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作品ID:557
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約32332文字 読了時間約17分 原稿用紙約41枚
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作品紹介
「よく見ろよ」
※全然新作を書けず、過去作で申し訳ありません。
割と気に入っている作品です。好きな作家の影響も凄いですが(だから気に入っているのかな……)
よろしかったらどうぞ!
※全然新作を書けず、過去作で申し訳ありません。
割と気に入っている作品です。好きな作家の影響も凄いですが(だから気に入っているのかな……)
よろしかったらどうぞ!
『ヘリコプタ』は、八条哲哉が勤める会社から徒歩五分ほどの位置にあった。用水路に沿った厭世的なほどに細い路地にぽつんと建っていて、周囲の高層ビルが伸ばす影の餌食になって常時薄暗い。時代を感じさせるネオンの看板が昼も夜も無く光っていた。外観は寂れた板金工場か、ひと昔前の洋画に出てきそうな場末のドライブインを彷彿とさせるが、ヘリコプタはれっきとした、そしてやや時代に取り残された雰囲気のゲームセンターだった。
今年で入社三年目を迎えた八条はその日、初めてその娯楽場の存在に気付いた。そもそも、この厭世的な路地に脚を踏み入れたのも初めての試みだった。自分でもなぜこの道を通って行こうと思ったのかわからないし、なぜ寂れたゲームセンターの前で脚を止めたのかも判然としなかった。駅や会社へのショートカットになるわけでもない。
恐らく、これが余裕というものなのだろう、と自己分析する。つまり、生活に対する慣れだか麻痺だかでようやく精神が安定を見せ始め、気まぐれでいつもと違う道を通るといった、自分のイレギュラーな行為も許容できるようになったわけだ。周りの風景に視界が開いている証拠である。ずいぶん懐かしく、むしろ新鮮な感覚だった。そのうち、遠い星を見上げて、道端に咲く花を可愛らしく思うような、呆れるほど詩的な人間になるのかもしれない。還暦を越えた老人達のほとんどが哀愁を湛えているのも、その安定した精神がもたらす作用なのかもしれなかった。
大学を卒業し、社会人になると、毎日が目まぐるしく過ぎていった。忙殺という言葉が具体的にどれほどの過酷さを示すのかは知らないが、新入社員としての日々は八条にとって、まさしく忙殺の一言に尽きた。毎日虫の息だったのでそれほど大袈裟でもないだろう。ふと気付けば会社勤めも三年が経過していて、社内ではようやく一人前扱いされてきた頃だった。仕事が好きなわけではけしてない。むしろその反対であったが、確立された自分の立ち位置については素直に安堵を覚える。苦労した甲斐を充分に感じていた。
煙草に火を点けながら八条は逡巡していたが、二回目の煙を吐くのと同時に、ヘリコプタの扉をくぐった。これも気まぐれ、単調にして過酷な毎日を彩る小さな刺激である。
店内は、外観の印象よりも多少広く感じられたが、床や壁が薄汚かった。天井には剥き出しのダクトが入り組んでいる。ゲームセンターの割には騒がしくない。これは、置いてある筐体数が少なく、プレイされていないゲームの音がミュートされていたからである。
入口からすぐ、見るからに古いゲームばかりが揃えられている。ガン・シューティングが一台、対戦型格闘ゲームがそれぞれ向き合って四台、レース・ゲームが二台。あとはターン・テーブルを模したコントローラの音楽ゲームと、パンチング・マシーンが奥にあった。クレーン・ゲームやメダル・ゲームの類は置かれていない。
八条は一息に煙草を中ほどまで吸い、入口脇の灰皿に煙草を捨てた。目につく限りでは、その灰皿が一番綺麗に保たれている。
ゲームセンターなんて何年振りだろうか。
最後に利用したのは確か、大学一年か二年の頃だ。しかも、遊んだわけではなくて、酒宴か何かの後の終電を逃してしまい、仕方なく二十四時間営業の駅前店で始発の時間まで粘っていたのだ。高校一年までは地元の店へ頻繁に通っていた覚えがあるが、今ではアーケードどころか家庭用ゲームすらやらなくなっていた。
八条の他に客は四人いた。店の規模で考えればまずまず繁盛しているほうかもしれない。土建屋風の若い男が一人、煙草を銜えた制服姿の中学生が二人、杖をついた白髪の老人が一人。二人組の中学生は大昔の格闘ゲームで対戦していて、土建屋と老人は奥の飲食スペースのテーブルで焼きそばを食べていた。飲食コーナーは低い板で仕切られた小さなスペースで、その奥にはバー・カウンターが設置されている。
あぁ、ここは軽食も兼ねているのか、と八条は納得した。あまり見ない形式だが、彼の地元にも何軒か同じようなゲームセンターが存在していた。ゲームセンターというよりは喫茶店に近かったのかもしれない。ゲームは申し訳程度で、ほとんどダーツやビリヤードに主眼を置いていたのが、このヘリコプタという店と地元にあった店との違いだ。今ではそのほとんどが潰れてしまっている。
「いらっしゃいませぇ」
なんとなく飲食コーナーへ入ると、カウンターの奥から女性店員が現れた。緩くウェーブした髪が明るく、そして髪の色と同様に若い風貌。大学生だろうと八条は見当をつけた。さすがに店長では無さそうである。
「あの……、何にしますか?」
八条は我に返り、慌ててカウンターの脇に掛かっているメニューを見た。そんなつもりはなかったのだが、ちょうど小腹が空いていたので何か頼もうと考える。『おすすめ』という文句で、この手の店には珍しいホット・ドッグが売っている。写真はないが、二百円という手頃な値段が妙に愛らしく感じられた。
「えっと、ホット・ドッグをください」
「ソースはケチャップとマスタード、どちらにしますか?」 店員は愛想よく笑った。
「可能なら、両方かけてください」
「かしこまりました。二百円です」
金を払い、ネクタイを緩めながら、八条は所在無げに立ち尽くした。テーブル席は土建屋と老人の二人で既に埋まっている。カウンターにも背の高い椅子が三脚置かれていたが、さすがにそこへ腰掛ける勇気は無かった。店員は調理の為に器具のある反対側を向いていた。
先ほど捨てたばかりだが、手持無沙汰なので再び煙草を取り出す。ぶらぶらとゲームを眺めることにした。二人組の中学生が遊んでいるのを横目に、隣の別の格闘ゲームの筐体(これも相当に古い)のデモ映像を眺め、鋭角的なポリゴンのゾンビが襲ってくるガン・シューティング・ゲームを眺めた。プレイしてみようかと思ったが、ホット・ドッグがまだなので我慢し、反対の壁際にあるレース・ゲームを覗く。
「へぇ……」 八条は息を漏らした。
『峠の神話』、か……。
自動車の運転席を模した筐体のそのレース・ゲームは、かつての八条が相当に入れ込んでいたものだ。否、彼の場合、極めたといっても過言ではなかった。中学生の時に流行っていたゲームで、八条はほとんど毎日、地元のゲームセンターに入り浸って遊んでいたものだ。
懐かしさに思わず微笑が零れる。ホット・ドッグの存在を忘れ、八条は無意識にシートへ腰掛けた。固いステアリング、アクセルとブレーキのペダル、玩具のようなシフト・レバー、目の前の画面、映し出されている車のグラフィックとキャラクター達。過去に何百回も眺めたデモ映像が、今も無音でそこに流れていた。
ボタンを押すと画面が切り替わる。その店のタイム・レコードのランキングが表示されるのだ。八条は煙草を銜えたまま、しばらくコースごとの上位タイムを睨んでいた。
やってみるか。
しかし、筐体の脇にある灰皿へ煙草を捨て、財布から小銭を取り出したところで、先程の女性店員がやってきた。手には紙に包まれたホット・ドッグがある。すっかり失念されていた哀れなホット・ドッグである。
「おまちどおさまです」
幾分か冷静になって、八条はホット・ドッグを受け取った。出来立てでまだ熱く、香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「向こうで食べたほうがいいかな?」 彼は飲食コーナーへ目を向ける。
「あー」 店員もそちらを見て、再び八条へにっこり笑いかけた。 「零さないなら、ここで食べてもいいですよ」
「ありがとう」 八条も微笑んだ。
親切にして杜撰な女性店員は、持ち場であるらしいカウンターへと戻って行く。
八条はホット・ドッグを頬張った。予想していた通りの味で、不味くはないが、特別に美味いわけでもない代物だった。厭味ではない。予想通りであるほうがよっぽど安心できるし、それが彼にとっての一つの幸福理論でもあった。何事も予想を裏切らないほうがずっと難しいのだ。
気付くと中学生の二人組がいなくなっていて、土建屋風の男も席を立って出て行くところだった。先程の女性店員が空いたばかりのテーブルの紙皿と割り箸を片付けている。その作業を何気なく見守りながら、八条はホット・ドッグの最後の欠片を咀嚼した。素直な感想を述べれば、普通に美味かった。おすすめされるだけはある。
食後の一服よりも早く、八条はコインを機械に投入した。早く遊びたくて仕方がなかったのだ。通常の店では一ゲーム百円だが、この店は五十円に設定されていた。百円ぐらい払っても別段構わないのだが、その値段設定が彼はますます気に入った。
コインを投入した途端、無音だったスピーカーから馬鹿げた音量の効果音が流れる。車の排気音だった。八条は飛び上がって驚いたが、これは今まで静かだった反動に過ぎず、よくよく考えれば昔もこれくらい喧しかったと思い直した。ゲームセンターは本来、喧しい場所である。
重みを増したステアリングから、エンジンのような振動が伝わってくる。中学生だった当時はとても凝っていると感動したものだ。懐かしさに再び頬が緩む。
『峠の神話』は実在する車種を扱い、日本各地の有名な峠をコースに据えた、対戦型のレース・ゲームである。手軽な疾走感と、非現実的ながらも奥深いコーナリングで人気を博したシリーズだ。現在でも最新作が稼働しているのかはわからないが、アーケード・レース・ゲームの草分け的な存在であるのは間違いない。
八条はマツダのロードスターを選び、群馬の某峠を選択した。当時、一番得意なコースだったからだ。得意というよりは、彼にとっての箱庭と言っても良かっただろう。今でも目を瞑って走れるかもしれない。
中学生の頃の八条は、地元にある全てのゲームセンターで、このコースのタイム・レコードを一位に塗り替えていた。あの頃はまだ全国通信が存在せず、ランキングはあくまでその店に限ったものばかりだった。なので、店に名を残す為には実際にその店まで遠征に行かなければならなかったのだ。
自分が全国でどの程度の位置にいるのかわからなかったが、そのコースに限れば、八条は全国でも上位に食い込む自信があった。不意の乱入やこちらからの挑戦でも、そのコースにさえ設定すれば、たとえ相手が高校生でも社会人でも、八条は簡単に下すことができたのだ。負けたことは未だかつてない。
「無敵さ」 八条は謡うように独り言を漏らし、我に返って赤面した。
画面が切り替わり、いよいよレース・モードになる。車体のグラフィックやシートとステアリングの振動、それに相変わらず響く馬鹿げた排気音の一つ一つに、八条はいちいち懐かしさを覚えていた。余韻深い溜息には帰郷のような感慨が含まれている。
そう、昔はここが居場所だった。
戻ってきたのだ、僕は。
八条はくすりと笑う。
CPU戦ではなくて、タイム・アタックにしていた。セクション・タイムとトータル・タイムの両方を塗り替えてやろうと考えていた。先程確認した腑抜けたタイムなら、十年近いブランクの自分でも楽に超せるだろう。ステアリングに掛かる握力を意識し、適度に力を抜く。
スタートのカウントが画面に浮かび、『GO!』の文字と共に、八条はアクセルを踏み込んだ。
爆発的な加速。メーターを見ずにシフト・アップ、第一コーナーへ達するまでに四速まで加速した。ちらりと視界に捉えた速度表示は百八十キロ。峠の公道で、あり得ない速度だ。やっぱりゲームだな、と少し可笑しくなる。クラッチの無いマニュアル車、それだけで滑稽だ。
軽くブレーキング。
シフト・ダウン。
ほぼ同時にステアリングを切って。
画面の中の風景が横滑りする。
コーナー入口へ。
疾走。
ぶっ飛ぶ景色。
道路に浮いたアスファルトの模様は、今見てもなかなかリアルだ。全盛だった当時は途轍もなく綺麗に思えたものである。最近はもっと精巧なのだろうか。
順調なドリフト。
しかし、腕慣らしに過ぎない。
ミスはないが、八条の納得には程遠く、まだまだ本気ではなかった。
コーナーを抜け、シフトを戻す。速度に対する慣性も、立ち上がりの加速も、やはり現実味に欠ける。こんな車とエンジンが実在したら一つの革命だろう。
最高ギアの五速まで上げる。速度は二百キロ近い。まだまだ回転に余裕があるというのだから末恐ろしい。
第二コーナーへ差し掛かった。第一よりも深い角度だ。ここからコースは峠らしく、カーブが連続するようになってくる。
再びブレーキングし、車体を滑らせる。
流れる画面に、遠心力が伝わってくるかのよう。
道路よりは作り込みが粗い岩肌が迫ってくる。
少々アンダーだったか。
しかし、接触せずに切り抜ける。立ち上がりで、背中に加速度を感じた気がした。躰が錯覚している。なんて単純な奴だろう。
目がコースの先を睨んでいる。時々、ガードレールの曲線を捉え、端のメーターとタイムを確認した。その目線を意識している自分が不思議だった。まるで精神が肉体から乖離してしまったかのようだ。
再び、コーナー。
百八十度近く折り返すような、右回りのヘアピンカーブだ。
左に思いきり寄せてから、ブレーキングと同時に右へ旋回。
スピーカーからタイヤのスキール音。
気持ちの良い音だ。
最適の角度とラインでコーナーを抜ける。
加速。
すかさずシフト・アップ
四速から五速へ。
勘がまぁまぁ戻ってきた。
そろそろ本気で攻めよう。
攻める?
自分の言葉に、息が漏れる。
まるで、本物の走り屋かレーサーのようではないか。
所詮、ゲームだ。
身も蓋もない言い方をすれば、偽りに過ぎない。
さらに臆面なく言ってしまえば、虚構、幻想だ。
自分が本当に、とんでもない速度でヘアピンカーブを曲がっているわけではない。
自分がそこにいるわけではない。
ゲームの中の、名も無い走り屋に、自分を投影しているに過ぎない。
それがきっと、ゲームの本質だろう。
ちゃんとわかっている。
フィクション。
映画を観ているのと根本的には変わらないのだ。
ただ……。
映画と違うのは、その虚構の世界に干渉できるということ。
ゲームの世界の自分に、名前を与えることができる。
それが、つまり、このレース・ゲームにしてみれば、タイム・レコードである。
その数字だけが、現実の自分と密接にリンクする。
名を刻める。
存在を知らしめることができる。
それだけは本物だ。
そのタイムだけが現実に存在する。
自分の命の一部が、そこに宿っている。
現実の時間と労力を犠牲にしてでも、得る価値があるものだろう。
その思い込みこそが、もしかしたら、虚構なのかもしれないが……。
いや、どうも……、変なことを考えているな……。
飛躍もしている。
思考まで二百キロか?
馬鹿馬鹿しい。
今に衝突事故を起こすぞ。
八条は再び息を漏らし、暴走しかけた思考に歯止めをかけ、意識をゲームに集中させた。数秒の間、無意識に近い状態で走っていたのだが、それでも致命的なミスは犯していなかった。むしろ、良いタイムを叩き出している。躰は完璧に勘を取り戻したようだ。その証拠に、セクション・タイムのほとんどが赤字で表示され、記録の更新を示していた。
久しく感じていなかった心地良い手応えと刺激を感じながら、八条はさらにアクセルを踏み込んだ。
◇
結局、八条はトータル・タイムも更新した。その後も他のコースで二回走り、深い満足と余韻を味わいながら、ヘリコプタを後にした。
彼が再び店を訪れたのは、それから二日後のことである。
「『峠の神話』? おぉ、よくやってたよ。なかなか速かったぜ、俺」
退社後、会社の先輩である上村と共にヘリコプタへ向かっていた。その日の昼休みに話が盛り上がり、対戦する成り行きになったのだ。上村はヘリコプタという店の存在を知ってはいたが、入ったことは無かったらしい。彼の気まぐれはきっと別の方面で発揮されたのだろう、と八条は想像した。
上村は八条と同じ部署に所属する二年先輩の社員であり、歳もちょうど二つ上だった。なかなかにさばけた性格で、人当たりの良い男である。八条にとっても、職場で最も好感が持てる相手だった。
「ゲーセンなんて久しぶりだ」 途中、上村が上機嫌な口調で言った。 「よく行くのか?」
「いえ、僕も久々でしたよ」
「しかし、まぁ、今の俺が言えた義理じゃないが、お前もずいぶん暇な奴じゃないか」 彼はにやりと笑う。 「いい歳して女も作らんと、ゲームセンターなんか行ってよ」
「だから、僕も久々に行ったんですってば。ゲームなんて滅多にしませんよ。それに女は関係ないでしょうが」
上村はことあるごとに八条の恋人不在の現状を嘆く。前の恋人と別れてから一年、ずっとこの調子だ。八条にとっては余計なお節介だったが、なんだか可笑しいので放っておいていた。
「良くないよなぁ、そういうのは……、可愛い後輩が女と無縁にゲーム三昧なんて」
「三昧って……」 八条は呆れて肩を竦めた。 「あの、僕の話、聞いてます?」
「昔はどうだったんだ?」
「何がですか? 女? ゲーム?」
「ゲーム」
「大学受験まではゲーマーでしたよ。出ているハードはだいたい持っていたし、ゲームセンターにもよく行っていたし。上村さんはどうだったんですか?」
「俺は人並みだったよ。一日八時間くらいしかやってなかった」
「どこが人並みなんですか」 八条は噴き出した。
「まぁ、でも、あれだな。昔は気が狂ったようにやり込んでいたのに、今じゃさっぱりゲームなんてやらないもんなぁ。卒業できるもんなんだよな。最近のゲームなんて、全くわかんねぇよ」
「たぶん……、他に楽しいこととか、やらなきゃいけないことができたからでしょうね」 八条は言った。 「今は、ゲームなんてやる時間もないですし」
それは一般的な見方をすれば、十中八九、良い傾向なのだろうが、昔の熱狂的な楽しさを思い返すとなぜだか少し寂しく思えた。失われた情熱と言ってしまうと大袈裟に過ぎるが、たとえば子供の頃によく遊んでいた公園が取り壊されたかのような、喪失感にも似た寂しさだった。
「女とかな」 上村がにやにやと付け加えた。八条が言った他に楽しいこと、やらなきゃいけないことへの、彼なりの補足のようだった。
「また女」 八条は溜息をついた。 「上村さん、そればっかりですね」
「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」
「たぶん、違います」
「ギャルゲーとかあるだろ? 恋愛シミュレーション」 上村の話が飛んだ。 「たいていのジャンルはやってきたけどさ……、俺、あれだけはどうも許容できんな。二次元趣味じゃないから無理もないんだけど。お前、やったことあるか?」
「いえ、ないですね」
「愛好者を貶すわけじゃないが、あれ、何が楽しいんだろうな」
「楽しい人は楽しいんでしょう」
「現実の女を落としたほうがよっぽど楽しくないか?」
「楽しくない人は楽しくないんでしょう」
「わからんなぁ」 上村は息を漏らして笑う。
しかし、八条にはなんとなくわかる気がした。二次元美少女の魅力についてではなく、疑似恋愛の楽しさについてだ。それはきっと、八条がレース・ゲームに抱いた愉悦と通じている。少なくとも、原理は同じに違いない。フィクションがもたらす気軽な楽しさだ。
ヘリコプタに着いた。今日は他に客も見当たらず、もちろん『峠の神話』も空いていた。中学生当時は順番待ちまでしていたのに、なんだかとても贅沢な気分になる。
カウンターまで向かうと、二日前と同じ女性店員が出てきた。彼女を見て、「ほぉ」と上村が漏らす。
「あ、いらっしゃいませぇ」 彼女は八条を覚えていたようで、多少の親しみを込めた微笑みを向けた。 「何にします?」
八条は上村に振り返る。
「任せる」 彼は目を大きくした。
「ホット・ドッグを二つ」
「ケチャップとマスタード、両方ですか?」
「うん」
「ありがとうございます、四百円です」
金を支払い、二人は煙草に火を点けた。八条はうずうずとレース・ゲームのほうを見ていたが、上村は煙を吐きながら、調理する女性店員を眺めていた。
「なかなかじゃないか」
「ええ、隠れ家的でしょう?」
「違う、あの子」 上村が顎で示す。 「名前はなんていうんだ?」
「知りませんよ」 八条は笑った。
上村が熱心に眺めているので、八条もつられて彼女を見た。
彼女は際立って美人というわけではなかったが、おっとりとした丸い目や小さい鼻の造形が親しみやすさを醸し出していて、猫のように好感的だった。ペルシャネコの美しさというよりはヤマネコの愛らしさだ。垢抜けない、素朴な魅力である。笑うと少女のようになって、それがとても可愛らしい。明るい茶髪と小さなイヤリング、私服らしい淡い青のチュニックブラウスとクリーム色のエプロンがとてもよく似合っていた。しかし、化粧だけは背伸びをしてしまった感じで、正直いまいちだ。もう少しだけ薄くしても良いと思う。
普段の八条だったら、たとえ心の内であっても、これほど不躾な女性寸評はしない。つまり、今の彼は上機嫌だった。その証拠に口許にはまだ微笑の感触が残っている。
煙草を吸い終わる頃、ちょうどホット・ドッグがやって来た。受け取る際に、上村はちゃっかりとビールを追加注文した。
「飲酒運転」
「構わねぇよ、どっちにしろ危険運転だ」 彼は笑い飛ばしてホット・ドッグを齧る。 「なーんか、懐かしい味」
そう言って彼はスーツの上着をシートに掛けた。きっと、シートも懐かしかったのだろう、座席に着いた彼は駄菓子屋に来た子供のような笑みを浮かべた。
◇
アルコールを言い訳にする余地がないほどの差をつけて、八条は上村を負かした。上村も人並みよりは多少上手かったが、やはり八条の敵ではなかった。
意外にも上村は悔しげな表情を浮かべ、何度もしつこく再戦を請うてきたが、その全てのレースに八条は勝利した。彼がようやく諦めたのは五回連敗した後である。
「馬鹿みてぇに速ぇな」 煙草に火を点けながら言ってくる。馬鹿という発音を強調していた。
「これでも地元で伝説作ってるんで」
上村は鼻を鳴らし、デモ映像から各コースのタイム・レコードへ切り替えている。八条も煙草を取り出した。
「おい、このエイトって名前の記録、もしかしてお前か?」
「そうですよ」
「かぁ……、安易な名前」
「カッコイイでしょう?」
「エイトマンかよ」
「なんですそれ?」
上村は無視してコースを切り替えている。そして、「はっ」と息を漏らした。
「残念だったな。伝説塗り替えられてるぞ」
「え?」 八条はぽかんとする。意味がわからなかった。
「ほら、このコース。一位が別の奴になってる」
八条は慌てて覗いた。
冗談だと思ったが、上村の言う通り、『エイト』の名が二位に下がっていて、一位に別の名が刻まれていた。トータル・タイムは二日前に八条が叩き出した記録よりも三秒縮められていた。記録の更新日は昨日の日付になっている。
「YOSHIHIKO……、ヨシヒコか。どいつもこいつも安直な名前だな」
しかし、八条は笑みを返せず、信じられない思いで画面を凝視していた。なぜなら、そのコースは、彼が最も得意としていたコースだったからだ。
胸の内で、敵愾心とも言うべき感情が、小さく芽吹くのを感じた。
「他にもやってる奴いるんだな、こんな古いゲーム」 上村は八条に笑いかけ、そして身じろぎした。 「おい、目……、目がマジになってる」
「すいません、上村さん。ちょっと……、僕一人でやっていていいですか?」
上村は笑いを堪えるような顔で、大袈裟に肩を竦めた。
「どうにでもやっちゃってくださいよ、センパイ」
彼は座席を離れ、飲食コーナーへ行った。少し気が引けたものの、八条はシートに座り直し、再び五十円玉を投入した。
信じられない……。
網膜の裏で、『YOSHIHIKO』の文字を反芻する。
まだ混乱していた。確かに二日前のタイムは、自分の全盛期と比べれば幾分劣る記録だった。しかし、悪くないタイムだ。並みのプレイヤーに抜かれるものではないはずだった。つまり、一位のヨシヒコは相当な腕前であるとわかる。一応確認すると、他のコースの上位にそいつの名前は無かった。八条の箱庭だけ抜かれているのである。
上村が言っていたことと同じような戸惑いもあった。まだこんな古いゲームをやっている奴がいたのか、と。なんて物好きな奴なのだろう。人のことは言えないが……。
ロードスターを選び、同じコースを選択。画面はタイム・アタックへ移る。
前触れなく、突然現れた強敵の存在に、八条の胸はざわついていた。中学生の時、遥か年上の男に乱入された時のような緊張だった。久しく忘れていた胸の高鳴り。闘争本能。
落ち着け……。
自分に言い聞かせる。
嬉しいことじゃないか、ライバルの出現は……。
倒し甲斐があるというものだ。
カウント。
アクセルを軽く踏み込み、吹かす。
とにかく、スタートダッシュから全力だ。
上村さんとの対戦でウォームアップは終わっている。
コンディションは上々。
ビールを飲まなくてよかった。
カウントが終わる。
GO!
踏み込む。
メーターが振り切る寸前、シフト・アップ。
二速。
三速。
四速。
コーナー。
ブレーキング。
リアを振り過ぎたか?
しかし、まだまだ取り返せる。
ステアリングを小刻みに当てつつ、シフトを戻す。
エンジンが唸る。
立ち上がり。
加速。
最適のラインを辿る。
再びコーナー。
ブレーキング。
今度は完璧。
ドリフトとグリップのちょうど中間ぐらい。
アウト側に車体が迫っていくが、接触の寸前に挙動が戻る。
切り抜けた。
次は逆側のヘアピン。
ラインはこのまま。
対角線上を行くように。
タイムを出すには、出来るだけ直線的に走って加速を落とさないのがコツだ。くねくねしているこのコースでは難しいが、速度を稼ぐ場所は既に認知している。後はどれだけ無駄なく走れるかだ。
ブレーキング。
ハンドリング。
アクセルを踏み込み。
視界が回転。
「くそ」
思わず悪態。
タイヤの滑る時間が長過ぎる。
せいぜい四十点ってところ。
やっぱり、まだ本調子じゃないか。
昔の自分なら、もうワンテンポ早く抜けていただろう。
悔しい。
舌打ちが漏れた。
速度が増していく。
次はS字。
浅い角度の右回りコーナーから、逆側のヘアピンだ。
グリップで曲がり、即座に逆へハンドリング。
少々突っ込みすぎか。
でも、取り戻さないと……。
馬鹿!
焦るな!
ブレーキング。
しかし、やはり、無理があった。
ラインが膨らむ。
ガードレールにリアバンパーが当たる感触。
背筋が凍る。
悲鳴を上げたくなった。
だが、減速するほどの衝撃ではない。
切り抜ける。
間一髪。
どっと汗が浮かんだ。
ゲームなのに、なんて焦燥感だろう。
寿命が縮む思いだ。
そう、これはゲーム。
言ってしまえば、虚構。
この前もこんなことを考えた……。
実車で走っているわけではない。
目の前の映像は作り物だ。
速度も、エンジンの唸りも、タイヤのスキールも偽物。
躰に掛かる重力はずっと一定だ。
それこそが現実の証。
ここはゲームセンター。
たとえ負けたって。
何も失うものがない。
ガードレールに刺さったって、命を失うわけじゃない。
せいぜい五十円。
だけど。
本当にそうか?
コーナーを抜ける。
今度は我ながら絶妙なコーナリング。
シフト・アップのタイミングも百点に近い。
加速。
この焦りは。
失う予感に起因したものだろう。
それは間違いなく敗北の先にある。
では、何を失うのか?
それは、たぶん……。
誇りだとか、プライドだとか、そういうもの。
思わず笑った。
尊厳だって?
妙なことを。
現実にだって、そんなものは持ち合わせていないのに。
虚構に必死というわけか。
可笑しい……。
だけど、虚構に刻まれた数字。
それには血が通っている。
紛れもない技量と意思が宿っている。
そこだけが、人間の介在できる場所だ。
そいつに負けたくない。
その闘争心は、本物。
勝利の歓びと敗北の悔しさに不純はないのだ。
上村の話を思い出す。
恋愛ゲームだかなんだか。
それをやっている連中だって、別に二次元の女の子と現実世界で懇ろになりたいわけではないだろう。中には本気で願っている奴もいるかもしれないが、それはどだい無理な話だ。諦めるしかない。
でも、恋愛のどきどきだとか、そういうものは味わえる。
今の、この焦燥感と同じで。
たとえ仮初めでも。
その感覚に偽りはない。
世間が定義する現実や本物なんて、そんなものなんだ。
子供が、ぬいぐるみに名前をつけるのと同じこと。
そこにだけは血が通っている。
ゲームって、そういうものじゃないだろうか?
コースは終盤に差し掛かっている。八条はタイムに目をやり、口角を上げた。セクション・タイムを二か所更新している。このままいけば、トータル・タイムも際どく競り合えるだろう。
連続ヘアピン。
息を吸い。
ブレーキング。
シフト・ダウン。
ハンドリング。
シフト・アップ。
アクセル。
もはやリズム勝負。
そのリズムと運動に身を委ねながら、再び思考が迸る。
もう一つ、大事なことがある。
それは、この、理屈抜きの楽しさ。
ゲームにいくら心血を注いだって、現実に何かが変わるわけでもない。
所詮、作り物なのだから。
子供の時はよくそれで大人達に文句を言われたものだ。
意味なんてない。
役になんか立たない。
それはそうだ。
でも、意味なんて必要だろうか?
役に立たなければ許されない?
理屈が必要?
鬼ごっこやかくれんぼが楽しいのに、理由があっただろうか?
生活の為にやっている仕事に、楽しさなんかあっただろうか?
まったく、ナンセンス。
なんて野暮な言い分。
そちらのほうがよっぽど不純だ。
くだらない。
この楽しさに比べたら、なんて濁りだろう。
何かが間違っているとすれば。
現実からこの楽しさを欠落させたシステム。
そのシステムを構築した連中に他ならない。
よく見ろよ。
こっちのほうがよっぽど楽しいじゃないか。
全力で走っている。
全力で闘っている。
この輝きを味わえるのなら、金など惜しくない。
クソ食らえだ。
思わず笑う。
また変なことを考えている。
自分は多重人格者ではないかとも思う。
普段は隠れている凶暴な自分が、今、嬉々としてステアリングを握っているのだ。
ヘアピンを抜ける。
あとは右へ緩やかにバンクする下り坂。
行ける!
四速から五速へ。
二百キロを超える。
最高速に達する。
ゴール!
八条はタイムを確認し、小さく快哉を上げた。最速レコードを零コンマ七秒更新していた。つまり、一位に返り咲いたわけだ。画面が切り替わり、自分の名を打つ間、勝利の興奮に頭の奥が痺れているのがわかった。
どうだ!
僕の方が速いぞ!
八条は陶酔しながらシートを立った。酔っ払ったように脚が少しもつれる。さすがに疲れた。じんわりと自覚。しかし、それはもう何年も味わっていない快い疲労感だった。
上村は飲食コーナーのカウンターで、女性店員相手に何か喋っていた。ビールは二杯目のようだ。ふらふらと近寄ってくる八条を見ると、彼は煙草を斜めに銜えて拍手した。
「ヒーローの凱旋だな」
「大袈裟な」 八条は、しかし嬉しくて微笑んだ。
女性店員は少し心配そうな表情だったものの、同じように拍手して八条を出迎えてくれた。
◇
ところが、八条が更新した記録は、再びあっけなく塗り替えられていた。彼がそれに気付いたのは週明けの月曜日、やはり退社後だった。
「馬鹿な……」 八条は愕然とランキングを眺めた。
今度は一秒の差をつけられていた。コースはまたも同じで、まるで八条に対する嫌がらせのようにそのコースの首位だけが変動していた。ランキングは十位まで表示されていて、八条と『YOSHIHIKO』が独占している四位以降にも多少の記録の変動があるが、八条達が叩き出しているタイムに比べれば遥かに低次元のものだった。恐らく、土日の間に複数人が遊んでいったのだろう。憎き『YOSHIHIKO』も、記録更新の日付を見る限り、日曜日に訪れていたのがわかった。
八条は脱力してシートに腰掛けた。ステアリングに顎を乗せ、呆けた顔でランキングを眺め続ける。
あのタイムにまで達すると、零コンマ五秒を縮めるのだって容易ではない。一秒ともなればその壁は途方もなく分厚いのだ。当然の法則ながら、何事も極限まで突き詰めていけば、小さな差だって大きな意味を生み出す。
「おまちどおさまです」
放心している彼へ、女性店員がホット・ドッグを持ってきた。八条は慌てて身を起こし、ホット・ドッグを受け取った。
「熱心ですね」 店員が笑った。レース・ゲームについて言っているらしい。
「あ、うん……」 八条は力なく頷く。 「ちょっと、強敵がね……」
「強敵?」
「そう」 ホット・ドッグを一口食べながら、ランキング画面を指差す。 「記録、抜かれちゃって……、自信、あったんだけど」
「エイトって……、八条さんのことですか?」
「うん」 頷いてから、彼は不審に思った。 「あれ? なんで、僕の名前知ってるの?」
「金曜日、上村さんから聞きました」 彼女はにっこり微笑んだ。 「今日は上村さん、来ないんですか?」
「ああ、今日は来ないよ。申し訳ないけど……」
「あ、いえいえ! わたし、ああいう遊び慣れてる感じの人、ちょっと苦手だから、心配していただけです。もう、ナンパみたいにしつこく口説かれて、この前は最悪だったんですよ」
少し驚いて彼女を見返した。意外とはっきりものを言う娘だ。上村には悪いが、八条は目の前の女性店員に改めて好感を抱いた。
「このゲームって、他の人もよくやってるの?」
「ええ、ここにあるゲームの中じゃ、使われているほうですよ。この時間帯はあんまりやりに来る人いないけど……」
「じゃあ、夜は結構来るんだ? 繁盛しているんだね?」 八条は微笑んだ。 「もしかして、君、店長? えっと……」
「あ、わたし、吹原といいます。吹原のぞみ。店長ではなくて、臨時の店長代理みたいな……」 彼女は気恥ずかしそうに頭を掻く。 「繁盛はしていませんね。だから結構、楽なんですよ」
「吹原さんって大学生?」
「違います。しがないフリーター、二十四歳の女です」
「へぇ、もっと若く見えた」
「うわ……、意外と失礼な人なんですね、八条さん。もっと紳士な方だと思ってたのに」
「いや、どちらかといえば褒めたつもりなんだけど」
「子供っぽいってことでしょう? で、意外と年食ってるなって思ったわけでしょ。童顔で悪ぅございました」
「すいません。上村さんと違って、女性にはあまり慣れていないもので」
八条が肩を竦めると、吹原は噴き出して笑った。本人は心外だろうが、やはり子供のように屈託のない笑みだった。
「店長代理っていうのは……、つまり、アルバイト?」
「んー」と彼女は首を傾ける。 「アルバイトっていうより、お手伝いかな。ここの店長、わたしのおじいちゃんなんですよ。ヘリコプタは、おじいちゃんの個人経営の店なんです」
「あぁ、そういうこと」 八条は納得して頷く。
「意外と歴史古いんですよ、この店。昔はインベーダーゲームの置いてある喫茶店だったとかで」 吹原は嬉しそうに話した。 「だから、もう見てくれはゲームセンターなのに、昔の馴染みで杖をついたお爺さんとかお婆さんがよく来るんです。ホット・ドッグを食べに。変わってるでしょう?」
「変わってるね」 八条も同意した。
「今はおじいちゃん、ちょっと重い病気で入院しちゃってるから……」 彼女は一瞬だけ暗い顔をしたものの、すぐさま朗らかに笑った。 「両親は店を潰した方がいいって言うんだけど、わたし、小さい頃からこのお店の雰囲気好きだから、現在孤軍奮闘中ってわけ」
「偉いね」 八条はホット・ドッグを頬張った。 「うん、出来れば、このゲームとホット・ドッグは守り抜いて欲しいな」
新たに二人組の客が入ってきた。彼女が語った通り、杖をついたお爺さん達だった。ゲームをしに来ているわけではないだろう。
「じゃあ、わたし、戻りますね」 彼女は言った。 「ごゆっくり」
八条も手を挙げて応えた。お爺さん達とにこやかに言葉を交わす吹原を眺めながらホット・ドッグを飲み込み、深呼吸してからコインをゲームへ投入した。ステアリングを握った瞬間に自分の目つきが変わったのを彼は自覚した。
『YOSHIHIKO』とは、どんな奴なのだろう。吹原に訊けばわかるだろうか。複数人がプレイしているらしいから、彼女も特定はできないかもしれない。
全く面識の無いどこかの誰かが、目の前に立ちはだかっている。無論、言葉も交わせなければ、顔もわからないような赤の他人。しかし、そいつが刻み込んだ数字には明らかに八条へ向けられた意思が宿っている。「越えられるものなら越えてみろ」という、いたってシンプルなメッセージだ。当然、相手も八条のタイムを見た時に同じように感じたはずである。
上等だ。
抜かしてやる。
なんて子供っぽい意地だろうと思う。でも、不思議と不快ではない。これほど正面切った挑発も他ではそうそうないが、それでも八条は血肉が沸いて踊るような感覚を覚えた。悔しさも当然ある。しかし、それ以上に、宿敵の出現が心から嬉しい。奇妙な感情だった。
順位転落で落ち込んでいたが、もう気を持ち直したようだ。たぶん、ホット・ドッグと吹原のぞみとの会話のおかげでもあっただろう。ちらりと飲食コーナーの方を覗いてから、八条は画面を睨んだ。
まずは慣らし運転、七割ほどで攻めよう。その次のゲームが本気だ。
アクセルを吹かしながら、カウントに合わせて首を鳴らした。
◇
だが、その日は結局、記録を塗り替えることは叶わなかった。零コンマ二秒まで迫ったものの、そこからどうしても詰められなかった。八条はまさに地団駄を踏んで悔しがったが、腕時計を覗いてその日は諦めた。あまり遅くなると翌日の仕事に差し支えるからだった。
店を出る間際、吹原のぞみと一言二言交わした。
「今日は長かったですね」
「どうしても敵わない相手がいるんだ。悔しくてさ」
「子供みたい」 彼女は可笑しそうに笑った。
「また来るよ」と言い残し、八条は扉へ向かった。
把手を押そうとした瞬間、それが逆側に開いて少しつんのめった。ちょうど、入れ違いに入店してくる客がいたのだ。八条はよろめいてその客に軽くぶつかってしまった。
「あ、すいません」 慌てて謝る。
入ってきたのはがっしりした体格の男だった。厳めしい金色のラインが入った黒ジャージ姿、短く刈り込まれた髪は脱色されていて、目つきはナイフのように鋭い。胸板にぶつかった八条をぎろりと見下ろした。
八条は肝を冷やして後退ったが、幸いにも男は小さく舌を打っただけで、何も言わずに傍を通り過ぎていった。跳ね上がった鼓動を宥めるようにしながら、八条はゆっくり息を吐く。もちろん、腕力にはほとほと自信がない。
危なかった……。
しかし、扉を閉める際にふと振り返った時、その男がレース・ゲームのシートへ腰掛けるのが見えた。
またも鼓動が重くなった。
もしかして、と意外な考えが浮かんだのだ。
あの厳つい男こそが、あのタイムの持ち主、つまり『YOSHIHIKO』ではないか。
八条はしばらくその場に立ち尽くした。一度考え始めると際限が無く、どうしても確認したくなったのだが、今さっき背筋の凍る思いをしたばかりというのもあり、あの男に近づくのは躊躇われた。
結局、八条は扉を閉め、逃げるように駅へと向かった。心臓はまだ早鐘を打っていた。
◇
「なんだ、お前、まだあのゲームに凝ってんのか」
昼休み、自分のデスクで寛ぎながらスマートフォンをいじっていると、背後から覗いていたらしい上村が声を掛けてきた。『峠の神話』の攻略サイトを覗いていたのだ。コース別にまとめられたタイム・アタックでの有利な走法を調べていたのだが、大体は八条も熟知しているテクニックばかりで、半ば復習とイメージ・トレーニングのようなものだった。
「勝手に覗かないでくださいよ!」
「ほどほどにしとけよ。次のプレゼン、お前が担当だろ? 遊んでる場合か?」
この男もたまには先輩らしいことを言うのだな、と八条は密かに感心した。
「大丈夫です、本業のほうもそつなくこなしているんで」
「走り屋は副業か?」 上村がにやにやする。
「ええ、健全でしょう?」
「どうだか」 彼は鼻を鳴らした。 「もしかして、ヨシヒコか?」
八条は少し驚いて見返した。
「よく覚えていましたね」
彼と共にヘリコプタへ行ったのはもう一週間前のことだった。上村はあの日以来、ヘリコプタには足を運んでいない。
「勝てないのか?」
「まぁ……」 八条は目を逸らして濁した。月曜日から金曜日の今日まで、未だにあの一秒の差を越えられていなかった。
「ストレス発散も大事だけどよ、ちゃんとやることはやっとけよ」
「わかってます。仕事には支障が出ないようにしてますから」
「バーカ、仕事じゃねぇよ、女だ、女」
「またですか」 八条は脱力した。
「いい加減、女作れよ。会社勤めってのはタイミング逃したら結婚できなくなるんだぞ」
「へぇ、上村さんって結婚願望あるんですね」
「ねぇよ。俺は一生フリーダムだ、バーロー」 上村は八条の頭を小突いた。 「来週の金曜、合コンするから予定空けとけ」
「え、僕、参加ですか?」
「オフコース」 彼はもう八条から離れて歩いていた。社員食堂にでも向かうのだろう。 「発散だよ、発散」
八条はうんざりした心持で見送った。スマートフォンに目を戻したものの、気分はすっかり削がれていてネットを閉じた。
そして、上村が口にした発散という言葉について、ぼんやり考える。
確かにそうだと思う。合コンについてではなくて(それもまぁ、あながち間違いではないかもしれないが)、ゲームとは本来そういうものなのかもしれない。つまり、娯楽を兼ねた手軽な発散だろう。
現実の世界ではけして味わえない仮想体験。虚構という言葉にはどうしてもマイナスなイメージが伴うものだが、もちろんメリットだってある。よっぽど健全なのだ。素人がサーキットで、あるいは公道で車を吹っ飛ばすよりずっと心配がない。生身の異性を相手にするより、画面の中の異性を相手にしていたほうが害も少ないだろう。それが素敵な発散だ。その虚構と現実の区別がついていない者も時折見かけるが、それは精神が幼いか不安定な証拠である。
八条は取り留めのないことを考えながら時計を覗き、まだ一時間以上昼休みに余裕があるのを確認してデスクを立った。昼食はホット・ドッグにしようと考えていた。もちろん、向かう先はヘリコプタだ。
あるいは、自分もまた区別がついていない者の一人ではないか、と彼は思った。
あの楽しさにとり憑かれ、貴重な昼休みを擲ってまでゲームをやりに行こうと考えている。仮にもまだ勤務時間であるのにも関わらず、だ。もちろん、現実の世界で車をぶっ飛ばそうなんて危険な考えは八条にはさらさらない。もし実行したとしても、あれほどの享楽は味わえないだろうと確信もしていた。
あの楽しさはきっと、現実にはない。
ゲームだからこそ、楽しいのだ。
この線引きの曖昧さを、八条も危惧していないわけでもなかった。
昔、肉体を捨てた人類が仮想世界で暮らしているSF映画を観たことがある。肉体がないので飢えも病もなく、また明確な差別や紛争が根絶された世界だった。まるで理想郷。しかし、映画は、人の尊厳の在処について執拗に警鐘を鳴らしていた。家族や恋人もなく、淡々と情報を交換するだけの電子生物に成り下がった人間の末期を描いた作品だった。
ずいぶん昔の作品で、八条がその映画を観たのも小学生の頃である。でも、あの映画を観て感じた漠然とした不安を、今でも覚えている。
人はどうして、虚構を求めるのだろう。
なぜ自ら、現実を切り離そうとするのか。
歩きながら考える。
しかし、答えは自明だ。
現実が嫌いだからだ、
それに他ならない。
じゃあ、なぜ、現実はこれほど遠ざかってしまったのだろう?
乾燥しきって、味気無くて、ひたすら単調で。
金や家族、あるいは無理やり立てた夢を言い訳にして、せせこましく働いて。
そして、最期には馬鹿みたいな後悔と共に棺桶。
こっちのほうが虚構じゃないか。
どうして、こんなことになったのだろう?
何かを失った?
何を?
僕達は、何を失った?
ふと、脳裏に、タイム・レコードが浮かぶ。
予感。
納得。
あぁ、そうか。
きっと、そうだ。
尊厳だったのか。
闘争の実感。
誇り。
プライド。
なんて陳腐な言葉。
笑ってしまう。
でも。
それを失くしたからこそ、現実は色褪せたのではないか?
皆で申し合わせたようにそれを捨てて、水槽の金魚のような生き方を選んだ。
そちらのほうが安心できるから。
何が安心だろう?
安心ってなんだ?
闘わないことが安心?
それが本当に望んだことなのか。
じゃあ、この欲求はいったいなんだ?
もちろん、闘争が人間の全てではないだろう。
安心だって、もちろん、必要だ。
人間はそこまで野蛮な生物じゃない。
でも、限りなく無償に近い対価で得られる安心に、何の意味があるのだろうか?
たとえば、愛だとか友情だって、タダでは得られないだろう。
会社のロビーを出る。
外は少々暑い。
歩く。
雑踏を抜ける。
スクランブルには大勢の人。
スーツ姿もいれば軽装の者もいる。
さまざまな人がいる。
赤の他人達。
まるで圧し掛かってくるような風景。
あるいは、恐怖したのだろうか?
誰かと闘うことに。
見ず知らずの人間に干渉することを避けた。
もしかしたら、それも一つの進歩なのかもしれない。
それが、今の自分の姿なのかもしれない。
ゲームに没頭している間は、誰にも迷惑をかけずに済むし、迷惑を被ることもない。
なんて無害。
結局、闘っていないのだ。
闘っているという幻想に満足して……。
いつの間にか、ヘリコプタに着いていた。
扉を潜る。
客はいない。静かだ。
カウンターでは彼女が暇そうに雑誌を捲っている。
こちらを見て、微笑んだ。
「今日は早いですね」
八条も微笑んで、ホット・ドッグを注文した。そして、いつものシートへと腰掛ける。タイム・レコードを見ると、やはりそこには宿敵の名。
そう、結局は幻想だ。
だけど。
この数字には意思がある。
この幻想をリングにして、一人と一人が争うのだ。
その闘いだけは本物。
現実の欠片と言っていい。
ぶつかる意地と意地は純粋だ。
ホット・ドッグがやってくる。
予想通りの味。
美味しい。
あっという間に平らげる。
彼女は緩く微笑んで、シートの後ろに立っている。
八条はコインを投入する。
爆音が鳴る。
包まれる。
あぁ、この感覚。
胸の高鳴り。
武者震い。
思考の加速度。
意識の鋭角化。
今日こそは。
今日こそは、勝つ。
コースを選んで、シートに腰を深く沈めた。
◇
翌週の金曜日になった。
上村が企画した合コンに参加することになっていので、退社後、八条は足早にヘリコプタへ向かった。軽く遊びたかったのと、タイム・レコードを確認したかったのだ。
三日前の火曜日、彼は『YOSHIHIKO』の記録を塗り替えていた。念願の首位だった。その記録を越す為に五千円以上は使ったかもしれない。しかし、連日続く充実感を考えれば安いものだ。この幸福は勝利でしか得られないものだ。
昨日も確認したが、八条の記録は抜かれていなかった。しかし、油断はできない。なにせ零コンマ三秒を上回っただけのタイムであるから、完全に突き放せているわけでもなかった。当分は大丈夫であろうが、『YOSHIHIKO』も相当な腕前であるから、何が起こるかわからない。八条の記録はきっと確認済みだろう。
いったい、どんな奴なのだろうと頻繁に考えるようになった。首位を狙って走り込んでいる時はその疑問もささやかだったが、今は勝利後の余裕というのか、『YOSHIHIKO』の素性がとても気になっていた。
正体を考えていると、あの厳つい男が脳裏に浮かぶ。もちろん、可能性は充分にある。偏見ではあるが、アーケードのゲームをやり込んでいそうな奴だった。
あの黒ジャージの男が『YOSHIHIKO』だと仮定すると、八条の鼻は一層高くなるかのようだった。腕力では到底勝ち目がないであろうあの野蛮そうな男に、ゲームとはいえ、一泡食わせてやったのが愉快だった。速さではこちらが上なのだ。子供じみた優越感だが、気分はとても清々しい。
ヘリコプタに着いたが、看板の電光が消えているのが妙だった。首を傾げながら扉を開けようとすると鍵が閉まっている。脇に小さく貼り紙があって、一週間ほど休業する旨が書かれていた。珍しい。何かあったのだろうか。
電話が鳴った。表示を見ると上村だった。
「俺、上がったからよ。お前、今どこだ?」
「あぁ……、駅前で待ってますよ」
「わかった。すぐ行く」
電話を切って溜息をついた。
気が乗らないが仕方ない。駅に向かって、八条は歩き始めた。
◇
合コンは会社の沿線から二度乗り換えた先の、歓楽街に程近い地下の居酒屋で行われた。四対四のセッティングで、八条と上村の他に違う部署の男二人が一緒にやってきていた。二人はどちらも上村と同じで、つまり異性との接点を求めるのに人生の大半を費やしているような男達である。憂鬱な顔をしているのは八条だけだった。
待ち合わせた店には既に先方の女性達が席についていた。どこかの会社のOL達らしい。彼女達は大学の友人同士で、主催の上村との繋がりも、その大学を通じた人脈だそうだ。
「あれ? 一人、足りなくない?」
席に着くなり、上村は訊ねた。確かに、女性陣は一人足りなかった。三人しかいなかったのだ。
「それがね、ちょっと都合悪くなって出てこれなくなったらしいの」 三人を代表して、一番派手な化粧の女が言った。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、こっちは一人余るな」 上村はおどけて言った。 「皆、同じ会社なの?」
「ううん、別々だよ。今日来れなかった子はフリーターやってるんだけど……」 彼女達は顔を見合わせる。 「のぞみ、どうして来れなくなったんだっけ?」
のぞみ、という名に八条はおしぼりを落としそうになった。女性陣はそれに気付かず、話を続ける。
「なんか、お祖父ちゃんが亡くなったとかで。今日の明け方だったらしいんだけど」
「あ、そうなの? あちゃあ、不謹慎なメールしちゃったよ」
「じゃあ、今はお葬式の準備とかで忙しいのかな」
「そうじゃないの? お店も閉めてるらしいし」
「お店って?」 同期の男が訊いた。 「その子、フリーターじゃないの?」
「あ、うん、亡くなったお祖父さんがやってたお店を手伝ってたのよ、その子。最近は店長代理みたいなことしていて」 彼女は思い出したように付け足す。 「そうそう、そっちの会社と同じだよ、最寄り駅。名前忘れたけど、ゲームセンターと喫茶店が合体したような店。知らない?」
ようやく上村も気付いたようだ。意外そうな顔をして、八条へちらりと向いた。八条はまだ動揺した顔で彼を見返した。
「まぁまぁ、その子のことは縁が無かったと思って諦めてさ。とにかく、乾杯しようよ」
女性達が陽気にグラスを掲げ、男達も同じように倣った。上村もどうやら気持ちを切り替えたらしく、調子の良い笑みを浮かべてグラスをぶつけ合った。
八条も遅れて乾杯を交わす。
なんて偶然だろう、とぼんやり考えながらビールを飲んだ。
そうか……、吹原のぞみの祖父は亡くなったのか。
ヘリコプタはどうなるのだろう。このまま、畳まれるのだろうか。
彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。
グラスを置く。その瞬間には、流れる峠の景色が見えた気がした。加速。コーナー。宿敵の描く最速のライン。それを辿り、追い抜いていく自分の視界。あの焦燥感を、相手も味わっているのだろうか。
気付けば周囲の話題は切り替わっている。自分の仕事のこと、趣味のこと、好きな俳優や女優のこと。なんて素早さだろう。チャンネルを切り替えているかのようだ。八条は相槌程度の言葉を発するのみで、黙々と耳を傾けていた。今は大学の話になっている。彼女達は見た目に反して工学部の出身だそうだ。そのギャップにわざとらしい男性陣の驚きが返される。
目の前の女性達を眺めても、同僚の男達を眺めても、そこにさざめく笑いを聞いていても全く心が弾まない。どんどん醒めていく。まるで宇宙人の会合にでも立ち会っているような気分。あるいは、自分だけが異質であるかのような錯覚。否、錯覚ではないかもしれない。
薄い膜が自分の周囲に張り巡らされている気がする。どんな音も光も、その膜を通すと鈍くなってくぐもるのだ。この感覚は、仕事や私生活の退屈なひと時にも感じることがある。無為な時間という自覚。自分の中の何かが濁っていくような焦り。
上村がちらりと八条を見る。一瞬目が合ったが、八条はすぐに目を逸らし、場の雰囲気に合わせて愛想笑いを浮かべた。後で怒られるかもしれない、と心配になった。
吹原のぞみは今、何をしているのだろう。不思議とそんなことが気になった。
祖父の死に泣いているだろうか。
いや、たぶん、泣いてはいないだろうと思う。気丈に、いつも通り振る舞っているに違いない。なぜだかそんな気がする。大して知りもしない相手ではあるが、その直感に間違いはない気がするのだ。
『YOSHIHIKO』は何をしているだろうか。
閉まっているヘリコプタを前に首を傾げているか、それとも記録を塗り替えられたことを知っていて、歯噛みしながらどこかで練習しているかもしれない。幾重にも頭の中にラインを組み、それを走る自分の軌跡を仔細に眺めているのかもしれない。
胸の内側で、沸々と込み上げるものがある。
その熱い感情だけが、透明な膜を打ち破れる唯一の現実だった。
◇
終電の前に合コンは終了した。八条は社交辞令で女性一人と連絡先を交換したが、こちらからメールを送るつもりはなかった。相手もきっと手応えは感じていなかったに違いない。
帰り道、案の定、上村に軽い叱責を受けた。
「お前さ、せっかく開いてやってんのに、始終うわの空ってどういう了見だよ」
「すいません」 八条は肩を竦める。恩着せがましい物言いにも思ったが、それについては黙っていた。 「でも、上村さんも今日はあまり乗り気じゃなかったですね」
「そりゃお前、可愛い後輩がつまらなさそうにしてたら気が気じゃねぇだろ」
それは明らかな嘘だったが、八条は不快にはならなかった。
上村も女性達と連絡先を交換していて、愛想よく挨拶をして別れていたが、普段と比べればずいぶんさっぱりした態度だった。意外にも彼は異性の好みの区別が明確で、誰彼構わずアプローチしているわけではない。分別のはっきりした彼の態度が、多少理解を超える部分があるものの、八条にとってはむしろ好感を抱けるものだった。
「お前、ひょっとしてあのゲーセンの女のこと、考えてたのか?」
あながち間違いではなかったが、八条は苦笑して首を振った。
「惜しいけど、違いますよ。あの店のゲームについて考えていました」
「ゲーム、ゲームって……」 上村は呆れ顔になった。 「お前、馬鹿だろ。合コンの最中にそんなこと考えている奴がいるか」
「ええ、あの、上村さんには申し訳ないと思っています。でも、僕は合コンっていうのがそもそも好きじゃないんです」
「合コンはつまらねぇか?」
「ええ、まぁ……」 躊躇ったが、八条は曖昧に頷いた。
「あのゲームは、そんなに面白いのか?」
「ええ、面白いです」
「実物の女を相手にするより?」
「はい」 今度はきっぱりと頷く。
舌を打って、大袈裟に上村は溜息を吐いた。 「なんか、今日のあの娘達が不憫に思えてきた」
「いや、えっと、良い人達だとは思いますよ。でも、なんていうか、恋人とか、僕は今いらないんですよ。たぶん、そこを上村さんは勘違いしているかと……」
「勘違い?」 上村が睨む。 「勘違い、つったか?」
「あの……、上村さん、落ち着いて」 八条は慌てた。 「僕が悪かったです。すいませんでした」
「勘違いしているのはお前だろうが」
「は?」 意味がわからず、八条は呆ける。 「僕が? 何を勘違いしてるんです?」
八条は苦々しい顔をして、煙草を取り出した。
「現実はつまらねぇって面してやがるだろ、お前」
それは脈絡のない返答だったが、八条はぎくりとして彼を見返した。
「別に、そんな」
「いいや、してるね。退屈で退屈で仕方ねぇって顔だよ。気取った顔だ」
少々ムッとしたが、八条は黙っていた。
「俺もゲーム小僧だったからさ、楽しいのはよくわかるぜ。仕事だとか煩わしい人間関係と比べたら、嘘みたいに面白いだろうさ。別にゲームするなって言ってるわけじゃねぇんだよ、こっちも」 上村は銜えた煙草に火をつける。 「だけどな、まぁ、陳腐な言い分だが、俺らはもう成人して一端の大人になってるわけだ。どうしたって現実と折り合いつけなくちゃいけねぇ。もちろん、クソみてぇなもんさ、仕事も人間関係も。女だって、面倒なことこの上ねぇ」
八条は上村の言葉に驚いた。最後の女の部分だ。
彼は続ける。
「最近の若者はよ……、まぁ、俺もそのうちの一人なんだろうが、仕事に働き甲斐ってのを求める傾向にあるんだとさ。つまり、面白さだわな。仕事に面白さを求めてるんだ。気持ちはわかるよ、俺にだって。でもさ、そんなもん、本当にあると思うか? 俺らがやってる仕事に、働き甲斐だとか、面白さだとか、あると思うか? どうだ?」
「いや……」 八条は戸惑って言葉を濁す。
「ねぇよ。そんなもん、あるわけねぇだろ。だって、それが仕事、それが現実なんだからよ」
彼は煙を豪快に吐く。妖怪絵巻のガマガエルのようだ。摂取したアルコールが遅れて効き始めているのかもしれない。
「あの、上村さん。ちょっと、お水飲んだほうが……」
「酔ってねぇよ! 素面だよ、馬鹿野郎」 上村は舌を打った。 「今日の合コンなんか、半分は営業の練習みたいなもんだったじゃねぇか。接客業やってる気分だったぜ。クソ面白くねぇ」
つまり、八つ当たりじゃないのかと思ったが、八条はもちろん黙っている。
「いいか、現実は面白くもなんともねぇ。大人になったら、まずそれを認めなくちゃいけねぇんだよ。それが大前提だ」 上村は煙と一緒に溜息を吐く。 「そんなクソみてぇな現実をな、ヨボヨボのじじいになるまで続けなくちゃいけねぇんだ。誰だって同じだよ。金持ちも貧乏人も、才人も凡人も皆同じだ。皆、一回は現実に失望してる」
だけどな、と彼は続けた。
「そのクソッタレの現実の中から、砂金みてぇに小さな楽しさだとか面白さを見つけることは出来るんだよ。どんなクソな仕事にだって、絶対に働き甲斐を感じられる場所ってのはある。もちろん、人間関係だとか、味気ねぇ実生活の中だって同じだ。楽しさ……、言うなりゃ、生きる気力ってやつ。それは誰かに与えられるもんなんじゃねぇ、自分で見つけるもんだ。それができずにうだうだクダ巻いてる連中はな、ガキに過ぎねぇんだよ。いや、ガキ以下だ」
八条は思わず脚を止めて聞いていた。上村も立ち止まる。
「現実はつまんねぇって言ってるような奴はな、自分で面白さを見つけようとしない奴だよ。現実がつまんねぇんじゃねぇ、そう言ってる奴が一番つまんねぇんだ。そいつが一番、つまんねぇ人間なんだよ」 上村は鼻を鳴らし、足許に吸殻を捨てた。 「別に……、無理して女作れとは言わねぇ。お前にはお前の生き方みてぇなもんがあるだろうからさ。だけど、ぴたっと耳と目を塞いで、自分の中だけで生きるようなやり方だけはやめとけ。そんな生き方が出来るもんなら、俺だってするさ。でも、こんな現代社会じゃ出来っこねぇ。よっぽど超越している奴じゃなきゃ無理だ。保証するね」
上村は歩き出す。八条は慌てて後を追った。
「だから……、八条よ、お前はもうちっと外に目を向けろ。お前、ずっとゾンビみてぇに無理して働いてたからよ。余計なお世話かもしれないが、心配だったんだ」
「大変でしたから……」 八条は俯いて笑う。
「そろそろ余裕も出てきたろ?」 上村も笑って、八条の肩を小突いた。 「俺みてぇに人生謳歌しろよ。信じられないかもしれねぇが、俺、今めちゃくちゃ楽しいぜ。全部、俺が自分で見つけた楽しさだ。お裾分けしてぇんだよ」
彼は欠伸を漏らし、腕時計を覗く。
「あーあ、こんな時間だ。柄にもねぇ説教させんじゃねぇよ」
「はい、すいません」 八条は微笑んだ。 「上村さんって、意外と、その、優しいんですね」
「意外じゃねぇよ、俺の体の半分は優しさで出来てんだ」 上村は口端を吊り上げた。 「とにかく、女作れ」
「作らなくてもいいって言ったじゃないですか」 八条は噴き出す。 「無茶苦茶だ」
「作っとけよ、楽しいから」
上村はニヤニヤして言った。なんとなく説得力を感じさせる表情だった。
八条は彼の後ろを歩きながら、今指摘されたことを考えた。
確かに、そうかもしれない。
こちらから勝手に、現実に見切りをつけていたと思う。
なんて幼い考え……。
そうだ。
現実はつまらないとのたまうのは、つまり、現実に期待している裏返しだった。
何もしない現実が楽しいはずがない。課せられたルーティンをこなし、自分が作った膜を破りもせずに、淡々と過ごすだけの毎日。そんな現実にしたのは他ならぬ自分だったのだ。
子供の頃、誰かに「遊んでこい」と言われたから遊んでいたわけではない。
自分の脚で外へ駆け出し、自分で面白さを作り出していたのだ。
なんて単純なことだったのだろう。
大人になって、どうしてそんな単純なことを忘れていたのか。
上村は無言で振り返り、笑いを堪えるような顔で八条の肩を軽く叩いた。意味が全く不明な上に少々痛い。しかし、八条は忍び笑う表情で返した。
上村という先輩に親愛を抱いていた理由がわかった気がした。
何かを楽しんでいる人間というのは、なんとなく、一緒にいて楽しいものだからだ。
◇
ヘリコプタは水曜日まで閉まっていたが、木曜日の退社後に訪れた際には再び開店していた。店がこれからどうなるのか気になっていたので、八条は今日、吹原から訊くつもりだった。
扉を開けようとした瞬間、向こうから開けられた。デジャヴを感じて立ち尽くすと、姿を現したのは奇遇にもあの厳つい男だった。
男はちらりと八条を見てから路地を歩き出す。しかし、数歩進んでから突然、思い直したように八条へ振り返った。目が合う。その険しい目つきに八条は胃が縮むような感覚を覚えた。もちろん、脚は固まっている。
しばらく、無言の時間が過ぎた。
「あの、何か」 八条は訊ねる。
男はゆっくり口を開いた。
「エイトって、あんたか?」 低い声だった。
どきっとした。
「ええ……、そうですが」
男の目が見開かれる。
今にも迫ってきそうな気配を感じ、八条は無意識に拳を握った。
しかし、男は躊躇うように目線を泳がせた後、舌打ちをして路地を歩いて行った。悔しげな表情を浮かべていた。八条はぽかんとその後姿を見送る。
やはり……、奴が、『YOSHIHIKO』なのか。
疾走していた鼓動が落ち着きを取り戻した頃、ようやく八条は身じろぎしてヘリコプタへ入店した。店内に客の姿は無い。いつも通りの静けさだったが、今日はどことなく、主を失くした廃屋敷のような静寂を感じた。
カウンターに吹原のぞみの姿はない。奥の部屋にいるのだろうか。
声を掛けようかと思ったが、躊躇し、代わりに『峠の神話』へ近づいた。いつもの習慣で、いつものコースのタイム・レコードを表示する。
まず、違和感を覚えた。
「え?」
握っていた煙草の箱が落ちる。
しかし、八条の目は画面に釘づけになっていた。
遅れて、一位に記された名前を認識する。
ぞっと、背筋が冷たくなるのを感じた。
そんな、馬鹿な……。
唖然と立ち尽くした。
八条が叩き出したタイム・レコードは二位に蹴り落とされていて、代わりに『YOSHIHIKO』が三秒以上の差をつけて首位に返り咲いていた。
眩暈を覚えて、シートにもたれる。
いったい、どうやって……。
三秒だと?
不可能だ。
冗談だろう?
真っ白になりながら更新日を見ると、日付は昨日の水曜日になっている。
昨日……?
八条は訝しんだ。
昨日は店が閉まっていたじゃないか。
いったい、誰が、どうやって……。
そこまで考えた時、背後に気配を感じた。
吹原のぞみが立っていた。トイレに入っていたのだろう、彼女も八条の来店にその場で気付いたようだった。
「あ……」
二人の声が重なる。
その瞬間、電流のように八条は理解した。吹原の一瞬の表情に答えがあったからだ。
「『YOSHIHIKO』って……、あなただったんですか?」
彼女はハッとして、そして一瞬目を逸らし、上目遣いに八条を見た。
こっくりと頷く。
八条は驚愕した。
「そんな……」
「あ、いや、その、違うんです」 彼女は慌てて首を振った。 「わたしだけど、わたしじゃないっていうか……」
「え?」 八条は聞き返す。もう混乱はピークだった。
「それ……、ズルなんです」
「ズル?」 口許だけが笑みを浮かべた。 「ズルなんて、できませんよ。そんな裏技ないです」
「じゃなくて、その……、わたしが、そのソフトのプログラムを改変して……」 吹原は真っ赤になって頭を下げた。 「ごめんなさい!」
「改変?」 ますますわからない。 「なんですそれ?」
「ですから、その、『YOSHIHIKO』っていうのは、プログラム、つまり、CPUなんですけど……、記録を越えられたら数秒の差をつけて一位に表示されるよう、わたしが仕組んでいたんです」
「CPU?」
「つまり、データだけの存在なんです。わたしが、書き換えていたんです」
「いや……、冗談でしょう?」 八条は微笑んだ。
「いえ、あの、わたし、工学部出身で、コンピュータのプログラムとか設計していたんで……、そういうの得意なんで……」
「工学部?」
八条は咄嗟に、先週の合コンでの女性達の話題を思い出した。そういえば言っていたような、言ってなかったような。
「あの、どうして、そんな……」 八条は放心したまま言いかけて、そして気付く。 「あ、そうか……、なるほど」
つまり、リピーター獲得の為だったのだ。ゲームに絶対塗り替えられない記録を設定し、それに挑戦する奇特な客を増やそうという狙いだったのだ。なんて悪質な、と八条は呆れた。
「えっと……、じゃあ、僕は、コンピュータ相手に必死になっていたんですね?」
「本当にごめんなさい!」 吹原は何度も頭を下げた。 「あの、まさか、あそこまで熱中するなんて思わなくて」
「裏でほくそ笑んでいたわけですか?」 八条はようやく煙草を拾い、火をつけた。 「悪質ですね。そうやってお金を巻き上げていたわけですか、僕から。さぞいいお客だったでしょうね?」
「いえ、けして、そんな……!」
「他にどういった理由が?」 八条は無理に微笑む。久しぶりに自分が怒っているのが分かった。
「それは……」 彼女はごにょごにょと俯く。
八条は煙と一緒に溜息を吐いた。
そうか……。
コンピュータだったのか……。
勝てないわけだ。
最高のズルじゃないか。
喉の下で何かがざわついているのを感じたが、それと同時に、八条は可笑しくて堪らなくなった。ふふふ、と煙と息を漏らす。漏らせば漏らすほど可笑しくなった。
「八条、さん?」 恐る恐る彼女が訊ねる。
「どうして『YOSHIHIKO』なの?」 八条はくすくすと笑いながら尋ねる。 「そう、それがズルだよ。明らかに男の名前じゃないか。あなただなんて思いもしない」
吹原はぽかんと八条を見返し、そして束の間、自分の立場を忘れたのか、くすっと笑みを漏らした。
「初恋の人の名前です」
「へぇ……」 八条は首を傾げるように頷く。 「差し支えなければ、どんな人だったのか、教えてくれませんか?」
「いえ……、知らないです」 彼女は首を振った。
「は?」 八条は目を丸くして見つめ返した。
「子供の頃、わたし、中古で携帯ゲーム機のRPGのカセットを買ったことがあるんです」 彼女はぽつぽつと語り始める。 「そのカセットのデータに、前の持ち主のデータが残っていたんです。『ヨシヒコ』って……。もちろん、知らない男の子の名前です。会ったことなんてないから、どんな子かもわからない。でも、その名前を見た瞬間、まるで生きている人間と対面したような気持ちになったんです」
彼女はふふ、と息を漏らす。
「子供ですから、わたしは逞しい想像力で、そのヨシヒコ君を脳内に創り上げて、そして、恋に落ちました。馬鹿みたいでしょう?」
「うん」 八条は堪え切れずに噴き出した。 「残念な子だね」
「『YOSHIHIKO』っていう名前はそこから取ったに過ぎないんです。わたしの、素敵な初恋の男の子です」
「僕にとっては、得体の知れない凄腕の宿敵だったわけだけど」 八条は煙草を吸った。煙を吐くと、喉の下にあった怒りも一緒に抜けていくかのようだった。 「そうか……、コンピュータだったか」
あ、と吹原は思い出したように、笑みを引っ込めた。
「本当に、申し訳ございませんでした。あの、今までの代金、お返し致します」
「いいよ、そんな」
「いえ、そういうわけには……」
「楽しかったのは事実だ。もう、久しぶりに熱くなったよ」 八条は安心させる為に微笑む。 「お金を払う価値があったよ」
「じゃあ、えっと、どうしよう……」 彼女は真剣にお詫びを考えているようだった。
八条は煙草を灰皿に落とし、彼女を見た。
「お祖父さん、亡くなられたのかい?」
彼女がはっと動きを止め、八条を見返す。
「どうして、知っているの?」
「うん、まぁ……」 八条はむにゃむにゃと誤魔化す。 「世間は狭いから」
「突然だった」 彼女は溜息を漏らし、弱々しく笑った。 「本当に、びっくりした……、お別れを言う暇もなかった」
「辛かったね」
「いえ」 彼女は頷きかけたが、すぐに首を振った。 「苦しんでいるおじいちゃんを見てるほうが辛かったから……、不謹慎かもしれないけど、楽になってくれて、よかったって思ってます」
「お店は、どうなるの?」
「さぁ……、どうなるのか」 彼女は少しだけ首を傾げる。 「弟と相談をしているんですけど」
「弟?」 意外に思って八条は聞き返した。
「ええ、深夜は弟が代理でいるんですよ。さっきまでここにいたんだけど……」
「え、ちょっと、その弟って……」 八条は自分の目尻を指で引っ張った。 「こんな、怖い目つきした子?」
「あ、そうです、ご存知なんですか?」
あの厳つい男だ、と八条は直感した。心底驚いた。
「似てないにも程があるね」
「よく言われます」 吹原は苦笑した。 「あ、そうだ……、ちょっと、すいません」
彼女はレース・ゲームに近づき、タイム・レコードの画面に切り替えた。意外に思いながら八条は後退って場所を開ける。
「あの子、タツヤって言うんです。吹原タツヤ。八条さん、あの子に何か言われませんでした?」
「えっと……」 八条は頭を掻く。 「エイトってあんたかって、すごい無骨な感じで訊かれたけど……」
「やっぱり」 彼女は息を漏らし、納得したように頷いた。 「気になってたんだ、あの子」
「え?」
気になっていた?
八条は身震いした。
「ど、どういう意味?」
「ほら、これ」 彼女は微笑んで画面を指した。 「この一番下……、十位の所」
八条も覗いた。そこには、八条が叩き出した記録より一秒半ほどまで肉薄したタイムがあった。名前は『DRAGON』とある。
なるほど、『タツヤ』の竜で、ドラゴンか。
少し安心した。
「安直だね」
「エイトさんが言います?」
「言えませんね」 八条は肩を竦めた。 「いや、でも、十位だけど、彼も凄いよ」
「本人、顔には出さないけど、めちゃくちゃ悔しがっていましたよ。わたしに、このレース・ゲームをよくやってる奴知らないかって尋ねてきましたから」
「あ、そう……」 なんとなく恥ずかしくなった。
数字に人間を見ていたのは自分だけではなかったのか。
八条は妙な感慨を覚えた。
確かに、下位の連中の名までは覚えていなかった。『YOSHIHIKO』以外の名前は全て視界に入らなかったと言っていい。
きっと、吹原タツヤも、自分と同じようにしこたま練習を重ねたのだろう。
全力で、こちらに挑んで来ていた。
だから、この数字を叩き出せたのだ。
ちゃんと、闘うべき相手は存在していたのだ。
「よかったら八条さん、今度、弟にレクチャーしてあげてください」
「充分速いよ」 八条は首を振る。 「今度会った時は仁義なきドッグ・ファイトさ」
吹原は子供のように笑った、
どきっとするくらいに可愛らしい笑みだった。
どうしてだろう。
急に、とても魅力的に思えてきた。
上村の言葉を思い出す。
現実の楽しさ。
それは、自分で見つけにいくものなのだ。
彼女は八条を見つめ返し、思い出したように再び表情を曇らせた。
「あ、そうだ、わたし、なにか、お詫びしなくちゃいけないんだった」 彼女は後退ってまた頭を下げる。 「あの、本当に、ごめんなさい。ふざけるなって思われるかもしれませんが、あの、よかったら、ホット・ドッグ、無料で差し上げます。もちろん、たくさん、ご用意しますけど」
思わず、八条は噴き出してしまった。
なんて失礼な女だろう。
それが謝る態度か。
それでお詫びのつもりか。
「相手が僕で良かったね。良い金蔓だよ。違う男だったら、こんな風に笑って許してないよ」
「あ、ごもっとも……」 吹原は言いかけ、そして俯いた。 「でも、わたし……、八条さんだから、『YOSHIHIKO』を設定したんですよ」
「え?」 八条は彼女を見つめる。 「どういう意味?」
「だから……」 彼女は真っ赤になっていた。 「タイムを塗り替えれば、また、来てくれるって思ったから……、他の人だったら、そんなの、しません。最初にやった設定だって、気まぐれっていうか、いいなって思ったから……」
それきり押し黙った。
八条はしばし彼女を見つめ返し、そしてまた噴き出した。
現実の膜を突き破る自分を想像する。
「ホット・ドッグも魅力的だけど……」 彼はとっておきの気障な仕草でシートに体を預ける。斜めに立つ姿勢だった。 「吹原さんって、彼氏いないよね?」
「え?」 彼女はぎょっとしたような顔。 「え、なんで、そんな、断定的な口調なんですか? わたし、そんな独り身っぽく見えます?」
恋人がいたら合コンの誘いになんか乗らないだろう、と八条は指摘したくなったが、結局飲み込んだ。にっこりと、多少、クールに見えるように口を曲げる。
「お詫びついでにさ、一つ、お願いがあるんだけど」
「なんです?」 彼女はきょとんと見つめ返した。
「よかったら、僕とその……、お茶でも、ご、ご一緒しませんか?」
最後の台詞は少しだけつっかえてしまった。
現実がままならない証拠である。
今年で入社三年目を迎えた八条はその日、初めてその娯楽場の存在に気付いた。そもそも、この厭世的な路地に脚を踏み入れたのも初めての試みだった。自分でもなぜこの道を通って行こうと思ったのかわからないし、なぜ寂れたゲームセンターの前で脚を止めたのかも判然としなかった。駅や会社へのショートカットになるわけでもない。
恐らく、これが余裕というものなのだろう、と自己分析する。つまり、生活に対する慣れだか麻痺だかでようやく精神が安定を見せ始め、気まぐれでいつもと違う道を通るといった、自分のイレギュラーな行為も許容できるようになったわけだ。周りの風景に視界が開いている証拠である。ずいぶん懐かしく、むしろ新鮮な感覚だった。そのうち、遠い星を見上げて、道端に咲く花を可愛らしく思うような、呆れるほど詩的な人間になるのかもしれない。還暦を越えた老人達のほとんどが哀愁を湛えているのも、その安定した精神がもたらす作用なのかもしれなかった。
大学を卒業し、社会人になると、毎日が目まぐるしく過ぎていった。忙殺という言葉が具体的にどれほどの過酷さを示すのかは知らないが、新入社員としての日々は八条にとって、まさしく忙殺の一言に尽きた。毎日虫の息だったのでそれほど大袈裟でもないだろう。ふと気付けば会社勤めも三年が経過していて、社内ではようやく一人前扱いされてきた頃だった。仕事が好きなわけではけしてない。むしろその反対であったが、確立された自分の立ち位置については素直に安堵を覚える。苦労した甲斐を充分に感じていた。
煙草に火を点けながら八条は逡巡していたが、二回目の煙を吐くのと同時に、ヘリコプタの扉をくぐった。これも気まぐれ、単調にして過酷な毎日を彩る小さな刺激である。
店内は、外観の印象よりも多少広く感じられたが、床や壁が薄汚かった。天井には剥き出しのダクトが入り組んでいる。ゲームセンターの割には騒がしくない。これは、置いてある筐体数が少なく、プレイされていないゲームの音がミュートされていたからである。
入口からすぐ、見るからに古いゲームばかりが揃えられている。ガン・シューティングが一台、対戦型格闘ゲームがそれぞれ向き合って四台、レース・ゲームが二台。あとはターン・テーブルを模したコントローラの音楽ゲームと、パンチング・マシーンが奥にあった。クレーン・ゲームやメダル・ゲームの類は置かれていない。
八条は一息に煙草を中ほどまで吸い、入口脇の灰皿に煙草を捨てた。目につく限りでは、その灰皿が一番綺麗に保たれている。
ゲームセンターなんて何年振りだろうか。
最後に利用したのは確か、大学一年か二年の頃だ。しかも、遊んだわけではなくて、酒宴か何かの後の終電を逃してしまい、仕方なく二十四時間営業の駅前店で始発の時間まで粘っていたのだ。高校一年までは地元の店へ頻繁に通っていた覚えがあるが、今ではアーケードどころか家庭用ゲームすらやらなくなっていた。
八条の他に客は四人いた。店の規模で考えればまずまず繁盛しているほうかもしれない。土建屋風の若い男が一人、煙草を銜えた制服姿の中学生が二人、杖をついた白髪の老人が一人。二人組の中学生は大昔の格闘ゲームで対戦していて、土建屋と老人は奥の飲食スペースのテーブルで焼きそばを食べていた。飲食コーナーは低い板で仕切られた小さなスペースで、その奥にはバー・カウンターが設置されている。
あぁ、ここは軽食も兼ねているのか、と八条は納得した。あまり見ない形式だが、彼の地元にも何軒か同じようなゲームセンターが存在していた。ゲームセンターというよりは喫茶店に近かったのかもしれない。ゲームは申し訳程度で、ほとんどダーツやビリヤードに主眼を置いていたのが、このヘリコプタという店と地元にあった店との違いだ。今ではそのほとんどが潰れてしまっている。
「いらっしゃいませぇ」
なんとなく飲食コーナーへ入ると、カウンターの奥から女性店員が現れた。緩くウェーブした髪が明るく、そして髪の色と同様に若い風貌。大学生だろうと八条は見当をつけた。さすがに店長では無さそうである。
「あの……、何にしますか?」
八条は我に返り、慌ててカウンターの脇に掛かっているメニューを見た。そんなつもりはなかったのだが、ちょうど小腹が空いていたので何か頼もうと考える。『おすすめ』という文句で、この手の店には珍しいホット・ドッグが売っている。写真はないが、二百円という手頃な値段が妙に愛らしく感じられた。
「えっと、ホット・ドッグをください」
「ソースはケチャップとマスタード、どちらにしますか?」 店員は愛想よく笑った。
「可能なら、両方かけてください」
「かしこまりました。二百円です」
金を払い、ネクタイを緩めながら、八条は所在無げに立ち尽くした。テーブル席は土建屋と老人の二人で既に埋まっている。カウンターにも背の高い椅子が三脚置かれていたが、さすがにそこへ腰掛ける勇気は無かった。店員は調理の為に器具のある反対側を向いていた。
先ほど捨てたばかりだが、手持無沙汰なので再び煙草を取り出す。ぶらぶらとゲームを眺めることにした。二人組の中学生が遊んでいるのを横目に、隣の別の格闘ゲームの筐体(これも相当に古い)のデモ映像を眺め、鋭角的なポリゴンのゾンビが襲ってくるガン・シューティング・ゲームを眺めた。プレイしてみようかと思ったが、ホット・ドッグがまだなので我慢し、反対の壁際にあるレース・ゲームを覗く。
「へぇ……」 八条は息を漏らした。
『峠の神話』、か……。
自動車の運転席を模した筐体のそのレース・ゲームは、かつての八条が相当に入れ込んでいたものだ。否、彼の場合、極めたといっても過言ではなかった。中学生の時に流行っていたゲームで、八条はほとんど毎日、地元のゲームセンターに入り浸って遊んでいたものだ。
懐かしさに思わず微笑が零れる。ホット・ドッグの存在を忘れ、八条は無意識にシートへ腰掛けた。固いステアリング、アクセルとブレーキのペダル、玩具のようなシフト・レバー、目の前の画面、映し出されている車のグラフィックとキャラクター達。過去に何百回も眺めたデモ映像が、今も無音でそこに流れていた。
ボタンを押すと画面が切り替わる。その店のタイム・レコードのランキングが表示されるのだ。八条は煙草を銜えたまま、しばらくコースごとの上位タイムを睨んでいた。
やってみるか。
しかし、筐体の脇にある灰皿へ煙草を捨て、財布から小銭を取り出したところで、先程の女性店員がやってきた。手には紙に包まれたホット・ドッグがある。すっかり失念されていた哀れなホット・ドッグである。
「おまちどおさまです」
幾分か冷静になって、八条はホット・ドッグを受け取った。出来立てでまだ熱く、香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「向こうで食べたほうがいいかな?」 彼は飲食コーナーへ目を向ける。
「あー」 店員もそちらを見て、再び八条へにっこり笑いかけた。 「零さないなら、ここで食べてもいいですよ」
「ありがとう」 八条も微笑んだ。
親切にして杜撰な女性店員は、持ち場であるらしいカウンターへと戻って行く。
八条はホット・ドッグを頬張った。予想していた通りの味で、不味くはないが、特別に美味いわけでもない代物だった。厭味ではない。予想通りであるほうがよっぽど安心できるし、それが彼にとっての一つの幸福理論でもあった。何事も予想を裏切らないほうがずっと難しいのだ。
気付くと中学生の二人組がいなくなっていて、土建屋風の男も席を立って出て行くところだった。先程の女性店員が空いたばかりのテーブルの紙皿と割り箸を片付けている。その作業を何気なく見守りながら、八条はホット・ドッグの最後の欠片を咀嚼した。素直な感想を述べれば、普通に美味かった。おすすめされるだけはある。
食後の一服よりも早く、八条はコインを機械に投入した。早く遊びたくて仕方がなかったのだ。通常の店では一ゲーム百円だが、この店は五十円に設定されていた。百円ぐらい払っても別段構わないのだが、その値段設定が彼はますます気に入った。
コインを投入した途端、無音だったスピーカーから馬鹿げた音量の効果音が流れる。車の排気音だった。八条は飛び上がって驚いたが、これは今まで静かだった反動に過ぎず、よくよく考えれば昔もこれくらい喧しかったと思い直した。ゲームセンターは本来、喧しい場所である。
重みを増したステアリングから、エンジンのような振動が伝わってくる。中学生だった当時はとても凝っていると感動したものだ。懐かしさに再び頬が緩む。
『峠の神話』は実在する車種を扱い、日本各地の有名な峠をコースに据えた、対戦型のレース・ゲームである。手軽な疾走感と、非現実的ながらも奥深いコーナリングで人気を博したシリーズだ。現在でも最新作が稼働しているのかはわからないが、アーケード・レース・ゲームの草分け的な存在であるのは間違いない。
八条はマツダのロードスターを選び、群馬の某峠を選択した。当時、一番得意なコースだったからだ。得意というよりは、彼にとっての箱庭と言っても良かっただろう。今でも目を瞑って走れるかもしれない。
中学生の頃の八条は、地元にある全てのゲームセンターで、このコースのタイム・レコードを一位に塗り替えていた。あの頃はまだ全国通信が存在せず、ランキングはあくまでその店に限ったものばかりだった。なので、店に名を残す為には実際にその店まで遠征に行かなければならなかったのだ。
自分が全国でどの程度の位置にいるのかわからなかったが、そのコースに限れば、八条は全国でも上位に食い込む自信があった。不意の乱入やこちらからの挑戦でも、そのコースにさえ設定すれば、たとえ相手が高校生でも社会人でも、八条は簡単に下すことができたのだ。負けたことは未だかつてない。
「無敵さ」 八条は謡うように独り言を漏らし、我に返って赤面した。
画面が切り替わり、いよいよレース・モードになる。車体のグラフィックやシートとステアリングの振動、それに相変わらず響く馬鹿げた排気音の一つ一つに、八条はいちいち懐かしさを覚えていた。余韻深い溜息には帰郷のような感慨が含まれている。
そう、昔はここが居場所だった。
戻ってきたのだ、僕は。
八条はくすりと笑う。
CPU戦ではなくて、タイム・アタックにしていた。セクション・タイムとトータル・タイムの両方を塗り替えてやろうと考えていた。先程確認した腑抜けたタイムなら、十年近いブランクの自分でも楽に超せるだろう。ステアリングに掛かる握力を意識し、適度に力を抜く。
スタートのカウントが画面に浮かび、『GO!』の文字と共に、八条はアクセルを踏み込んだ。
爆発的な加速。メーターを見ずにシフト・アップ、第一コーナーへ達するまでに四速まで加速した。ちらりと視界に捉えた速度表示は百八十キロ。峠の公道で、あり得ない速度だ。やっぱりゲームだな、と少し可笑しくなる。クラッチの無いマニュアル車、それだけで滑稽だ。
軽くブレーキング。
シフト・ダウン。
ほぼ同時にステアリングを切って。
画面の中の風景が横滑りする。
コーナー入口へ。
疾走。
ぶっ飛ぶ景色。
道路に浮いたアスファルトの模様は、今見てもなかなかリアルだ。全盛だった当時は途轍もなく綺麗に思えたものである。最近はもっと精巧なのだろうか。
順調なドリフト。
しかし、腕慣らしに過ぎない。
ミスはないが、八条の納得には程遠く、まだまだ本気ではなかった。
コーナーを抜け、シフトを戻す。速度に対する慣性も、立ち上がりの加速も、やはり現実味に欠ける。こんな車とエンジンが実在したら一つの革命だろう。
最高ギアの五速まで上げる。速度は二百キロ近い。まだまだ回転に余裕があるというのだから末恐ろしい。
第二コーナーへ差し掛かった。第一よりも深い角度だ。ここからコースは峠らしく、カーブが連続するようになってくる。
再びブレーキングし、車体を滑らせる。
流れる画面に、遠心力が伝わってくるかのよう。
道路よりは作り込みが粗い岩肌が迫ってくる。
少々アンダーだったか。
しかし、接触せずに切り抜ける。立ち上がりで、背中に加速度を感じた気がした。躰が錯覚している。なんて単純な奴だろう。
目がコースの先を睨んでいる。時々、ガードレールの曲線を捉え、端のメーターとタイムを確認した。その目線を意識している自分が不思議だった。まるで精神が肉体から乖離してしまったかのようだ。
再び、コーナー。
百八十度近く折り返すような、右回りのヘアピンカーブだ。
左に思いきり寄せてから、ブレーキングと同時に右へ旋回。
スピーカーからタイヤのスキール音。
気持ちの良い音だ。
最適の角度とラインでコーナーを抜ける。
加速。
すかさずシフト・アップ
四速から五速へ。
勘がまぁまぁ戻ってきた。
そろそろ本気で攻めよう。
攻める?
自分の言葉に、息が漏れる。
まるで、本物の走り屋かレーサーのようではないか。
所詮、ゲームだ。
身も蓋もない言い方をすれば、偽りに過ぎない。
さらに臆面なく言ってしまえば、虚構、幻想だ。
自分が本当に、とんでもない速度でヘアピンカーブを曲がっているわけではない。
自分がそこにいるわけではない。
ゲームの中の、名も無い走り屋に、自分を投影しているに過ぎない。
それがきっと、ゲームの本質だろう。
ちゃんとわかっている。
フィクション。
映画を観ているのと根本的には変わらないのだ。
ただ……。
映画と違うのは、その虚構の世界に干渉できるということ。
ゲームの世界の自分に、名前を与えることができる。
それが、つまり、このレース・ゲームにしてみれば、タイム・レコードである。
その数字だけが、現実の自分と密接にリンクする。
名を刻める。
存在を知らしめることができる。
それだけは本物だ。
そのタイムだけが現実に存在する。
自分の命の一部が、そこに宿っている。
現実の時間と労力を犠牲にしてでも、得る価値があるものだろう。
その思い込みこそが、もしかしたら、虚構なのかもしれないが……。
いや、どうも……、変なことを考えているな……。
飛躍もしている。
思考まで二百キロか?
馬鹿馬鹿しい。
今に衝突事故を起こすぞ。
八条は再び息を漏らし、暴走しかけた思考に歯止めをかけ、意識をゲームに集中させた。数秒の間、無意識に近い状態で走っていたのだが、それでも致命的なミスは犯していなかった。むしろ、良いタイムを叩き出している。躰は完璧に勘を取り戻したようだ。その証拠に、セクション・タイムのほとんどが赤字で表示され、記録の更新を示していた。
久しく感じていなかった心地良い手応えと刺激を感じながら、八条はさらにアクセルを踏み込んだ。
◇
結局、八条はトータル・タイムも更新した。その後も他のコースで二回走り、深い満足と余韻を味わいながら、ヘリコプタを後にした。
彼が再び店を訪れたのは、それから二日後のことである。
「『峠の神話』? おぉ、よくやってたよ。なかなか速かったぜ、俺」
退社後、会社の先輩である上村と共にヘリコプタへ向かっていた。その日の昼休みに話が盛り上がり、対戦する成り行きになったのだ。上村はヘリコプタという店の存在を知ってはいたが、入ったことは無かったらしい。彼の気まぐれはきっと別の方面で発揮されたのだろう、と八条は想像した。
上村は八条と同じ部署に所属する二年先輩の社員であり、歳もちょうど二つ上だった。なかなかにさばけた性格で、人当たりの良い男である。八条にとっても、職場で最も好感が持てる相手だった。
「ゲーセンなんて久しぶりだ」 途中、上村が上機嫌な口調で言った。 「よく行くのか?」
「いえ、僕も久々でしたよ」
「しかし、まぁ、今の俺が言えた義理じゃないが、お前もずいぶん暇な奴じゃないか」 彼はにやりと笑う。 「いい歳して女も作らんと、ゲームセンターなんか行ってよ」
「だから、僕も久々に行ったんですってば。ゲームなんて滅多にしませんよ。それに女は関係ないでしょうが」
上村はことあるごとに八条の恋人不在の現状を嘆く。前の恋人と別れてから一年、ずっとこの調子だ。八条にとっては余計なお節介だったが、なんだか可笑しいので放っておいていた。
「良くないよなぁ、そういうのは……、可愛い後輩が女と無縁にゲーム三昧なんて」
「三昧って……」 八条は呆れて肩を竦めた。 「あの、僕の話、聞いてます?」
「昔はどうだったんだ?」
「何がですか? 女? ゲーム?」
「ゲーム」
「大学受験まではゲーマーでしたよ。出ているハードはだいたい持っていたし、ゲームセンターにもよく行っていたし。上村さんはどうだったんですか?」
「俺は人並みだったよ。一日八時間くらいしかやってなかった」
「どこが人並みなんですか」 八条は噴き出した。
「まぁ、でも、あれだな。昔は気が狂ったようにやり込んでいたのに、今じゃさっぱりゲームなんてやらないもんなぁ。卒業できるもんなんだよな。最近のゲームなんて、全くわかんねぇよ」
「たぶん……、他に楽しいこととか、やらなきゃいけないことができたからでしょうね」 八条は言った。 「今は、ゲームなんてやる時間もないですし」
それは一般的な見方をすれば、十中八九、良い傾向なのだろうが、昔の熱狂的な楽しさを思い返すとなぜだか少し寂しく思えた。失われた情熱と言ってしまうと大袈裟に過ぎるが、たとえば子供の頃によく遊んでいた公園が取り壊されたかのような、喪失感にも似た寂しさだった。
「女とかな」 上村がにやにやと付け加えた。八条が言った他に楽しいこと、やらなきゃいけないことへの、彼なりの補足のようだった。
「また女」 八条は溜息をついた。 「上村さん、そればっかりですね」
「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」
「たぶん、違います」
「ギャルゲーとかあるだろ? 恋愛シミュレーション」 上村の話が飛んだ。 「たいていのジャンルはやってきたけどさ……、俺、あれだけはどうも許容できんな。二次元趣味じゃないから無理もないんだけど。お前、やったことあるか?」
「いえ、ないですね」
「愛好者を貶すわけじゃないが、あれ、何が楽しいんだろうな」
「楽しい人は楽しいんでしょう」
「現実の女を落としたほうがよっぽど楽しくないか?」
「楽しくない人は楽しくないんでしょう」
「わからんなぁ」 上村は息を漏らして笑う。
しかし、八条にはなんとなくわかる気がした。二次元美少女の魅力についてではなく、疑似恋愛の楽しさについてだ。それはきっと、八条がレース・ゲームに抱いた愉悦と通じている。少なくとも、原理は同じに違いない。フィクションがもたらす気軽な楽しさだ。
ヘリコプタに着いた。今日は他に客も見当たらず、もちろん『峠の神話』も空いていた。中学生当時は順番待ちまでしていたのに、なんだかとても贅沢な気分になる。
カウンターまで向かうと、二日前と同じ女性店員が出てきた。彼女を見て、「ほぉ」と上村が漏らす。
「あ、いらっしゃいませぇ」 彼女は八条を覚えていたようで、多少の親しみを込めた微笑みを向けた。 「何にします?」
八条は上村に振り返る。
「任せる」 彼は目を大きくした。
「ホット・ドッグを二つ」
「ケチャップとマスタード、両方ですか?」
「うん」
「ありがとうございます、四百円です」
金を支払い、二人は煙草に火を点けた。八条はうずうずとレース・ゲームのほうを見ていたが、上村は煙を吐きながら、調理する女性店員を眺めていた。
「なかなかじゃないか」
「ええ、隠れ家的でしょう?」
「違う、あの子」 上村が顎で示す。 「名前はなんていうんだ?」
「知りませんよ」 八条は笑った。
上村が熱心に眺めているので、八条もつられて彼女を見た。
彼女は際立って美人というわけではなかったが、おっとりとした丸い目や小さい鼻の造形が親しみやすさを醸し出していて、猫のように好感的だった。ペルシャネコの美しさというよりはヤマネコの愛らしさだ。垢抜けない、素朴な魅力である。笑うと少女のようになって、それがとても可愛らしい。明るい茶髪と小さなイヤリング、私服らしい淡い青のチュニックブラウスとクリーム色のエプロンがとてもよく似合っていた。しかし、化粧だけは背伸びをしてしまった感じで、正直いまいちだ。もう少しだけ薄くしても良いと思う。
普段の八条だったら、たとえ心の内であっても、これほど不躾な女性寸評はしない。つまり、今の彼は上機嫌だった。その証拠に口許にはまだ微笑の感触が残っている。
煙草を吸い終わる頃、ちょうどホット・ドッグがやって来た。受け取る際に、上村はちゃっかりとビールを追加注文した。
「飲酒運転」
「構わねぇよ、どっちにしろ危険運転だ」 彼は笑い飛ばしてホット・ドッグを齧る。 「なーんか、懐かしい味」
そう言って彼はスーツの上着をシートに掛けた。きっと、シートも懐かしかったのだろう、座席に着いた彼は駄菓子屋に来た子供のような笑みを浮かべた。
◇
アルコールを言い訳にする余地がないほどの差をつけて、八条は上村を負かした。上村も人並みよりは多少上手かったが、やはり八条の敵ではなかった。
意外にも上村は悔しげな表情を浮かべ、何度もしつこく再戦を請うてきたが、その全てのレースに八条は勝利した。彼がようやく諦めたのは五回連敗した後である。
「馬鹿みてぇに速ぇな」 煙草に火を点けながら言ってくる。馬鹿という発音を強調していた。
「これでも地元で伝説作ってるんで」
上村は鼻を鳴らし、デモ映像から各コースのタイム・レコードへ切り替えている。八条も煙草を取り出した。
「おい、このエイトって名前の記録、もしかしてお前か?」
「そうですよ」
「かぁ……、安易な名前」
「カッコイイでしょう?」
「エイトマンかよ」
「なんですそれ?」
上村は無視してコースを切り替えている。そして、「はっ」と息を漏らした。
「残念だったな。伝説塗り替えられてるぞ」
「え?」 八条はぽかんとする。意味がわからなかった。
「ほら、このコース。一位が別の奴になってる」
八条は慌てて覗いた。
冗談だと思ったが、上村の言う通り、『エイト』の名が二位に下がっていて、一位に別の名が刻まれていた。トータル・タイムは二日前に八条が叩き出した記録よりも三秒縮められていた。記録の更新日は昨日の日付になっている。
「YOSHIHIKO……、ヨシヒコか。どいつもこいつも安直な名前だな」
しかし、八条は笑みを返せず、信じられない思いで画面を凝視していた。なぜなら、そのコースは、彼が最も得意としていたコースだったからだ。
胸の内で、敵愾心とも言うべき感情が、小さく芽吹くのを感じた。
「他にもやってる奴いるんだな、こんな古いゲーム」 上村は八条に笑いかけ、そして身じろぎした。 「おい、目……、目がマジになってる」
「すいません、上村さん。ちょっと……、僕一人でやっていていいですか?」
上村は笑いを堪えるような顔で、大袈裟に肩を竦めた。
「どうにでもやっちゃってくださいよ、センパイ」
彼は座席を離れ、飲食コーナーへ行った。少し気が引けたものの、八条はシートに座り直し、再び五十円玉を投入した。
信じられない……。
網膜の裏で、『YOSHIHIKO』の文字を反芻する。
まだ混乱していた。確かに二日前のタイムは、自分の全盛期と比べれば幾分劣る記録だった。しかし、悪くないタイムだ。並みのプレイヤーに抜かれるものではないはずだった。つまり、一位のヨシヒコは相当な腕前であるとわかる。一応確認すると、他のコースの上位にそいつの名前は無かった。八条の箱庭だけ抜かれているのである。
上村が言っていたことと同じような戸惑いもあった。まだこんな古いゲームをやっている奴がいたのか、と。なんて物好きな奴なのだろう。人のことは言えないが……。
ロードスターを選び、同じコースを選択。画面はタイム・アタックへ移る。
前触れなく、突然現れた強敵の存在に、八条の胸はざわついていた。中学生の時、遥か年上の男に乱入された時のような緊張だった。久しく忘れていた胸の高鳴り。闘争本能。
落ち着け……。
自分に言い聞かせる。
嬉しいことじゃないか、ライバルの出現は……。
倒し甲斐があるというものだ。
カウント。
アクセルを軽く踏み込み、吹かす。
とにかく、スタートダッシュから全力だ。
上村さんとの対戦でウォームアップは終わっている。
コンディションは上々。
ビールを飲まなくてよかった。
カウントが終わる。
GO!
踏み込む。
メーターが振り切る寸前、シフト・アップ。
二速。
三速。
四速。
コーナー。
ブレーキング。
リアを振り過ぎたか?
しかし、まだまだ取り返せる。
ステアリングを小刻みに当てつつ、シフトを戻す。
エンジンが唸る。
立ち上がり。
加速。
最適のラインを辿る。
再びコーナー。
ブレーキング。
今度は完璧。
ドリフトとグリップのちょうど中間ぐらい。
アウト側に車体が迫っていくが、接触の寸前に挙動が戻る。
切り抜けた。
次は逆側のヘアピン。
ラインはこのまま。
対角線上を行くように。
タイムを出すには、出来るだけ直線的に走って加速を落とさないのがコツだ。くねくねしているこのコースでは難しいが、速度を稼ぐ場所は既に認知している。後はどれだけ無駄なく走れるかだ。
ブレーキング。
ハンドリング。
アクセルを踏み込み。
視界が回転。
「くそ」
思わず悪態。
タイヤの滑る時間が長過ぎる。
せいぜい四十点ってところ。
やっぱり、まだ本調子じゃないか。
昔の自分なら、もうワンテンポ早く抜けていただろう。
悔しい。
舌打ちが漏れた。
速度が増していく。
次はS字。
浅い角度の右回りコーナーから、逆側のヘアピンだ。
グリップで曲がり、即座に逆へハンドリング。
少々突っ込みすぎか。
でも、取り戻さないと……。
馬鹿!
焦るな!
ブレーキング。
しかし、やはり、無理があった。
ラインが膨らむ。
ガードレールにリアバンパーが当たる感触。
背筋が凍る。
悲鳴を上げたくなった。
だが、減速するほどの衝撃ではない。
切り抜ける。
間一髪。
どっと汗が浮かんだ。
ゲームなのに、なんて焦燥感だろう。
寿命が縮む思いだ。
そう、これはゲーム。
言ってしまえば、虚構。
この前もこんなことを考えた……。
実車で走っているわけではない。
目の前の映像は作り物だ。
速度も、エンジンの唸りも、タイヤのスキールも偽物。
躰に掛かる重力はずっと一定だ。
それこそが現実の証。
ここはゲームセンター。
たとえ負けたって。
何も失うものがない。
ガードレールに刺さったって、命を失うわけじゃない。
せいぜい五十円。
だけど。
本当にそうか?
コーナーを抜ける。
今度は我ながら絶妙なコーナリング。
シフト・アップのタイミングも百点に近い。
加速。
この焦りは。
失う予感に起因したものだろう。
それは間違いなく敗北の先にある。
では、何を失うのか?
それは、たぶん……。
誇りだとか、プライドだとか、そういうもの。
思わず笑った。
尊厳だって?
妙なことを。
現実にだって、そんなものは持ち合わせていないのに。
虚構に必死というわけか。
可笑しい……。
だけど、虚構に刻まれた数字。
それには血が通っている。
紛れもない技量と意思が宿っている。
そこだけが、人間の介在できる場所だ。
そいつに負けたくない。
その闘争心は、本物。
勝利の歓びと敗北の悔しさに不純はないのだ。
上村の話を思い出す。
恋愛ゲームだかなんだか。
それをやっている連中だって、別に二次元の女の子と現実世界で懇ろになりたいわけではないだろう。中には本気で願っている奴もいるかもしれないが、それはどだい無理な話だ。諦めるしかない。
でも、恋愛のどきどきだとか、そういうものは味わえる。
今の、この焦燥感と同じで。
たとえ仮初めでも。
その感覚に偽りはない。
世間が定義する現実や本物なんて、そんなものなんだ。
子供が、ぬいぐるみに名前をつけるのと同じこと。
そこにだけは血が通っている。
ゲームって、そういうものじゃないだろうか?
コースは終盤に差し掛かっている。八条はタイムに目をやり、口角を上げた。セクション・タイムを二か所更新している。このままいけば、トータル・タイムも際どく競り合えるだろう。
連続ヘアピン。
息を吸い。
ブレーキング。
シフト・ダウン。
ハンドリング。
シフト・アップ。
アクセル。
もはやリズム勝負。
そのリズムと運動に身を委ねながら、再び思考が迸る。
もう一つ、大事なことがある。
それは、この、理屈抜きの楽しさ。
ゲームにいくら心血を注いだって、現実に何かが変わるわけでもない。
所詮、作り物なのだから。
子供の時はよくそれで大人達に文句を言われたものだ。
意味なんてない。
役になんか立たない。
それはそうだ。
でも、意味なんて必要だろうか?
役に立たなければ許されない?
理屈が必要?
鬼ごっこやかくれんぼが楽しいのに、理由があっただろうか?
生活の為にやっている仕事に、楽しさなんかあっただろうか?
まったく、ナンセンス。
なんて野暮な言い分。
そちらのほうがよっぽど不純だ。
くだらない。
この楽しさに比べたら、なんて濁りだろう。
何かが間違っているとすれば。
現実からこの楽しさを欠落させたシステム。
そのシステムを構築した連中に他ならない。
よく見ろよ。
こっちのほうがよっぽど楽しいじゃないか。
全力で走っている。
全力で闘っている。
この輝きを味わえるのなら、金など惜しくない。
クソ食らえだ。
思わず笑う。
また変なことを考えている。
自分は多重人格者ではないかとも思う。
普段は隠れている凶暴な自分が、今、嬉々としてステアリングを握っているのだ。
ヘアピンを抜ける。
あとは右へ緩やかにバンクする下り坂。
行ける!
四速から五速へ。
二百キロを超える。
最高速に達する。
ゴール!
八条はタイムを確認し、小さく快哉を上げた。最速レコードを零コンマ七秒更新していた。つまり、一位に返り咲いたわけだ。画面が切り替わり、自分の名を打つ間、勝利の興奮に頭の奥が痺れているのがわかった。
どうだ!
僕の方が速いぞ!
八条は陶酔しながらシートを立った。酔っ払ったように脚が少しもつれる。さすがに疲れた。じんわりと自覚。しかし、それはもう何年も味わっていない快い疲労感だった。
上村は飲食コーナーのカウンターで、女性店員相手に何か喋っていた。ビールは二杯目のようだ。ふらふらと近寄ってくる八条を見ると、彼は煙草を斜めに銜えて拍手した。
「ヒーローの凱旋だな」
「大袈裟な」 八条は、しかし嬉しくて微笑んだ。
女性店員は少し心配そうな表情だったものの、同じように拍手して八条を出迎えてくれた。
◇
ところが、八条が更新した記録は、再びあっけなく塗り替えられていた。彼がそれに気付いたのは週明けの月曜日、やはり退社後だった。
「馬鹿な……」 八条は愕然とランキングを眺めた。
今度は一秒の差をつけられていた。コースはまたも同じで、まるで八条に対する嫌がらせのようにそのコースの首位だけが変動していた。ランキングは十位まで表示されていて、八条と『YOSHIHIKO』が独占している四位以降にも多少の記録の変動があるが、八条達が叩き出しているタイムに比べれば遥かに低次元のものだった。恐らく、土日の間に複数人が遊んでいったのだろう。憎き『YOSHIHIKO』も、記録更新の日付を見る限り、日曜日に訪れていたのがわかった。
八条は脱力してシートに腰掛けた。ステアリングに顎を乗せ、呆けた顔でランキングを眺め続ける。
あのタイムにまで達すると、零コンマ五秒を縮めるのだって容易ではない。一秒ともなればその壁は途方もなく分厚いのだ。当然の法則ながら、何事も極限まで突き詰めていけば、小さな差だって大きな意味を生み出す。
「おまちどおさまです」
放心している彼へ、女性店員がホット・ドッグを持ってきた。八条は慌てて身を起こし、ホット・ドッグを受け取った。
「熱心ですね」 店員が笑った。レース・ゲームについて言っているらしい。
「あ、うん……」 八条は力なく頷く。 「ちょっと、強敵がね……」
「強敵?」
「そう」 ホット・ドッグを一口食べながら、ランキング画面を指差す。 「記録、抜かれちゃって……、自信、あったんだけど」
「エイトって……、八条さんのことですか?」
「うん」 頷いてから、彼は不審に思った。 「あれ? なんで、僕の名前知ってるの?」
「金曜日、上村さんから聞きました」 彼女はにっこり微笑んだ。 「今日は上村さん、来ないんですか?」
「ああ、今日は来ないよ。申し訳ないけど……」
「あ、いえいえ! わたし、ああいう遊び慣れてる感じの人、ちょっと苦手だから、心配していただけです。もう、ナンパみたいにしつこく口説かれて、この前は最悪だったんですよ」
少し驚いて彼女を見返した。意外とはっきりものを言う娘だ。上村には悪いが、八条は目の前の女性店員に改めて好感を抱いた。
「このゲームって、他の人もよくやってるの?」
「ええ、ここにあるゲームの中じゃ、使われているほうですよ。この時間帯はあんまりやりに来る人いないけど……」
「じゃあ、夜は結構来るんだ? 繁盛しているんだね?」 八条は微笑んだ。 「もしかして、君、店長? えっと……」
「あ、わたし、吹原といいます。吹原のぞみ。店長ではなくて、臨時の店長代理みたいな……」 彼女は気恥ずかしそうに頭を掻く。 「繁盛はしていませんね。だから結構、楽なんですよ」
「吹原さんって大学生?」
「違います。しがないフリーター、二十四歳の女です」
「へぇ、もっと若く見えた」
「うわ……、意外と失礼な人なんですね、八条さん。もっと紳士な方だと思ってたのに」
「いや、どちらかといえば褒めたつもりなんだけど」
「子供っぽいってことでしょう? で、意外と年食ってるなって思ったわけでしょ。童顔で悪ぅございました」
「すいません。上村さんと違って、女性にはあまり慣れていないもので」
八条が肩を竦めると、吹原は噴き出して笑った。本人は心外だろうが、やはり子供のように屈託のない笑みだった。
「店長代理っていうのは……、つまり、アルバイト?」
「んー」と彼女は首を傾ける。 「アルバイトっていうより、お手伝いかな。ここの店長、わたしのおじいちゃんなんですよ。ヘリコプタは、おじいちゃんの個人経営の店なんです」
「あぁ、そういうこと」 八条は納得して頷く。
「意外と歴史古いんですよ、この店。昔はインベーダーゲームの置いてある喫茶店だったとかで」 吹原は嬉しそうに話した。 「だから、もう見てくれはゲームセンターなのに、昔の馴染みで杖をついたお爺さんとかお婆さんがよく来るんです。ホット・ドッグを食べに。変わってるでしょう?」
「変わってるね」 八条も同意した。
「今はおじいちゃん、ちょっと重い病気で入院しちゃってるから……」 彼女は一瞬だけ暗い顔をしたものの、すぐさま朗らかに笑った。 「両親は店を潰した方がいいって言うんだけど、わたし、小さい頃からこのお店の雰囲気好きだから、現在孤軍奮闘中ってわけ」
「偉いね」 八条はホット・ドッグを頬張った。 「うん、出来れば、このゲームとホット・ドッグは守り抜いて欲しいな」
新たに二人組の客が入ってきた。彼女が語った通り、杖をついたお爺さん達だった。ゲームをしに来ているわけではないだろう。
「じゃあ、わたし、戻りますね」 彼女は言った。 「ごゆっくり」
八条も手を挙げて応えた。お爺さん達とにこやかに言葉を交わす吹原を眺めながらホット・ドッグを飲み込み、深呼吸してからコインをゲームへ投入した。ステアリングを握った瞬間に自分の目つきが変わったのを彼は自覚した。
『YOSHIHIKO』とは、どんな奴なのだろう。吹原に訊けばわかるだろうか。複数人がプレイしているらしいから、彼女も特定はできないかもしれない。
全く面識の無いどこかの誰かが、目の前に立ちはだかっている。無論、言葉も交わせなければ、顔もわからないような赤の他人。しかし、そいつが刻み込んだ数字には明らかに八条へ向けられた意思が宿っている。「越えられるものなら越えてみろ」という、いたってシンプルなメッセージだ。当然、相手も八条のタイムを見た時に同じように感じたはずである。
上等だ。
抜かしてやる。
なんて子供っぽい意地だろうと思う。でも、不思議と不快ではない。これほど正面切った挑発も他ではそうそうないが、それでも八条は血肉が沸いて踊るような感覚を覚えた。悔しさも当然ある。しかし、それ以上に、宿敵の出現が心から嬉しい。奇妙な感情だった。
順位転落で落ち込んでいたが、もう気を持ち直したようだ。たぶん、ホット・ドッグと吹原のぞみとの会話のおかげでもあっただろう。ちらりと飲食コーナーの方を覗いてから、八条は画面を睨んだ。
まずは慣らし運転、七割ほどで攻めよう。その次のゲームが本気だ。
アクセルを吹かしながら、カウントに合わせて首を鳴らした。
◇
だが、その日は結局、記録を塗り替えることは叶わなかった。零コンマ二秒まで迫ったものの、そこからどうしても詰められなかった。八条はまさに地団駄を踏んで悔しがったが、腕時計を覗いてその日は諦めた。あまり遅くなると翌日の仕事に差し支えるからだった。
店を出る間際、吹原のぞみと一言二言交わした。
「今日は長かったですね」
「どうしても敵わない相手がいるんだ。悔しくてさ」
「子供みたい」 彼女は可笑しそうに笑った。
「また来るよ」と言い残し、八条は扉へ向かった。
把手を押そうとした瞬間、それが逆側に開いて少しつんのめった。ちょうど、入れ違いに入店してくる客がいたのだ。八条はよろめいてその客に軽くぶつかってしまった。
「あ、すいません」 慌てて謝る。
入ってきたのはがっしりした体格の男だった。厳めしい金色のラインが入った黒ジャージ姿、短く刈り込まれた髪は脱色されていて、目つきはナイフのように鋭い。胸板にぶつかった八条をぎろりと見下ろした。
八条は肝を冷やして後退ったが、幸いにも男は小さく舌を打っただけで、何も言わずに傍を通り過ぎていった。跳ね上がった鼓動を宥めるようにしながら、八条はゆっくり息を吐く。もちろん、腕力にはほとほと自信がない。
危なかった……。
しかし、扉を閉める際にふと振り返った時、その男がレース・ゲームのシートへ腰掛けるのが見えた。
またも鼓動が重くなった。
もしかして、と意外な考えが浮かんだのだ。
あの厳つい男こそが、あのタイムの持ち主、つまり『YOSHIHIKO』ではないか。
八条はしばらくその場に立ち尽くした。一度考え始めると際限が無く、どうしても確認したくなったのだが、今さっき背筋の凍る思いをしたばかりというのもあり、あの男に近づくのは躊躇われた。
結局、八条は扉を閉め、逃げるように駅へと向かった。心臓はまだ早鐘を打っていた。
◇
「なんだ、お前、まだあのゲームに凝ってんのか」
昼休み、自分のデスクで寛ぎながらスマートフォンをいじっていると、背後から覗いていたらしい上村が声を掛けてきた。『峠の神話』の攻略サイトを覗いていたのだ。コース別にまとめられたタイム・アタックでの有利な走法を調べていたのだが、大体は八条も熟知しているテクニックばかりで、半ば復習とイメージ・トレーニングのようなものだった。
「勝手に覗かないでくださいよ!」
「ほどほどにしとけよ。次のプレゼン、お前が担当だろ? 遊んでる場合か?」
この男もたまには先輩らしいことを言うのだな、と八条は密かに感心した。
「大丈夫です、本業のほうもそつなくこなしているんで」
「走り屋は副業か?」 上村がにやにやする。
「ええ、健全でしょう?」
「どうだか」 彼は鼻を鳴らした。 「もしかして、ヨシヒコか?」
八条は少し驚いて見返した。
「よく覚えていましたね」
彼と共にヘリコプタへ行ったのはもう一週間前のことだった。上村はあの日以来、ヘリコプタには足を運んでいない。
「勝てないのか?」
「まぁ……」 八条は目を逸らして濁した。月曜日から金曜日の今日まで、未だにあの一秒の差を越えられていなかった。
「ストレス発散も大事だけどよ、ちゃんとやることはやっとけよ」
「わかってます。仕事には支障が出ないようにしてますから」
「バーカ、仕事じゃねぇよ、女だ、女」
「またですか」 八条は脱力した。
「いい加減、女作れよ。会社勤めってのはタイミング逃したら結婚できなくなるんだぞ」
「へぇ、上村さんって結婚願望あるんですね」
「ねぇよ。俺は一生フリーダムだ、バーロー」 上村は八条の頭を小突いた。 「来週の金曜、合コンするから予定空けとけ」
「え、僕、参加ですか?」
「オフコース」 彼はもう八条から離れて歩いていた。社員食堂にでも向かうのだろう。 「発散だよ、発散」
八条はうんざりした心持で見送った。スマートフォンに目を戻したものの、気分はすっかり削がれていてネットを閉じた。
そして、上村が口にした発散という言葉について、ぼんやり考える。
確かにそうだと思う。合コンについてではなくて(それもまぁ、あながち間違いではないかもしれないが)、ゲームとは本来そういうものなのかもしれない。つまり、娯楽を兼ねた手軽な発散だろう。
現実の世界ではけして味わえない仮想体験。虚構という言葉にはどうしてもマイナスなイメージが伴うものだが、もちろんメリットだってある。よっぽど健全なのだ。素人がサーキットで、あるいは公道で車を吹っ飛ばすよりずっと心配がない。生身の異性を相手にするより、画面の中の異性を相手にしていたほうが害も少ないだろう。それが素敵な発散だ。その虚構と現実の区別がついていない者も時折見かけるが、それは精神が幼いか不安定な証拠である。
八条は取り留めのないことを考えながら時計を覗き、まだ一時間以上昼休みに余裕があるのを確認してデスクを立った。昼食はホット・ドッグにしようと考えていた。もちろん、向かう先はヘリコプタだ。
あるいは、自分もまた区別がついていない者の一人ではないか、と彼は思った。
あの楽しさにとり憑かれ、貴重な昼休みを擲ってまでゲームをやりに行こうと考えている。仮にもまだ勤務時間であるのにも関わらず、だ。もちろん、現実の世界で車をぶっ飛ばそうなんて危険な考えは八条にはさらさらない。もし実行したとしても、あれほどの享楽は味わえないだろうと確信もしていた。
あの楽しさはきっと、現実にはない。
ゲームだからこそ、楽しいのだ。
この線引きの曖昧さを、八条も危惧していないわけでもなかった。
昔、肉体を捨てた人類が仮想世界で暮らしているSF映画を観たことがある。肉体がないので飢えも病もなく、また明確な差別や紛争が根絶された世界だった。まるで理想郷。しかし、映画は、人の尊厳の在処について執拗に警鐘を鳴らしていた。家族や恋人もなく、淡々と情報を交換するだけの電子生物に成り下がった人間の末期を描いた作品だった。
ずいぶん昔の作品で、八条がその映画を観たのも小学生の頃である。でも、あの映画を観て感じた漠然とした不安を、今でも覚えている。
人はどうして、虚構を求めるのだろう。
なぜ自ら、現実を切り離そうとするのか。
歩きながら考える。
しかし、答えは自明だ。
現実が嫌いだからだ、
それに他ならない。
じゃあ、なぜ、現実はこれほど遠ざかってしまったのだろう?
乾燥しきって、味気無くて、ひたすら単調で。
金や家族、あるいは無理やり立てた夢を言い訳にして、せせこましく働いて。
そして、最期には馬鹿みたいな後悔と共に棺桶。
こっちのほうが虚構じゃないか。
どうして、こんなことになったのだろう?
何かを失った?
何を?
僕達は、何を失った?
ふと、脳裏に、タイム・レコードが浮かぶ。
予感。
納得。
あぁ、そうか。
きっと、そうだ。
尊厳だったのか。
闘争の実感。
誇り。
プライド。
なんて陳腐な言葉。
笑ってしまう。
でも。
それを失くしたからこそ、現実は色褪せたのではないか?
皆で申し合わせたようにそれを捨てて、水槽の金魚のような生き方を選んだ。
そちらのほうが安心できるから。
何が安心だろう?
安心ってなんだ?
闘わないことが安心?
それが本当に望んだことなのか。
じゃあ、この欲求はいったいなんだ?
もちろん、闘争が人間の全てではないだろう。
安心だって、もちろん、必要だ。
人間はそこまで野蛮な生物じゃない。
でも、限りなく無償に近い対価で得られる安心に、何の意味があるのだろうか?
たとえば、愛だとか友情だって、タダでは得られないだろう。
会社のロビーを出る。
外は少々暑い。
歩く。
雑踏を抜ける。
スクランブルには大勢の人。
スーツ姿もいれば軽装の者もいる。
さまざまな人がいる。
赤の他人達。
まるで圧し掛かってくるような風景。
あるいは、恐怖したのだろうか?
誰かと闘うことに。
見ず知らずの人間に干渉することを避けた。
もしかしたら、それも一つの進歩なのかもしれない。
それが、今の自分の姿なのかもしれない。
ゲームに没頭している間は、誰にも迷惑をかけずに済むし、迷惑を被ることもない。
なんて無害。
結局、闘っていないのだ。
闘っているという幻想に満足して……。
いつの間にか、ヘリコプタに着いていた。
扉を潜る。
客はいない。静かだ。
カウンターでは彼女が暇そうに雑誌を捲っている。
こちらを見て、微笑んだ。
「今日は早いですね」
八条も微笑んで、ホット・ドッグを注文した。そして、いつものシートへと腰掛ける。タイム・レコードを見ると、やはりそこには宿敵の名。
そう、結局は幻想だ。
だけど。
この数字には意思がある。
この幻想をリングにして、一人と一人が争うのだ。
その闘いだけは本物。
現実の欠片と言っていい。
ぶつかる意地と意地は純粋だ。
ホット・ドッグがやってくる。
予想通りの味。
美味しい。
あっという間に平らげる。
彼女は緩く微笑んで、シートの後ろに立っている。
八条はコインを投入する。
爆音が鳴る。
包まれる。
あぁ、この感覚。
胸の高鳴り。
武者震い。
思考の加速度。
意識の鋭角化。
今日こそは。
今日こそは、勝つ。
コースを選んで、シートに腰を深く沈めた。
◇
翌週の金曜日になった。
上村が企画した合コンに参加することになっていので、退社後、八条は足早にヘリコプタへ向かった。軽く遊びたかったのと、タイム・レコードを確認したかったのだ。
三日前の火曜日、彼は『YOSHIHIKO』の記録を塗り替えていた。念願の首位だった。その記録を越す為に五千円以上は使ったかもしれない。しかし、連日続く充実感を考えれば安いものだ。この幸福は勝利でしか得られないものだ。
昨日も確認したが、八条の記録は抜かれていなかった。しかし、油断はできない。なにせ零コンマ三秒を上回っただけのタイムであるから、完全に突き放せているわけでもなかった。当分は大丈夫であろうが、『YOSHIHIKO』も相当な腕前であるから、何が起こるかわからない。八条の記録はきっと確認済みだろう。
いったい、どんな奴なのだろうと頻繁に考えるようになった。首位を狙って走り込んでいる時はその疑問もささやかだったが、今は勝利後の余裕というのか、『YOSHIHIKO』の素性がとても気になっていた。
正体を考えていると、あの厳つい男が脳裏に浮かぶ。もちろん、可能性は充分にある。偏見ではあるが、アーケードのゲームをやり込んでいそうな奴だった。
あの黒ジャージの男が『YOSHIHIKO』だと仮定すると、八条の鼻は一層高くなるかのようだった。腕力では到底勝ち目がないであろうあの野蛮そうな男に、ゲームとはいえ、一泡食わせてやったのが愉快だった。速さではこちらが上なのだ。子供じみた優越感だが、気分はとても清々しい。
ヘリコプタに着いたが、看板の電光が消えているのが妙だった。首を傾げながら扉を開けようとすると鍵が閉まっている。脇に小さく貼り紙があって、一週間ほど休業する旨が書かれていた。珍しい。何かあったのだろうか。
電話が鳴った。表示を見ると上村だった。
「俺、上がったからよ。お前、今どこだ?」
「あぁ……、駅前で待ってますよ」
「わかった。すぐ行く」
電話を切って溜息をついた。
気が乗らないが仕方ない。駅に向かって、八条は歩き始めた。
◇
合コンは会社の沿線から二度乗り換えた先の、歓楽街に程近い地下の居酒屋で行われた。四対四のセッティングで、八条と上村の他に違う部署の男二人が一緒にやってきていた。二人はどちらも上村と同じで、つまり異性との接点を求めるのに人生の大半を費やしているような男達である。憂鬱な顔をしているのは八条だけだった。
待ち合わせた店には既に先方の女性達が席についていた。どこかの会社のOL達らしい。彼女達は大学の友人同士で、主催の上村との繋がりも、その大学を通じた人脈だそうだ。
「あれ? 一人、足りなくない?」
席に着くなり、上村は訊ねた。確かに、女性陣は一人足りなかった。三人しかいなかったのだ。
「それがね、ちょっと都合悪くなって出てこれなくなったらしいの」 三人を代表して、一番派手な化粧の女が言った。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、こっちは一人余るな」 上村はおどけて言った。 「皆、同じ会社なの?」
「ううん、別々だよ。今日来れなかった子はフリーターやってるんだけど……」 彼女達は顔を見合わせる。 「のぞみ、どうして来れなくなったんだっけ?」
のぞみ、という名に八条はおしぼりを落としそうになった。女性陣はそれに気付かず、話を続ける。
「なんか、お祖父ちゃんが亡くなったとかで。今日の明け方だったらしいんだけど」
「あ、そうなの? あちゃあ、不謹慎なメールしちゃったよ」
「じゃあ、今はお葬式の準備とかで忙しいのかな」
「そうじゃないの? お店も閉めてるらしいし」
「お店って?」 同期の男が訊いた。 「その子、フリーターじゃないの?」
「あ、うん、亡くなったお祖父さんがやってたお店を手伝ってたのよ、その子。最近は店長代理みたいなことしていて」 彼女は思い出したように付け足す。 「そうそう、そっちの会社と同じだよ、最寄り駅。名前忘れたけど、ゲームセンターと喫茶店が合体したような店。知らない?」
ようやく上村も気付いたようだ。意外そうな顔をして、八条へちらりと向いた。八条はまだ動揺した顔で彼を見返した。
「まぁまぁ、その子のことは縁が無かったと思って諦めてさ。とにかく、乾杯しようよ」
女性達が陽気にグラスを掲げ、男達も同じように倣った。上村もどうやら気持ちを切り替えたらしく、調子の良い笑みを浮かべてグラスをぶつけ合った。
八条も遅れて乾杯を交わす。
なんて偶然だろう、とぼんやり考えながらビールを飲んだ。
そうか……、吹原のぞみの祖父は亡くなったのか。
ヘリコプタはどうなるのだろう。このまま、畳まれるのだろうか。
彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。
グラスを置く。その瞬間には、流れる峠の景色が見えた気がした。加速。コーナー。宿敵の描く最速のライン。それを辿り、追い抜いていく自分の視界。あの焦燥感を、相手も味わっているのだろうか。
気付けば周囲の話題は切り替わっている。自分の仕事のこと、趣味のこと、好きな俳優や女優のこと。なんて素早さだろう。チャンネルを切り替えているかのようだ。八条は相槌程度の言葉を発するのみで、黙々と耳を傾けていた。今は大学の話になっている。彼女達は見た目に反して工学部の出身だそうだ。そのギャップにわざとらしい男性陣の驚きが返される。
目の前の女性達を眺めても、同僚の男達を眺めても、そこにさざめく笑いを聞いていても全く心が弾まない。どんどん醒めていく。まるで宇宙人の会合にでも立ち会っているような気分。あるいは、自分だけが異質であるかのような錯覚。否、錯覚ではないかもしれない。
薄い膜が自分の周囲に張り巡らされている気がする。どんな音も光も、その膜を通すと鈍くなってくぐもるのだ。この感覚は、仕事や私生活の退屈なひと時にも感じることがある。無為な時間という自覚。自分の中の何かが濁っていくような焦り。
上村がちらりと八条を見る。一瞬目が合ったが、八条はすぐに目を逸らし、場の雰囲気に合わせて愛想笑いを浮かべた。後で怒られるかもしれない、と心配になった。
吹原のぞみは今、何をしているのだろう。不思議とそんなことが気になった。
祖父の死に泣いているだろうか。
いや、たぶん、泣いてはいないだろうと思う。気丈に、いつも通り振る舞っているに違いない。なぜだかそんな気がする。大して知りもしない相手ではあるが、その直感に間違いはない気がするのだ。
『YOSHIHIKO』は何をしているだろうか。
閉まっているヘリコプタを前に首を傾げているか、それとも記録を塗り替えられたことを知っていて、歯噛みしながらどこかで練習しているかもしれない。幾重にも頭の中にラインを組み、それを走る自分の軌跡を仔細に眺めているのかもしれない。
胸の内側で、沸々と込み上げるものがある。
その熱い感情だけが、透明な膜を打ち破れる唯一の現実だった。
◇
終電の前に合コンは終了した。八条は社交辞令で女性一人と連絡先を交換したが、こちらからメールを送るつもりはなかった。相手もきっと手応えは感じていなかったに違いない。
帰り道、案の定、上村に軽い叱責を受けた。
「お前さ、せっかく開いてやってんのに、始終うわの空ってどういう了見だよ」
「すいません」 八条は肩を竦める。恩着せがましい物言いにも思ったが、それについては黙っていた。 「でも、上村さんも今日はあまり乗り気じゃなかったですね」
「そりゃお前、可愛い後輩がつまらなさそうにしてたら気が気じゃねぇだろ」
それは明らかな嘘だったが、八条は不快にはならなかった。
上村も女性達と連絡先を交換していて、愛想よく挨拶をして別れていたが、普段と比べればずいぶんさっぱりした態度だった。意外にも彼は異性の好みの区別が明確で、誰彼構わずアプローチしているわけではない。分別のはっきりした彼の態度が、多少理解を超える部分があるものの、八条にとってはむしろ好感を抱けるものだった。
「お前、ひょっとしてあのゲーセンの女のこと、考えてたのか?」
あながち間違いではなかったが、八条は苦笑して首を振った。
「惜しいけど、違いますよ。あの店のゲームについて考えていました」
「ゲーム、ゲームって……」 上村は呆れ顔になった。 「お前、馬鹿だろ。合コンの最中にそんなこと考えている奴がいるか」
「ええ、あの、上村さんには申し訳ないと思っています。でも、僕は合コンっていうのがそもそも好きじゃないんです」
「合コンはつまらねぇか?」
「ええ、まぁ……」 躊躇ったが、八条は曖昧に頷いた。
「あのゲームは、そんなに面白いのか?」
「ええ、面白いです」
「実物の女を相手にするより?」
「はい」 今度はきっぱりと頷く。
舌を打って、大袈裟に上村は溜息を吐いた。 「なんか、今日のあの娘達が不憫に思えてきた」
「いや、えっと、良い人達だとは思いますよ。でも、なんていうか、恋人とか、僕は今いらないんですよ。たぶん、そこを上村さんは勘違いしているかと……」
「勘違い?」 上村が睨む。 「勘違い、つったか?」
「あの……、上村さん、落ち着いて」 八条は慌てた。 「僕が悪かったです。すいませんでした」
「勘違いしているのはお前だろうが」
「は?」 意味がわからず、八条は呆ける。 「僕が? 何を勘違いしてるんです?」
八条は苦々しい顔をして、煙草を取り出した。
「現実はつまらねぇって面してやがるだろ、お前」
それは脈絡のない返答だったが、八条はぎくりとして彼を見返した。
「別に、そんな」
「いいや、してるね。退屈で退屈で仕方ねぇって顔だよ。気取った顔だ」
少々ムッとしたが、八条は黙っていた。
「俺もゲーム小僧だったからさ、楽しいのはよくわかるぜ。仕事だとか煩わしい人間関係と比べたら、嘘みたいに面白いだろうさ。別にゲームするなって言ってるわけじゃねぇんだよ、こっちも」 上村は銜えた煙草に火をつける。 「だけどな、まぁ、陳腐な言い分だが、俺らはもう成人して一端の大人になってるわけだ。どうしたって現実と折り合いつけなくちゃいけねぇ。もちろん、クソみてぇなもんさ、仕事も人間関係も。女だって、面倒なことこの上ねぇ」
八条は上村の言葉に驚いた。最後の女の部分だ。
彼は続ける。
「最近の若者はよ……、まぁ、俺もそのうちの一人なんだろうが、仕事に働き甲斐ってのを求める傾向にあるんだとさ。つまり、面白さだわな。仕事に面白さを求めてるんだ。気持ちはわかるよ、俺にだって。でもさ、そんなもん、本当にあると思うか? 俺らがやってる仕事に、働き甲斐だとか、面白さだとか、あると思うか? どうだ?」
「いや……」 八条は戸惑って言葉を濁す。
「ねぇよ。そんなもん、あるわけねぇだろ。だって、それが仕事、それが現実なんだからよ」
彼は煙を豪快に吐く。妖怪絵巻のガマガエルのようだ。摂取したアルコールが遅れて効き始めているのかもしれない。
「あの、上村さん。ちょっと、お水飲んだほうが……」
「酔ってねぇよ! 素面だよ、馬鹿野郎」 上村は舌を打った。 「今日の合コンなんか、半分は営業の練習みたいなもんだったじゃねぇか。接客業やってる気分だったぜ。クソ面白くねぇ」
つまり、八つ当たりじゃないのかと思ったが、八条はもちろん黙っている。
「いいか、現実は面白くもなんともねぇ。大人になったら、まずそれを認めなくちゃいけねぇんだよ。それが大前提だ」 上村は煙と一緒に溜息を吐く。 「そんなクソみてぇな現実をな、ヨボヨボのじじいになるまで続けなくちゃいけねぇんだ。誰だって同じだよ。金持ちも貧乏人も、才人も凡人も皆同じだ。皆、一回は現実に失望してる」
だけどな、と彼は続けた。
「そのクソッタレの現実の中から、砂金みてぇに小さな楽しさだとか面白さを見つけることは出来るんだよ。どんなクソな仕事にだって、絶対に働き甲斐を感じられる場所ってのはある。もちろん、人間関係だとか、味気ねぇ実生活の中だって同じだ。楽しさ……、言うなりゃ、生きる気力ってやつ。それは誰かに与えられるもんなんじゃねぇ、自分で見つけるもんだ。それができずにうだうだクダ巻いてる連中はな、ガキに過ぎねぇんだよ。いや、ガキ以下だ」
八条は思わず脚を止めて聞いていた。上村も立ち止まる。
「現実はつまんねぇって言ってるような奴はな、自分で面白さを見つけようとしない奴だよ。現実がつまんねぇんじゃねぇ、そう言ってる奴が一番つまんねぇんだ。そいつが一番、つまんねぇ人間なんだよ」 上村は鼻を鳴らし、足許に吸殻を捨てた。 「別に……、無理して女作れとは言わねぇ。お前にはお前の生き方みてぇなもんがあるだろうからさ。だけど、ぴたっと耳と目を塞いで、自分の中だけで生きるようなやり方だけはやめとけ。そんな生き方が出来るもんなら、俺だってするさ。でも、こんな現代社会じゃ出来っこねぇ。よっぽど超越している奴じゃなきゃ無理だ。保証するね」
上村は歩き出す。八条は慌てて後を追った。
「だから……、八条よ、お前はもうちっと外に目を向けろ。お前、ずっとゾンビみてぇに無理して働いてたからよ。余計なお世話かもしれないが、心配だったんだ」
「大変でしたから……」 八条は俯いて笑う。
「そろそろ余裕も出てきたろ?」 上村も笑って、八条の肩を小突いた。 「俺みてぇに人生謳歌しろよ。信じられないかもしれねぇが、俺、今めちゃくちゃ楽しいぜ。全部、俺が自分で見つけた楽しさだ。お裾分けしてぇんだよ」
彼は欠伸を漏らし、腕時計を覗く。
「あーあ、こんな時間だ。柄にもねぇ説教させんじゃねぇよ」
「はい、すいません」 八条は微笑んだ。 「上村さんって、意外と、その、優しいんですね」
「意外じゃねぇよ、俺の体の半分は優しさで出来てんだ」 上村は口端を吊り上げた。 「とにかく、女作れ」
「作らなくてもいいって言ったじゃないですか」 八条は噴き出す。 「無茶苦茶だ」
「作っとけよ、楽しいから」
上村はニヤニヤして言った。なんとなく説得力を感じさせる表情だった。
八条は彼の後ろを歩きながら、今指摘されたことを考えた。
確かに、そうかもしれない。
こちらから勝手に、現実に見切りをつけていたと思う。
なんて幼い考え……。
そうだ。
現実はつまらないとのたまうのは、つまり、現実に期待している裏返しだった。
何もしない現実が楽しいはずがない。課せられたルーティンをこなし、自分が作った膜を破りもせずに、淡々と過ごすだけの毎日。そんな現実にしたのは他ならぬ自分だったのだ。
子供の頃、誰かに「遊んでこい」と言われたから遊んでいたわけではない。
自分の脚で外へ駆け出し、自分で面白さを作り出していたのだ。
なんて単純なことだったのだろう。
大人になって、どうしてそんな単純なことを忘れていたのか。
上村は無言で振り返り、笑いを堪えるような顔で八条の肩を軽く叩いた。意味が全く不明な上に少々痛い。しかし、八条は忍び笑う表情で返した。
上村という先輩に親愛を抱いていた理由がわかった気がした。
何かを楽しんでいる人間というのは、なんとなく、一緒にいて楽しいものだからだ。
◇
ヘリコプタは水曜日まで閉まっていたが、木曜日の退社後に訪れた際には再び開店していた。店がこれからどうなるのか気になっていたので、八条は今日、吹原から訊くつもりだった。
扉を開けようとした瞬間、向こうから開けられた。デジャヴを感じて立ち尽くすと、姿を現したのは奇遇にもあの厳つい男だった。
男はちらりと八条を見てから路地を歩き出す。しかし、数歩進んでから突然、思い直したように八条へ振り返った。目が合う。その険しい目つきに八条は胃が縮むような感覚を覚えた。もちろん、脚は固まっている。
しばらく、無言の時間が過ぎた。
「あの、何か」 八条は訊ねる。
男はゆっくり口を開いた。
「エイトって、あんたか?」 低い声だった。
どきっとした。
「ええ……、そうですが」
男の目が見開かれる。
今にも迫ってきそうな気配を感じ、八条は無意識に拳を握った。
しかし、男は躊躇うように目線を泳がせた後、舌打ちをして路地を歩いて行った。悔しげな表情を浮かべていた。八条はぽかんとその後姿を見送る。
やはり……、奴が、『YOSHIHIKO』なのか。
疾走していた鼓動が落ち着きを取り戻した頃、ようやく八条は身じろぎしてヘリコプタへ入店した。店内に客の姿は無い。いつも通りの静けさだったが、今日はどことなく、主を失くした廃屋敷のような静寂を感じた。
カウンターに吹原のぞみの姿はない。奥の部屋にいるのだろうか。
声を掛けようかと思ったが、躊躇し、代わりに『峠の神話』へ近づいた。いつもの習慣で、いつものコースのタイム・レコードを表示する。
まず、違和感を覚えた。
「え?」
握っていた煙草の箱が落ちる。
しかし、八条の目は画面に釘づけになっていた。
遅れて、一位に記された名前を認識する。
ぞっと、背筋が冷たくなるのを感じた。
そんな、馬鹿な……。
唖然と立ち尽くした。
八条が叩き出したタイム・レコードは二位に蹴り落とされていて、代わりに『YOSHIHIKO』が三秒以上の差をつけて首位に返り咲いていた。
眩暈を覚えて、シートにもたれる。
いったい、どうやって……。
三秒だと?
不可能だ。
冗談だろう?
真っ白になりながら更新日を見ると、日付は昨日の水曜日になっている。
昨日……?
八条は訝しんだ。
昨日は店が閉まっていたじゃないか。
いったい、誰が、どうやって……。
そこまで考えた時、背後に気配を感じた。
吹原のぞみが立っていた。トイレに入っていたのだろう、彼女も八条の来店にその場で気付いたようだった。
「あ……」
二人の声が重なる。
その瞬間、電流のように八条は理解した。吹原の一瞬の表情に答えがあったからだ。
「『YOSHIHIKO』って……、あなただったんですか?」
彼女はハッとして、そして一瞬目を逸らし、上目遣いに八条を見た。
こっくりと頷く。
八条は驚愕した。
「そんな……」
「あ、いや、その、違うんです」 彼女は慌てて首を振った。 「わたしだけど、わたしじゃないっていうか……」
「え?」 八条は聞き返す。もう混乱はピークだった。
「それ……、ズルなんです」
「ズル?」 口許だけが笑みを浮かべた。 「ズルなんて、できませんよ。そんな裏技ないです」
「じゃなくて、その……、わたしが、そのソフトのプログラムを改変して……」 吹原は真っ赤になって頭を下げた。 「ごめんなさい!」
「改変?」 ますますわからない。 「なんですそれ?」
「ですから、その、『YOSHIHIKO』っていうのは、プログラム、つまり、CPUなんですけど……、記録を越えられたら数秒の差をつけて一位に表示されるよう、わたしが仕組んでいたんです」
「CPU?」
「つまり、データだけの存在なんです。わたしが、書き換えていたんです」
「いや……、冗談でしょう?」 八条は微笑んだ。
「いえ、あの、わたし、工学部出身で、コンピュータのプログラムとか設計していたんで……、そういうの得意なんで……」
「工学部?」
八条は咄嗟に、先週の合コンでの女性達の話題を思い出した。そういえば言っていたような、言ってなかったような。
「あの、どうして、そんな……」 八条は放心したまま言いかけて、そして気付く。 「あ、そうか……、なるほど」
つまり、リピーター獲得の為だったのだ。ゲームに絶対塗り替えられない記録を設定し、それに挑戦する奇特な客を増やそうという狙いだったのだ。なんて悪質な、と八条は呆れた。
「えっと……、じゃあ、僕は、コンピュータ相手に必死になっていたんですね?」
「本当にごめんなさい!」 吹原は何度も頭を下げた。 「あの、まさか、あそこまで熱中するなんて思わなくて」
「裏でほくそ笑んでいたわけですか?」 八条はようやく煙草を拾い、火をつけた。 「悪質ですね。そうやってお金を巻き上げていたわけですか、僕から。さぞいいお客だったでしょうね?」
「いえ、けして、そんな……!」
「他にどういった理由が?」 八条は無理に微笑む。久しぶりに自分が怒っているのが分かった。
「それは……」 彼女はごにょごにょと俯く。
八条は煙と一緒に溜息を吐いた。
そうか……。
コンピュータだったのか……。
勝てないわけだ。
最高のズルじゃないか。
喉の下で何かがざわついているのを感じたが、それと同時に、八条は可笑しくて堪らなくなった。ふふふ、と煙と息を漏らす。漏らせば漏らすほど可笑しくなった。
「八条、さん?」 恐る恐る彼女が訊ねる。
「どうして『YOSHIHIKO』なの?」 八条はくすくすと笑いながら尋ねる。 「そう、それがズルだよ。明らかに男の名前じゃないか。あなただなんて思いもしない」
吹原はぽかんと八条を見返し、そして束の間、自分の立場を忘れたのか、くすっと笑みを漏らした。
「初恋の人の名前です」
「へぇ……」 八条は首を傾げるように頷く。 「差し支えなければ、どんな人だったのか、教えてくれませんか?」
「いえ……、知らないです」 彼女は首を振った。
「は?」 八条は目を丸くして見つめ返した。
「子供の頃、わたし、中古で携帯ゲーム機のRPGのカセットを買ったことがあるんです」 彼女はぽつぽつと語り始める。 「そのカセットのデータに、前の持ち主のデータが残っていたんです。『ヨシヒコ』って……。もちろん、知らない男の子の名前です。会ったことなんてないから、どんな子かもわからない。でも、その名前を見た瞬間、まるで生きている人間と対面したような気持ちになったんです」
彼女はふふ、と息を漏らす。
「子供ですから、わたしは逞しい想像力で、そのヨシヒコ君を脳内に創り上げて、そして、恋に落ちました。馬鹿みたいでしょう?」
「うん」 八条は堪え切れずに噴き出した。 「残念な子だね」
「『YOSHIHIKO』っていう名前はそこから取ったに過ぎないんです。わたしの、素敵な初恋の男の子です」
「僕にとっては、得体の知れない凄腕の宿敵だったわけだけど」 八条は煙草を吸った。煙を吐くと、喉の下にあった怒りも一緒に抜けていくかのようだった。 「そうか……、コンピュータだったか」
あ、と吹原は思い出したように、笑みを引っ込めた。
「本当に、申し訳ございませんでした。あの、今までの代金、お返し致します」
「いいよ、そんな」
「いえ、そういうわけには……」
「楽しかったのは事実だ。もう、久しぶりに熱くなったよ」 八条は安心させる為に微笑む。 「お金を払う価値があったよ」
「じゃあ、えっと、どうしよう……」 彼女は真剣にお詫びを考えているようだった。
八条は煙草を灰皿に落とし、彼女を見た。
「お祖父さん、亡くなられたのかい?」
彼女がはっと動きを止め、八条を見返す。
「どうして、知っているの?」
「うん、まぁ……」 八条はむにゃむにゃと誤魔化す。 「世間は狭いから」
「突然だった」 彼女は溜息を漏らし、弱々しく笑った。 「本当に、びっくりした……、お別れを言う暇もなかった」
「辛かったね」
「いえ」 彼女は頷きかけたが、すぐに首を振った。 「苦しんでいるおじいちゃんを見てるほうが辛かったから……、不謹慎かもしれないけど、楽になってくれて、よかったって思ってます」
「お店は、どうなるの?」
「さぁ……、どうなるのか」 彼女は少しだけ首を傾げる。 「弟と相談をしているんですけど」
「弟?」 意外に思って八条は聞き返した。
「ええ、深夜は弟が代理でいるんですよ。さっきまでここにいたんだけど……」
「え、ちょっと、その弟って……」 八条は自分の目尻を指で引っ張った。 「こんな、怖い目つきした子?」
「あ、そうです、ご存知なんですか?」
あの厳つい男だ、と八条は直感した。心底驚いた。
「似てないにも程があるね」
「よく言われます」 吹原は苦笑した。 「あ、そうだ……、ちょっと、すいません」
彼女はレース・ゲームに近づき、タイム・レコードの画面に切り替えた。意外に思いながら八条は後退って場所を開ける。
「あの子、タツヤって言うんです。吹原タツヤ。八条さん、あの子に何か言われませんでした?」
「えっと……」 八条は頭を掻く。 「エイトってあんたかって、すごい無骨な感じで訊かれたけど……」
「やっぱり」 彼女は息を漏らし、納得したように頷いた。 「気になってたんだ、あの子」
「え?」
気になっていた?
八条は身震いした。
「ど、どういう意味?」
「ほら、これ」 彼女は微笑んで画面を指した。 「この一番下……、十位の所」
八条も覗いた。そこには、八条が叩き出した記録より一秒半ほどまで肉薄したタイムがあった。名前は『DRAGON』とある。
なるほど、『タツヤ』の竜で、ドラゴンか。
少し安心した。
「安直だね」
「エイトさんが言います?」
「言えませんね」 八条は肩を竦めた。 「いや、でも、十位だけど、彼も凄いよ」
「本人、顔には出さないけど、めちゃくちゃ悔しがっていましたよ。わたしに、このレース・ゲームをよくやってる奴知らないかって尋ねてきましたから」
「あ、そう……」 なんとなく恥ずかしくなった。
数字に人間を見ていたのは自分だけではなかったのか。
八条は妙な感慨を覚えた。
確かに、下位の連中の名までは覚えていなかった。『YOSHIHIKO』以外の名前は全て視界に入らなかったと言っていい。
きっと、吹原タツヤも、自分と同じようにしこたま練習を重ねたのだろう。
全力で、こちらに挑んで来ていた。
だから、この数字を叩き出せたのだ。
ちゃんと、闘うべき相手は存在していたのだ。
「よかったら八条さん、今度、弟にレクチャーしてあげてください」
「充分速いよ」 八条は首を振る。 「今度会った時は仁義なきドッグ・ファイトさ」
吹原は子供のように笑った、
どきっとするくらいに可愛らしい笑みだった。
どうしてだろう。
急に、とても魅力的に思えてきた。
上村の言葉を思い出す。
現実の楽しさ。
それは、自分で見つけにいくものなのだ。
彼女は八条を見つめ返し、思い出したように再び表情を曇らせた。
「あ、そうだ、わたし、なにか、お詫びしなくちゃいけないんだった」 彼女は後退ってまた頭を下げる。 「あの、本当に、ごめんなさい。ふざけるなって思われるかもしれませんが、あの、よかったら、ホット・ドッグ、無料で差し上げます。もちろん、たくさん、ご用意しますけど」
思わず、八条は噴き出してしまった。
なんて失礼な女だろう。
それが謝る態度か。
それでお詫びのつもりか。
「相手が僕で良かったね。良い金蔓だよ。違う男だったら、こんな風に笑って許してないよ」
「あ、ごもっとも……」 吹原は言いかけ、そして俯いた。 「でも、わたし……、八条さんだから、『YOSHIHIKO』を設定したんですよ」
「え?」 八条は彼女を見つめる。 「どういう意味?」
「だから……」 彼女は真っ赤になっていた。 「タイムを塗り替えれば、また、来てくれるって思ったから……、他の人だったら、そんなの、しません。最初にやった設定だって、気まぐれっていうか、いいなって思ったから……」
それきり押し黙った。
八条はしばし彼女を見つめ返し、そしてまた噴き出した。
現実の膜を突き破る自分を想像する。
「ホット・ドッグも魅力的だけど……」 彼はとっておきの気障な仕草でシートに体を預ける。斜めに立つ姿勢だった。 「吹原さんって、彼氏いないよね?」
「え?」 彼女はぎょっとしたような顔。 「え、なんで、そんな、断定的な口調なんですか? わたし、そんな独り身っぽく見えます?」
恋人がいたら合コンの誘いになんか乗らないだろう、と八条は指摘したくなったが、結局飲み込んだ。にっこりと、多少、クールに見えるように口を曲げる。
「お詫びついでにさ、一つ、お願いがあるんだけど」
「なんです?」 彼女はきょとんと見つめ返した。
「よかったら、僕とその……、お茶でも、ご、ご一緒しませんか?」
最後の台詞は少しだけつっかえてしまった。
現実がままならない証拠である。
後書き
未設定
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