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作品ID:514
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約9934文字 読了時間約5分 原稿用紙約13枚
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ウェット・サンド・メモリアル
作品紹介
潮騒、喪失、彼、わたし。
海岸線に沿って歩いていくと、やがてガードレールの下に砂浜が現れた。明方に降った雨のせいで表面は黒ずみ、陰鬱な湿り気を醸し出している。素足で歩けば足裏に泥のような砂が纏わりついてくるだろう。けれど、わたしは立ち入り禁止を主張する鎖を跨ぎ、防波堤の階段を下りて、そちらに踏み込んでいった。
予想通り砂の踏み心地は冷たく、ぶよぶよしていて気持ちが悪い。夏はとうに過ぎ去っているから余計に白々しい感触だ。しかし、後悔するほど嫌なものでもない。たまにはこういった趣向も悪くないだろう。海も砂浜も、夏だけに存在しているわけではないのだ。
空は昨晩の曇天を引き摺って未だ薄暗く、切れ目のない雲が午後の陽を遮っていた。その雲の下を鳥が翼を広げて舞っている。鴎かと思ったが、よく見れば鳶かもしれないし、町からやってきたカラスかもしれない。遠すぎてわからない。ただ、宙を漂うそのシルエットは鈍色の空と恐ろしいほど釣り合っている気がした。漠然とした不安を煽るのに最適な景色だ。
海は穏やかに潮騒を奏でている。風はなく、波は水平線まで平坦だ。好奇心で波打ち際まで足を運んでみて、海水の冷たさに驚いた。白波はわたしの足首に絡まり、千切れ、痺れるような冷気と磯の匂いを残して大海へ返っていく。第二波がやって来る前に避難して、辺りを見回した。どうやらここは物好きなサーファーにも見放されたスポットらしく、人の姿はない。砂浜自体が狭いので、もしかしたら夏場もここには人が来ないのかもしれない。少なくとも出店や海の家が立ち並べるスペースはなかった。あるいは、この一帯は私有地なのかもしれない。そういえば、立ち入り禁止の札と鎖があった気もするが、まぁ、構いはしない。
その場に腰を下ろしてしばらくの間、単調な様子の海を眺めた。無心でいようとしたのだけど、不思議なもので、寄せて返す波音に耳を傾けているとだんだん妙な懐かしさが込み上げてきた。揺りかごのような規則性に、ノスタルジーへ誘う何かがあったのかもしれない。波間に揺られて浮いていればなお気持が良いかもしれないけれど、足首に当たった海水の冷たさを思い出して鳥肌が立つ。冬にやることでは絶対にない。
まどろむような懐かしさに捉われたまま、わたしは目を瞑り、追憶の旅に出かける。それはうたた寝の時に現れる夢のように早足に過ぎる。彼と共に過ごした歳月。波間に浮かぶ泡沫のように消えていった時間。けして長くはなく、しかし、濃密な甘みを含んだ日々。そして、突き刺すような痛みが待つ、あの夏の日へとわたしは帰っていく。
潮騒は、ずっと続いている。
◇
砂浜にはこまごまとビーチパラソルが連なり、その不自然な色彩の連続に少し眩暈がした。波のさざめきは人の喧騒に掻き消され、浅瀬の海は水着姿の若者達に支配されつつある。
「うひゃあ」と彼が驚きの声を上げた。呆れからの感嘆かもしれない。
彼と海で過ごすのはそれで三度目だった。一度目は知り合うきっかけになった出店のバイトで、二度目は交際を始めた翌年の夏に二人きりで、そして今回は、婚約した矢先の八月のことだった。どうしても来なければいけないという理由はないが、一応わたし達が出逢えた記念の場所だし、正月やクリスマスと同じ節目を迎える気持ちで、毎年ここを訪れる決まりになんとなくなった。どちらが言いだしたのかも、もう覚えていない。
彼は陽に当たればすぐに焼けるのだが、基本的に色白の体をしていて、あまり海が似合う人ではない。それはたぶんわたしも同じだろうけど、しかし、彼は海にやってくる度にニコニコと嬉しそうにする。そこがわたしと彼の明瞭な違いだ。わたしはどちらかというと海が、それも人混みの激しい海水浴場が嫌いだった。彼と出逢うきっかけになった出店のバイトだって、叔父に頼まれて仕方なく手伝いに行っていただけだ。
彼はお祭りのような騒がしく浮かれた雰囲気を心から愛していて、場を盛り上げる為に縁の下の力持ちになることも厭わない人だった。大雑把な印象があるが、細かい所にもよく気がつく。輪の中に加わればムードメイカーとなるタイプだ。彼はとても楽しそうな表情でイカやそばを焼き、それを水着姿の若者達に饒舌な売り文句でさばいていたものである。あまりに快活に過ぎるのでお客から冷やかしを受けることもあったが、彼はニコニコした顔を一片たりとも崩さずに頭を掻くばかりだった。
そんな彼が、わたしは好きだ。わたしとは正反対な気がして。
「ねぇ、こんなこと訊くの野暮かもしれないけど、わたしのどこを好きになったの?」
彼から告白を受けて交際を始めてから一週間後、バイトの休憩中に二人でラムネを飲みながら、ふと尋ねたことがある。海水浴場から離れた、ごつごつした岩場の陰で並んで腰かけていた。
「んー?」 彼はやはりニコニコとしながら、ラムネ瓶のビー玉と格闘していた。
「わたしってさ、その、あんたとは正反対じゃん。自分で言うのもなんだけど、協調性ないし、ガサツだし。男のあんたからしてどこが魅力的だったわけ?」
彼は首をかしげ、しばらく思案した後に再びこちらを見た。
「顔」
「か……」 わたしは絶句する。
「顔が好きなんだな。君の顔を見ていると安心する。君が笑うと嬉しいし、君が怒ると心配になる。たぶん、君が泣いたら俺、哀しくなる」 彼はつらつらと言う。 「君が無表情でいたらこっちに振り向かせたくなるし、君がぽかんとしていたら俺もたぶんぽかんとする。君が眠っていたら俺も眠くなるし、君が必死な顔をしていたら助けてやりたくなる。君が沈んでいたら俺が明るくさせるし、君が……」
「ああっ! はいはい、もういいから!」 わたしは耳まで熱くなって遮った。 「ポエムかよ、恥ずかしい!」
彼は涼しい顔でラムネを傾ける。どんなに気恥かしい台詞でも、嘘以外は苦もなく口にできる性格なのだ。その素直さにわたしはどれだけ憧れただろうか。
岩場にぶつかる波にも勝るような盛大なげっぷを漏らし、わたしが膝頭をぴしゃりと叩いた時にようやく彼は「ごめん」と恥ずかしそうに頭を掻いた。わたしは思わず笑ってしまった。
あの時のことを思い出し、わたしはふっと息を漏らす。近い将来に夫となる彼は、忍び笑うわたしに気付かずにパラソルを砂に突き刺していた。腕回りや胸板にはがっしりと筋肉がついて精悍になっている。色白の肌は相変わらずだが、彼のことだから今日一日で小麦色になってさらに逞しくなるだろう。今ではフリーターを辞め、土木職人として毎日汗水流して働いているのだ。わたし達の将来の為に。
「飲み物買ってくるけど、ジュースがいい? ビールがいい?」 彼は訊く。
「いいよ、わたし買ってくるから」
「いいって、いいって。かわりにシート広げといてよ」
「じゃあ、コーラで」
「あいよ」
彼はふんふんと鼻唄を唄いながら、人混みの中へと消えていく。その後ろ姿を見送るだけのことにもわたしは幸福を感じる。
彼と出逢えて本当によかった。そう思える相手と人は一生のうちに何度出逢えるのだろうか。一人か、二人か。ゼロという人だっているだろう。もしかしたら、彼と出逢い、そして婚約したわたしは、奇跡の真只中にいるのかもしれない。大袈裟で、しかも馬鹿っぽい響きだけれど、彼といると奇跡というものを信じたくなる。それならば彼と出逢えた海という場所を、わたしはもっと好きになるべきなのかもしれない。
ビニールシートを広げて腰を下ろす。気付けばわたしまで鼻唄を唄っていた。
砂浜は行き交う若者達の足跡で蹂躙されていて、波打ち際では子供やその母親によって無残に掘り返されている。だけど、足跡は踏みならされていくうちに湿りながらも固く引き締まり、掘り返された砂は稚拙な出来のお城に変わるのだ。悪いことばかりでもない。そうだ、何事も悪いことばかりではないのだ。
コーラを待ち望みながらぼんやり海辺を眺めていると、視界にさっと影がさした。
彼だろう。
わたしは微笑みながら振り返る。だが、そこにいたのは彼ではなかった。見知らぬ三人組の男だった。途端にわたしは警戒する。男達の風貌が明らかに良識から外れたものだったからだ。浅黒い肌と刈り込まれた脱色の髪、金のネックレスとピアス、腕の刺青と中途半端な顎の髭。そしてなにより、欲情を讃えた眼の光。三人とも似たような姿だった。
「おねーさん、独り?」
案の定、男の一人が声を掛けてきた。にやにやと笑っている。
わたしは目を逸らす。無視することに決めた。楽しい気分が一転、舌打ちしたい気分だった。
「ちょっと、ちょっと、シカトしないでよ」
図々しく隣に座ろうとしたので、わたしはビニールシートの端を掴んでそちらを畳んだ。そこは彼のスペースなのだ。くだらない男の尻の下に彼の座るシートを敷くのがどうしても耐えられなかった。
わたしの露骨な態度が気に障ったのか、男達の表情が一変した。嫌な雰囲気だった。周囲の海水客は既にわたし達を遠巻きにしている。だけど、誰も助けてくれそうにない。一人くらい勇んで出てきてくれてもいいではないか。
「おい、図にのんじゃねぇよ」 猫撫で声が一転して凄む調子に乗った。 「ビールでも飲もうって誘ってるだけだっつーの」
わたしの心臓は思い出したように早鐘を打ちだした。肝が冷えて、下にさがるような感覚を覚える。
「困ります」 わたしは言う。少し声が震えた。
「独りじゃ寂しいっしょ? 俺ら親切なのよ」 もう一人がけらけら笑いながら言った。悪意のある笑みだった。
大声を出してやろうかと思った。しかし、何かすればその瞬間に頬を打たれそうな気配もあった。人がいるとはいえ、左右と前方を男が囲っているのだ。何をされても不思議ではない。
「怖がらなくていいから」 男は無茶なことを言う。 「ほら、奢って上げるからさ、行こうよ。変なことしないって」
そうして、男の手がわたしの肩に触れようとした時だった。
「俺の嫁になんか用?」
わたしは救われた気分でそちらに振り向いた。
缶コーラを二本持った彼が立っていた。相変わらず口許は緩く、ニコニコとしていたが、細まった目はけして笑っていなかった。静かな激情を湛えた、わたしも初めて見る彼の表情だった。
男達も険しい顔で振り向いたが、彼の盛り上がった筋肉と不気味な眼光に明らかに怯んだ。しばらく、互いに無言だった。不安げに他の客達が見守っている。彼は緊張した空気も意に介さず、つかつかとわたしの許へ歩み寄る。うろたえたように男の一人が場所を開けた。
「ほら」と彼は缶コーラをわたしの頬へ当てた。良く冷えている。
「あ、ありがとう」 わたしはおずおずとそれを受け取った。
三人組の男達はバツが悪そうに、しかし何の悪態も放たず、ただ砂浜に唾を吐いただけでそそくさと去っていった。彼はまだ立ったまま、その後ろ姿を無言で睨んでいたが、溜息を一つ吐くと、何事も無かったかのようにシートを広げ、わたしの隣へ腰を下ろした。
「大丈夫だった?」 彼は晴れやかな笑顔だ。
「大丈夫じゃない」 わたしは強張った顔のまま答える。また声が震えた。 「もう、ほんとに、最悪」
「ごめん、ごめん」 彼は謝る。しかし、彼が悪いわけではもちろん無い。 「単独行動はやめとくか」
わたしは震える指で缶の蓋を開けて、コーラを一口呑む。炭酸が舌の上で弾けた。冷たい痛みに涙が出るようだった。
「でもさ、俺、かっこよかったっしょ?」 彼もコーラを一口飲んで、あっけらかんと言う。 「いい所見せられてよかった」
わたしは呆気にとられて彼を見返し、そしてようやく笑うことができた。
「バーカ」 わたしは言う。
でも、これ以上ないほど彼がかっこよかったのは事実だった。身体の震えも、彼に肩を抱かれると不思議と治まった。それはほとんど奇跡のように思えた。「俺の嫁」と軽々と言い放った彼の笑顔がじんわりと胸に温かさを取り戻す。そうなのだ。わたしは彼と婚約したのだ。これを奇跡と呼ばずして、いったいなんと呼ぶのだ?
「ありがとう」とわたしがもう一度言うと、彼は気恥かしそうに頭を掻き、そして油断したのか盛大なげっぷを漏らした。わたしは彼の膝頭を叩きながら、笑いを抑えられなかった。
◇
わたし達はコーラを飲み終えると海に入った。多くのカップルがやるように海水を掛け合い、膨らませた浮輪で遊んだりした。彼は遊びには真剣な姿勢を見せるので、なかなか浮輪を貸してくれなかった。変な所で子供っぽいのだ。それから、わたしが泳げないのを知っていたので、少し深い地点までわたしの手を引き、特訓と称してわたしにバタ足を躾けこんだ。あまりに偉そうな物言いだったので、わたしはわざと彼の顔の前で水面を思い切り蹴ってやった。海水を浴びた彼はずぶ濡れの顔に笑みを浮かばせながら、「その意気だ」とわけのわからないことを言った。それが無性にわたしを笑わせた。
時折、わたし達は人気の無い岩場へ向かって身体を休めた。そうしていると、まるで出逢ったばかりのバイト仲間だった頃に戻ったような気がした。不思議と新鮮な思いでそれを口にすると、彼はニコニコと微笑んだ。
けれど、どちらともなく手に触れ合い、目線が絡み合うと、わたし達は自然と口づけを交わすことができた。これだけはあの頃と違う。それは嬉しい時の流れだった。わたしは彼だけの女となり、彼はわたしだけの男となる。そんな馬鹿馬鹿しい束縛と幻想が、今は心地良かった。ずっと続く潮騒までもが、二人だけの物のようにも思えた。
夕暮れが迫った頃、砂浜を埋め尽くしていた人影はほとんど消えていた。わたし達も帰り支度を始めたが、身体を拭くタオルを車内に忘れていることに気付いた。
「じゃあ、俺が取って来るよ」 彼は言った。
わたしは、その時、何気なく頷いてしまった。彼は水着とビーチサンダルのまま、駐車場のほうへと歩いていく。
ふと、わたしは言い知れない物寂しさに捉われた。
西日に照らされる彼の背中。
そこに、わたしは、不思議な距離を感じたのだ。
わたしは。
止めるべきだったのかもしれない。
単独行動はやめておこう、と彼も言っていたのに。
そのささやかな約束を、わたし達は忘れていたのだ。
彼が去った後、わたしはシートに腰を下ろして、まだ遊び足りない様子の親子やカップルの姿を眺めた。晴れた空はブルーから薄いピンクに変わっていて、地上の影が長く伸びていた。変わらないのは波のリズムだけだ。わたしは原因不明の物寂しさを覚えたまま膝を抱えて、ただ陽に煌めく波間の人影をじっと眺めていた。
彼はなかなか戻って来なかった。親子がパラソルを畳んでも、カップルが手を繋ぎながら浜辺に上がっても、彼は姿を見せなかった。
遅いな、と独りでに呟く。どこで道草を食っているのだろう。もしかしたら、ナンパにでも遭っているのかもしれないと考えて、わたしは嫉妬よりも可笑しさを感じた。彼は人の期待や好意をなかなか裏切れない性格なのだ。きっと、ニコニコしながら頭を掻いて困っているに違いない。そんな姿が容易く浮かんで、わたしは笑いを堪えた。そんな彼がわたしは好きだ。
潮騒はずっと続いている。いつか生物がこの地上から消え失せても、波はきっと永久に続いていくのだろうな、と思った。
◇
彼の遺体が見つかったのはそれから約五時間後のことだった。陽はどっぷりと暮れ、海は宵闇を湛えて黒ずんでいた。ぽっかりと浮かんだ満月だけが水面に映る。その暗い波の中に彼は漂い、そして浜辺に打ち上げられたのだ。
警察で全ての事情を聞いた。
逮捕されたのは、昼間わたしに声を掛けてきたあの三人組の男達だった。彼らはこの辺りを縄張りにするギャングチームのメンバーで、夏場になると独り身の女性を強引に誘っては、集団暴行を繰り返していたらしい。仲間の間では有名人だったようだ。
彼が車からタオルを取り出して戻って来る途中、男達はコンビニの裏の路地で別の女性に声を掛けていたらしい。女性はなんとか男達を振り切ろうとしたようだが、業を煮やした男達が彼女を羽交い絞めにして口を塞ぎ、待ち合わせていたワンボックス車に押し込もうとしていた。周囲に人気は無く、近くにいたのは彼と他数人の通行者だけだった。
一部始終を見ていた彼は迷うことなく、男達に殴りかかったらしい。不意を突かれて男達のうち二人はあえなく彼の拳に叩きのめされた。だが、半裸にされていた女性を庇い、彼が一瞬、残りの一人に背を向けて逃がそうとした時に悲劇が起きた。残りの一人が車内からバットを持ち出して彼の後頭部を殴打したのだ。
信用はできないが、男には殺す気はなかったらしい。だが、その一撃は当たりどころが悪かった。彼は失神して地べたに倒れた。頭蓋骨が陥没し、血が広がったそうだ。男達の間に動揺が走った。女性はその隙に逃げ出し、男達は咄嗟に彼を車内に引き込んで車を走らせた。
そのまま病院に搬送すれば、あるいは助かったかもしれない。だが、男達は街には向かわず、代わりに交通量の少ない岬に車を止め、すでに絶命していた彼を海に棄てた。
殺害の証言は目撃者と被害に遭った女性から取れている。男達はそのまま逃走を図ったが、目撃者が通報して車のナンバーを告げてから、すぐさま街で逮捕された。女性が既に交番へ駆けこんで、警察が動いていたからだ。
彼の遺体と面会した頃には既に真夜中だった。安置所の薄暗い部屋の中央に、彼は横たわっていた。海水を含んで少し身体が膨れていたが、紛れもなく彼だった。後頭部のへこみがまるで悪夢のようで、しかし、何の哀しみも起こらなかった。現実感だけが欠落し、わたしは永遠に目を覚まさない彼の顔を見下ろすばかりだった。もうニコニコと微笑むこともない。
駆けつけた彼の肉親達は皆狂ったように泣き叫んでいた。親しくしていた彼の母親に肩を掴まれて揺すられても、わたしは何も言えなかった。言えるわけがなかった。何の感情も、何の思念も無かったのだから。空白だけがわたしの胸にあった。涙の一滴も出て来なかった。わたしはしばらく、壁にもたれたまま動けなかった。
通夜には大勢の人が集まった。親族はもちろん、彼の職場先の人々や地元の友人達、それにわたしの家族だ。叔父も来ている。喪服の人の中にはわたしの知らない顔も当然沢山あった。世代も性別も職種も関係なく様々な人達が集い、それが彼の人望の厚さを改めてうかがわせた。彼はやはり、かけがえのない人だったのだ。
通夜の最中、わたしはひっきりなしに声をかけられた。皆、心配してくれたのだろう。死人のように呆然としていたから無理もない。だが、声をかけられる度に、わたしは微笑んで言葉に応えることができた。それは、自分でも意外な反応だった。
どうして、わたしは笑えるのだろう。
どうして、わたしは泣けないのだろう。
でも、不思議と感ずるところもあった。
彼が、わたしを笑わせるのだ。
今でも彼はわたしの中にいて。
壊れかけたわたしを、支えているのだ。
そう考える度に哀しい雲が胸に掛かるようだったが、でも、わたしが泣いたらきっと彼も哀しませることになる。
そうだ。彼は言ったじゃないか。
わたしは、哀しい顔をしていてはいけない。
彼が好きと言ってくれたこの顔を。
けして曇らせてはいけない。
だけど。
それでも。
わたしは幻想を見る。
空。
西日。
濡れた砂と缶コーラ。
ラムネと波が寄せる岩場。
暗い海を。
そこに沈んでいく彼の姿を。
わたしは繰り返し、瞼の裏に見る。
その度に。
ずっと続く潮騒が蘇り。
わたしは、空白を漂い続ける。
哀しみよりも、ずっと虚しい。
無だ。
無が、わたしを襲う。
後悔も。
恨みも。
何も浮かばない。
ただ、感情の残骸だけが。
泡のように漂うばかりだ。
◇
追想を断ったわたしの耳に流れるのは、やはり潮騒だった。瞼を開けて真っ先に映るのは鈍色の海。鳥の姿はどこかに消えていた。尻の下の砂は冷たい感触で、わたしは腰を上げる。ひときわ強い風が吹き、髪を押さえてそれに耐えた。ワンピースの裾がはためく。
あの時の海はもうそこに無い。
あの時、隣にいた彼はもういない。
暗い喪失感が胸の中から溢れだし、まるでこの海と空を染め上げているかのようだった。
しかし、今、不思議と気分は晴れやかなのだ。
そう、全ては昔のこと。
潮騒も、濡れた砂も、わたしにとっては遥か過去のことなのだ。
「ちょっと」と声がした。
わたしは振り向く。
厚手のパーカーを着た男の子が立っていた。中学生くらいだろう。一見女の子と見間違えそうだが、生意気そうな目付きとわずかに角張った細い顎が少年らしさを醸し出していた。黒い瞳がこちらをじっと睨んでいる。
「ここ、うちの私有地」 少年は言った。 「勝手に入らないで」
「あ、ごめん」 わたしは素直に詫びる。 「君、この辺の人?」
わたしが尋ねると、少年は海沿いの左手を指した。小高い崖の場所に不釣り合いな家屋が建っていた。その家の子なのだろう。
「困るんだよね、ハマグリとか魚とか勝手に取られて。夏はカップルがなんかやらしいことしてるし」 一丁前の口を利きながら彼は波打ち際にまで足を運ぶ。素足だった。
「なにするの?」
「網を張ってるんだ。ほら、あそこに杭があるでしょ。綱が繋がっているからそれを引いて蟹とか魚を取るんだよ」 少年は袖をまくって、網を引き始める。 「この辺は潮の流れが関係して浅瀬でも魚が集まりやすいんだ」
「ふぅん」とわたしは相槌を打つ。
波間から綱に引かれた黒っぽい籠が現れた。少年が言った通り、中には魚が数匹捕まっていた。見た所かなり重量がありそうで、少年の額にはすぐに汗が浮かんだ。彼は片手でそれを拭う。
「大変そうだね」
「本当はやりたくないけど、でも、やらないと父さんに怒られる」
「魚、いっぱい入ってるね」
「これをあと何個かやらなきゃいけない。冬が案外いっぱい獲れるんだよ。暖かいほうに行こうとする魚が潮に捕まってこっちに流れ込んでくるんだ」
「へぇ」
「大抵はこの入り江に流れ着くんだ。昔からここはうちの土地でさ、父さんの話じゃ、身投げした死体も頻繁に流れてくるんだって。迷惑だよね。学校行ってたから見られなかったけど、この間も女が流れてきたらしいんだ。警察がいっぱい来たってさ。その前は、夏場だったかな、殺された男の人の死体が発見されてる。ひどい話だよ、街じゃ心霊スポットだって噂されているくらいだ」
「ごめん」 わたしは微笑んで謝る。
「どうしてあんたが謝るのさ」 少年は綱を引く手を止める。 「あ、さては幽霊目当てで来たんだな?」
しかし、振り返った彼は気の抜けたように辺りを見回した。「あれ?」と首を傾げる。わたしは笑いを堪えてその様子を見つめた。少年の目に、わたしの姿を映らなくさせたのだ。少年は不可解な表情を浮かべていたが、独りで肩を竦めると、どうでもよさげに網引きの作業を再開した。
吹き渡る風が雲をわずかに晴らし、そこから陽光が一筋射し込む。わたしは目を細めてそれを眺めながら、少年から離れて歩きだす。どこまでも歩こう、と思った。どうせ行先などないのだから。
だけど、わたしはすぐに足を止めることになった。
波打ち際の先に人影が見えたのだ。
わたしはそれに気付き、呆然と立ち尽くす。冷え切ったと思っていた心臓が、とくんと鼓動を打った。
懐かしい人。
懐かしい笑顔。
彼は足首を寄せる波に浸らせながら、こちらに「おぉい」と手を振っている。あの日のままの水着姿。相変わらずニコニコとしていた。寒くないのだろうか、とわたしが思った瞬間、彼は大きなくしゃみをした。
最期の瞬間までついに流れることの無かった涙が、今、わたしの頬を濡らしていた。それは顎先を伝い、湿った砂に落ちる。
でも、わたしは笑っていた。
泣きながらも、笑っていた。
彼も鼻水を垂らしながら、ニコニコと微笑んでいる。
濡れた砂を蹴り、冷たい波を蹴り、わたしは彼の許まで駆け出した。
潮騒は、ずっと続いている。
予想通り砂の踏み心地は冷たく、ぶよぶよしていて気持ちが悪い。夏はとうに過ぎ去っているから余計に白々しい感触だ。しかし、後悔するほど嫌なものでもない。たまにはこういった趣向も悪くないだろう。海も砂浜も、夏だけに存在しているわけではないのだ。
空は昨晩の曇天を引き摺って未だ薄暗く、切れ目のない雲が午後の陽を遮っていた。その雲の下を鳥が翼を広げて舞っている。鴎かと思ったが、よく見れば鳶かもしれないし、町からやってきたカラスかもしれない。遠すぎてわからない。ただ、宙を漂うそのシルエットは鈍色の空と恐ろしいほど釣り合っている気がした。漠然とした不安を煽るのに最適な景色だ。
海は穏やかに潮騒を奏でている。風はなく、波は水平線まで平坦だ。好奇心で波打ち際まで足を運んでみて、海水の冷たさに驚いた。白波はわたしの足首に絡まり、千切れ、痺れるような冷気と磯の匂いを残して大海へ返っていく。第二波がやって来る前に避難して、辺りを見回した。どうやらここは物好きなサーファーにも見放されたスポットらしく、人の姿はない。砂浜自体が狭いので、もしかしたら夏場もここには人が来ないのかもしれない。少なくとも出店や海の家が立ち並べるスペースはなかった。あるいは、この一帯は私有地なのかもしれない。そういえば、立ち入り禁止の札と鎖があった気もするが、まぁ、構いはしない。
その場に腰を下ろしてしばらくの間、単調な様子の海を眺めた。無心でいようとしたのだけど、不思議なもので、寄せて返す波音に耳を傾けているとだんだん妙な懐かしさが込み上げてきた。揺りかごのような規則性に、ノスタルジーへ誘う何かがあったのかもしれない。波間に揺られて浮いていればなお気持が良いかもしれないけれど、足首に当たった海水の冷たさを思い出して鳥肌が立つ。冬にやることでは絶対にない。
まどろむような懐かしさに捉われたまま、わたしは目を瞑り、追憶の旅に出かける。それはうたた寝の時に現れる夢のように早足に過ぎる。彼と共に過ごした歳月。波間に浮かぶ泡沫のように消えていった時間。けして長くはなく、しかし、濃密な甘みを含んだ日々。そして、突き刺すような痛みが待つ、あの夏の日へとわたしは帰っていく。
潮騒は、ずっと続いている。
◇
砂浜にはこまごまとビーチパラソルが連なり、その不自然な色彩の連続に少し眩暈がした。波のさざめきは人の喧騒に掻き消され、浅瀬の海は水着姿の若者達に支配されつつある。
「うひゃあ」と彼が驚きの声を上げた。呆れからの感嘆かもしれない。
彼と海で過ごすのはそれで三度目だった。一度目は知り合うきっかけになった出店のバイトで、二度目は交際を始めた翌年の夏に二人きりで、そして今回は、婚約した矢先の八月のことだった。どうしても来なければいけないという理由はないが、一応わたし達が出逢えた記念の場所だし、正月やクリスマスと同じ節目を迎える気持ちで、毎年ここを訪れる決まりになんとなくなった。どちらが言いだしたのかも、もう覚えていない。
彼は陽に当たればすぐに焼けるのだが、基本的に色白の体をしていて、あまり海が似合う人ではない。それはたぶんわたしも同じだろうけど、しかし、彼は海にやってくる度にニコニコと嬉しそうにする。そこがわたしと彼の明瞭な違いだ。わたしはどちらかというと海が、それも人混みの激しい海水浴場が嫌いだった。彼と出逢うきっかけになった出店のバイトだって、叔父に頼まれて仕方なく手伝いに行っていただけだ。
彼はお祭りのような騒がしく浮かれた雰囲気を心から愛していて、場を盛り上げる為に縁の下の力持ちになることも厭わない人だった。大雑把な印象があるが、細かい所にもよく気がつく。輪の中に加わればムードメイカーとなるタイプだ。彼はとても楽しそうな表情でイカやそばを焼き、それを水着姿の若者達に饒舌な売り文句でさばいていたものである。あまりに快活に過ぎるのでお客から冷やかしを受けることもあったが、彼はニコニコした顔を一片たりとも崩さずに頭を掻くばかりだった。
そんな彼が、わたしは好きだ。わたしとは正反対な気がして。
「ねぇ、こんなこと訊くの野暮かもしれないけど、わたしのどこを好きになったの?」
彼から告白を受けて交際を始めてから一週間後、バイトの休憩中に二人でラムネを飲みながら、ふと尋ねたことがある。海水浴場から離れた、ごつごつした岩場の陰で並んで腰かけていた。
「んー?」 彼はやはりニコニコとしながら、ラムネ瓶のビー玉と格闘していた。
「わたしってさ、その、あんたとは正反対じゃん。自分で言うのもなんだけど、協調性ないし、ガサツだし。男のあんたからしてどこが魅力的だったわけ?」
彼は首をかしげ、しばらく思案した後に再びこちらを見た。
「顔」
「か……」 わたしは絶句する。
「顔が好きなんだな。君の顔を見ていると安心する。君が笑うと嬉しいし、君が怒ると心配になる。たぶん、君が泣いたら俺、哀しくなる」 彼はつらつらと言う。 「君が無表情でいたらこっちに振り向かせたくなるし、君がぽかんとしていたら俺もたぶんぽかんとする。君が眠っていたら俺も眠くなるし、君が必死な顔をしていたら助けてやりたくなる。君が沈んでいたら俺が明るくさせるし、君が……」
「ああっ! はいはい、もういいから!」 わたしは耳まで熱くなって遮った。 「ポエムかよ、恥ずかしい!」
彼は涼しい顔でラムネを傾ける。どんなに気恥かしい台詞でも、嘘以外は苦もなく口にできる性格なのだ。その素直さにわたしはどれだけ憧れただろうか。
岩場にぶつかる波にも勝るような盛大なげっぷを漏らし、わたしが膝頭をぴしゃりと叩いた時にようやく彼は「ごめん」と恥ずかしそうに頭を掻いた。わたしは思わず笑ってしまった。
あの時のことを思い出し、わたしはふっと息を漏らす。近い将来に夫となる彼は、忍び笑うわたしに気付かずにパラソルを砂に突き刺していた。腕回りや胸板にはがっしりと筋肉がついて精悍になっている。色白の肌は相変わらずだが、彼のことだから今日一日で小麦色になってさらに逞しくなるだろう。今ではフリーターを辞め、土木職人として毎日汗水流して働いているのだ。わたし達の将来の為に。
「飲み物買ってくるけど、ジュースがいい? ビールがいい?」 彼は訊く。
「いいよ、わたし買ってくるから」
「いいって、いいって。かわりにシート広げといてよ」
「じゃあ、コーラで」
「あいよ」
彼はふんふんと鼻唄を唄いながら、人混みの中へと消えていく。その後ろ姿を見送るだけのことにもわたしは幸福を感じる。
彼と出逢えて本当によかった。そう思える相手と人は一生のうちに何度出逢えるのだろうか。一人か、二人か。ゼロという人だっているだろう。もしかしたら、彼と出逢い、そして婚約したわたしは、奇跡の真只中にいるのかもしれない。大袈裟で、しかも馬鹿っぽい響きだけれど、彼といると奇跡というものを信じたくなる。それならば彼と出逢えた海という場所を、わたしはもっと好きになるべきなのかもしれない。
ビニールシートを広げて腰を下ろす。気付けばわたしまで鼻唄を唄っていた。
砂浜は行き交う若者達の足跡で蹂躙されていて、波打ち際では子供やその母親によって無残に掘り返されている。だけど、足跡は踏みならされていくうちに湿りながらも固く引き締まり、掘り返された砂は稚拙な出来のお城に変わるのだ。悪いことばかりでもない。そうだ、何事も悪いことばかりではないのだ。
コーラを待ち望みながらぼんやり海辺を眺めていると、視界にさっと影がさした。
彼だろう。
わたしは微笑みながら振り返る。だが、そこにいたのは彼ではなかった。見知らぬ三人組の男だった。途端にわたしは警戒する。男達の風貌が明らかに良識から外れたものだったからだ。浅黒い肌と刈り込まれた脱色の髪、金のネックレスとピアス、腕の刺青と中途半端な顎の髭。そしてなにより、欲情を讃えた眼の光。三人とも似たような姿だった。
「おねーさん、独り?」
案の定、男の一人が声を掛けてきた。にやにやと笑っている。
わたしは目を逸らす。無視することに決めた。楽しい気分が一転、舌打ちしたい気分だった。
「ちょっと、ちょっと、シカトしないでよ」
図々しく隣に座ろうとしたので、わたしはビニールシートの端を掴んでそちらを畳んだ。そこは彼のスペースなのだ。くだらない男の尻の下に彼の座るシートを敷くのがどうしても耐えられなかった。
わたしの露骨な態度が気に障ったのか、男達の表情が一変した。嫌な雰囲気だった。周囲の海水客は既にわたし達を遠巻きにしている。だけど、誰も助けてくれそうにない。一人くらい勇んで出てきてくれてもいいではないか。
「おい、図にのんじゃねぇよ」 猫撫で声が一転して凄む調子に乗った。 「ビールでも飲もうって誘ってるだけだっつーの」
わたしの心臓は思い出したように早鐘を打ちだした。肝が冷えて、下にさがるような感覚を覚える。
「困ります」 わたしは言う。少し声が震えた。
「独りじゃ寂しいっしょ? 俺ら親切なのよ」 もう一人がけらけら笑いながら言った。悪意のある笑みだった。
大声を出してやろうかと思った。しかし、何かすればその瞬間に頬を打たれそうな気配もあった。人がいるとはいえ、左右と前方を男が囲っているのだ。何をされても不思議ではない。
「怖がらなくていいから」 男は無茶なことを言う。 「ほら、奢って上げるからさ、行こうよ。変なことしないって」
そうして、男の手がわたしの肩に触れようとした時だった。
「俺の嫁になんか用?」
わたしは救われた気分でそちらに振り向いた。
缶コーラを二本持った彼が立っていた。相変わらず口許は緩く、ニコニコとしていたが、細まった目はけして笑っていなかった。静かな激情を湛えた、わたしも初めて見る彼の表情だった。
男達も険しい顔で振り向いたが、彼の盛り上がった筋肉と不気味な眼光に明らかに怯んだ。しばらく、互いに無言だった。不安げに他の客達が見守っている。彼は緊張した空気も意に介さず、つかつかとわたしの許へ歩み寄る。うろたえたように男の一人が場所を開けた。
「ほら」と彼は缶コーラをわたしの頬へ当てた。良く冷えている。
「あ、ありがとう」 わたしはおずおずとそれを受け取った。
三人組の男達はバツが悪そうに、しかし何の悪態も放たず、ただ砂浜に唾を吐いただけでそそくさと去っていった。彼はまだ立ったまま、その後ろ姿を無言で睨んでいたが、溜息を一つ吐くと、何事も無かったかのようにシートを広げ、わたしの隣へ腰を下ろした。
「大丈夫だった?」 彼は晴れやかな笑顔だ。
「大丈夫じゃない」 わたしは強張った顔のまま答える。また声が震えた。 「もう、ほんとに、最悪」
「ごめん、ごめん」 彼は謝る。しかし、彼が悪いわけではもちろん無い。 「単独行動はやめとくか」
わたしは震える指で缶の蓋を開けて、コーラを一口呑む。炭酸が舌の上で弾けた。冷たい痛みに涙が出るようだった。
「でもさ、俺、かっこよかったっしょ?」 彼もコーラを一口飲んで、あっけらかんと言う。 「いい所見せられてよかった」
わたしは呆気にとられて彼を見返し、そしてようやく笑うことができた。
「バーカ」 わたしは言う。
でも、これ以上ないほど彼がかっこよかったのは事実だった。身体の震えも、彼に肩を抱かれると不思議と治まった。それはほとんど奇跡のように思えた。「俺の嫁」と軽々と言い放った彼の笑顔がじんわりと胸に温かさを取り戻す。そうなのだ。わたしは彼と婚約したのだ。これを奇跡と呼ばずして、いったいなんと呼ぶのだ?
「ありがとう」とわたしがもう一度言うと、彼は気恥かしそうに頭を掻き、そして油断したのか盛大なげっぷを漏らした。わたしは彼の膝頭を叩きながら、笑いを抑えられなかった。
◇
わたし達はコーラを飲み終えると海に入った。多くのカップルがやるように海水を掛け合い、膨らませた浮輪で遊んだりした。彼は遊びには真剣な姿勢を見せるので、なかなか浮輪を貸してくれなかった。変な所で子供っぽいのだ。それから、わたしが泳げないのを知っていたので、少し深い地点までわたしの手を引き、特訓と称してわたしにバタ足を躾けこんだ。あまりに偉そうな物言いだったので、わたしはわざと彼の顔の前で水面を思い切り蹴ってやった。海水を浴びた彼はずぶ濡れの顔に笑みを浮かばせながら、「その意気だ」とわけのわからないことを言った。それが無性にわたしを笑わせた。
時折、わたし達は人気の無い岩場へ向かって身体を休めた。そうしていると、まるで出逢ったばかりのバイト仲間だった頃に戻ったような気がした。不思議と新鮮な思いでそれを口にすると、彼はニコニコと微笑んだ。
けれど、どちらともなく手に触れ合い、目線が絡み合うと、わたし達は自然と口づけを交わすことができた。これだけはあの頃と違う。それは嬉しい時の流れだった。わたしは彼だけの女となり、彼はわたしだけの男となる。そんな馬鹿馬鹿しい束縛と幻想が、今は心地良かった。ずっと続く潮騒までもが、二人だけの物のようにも思えた。
夕暮れが迫った頃、砂浜を埋め尽くしていた人影はほとんど消えていた。わたし達も帰り支度を始めたが、身体を拭くタオルを車内に忘れていることに気付いた。
「じゃあ、俺が取って来るよ」 彼は言った。
わたしは、その時、何気なく頷いてしまった。彼は水着とビーチサンダルのまま、駐車場のほうへと歩いていく。
ふと、わたしは言い知れない物寂しさに捉われた。
西日に照らされる彼の背中。
そこに、わたしは、不思議な距離を感じたのだ。
わたしは。
止めるべきだったのかもしれない。
単独行動はやめておこう、と彼も言っていたのに。
そのささやかな約束を、わたし達は忘れていたのだ。
彼が去った後、わたしはシートに腰を下ろして、まだ遊び足りない様子の親子やカップルの姿を眺めた。晴れた空はブルーから薄いピンクに変わっていて、地上の影が長く伸びていた。変わらないのは波のリズムだけだ。わたしは原因不明の物寂しさを覚えたまま膝を抱えて、ただ陽に煌めく波間の人影をじっと眺めていた。
彼はなかなか戻って来なかった。親子がパラソルを畳んでも、カップルが手を繋ぎながら浜辺に上がっても、彼は姿を見せなかった。
遅いな、と独りでに呟く。どこで道草を食っているのだろう。もしかしたら、ナンパにでも遭っているのかもしれないと考えて、わたしは嫉妬よりも可笑しさを感じた。彼は人の期待や好意をなかなか裏切れない性格なのだ。きっと、ニコニコしながら頭を掻いて困っているに違いない。そんな姿が容易く浮かんで、わたしは笑いを堪えた。そんな彼がわたしは好きだ。
潮騒はずっと続いている。いつか生物がこの地上から消え失せても、波はきっと永久に続いていくのだろうな、と思った。
◇
彼の遺体が見つかったのはそれから約五時間後のことだった。陽はどっぷりと暮れ、海は宵闇を湛えて黒ずんでいた。ぽっかりと浮かんだ満月だけが水面に映る。その暗い波の中に彼は漂い、そして浜辺に打ち上げられたのだ。
警察で全ての事情を聞いた。
逮捕されたのは、昼間わたしに声を掛けてきたあの三人組の男達だった。彼らはこの辺りを縄張りにするギャングチームのメンバーで、夏場になると独り身の女性を強引に誘っては、集団暴行を繰り返していたらしい。仲間の間では有名人だったようだ。
彼が車からタオルを取り出して戻って来る途中、男達はコンビニの裏の路地で別の女性に声を掛けていたらしい。女性はなんとか男達を振り切ろうとしたようだが、業を煮やした男達が彼女を羽交い絞めにして口を塞ぎ、待ち合わせていたワンボックス車に押し込もうとしていた。周囲に人気は無く、近くにいたのは彼と他数人の通行者だけだった。
一部始終を見ていた彼は迷うことなく、男達に殴りかかったらしい。不意を突かれて男達のうち二人はあえなく彼の拳に叩きのめされた。だが、半裸にされていた女性を庇い、彼が一瞬、残りの一人に背を向けて逃がそうとした時に悲劇が起きた。残りの一人が車内からバットを持ち出して彼の後頭部を殴打したのだ。
信用はできないが、男には殺す気はなかったらしい。だが、その一撃は当たりどころが悪かった。彼は失神して地べたに倒れた。頭蓋骨が陥没し、血が広がったそうだ。男達の間に動揺が走った。女性はその隙に逃げ出し、男達は咄嗟に彼を車内に引き込んで車を走らせた。
そのまま病院に搬送すれば、あるいは助かったかもしれない。だが、男達は街には向かわず、代わりに交通量の少ない岬に車を止め、すでに絶命していた彼を海に棄てた。
殺害の証言は目撃者と被害に遭った女性から取れている。男達はそのまま逃走を図ったが、目撃者が通報して車のナンバーを告げてから、すぐさま街で逮捕された。女性が既に交番へ駆けこんで、警察が動いていたからだ。
彼の遺体と面会した頃には既に真夜中だった。安置所の薄暗い部屋の中央に、彼は横たわっていた。海水を含んで少し身体が膨れていたが、紛れもなく彼だった。後頭部のへこみがまるで悪夢のようで、しかし、何の哀しみも起こらなかった。現実感だけが欠落し、わたしは永遠に目を覚まさない彼の顔を見下ろすばかりだった。もうニコニコと微笑むこともない。
駆けつけた彼の肉親達は皆狂ったように泣き叫んでいた。親しくしていた彼の母親に肩を掴まれて揺すられても、わたしは何も言えなかった。言えるわけがなかった。何の感情も、何の思念も無かったのだから。空白だけがわたしの胸にあった。涙の一滴も出て来なかった。わたしはしばらく、壁にもたれたまま動けなかった。
通夜には大勢の人が集まった。親族はもちろん、彼の職場先の人々や地元の友人達、それにわたしの家族だ。叔父も来ている。喪服の人の中にはわたしの知らない顔も当然沢山あった。世代も性別も職種も関係なく様々な人達が集い、それが彼の人望の厚さを改めてうかがわせた。彼はやはり、かけがえのない人だったのだ。
通夜の最中、わたしはひっきりなしに声をかけられた。皆、心配してくれたのだろう。死人のように呆然としていたから無理もない。だが、声をかけられる度に、わたしは微笑んで言葉に応えることができた。それは、自分でも意外な反応だった。
どうして、わたしは笑えるのだろう。
どうして、わたしは泣けないのだろう。
でも、不思議と感ずるところもあった。
彼が、わたしを笑わせるのだ。
今でも彼はわたしの中にいて。
壊れかけたわたしを、支えているのだ。
そう考える度に哀しい雲が胸に掛かるようだったが、でも、わたしが泣いたらきっと彼も哀しませることになる。
そうだ。彼は言ったじゃないか。
わたしは、哀しい顔をしていてはいけない。
彼が好きと言ってくれたこの顔を。
けして曇らせてはいけない。
だけど。
それでも。
わたしは幻想を見る。
空。
西日。
濡れた砂と缶コーラ。
ラムネと波が寄せる岩場。
暗い海を。
そこに沈んでいく彼の姿を。
わたしは繰り返し、瞼の裏に見る。
その度に。
ずっと続く潮騒が蘇り。
わたしは、空白を漂い続ける。
哀しみよりも、ずっと虚しい。
無だ。
無が、わたしを襲う。
後悔も。
恨みも。
何も浮かばない。
ただ、感情の残骸だけが。
泡のように漂うばかりだ。
◇
追想を断ったわたしの耳に流れるのは、やはり潮騒だった。瞼を開けて真っ先に映るのは鈍色の海。鳥の姿はどこかに消えていた。尻の下の砂は冷たい感触で、わたしは腰を上げる。ひときわ強い風が吹き、髪を押さえてそれに耐えた。ワンピースの裾がはためく。
あの時の海はもうそこに無い。
あの時、隣にいた彼はもういない。
暗い喪失感が胸の中から溢れだし、まるでこの海と空を染め上げているかのようだった。
しかし、今、不思議と気分は晴れやかなのだ。
そう、全ては昔のこと。
潮騒も、濡れた砂も、わたしにとっては遥か過去のことなのだ。
「ちょっと」と声がした。
わたしは振り向く。
厚手のパーカーを着た男の子が立っていた。中学生くらいだろう。一見女の子と見間違えそうだが、生意気そうな目付きとわずかに角張った細い顎が少年らしさを醸し出していた。黒い瞳がこちらをじっと睨んでいる。
「ここ、うちの私有地」 少年は言った。 「勝手に入らないで」
「あ、ごめん」 わたしは素直に詫びる。 「君、この辺の人?」
わたしが尋ねると、少年は海沿いの左手を指した。小高い崖の場所に不釣り合いな家屋が建っていた。その家の子なのだろう。
「困るんだよね、ハマグリとか魚とか勝手に取られて。夏はカップルがなんかやらしいことしてるし」 一丁前の口を利きながら彼は波打ち際にまで足を運ぶ。素足だった。
「なにするの?」
「網を張ってるんだ。ほら、あそこに杭があるでしょ。綱が繋がっているからそれを引いて蟹とか魚を取るんだよ」 少年は袖をまくって、網を引き始める。 「この辺は潮の流れが関係して浅瀬でも魚が集まりやすいんだ」
「ふぅん」とわたしは相槌を打つ。
波間から綱に引かれた黒っぽい籠が現れた。少年が言った通り、中には魚が数匹捕まっていた。見た所かなり重量がありそうで、少年の額にはすぐに汗が浮かんだ。彼は片手でそれを拭う。
「大変そうだね」
「本当はやりたくないけど、でも、やらないと父さんに怒られる」
「魚、いっぱい入ってるね」
「これをあと何個かやらなきゃいけない。冬が案外いっぱい獲れるんだよ。暖かいほうに行こうとする魚が潮に捕まってこっちに流れ込んでくるんだ」
「へぇ」
「大抵はこの入り江に流れ着くんだ。昔からここはうちの土地でさ、父さんの話じゃ、身投げした死体も頻繁に流れてくるんだって。迷惑だよね。学校行ってたから見られなかったけど、この間も女が流れてきたらしいんだ。警察がいっぱい来たってさ。その前は、夏場だったかな、殺された男の人の死体が発見されてる。ひどい話だよ、街じゃ心霊スポットだって噂されているくらいだ」
「ごめん」 わたしは微笑んで謝る。
「どうしてあんたが謝るのさ」 少年は綱を引く手を止める。 「あ、さては幽霊目当てで来たんだな?」
しかし、振り返った彼は気の抜けたように辺りを見回した。「あれ?」と首を傾げる。わたしは笑いを堪えてその様子を見つめた。少年の目に、わたしの姿を映らなくさせたのだ。少年は不可解な表情を浮かべていたが、独りで肩を竦めると、どうでもよさげに網引きの作業を再開した。
吹き渡る風が雲をわずかに晴らし、そこから陽光が一筋射し込む。わたしは目を細めてそれを眺めながら、少年から離れて歩きだす。どこまでも歩こう、と思った。どうせ行先などないのだから。
だけど、わたしはすぐに足を止めることになった。
波打ち際の先に人影が見えたのだ。
わたしはそれに気付き、呆然と立ち尽くす。冷え切ったと思っていた心臓が、とくんと鼓動を打った。
懐かしい人。
懐かしい笑顔。
彼は足首を寄せる波に浸らせながら、こちらに「おぉい」と手を振っている。あの日のままの水着姿。相変わらずニコニコとしていた。寒くないのだろうか、とわたしが思った瞬間、彼は大きなくしゃみをした。
最期の瞬間までついに流れることの無かった涙が、今、わたしの頬を濡らしていた。それは顎先を伝い、湿った砂に落ちる。
でも、わたしは笑っていた。
泣きながらも、笑っていた。
彼も鼻水を垂らしながら、ニコニコと微笑んでいる。
濡れた砂を蹴り、冷たい波を蹴り、わたしは彼の許まで駆け出した。
潮騒は、ずっと続いている。
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