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作品ID:568

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約13304文字 読了時間約7分 原稿用紙約17枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

ラムヒー

作品紹介

ここに居場所はもうない。


原曲・トクマルシューゴ

※過去作です。三年くらい前に書きました。
 整理中に読み返したらむらむらっときて投稿です。新作でなくてすいません。




 紅葉が過ぎ、楓が葉を落とし始めた季節である。
 久々に故郷の地を訪れていた彼は、連れ立った男達を街に残し、彷徨うような足取りで独りその森に踏み込んでいた。左右へ走らせる目には、言い知れぬ郷愁と戸惑いの色が滲んでいる。色褪せ始めた森の風景の中、上等な背広が、彼を異世界からの来訪者のように飾り立てていた。
 山の裾野にあった街並みは、二十年ほど前に始まった開発によって大きく変貌を遂げている。たまに父親のオート三輪に乗せてもらって市街まで買物に出たこと、小学校の帰り道に毎日欠かさず立ち寄った駄菓子屋などの記憶が、彼の脳裏で鮮明に蘇った。今ではオート三輪も駄菓子屋も、その見慣れぬ小奇麗な街から追放されたように思える。彼はふと物寂しさに捉われ、そしてそれを振り払うように、街並みから視線を逸らす。
 彼の目の前には未だ人の手が付かぬ原生林が広がっている。舗道は当然ながら、簡易な山道も案内板も無く、あるのは森をぐるりと取り囲む金網ばかりだった。彼がまだ幼かった頃にはその金網すら無く、森はほぼ原始の姿でここにあった。金網の出現は、社会で権利という概念が顕在化してきた象徴にも思える。何物にも値札がつけられる世の中になった。そして、彼はその生臭い世間の第一線に生きる男だった。それは彼自身にとって、どことなく奇妙な実感を伴う肩書である。
 森は標高の低い山に深く茂っている。勾配のある獣道を革靴で行くのはけして容易ではなかったが、彼はコツを知っていたのでそれほど息を上がらせることもなかった。
 彼は小学校の中学年に上がるまで、この山の裏手に存在していた部落で暮らしていた。父方の祖父母の家で、彼は六人家族の末っ子だった。今ではもう誰も住む者はいないが、家屋だけは未だに残っている。資産家となった彼が土地を所持し、維持費を払い続けてきたからだ。しかし、そちらは近々手放すことになっている。新たな土地開発の波が迫っている。
 沁み込むような、懐かしい木々の匂い。鳥のさえずりはなく、辺りは無意識に息を潜めてしまうほど静まり返っている。晴れているはずだが、頭上に樹冠が重なって視界は薄暗い。枯葉に埋もれた地肌は昨晩の雨でぬかるんでいる。長靴を用意すればよかったと舌打ちすると共に、この斜面を素足で駆けていた幼少期をふと思い出す。柿の実を採って食べたことも、膝より高く生える草むらであちこち切り傷を作ったことも、まるで昨日の事のようだ。
 彼は自分が微笑んでいるのに気付き、慌てて周囲を窺った。
 大丈夫だ、誰もいない。
 自分の臆病さを鼻で笑う。
 やがて傾斜が終わり、木々が開けた平らな場所に出た。その天然の広場だけは晩秋の陽射しが鮮やかに降り注ぎ、褪せた色彩の枯葉や草木すらも黄金色に染めていた。冷やかに肌を取り巻いていた空気も心なしか温かくなった気がする。
 彼はその場に立ち尽くし、眼前に広がる光景にしばらく呼吸すら忘れて見惚れていた。
 全く変わっていない。
 彼はぎこちなく足を踏み出し、目線を辺りに向ける。胸を打つような、あるいは肌が粟立つような、抗いがたい強烈な感情を覚えた。記憶を頼りに、ベンチ代わりの切り株を見つけ、思わず息を呑みこむ。もちろん、切り株の表面は長年の雨曝しによって黒ずみ、菌類に支配され、今にも朽ち果ててしまいそうに腐食していた。しかしそれ以外に、過ぎ去ったはずの年月を示唆する変化はほとんど見受けられなかった。
 明るい陽射しの下、来た道をもう一度振り返る。
 今にも木立の陰から、懐かしきあの友人達が姿を現すような気がしたのだ。彼は身を竦めるようにじっと息を潜め、まるで獣のような心持で待った。無心ではあったが、脳裏には無意識のうちに、あの日々の記憶が駆けていく。

 ◇

 幼かった頃、彼は暇さえあれば毎日のように森に入りこみ、そして日がな一日彼らと共に過ごした。
 彼らは獣であったが、彼も、そして彼らも、そんな些末な相違は気にしないようだった。彼は言葉の通じないその友人達を『ラムヒー』と親みを込めて呼んでいた。初めて彼らと遭遇した時、彼らが眠たそうに「らむひぃ」と鳴いたからだ。本当はもっと違う発音だったかもしれない。牧場の雌牛のようにぼんやりした低声だったので正確ではない。しかし、少なくとも幼い彼の耳には「ラムヒー」と響いたのである。
 ラムヒーはどの図鑑にも載っていない四足獣だった。後にドキュメンタリー映画で知ったアメリカバイソンに形態が近かったが、温かみのある茶色の長い体毛や前面に短く突き出る歪曲した黒い一本角など、明らかにそれとは違う獣だった。性格は極めて温厚であり、彼が面白半分にふわふわした背中へ抱きついても全く意に介さない。友人達の体毛からはいつでも森と陽射しの安らかな匂いがした。
 彼の知る限り、ラムヒーには縄張り意識など、動物が本来持ち得ている闘争本能をほとんど持っていなかった。少数の群れを形成する習性があるようで、いつも決まった三頭で現れた。他のラムヒー達を見たことはない。
 彼は三頭のラムヒーの身体や毛色、あるいは蹄の形にそれぞれ細かい相違があるのを発見し、その特徴によって彼らを識別して呼ぶことができた。犬のように尾を振ることはなかったが、垂れ下がった耳がぴくりと動いていたので認識はしていたようである。つまり、少なくとも犬か猫ほどの知能はあったということだ。
 彼らがいったいどういう存在で、そしてなぜ森の中で誰にも知られることなくひっそり暮らしていたのか、彼にはわからなかったし、大人達に尋ねることもできなかった。叱られるのが目に見えていたからだ。部落では昔から、森には妖怪が棲んでいると言い伝えられていたので、子供達は森に立ち入るのを禁じられていたのだ。迷い込んで帰らなかった者もいるらしい。大人達の話には多少の尾鰭がついていただろうが、それでも静かに妖しく佇むこの未開の森は、子供心に言い知れぬ恐怖を与え続けていた。ただ一人、彼を除いて。
 内向的な性格だった彼は、両親にこっぴどく叱られたり、近隣の悪童達にいじめられると、よくこの森に逃げ込んでいた。最初は目印をつけながらの行進であったが、やがて慣れてくると、勘だけで方角がわかったものである。地元の大人達でさえ迷う深い森を自由に駆け巡ることのできる彼にとって、森は大きく肥大化した彼の内側世界でもあった。祖父の商売道具だった鉈をこっそり持ち出し、枝や木の幹を削って剣と盾を自作した。それを装備すれば、外界での弱気と打って変わり、勇敢な戦士となることも彼にはできたのだ。
 彼は三頭のラムヒーを従えて勇ましく樹木の隙間を歩き回り、疲れると木々が開けた草原でラムヒー達に抱きついて眠ったりした。腹が減れば友人達に倣ってたわわに実った柿やあけびを採り、喉が乾けば断層から湧き出る清廉な水を飲んだ。
 彼はラムヒー達と同様、深遠なる森と同化していた。それは、何よりも得難い鮮烈な幸福である一方、例えば呼吸や睡眠のように、至極当然に実感できる生命の輝きだった。彼の周囲には、いつだって光と温もりがあった。

 ◇

 朽木の株にしばらく腰掛けながら、漫然と周囲を眺め続ける。
 森に変化は無かった。時折、樹冠がそよ風にざわめくばかりで、一羽の鳥も、三頭のあの懐かしい獣が出現することもなかった。その澄んだ静寂の中にいると、まるで今いる世界の時間軸が歪んでいくような気がする。きっと、古墳や古城の中にいてもこんな錯覚が起こるだろう。人間は、過ぎ去った時間には案外敏感な生物である。
 携帯電話が振動した。着信だ。街の宿に残してきた部下からだろう。急に姿をくらました彼を心配しているに違いない。便利な機械だな、と彼は皮肉な笑みを漏らす。こんな場所にまで電波が届くなんて。
 ろくに名前も確認せず着信を切り、電源を落とす。森には再び、沈静の幕が降りた。そのしじまの中にあっては、秋空に浮かぶ穏やかな陽光にさえ、じりじりと地上を焦がす音が含まれている気がしてならない。
 彼は懐から煙草を取り出し、箱を振って飛び出た一本を銜える。しかし、ライターを忘れたことに気付いた。舌打ちして、そしてふと、自分はなぜこんな毒物を吸っているのだろうか、と疑問に思った。銜えていた煙草を指で真っ二つに折る。哀れな一本の煙草は、一片の未練も見せずに草むらへ落ちた。
 彼は折れた煙草を見下ろしながら、束の間、自分が辿って来た足跡をパノラマのように思い返す。
 小学校を卒業する前、父が事故で他界した。それ以来、人が変わったように勉学に励み、脆弱だった幼少期の自分を恥じるかのように、肉体を鍛錬した。成長期に差し掛かって身長も爆発的に伸びた。もう、彼をいじめられる者は一人としていなかった。剣道部主将として学校を全国大会にまで導き、学業では同級生達の頂点に躍り立った。栄光に彩られた学校生活。そして大学を卒業し、当時一流の外資系企業に就き、その後の独立でさらなる成功と莫大な権力を手にした。結婚をし、一昨年には孫にも恵まれた。
 それが彼の人生だった。万人が羨むべき、栄光の道程だった。
 彼は再び森を眺める。
 風の囁き。
 葉の震え。
 陽射しの感触と木々の匂い。
 命の音。
 空気を吸って。
 ひゅう、と鳴る。
 腕を組んで。
 ぐぐ、と軋む
 友人達はいつまで経っても姿を現さない。あたかも最初から存在していなかったかのような、虚無の沈黙が草原にはあった。しかし、彼はその沈黙の残酷さなど全く意に介さず、ただただ、雪原の孤独な猟師が獲物を探すような、静かな目線で森の木立の隙間を見つめるばかりだった。
 そうして彼は、かつてのように森と同化していく。
 
 ◇
 
 静謐な秩序が保たれた森での日々に、ある日、闖入者が現れた。
 草原に横たわり、草を食むラムヒーをぼんやりと眺めていた彼は、ふと聞き慣れない足音が森に踏み込んだのを耳にした。ほとんど同時に、ラムヒー達も垂れた耳をぴんっと張った。首をもたげ、眠そうな楕円形の黒い瞳を樹々の下の薄闇へ向ける。彼の枕になってくれていた一頭も、聞耳を立てたまま微動だにしない。彼も息を潜めるようにして、何者かの足音へ神経を研ぎ澄ました。
 誰だろう、ここは入ってはいけない場所なのに。
 足音はかなり離れた所からやってくる。まだ山の入口付近だろう。そんな遠くにある微細な足音ですら、その時の彼には感知できた。自分自身、その尋常ではない聴力を不思議に感じながら。
 彼は木剣を持って跳ね起きる。ラムヒー達も普段の緩慢な動作からは想像できないほど俊敏に身を起こした。彼がひらりと一頭に跨ると、ラムヒー達は風のように走った。乱雑に連なる木立へ衝突することもなく、俊足の蹄が草根を蹴っていく。
 やがて、数人の男達の姿を遠目に視認した。全員、大人だった。ラムヒー達は脚を止め、梢の暗がりに身を潜める。彼もまた同じように身を隠しながら、じっと大人達を観察した。一人だけ、見知った顔がある。彼が住む村の村長だった。
 大人達は興味深そうに辺りへ視線を這わせながら、獣道を登っていく。他の男達は恰好こそまちまちだったが、山の向こうにある大都会からやって来ているのは一目瞭然だった。垢抜けた雰囲気が証拠だった。会話の中で開発という言葉が頻繁に出てくる。その意味が彼にはわからなかったが、自分達を脅かす存在であるということは本能的に察知していた。
「この森には昔から妖怪が棲んでいると言い伝えられているんです」 村長は不安げな目を男達に向けながら言った。 「祟られるかもしれない」
「ははは、そういう迷信はどこの土地にでもあるもんですよ」 作業着姿の恰幅の良い男が笑い飛ばす。 「しかし、不思議なことに、我々は一度も妖怪なんぞ拝んだことはない」
 都会の男達は無遠慮な足取りでぐんぐんと傾斜を登っていく。まるで、自分達の庭を踏み荒らすかのように平然としていた。ここが自分達の陣地であるのを信じ切っている歩調だった。
 彼は一旦、その場を離れた。ラムヒー達も足音を殺し、部外者達からそっと離れた。
「どうしよう」
 男達の姿が見えなくなってから、彼は途方に暮れて呟く。
 会話の内容こそほとんど理解できなかったが、森が無くなってしまうのだという確かな危機感はあった。工事か何かが始まれば恐らくここに来られなくなる。きっと、ラムヒー達も捕まって、珍獣として見世物にされてしまうだろう。下手をすれば殺されるかもしれない。
 嫌だ。そんなのは絶対嫌だ。
「らむひぃ」と獣達は眠そうに嘶く。その温かい首筋をそっと撫でてやってから、彼は「見つかっちゃ駄目だよ」と解決策も見当たらぬままに忠告する。ラムヒーは頷くようにして一様に頭を垂れた。滑らかな角がわずかな木漏れ日にちらりと煌めいたのが何故だか印象に残っている。
 彼が妙案を思いついたのは家路に着き、学校の図書室で借りたグリム童話の『ブレーメンの音楽隊』の表紙が目に留まった時だった。動物達が団結し、泥棒を怖がらせて追い払うという童話だ。彼はこのお話が好きだった。人間の許から離れた四匹の動物達が実にのびやかで楽しげだからだ。人間を主役にしたものよりも、その手の物語の方が不思議と彼の心を惹きつける。ラムヒー達とのふれあいで、動物に馴染んでいたのかもしれない。
 そうだ、と彼は閃く。
 ――あの大人達を、怖がらせて追い払えばいいんだ。
 まさしく天啓に思えた。昇ってくる興奮を噛み殺しながら、彼は実に子供らしい作戦を立てた。時間はあまり残されていない。思いついたその夜に、家族が全員寝静まったのを見計らって、彼はこっそりと計画に必要な道具を準備した。
 翌朝早く、彼は眠気を引き摺りながらも、学校へ行く振りをして森へ忍び込んだ。当時は村全体が貧しく、時代錯誤に電話線すらも無かったので、無断欠席が両親にばれる心配はなかった。しかし、途中で近所の悪童達や顔見知りの大人に見つかっては困るので、彼は人気の無いあぜ道を駆け、蚊の多い竹藪から苦労して山に入り込んだ。
 ラムヒー達はいつもの広場で呑気に草を食んでいた。ほっと安堵する。耳を澄ましても他に人の気配はない。あの大人達はまだやって来ていない。しかし、急がねば。今日もまたやってくるに違いない。不思議とそんな直感がある。
 彼は木剣の代わりに鉈を背中に担ぎ、丸めた麻縄と網を持ってラムヒーに跨った。彼の意思を汲むようにして、友人達も脚を伸ばして立ち上がる。
 木立の深い場所までやって来ると、彼は木葉と小石を編み目の小さな網に詰め、木に登って麻縄で吊るし上げた。縄の片端を今度は地上にまで引き、別の木の根へ括りつけ、再び木にまで持って行き、複雑に結ぶ。三頭のラムヒーは関心があるのか無いのか、必死に立ち働く少年の姿を茫洋と見つめていた。
 同じ仕掛けを他でも幾つか仕込んだ。罠を張ったポイントまで敵がやってくるのを見計らい、鉈で縄を一本切る。そうすると網が開いて小石と木葉が落ちてくるというものだ。山の妖怪の祟りに見せかけた罠である。これで大人達は祟りを恐れ、怖がって逃げていくに違いない。
 怪奇現象というよりは素朴な悪戯に過ぎない代物ではあったが、幼い彼はどこまでも真剣であり、そして、かけがえのない友人や自分の居場所を守る為に必死だった。完璧な計画だと信じていた。
 最後の仕掛けを仕組んだ時には額に玉のような汗を浮かべていて、それを手の甲で拭った時、再び視察にやってきた大人達の気配を遠くに感じた。
 彼はラムヒーを見回して人差し指を立てる。
「皆、静かにね。鳴いちゃだめだよ。妖怪の仕業だと思わせるんだ。いいね?」
「らむひぃ」と一頭が返事をした。「だめだったら」と言っている間に大人達の笑い声が迫ってきた。彼は慌てて藪の陰に隠れ、ラムヒー達は彼に倣うように傍の岩石の後ろでしゃがみこんだ。
 やってきたのは、やはり昨日と同じ面々だった。村長もいる。背広姿の男が三名ほど増えていた。全員で八人だ。予想より随分多い。
 草根に隠すようにして張っていた縄を切った。仕掛けは期待通り作動し、その下を通り掛かっていた男達に落葉と小石の雨を降らせた。驚く声が上がる。見つかる前に縄を手繰り、網を回収してその場を離れた。
「なんだ!」 作業着姿の男が怒鳴った。 「誰かいるのか!」
「瘤できちゃったかもしれないですよ」
「悪戯か?」
 男達が口々に喋り出す。上を仰いで不可解な表情をしているものの、怯えている気配はまだ微塵もない。
 彼は続けざまに罠を作動させる。二度目では悲鳴が上がった。網のくす玉は樹冠の枝葉に隠れて事前には見つけられないようにしてある。作業着姿の男が丸顔を真っ赤に茹で上げて周囲へ怒鳴った。
「誰だか知らんが、なんのつもりだ! 警察を呼ぶぞ!」
「た、祟りでしょうか」 村長が怯えを含んだ声で言う。
 彼は木陰に隠れながら、その恐怖が周りに伝播していくのを期待した。
 しかし、他の男達は一切取り合わず、散開して森に潜む何者かの捜索に転じてしまった。端から妖怪変化の類を信じていないようだった。彼は焦り、木陰から身を屈めて移動する。移動しながら仕掛けを見つけると、鉈を振るって縄を切った。しかし、くす玉は見当違いの所で小石と枯葉の雨を降らせるばかりである。
「おい、やっぱり悪戯だ! 見ろ、縄があるぞ」 男の声が響いた。どうやら仕掛けの一つが見つかってしまったらしい。
「誰かいやがるんだ、ちくしょう、とっ捕まえてやる」
 屈強な大人達が俄かに殺気立ってくるのを、彼は肌で感じた。
 まずい。叱られるだけでは済まない気がする。
 動転した彼は罠の回収を諦め、竦んだ脚で斜面を駆けのぼる。ラムヒー達を探したが、いつの間に逃げたのか、どこにも見当たらなかった。孤独になって、いよいよ恐怖がせり上がる。彼は中腰をやめてがむしゃらに駆けた。
 左右から伸びる細い枝葉が彼の身体に当たって茂みを揺らす。遠目からも目立ってしまう動きであり、そしてそれは、運悪く男達の目に留まってしまったようだ。
「おい、あそこだ、誰かいるぞ!」
「追いかけろ!」
 作業着と背広の男達が追ってくる。彼は汗を拭う暇も無く、必死に逃げた。逃げながら、あまりの恐怖に泣いてしまった。胃が縮み上がるのを感じる。四肢が痺れ、思うように走れない。大人達の脚は早く、すぐさまがなり声が背後まで迫って来た。
「ガキじゃねぇか!」
「捕まえろ!」
 ぞっとして、彼はひたすら這うように斜面を登る。乾いた大きな手が彼のランニングシャツの後ろ襟を掴んだ瞬間には心臓が止まる思いだった。引っ張られたせいで足が絡まり、転んでしまう。
 振り向くと、大人達の冷酷で憤怒した目が彼を見下ろしていた。唯一顔見知りである年寄りの村長はついてこられなかったのか、その大人達の中にいなかった。彼は生まれて初めてはっきりと絶望を味わった。止まりかけた心臓が早鐘を打っている。
「おいガキ、誰だお前」
「お前がさっきの悪戯をやったのか?」
 あまりに剣呑とした形相に、彼は涙がぼろぼろ零れるのを抑えられなかった。「ごめんなさい」と言ったつもりだったが、唇は凍りついたように動かず、声も喉の奥で消えてしまった。足はがくがく震えて膝立ちすることもかなわない。
「小学生だろう、学校はどうした」
「黙ってねぇで答えろ」 作業着の男が舌打ちする。 「こっちは怪我してんだぞ、クソガキ」
 もはや森の危機も、自らが勇敢な戦士であることも、彼の念頭からは消え去り、ひたすらに萎縮していた。頭は真っ白で後悔も怒りも無く、ただただ怯えきって誰かの助けを待っていた。
 異変が起こったのは、男の粗野な手が彼の肩を掴もうとした時だった。
 伸ばされた手が金縛りにあったかのように宙で固まり、男の目が彼を越した後ろ、落葉と枝木に覆われた緑の斜面の上に奪われていた。困惑して他の男達を見ると、その場にいる大人達全員が同じように固まって、彼の背後を凝視していた。いきり立っていたあの作業着姿の男も同様だった。心を奪われ、石化したかのように立ち尽くしている。
 反射的に彼も振り向こうとしたが、すんでの所で思いとどまった。憤激で赤らんでいた男達の顔から血の気が失せ、渋柿よりも蒼褪めていたからだ。目は見開かれ、驚愕の表情を浮かべている。
「な」 男の一人がか細い声で言った。 「なんだよアレ」
 空気がうっすら冷たくなっているのに、ようやく気付いた。
 首筋にちりちりした摩擦。
 身体中の毛が逆立つ感触。
 風は止み。
 痛いほどの沈黙。
 静まりかけた心臓が、再び速い鼓動を打ち出す。
 まるで、「けして振り向くな」と警告しているかのように。
「ひっ」と先頭の男が身じろぎした。それを合図に、彼を取り囲んでいた大人達が、一斉に叫喚して逃げ出した。
 何が起こっているのかわからず、彼は困惑しながら、呆然と斜面を転げ落ちていく背中を見つめるばかりだった。男達の絶叫は森に木霊する。「バケモノだ」「逃げろ」という悲鳴が、いつまでもいつまでも続いた。
 どれだけ経ったのだろうか。しばらくの間、彼は腰を抜かしたまま動けなかった。辺りからは人気が失せ、深閑とした静寂が覆っている。大人達を撃退したのだとようやく実感した時、腹底から上ってくる恐怖を堪えて、振り向いてみた。
 そこにいたのは、呑気に欠伸をしながら草木を嗅いでいるラムヒー達だった。鼻先をあちこちに向けながら、いつもののんびりした動作で歩み寄り、彼に身体を擦り寄せた。長い茶色の体毛はとても温かい。それに頬が触れた瞬間、彼は再び涙がこみ上げるのを堪えられなかった。
「皆が、やったの?」 彼は目許を擦りながら訊ねる。 「皆が、助けてくれたの?」
「らむひぃ」と一頭が伸びやかに答えた。
 その声はどこまでも長閑で、春の風鳴りのように優しい響きを持っていた。彼は泣きながらラムヒー達の背にしがみついて、木々が開けたあの陽射しの眩しい草原へと戻って行った。
 三頭の獣と小さな勇者の影が、傾きかけた高い陽によって長く伸びている。頭上に垂れる葉の一枚一枚が黄金色に染まり、まるで騎士の凱旋を祝うかのようにさざめいていたのを、今でも鮮明に思い出せる。中世の絵画のように、永遠に色褪せない気高く誇り高い風景だった。

 ◇

 あれからどれほどの月日が経ったのか、彼は再び自問する。
 答えは容易には出ない。それほど長い年月が彼と懐かしい記憶の狭間に横たわっていた。それなのに、なぜこの森の景色は違和感も無く心の空洞に滑りこんでくるのだろう。なぜ自分は、追憶に対してこれほどまでに無抵抗なのだろう。
 陽はだんだんと暮れ始めていた。斜陽は彼の顔に刻まれた皺に深い陰影を映し出す。
 あの後、山に開発工事の手が迫ることはついに無かった。近隣の町村では怪奇の噂が流れ、人は一層ここへ近づかなくなった。あの大人達がその後どうなったのかは知らないし、彼らが何を見たのかも判然としない。情報は何もなかったし、彼の住む貧村へ込み入ったビジネスの話題が流れることなどまずなかった。とにかくあの年から、何度もこの国の経済は変動を見せた。しかし、どんな好況や不況の波も近寄せず、この山と森は今日までこの姿を保っているのは事実だ。それはほとんど奇跡に等しい。
 俺が森から離れたのはいつからだろう。
 当たり前に存在していた場所から離れ、種族は違えど気心の知れた戦友とも言うべき友と袂を分かったのは、いったいいつのことなのだろう。なぜここから離れて行ったのだろう。今ではもう思い出せない。ただ、自分を取り巻く環境が一変し、彼が夢想の世界から現実へ目を向けたことが要因であるのは間違いない。
 何度も競争に勝利してきた。
 社会の上位に躍り出て、栄光の道を歩み続けた。
 充実が無かったといえば嘘になる。
 戦い続けた日々――、それ自体に、後ろめたさはけして無い。
 相応の自尊心や誇りだってある。俺は間違っていない。そう断言できる自信もある。
 でも、たとえば、ネクタイを締める時。
 煙草を灰皿に潰す時。
 自社ビルから都心の街並みを見下ろす時。
 カメラのフラッシュに囲まれ、称賛の声に包まれる時。
 そんな、ささやかな不意の刹那に。
 彼の目は、懐かしい森を、草原に蹲る三頭の獣を夢に見る。
 それを恥じるように。
 弱さだと信じて、振り捨ててきた。
 常に己を研ぎ澄まし、一段でも上を目指した。
 その歩みは頭髪が灰色に染まり、眉間の皺が深く走る今でも止まってはいない。
 俺は。
 もっと。
 勝ち続けなければいけないのだ。
 濃くなった木々の暗がりへ目線を送り続ける。
 自分は何を待っているのだろうか、と可笑しくなる。
 何を期待しているのだ?
 過ぎ去った時間に、とっくに捨てた場所に。
 何を見出そうとしているのだ?
 くだらない。
 馬鹿馬鹿しい。
 感傷に過ぎないのだ、これは。
 根を張っていた腰をようやく上げて、苦笑交じりの溜息を吐いた時、脳裏をよぎったある考えにはっと息を呑む。
 もしかしたら、あの獣達は、自分の空想の産物ではなかったのだろうか。
 孤独が、虚しさが、弱さが、自分の幼い目に映っていただけではないのだろうか。
 あたかもそこに存在しているように。
 殴りたいほど貧弱だった自分自身を、違う姿で見つめていただけなのではないか。
 もちろん、獣達の体毛の温もりや、鼻先のざらざらした感触、額に生える一本角の滑らかさなど記憶に根深く残るものはたくさんある。しかし、すべて幼い頃のあやふやな記憶に過ぎない。それを覚えているのは自分一人だけであり、何の確証もないのだ。むしろ、あれが全て虚偽の記憶と考えたほうが自然な気もする。あの獣達は、どの図鑑にも載っていない、世界的に未知の生物だったのだ。
 彼は腰を下ろしていた朽木を呆然と見下ろす。
 あれがすべて嘘?
「そんなはずはない」という否定的な思いと、妙に嚥下できる思いが混ぜこぜに渦巻いていた。彼は嘲笑とも顔の引きつりともつかない笑みを独り浮かべて、広場を後にする。あの懐かしい友人達はついに姿を見せなかった。

 ◇

 枝葉をすり抜けて歩いている間、森はいよいよ暗くなった。時折、頭上の枝葉の隙間から夕焼けの赤い陽が見えた。帰りを急ぐ焦りはあったが、行きと違って下り斜面なので転ばぬよう慎重に足を運ばねばならなかった。未だ湿り気のある腐葉土は暗黒の底なし沼のように足許へ広がっている。
 ゆっくりと坂を下りながら、彼はまた無意識に淡い少年時代を思い起こす。ほとんどが闇に沈み、枝葉の輝きが一切排除されていても、木々の匂いと手に掛ける乾いた樹幹の感触は否応なしに意識を過去へ喚起させる。
 あの大人達を撃退したのも、すべて嘘だったというのだろうか。湧水で喉を潤し、木の実で腹を膨らませて、勇敢な冒険に駆け回った日々。その隣にいたあの友人達が虚像だというのだろうか。
 考えれば考えるほど、彼の胸中は複雑な渦を巻く。自分の考えを否定しながらも、一方ではその通りならばどれほど良いか、と祈念していた。
 自分は今日、何を得たのだろうか。
 過去から、無力だった己の姿から、鮮烈な至福の日々から、いったい何を見出したのだろう。自分は何を期待してこの森に足を踏み込んだのだ? 部下達からの連絡を断ってまで、見つめようとしたものは何だったのだ?
 彼は短く息を漏らし、懐にある携帯電話を取り出そうとする。きっと着信履歴が何件も折り重なっていることだろう。それを想像してげんなりとする。
 思わず、足を踏みとどめた。
 自分の内側にある何かが騒ぎ立てるのを、はっきりと感じた。
 ぞっとするような。
 あるいは、ほっとするような。
 愕然と目を見張りながら。
 固まっていた足を、ぎこちなく踏み出す。
「なんで……」
 最初に彼の口から出たのはその疑問。
 電話を落としたのにも気付かぬまま、彼は前方にそそり立つ樫の根元に跪く。
 木剣と盾が、そこに立て掛けられていた。
 子供の手によるものだろう、荒々しく削られ、絵の具による不器用な塗装が施された玩具。
 勇敢な騎士の証。
 過去の彼を勇ましく飾り立てた、栄光の武器と防具。
 いつの間にか手放していた、かけがえのない過去の象徴。
 なぜ、ここに?
 彼は震える手で剣と盾を持ち上げる。黒ずみ腐食しているものの、原型を留め、塗装も残っている。その軽さ。かつて背負っていた剣と盾。こんなに軽いものだったのか? しかし、なぜこうも、手に吸いついて離れないのだろう。
 彼は突如開いた傷を塞ぐように、木剣と盾を胸に抱きしめ、そして慌てて周囲を窺った。無人の暗い森の風景だけが辺りに広がっている。
「いるんだろう!」 彼は叫んだ。湧き上がる歓喜と困惑を交互に感じながら。 「出ておいでよ!」
 返ってくるのは冷徹な沈黙ばかりだった。
 いつの間に自分の声がこんなに低くなったのか。
 彼は今さらながらに戸惑った。年月は確かに経っていた。その当たり前の認識が、急に現実味を帯びて彼の胸に去来した。疼きにも似た痛みがやってくる。彼はその痛みと重みに無意識に膝をついて、久しぶりに慟哭した。木剣の柄に涙が滴り落ち、その乾いてささくれた表面に滑らかさを取り戻す。
 誰もいない闇の森に、ある年老いた男の嗚咽がずっと続いた。

 ◇

 結局、彼が山を下りたのはどっぷりと陽が暮れてからだった。時刻を確認すると八時半だ。丸半日間、消息を絶っていたことになる。携帯の電源を立ち上げると、すぐさま部下からの着信が響いた。彼はまず丁重に謝罪し、現在地を伝えて迎えの車を要請した。
 電話を切って街に通じる坂道をひたすら下っていると、途中にコンビニが見えた。無論、彼の幼少期には存在しなかった店である。客もいないその店でライターを買うと、彼はすぐさま煙草に火をつけた。胸がすっと軽くなる。
 そのまま人気の無い道を下っている途中で、迎えの車と遭遇した。中堅の部下が慌てて運転席から下りてきた。社長の背広と靴が泥だらけになっていたからだろう。
「コンビニの店員にも怪訝な目で見られたよ」 彼は穏やかに微笑んでみせた。
 後部座席に乗り込むと暖房機器の空気が懐かしかった。シートの手触りは柔く上等だ。深く背もたれて、ふっと息を吐く。自分が泣いていたことに部下が気付いている様子は無かった。明るい場所に出られたら腫れた目の色合いで気付かれてしまうかもしれない。
「お一人でご視察されるなんて思いませんでした」 ハンドルを握る部下が苦笑交じりで言う。 「仰って下されば、私どももお供しましたのに」
「すまない」
「あの山に、何か思い入れがあるのですか?」
「ああ」 彼はそっと微笑み、車窓に映る黒々とした山の影を眺める。 「思い出の場所だ」
「思い出の?」
「子供の頃、あの森でよく遊んだんだ」
「それは……」 部下は返事に窮してもごもご言う。 「初耳でした。いいのですか? 今度の事業はあの山をまるごと……」
「構わない」 彼は自然と微笑むことができた。 「我々は前進しなくちゃいけない」
 何かを得ることは、同時に何かを捨てることだ。
 結局、木剣も盾もあの場所に捨ててきた。友人達が彼の呼び掛けに応えて姿を現すこともなかった。
 自分は今日、何を得て、何を知ったのだろう、と再び自問する。
 答えはない。少なくとも容易に出る答えでは無さそうだ。
 ただ彼は、今やこの地のどこにも自分の居場所はないのだとはっきり悟った。それは車窓にうっすら映る自分の姿を見ても明白な事実だった。
 窓を開けると夜気が車内に流れ込む。
 車の排気音と、風を切る音が喧しく騒ぎ立つ。
 煙草を銜えた時、その騒音の中で、あの懐かしい、眠たげで長閑な嘶きが聞こえた気がした。

後書き

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作者 まっしぶ
投稿日:2016/02/05 14:27:44
更新日:2016/02/05 14:27:44
『ラムヒー』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
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