわたしと違って、外の世界を知っているのだ。わたしがとうに忘れてしまったものを、彼女はまだ覚えているのだ。外での生き方を……、何かを知ろうとする意志が彼女にはあるのだ。
つまり、それが、生きるということ。
わたしがまだ遠く及ばない意志。
彼女は、存分に、生きていたのだ。
生きようとしていたのだ。
まっさらな存在、それが、彼女だった。
彼女という、かけがえのない、一つの生命だった。
閉塞された場に留まるわたしは、まだスタートラインにも立っていなかった。
それが、はっきりとわかった。
生きたい、という強い願いが。
ようやく、わたしの中に生まれた。
わたしの涙が彼女の顔に降る。
彼女はもう動かない。
あの紅い綺麗な瞳が現れることも、もうない。
それは安らかな、寝顔のような死顔だった。
「ありがとう」
わたしは彼女へ語りかける。
何度も何度も感謝を繰り返し、それでもまだ足りなかった。
陽が沈み、辺りが闇に包まれても、淡い月光が射しても、再び燃えるような朝陽が昇っても、わたしは彼女の傍を離れなかった。
やがて、建物から様子を見に来た監視員が、彼女を始めとする息絶えた者達を無造作に掴んで出ていった。わたしは力無くそれを眺め、彼女の生とはいったい何だったのだろうと幾度も考えた。
答えは出ない。
けれど、答えを求めることはできる。残されたわたしは、その答えを求める。
それからも毎日、十五回目の鐘を待ち、わたしは穴を掘り続けた。労力は減ってしまったが、けれど、ゴールまであとわずかだということはわかっていた。
そして、ついに、ある肌寒い日にわたしは穴を開通させた。それは潜り込んで一歩二歩進めばくぐり抜けられるような、浅く短い穴だった。けれど、それだけの規模の脱出口を、わたしは来る日も来る日も夢見ていたのだ。
穴は壁のすぐ外の地表に繋がっている。雪はまだ降っていなくて、向こうの穴から光が射しこんでいるのが見えた。わたしはひりひりする掌の痛みも忘れ、突き上げられるような歓喜に身を震わせ、最後に牢獄を見渡した。薄暗い部屋の囚人達は興味が無さそうに全員俯いている。彼女達がこの穴から出るかどうかは、彼女達の判断に任せることにする。
もう、ここには戻って来ないのだな、という予感があった。外ではここより遥かに危険なことが待ち構えているという懸念もあった。けれど、戻りはしない。この自由への道は、彼女がその生命を尽くして、わたしに繋いでくれたものなのだから。
穴をくぐって顔を出すと、やっぱり風が冷たかった。けれど、わたしは目を瞠り、初めての外の世界に圧倒された。寂莫とした砂の大地の背後には深い杉林が迫っていて、小さな虫が忙しく飛び交っていた。踏み締める草の感触は柔らかく、陽射しを受けて暖かい。わたしの背丈を越える草がそこらに生え並び、まさに未知へと続く景色だった。
わたしは、これから、戦わなくてはならない。
危険も安心もなかったあの牢獄から抜け出した今、わたしは、自分で自分を生かさなければならないのだ。けれど、それはきっと、辛いことではない。本当に辛いことは、何も考えず、何も感じずに生を貪るということなのだから。
いつか、彼女の言っていた景色を見ようと思う。一面の雪化粧。それはきっと、何物にも勝って美しいに違いない。あの美しい季節まで、わたしは生き延びてみせる。
わたしは長年萎れさせていた耳を、ぴん、と張り詰める。彼女がやっていたように、わたしは、わたしがいるのと同じ世界に満ちる生命の音に耳を傾ける。素晴らしく鮮やかな、一つの音楽のような音色が、一気に聴こえてきた。
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