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作品ID:550

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約49302文字 読了時間約25分 原稿用紙約62枚


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遠藤 敬之 


小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

ステイ・ゴールド

作品紹介

どうして、言葉ってこんなに難しいのかな。     タイトル元ネタ・『Steady & Co』


ボツ作のリサイクルです。すいません……。


 柔らかな雨の音がまどろみの底まで届いてきた。
 そっと目を開くと、清流亭から見渡せる広場の芝生が濡れそぼっていて、駆けずり回っていたはずの子供達が見えなくなっていた。遊び場を室内へ移したらしい。外にいるのはわたしだけのようだった。
 座ったままの姿勢で伸びをする。開いたままの詩集が風に吹かれてぱらぱらと捲れた。ペーパーカップに淹れた紅茶はとっくに冷めているけど、口をつけると甘さが増したように感じられて美味しかった。一眠りしたから味覚もまっさらになったのかもしれない。
 詩集を手に取り、最後に読んだページへ指を挟みながら、わたしの目は雨の降る高原を漫然と眺めた。緩やかな傾斜の草原が無数の雨の糸によって大地に縫い付けられている。広場は斜面に差し掛かる手前の、ちょうど平らな部分に拓かれており、日中は年少の子達の遊びで騒がしいのだけど、雨が降ると途端に静寂に満ちた姿へ様変わりするのだ。
 詩集へ目を戻す。連ねられた言葉のイメージに、わたしはすぐに吸い込まれていく。言葉が生み出す響きとリズムを耳が捉え、目が文章の行間に流れる余韻を見つめる。これほど早く集中できたのもひとえに雨のおかげだった。
 雨の日の清流亭は特別な場所だ。
 わたしは自由に過ごせる時間のほとんどをこの東屋で過ごす。冬にはさすがに足も遠のくけど、それ以外の季節はこの寄棟造りの屋根の下で過ごすのが常だ。かつての施設児達が拵えたという武骨な長椅子に腰を据え、山間を吹き抜ける風を浴びながら、ゆっくりと文章世界を味わう。最良のひと時だった。もちろん、セイコさんが淹れてくれる甘い紅茶も不可欠。
 雨の日はとても不思議な静寂が高原を覆う。
 裏手に迫った樅と楓の木、整然と刈りこまれた広場の芝生、所々で剥き出しになった山肌。それらを打つ雫の音が絶え間ないはずなのに、何かの拍子に一切が耳へ入らなくなる。気が付けば、喧騒の中にぽっかり開いた静けさの穴に落ちている自分を発見する。そんな時、物語や詩の世界からふと顔を上げると、雨の飛沫を含んだ風に頬を打たれ、冴え返るような心地良さに迎えられた。手品のような忘我と覚醒。その奇跡の繰り返しが、雨の日の清流亭では起こるのだった。
 もうすぐお昼かな。
 腕時計を覗くと昼食の時間まで三十分ほどあった。あと何編か読んだら食堂へ行こう。今日は食事当番ではないからゆっくりしていられる。
 本に目を戻した時、どこからか草を踏む音が聞こえた。広場の向こうを見ると、若干治まりつつある雨の中をレインコート姿の男の子が駆けていた。誰だろう?
 彼もこちらへ気付いたようだった。方向を変え、まっすぐ清流亭へ駆け込んでくる。フードの下から濡れた笑顔が現れた。
「あぁ、ユメノか。何してんの、こんな所で」
 鼓動が跳ねたのを感じた。
 駆け込んできたのが馴染みの男子でなく、ハルトミくんだったからだ。
「なんだよ、俺が来たら迷惑だった?」
 どうやらわたしは戸惑いを浮かべていたらしく、彼が大袈裟に眉尻を下げた。
「いや、迷惑なんかじゃ」わたしは慌てて首を振る。「その、他の男子だと思って、まさかハルトミくんだって思わなかったから、なんていうか、びっくりして」
 いや、これでは何の弁解にもなっていないではないか。わたしはますます狼狽える。
 ハルトミくんは「ふぅん」と何の気も無さそうに頷いて、軒下から雨の様子を窺っていた。前髪と顎の先から水が滴っている。背が高いのに横顔はまるで女の子のように華奢なのだ。
「ハルトミくん、どこ行ってたの?」
「街だよ。ちょっと用事があってさ。バス停からここまで走ってきたんだ。雨だったから」
「そうなんだ」
「ユメノは何してんの?」
「本を読んでいたの」詩集を掲げる。
「あぁ、そうか。ユメノ、読書が好きって言ってたもんな。でも、どうしてこんなとこで読んでんの? 雨降ってるし、風邪ひくぞ」言った傍から、ハルトミくんは盛大なくしゃみをする。「勉強室とか女子部屋で読めばいいのに」
 彼の言い分はわかるが、しかし、それは違うのだ。ここで読むのと部屋で読むのとでは味わいが全く異なる。でも、説明してもわかってもらえる自信はない。まだ誰にも理解されたことがない独自の理論だった。
「わたし、清流亭が好きだから」無難な言葉ではぐらかす。
「セーリューテー?」
「えっと、ここの名前。清流亭っていうの」
「へぇ、そうなんだ」彼は四本の支柱と屋根を眺め回す。「なんか、秘密基地って感じ」
 返答に困ってしまう。彼とどういう風に接していいのか、わたしにはまだわからなかった。
 ハルトミくんは五日前に転入してきた。別の孤児院で暮らしていたが、閉鎖されたのをきっかけに移ってきたのだ。年齢はわたし達と同じ十四歳。上背があるくせに体の線はコンパスのように細く、笑うと女の子みたいな顔になってますます中性的だ。地毛だと言い張っている茶色の髪が眉の下まで真っ直ぐ伸びていて、陽の下では磨いた漆のような光沢を走らせた。
 彼は最初こそ緊張しているようだったけれど、初日の夜にはもうすっかり他の男子と打ち解けて、年少の子からも懐かれていた。陽気な性格で冗談を好み、ころころとよく笑う。だけど、下品で粗野な印象は全くなくて、むしろどことなく大人びた印象の男の子だった。今まであまりお目に掛かったことのない性質の子だった。
 正直に言うと、わたしは他の子と同じようにもっとハルトミくんと仲良くなりたかった。だけど、いつもの悪癖なのだが、わたしは新しい子や職員の人が来ると必ず人見知りを起こしてしまって、なかなか上手くいかない。年下が相手でもあがってしまうほどだ。親友のジュンが仲介してくれないとまともに挨拶もできない始末で、ハルトミくんがやってきた日もジュンに助けられてようやく自己紹介できたのだった。
 己の醜態を思い出してしまい、情けなさと恥ずかしさで顔が熱くなった。蹲ってひたすら呻きたくなる。
「昼飯、まだだよな?」
「え? あ、なに?」わたしは慌てて意識を戻す。
「昼飯」
「あと、三十分くらい」
「戻ろうぜ、ユメノ」
 わたしはバネ仕掛けの人形のように小刻みで首を振った。
「わたし、もうちょっとここで読んでるから、ハルトミくん、先行っていいよ」
「そんじゃ、また後で」フードを被って雨の中に踏み出しかけたが、彼はまた振り返る。「そういえばなんで俺のこと、ハルトミくんって呼んでんの?」
 不意打ちを食らい、油断していたわたしは思わず仰け反った。
「え?」
「わざわざ、くん付けで呼ばなくていいよ」
 ハルトミくんは性別も年の差も関係なく、既に周囲からハルという愛称で親しまれていた。職員も彼をハルと呼ぶ。ハルトミくんと馬鹿丁寧に呼んでいるのはわたしだけだ。それがなぜだか、ことさらに羞恥を呼び起こす。
「ど、努力します」声が上擦ってしまった。
「努力?」ハルトミくんが吹き出す。
「あ、えっと、ごめんなさい、変なこと言って」
「うん。ユメノって少し変だ」
 ししし、と彼は笑い、「じゃあ」と言い残して駆けていった。
 この地方特有の驟雨だったのか、雨はすぐに降り止んだ。風に乗って葉擦れの音が山間を渡り、寄せ返す波のようにどこかで雲雀の囀りが響く。もうそんな季節なのだ。
 再び詩集を開いたものの、もうさっぱり集中できそうにない。でも、あまり悪い気分ではなかった。どちらかといえば胸が弾む心地だった。やってきた相手がハルトミくんだったからだろう。なんとなくそう思った。まるでお日様のような人、と考えてみて少し可笑しくなる。
 ハルトミくん、ハルトミ、ハル、と口の中で呟いてみる。
 やっぱり馴染みの無い響きで、わたしはもごもごしながらペーパーカップの紅茶を啜った。
 雲が動き、漏れた陽射しが洗われたばかりの草原を白く輝かせた。清流亭の軒の影がぐんと足許に伸びる。正午の光と影の対比を眺めながら、わたしはペーパーカップの中にひたすら言葉を沈めていた。

 ◇

 わたし達は皆、お互いを苗字ではなく名前で呼び合う。全員が同じような境遇の下に集まった家族だからだ。血の繋がりのない、しかしどんな血筋よりも濃密な繋がりを持つ大家族である。他の子が胸中でどう思っているのか知らないけど、少なくともわたしにとっては家族と呼ぶべき集まりだった。
 わたしは物心ついた時からこの施設にいる。ここで暮らす人々以外に家族と認識できる存在を他に知らない。昔から引込思案だと言われているが、心の中では全ての子達を等しく大切に感じている。一度慣れさえすればもうどんな子でも兄弟姉妹である。
 わたしと同い年の女子といえば、今のところジュン以外にいない。彼女もずっと昔から施設で暮らしていて、わたしとは親友の間柄だ。短く切り揃えた髪型が男の子っぽくて、少し乱暴な性格も充分に男の子みたいだけど、少女漫画の美青年に憧れていたり、お菓子を作るのが好きだったり、わたしよりずっと女の子らしい一面を持つ女の子だった。
 その日の午後、勉強室の長机に二人で向かい合って座り、それぞれ宿題を片付けていた。広場に面した窓辺からやや傾き始めた陽が射し込む。空は雲の一片も見当たらない群青色。遥か遠くの山脈に残る雪の冠が、霞まずにくっきりと望める澄明さだった。
 日除けを下ろそうとすると、広場の子供達がこちらに気付いて手を振る。わたしも微笑んで手を振り返した。幼い声が空の彼方へ吸い込まれていくかのようだ。
 年少の子達の相手をしているのはハルトミくん達だった。わたしは遅れて気付き、ちょっと怯んでしまう。彼らも両手を挙げて何か言っている。歯を見せて笑っていた。
「なになに?」
 興味をそそられたらしいジュンが隣に立った。鍵を開けて窓を開ける。
「サッカーしようぜ!」ケータが誘ってきた。「頭数足りないんだよ!」
「勉強中!」ジュンが大声で言い返した。「お前ら宿題やったのかよ?」
「さあね!」
「ほっとこ、ほっとこ」彼女は窓を閉めて日除けを下ろす。
 ちょっと惜しい気もしたけど、わたしも大人しく机に戻った。ジュンがくすくす笑った。
「どうして男ってあんなにエネルギー有り余ってるのかな」
 お互いにひと段落つき、わたし達は紅茶を飲んだ。ジュンはプラスチック製の自前のコップで、わたしは相変わらずのペーパーカップ。鉄製やプラスチックのコップで飲むのが子供の頃から苦手だ。陶器か紙性のものでしか飲めず、陶器は高価な上に割ってしまう危険があるので、自分専用のペーパーカップを定期的に買ってもらい、できるだけ清潔さを保って使い回していた。
 日除けを下ろした勉強室は、なんとなく秘密の会合にうってつけな雰囲気だ。白装束に身に纏った秘密の会員が蝋燭を手に集まる光景が想像できる。ジュンも同じようなことを考えていたのか、にやけた顔をすり寄せてきた。
「ねぇ、ユメノはさ、男子で誰が一番好み?」
「え?」わたしは聞き返してから、慌てて声を潜める。「好みって、なにが?」
「付き合ったり、結婚するなら誰がいいかってこと」
「そんな……」わたしはしばし呆気にとられた。「考えたこともないよ」
「嘘だぁ」ジュンは意地悪な顔だ。
「だって、皆、家族みたいなものだし……、施設の子同士でそういうの、駄目って決まりもあったと思うし」
「お堅いなぁ、ユメノは」彼女は椅子に凭れて腕を組んだ。「いくら家族みたいだからって言っても、血が繋がってないんだから問題はないでしょ」
「それはそうかもしれないけど」わたしは歯切れ悪く答える。
 考えたこともないというのは本当だ。こんな話題を易々と口にできるジュンがわたしには驚異的ですらあった。
 物語の中でも、男女の恋愛劇は頻繁に登場するし、詩集には愛を賛嘆する一節が数え切れないほど登場する。そこに秘められた高揚だとか美しさに陶酔することはあっても、わたしはそれをあくまで虚構の中だけのもの、もっと言えば自分とは縁のない概念だと捉えていた。動物園の愛らしい獣を連れて帰れないのと同じで、抵抗無く受け入れられる現実としてわたしは恋愛というものを見ている。
「あたしら、もう十四だよ。そろそろ浮ついた話の一つくらいあってもいいんじゃない?」
「知らないよ」わたしは肩を竦める。
 たとえ自分が恋愛に身を焦がしたとしても、その相手はやはり施設の仲間ではないだろう。家族のようにお互いを知り尽くしている仲で、もはやそんな感情は微塵も抱くことができない。想像するだけで、ある種の汚らわしさすら感じてしまう。
 やはり、自分にとって恋愛とは遠いものに感じられる。
 もっと大人になって外の世界に出て行けば、あるいはそういった男性と巡り逢えるのかもしれないけど、わたしは大人になってもこの施設を出て行くつもりがないのでやっぱり関係ないことだ。セイコさんやテツロウさんのように、職員となってここで暮らしていく未来を漠然と想像していたのだ。
「ケータ、キョーヘイ、ソノヤス、ハル……、誰かいるでしょう?」
 存外、ジュンはしつこかった。
「いない」わたしはうんざりしてしまう。「ハルトミくんのことはまだよく知らないけど、他は子供の頃から一緒だし、兄弟みたいなものだもの」
「ハルトミくん?」ジュンは目を丸くする。「なんで、くん付け?」
「いや、それは」思いがけない問いにわたしは狼狽える。「まだ打ち解ける機会がないっていうか」
「だって、ハルが来てからもう二週間近く経つよ?」
「うん」
「ああ、もう」ジュンは天井を仰いで嘆息する。「ユメノさ、もう少し人見知り直しなよ」
「努力はしてるんだけど」
「そんなことじゃ将来困るよ」
「そうだよね……、なんとかしなくちゃいけないよね」
 本気でそう思うのだが、今のところどうやっても改善できないでいる。人事を尽して天命を待つ、というと少し違うけれど、もはやわたしの心境はそれに近い。
 どんな人が相手でも、はっきりと自分をさらけ出せるジュンが羨ましかった。長い付き合いなので、本当の彼女は見かけによらず繊細な人格であるのは理解しているものの、それでもわたしよりは何十倍も社交的で明るい子なのだ。快活に笑って堂々としていられるジュンの姿に、わたしは幼い頃から引け目を感じていた。自分も彼女のようであれたらと何度思ったことだろう。
 妬みにも近いむずむずした羨望が蘇り、わたしはちょっとした仕返しのつもりで訊ね返した。
「ジュンにはそういう人がいるの?」
「ん?」
「さっきの、気になるっていう人」
 どうも言葉が曖昧になってしまう。たぶん、わたしにとって抵抗のある話題だからだろう。
「んー」とジュンは腕を組んで考え込む。しかし、賭けてもいい、これは間違いなく演技だ。彼女自身に気になる相手がいるからこそ切り出した話題に違いないのだから。話したくて仕方ないのだ。ある意味、とても素直な性格と言える。
 案の定、ジュンはすぐに口を開いた。
「好きっていうのとは違うかもしれないけど」
 前置きしてから、仰々しく咳払いする。わたしは危うく吹き出しそうになった。
「誰?」
「ハルがいいかなって」
「ハルトミくん?」
 わたしは驚き、慌てて顔を寄せる。いよいよ内緒話になってきたからだ。
「うん。今のところ、鮮度がある」
「お魚じゃないんだから」苦笑してから少し考えてみた。「あぁ、でも……、そうか」
「なんだよ、そうかって」ジュンが口を尖らせる。
 案外、お似合いかもしれないと思ったのだ。
 ハルトミくんとジュン。ちょっと意外性があるけれど(具体的にどう意外なのか自分でもわからないけれど)、想像してみるとなんとなく画になる気がした。うん、なかなかどうして、悪くないじゃないか。
 ようやく自分が暴挙を演じていることに思い至ったのか、ジュンは焦ったように付け加えた。
「や、でも、たぶん、まだあいつが来たばっかりで、物珍しさが勝ってるだけだから、そんなに深く気になってるわけでもない、と思うよ、うん。好奇心……、そう、そうだ、好奇心だと思うね、これは……、おい、笑うなよ!」
 何を慌てているのだ、とますます可笑しくなる。
 もしも彼女がケータやキョーヘイやソノヤスの名を挙げていたら、これほどすんなり受け入れられなかっただろう。自分の言葉に偽りはなく、わたしはこの施設の子達を心の底から家族だと思っているので、ジュンの口からハルトミくん以外の名前が挙げられていれば強い抵抗が生じたに違いなかった。
 では、なぜハルトミくんなら許容できるのだろうと考えて、わたしは少し自己嫌悪に陥る。たぶん、わたしはまだ、ハルトミくんを家族として迎えられていないのだろう。心から受け入れていないのだ。
 ハル、と口の中で呟いてみる。
 なんて違和感。
 でも、今に始まったことではない。
 これまでもこんな調子だった。
 いつの間にか、日常のどこかで、わたしは相手を無意識に受け入れていく。それに掛かる時間と手間の長さがわたしの悪い部分。でも、そう悲嘆することではないかもしれない。この世界とわたしの間に横たわる空間、それが他の人より少しく長いだけで、けして断絶されているわけではないのだ。その証拠に今ではハルトミくん以外の子全員と打ち解けている。ハルトミくんに対しても、そう遠くないうちに馴染むことができるだろう。まるで歯車が噛み合うように、かちりと。
 紅茶を飲もうとして、既に飲み干したことに気付いた。ジュンのコップも空だ。
「新しい紅茶貰ってくるね。ジュンもいる?」
「うん、頼む」
 わたしはコップとペーパーカップを手にして席を立つ。勉強室を出ようとしたところで「ユメノ」とジュンが呼んだ。
「なに?」
「今の話、内緒ね」
 ジュンは壁の方を向いている。薄暗い中でもわかるほど彼女の横顔は紅潮していた。これはいい弱味を握った。わたしは吹き出しそうになるのを堪え、「わかってるよ」と答えておいた。こういうところがジュンの愛らしい一面なのだ。
 独りでくすくす笑いながら食堂へ入ると、水道場に立っていたセイコさんが振り向いた。食器を洗っている最中で、手に白い泡をつけている。両隣では当番である年少の女の子二人が手伝っていた。
「宿題中?」セイコさんが尋ねる。
「うん、紅茶のおかわり貰おうかなって」わたしは冷蔵庫からポットを取り出す。セイコさんが作り置きしてくれたものだ。「洗い物、手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
 その時、裏口からどたどたと足音が迫ってきた。扉が外れんばかりの勢いで開き、ハルトミくんが飛び込んでくる。玉のような汗をこめかみに浮かべていた。
「あ、ユメノ、俺にも紅茶くれ!」
 びっくりしているわたしに彼はせがんだ。
「あんたね、もうちょっと静かに入ってこれないの?」皿を拭きながら、セイコさんが呆れたように言う。
「あ、セイコさん、例のアレ届いた?」お構いなしにハルトミくんが訊ねる。
「まだよ。そんなすぐに来るわけないでしょう」
「アレって?」
 紅茶を注いだコップを彼に手渡しながら、わたしは興味を引かれて尋ねる。街で何か買い付けたのだろうか。当番の女の子二人も「アレって?」と声を揃えた。
 ハルトミくんはジェットエンジンのような勢いで紅茶を飲み干すと、「うむ」と思わせぶりに皆を眺め回す。わたしの顔に目線を留め、にっこり微笑んだかと思うと、「ひ、み、つ」と区切るように答えた。思わず脱力してしまう。
「そのうち見せてやるから」
「なにを?」
「期待してな、ベイベー!」
 彼は豪快に腕を振って外へ駆けていく。細い手足のしなやかな躍動がまるで豹のようだ。
「変なの」
 女の子二人もわたしを見上げ、「へんなのー」と声を揃えて笑った。
 ジュンとハルトミくんの並ぶ姿をもう一度、想像する。やはり悪くないツーショットだった。ペーパーカップとプラスチックのコップを手に、わたしは勝手に祝福するような気持ちで勉強室に戻った。

 ◇

 その日は朝から雨が降っていた。
 幻影のようにしっとり煙る雨だったが、朝食を済ませ、外部から定期的に訪れる教師の授業を終えた頃には、輪郭のはっきりした雨に代わっていた。窓辺で耳を澄ますと、無数の雫が誘うような音を紡いでいる。
 本を胸に抱え、わたしは上機嫌で雨の芝生へ駆けていく。もちろん、本が濡れてはいけないので傘を持っている。傘を開くと、頭上で楽団のステージが開かれたように雨音が鳴った。不思議に陽気な騒がしさだ。
 当然ながら清流亭には誰もいない。傘を畳み、わたしは長椅子にそっと腰掛ける。息を吸い込むと、心地良く湿った空気だった。五月も過ぎ、高原にもだんだん初夏の暑さが漂い始めていたが、今日は眠気を覚えるほどに涼しかった。
 器用に運んでいたペーパーカップを机に置き、お気に入りの詩集を広げる。静謐な雨の調べに耳を澄ましながら、言葉が生む夢想の海へ漕ぎ出した。あるいは、はばたいたというべきか。このイメージには飛翔という表現のほうが似つかわしい。いや、浮遊のほうが近いか。この世界には重力さえ存在しないのだ。
 頭の片隅でどうでもいいことを考えながら、意識の大半は既に別世界にある。雨の日はやはり良い。おこがましいが、清流亭のこのひと時はわたしの為だけに用意された神秘の世界に思えるのだ。きっと、神様の落とし物の一つがこの雨の日の清流亭だったのだろう。
 この静寂を何と譬えればいいのか……。
 おや?
 わたしは首を捻り、以前にもこんな疑問にぶつかったなと思い至る。
 隔絶された静けさではない。もっと、こう、自然の一部に自分を溶け込ませたような静寂。真夜中にふと目が覚め、白み始めた空をじっと眺める、あの空白の時間に似ている。雪が解けだす瞬間のフキノトウがこんな気持ちなのかもしれない。
 静かな高揚が芽生えた。それを何らかの形にしようと思い立った瞬間、ページの隙間から紙がひらりと滑り落ち、わたしの気概は削がれた。ノートから割かれた一枚だ。乱雑に折り畳まれている。
 なんだろう、と考えた瞬間に思い出す。
 ぶわっと顔に熱が上がった。
 そうだ、これはわたしが挟んだものだ。
 一年ほど前にも、同じ詩集を清流亭で読み耽っていた。その時にも雨が降っていて、わたしは今と同じように不思議な高揚を抱き、それを文章にして書き連ねていたのだ。そして、誰にも見つからぬよう、この詩集のページに挟んでおいた。わたし以外に詩集を読む人なんていないから、これは妥当な隠し場所だった。
 わたしは愕然とした思いで、一年振りに再会した自作の詩に恐る恐る目を通す。途端に顔から火が出た。「うわぁ、うわぁ」と悶えるように身を捩る。
 隠しておいて正解だった。
 なんとか自室へ持ち帰り、ジュンにも気付かれぬよう極秘裏に処理しなければ。
「ユメノ、なにしてんの?」
 ぎゃあああ、と悲鳴を上げてしまった。
 レインコート姿のハルトミくんが軒下に立っていた。いつからそこにいたのだろう。
「な、なんだよ、ぎゃああって」
「なんでもない!」わたしは紙を後ろに隠した。
「なにそれ?」彼は好奇心を漲らせて近づく。「見せてよ」
 彼が後ろへ回ろうとするのを必死に阻み、伸びてくる手を機敏に避ける。だけど、フェイントに引っ掛かってあっけなく奪われてしまった。
「返して!」
「見たら返すよ」
「やめて! 本当にやめて!」
 わたしの必死な懇願に彼は驚いた。制するように手のひらをわたしの鼻先へ掲げる。その仕草に一瞬だけ気をとられ、わたしは思わず声を失くしてしまった。主人に「待て」と命じられた犬のようだ。
「嫌なら本当にやめるけど」ハルトミくんは少し真面目な口調で言った。逆の手に持った紙を小さく振る。「これ、なにか大事なものなのか?」
「大事っていうわけじゃないけど」わたしは口ごもった。「でも、恥ずかしいから」
「恥ずかしいって?」
 上手い嘘も思いつかず、観念してわたしは白状した。心底泣きたい気分で俯く。
「それ……、昔、わたしが書いた詩」
 もしもハルトミくんがそこで吹き出していたら、誇張ではなく、わたしは本当にその場で泣き叫ぶ羽目になっていただろう。そして、この世に蔓延る余計な好奇心に駆られて生きる同年代の男の子達を一人残らず恨む人生を送ったに違いない。
 でも、そうはならなかった。彼は意外そうな顔でわたしを見返すだけだった。「へぇ」と零し、小さく頷く。無意識の動作のようだった。
 不思議な沈黙に雨音が注がれていく。この逼迫した状況下でも、わたしの耳はなぜだか冷静にその響きを聴いていた。
「読んでいいか?」彼は真摯な口ぶりで訊ねた。
「駄目」わたしは即答する。「絶対、駄目」
「笑わないから」そう言いつつも、ハルトミくんは息を漏らして微笑む。でも、それは年少の子達に向けるような、安心を与える類の笑みだった。
 わたしの無言を返事と受け取ったのか、彼は慎重な手付きで畳んだ紙を広げ、一年前のわたしが連ねた文面へ目を落とした。彼のレインコートは濡れていたけれど、紙に水滴が付かないよう注意を払っていた。くしゃくしゃにしてくれても構わないのに、とわたしは思う。
 今ならひったくることもできた。でも、わたしはなぜだかそれをする気が起きず、ただ顔に両手を当てたいのを懸命に堪えながら突っ立っていた。柔らかい部分を突っつかれているようなくすぐったさが四肢の先にまで感じられて、むしろ痺れたように身じろぎできなかった。
 文章を追うハルトミくんの瞳は、驚くほど澄んでいる。まるでカケスの卵か黒曜石のような煌めき。黒い瞳の動きを追いながら、一年前に綴った詩の一片をわたしも追想していた。勢いで書いた代物のはずなのに、一字一句違わず克明に思い出すことができた。
 雨について謳う詩だった。

 雨の静けさが歓びを運ぶ。
 そっとわたしの中へ注いでいく。
 水の鈴がそこかしこで響いている。
 全てがここでひっくり返る。
 喧騒は静寂へ。
 飛沫は風へ。
 影は光へ。
 哀しみは歓びへ。
 清流の下で全てが裏返しになる。
 そんな雨がわたしは好き。
 ペーパーカップに沈めた声達が。
 泡だって。
 溢れて。
 滑りだす。
 それは今でも輝き続けている。
 裏返ったわたし。
 解き放たれた視界では幾億もの水滴がダンスして。
 誘い。
 さざめき。
 微笑み。
 見えない世界の果てへとわたしを連れていく。
 こんな雨が、わたしは好き。

 蹲りたくなった。四つん這いで狂った犬のように吠え立てて、雨の中へ飛び出していきたい衝動に駆られた。そのまま宇宙の果てまで飛び出し、塵になってしまいたかった。
 ハルトミくんは目を上げ、羞恥に悶えるわたしをじっと見つめる。しばらくは何も言わなかった。止まない雨の響きだけが変わらずに、清流亭の世界を形作っていた。
「俺、詩とか、よくわからないけど」ぼそっとハルトミくんが零した。「これ、良いと思う」
「ええ?」思わず声が上擦ってしまう。
「嘘じゃない」ハルトミくんは笑っていなかった。でも、濡れて冷たそうな頬に僅かな赤みが差している。「お世辞でもない。本当に、良いと思う」
「そんなこと言われても」声が萎んでしまう。
 それは駄文以外の何物でもなかったし、そんな代物を真面目に褒められても困ってしまう。恥ずかしさやら申し訳なさやらが綯交ぜになって、わたしは途方に暮れてしまった。何をどう言葉にしていいのかもわからない。頭の芯はとっくに過熱気味で、機能停止をきたしていた。
「俺、これ好きだよ。上手く言えないけど」
 ハルトミくんもたじろいでいた。わたしと同じように何かを言葉にしたくて、でもそれが上手く形にならない焦りと苛立ちが表情にある。それがわたしには少なからず意外だった。彼はもっと、いつでも余裕の微笑を湛えて、冗談も真面目な話題もつつがなく口にしている印象があったのだ。わたしよりもずっと陽気で、ずっと器用な男子だと思っていた。
「文字が体ん中に入ってくるっていうか……、いや、文字っていうか、言葉っていうのか……、そうだ、イメージだよ。イメージがさ、こう、目の前で広がって」
 ハルトミくんは身振り手振りで感想を表している。わたしはもう笑えばいいのか怒ればいいのか、泣けばいいのか呆れればいいのかもわからず、糸の切れた人形のようにずるずる机に突っ伏した。体中から力が抜ける。
 だから、読まないでって、言ったのに。
 最低だ。
 なんてことをしてくれたのか。
「いや、だから、お世辞じゃないって……、あぁ、もう、伝わらないかな、この感じ!」
 気怠く顔を上げると、ハルトミくんが向かいの椅子に飛び乗り、両腕をいっぱいに広げていた。大きな円を描くように腕を動かすと、彼は「これぐらい感動した!」と怒鳴った。意味不明のパントマイムだ。
 いったい何をしているのだ、とわたしはようやく少し笑えた。
「あぁ、よかった。泣かれたのかと思った。焦った」ハルトミくんはほっと安堵を浮かべる。
「泣きたいよ」
「強引に読んだのは悪かった。ごめんな」
 わたしは横を向いたまま、ちょっとバツが悪くなる。他の男子とそう大差ないように思わせるものの、こういった場面でハルトミくんは大人な態度を見せるのだ。
「でもさ、この詩、気に入ったっていうのは本当だぜ。裏返しになるとか、解き放たれた視界とか、そういう部分」彼はわたしに紙を返し、清流亭の屋根を見上げた。「清流の下って、つまりここのことを言ってるの?」
「うん」わたしはむっつりと返事する。
「だからか。お誂え向きっていうか、想像の風景とすごく重なった」
「もうその話、しないで」頬に触れると火傷しそうなくらいに熱かった。
「雨のこと、こんな風に感じられる奴ってあんまりいないと思うよ。俺、雨ってじめじめしていて、薄暗くて、広場使えなくなるからあまり良い印象なかったけど、これ読んでちょっと考え方変わった」ハルトミくんはにっこり笑う。「そうそう、価値観がさ、まさに裏返ったって感じ。ユメノ、すごいよ」
「馬鹿にしているでしょう」
「し、してないって。もっと自信持っていいと思う」
 こんな状況で無茶を言わないでほしい。
 わたしは鉛のように溜息を吐き続ける。頭痛がした。もう滅茶苦茶だ。せっかくの雨の日だったのに、何もかもぶち壊しだ。
 でも、少し冷静になって、淡い嬉しさが胸のうちにあるのに気付いた。
 褒められて喜んでいるのだろうか。
 こんなどうしようもない落書きで。
 まったく……、単純な奴。
 自分で自分に呆れてしまう。
 雨の中から「コラァ!」と怒声が突然飛んできて、わたし達は跳ね上がった。振り向くと、雨で霞んだ広場の向こう、畑がある方向にレインコート姿のテツロウさんが立っている。何か怒っているようだ。
「ぐああ」とハルトミくんが呻く。「やばい、忘れてた。俺、ビニールシート持ってくるんだった。どやされる」
 ハルトミくんは慌ててフードを被り直した。長靴に泥がついていて、なるほど、今日の畑当番は彼だったらしい。
「じゃあ、また後でな、ユメノ」
「う、うん」わたしはぎこちなく頷く。「あ、ハルトミくん!」
 倉庫へ向かって走り出した彼は、脚を止めて振り返る。
「あの、これ、お願いだから……」
「わかってるって。誰にも言わない」彼は苦笑を浮かべる。「でも、もっかい言うけど、ユメノ、自信持っていいと思うよ。俺、すげぇ気に入ったもん」
「そんなこと……」
「本当だって」
「ハル! だべってないでさっさと持って来い! 何分掛かってんだ!」
 テツロウさんが遠くからどやしつけ、ハルトミくんは「ひええ」と悲鳴を上げて駆け出す。わたしはぽかんとその後姿を見送った。
 溜息と一緒に椅子へ腰を下ろす。屋根を打つ雨に耳を傾けるも、わたしの周囲にはもうあの特別な静けさが綺麗さっぱりなくなっていた。未だに鼓動が喧しい。緊張の余韻で手先がびりびり痺れている。
 迂闊だった、と反省。
 やっぱりこれは捨てたほうがいいのでは、と手の中の自作の詩を眺めるが、引き裂くのは躊躇われた。わたしにとってA級クラスの危険物であるのは充分承知しているが、なんとなくハルトミくんに悪い気がした。
 あれは本当に褒めてくれていたのだろうか。
 本心から気に入ってくれたのだろうか。
 そう考えるとむず痒いような喜びが込み上げて、自分でも意外なほどに浮かれてしまった。だったらもう彼にあげちゃおうかとも考えるが、きっと施設内の誰に見つかっても、誰がこの詩を書いたかすぐにわかってしまうだろう。わたしが雨の日に清流亭で過ごすのは、既に周知の事実だ。ハルトミくんがうっかり誰かに見せようものなら、それはもう公開処刑に値する恥辱と痛苦である。
 落ち着かない気分で紅茶を一口飲む。砂に落ちた雫のように甘さが染み入った。
 カップの中で、ハルトミくん、と呟いてみる。
 まだ、くん付けで呼んでいる。
 彼が来てから一か月が経ったというのに。
 でも、前よりは多少馴染めたかもしれない。
 今度はカップの中で、ハル、と囁いてみる。
 これには、やっぱりまだ違和感。
 でも、先ほどとは違うむず痒さが昇ってきて、びっくりする。
 戸惑いながら、ちらりと倉庫の方へ目を向ける。そちらは本館の裏手になって見ることができない。横手から伸びる樅の枝も邪魔だった。飛沫を乗せた風が吹き、わたしは目を細める。高原へ振り向くと、春先よりもずっと背を伸ばした草の穂先が見えない手に撫でられるように揺れていた。

 ◇

「そうそう、ハル、あんたが頼んでたもの、届いたよ」
 いつも通りの騒がしい夕飯を終えると、セイコさんがお皿を片付けながら告げた。ソノヤスとじゃれ合っていたハルトミくんは「本当?」と振り返る。嬉しそうだった。
「頼んでたものって?」
「エロ本?」
「バーカ」
 男子達が笑い合っているのを横目に、わたしはジュンと一緒に洗い物をしていた。泡立てたスポンジを掴みながら、ぼんやりと二週間前の会話を思い出す。例のアレと呼んでいた物だろうか。土地柄、この施設への配達物は遅延することが多い。
「頼んでたものって?」ジュンも興味があるのか、ハルトミくんに振り返る。
「後で皆にも見せてやるよ」
「どうせくだらない物なんじゃないの?」
「この世に溢れる物のほとんどはくだらない物だ」
「そういう話はいいから」
 食器洗いもひと段落ついた頃、男子達が「ホールに集合!」と叫びながら建物内を駆け回った。年少の子達が嬉しそうについていく。「なんだろ?」と首を捻りながらわたしとジュンもついていった。
 子供達全員がホールへ集められる。職員も、テツロウさんやセイコさんだけでなく、普段は滅多に部屋から出ない院長先生までがにこにこと椅子に座っていた。わたしとジュンは先生に挨拶をして近くの椅子に座る。
「あちゃあ、全員呼んだのか。参ったな。ちょっと恥ずかしい」
 皆に囲まれるようにして真ん中に座るハルトミくんが頭を掻いた。
 わたしの目は、彼が構えているアコースティックギターに釘づけになっていた。それはずっと物置小屋に放置されていた代物だった。
「そのギター、どうしたの?」ジュンが皆を代弁して尋ねる。
「裏で埃被っていたからさ、新品の弦とペグを取り寄せて復活させた」ハルトミくんが答える。「で、前の施設で俺、ギター弾いてたから、ちょっと演奏会でもと思いまして」
 皆が火のついたように囃し立てた。ハルトミくんはぺこりとお辞儀してから、ピックを構えて弾き始める。前の施設で相当練習したのか、彼の指はネックの上で滑らかに動いた。放たれる音もつっかえることのない綺麗な旋律だ。ギターのことはよくわからないけど、とても上手なのはわかった。
 皆も呆けたようにハルトミくんの演奏を聴いている。曲は聴き馴染みのある有名なカントリーで、年少の子が音程のずれた声で唄い始めた。テツロウさんやケータ達が喧しいくらいに手拍子を打った。
 曲が終わり、わたし達は惜しみない拍手を贈る。喝采を受けたハルトミくんは、可笑しいくらい澄ました顔でお辞儀する。
「すげぇじゃん、ハル! めちゃくちゃ上手い!」
「もっと弾いてよ」
 テンポの速い曲に移った。最近、ラジオで流行っているビート・ミュージックだ。男子達が吠え立てて喜んだ。体が弾むような演奏で、ハルトミくんもメロディを口ずさみ、体を揺らしながら弾いている。わたしも俄かに気が高揚するのを感じた。エレキ・ギターの曲だったと思うが、ラジオで聴くよりも不思議とカッコよかった。
 その曲もやはり皆の拍手で盛大に締められた。
「あんた、歌い手さんの素質あるわね」セイコさんが微笑む。
「どうも、ありがとう」ハルトミくんは鼻の下を擦って挙手の姿勢になる。「有名な曲ならだいたい弾けるから、ここでリクエストを募ります」
「演歌やってくれよ」
「そういうじじ臭いのは却下でお願いします」
「あ、傷ついたぞ、俺」
 テツロウさんとハルトミくんのやり取りに、わたしは思わず噴き出す。皆も一斉に笑い出した。
「あ、じゃあ、ユメノ。なんかリクエストしてよ」
 彼がこちらを指したので、どきっとした。えっと、と言い淀んでいるうちに皆の視線が集まる。困った。わたしはあまり音楽に詳しくないのだ。
 その時、昼間の清流亭でのやり取りが脳裏を過ぎり、わたしは思わずニヤッとしてしまうほどの名案を思いついた。まったく、天啓としか言いようのないアイデアだった。
「ハルトミくんが作った曲、聴きたいな。なにかあるでしょ?」
 彼の顔が強張った。見る見るうちに耳の先まで赤くなった。「いや、それは」と目を泳がせて、別人のようにしおらしくなる。初めて見る彼の狼狽えた顔だった。
「ないよ、そんな曲は……」
「聴かせろよ!」男子達が爆笑し、わたしへ親指を立てる。「ユメノ、ナイス!」
「あるにはあるけど、そんな大したもんじゃないし」
 あーあ、認めちゃった。もう後に引けないぞ。
 ほくそ笑んでいると、彼が恨めしそうにこちらを睨んだ。しかし、もとはといえば彼が悪いのだから、わたしはむしろ痛快な気分だった。
 年少の子達ばかりでなく、テツロウさんやセイコさんまでが「聴かせろ」とせがみ始め、いよいよ収拾がつかなくなったハルトミくんは観念したように音高く手を打った。
「わかった。じゃあ一曲だけ、静かなのを。あまり期待しないでください」
 そわそわしている彼をもっと見ていたかったが、深呼吸をすると、表情がきりっと張り詰めた。その真剣な様子にわたしは思わず息を呑む。
 ピックをポケットに仕舞い、ハルトミくんは指で弦を爪弾き始める。彼が言った通りの静かな曲調で、讃美歌のように美しいメロディだった。バラードというよりはもっと透明な旋律で、澄んだ水底に眠る神秘の結晶に触れるような響きだった。
 静まり返ったホールに、じわじわと無声の驚嘆が広がる。
 無論わたしも例外ではなく、しばらくは開いた口を閉じることもできなかった。それほど綺麗な曲だった。本当に自作した曲なのかと問いかけたくなるほど、見事な完成度だったのだ。たった一本のギターで、これほど叙情的な演奏ができる彼の手腕に驚愕した。
 俯きがちなハルトミくんが小さく歌い始める。だけど、もう手拍子も指笛もなかったから、その声もよく届いた。はにかみを含んだ、しかしいつもの彼の、男の子らしいくっきりした声。
 しばらくは他の皆と同じように聞き惚れていたが、彼の歌う詞にようやく意識が向き、わたしは背筋が凍る思いをした。あまりのことに膝が少し震えてしまった。
 彼はギターの旋律に乗せて、雨についての詞を歌っていた。
 静かな雨を讃える言葉。
 視界に広がる風景とそこに佇む自分の描写。

 裏返しになった雨の日。
 解き放たれた視界で水滴が踊る。
 ひっくり返って。
 目を閉じて。
 静かな歓びが満ちてきて。
 こんな雨が、ぼくは好きだ。

 韻や節の都合があるので完全に同じというわけではないが、全く気付かぬほどわたしは馬鹿ではない。いつの間にか鼓動が速くなっている。
 ハルトミくんは一瞬だけ目を上げ、挑発的な視線をわたしに投げる。一気に血の気が引くのを感じた。狼狽えていたのはいまや完璧にわたしの方だったろう。
 余韻を残して曲が終わると、途端に大喝采が起こる。皆が驚きと称賛の表情で拍手していた。
 ハルトミくんは芝居がかった仕草でお辞儀すると、ようやく相好を崩して「おしまい」と告げた。皆が彼に駆け寄ってめちゃくちゃに引っかき回す。座っているのはわたしとジュンと、相変わらずにこにこしている院長先生だけだ。
 顔を覆いたくなった。真っ赤になっているに違いない。
 なんてこと!
 ちょっとした仕返しのつもりが、さらにとんでもない報復に遭ってしまった。相手の方が一枚上手だった。神に縋る思いで、ハルトミくんがわたしの名を口に出さぬよう祈った。
 あぁ、いけない、とわたしは我に返る。彼を称賛する輪に加わらねば。一刻も早く彼をおだてて、これ以上機嫌を損ねないようにせねば。
 腰を浮かしかけてから、隣のジュンがいつまでも座っているのにふと気付く。
「どうしたの?」
 聞こえなかったのか、ジュンは返事もせず、ただうっとりとハルトミくんを眺めていた。今まで見たことのない、彼女の恍惚した顔だった。
 そういえば、とジュンが密かにハルトミくんを思慕している事実を思い出す。なるほど、今の演奏で決定的に惚れてしまったのか。なんて気楽な子だろう。
 わたしは呆れ返るような、心底羨ましいような、複雑な気持ちで親友を眺めてから、輪の中心にいるハルトミくんへ振り返る。彼もちょうどこちらを向いて、かっちりと目が合ってしまった。
 彼は一瞬だけ睨み、すぐ不敵に笑った。
 あぁ、早くご機嫌を取らねば。
 わたしは必死な思いで彼の方へ歩いた。

 ◇

 高原は夏の陽の下で青さを増し、時々鮮烈な輝きを一面にうねらせた。野鳥と虫の声が日に増して激しくなり、生命の漲る地上を避けるようにして、雨の日の静寂は日常からすっかり遠のいた。梅雨が終わってしまったのだ。夏は好きだけど、こうして雨の日が少なくなってしまうから、毎年複雑な気分になってしまう。
 開け放した窓辺で頬杖をつき、一足先に広場で遊ぶ子供達をぼんやり眺めていた。清流亭でゆっくり本を読みたかったが、テレビの取材があるのでそういうわけにもいかなかった。職員と子供達全員のインタビューを撮るらしく、わたしの番がまだ回ってこないので、こうして待機しているのだ。
 テレビや雑誌、あるいはなんとか法人のなんとか団体など、様々な人達が定期的に施設を訪れる。取材や運営の調査という名目でやってくるのだ。テツロウさんや一部の子は嫌悪を露わにするけど、年少の子などは単純な珍しさからはしゃぎ回るようになる。わたしはといえば、とっくに慣れたもので、特にどうとも思っていない。何かの定期健診くらいに考えていた。
 勉強室の扉が開き、キョーヘイが顔を覗かせる。
「ユメノの番」
「うん」わたしは椅子から立ち上がり、ジュンに振り返った。「いってくるね」
「いってらっしゃい」ジュンは机に頬をつけたままで手を振った。退屈を通り越して腐っているようだった。
 セイコさんに促されて応接室に入る。にこにこした院長先生がソファに座っていて、テーブルを挟んだ対面にはスーツ姿の女性とカメラを構える男性がいた。その後ろにも機材を携えた男の人が二人いる。
 ようやく、わたしは少しだけ緊張してくる。人見知りの性格がここでも頭をもたげるのだ。
「楽にお話してくださって構いませんからね」
 にっこり微笑む女性にわたしも不格好な笑みで応えた。おずおずと院長先生の隣に座る。
 あぁ、大人の女性だ、と思う。
 セイコさんとは違う、ここからずっと遠い都会で暮らす女性だ。歳は三十を幾つか過ぎたほどか。化粧が濃い気もしたが、間近で眺めてみるとやっぱり洗練された印象だった。美人である。都会の美人だ。
 インタビューは簡素なものだった。
 名前と得意科目と趣味を訊かれ、次に将来の夢を尋ねられた。出来るだけつっかえないよう心掛けながら、わたしは丁寧に答えていく。スズモリユメノです。得意科目は現代文です。趣味は読書です。将来の夢というか、漠然と考えているのは、この施設の職員になることです。
 肉親についてどう思っているか、あるいは里親を探さないのかといった質問がされることはない。もちろん、実の両親についての記憶はほとんどないし、今さらどこかの家に養子に入る気なんて毛頭ないから、とてもつまらない回答になってしまうだろう。しかし、どうしてそういう類の、いわゆる突っ込んだ質問をしないのか、毎回不思議で仕方ない。テレビの視聴者や雑誌の読者にしてみれば、得意科目なんかよりもそういった本音のほうが遥かに興味をそそられるはずなのに。
 かといって、実際に尋ねられたら、きっと良い気分はしないだろう。だから、大人達はそれを慮ってくれているのだ。何となくそんな気がする。慎重な話し方をしているのが手に取るようにわかる。たぶん、皆、優しい人達なのだ。
 だけど……。
 時々、考える。
 親がいないというのは、そんなに不憫なことなのだろうか。まるで腫物に触るかのように扱われているけれど、他の子と何がそんなに違うというのだろう。
 わたしはわたし。
 人が人であるのに、家族の有無が関係あるのだろうか。
 いずれ大人になれば、誰もが独り立ちをして親許から離れていく。
 それはどんな動物にだっていえること。
 その過程が少し違うだけで、なぜ可哀想に思われるのだろう。
 街を歩く女の子とわたしにどれほどの違いがあるのか。
 もしかして、自分に見えないだけで、頭の上に出生表のようなものが浮いているのだろうか。なるほど、それで孤児かどうか見分けられているのかもしれない。そこにはなんと書かれているのだろう。『取扱注意』と判子が押されているのかもしれないな。
 可笑しい……。
「あなた、前にも会ったわよね?」
「え?」わたしは意識を戻して聞き返す。
 インタビューは既に終わり、カメラもマイクも止まっていた。オフレコの状態だ。
「もう、七年前かな。私、七年前もここに取材にきたのよ」女性がにっこり笑う。
「そうだったんですか。あの、すいません、覚えてなくて」
「無理ないわよ。あなた、まだ小さかったし……、大きくなったわね。なんだか感慨深い」
「はぁ」わたしは曖昧に返す。あまり言われたことのない言葉だ。
「あなた、ここが好き?」
「はい」迷いなく頷く。「嫌だなって思うことも時々ありますけど、でも、大好きだと思います。ずっとここにいたいって思っているし」
 彼女は脚を組んでじっとわたしを見つめていたが、やがて顔を綻ばせた。
「よかったね」
 わたしも思わず微笑む。
 よかったね、か。
 そうだ、可哀想なことなんか何もない。
 わたしには居場所があるし、家族もいる。
 他の子と何も変わらないじゃないか。
 最後に握手を交わした時も、彼女は微笑んでいた。なんだか柔らかな春の陽だまりを思わせる微笑で、もしかしたらこれが母親の笑い方なのかもしれない、と脈絡なく思った。それから、わたしの母親は今何歳になっているのだろう、と久々に考えた。

 ◇

 ジュンに出番を告げてから、わたしは詩集を片手に清流亭へ向かった。高原といえども日なたに出ると暑い。広場で遊ぶ子達を見て「元気だなぁ」と苦笑してしまう。
 こんもり茂った樅と楓の枝葉の向こうに清流亭が見えて、わたしは思わず足を止めた。
 ハルトミくんが座っていたのだ。
 どきん、と心臓が鳴る。そのまま不規則な鼓動を打ち始め、わたしは自分で自分に戸惑ってしまった。
 ハルトミくんはすっかり私物と化したギターを膝へ乗せ、ぼんやりと椅子に座っていた。眠たげな目が広場に向けられている。
 躊躇いながら近づくと、彼はこちらに向いた。
「よう」彼は口許を上げる。
 わたしはそそくさと屋根の下へ入った。
 演奏会以来、彼とはろくに口を利いていなかった。気軽に話せるはずもない。彼には大変な弱味を握られている。
「今日は詩、書かないの?」
「それ、言わないで」わたしはぐっと睨む。
「良いと思うけどなぁ。歌にも合ったし」
 わたしは歯噛みして黙り込んだ。
 日が経つにつれ、わたしは羞恥と焦燥でいっぱいになってしまったが、幸い危惧した事態にはまだ陥っていない。演奏会直後に他の子が「詞も良かった」と口にした時はぞっとしたけれど、ハルトミくんは約束を守って即興だと答えてくれていた。
「ここで何してるの?」話題を変える為にわたしは訊く。
「練習。でも、なんか集中できなくて、休憩してた」彼は指を組んで伸ばす。「ユメノ、終わったの? テレビの」
「うん、さっき終わった」
「そうか」
 妙な沈黙が下りた。
 わたしはようやく、ハルトミくんの様子がいつもと違うことに気付いた。
「どうしたの?」
「何が?」彼は眉を上げる。明らかにとぼけている。
「なんか、その、元気ないなぁって思って」
 彼は困ったように頭を掻いた。
「うん、まぁ、絶好調ではないかも」
「何かあったの? またテツロウさんに叱られたとか?」
「またってなんだよ、失敬な」
「だって、いつも怒られてる」
「あの人が怒りっぽいんだ」ハルトミくんはやや間を置いて、再び口を開く。「ああいうのってさ、ユメノはどう思う?」
「ああいうのって? テツロウさん?」
「馬鹿、違うよ。ほら、今来てる……」
「テレビの人達?」
「そう」彼は短く頷く。
「どう思うって……、別に、どうとも思わないけど」
「ムカつかないか?」彼はこちらへ向かずに言った。
 あまりに刺々しい口調で、わたしは思わず面食らった。
「ううん」躊躇いながらも首を振る。「ハルトミくんは腹が立つの?」
「ああ。ぶっ飛ばしてやりたい」
「そう……」顔を顰めたかもしれない。こういう暴力的な物言いがわたしは嫌いだった。なんだか心が落ち着かなくなってくるのだ。「他の男子もよく言うね、そういうの」
「ユメノは思わないのか?」
「どうして思うの?」
 わたしは尋ねる。しかし、彼の怒りの理由は察していた。
「だって……、あいつら、まるで俺らのこと、珍獣みたいな扱いじゃんか」
「そんなことないよ。インタビュワーの女の人だって、良い人だったし」
「見下してんだよ、俺らのこと。可哀想とかなんとか言って」
「たとえそうだったとしても、わたしはそんなことで怒らない」
「じゃあ、ユメノが変わってるんだ」ハルトミくんは笑った。作り笑いなのは明らかだった。
「変わってるとは思わないけど……」わたしは抱えていた詩集を机に乗せる。「でも、そんな……、人がどう思おうと、わたし達には関係ないでしょう? 親がいないっていうのはたしかに世間では珍しいことなのかもしれないけれど、でも、それが恥ずかしいことだなんて思えないもん」
「俺だって恥ずかしくなんかねぇよ」ハルトミくんがムキになって言い返したが、すぐ思い至り、穏やかに微笑んだ。「親なんかいらないよ。家族なんかいなくても生きていける。だけど、そんなくだらないことで見下されるのは嫌なんだよな。同情されるのも、なんかムカつく」
「気持ちはわかるよ。だけど、それでいちいち腹を立てていたってしょうがないことだと思う」
「しょうがない、ね」ハルトミくんはふっと息をついて立ち上がる。「ユメノって大人だよな」
 ちょっと意外な気がした。
 そうだろうか。
 わたしは、大人なんだろうか。
 確かに他の子よりは聞き分けがいいとは自覚している。言い縋ってもしょうがないことは早々に諦めるほうだ。
 それが大人の条件なのだろうか。
 それならわたしは、一体いつから大人になったのだろう?
 今まで生きてきた時間の中で、いつまでが子供だったのだろう?
「俺さ、時々、自分がゴミみたいに思えてしょうがなくなる」ハルトミくんは遠くを眺めながらぽつりと呟く。聞いたこともないくらい平坦な声だった。「こういうこと言ったら怒られるかもしれないけど、でも、実際ゴミみたいなもんだから捨てられたんだよな、俺らって」
「そんなことない」わたしは思わず腰を浮かせた。無意識の反応だった。「そんなこと、言わないで」
「ごめん」彼はすぐに謝った。
「誰もゴミなんかじゃないよ」
「わかってる。変なこと言ってごめん」彼は微笑んだ。「当たり前だよ。俺も皆もゴミなんかじゃない。特に俺は、ほら、ギターの才能もあるわけだし、ユメノは詩の才能があるわけだ」
「また変なこと言って……」わたしは顔に熱が昇ってくるのを感じた。
「俺がムカついてるのって、たぶん、俺自身に対してなんだよな」彼は一瞬だけ、暗い眼差しになった。「自分をゴミだって認めそうになっている自分が、一番嫌いなんだ」
 わたしは返答を躊躇った。どんな言葉も、その場では求められていない気がしたからだ。たぶん、無理に口を開けば、目も当てられないくらいの惨めさが生まれるか、喧嘩になるかのどちらかだ。そんな気配が確かにあった。
 やがてハルトミくんが溜息を吐いた。
「ごめん。変な愚痴言って」
「ううん」わたしは首を振る。
「俺、ちょっと抜け出すから」
「え?」
「インタビュー、俺、まだなんだよ。誰か探しにきたら街に行ったとでも言っといて」
「ええ? だ、駄目だよ、そんな」
「いいから。言う通りにしないと詩のことばらすぜ」
 わたしが口を噤むと、彼は「冗談だって」と笑った。こちらからすれば冗談で済まない脅しだ。
 彼はギターを持ったまま、本当に高原を下りて行ってしまった。広場の子供達がきょとんと見送っていたが、すぐにまた遊び始めた。
 本を広げてみたけれど、どうにも集中できなかった。ハルトミくんの話がぐるぐると頭の中を巡って、ちっとも意識が向かない。やっぱり、雨の日じゃないと駄目だ。今日は紅茶もないし。
 しばらくすると、インタビューを終えたらしいジュンがやってきた。
「あれ? ハルは?」
「えっと、街へ行くって、言ってたけど」
「おいおい」彼女は舌打ちして溜息を吐く。「何考えてんだ」
「ハルトミくんの番なの?」
「そうだよ。まったく……、ユメノも止めろよなぁ」
「ごめん」わたしは詫びる。詫びるだけの責任は感じていた。
「一言くらい言えっての、あいつ」ジュンは愚痴を零し、気付いたようにわたしを見た。「あ、そっか、ユメノには言ったのか」
「え? あ、うん、そうだね」
「仕方ないなぁ、もう……、いないって伝えてくるよ」
 彼女が去った後、わたしは清流亭の下からぼんやりと空を眺めた。晴れ渡った、霞むものなど一つもない青天だった。
 わたしは大人なのだろうか、と再び考える。答えは出ない。どちらでもいいような気がしたし、もっと別の日に考えてみようとも思った。雨を待ち侘びている自分に気付き、ふっと苦笑した。

 ◇

 それから一月ほど経った日である。
 わたしはセイコさんからお小遣いを貰って、久々に街まで下りた。本を買いに行く為だ。バスに一時間乗って、市街地の停留所で下りる。そうすればもう車窓にあった緑は遠のき、風景はすっかり変わっている。コンクリートの匂いがして、空気すら別物になっている。
 土曜日のお昼時だったので、街は人で溢れていた。がやがやとした喧騒が途切れない。普段は高原に暮らすわたしだが、街中のこうしたざわめきも嫌いではなかった。新鮮というか、なんとなく弾んだ気持ちになってくる。
 路面電車の走る道路を横切り、書店へ入る。空調が効いていてとても涼しかった。ここにも人が沢山で、しかし騒がしくはない。落ち着いた外国の曲が有線放送で流れるばかりで、様々な人達が様々な本を手にとって中身を吟味している。その光景もわたしは好きだ。その中に紛れれば、わたしも孤児院の子ではなく、立派な客として振る舞えるのだ。
 目当ての本を探し出してから、もう一冊買おうと決心し、適当に手に取って眺めてみる。どれもこれも面白そうだ。わたしは慎重に検討し、ようやく決めた時には二時間以上も経っていた。それだけあれば短編を四本は読めただろう。
 どこかでご飯を食べようかと悩んだが、それはちょっとお金が勿体無い。どうしようか、と腕時計を覗きながら歩いていると、隣を女の子達がすれ違っていく。同い年くらいの子達で、キャンディやソフトクリームを舐めながら笑い合っていた。わたしは何となく振り返って眺める。全員がカラフルなワンピースやミニスカートで、例外なくおしゃれだ。対するわたしは野暮ったいボタンシャツに黒の長いスカート。おまけに眼鏡で、三つ編みで、麦わら帽子。そんな恰好の子はすれ違った子達の中には一人もいなかった。
 視線に気付いたのか、女の子の一人がこちらを向き、わたしは慌てて顔を逸らした。背中に視線を感じ、くすくす笑い合う声が聞こえた。堪らずわたしは歩調を速める。ジュンがいてくれたら、となんとなく思う。否、もしこの場にいればあの子達に突っかかっていくだろうから、やっぱり駄目だ。
 いつもは彼女と一緒に街へ下りるのだけど、今日は気が乗らないと断られていた。ジュンがいれば歩いている間もずっとお喋りできるから、周囲のことにはあまり気が向かないのだけど、もしかしたら今まで気付かなかっただけで、今みたいな嘲笑を受けていたのかもしれない。そう考えると、ちょっと落ち込んだ。
 冴えない気分で歩いていると、車道を挟んだ向かいの喫茶店にふと目が向いた。どきっとする。窓際の席にハルトミくんが座っていたからだ。そういえば彼も午前中から出掛けていた。そうか、街へ来ていたのだ。
 そちらへ向かおうとして、わたしは思わず脚を止めた。
 彼の向かいの席にジュンの姿があったからだ。
 わたしは慌てて電話ボックスの裏に身を隠し、そこから二人を窺った。
 二人はカップを手になにか談笑している。ハルトミくんがいつもの微笑でいるのに対し、ジュンはというと、彼女らしからぬ浮かれた笑顔だった。手振りを交えて何かを語り、それがハルトミくんの笑いを誘っているようだった。
 なんだ、そういうことか。
 わたしは納得した。
 いつもなら一も二もなく街へ行きたがるジュンが、今日に限って乗り気ではなかったのは、きっと二人で申し合わせていた為だったのだろう。どうりで様子がおかしかったわけだ。
 薄暗い勉強室で見た、ジュンの愛らしい表情を思い出す。
 それならそうと言ってくれればいいのに……。
 別に、内緒にすることないのになぁ。
 わたしはむしろ微笑ましい気持ちで二人を眺めた。
 嬉しさすらあっただろう。
 だけど同時に、寂しさが膨らんでくるのも感じていた。驟雨を降らせる夏の雲みたいにそれは急速に膨張して、わたし自身にとっても意外な感情と化した。切なさというのか、ちくりと痛むような感情だった。
 どうしたというのだろう。
 最近、なんだか変だ。
 わたしは戸惑いながら、逃げ出すようにその場を離れた。急に二人の姿を見たくないと思ったのだ。本を包んだ紙袋に手汗が滲むのを感じた。
 もう少し街をぶらつくつもりだったのだけれど、わたしはほとんど無意識に帰りのバスに乗っていた。膝に乗せた新品の本を開く気になれず、車窓を流れていく風景に喫茶店の二人の姿を重ねていた。見たくないと感じたはずなのに、それは何度もわたしの視界に幻影となって現れた。
 どうして、こんなに胸が痛むのだろう。
 喜べばいいことなのに。
 いったい、何が不満なのだ?
 自問を持て余しながら、わたしはぼんやりと孤児院へ戻った。ジュンが戻ったのはそれから二時間後のことで、ハルトミくんが戻ってきたのはそのさらに一時間後だった。
「あれ、ユメノ、もう帰ってたの?」ジュンは女子部屋に入るなり、目を丸くした。
「うん、まぁ」わたしは曖昧に頷いてとぼけた。「ジュン、街に行ってたの?」
「え? あぁ、うん、そう。やっぱり行きたくなってさ……、一緒に行けなくてごめん」
「ううん、大丈夫」わたしはぎこちなく笑う。
 自分がどうしたいのか、よくわからなかった。
 ジュンを問い詰めたいのか、それともそっとしておきたいのか、それすら判別がつかない。コントロールを失っていたと思う。ジュンとの間で、こんなに気持ちの錯綜が起こるのも初めてのことだった。
「ハルトミくんも、いないね」
 ぽつりと漏らすと、ジュンはちょっと怒った顔になった。
「それが?」
 わたしは首を振るだけに留め、あとは本を読むふりをして誤魔化した。ジュンはまだ不審そうにしていたけれど、それ以上の追及はなく、居心地が悪そうに部屋を出て行った。いつもなら絶対にもっとしつこかっただろう。
 息苦しさを感じて、開いた本に顔を埋めた。なんだかどっと疲れてしまった。

 ◇

 それから二日後。
 当番のわたしとジュンが食器を洗っていると、応接間の方から怒鳴り声が聞こえた。テツロウさんの声だ。びっくりして、危うくお皿を落としてしまうところだった。
「なに?」ジュンもびっくりした顔だった。
「誰か、怒られてるのかな」
「どうせまた男子だろ」彼女は呆れ顔になった。
 応接間は、わたし達の間では説教部屋とも通称されている。男子のほとんどがその常連であり、雷を落とすのは決まってテツロウさんだ。
 洗い物を終えて、わたしとジュンは野次馬根性で応接間の方へ向かったが、既にセイコさんが廊下に立ちはだかっていて、他の子を押し止めているところだった。
「なになに? 今日は誰が怒られてんの? なにしたの?」ジュンが可笑しそうに尋ねる。
「ハルよ」セイコさんが答える。「部屋に戻りなさい」
 ジュンは一瞬だけ心配そうな顔をしたけど、わたしの方へ振り向いた時にはいつもの悪戯っぽい表情をしていた。
「なにやらかしたんだか」
 わたしも相槌代わりに笑っておいた。
 部屋に戻ってしばらく本を読んでいると、男子部屋へ情報収集に行っていたジュンが戻ってきた。浮かない顔つきだった。
「どうしたの? 情報収集は?」わたしは尋ねる。
「うん」とジュンは頷いたが、なかなか話し出さなかった。その態度にわたしまで心配になってしまった。
「どうしたの? ハルトミくん、なんで怒られてるの?」
「バイトしてたんだって」
「え?」
「街で、日雇いのバイト」
「あぁ……、なんだぁ」わたしは拍子抜けしてしまった。
 よくある話だった。他の男子、ケータやソノヤスだって、秘密でバイトをしていて、それがバレて大目玉を食らったことがある。
「もう、びっくりするじゃない、そんな真面目な顔してたら」
 しかし、ジュンは相好を崩さなかった。思い詰めたような、不安そうな表情なのだ。
「ジュン?」
「あいつさ、ここを抜け出す気だったんだ」
「へ?」わたしは呆けた。「どういうこと?」
「お金貯めて、ここを出て行くつもりだったんだ」
 驚いて見つめ返した。意味がよくわからなかった。
「それは……」わたしは言いかけるが、言葉が見つからない。
「ハルが言ってたんだ」ジュンは俯いている。「早く施設を出たいって」
「それ、テツロウさんや先生は知っているの?」
「知らないと思う。他の男子だって知ってる感じじゃなかった。あたしだけに言ったんだと思う」
 わたしは短く頷く。ジュンはベッドに潜り込んでしまった。落ち込んでいるのだろうか。ハルトミくんからバイトを秘密にされていたのを気にしているのかもしれない。
 その夜、わたしはなかなか寝付けなかった。
 ハルトミくんのことが心配だった。
 いつも大人っぽく振る舞っているけれど、それでもわたし達と変わらない年齢だから、叱られた反動で何をしでかすかわからない。そう思わせる冷たさも、わたしはハルトミくんから察知している。自分をゴミだと語った時の横顔が忘れられなかった。
 紅茶でも飲もう。
 わたしはこっそりベッドから抜け出し、寝静まった廊下へと出る。台所に入り、ポットにお湯を張って沸かした。沸騰するのを待つ間、わたしは仄暗い電燈の下で詩集を読んだ。やがて湯が沸き、ペーパーカップにティーパックを浸してお湯を注いだ。
 そのまま自分の部屋に戻ろうかと思ったけど、何となく思い立ち、蝋燭とマッチを棚の引き出しから持ち出した。サンダルを履き、裏口から広場の方へ出向いた。夜間の外出は禁止されているから、もし職員の誰かに見つかれば大目玉を食らってしまう。いそいそと隠密のような足取りで夜の闇へ出た。
 空には無数の星が瞬いている。澄み切った大気の中で、微弱な光点は驚くほど鮮やかに地上へ信号を送っている。
 子供の頃、死んだ人達は星になるのだと聞かされた。その遥か遠い場所から、我々を見守ってくれているのだというお話だった。でも、あの星の一つ一つに、わたし達と同じような人生を送ってきた者が本当にいるだろうか。わたし達を見守ってくれるような存在が、本当にあの星のどれかにいるのだろうか。同じ人間にさえ見捨てられたわたし達に。
 夜闇に沈んだ清流亭はいつも以上に静かな佇まいだ。怖いようでもあるし、その反面、静かな虫の音に包まれて揺りかごのように安らいだ印象でもあった。
 ベンチに座る人影に気付き、わたしはぎょっと仰け反った。手に持ったカップから紅茶が少し零れた。
「誰?」
 わたしが鋭く問いかけると、人影がのっそり振り向いた。
「ユメノか?」
 心臓を鷲掴みにされた心地になる。人影の正体がハルトミくんだった。
「何してるの、こんな時間に」
「そりゃこっちの台詞だよ」彼は笑った。「深夜外出は禁止だぞ」
「ハルトミくんだって」わたしは言いかけてから、反論の不毛さを悟って向かいのベンチに座った。
「ユメノっていつもここにいるよな。夜も来るの?」
「たまに……、眠れない時とか」
「俺もここ、結構好きだよ。静かでさ、なんか落ち着く」
 わたしは蝋燭をテーブルに立てて、マッチを擦った。ぼんやりとオレンジの光が灯り、ハルトミくんの穏やかな顔が闇に浮かんだ。
「キャンプみたいだ」彼はぽつりと言う。
 それがきっかけだったのかはわからないけど、わたしは途端にどきどきしてしまった。人目を盗んで逢瀬を果たす男女の姿が脳裏を過ぎったからだ。もちろん、物語の中で培ったイメージだった。
「今日、怒られてたね」わたしは無難な話題を切り出す。
「あぁ……、参ったね。まさかバレるとは」
「どうしてバイトしてたの?」
「金が欲しいから」
「どうしてお金が欲しいの?」
「エレキ・ギターが欲しくて」
 彼は何でもなさそうに言うが、やはりそれには嘘の響きがあった。その証拠に彼の目はわたしから逸らされていた。
「もう少し経てばバイトも出来るようになるよ。それまで我慢すればよかったのに」
「そんな悠長な性格じゃないんだよ、俺って。ほら、この若さが有り余っているうちに行動したかったんだよ」彼はおどけた素振りで言う。「ガキって損だよな。何一つやりたいことをやらせてもらえない。ルール、ルールって周りがやかましくてさ」
「そんなの、大人も一緒だよ。大人だってルールに縛られているもん」
「でも、バイトは出来る。それに……、ここから抜け出すこともできる」
 わたしは何と答えていいのかわからず、蝋燭の灯に目線を逃がした。
「ジュンが、心配してたよ」
「は?」彼はきょとんとする。「ジュンが?なんで?」
「なんでって……」わたしは信じられない気持ちで彼を見返す。「心配するに決まってるでしょ、皆に内緒でバイトしてたりして。ジュンにも内緒にしていたんでしょ」
「だから、なんでジュンが出てくんの?」
 彼は初めて不審げな顔をした。声に苛立ちが含まれている。
「なんでってことはないけど……」わたしは気圧されて口ごもる。
「関係ねぇじゃん、あいつ」彼はそっぽを向く。
「関係あるよ」わたしもムッとした。「そんな酷いこと言わないで」
「だから、さっきから訊いてんじゃん。なんでジュンが俺に関係あるんだよ? あいつ、なんかお前に言ったの?」
「そういうわけじゃ……」
「そういうわけじゃないなら適当なこと言うなよ」
 彼の声が尖り始め、わたしはすっかり怯んでしまった。彼もそれに気付いたらしく、きまり悪そうに横を向いた。
 しばらくは沈黙だった。虫の音だけがこの静寂の外膜を破っていた。
「二日前、街で一緒にいるの見たよ」よほど止そうかと思ったけど、わたしは結局口にしていた。「カフェで二人で話してたでしょ? わたし、本を買いに行ってたから」
 彼はぎくっとした顔でわたしを見、それから観念したように溜息を吐いた。
「別に、そういうのじゃない」
「そういうのって、どういうの?」
「だから……」彼は再び横を向く。「好きだとか嫌いだとか……、そういう仲だって言いたいんだろ、ユメノは」
「わたしは別に……」
「じゃあ、なんだよ? なんで突っかかる?」
 わたしは返答に窮した。
 彼の言う通りだ。
 わたしは何が言いたいのだろう?
 何がしたいのだろう?
 そして、ハルトミくんにどうして欲しいのだ?
「ごめん」彼は頬を掻いて身を引く。「ちょっと、今日の俺、イライラしてるかも。悪い」
「ううん……、わたしの方こそごめん」
「ジュンさ、何か言ってた?」彼は尋ねる。「その……、俺のこと」
「別に、何も言ってない」
「嘘下手だな」
 ハルトミくんがふっと笑い、わたしは慌てた。
「本当だよ、何も言ってない。でも……、言わなくてもわかる。ジュンはたぶん、ハルトミくんのことが……」
「ストップ。それ以上は無し」彼が制止を掛ける。「ユメノの口からそれを聞くのは筋が違う」
 彼の言い回しにわたしは少し驚いた。
「だけど、二日前、そういう話があったんじゃないの?」
「あの日は普通に喋っていただけだよ。俺が出掛けようとしたら、あいつがついてきたんだ」
「何を話したの?」
「別に、特に語るようなことはなにも」
「たとえば?」
 ハルトミくんは黙ってわたしを見据える。わたしも気付いて首を振った。
「あ、ごめん、話したくないなら……」
「別に話してもいいようなつまらん内容だけど、踏み込まれるのは気分良くない。ユメノ、ジュンの親友だろ? そういう干渉はやめといた方がいいと思うな」
 そんな風に言える男子が新鮮で、わたしはまたもや驚かされた。
 彼の言わんとしていることはわかった。これ以上、二人の事情に踏み込んだって良い結果にはならない。ジュンとの友情を裏切るに等しい気がした。
 それでもわたしは止められなかった。
「好きだって言われたの?」
 彼はうんざりした顔で首を振った。
「言われてない。でも、言われなくてもわかる。そこまで俺鈍感じゃない」
「ハルトミくんは……、どうなの? ジュンのこと、好き?」
「好きじゃない」彼はきっぱり言った。「友達としては好きだよ。良い奴だもん。でも、恋人とか、そういう意味の好きではない」
 その時、わたしがどう感じたのか……。
 一言ではとても言い表せない。
 がっかりもした。
 可哀想だとも思った。
 酷いとも思った。
 感情は渦巻き、その一つ一つを判別するのは到底不可能だった。
 でも、はっきりしていることがある。
 わたしは、他のどの感情よりもまず、ほっとしたのだ。
 嬉しさすら感じたのだ。
 どうして安心なんかしたのだろう?
 なんでそんな卑怯な気持ちになれたのだろう?
「どうして、好きじゃないの?」
「どうして、好きにならなきゃいけない?」彼は怒ったように切り返す。
「いけないってことはない。でも、ジュンは良い子だし、それに……」
「本当にそう思ってんのか?」
「え?」
「お前、野次馬根性とか安い友情で俺とジュンをくっつけようとしてないか?」
 わたしは背筋が凍りついていくのを感じた。
「違う」
「じゃあ、余計なお節介焼くなよ」
「わたしはただ、ジュンのことが心配で……、友達だから……」
「そういうの、やめろよ。心配だとか友達だとかさ……、虫唾が走るんだよ、そういう態度」
 蝋燭の明かりの中で、彼の眼差しは冷たく尖っていた。その別人のような表情にわたしは愕然とした。
「そんな、なんでそんな酷いこと……」
「図星だろ?」
「違う!」わたしはテーブルを叩いて立ち上がる。「わたしは本当に……」
「嫌なんだよ、俺も!」彼も声を荒げた。「ムカつくんだよ……、こんなゴミの吐き溜めで、監視されてる中で、白々しく家族ごっことか友達ごっこしてるのは嫌だ」
「ごっこって……」わたしは気が遠くなる思いだった。「ごっこなんて言わないで。ゴミの吐き溜めっていうのも撤回して。なんでそんなことが言えるの? わたし達、ずっと皆で一緒にやってきたのに……」
「ここ以外に生きられる場所がねぇから、仲良しこよしでやってきただけだろ」彼は間髪入れずに言い返す。「自分が惨めだとか思わねぇの? ユメノだってそうだろ? わたしは何も期待してません、わたしにはここが一番ですって面してさ……、そのくせいつもと違うことが起こったら野次馬根性丸出しでさ、無害そうな面して、一番タチが悪いぜ、そういうの。甘えてんだよ、可哀想な自分に」
 頬を打った。
 打ってから、手に残る痺れで、自分の非常識な行為を自覚した。
 なんてことを……。
 でも、何も考えられなかった。頭が真っ白になるというのはこのことだろう。
 ハルトミくんは何も言わなかった。仕返しにわたしを叩くこともしなかった。黙って立ち上がり、悲しそうにわたしを見つめてから清流亭を出た。
 わたしは追い縋ったが、彼は掴まれた腕を乱暴に払った。
「やめろよ」
「わたしだって……」声が漏れる。
 やめろ、もう何も言うな。
 これ以上、惨めな自分を晒すな。
 そう自分に言い聞かせたけど駄目だった。言葉は奔流となって、形も成さないうちから滑り出ていた。
「わたしだって、好きでこんな場所にいるわけじゃない」
 喉が詰まりそうで、それを無理に飲み干そうとすると、目尻から熱いものが零れた。
 彼は脚を止め、じっとわたしを見据えた。
「何も知らないくせに……、自分だけが特別だなんて思わないで。街に出た時、街の人と話した時、同い年の子を見かけた時、わたしがどう感じているか知らないくせに、勝手にそんな風に見ないで。ここにいる子達がどんな思いで暮らしているかも知らないくせに……、ゴミだなんて言うな! あなたのほうが最低じゃない!」
「わかってるよ、俺が一番、ゴミだ」彼は寂しそうに自嘲する。
 彼の態度に、わたしの言葉がつっかえた。
「わかってんだよ、本当は。ここにも馴染めない俺が一番駄目な奴なんだって……、ギター弾いてんのも、最初は誰かに見て欲しくて始めたんだ。いつも笑ってんのも、誰かに気に入られたくて笑ってんだ。撤回する。謝る。本当は皆、ゴミなんかじゃない。テツロウさんだって良い人だ。ジュンだって良い奴だ。皆の為に必死になれるユメノだって、めちゃくちゃ良い奴だ。でも、俺は違う。俺だけがゴミだ。だから、俺は、皆のことも同じゴミだって思いたくなる」
「ハルトミくんだって、ゴミじゃない」零れた涙を拭うことも忘れて首を振った。「誰もゴミなんかじゃない。親がいなくたってゴミなんかじゃない。可哀想でも惨めでもない。ハルトミくんは他の子よりも大人だから、頭が良いから、だから色々考えちゃうだけ。でも、わたし達だって本当は色々考えてる。自分のこと、本当は惨めな奴だって思っちゃう時がある。でも、それを認めちゃったら、もう、本当にどうしようもなくなるっていうのもわかってる。わたしだってそうだよ。本に没頭するのも、変な詩を作ったりするのも、本当の自分を忘れたいからやってるの。ハルトミくんのギターと同じだよ。ハルトミくんが自分のことゴミだって言うなら、わたしだってゴミになる。そんなのは嫌。だから、もう、自分をゴミだなんて言わないで!」
「ユメノ、落ち着け」彼は苦笑する。「皆起きてくるぞ」
「無理だよ、落ち着いてなんかいられない」立っているのも辛くなって、わたしは蹲った。「あぁ、もう……、何言ってるのかわかんないよ、自分でも。めちゃくちゃだ」
「うん、めちゃくちゃだ」彼は言う。「泣くなって……、ごめん」
 しばらくその場から動けず、わたし達は気まずく黙り合いながら周囲の気配を窺った。誰か起きてやしないかと、わずかな音も聞き逃さないよう集中していた。大丈夫、誰もやってくる気配はない。
「もう言わない」ハルトミくんが囁いて、しゃがみこんだわたしの肩に手を置いた。「俺さ、ユメノが書いた詩、好きだよ」
「また、変なこと言ってる」わたしは睨み上げる。
「本心だよ。慰めてるわけじゃない。これが慰めだったら下手すぎるだろ」彼は言って、頭上の星空を見上げた。「だけど……、俺さ、本当は、言葉っていうのに期待していないんだ」
「え?」わたしはぽかんとする。
 もう涙は止まり、頬を濡らす雫も冷たくなっていた。
「どんな言葉も、俺には、嘘臭く聞こえちゃうんだ。好きな曲を聴いている時でも、歌詞に反吐が出そうになったりする」
「どうして?」
「母親が俺の言葉、無視して行ったから」空を仰ぐ彼の声がわずかに震えた。「すげぇ昔のことだけど、今でもよく覚えてる。行かないで、良い子にするからって、こっちは馬鹿みたいに泣き叫んでんのに、聞こえていないみたいな面で行っちゃったんだ。あんなに好きだったのに、俺の言葉は届かないんだって……、言葉なんかじゃ、誰にも何も通じないんだって、齢四歳か五歳で気付いちゃったわけだよ、俺は。そりゃ、そうさ。ゴミの意見なんか、誰も聞いちゃくれねぇよって」
「そんな……」
「いや、わかってる、極端なこと言ってるってのもわかってる。俺はたぶん、甘えてるんだ。言葉なんか信用しねぇって言いながら、言葉を信用しない自分に甘えてる。子供の言うことなんか聞いてもらえないって言いながら、子供扱いされてる自分に甘えてる。ユメノのこと、言えないな」彼は乾いた笑みを浮かべた。「ジュンって、あいつ、素直だけど変なところでひねくれてるだろ? 二日前に話した時も、俺に気があるの丸わかりなのに、それでも気のない振りしていて、それが俺、めちゃくちゃ腹立った。もちろん、怒りはしなかったし、あいつに合わせて馬鹿笑いもしたけどさ……、なんか、すげぇ疲れた。ジュンの気持ちに気付いていながら、あいつのごまかしに合わせてうやむやにしようとしてさ。厭味だよな、俺って」
「わからない」わたしは首を振った。
 ハルトミくんが厭味な奴なのかどうか、本当にわからなかった。ジュンのひねくれた態度と本心を口にできない臆病さが悪かどうかもわからなかった。
「厭味なんだよ、俺は。人の言葉を信用してない奴なんだ」彼はまた息を漏らす。「だからって言うと変かもしれないけど……、ユメノのあの詩は、凄く不思議に思えた。すんなりと入ってきたし、さっきのユメノの無茶苦茶な言葉も、なんつーか、じんときた」
「嘘言わないで」
「嘘かもしれない。俺の言葉のほとんどは嘘だと思う」彼は溜息を吐く。「だけど、嘘になってもいいから、俺が気に入ったっていう事実は伝えたかった。それは本当だよ」
 胸が苦しくなった。何か言いたくなったけど、どんな言葉も喉の下で消えてしまった。
 どうして、言葉ってこんなに難しいのかな。
 発する方も、受け取る方も、形を歪めずにいられない。
 そうしなければ傷ついたり、傷つけてしまうとわかっているから。
 だけど……、そうしなきゃ伝わらない。
 そうしなきゃ、受け取れないのだ。
 本当はもっと澄んだ色をしているのに。
 本当はもっと素直な形をしているのに。
 なぜ、こんなにも言葉は本質と遠いのだ?
 いったい、わたしの本当の言葉は、どこにあるのだろう?
 ハルトミくんはじっとわたしを見つめていたけど、むずっと顔を顰めたかと思うと、押し殺したくしゃみをした。
「やべ、冷えてきた……、戻ろうぜ」
「ううん、わたしは、いい」首を振る。「もう少し、ここにいる」
「そっか」彼は頷き、歩き出す。
 本館へ戻って行く彼を見送りながら、わたしは星空を見上げる。流れ星が見えた気がした。でも、お願いを言う暇もない。言葉は遅すぎる。そして、遠すぎる。
 泣いちゃったな、と思う。
 なんで泣いちゃったんだろう。とんでもなく見苦しい姿を披露してしまった。よりにもよってハルトミくんに……。
 だけど、すっと胸が軽くなった気がした。きっと彼に放った言葉の中に、本当の言葉が幾つかあったからだろう。そう願う。嘘でもいいからそう願わなければ、虚しさを受け止められそうになかった。

 ◇

 冬が訪れ、降り積もった分厚い雪が解ける頃になると、十四歳のわたし達は俄然忙しくなった。進路についての話題が取り巻くようになった。高等学校へ進学するか、それとも施設職員の手伝いに従事するかの選択が迫ってきたのだ。
 一般的な境遇の子達と同じく、わたし達の人生においても、進学するか否かは重要な分岐点だった。それはすなわち、ずっとこの場所にいるか、それとも単身で世間へ飛び込んでいくかの選択だ。高等学校へ進学するというのはつまり、寮を借りて街で暮らすことを意味する。わたし達より年上の人がほとんどいないのは、大多数が進学を選んだからである。
「まだ一年あるから、よく考えなさい」セイコさんはわたし達を集めてそう告げた。「でも、進学するなら今のうちから勉強しなくちゃいけないわ」
 いつもと違った重たい空気が流れていた。男子達も神妙な顔をして座っている。
「あ、じゃあ、進学するなら飯とか畑の当番からも解放されるわけ? 勉強しなきゃいけないから」ケータが無理しておどけた。
「馬鹿、ふざけるな。真面目な話だぞ」
 いつもなら怒鳴るところだけど、テツロウさんの口調も諭すような調子で、それがケータのおふざけを消沈させた。
 わたし達はとぼとぼと自分の部屋へ戻った。漠然と予感していた未来が、ようやく目前に一角として現れていた。
「ユメノはどうする?」
 ベッドの上で枕を抱きながらジュンが訊いた。
「わたしはここに残る」
「やっぱり?」
「うん」わたしは頷く。
 それはもうずっと前に決めていることだったから今さら変更する気はない。もう少し決心が揺らぐかと思っていたけど、セイコさん達から話を聞いていても、不思議とわたしの胸中は穏やかだった。他の皆を観察できる余裕があったほどだ。
「ジュンは、進学?」
「ん……、まぁね。そのつもり」
「ジュンはその方がいいかもね」
「友達甲斐のない奴だな」
 ジュンがちょっと拗ねたので、わたしは慌てて首を振った。
「違うよ、別にそんなつもりで言ったわけじゃ……」
「わかってるって」彼女は吹き出す。「昔から言ってたことじゃん。ちゃんとわかってるよ」
 まだ一年以上も一緒にいられるのに、なんだか別離の前日のようにしけった雰囲気だった。
 いつまでも一緒にいられるなんて誰も考えていないだろう。ジュンにも、男子達にも、外への強い憧れがある。それは子供の頃から顕著だったから、今さら方向性が変わることなんてないだろう。身長が伸びるにつれて願望はずっと強くなっていったはずだ。今は、その肥大化した自分の願望に戸惑っている段階なのだ。
 彼らと同じように、ここに残るというわたしの決意も変わらない。元から曖昧な動機ではあったが、いつまでも変わらない生活がしたいという後ろ向きだった欲求が、今は、年少の子達が巣立っていくのを後押しして見届けたいという動機へと変わっていた。テツロウさんやセイコさんのように、わたしも皆を守っていける存在になりたかったのだ。
「ハルトミくんは何て言っているの?」わたしは尋ねる。
「あいつは相変わらず馬鹿なこと言ってる」
「なんて?」
「ギターで食っていくって」
「え、進学するって言ってなかった?」
「進学する振りして、寮を脱走するつもりなんだってさ。それから都会に出て、働きながら活動するって」
「もう」わたしは頭を抱える。
 ハルトミくんとジュンは以前よりもずっと一緒にいる時間が多くなった。ギターを弾くハルトミくんの傍でジュンが聴き入っているという構図をよく見るようになった。二人に関して熱っぽい噂が立つようになったけれど、ジュン曰く、状況は何も変わっていないという。つまり、まだ想いを伝えられず、つかず離れずの距離を保っているらしい。繊細であるのはわかっていたけど、彼女がまさかそれほどまでに奥手だとは思わなかった。
「ユメノも言ってやってよ。もう少し真面目に考えろって」
「なんでわたしが……」
「あいつ、ユメノの言うことなら聞くもん」
 いつの間にかわたしの立場は準職員という扱いになっていて、セイコさんやテツロウさんの伝言を託って皆を注意するという場面が多くなっていた。ちょっと不本意だけど、皆、素直に言うことを聞いてくれて助かっている。年少の子はもちろん、同い年の子達もわたしの言葉に刺されると気まずくなるようだ。
「ジュンが言った方が聞くよ」わたしは溜息を吐く。
「あたしが言ったってはぐらかされるだけ」
「困ったなぁ」
「ね、ね、言ってやって」
「今度ね」わたしは詩集を抱えて立ち上がる。
「あ、読書?」
「うん」
「あたしも本読もうかなぁ」
「勉強しなさい」
「ちぇっ、もうセイコさんみたいなこと言ってる」
 わたしは愉快な気持ちで部屋を出た。セイコさんに紅茶を淹れてもらい、ペーパーカップを持って外に出る。初春の風は冷たく、まだ地面の所々に雪が残っているけれど、燦々とした陽光が暖かくて気持ち良かった。
 清流亭にハルトミくんがいた。いつものようにギターを抱えている。
「よう」彼はピックを持った手を挙げる。
「うん」わたしは自然と笑顔になる。
「あ、いいな、紅茶。俺の分は?」
「あるわけないでしょう。貰ってきなさい」
「一口ちょうだいよ」
「駄目、汚い」
「ひどいな」彼はけらけら笑った。
 広場では今日もサッカーに興じる子達がいる。皆、年少の子達だ。背が伸びたなぁと感慨深く思う。春の陽射しにはどこかしら気持ちをリセットしてくれるものがあるらしい。
 ふと隣を見ると、ハルトミくんも眩しそうな眼差しで子供達を眺めていた。
「ジュンから聞いたけど、ハルトミくん、進学したら脱走するつもりなんでしょ」
 げっ、と彼は顔顰めた。
「あいつ、ほんと口軽いな」
「女の友情」
「恐ろしい」彼は頭を掻く。「セイコさんとかテツロウさんにチクってないだろうな」
「言い分によっては報告します」
「勘弁してよ」ハルトミくんはげんなりとする。「そしたら、ユメノの詩のこともばらすからな」
「そしたら、ハルトミくんがまたバイトしてることも告げ口するから」
「敵わんなぁ」
 彼が吹き出し、わたしも思わず笑ってしまった。それから二人とも奇妙に黙り合う。子供達の歓声と、それに驚かされる野鳥のはばたきだけが辺りに響いていた。
「ジュン、心配してるから」ぼそっと言ってみる。
「わかってるよ」彼は頷き、ギターの一弦をぴぃんと鳴らした。「出来れば皆にも心配かけたくない。でも……、やっぱり、俺、ギタリストになりたいからさ。曲もいっぱい出来たんだ」
「あ、聴かせて」
「え、ここで?」
「駄目?」
「いや、いいけどさ……」彼は声を潜める。「それなら、また歌詞書いてよ」
「ええ?」
「駄目?」
「いいけどさ……」わたしはしぶしぶ頷く。
 どういうきっかけだったのかよく覚えていないし、恥ずかしくてあまり思い出したくもないのだけど、喧嘩して互いの心境を吐露し合ったあの夜から、わたしは時々、彼の曲の為に詩を提供するようになった。たしか彼の方が申し出てきたのだ。最初はもちろん拒否した。これ以上、自分が綴った拙い文章を誰かの目に見せるのは嫌だったし、背筋がぞっとするほどの羞恥をまだ覚えていた。それでも、結局は根負けしてしまったのだった。
 彼が爪弾く曲に耳を傾けながら、頭の中に渦巻くイメージをピンセットでつまむような慎重さで一つずつ拾い上げていく。それはいつからか恐ろしくスリリングな作業になっていた。ノートを走るペンの先端にも不思議な重みが宿っている。
 ハルトミくんの曲は朗らかであっても、必ずどこかに雨を連想させた。陰鬱な雨ではない。静かに高原を濡らしていく、しとしととした感触の雨だった。豊饒の春を約束する恵みの調べだ。きっと、このイメージは彼が与えるものではなく、わたしが元から持っているイメージなのだろう。そういえば、彼に初めて詩を読んでもらったのも雨の日だった。
「いいね、上出来」
 弾き終った彼は書き連ねたばかりのわたしの文章を読んで微笑む。毎度、この瞬間が堪らなく恥ずかしい。自分だって自作曲を披露しているのに、彼はなぜこうもあっけらかんと出来るのだろう。羨ましい限りだ。
「ちょっと恋愛っぽさを滲ませてるのがいいね。この、『夜露を踏んで彼は行く』って部分が特に……」
「わぁ! もう、わざわざ言わないで!」
「こんなに良いのに」彼はむしろ不可解そうな顔だ。
 熱くなった顔を冷たい風に曝しながら、遠くの空を眺めた。
 わたしがハルトミくんの為に詩を書くようになった理由。
 それはきっとあの夜、彼が言葉を信じていないと告白したからだろうと思う。その暗く分厚い壁を、よりにもよってわたしの駄文が貫いたというのだ。その言い分をまるっきり信用したわけじゃないけど、わたしはまるで一つの大きな責任を背負ってしまったかのように感じた。おこがましいが、ハルトミくんと世界を繋ぐ線が、わたしの言葉以外に存在しないと思えたのだ、
 ジュンに対して申し訳ないと思う気持ちも無論、ある。
 でも、それ以上に、ハルトミくんを助けたいという気持ちが結局は勝った。だからこうして、目も当てられぬ文章を書いて渡しているのだ。
 これって、ずるい言い草だろうか?
 時々、そんな風に思う。
 こんなことができるのもあと一年か、とふと惜しくなった。子供の時は一年というと気が遠くなるほど長かったはずなのに、大人になるにつれてどんどん短くなっている気がする。この間まで広場を覆っていた雪も今はほとんど露に消え、青々と輝く草むらが早くも広がっているのだ。
「ユメノはここに残るの?」
「うん」
「なんで? 外の世界、見たくねぇの?」
「見たいよ」冷たい風を顔に受けながら、わたしは目を細める。「でも、わたしは皆と違って、物心ついた時からここにいるから……、ここがわたしの世界なの。どうせ大人になるなら、この施設の為に仕事がしたい」
「わからないな」彼は不満顔で漏らす。「だって、ここに来たくて来たわけじゃないだろ? 皆、そうだけどさ」
「もちろん。わたしだって、本当は普通の家で育ちたかった。お父さんがいて、お母さんがいるようなお家で生まれたかった」わたしは笑いかける。「でも……、ここに来たくて来たわけじゃないけど、ここで良かったなって思うのも本当。こういう気持ちって、ハルトミくんはわかる?」
「わからない」彼は繰り返す。「もったいないよ。ユメノ、文章書く才能あるのにさ。なんでわざわざ、こんなしょぼくれた施設の為に……」
「変なこと言わないで」
「言ってない。お世辞じゃない。ユメノの書く文章は凄い。本を書けば売れると思う。少なくとも歌詞は売れる」
「売れないよ」
「俺が保証する」
「保証になってない」
「なぁ、なんでそんな引込思案なんだよ?」彼はうんざりして言う。
 あぁ、まただ、とわたしは静かな心地で思う。
 最近はこんな具合に妙な口論が頻発する。わたしに才能があるだのないだの、内気すぎるだのなんだの、余計なお世話ばかりだ。
「ほっといて」
「ほっとけねぇよ。才能は磨かれて世に出なくちゃ」
「うるさいなぁ、もう」
「うるさいって何だよ、ユメノが二の足踏んでるから言うんだろ」
「踏んでないよ。やらないって言ってるんだから」
「妙なところで強情だしさ」
「ハルトミくんに言われたくない」
 ハルトミくんはやっぱり優しい子なのだと思う。
 自分をゴミだと卑下しながら、わたし達が直視したくない事実をずばりと指摘しながら、それでも最近のわたしにはそんな風に思えるのだった。
「もっとさ、素直に物言ってみたらどうだよ?」
「そっちこそ、ちゃんと素直に受け取ってよ」
「素直に言ってくれたらそうする」
「素直に聞いてくれるんならそうする」
 でも、素直な気持ちなんて、これほどわかりにくいものはない。それをわかっている二人だった。
 彼は押し黙り、じっとギターのネックを見つめた。これはいつもと違う反応だった。
「どうしたの?」
「あのさ」改まった声だ。「ユメノ、俺と組まないか?」
「え?」わたしは束の間、呆けてしまう。
「お前が作詞して俺が作曲する。どう? 悪くないと思うけど」
「悪くないも何も、どうしてそういう発想になるの?」
 可笑しくなり、つい笑ってしまった。
「いや、真面目にさ、ユメノのセンスを買ってるんだよ。二人で組めば無敵だ。ここを出て、二人で都会に行って、一緒に働きながらバーとか路上で活動する。曲を沢山作って録音して、それでレコード会社に売り込むんだ。ギャグじゃないぜ。大真面目に言ってるんだ」
 確かに真剣な表情だった。いつもならどこかに必ず笑みを含んでいるのに、今日の彼は大勝負に挑む勝負師のような顔つきだった。
 わたしは言葉に詰まってしまう。そんな選択肢があるというのが驚きだった。二人で暮らして、共に楽曲を創っていくという日々を想像して、その刺激的な感触に胸が高鳴ったくらいだった。
 でも、やっぱり駄目だった。考えるよりも先に首を振っていた。
「わたしより良い詞を書く人は沢山いるよ」
「いるかもしれない」彼は真っ直ぐにわたしを見つめている。「でも、俺の曲にはユメノの言葉しかない」
「わたしのは駄目」
「どうして」彼は怒った顔だ。
「だって……、わたしの言葉は素直じゃないから。ハルトミくんの真剣なギターに乗せるわけにはいかないから」
 彼は口を噤み、項垂れてしまう。
 わたしは続けた。
「あの夜、ハルトミくん、言ったよね? 俺は言葉を信じないって。わたしも同じだよ。自分の言葉を信じられない」
「でも、俺はユメノの詩は別だって言っただろ」
「ハルトミくんにとってはそうかもしれない。でも、わたしにとっては違う。どれだけ本物っぽく書いても、やっぱりどこかに嘘が混じってる。本心の言葉じゃない。出来るだけ格好つけた文章だもん」
「どうしてそんなことが言える? 自分の言葉が嘘か本当かなんて、なんでわかるんだよ?」
 なかなか鋭い質問だ。ハルトミくんの思考はわたしが観測している地点よりもずっと遠くにまで及んでいるのかもしれない。
 だけど、その問いに対する答えはもう出ていた。
「恥ずかしいから」わたしは答える。「書いた詩を読まれる時が一番恥ずかしい。それはやっぱり、どこかに含んだ嘘が見破られるんじゃないかって怖がっているからだと思う。ハルトミくんの曲はちゃんとハルトミくんを表現してる。でも、わたしの言葉は、今のわたしじゃなくて、こうあれたらいいって願っているわたしの姿なの」
「違う」彼は否定する。「ユメノが恥ずかしがるのは自分をさらけ出しているからだ。それを見られるのが恥ずかしいっていうのは、裸を見られるのが恥ずかしいっていう道理と同じだ。違うか? 変なたとえかもしれないけど、自分の体に自信を持ってないっていうのは、あくまで本人の感覚だろ」
 ちょっと納得しかけてしまったけど、わたしは根気強く首を振った。
 その頃には、もうわたしは確信していた。
 いつかきっと、ハルトミくんは音楽の世界で名を成すだろう。
 音楽の才能なんてわたしには見極められないが、それでも彼の人間性を感じ、彼の熱意を見て、彼の旋律に耳を澄ましていれば、予感よりもずっと強い確信を以てわかることだった。
 音楽を志す以上、彼の歩く道のりはけして容易な道ではない。そこには幾つも試練があるはずで、たとえ成功しても、彼が自分の道を貫いていくにはさらなる苦労が待ち受けているはずである。
 その時、わたしの貧相な言葉で彼を掬えるとは思えない。むしろ、それは彼を長く苛め続けるだろう。わたしの才能云々という話ではない。彼が歩かなれければならない道に、わたしという信用のならない杖があってはいけないという話なのだ。
 今、わたし達の前に分かれ道があるように、人はずっと誰かと共に歩いてはいけない。偶然それぞれの道が交差し、時折重なるというだけのことで、誰一人として同じ道は歩めないのだ。わたしは、わたしの嘘っぱちの言葉で、ハルトミくんの道を汚したくないのだ。
 そこまで考えて、なんて言葉遊びだろう、と自分を忌々しく思った。
 あの夜のわたしと同じだ。
 何やかんやと理由をつけて、結局避けているだけのずるい奴。こんな奴が綴る言葉など、ハルトミくんが歩く道にはやはり不要だ。
 黙っているわたしを見て、彼は溜息を吐いた。
「どうしても、駄目か?」
 わたしは無言で頷いた。
 ハルトミくんは黙って清流亭を去った。広場の子供達から呼び掛けられて、その瞬間にはいつもの微笑を浮かべて手を振り返した。
 わたしはすっかり冷めた紅茶を啜り、膝の上でノートを広げる。わたしが書き連ねた言葉達が、輝きを失ってそこに蹲っていた。どこにもわたしの本当の言葉なんて無かった。
 わたしはどうしたいのだろう?
 問い掛けても、鉛筆を握った手は動いてくれなかった。

 ◇

 雨はなかなか降ってくれなかった。
 春になれば嵐が訪れる日だってあるのに、今年はほとんど晴れ間が続いていた。たまに降っても、わたし達が寝静まった深夜から早朝にかけて降る霧雨のみで、清流亭の下で過ごす時間に雨露が落ちてくることはなかった。
 五月になると、もう皆は机に齧りついていた。男子のほとんどは不真面目のツケが回ってきたような体で、来年の受験に向けて猛追を仕掛けていた。ジュンは比較的余裕そうだったけど、能天気に遊び呆けるのも良心が痛むらしく、毎日問題集を解いていた。勉強に身を入れていないのはわたしだけだ。勉強する理由も既にない。それでも時々は、ジュンに付き添って鉛筆を動かしたり、有志でやってくる教師の授業を受けたりして過ごした。勉強自体は特に嫌いではなかったからだ。
 五月に誕生日を迎えて、ハルトミくんとわたしは皆よりも一足先に十五歳になった。お祝いのパーティを皆が開いてくれたけど、祝われる側は実感が湧かないのが通例である。きっと、実感させる為にパーティというものがあるのだと思う。
 ハルトミくんも渋々といった様子で勉強をしている。要領がとても良いから、他の男子達よりもずっと成績は良かった。志望する学校にだって難なく入れるだろう。もっと上を狙ってもいいくらいだ。
 彼とはあまり話さなくなった。清流亭にもあまり来なくなった。楽曲を作ろうという申し出を断ったのをまだ根に持っているのかもしれないが、少なくとも外面上はそんな素振りを一切見せず、わたしはなんとなくもどかしく思うくらいだった。
 こんな風に皆、じわじわと大人になっていくのかな。
 時々、鉛筆をノートに転がしながらそう思う。
 広場には子供達の歓声が響いている。年長組が誰も相手をしてくれないものだから、わたしによくじゃれつくようになった。料理当番の時には手取り足取り調理のコツを教えてあげて、畑当番の時には鍬の入れ方を教えてあげた。
 ハルトミくんが来なくなっても、わたしは詩作を続けた。一度は止めていたのに、この頃は静かな創作欲がわたしを満たしていた。他の子達がそれぞれ別の道を見つめ始め、それによって生まれた空白を埋めようとしたのだと思う。白紙の上に別世界を見出し、耳が捉える僅かな静穏の色を探っているうちに、わたしは綺麗な忘我を味わえた。それは澄み切った湖水の上をゆっくり歩くかのような境地だ。
 それでも、決定的な何かがわたしには足りなかった。
 その何かをわたしは知っている。
 ふと顔を上げ、清流亭の屋根の下から、じっと空を仰ぐ。
 雨を待っているのだ。
 そして、待っている自分が意識される。
 あの不思議な静寂を湛えた、何もかもを洗い流す雨を、わたしは待ち詫びているのだった。

 ◇

 ある日の夜、食器を洗い終わってセイコさんと紅茶を飲んだ後に部屋へ戻ると、ジュンが枕に顔を押し当てて泣いていた。嗚咽していたわけじゃないし、呼吸の音すら立てなかったけれど、彼女が泣いているのは一目瞭然だった。ジュンはそんな風に静かに泣く子なのだ。
「どうしたの?」わたしはベッドの端に腰掛けて柔らかく尋ねる。
 彼女は答えなかった。顔も上げず、じっと枕に伏せていた。
 わたしはしばらく待っていた。
 泣いている理由はなんとなく察せられた。たぶん、ハルトミくんのことだろうと思う。夕食の後、ジュンがハルトミくんを誘って裏庭に出て行く姿を見ていた。
 長い時間に思えた。部屋を照らす電燈の灯が尽きるのではないかというくらいの時間だった。それだけの間、わたしはじっとジュンの応答を待っていた。
 人生は短いという常套句を理由もなく思い出す。
 でも、いったい何と比べて短いといえるのだろう?
 人生よりも長いものを、人は知っているのだろうか?
 それとも自分の理想と比べて短いと言っているのか。
 そうかもしれない。
 人はそれぞれ、自分だけの物差しを持っていて、それがないと長いか短いかもわからないのだ。素敵な錯覚だと思う。
 ややあってから、ジュンはようやく身を起こした。
「ハルに振られた」彼女は壁へ向いたまま、静かに呟いた。
 わたしは無言で頷く。
 そうだろうなと思っていた。
 酷い発想に思ったけど、事実もまたそれと同じくらい酷いものだ。
 再びわたし達は黙り合う。じぃじぃと頭上の電燈が鳴っている。それに耳を傾けながら、わたしは彼女へ届く言葉を必死に探した。
「声出して泣いていいよ」
 振り向いたジュンはくしゃっと顔を歪める。泣き笑いの顔だった。目が可哀想なくらい腫れている。
「最近、ユメノ変わったよね」彼女は目を擦りながら言った。
 わたしは息を漏らす。
 なぜ今、そんなことが言えるのだろう。
 わたしは目の前のこの愛しい親友を抱擁したい衝動に駆られた。
「皆も、だんだん変わってるよ」
 わたしはそう言って、自分の為に注いできた紅茶を彼女に差し出した。ペーパーカップ越しの紅茶はまだ温かい。
「ジュンとは付き合えないって言われた」彼女は鼻を啜ってから、紅茶を一口飲む。「あぁ、なんか、とんでもなく惨めだよ、あたし」
「ううん、立派だよ」わたしは言う。本心からの言葉だ。「わたし、ジュンはきっと何も言えないまま施設を出て、ハルトミくんとも離れ離れになるんだと思ってた」
「あたしもそう思ってた」彼女はにっこり微笑む。「だけど、やっぱりこのままじゃいけないと思って……、でも、あぁ、ちくしょう、やっぱり後悔してるよぉ、本当ダサい。惨め。誰にも言わなかったけど、ずっと前から、あたし、自分のことを惨めな奴だと思ってた。あたしなんかが好きって言っても、誰も振り向いてくれないだろうなって」
「ジュンは惨めなんかじゃないよ」
「ありがと」彼女はふふ、と笑う。
 ずっと昔、まだ子供だった頃、毛布に懐中電灯を忍ばせて、二人で語り明かした夜を思い出した。たしかこんな雰囲気だったと思う。自分達を包む空気の全てがまるで自分達の一部のようで、電灯に照らされた暗闇の隅々までもが素敵な秘密を孕んでいた。ベッドの上の、毛布の中の小さな冒険だった。
「ハルはさ、たぶん、ユメノのことが好きなんだと思う」
「どうして?」わたしは自分でも驚くほど冷静に訊き返した。
「見てればわかるよ」
「困ったなぁ」わたしは頭を掻く。
「ユメノも、ハルのことが好きでしょ?」
「そう見える?」
「見えるよ。それに、まだあいつのことくん付けで呼んでるし」
「あ、そういえばそうだね」
「無意識だったのかよぉ」ジュンが呆れた声を出す。
「当たり前じゃない。習慣みたいなものだもん」
「じゃ、やっぱりそうだよ。ユメノもハルのことが好きなんだよ」
 理屈なんて毛ほども通っていなかったけど、ジュンの言い分には納得できるものがあった。わたしが彼をハルトミくんと呼ぶのは、その距離を縮めるのが怖かったからなのかもしれない。いつまでも太陽のような彼を見つめていたかったからなのかもしれない。
 でも、迂闊に認めるわけにはいかなかった。それはやはり、ジュンへの気遣いというものが多分にあったと思う。
「正直、自分でもまだわからない」
「ハルのこと?」
「そう……、彼に対する自分の気持ちが」わたしは目を逸らし、床に揃えた自分の両脚を見下ろす。「好きなのかどうか、憧れているだけなのかどうか、どうして彼に惹かれるのか、自分の正直な気持ちがね、わからないの。それはとてももやもやしていて、簡単に言葉にできるものじゃない」
「そういうもやもやを含めて、好きっていうんじゃないの?」
 わたしは驚いてジュンを見る。彼女はあっけらかんとした顔だ。言葉というものの計り知れない大きさを感じた気がした。
「でも、えっと、そんな単純なものなのかな。そんな単純でいいのかな」
「違うかもしれないし、もっと複雑なものかもしれないけど」
 ジュンは考え込むように腕を組む。赤く腫れた目が不自然なほど、もういつも通りの彼女だった。やっぱりジュンのことが羨ましいと改めて思う。
 彼女は続けた。
「ただね、感情っていうのは、なんというか、言葉が先行するものじゃないと思う。難しい話はわからないけど、つまり、言葉っていうのは電話の回線みたいなものでしょ? 話したいって思うから電話を掛けるんであって、回線があるから話そうっていうものじゃないと思う。受話器を持ち上げた時には、もう伝えたい内容っていうのがあるわけじゃん?」
「あぁ……、なるほどね。言えてるかも」わたしは素直に感心する。
「ユメノの回線は現在こんがらがっております」
「そうかも」思わず笑ってしまう。「ツー、ツー」
「あたしもそうだったよ。ハルを目の前にすると、自分の正直な気持ちが言えなくてさ、自分ではもうちょっと口が上手い奴だと思っていたんだけど」彼女は膝を抱える。「まさかね……、本当の気持ちを言葉にするのが、こんなに難しいとは思わなかった」
「だけど、ジュンは言えた」
「うん、まぁね。結果は惨敗だったけど、まぁ、得る物の多い敗戦かな」
「勝ち負けじゃないよ、こういうのって」
「慰めとかいらないからね」彼女は上目遣いにわたしを睨み、それから悪戯っぽく笑った。「本当は、ユメノのことぶん殴ってやろうかと思ってた。悔しすぎるもん」
「危なかった」わたしは苦笑する。
「ね、まだちょっとムカムカするから、ハルの悪いところ言い合っていこ」
「あ、いいよ。やろう」
 わたし達はベッドの上に膝を突き合わせて、ハルトミくんの悪口をひとしきり連ね上げた。キザっぽいところ、ひねくれているところ、大人ぶった喋り方、夢見がちな子供っぽいところ。自分でもどうかと思うけど、彼の鼻持ちならない部分をわたしは清々しい気持ちで挙げることができた。たぶん、こちらの方面の回線は既に整備されていたのだろう。途中からジュンがハルトミくんの仕草や喋り方を真似し始めて、しばらく二人で笑い転げていた。
「こら! あんた達いつまで起きてるの」
 セイコさんが注意しに来るまでわたし達は騒いでいた。まるで子供の時のようだった。自分の皮を一枚一枚剥いて、本当の自分を曝け出す時、人は子供に戻るのだと思った。あるいはそれは、わたしがまだ完全に大人になり切っていないからかもしれないが。
 強制的に消灯されてからもジュンは話しかけてきた。
「あとね、言い忘れてた。あいつも自分のこと、惨めな奴だって思ってる」
「ハルトミくんがそう言ったの?」わたしも自分のベッドに潜って訊いた。
「言わないけどわかるよ。あいつ、本当はめちゃくちゃ小心者」薄闇の中で、彼女はくすくすと笑う。「あたしと同じ。そんな自分にイラついてる」
「そうかもね」わたしは柔らかい枕に頭を沈めて応えた。目はもう閉じている。
「変な言い分だけど、あたし、それに気付いたからこそ、思い切って行動したんだよね」彼女も眠たげな声だった。「二人でそんな調子じゃ、惨めにも程があるじゃん」
「偉いよ」わたしは微笑む。
「あたしらはマイナスから始まっているから、とりあえずはゼロを目指すしかないんだ」ジュンはうつらうつらとしているらしい。よほど今日の一件で疲れたのだろう。「だから、頼むよ。ユメノがさ、あいつをゼロにしてあげて」
 それからはもう言葉もなく、彼女の静かな寝息が響いた。わたしはそれに耳を傾けながら、意識のずっと奥深くまで潜っていく。海底を目指す潜水士のような眠りだった。
 そうかもしれない、と気泡が漏れる。
 ここはまだ水面下の世界。
 わたし達はまだまだ陽の当たらない場所にいるのだ。
 外の世界を知らない胎児と同じ。
 見上げれば、ほら。
 あちらには光がある。
 揺らめき。
 輝き。
 そして、眩しいほどの光。
 その欠片が波に伝播して降ってくる。
 とにかく、上がらなければ。
 途方もなく広く仄暗い海中の中で、わたしはそう思った。それこそがわたしの、正真正銘の確かな言葉だった。

 ◇

 柔らかな雨の音がまどろみの底まで届いてきた。
 そっと目を開くと、鈍い朝陽に光る窓が見えた。その表面に伝う水滴の数々が視界に飛び込んでくる。耳は既に屋根を打つ響きを捉えていた。
 わたしはゆっくり身を起こし、ぼんやりと濡れた窓を見つめる。自分が微笑んでいるのがわかった。世界は徐々にわたしの意識へ滑り込んでくる。
 ――雨だ。
 そっとベッドを抜け出し、ひんやりとした床に足をつける。ジュンはまだ寝ていて、昨夜と同じ安らいだ寝息を立てていた。彼女を起こさぬように気をつけながら寝間着を脱いで着替える。
 時計を見ると、まだ午前六時にもなっていなかった。耳を澄ましても建物の中に物音はない。それが無性に嬉しかった。これほど贅沢な朝はないと思った。
 わたしは詩集とノートを携え、台所でお湯を沸かす。湯気を吹くポットの音はまるで朝陽を報せる雄鶏の声のようだ。ペーパーカップを取り出し、紅茶を淹れる。甘く豊かな香りが広がった。
 器用に傘を構え、わたしはサンダルを履いて広場へ出た。芝生にある雨露が裸足に触れてとても気持ち良い。高原は夜の余韻を残した静謐さに包まれている。幾重もの銀糸の筋と、霧のようになった水煙がなだらかな緑の斜面に見える。
 広場の隅に佇む清流亭は、まるで待ち侘びた雨を祝うかのような佇まいだった。歓喜の雫を軒に垂らし、しとしとと打ち震えるような清音を立てている。この小屋には生命があるのかもしれない、とわたしは自然に思った。
 脚を止める。
 ハルトミくんが椅子に座っていた。ギターは持っておらず、ぽかんと口を開けて雨の筋を眺めていた。
「おはよう」彼はこちらに気付き、ふっと笑う。
「おはよう」わたしも笑い返し、屋根の下へ入った。
「雨だな」
「うん」
「ずいぶん、降ってなかった気がする」
「そうだね」傘を畳み、椅子へ腰掛けた。「どうしたの、その恰好」
 彼は黒い背広のような服を着ていた。テツロウさんから借りたものだろう、ちょっとサイズが合っていなかった。初めて見る恰好だった。
「今日、墓参りにいく」彼は言った。「今、テツロウさんが車回してくるの待ってるんだ」
「お墓って、誰の?」
「母親の」
 わたしは息を詰めて彼を見返した。
 彼は小さく笑った。
「ずっと消息が知れなかったんだけど、やっと見つかったんだってさ。内緒にしてたけど、先週、院長先生とテツロウさんから聞かされた。俺を施設に預けた後、あっけなくどっかの男とのたれ死んだんだってさ」
「それは……、えっと……、ご愁傷さまです」
「はは、よせよ。ほとんど他人だ。何の義理もない」彼は言ってから、また雨の降る高原へ目を向けた。「だけど、まぁ、色々思い当たるところあって行くことになった」
「どこまで行くの?」
「結構遠い。四、五日は帰ってこない」
「そう……」わたしはぼんやり頷いた。
 人の死なんて遠いものだと思っていた。少なくとも、四、五日かかる距離よりずっと遠い存在に考えていた。夜空に浮かぶ星のようにそれは果てしなく離れた概念だと感じていた。
「俺がさ、もう帰ってこないって言ったら、ユメノ、どうする?」
 びっくりして彼に振り向く。彼は笑っていなかった。
「嘘でしょう?」わたしは無様に笑って尋ねる。
「一応、まぁ、縁の遠い身内も見つかったからさ。引き取られるかも」
 絶句してしまう。どんな言葉も浮かんでこなかった。
「施設から離れられるなら悪い話じゃないからな」彼はわたしを見ずに続ける。「もちろん、どんな奴かもわからない人の下で飯食わせてもらうつもりはないよ。正式に引き取りの手続きだけしてもらって、それから独り暮らしするつもり。幸い、都会の方らしいし」
「そんな……」わたしは気の遠くなる思いで首を振る。
 いくらなんでも急すぎる。
 やっと……、やっと、自分の気持ちがわかったのに。
「昨日、ジュンに告白された」彼は唐突に言う。
 わたしはまた言葉に詰まった。頷くことしかできない。
「あいつには悪いけど断った。まだどうするかちゃんと決めてないけど、いざという時に迷わない為に……」そこまで言ってから、彼は溜息混じりに笑った。「はは、相変わらず厭味だな、俺。ずるい奴だ。そんなの、たぶん、関係ないのにな。どこまでカッコつけりゃ気が済むんだか……」
 それきり彼は口を閉ざす。
 静かな眼差しが朝の雨の軌跡を追っている。
 言葉を待っているのかもしれない。
 でも、わたしはまだ何も言えなかった。何か言わなくてはいけないと焦れば焦るほど、言葉は形を失くし、煙のように漂って、ただじりじりと喉の下で燻るばかりだった。
 雨の音が続いている。
 世界から切り離されたような静けさ。
「あのさ」
 彼が緊張した表情でわたしへ向く。
 でも、声は続かない。彼の言葉もまた静寂のうちに霧散したかのようだった。
 それから馬鹿みたいな時間をかけて、やっと出てきたのはとんちんかんな願いだった。
「ユメノのノート、くれないか?」
「へ?」わたしは間抜け面を晒す。
「いや、その、もし良ければ、ユメノが書き溜めた詩で曲作りたいから」彼は横を向いてしまう。「駄目かな?」
 むらむらと腹が立った。
 引っ叩いてやりたくなる。
 馬鹿!
 本当にそんなものが欲しいの?
 もっと別の言葉を求めているくせに。
 あなた、どこまでずるいの?
 本当に、甘えてる!
 でも……。
 それはわたしも同じだ。
 わたしは、何を期待しているのだろう?
 いったいこれ以上、何を待つというのだろう?
 この期に及んでどうして待っていられるのだ?
 静寂を切り裂いて、遠くからぷぁんとクラクションが鳴った。
「あ、もう来たのか」
 彼は一瞬、本当に焦った顔をした。「まだもう少し待ってくれ」と懇願する顔だった。
「駄目か?」彼はすっかり固くなった顔で言う。
 でも、わたしは答えられなかった。ノートを抱える腕にぎゅっと力が籠もるばかりだった。わたしが思うよりも早く、体が拒否したのだった。
 ハルトミくんにもそれが見えたらしい。
 打ちひしがれたような顔をして。
 それから、掻き消すように歯を見せて笑った。
「駄目かぁ、残念」彼は肩を竦める。「じゃあな、ユメノ」
 彼は屋根の下から出て行く。
 無数の雨の雫を浴びながら、傘を差すのも忘れて歩いていく。
「待って、ハル」
 その言葉が口から滑り出る。
 呼び止められたことよりも、ハルと呼ばれたことの方が意外だったのだろう、彼はきょとんと振り返った。
「なに?」
 なに、じゃないでしょう、馬鹿。
 わたしはノートも詩集もテーブルに放り、からからに乾いた口へ紅茶を流し込んだ。ペーパーカップがくしゃくしゃになるくらい強く握って。
 温かい紅茶が喉の下を通っていく。
 そこから、解かされた氷のように、長く封印してきた言葉が昇ってくるのを感じた。
 はっと気付いて、空になったペーパーカップを見つめる。
 そうか……。
 突拍子のない発想に笑い出したくなった。
 ここにあったんだ……、わたしの言葉は。
 まったく、なんて回り道だったのだろう。
 冷たい雨の中へ駆け出し。
 驚いた彼の腕を掴んだ。
 間近に迫る華奢な顔。
 わたしは一度、深呼吸をし。
 それから息を止め。
 体の奥底から昇ってくる奔流に身を委ねた。
 それは震えるほどの歓喜に満ちた音だった。
「あのね、わたし、ハルのことが」
 静寂が破られる。
 雨が立ち尽くす二人を濡らしていく。
 ずっと沈めてきたわたしの言葉。
 それはまだ輝き続けていて。
 一斉に、滑り出てきた。
 

後書き

未設定


作者 まっしぶ
投稿日:2015/10/17 19:45:48
更新日:2015/10/17 19:45:48
『ステイ・ゴールド』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
HP『カクヨム

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作品ID:550
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