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作品ID:570
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約6430文字 読了時間約4分 原稿用紙約9枚
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シャット
作品紹介
黙っているということは、どうしてこうも難しいのか。
※案の定、過去作です。これは確か去年ですね。
SNSについて遠回しに考察した話です。わざわざ書くことではないですね。
実験作(即興作)なので感想希望としますが、批評も喜んで受け付けます。
※案の定、過去作です。これは確か去年ですね。
SNSについて遠回しに考察した話です。わざわざ書くことではないですね。
実験作(即興作)なので感想希望としますが、批評も喜んで受け付けます。
木製のステップを上がってガラスドアの前に立つと、陰気な顔の男と目が合った。僕はしばらくその場に立ち尽くし、こちらへ向けられた虚ろな眼差しと対峙することになった。
太陽は僕の背中越しに射していて、それが正面のガラスドアに反射して眩しかった。晩夏の暮れかけた陽射しは息の絶えかけた昆虫のような足掻きを見せ、この世の全てを焼き尽くす勢いだ。眩しさのあまりに目を細めると、陰気な男も目許を歪めるような顔をした。笑ったのかもしれない。
ドアベルと同時に扉が開いた。思わず後退すると、チョッキを着た老人が僕を睨んでいた。店内から古いシャンソンが漏れてくる。粒子のような埃が舞い上がるのが見えた気がした。
「そこに立たれると邪魔だ」 老人にしては澄んだ声だった。 「入るのか、入らないのか、決めてくれ」
何事かと思ったけれど、どうやら老人は店のマスターらしい。僕は池に戻された魚のように笑顔を取り戻し、無言で会釈してからガラスドアをくぐった。
郊外のドライブインだった。客は僕の他に二人しかいなくて、一人はカウンタの端、もう一人は奥のテーブル席を独占していた。有線放送だと思っていたシャンソンはジュークボックスから流れていて、僕はぼんやりと骨董品じみた音楽機器を眺めた。マスターの趣味なのか、それとも客のどちらかがコインを入れたのか、少しの間だけ考えた。
「何にする?」 カウンターの奥に戻ったマスターが、振り返るなり尋ねる。戻る時、少し脚を引き摺る歩き方をしていた。
「コーク」
短く答えると、老人は灰色の片眉を釣り上げる。
「えっと、コカ・コーラのこと」 肩を竦め、カウンター席の客の皿を見る。サンドウィッチのようだった。 「あとサンドウィッチを一つ」
マスターは無愛想な顔で支度を始める。その態度に少しばかり躊躇したものの、僕はカウンター席に腰掛けた。テーブル席に着いたら睨まれそうな気がしたからだ。それくらいの遠慮は僕にだってある。
煙草を取り出し、火を点ける。アルミ製の灰皿を手許に引き寄せた時、端の席の客がちらりとこちらを見た。短いブルネットの女で、顔の造りはラテン系にも思えた。僕と同じ外国人なのかもしれない。まだ若そうだ。彼女が微笑した気がしたので、僕もやんわりと微笑んでやった。確証はない。射し込む夕陽が彼女の席を包んでおぼろげだったからだ。
冷えたコーク瓶が置かれ、僕は一口飲んだ。その黒い炭酸飲料だけが僕にとって深く馴染んだ存在だった。
「観光ですか?」 端の彼女が声を潜めるように訊いた。自然な発声の英語で、やはり外国人のようだ。
「ええ、まぁ」
曖昧に頷いておいた。彼女は魅力的な外見をしていたけれど、僕はあまり深入りを歓迎できる状況になかった。
「どちらから?」
「アメリカです。ロスから来ました」
彼女のテーブルに置かれたサングラスをぼんやり見つめながら、僕は嘘を吐く。
「そうなんですか。日本か韓国の方かと思いました」
「日系なんです」
「同じですね」
「え、何が?」
「いえ、わたしもアメリカ人なんです。わたしはNYから」
「あぁ、そうですか。へぇ」
彼女はもっと話したそうだったが、僕の許にサンドウィッチが運ばれるのを見ると、微笑を残して口を噤んだ。メンソール系の煙草に火をつけて、持て余した独りの時間を楽しみ始める。
僕はハムと卵のサンドウィッチを齧った。期待の四割ぐらいの味だった。胡椒が効きすぎている。厭味じゃないかと思ったくらいだ。コークのほうがよほど美味い。
背後のドアベルが鳴った。来客を確認したマスターの舌打ちが聞こえる。
「おい、帰れ」 彼は僕の時とは比べ物にならないほど刺々しい声色で言う。
思わず振り返る。端の彼女も、奥のテーブル席の男も振り向いた。
みすぼらしい恰好の老人が立っていた。浅黒い肌に煙草の灰のような髭。ホームレスじゃないかと思わせるほど汚い服を着ている。
彼はマスターにちらりと卑屈な目線を向け、次に僕を見た。まともに目が合う。髭の奥にある顔はとても陰気だった。
「ここに来るなと何度言わせる気だ」 マスターが怒声を上げる。
「お若いの、観光か」 小汚い老人はマスターを無視して僕に話しかける。 「日本人だな?」
僕はびっくりして声を発せなかった。
黙っている僕に彼はがっかりした表情を浮かべ、次に端の席の彼女へ目を移した。彼女も言葉を失っている。動いているものは灰皿の中の煙草の煙だけだった。
「帰れ!」
マスターが怒鳴ると、老人は萎んだ両肩を震わせて数歩下がった。何か言いたそうに口をもごもご動かしていたが、やがてこちらに背中を向けて大人しく出て行った。虚しく鳴るドアベルが老人の言葉を代弁しているかのようだった。
「驚いた」 端の席の女がぽつりと漏らし、僕へ向く。 「妙な人でしたね」
「そうですね」 僕は慎重に頷いた。
しかし、あの手の人種はどこにでもいるものだ。
「しょっちゅう来るんだ」 マスターがむっつりとした口調で言った。そこで気付いたのだが、それが彼の普通の喋り方のようだった。むしろ、老人と口を利かなかった僕達に、僅かな親しみを抱いたような話し方だった。
「そうなんですか」 女が答える。現地の言葉になっていた。
「十年前に街が世界遺産登録されてから、観光客が一気に増えた。奴はその観光客にたかろうとするんだ」
「なるほど」
「気をつけた方がいい」 マスターは憮然とした顔で言った。 「奴は嘘つきで、この国の恥晒しだ」
彼は右脚を引き摺るようにして、奥の戸棚へ歩いていく。もしかしたらその忠告は、彼にとっての一世一代の優しさなのかもしれなかった。
◇
その後、店には十分ほどいた。サンドウィッチをコークで腹に流し込み、煙草二本を灰にしてから席を立った。チップの習慣があるのかどうかわからなかったので、釣りは無用と告げて紙幣一枚をマスターに手渡した。
「これからどちらへ?」 端の彼女が尋ねる。返答次第では手の中のサングラスを掛けて立ち上がりそうな雰囲気だった。
「貴女は?」
「市街のホテルへ戻るつもり」
「あぁ、なら逆ですね」 僕は惜しい表情を繕って答えた。
一瞬だけ、彼女は睨むような目で僕を見たが、残念ながら僕には彼女をベッドに連れ込む予定はない。二人きりの食事もパスだった。彼女には彼女なりの自信があったのかもしれないが、僕にだって僕なりの事情がある。
しかし、わざわざ異国の地まで訪れて、同じ国籍の男に興味を持つというのはどういうことなのだろう。それが普通の心理なのだろうか。結局、馴染んだものがいいということか。僕がコークを頼んだのと同じような理由なのかもしれない。そちらの方が楽ということ。もっとも、僕は彼女に嘘をついていたので、同じ国籍というわけでもないのだが。
ドアベルの音に送られながらガラスドアを開けると、もう夕陽は見えなくなっていて、広い空に濃紺色の夜が滲んでいた。黒い鳥が一羽、北から南へ空を滑っていく。火を点けぬままに煙草を銜えて、僕はなんとなしにそれを見送った。
駐車場に停めたレンタカーへ歩く途中、僕は表の車道の路傍に先程の小汚い老人が蹲っているのに気付いた。丸まって死んだ芋虫のようにも思えたが、当然ながら生きている。しかし、この国の夜は冷えるので、放っておいたら本当に死ぬかもしれない。
僕は老人に歩み寄った。
老人が振り返る。手にウォッカの小瓶を持っていた。
「あんたか」 老人はがらがらの声で言う。溝のような臭いがした。 「日本人だな?」
「煙草、吸うかい?」 僕は箱を振って差し出す。
老人は落ち窪んだ陰気な目を開き、僕を見上げた。
「どうぞ」 僕は友好的に響くよう言った。
「どうも、ありがとう」 老人は日本語で答えて微笑み、一本つまんで口に銜えた。僕はライターで火をつけてやる。
「日本人は皆、優しい」 老人は紫煙を吐きながら呟いた。
「僕は日本人じゃない」 僕は息を漏らす。 「それに皆優しいわけじゃない」
老人は無言で煙を吐き続けた。流れ始めた夜気に煙草の煙が滑っていく。老人の目はその軌跡を追っているかのようだった。何かを思い出すように。
「どちらまで行かれる?」 老人は訊ねる。
「さぁね」 僕は笑う。
「話を聞きたくないか?」 老人は僕を見ずに、笑うこともなく言った。
「誰の?」
「誰でもいいだろう」
僕は銜えたままだった煙草に火をつけた。石段に腰掛ける老人の横に佇み、黙って煙を吐く。喉の奥が少しヒリヒリした。
沈黙を肯定と受け取ったのか、老人はぽつぽつと語り始める。
「もう五十年も昔、その男は、この街の武装蜂起に参加した。数少ない戦闘兵の生き残りだ」 老人は煙草を指に挟み、ウォッカを一口呷った。 「瓦礫の山を這いずって、ナチスどもと戦ったんだ」
突飛な内容に驚いたが、僕は平静を装って聞いていた。
街にはまだ戦争の追憶が色濃く残っていて、老人の話す武装蜂起のモニュメントも、街中の至る所で目にすることができた。シンボル的な建造物だけでなく、おぞましい痕跡もそこかしこで確認できる。悲劇の一言で済ましてしまうにはあまりにも凄惨な歴史……、その象徴の数々が、そこで死んだ者達の息遣いを肌に感じさせるほど、克明な姿で残されていた。
「蜂起が失敗して、軍が壊滅した後には収容所へ送られた。ひどいもんさ。毎日仲間が殺されていく。明日は我が身と男は心底震えていた。いっそ死んだほうが楽になるとも思ったよ」
「でも、死ななかった」
老人が目尻を釣り上げた。怒るかもしれないと僕は身構えた。人は自分の話に水を差されるのを嫌う。それは、歳を経れば経るほど顕著になっていく性質だ。
しかし、老人はにやりと口端を上げた。
「そうさ」 彼は煙を吐きながら頷く。 「あの時、殺されたほうがよかったと思うことが、何度もあるがね」
「なぜ?」
だが、老人は暮れなずんだ空を仰いで、答えない。
その濁った眼が何を見ているのか気になって、僕も空を仰ぐ。でも、そこには何もない。あるのは夜を迎える静かな大気と、霞んだ雲の軌跡。
「誰だって、英雄になりたいだろう?」 老人が皮肉な笑みで言う。
「そうかな」
「そいつがどんな人間だったかを決めるのは、結局のところ、墓標に刻まれる文字ばかりだ」
なんとなく、わかる気がした。
僕は息を漏らして、煙草を口に運ぶ。もう燃え尽きそうだった。
彼が未だに続く生を悔やむのは、一つの完結した物語を欲しているからなのかもしれない。
それは短命であればあるほど濃縮され、鮮烈な光を放ち、美しく語られる。
寒気を呼び起こすほどの美しさ。
でも、美しいことが、すなわち正しいとは限らない。
そんな簡単な方程式で世界は成り立っていないのだ。
そう思えるほどには、僕も相応の歳を食ったらしい。
長く伸びた不毛の道の途上であっても、時折、夕べの蛍のように燐光を放つ瞬間があるかもしれない。それはあまりにも微々たる光であるが、綺麗なことにきっと変わりはない。
蛍か、と口の中で呟く。
随分と懐かしい記憶だ。
「ありがとう」
僕は吸殻を踵で潰し、老人へ煙草の箱を差し出した。老人は少し驚いたように僕を見返す。
「面白い話だった」
「まだ続きがある」
「いや、もう結構。先を急いでいるんだ」 僕は微笑む。 「かつての戦士へ贈るよ」
老人はおずおずと煙草の箱を受け取る。もしかしたら、彼にとっては久しぶりに与えられた慈悲なのかもしれなかった。
「面白い、か」 老人の微笑に沈むような影が滲んだ。
「本望だろう?」
彼が顔を上げたが、その時の僕は言葉を切って、既にレンタカーへ歩き出していた。
ふと視線を感じて店の方へ顔を向けると、マスターがステップに腰を下ろしていた。煙草を銜えたままに僕を睨んでいる。目が合うと、黙って煙を吐き、ちらりと老人を一瞥してから、再び僕を見た。
「奴は嘘つきだ」 ぎりぎりで僕に届くくらいの声量で言った。
「知ってるよ」 僕は頷く。 「さっき、教えてくれたじゃないか」
「恥晒しだ」
「それも知ってる」
マスターはにこりともせずに目を逸らした。片手で右脚をさすっている。痛むのだろうか。
僕は目礼し、運転席へ体を滑り込ませた。今朝手配したこのレンタカーは新車のようで、まだ汗を吸っていないシートが相変わらず快い感触だった。セルを回し、ベルトを締めてから、ゆっくりとハンドルを切って車道へ進む。
ちらりと左を見る。
マスターがまだこちらを見ている。その後ろのガラスドアを越して、カウンターの端の彼女がこちらを見ているのがわかった。今はサングラスを掛けている。彼女は今晩、どんな男と寝るのだろうか、と少しだけ気になった。
右手を見ると、腰掛けていた老人が既に立ち上がっていて、僕をまっすぐに見つめていた。煙草の箱を掲げ、それからきっちりとした動作でお辞儀をした。僕は思わず笑ってしまう。本当に僕のことを日本人だと思っているのかもしれない。
郊外の道路は、地の果てを目指すかのような直線だ。車道の両脇には一面の黒々とした野原。もしかしたら畑かもしれない。遠くに小屋がぽつぽつと現れるが、陽を失くした地表に並ぶ影はまるで墓標のようだった。
もしかしたら、と僕は考える。
あの無愛想なマスターこそが、老人の話していた英雄だったのではないか。
本当に瓦礫の山を這い、銃を手にして戦ったのは、彼だったのではないか。
二人の歳は近いし、マスターがあの老人に示す憤怒は、何か一個人の私情を遥かに超える背景から生み出されているように僕には思えた。まるで大勢の仲間の仇を見るような……、そう思うと、マスターが引き摺る右脚に、街のモニュメントに抱いたのと同じ奇妙な感慨を覚えた。
雄弁な嘘つきと、寡黙な英雄。
もちろん、根拠のない憶測に過ぎない。
あまりに突飛な話だ。
意味なんかない。
ダッシュボードから新しい煙草を取り出し、一本銜える。
僕の墓碑にはどんな文字が並ぶだろうか。
ちらりと考えたが、浮かぶのは苦笑ばかり。墓の下で眠れるかどうかもわからないのだから想像もできない。でも、きっと、名前と、生年と、没年。それくらいだろう。それだけで充分、上等だ。
火を点ける。
一瞬、すべてがオレンジ色に照らされる。
バックミラーを覗くと、陰気な顔の男と目が合った。煙草を銜えている。何が可笑しいのか、笑っているような表情だった。僕がどこの何者で、どこに向かうのか、どうでもいい。そんな目をしていた。僕だって、誰にもそれを語る気なんてない。自分の墓石にだって刻まないだろう。
しかし。
黙っているということは、どうしてこうも難しいのだろうか。
なぜ話さずにはいられなくなるのだろうか。
時々、考える。
でも、何となく答えはわかっていた。
それはきっと、誰にも、自分の墓標を見ることができないからに違いない。
だから、語って聞かせてやりたくなる。
たとえ嘘でも、誰かに墓碑銘を刻んで欲しくなるのだろう。
窓を少し開ける。涼しい風が入り込んだ。
フロントガラスの上方には瞬き始めた星。
その光点を眺めていると、異国のアスファルト道路の先に、懐かしい蛍の燐光が見える気がした。
太陽は僕の背中越しに射していて、それが正面のガラスドアに反射して眩しかった。晩夏の暮れかけた陽射しは息の絶えかけた昆虫のような足掻きを見せ、この世の全てを焼き尽くす勢いだ。眩しさのあまりに目を細めると、陰気な男も目許を歪めるような顔をした。笑ったのかもしれない。
ドアベルと同時に扉が開いた。思わず後退すると、チョッキを着た老人が僕を睨んでいた。店内から古いシャンソンが漏れてくる。粒子のような埃が舞い上がるのが見えた気がした。
「そこに立たれると邪魔だ」 老人にしては澄んだ声だった。 「入るのか、入らないのか、決めてくれ」
何事かと思ったけれど、どうやら老人は店のマスターらしい。僕は池に戻された魚のように笑顔を取り戻し、無言で会釈してからガラスドアをくぐった。
郊外のドライブインだった。客は僕の他に二人しかいなくて、一人はカウンタの端、もう一人は奥のテーブル席を独占していた。有線放送だと思っていたシャンソンはジュークボックスから流れていて、僕はぼんやりと骨董品じみた音楽機器を眺めた。マスターの趣味なのか、それとも客のどちらかがコインを入れたのか、少しの間だけ考えた。
「何にする?」 カウンターの奥に戻ったマスターが、振り返るなり尋ねる。戻る時、少し脚を引き摺る歩き方をしていた。
「コーク」
短く答えると、老人は灰色の片眉を釣り上げる。
「えっと、コカ・コーラのこと」 肩を竦め、カウンター席の客の皿を見る。サンドウィッチのようだった。 「あとサンドウィッチを一つ」
マスターは無愛想な顔で支度を始める。その態度に少しばかり躊躇したものの、僕はカウンター席に腰掛けた。テーブル席に着いたら睨まれそうな気がしたからだ。それくらいの遠慮は僕にだってある。
煙草を取り出し、火を点ける。アルミ製の灰皿を手許に引き寄せた時、端の席の客がちらりとこちらを見た。短いブルネットの女で、顔の造りはラテン系にも思えた。僕と同じ外国人なのかもしれない。まだ若そうだ。彼女が微笑した気がしたので、僕もやんわりと微笑んでやった。確証はない。射し込む夕陽が彼女の席を包んでおぼろげだったからだ。
冷えたコーク瓶が置かれ、僕は一口飲んだ。その黒い炭酸飲料だけが僕にとって深く馴染んだ存在だった。
「観光ですか?」 端の彼女が声を潜めるように訊いた。自然な発声の英語で、やはり外国人のようだ。
「ええ、まぁ」
曖昧に頷いておいた。彼女は魅力的な外見をしていたけれど、僕はあまり深入りを歓迎できる状況になかった。
「どちらから?」
「アメリカです。ロスから来ました」
彼女のテーブルに置かれたサングラスをぼんやり見つめながら、僕は嘘を吐く。
「そうなんですか。日本か韓国の方かと思いました」
「日系なんです」
「同じですね」
「え、何が?」
「いえ、わたしもアメリカ人なんです。わたしはNYから」
「あぁ、そうですか。へぇ」
彼女はもっと話したそうだったが、僕の許にサンドウィッチが運ばれるのを見ると、微笑を残して口を噤んだ。メンソール系の煙草に火をつけて、持て余した独りの時間を楽しみ始める。
僕はハムと卵のサンドウィッチを齧った。期待の四割ぐらいの味だった。胡椒が効きすぎている。厭味じゃないかと思ったくらいだ。コークのほうがよほど美味い。
背後のドアベルが鳴った。来客を確認したマスターの舌打ちが聞こえる。
「おい、帰れ」 彼は僕の時とは比べ物にならないほど刺々しい声色で言う。
思わず振り返る。端の彼女も、奥のテーブル席の男も振り向いた。
みすぼらしい恰好の老人が立っていた。浅黒い肌に煙草の灰のような髭。ホームレスじゃないかと思わせるほど汚い服を着ている。
彼はマスターにちらりと卑屈な目線を向け、次に僕を見た。まともに目が合う。髭の奥にある顔はとても陰気だった。
「ここに来るなと何度言わせる気だ」 マスターが怒声を上げる。
「お若いの、観光か」 小汚い老人はマスターを無視して僕に話しかける。 「日本人だな?」
僕はびっくりして声を発せなかった。
黙っている僕に彼はがっかりした表情を浮かべ、次に端の席の彼女へ目を移した。彼女も言葉を失っている。動いているものは灰皿の中の煙草の煙だけだった。
「帰れ!」
マスターが怒鳴ると、老人は萎んだ両肩を震わせて数歩下がった。何か言いたそうに口をもごもご動かしていたが、やがてこちらに背中を向けて大人しく出て行った。虚しく鳴るドアベルが老人の言葉を代弁しているかのようだった。
「驚いた」 端の席の女がぽつりと漏らし、僕へ向く。 「妙な人でしたね」
「そうですね」 僕は慎重に頷いた。
しかし、あの手の人種はどこにでもいるものだ。
「しょっちゅう来るんだ」 マスターがむっつりとした口調で言った。そこで気付いたのだが、それが彼の普通の喋り方のようだった。むしろ、老人と口を利かなかった僕達に、僅かな親しみを抱いたような話し方だった。
「そうなんですか」 女が答える。現地の言葉になっていた。
「十年前に街が世界遺産登録されてから、観光客が一気に増えた。奴はその観光客にたかろうとするんだ」
「なるほど」
「気をつけた方がいい」 マスターは憮然とした顔で言った。 「奴は嘘つきで、この国の恥晒しだ」
彼は右脚を引き摺るようにして、奥の戸棚へ歩いていく。もしかしたらその忠告は、彼にとっての一世一代の優しさなのかもしれなかった。
◇
その後、店には十分ほどいた。サンドウィッチをコークで腹に流し込み、煙草二本を灰にしてから席を立った。チップの習慣があるのかどうかわからなかったので、釣りは無用と告げて紙幣一枚をマスターに手渡した。
「これからどちらへ?」 端の彼女が尋ねる。返答次第では手の中のサングラスを掛けて立ち上がりそうな雰囲気だった。
「貴女は?」
「市街のホテルへ戻るつもり」
「あぁ、なら逆ですね」 僕は惜しい表情を繕って答えた。
一瞬だけ、彼女は睨むような目で僕を見たが、残念ながら僕には彼女をベッドに連れ込む予定はない。二人きりの食事もパスだった。彼女には彼女なりの自信があったのかもしれないが、僕にだって僕なりの事情がある。
しかし、わざわざ異国の地まで訪れて、同じ国籍の男に興味を持つというのはどういうことなのだろう。それが普通の心理なのだろうか。結局、馴染んだものがいいということか。僕がコークを頼んだのと同じような理由なのかもしれない。そちらの方が楽ということ。もっとも、僕は彼女に嘘をついていたので、同じ国籍というわけでもないのだが。
ドアベルの音に送られながらガラスドアを開けると、もう夕陽は見えなくなっていて、広い空に濃紺色の夜が滲んでいた。黒い鳥が一羽、北から南へ空を滑っていく。火を点けぬままに煙草を銜えて、僕はなんとなしにそれを見送った。
駐車場に停めたレンタカーへ歩く途中、僕は表の車道の路傍に先程の小汚い老人が蹲っているのに気付いた。丸まって死んだ芋虫のようにも思えたが、当然ながら生きている。しかし、この国の夜は冷えるので、放っておいたら本当に死ぬかもしれない。
僕は老人に歩み寄った。
老人が振り返る。手にウォッカの小瓶を持っていた。
「あんたか」 老人はがらがらの声で言う。溝のような臭いがした。 「日本人だな?」
「煙草、吸うかい?」 僕は箱を振って差し出す。
老人は落ち窪んだ陰気な目を開き、僕を見上げた。
「どうぞ」 僕は友好的に響くよう言った。
「どうも、ありがとう」 老人は日本語で答えて微笑み、一本つまんで口に銜えた。僕はライターで火をつけてやる。
「日本人は皆、優しい」 老人は紫煙を吐きながら呟いた。
「僕は日本人じゃない」 僕は息を漏らす。 「それに皆優しいわけじゃない」
老人は無言で煙を吐き続けた。流れ始めた夜気に煙草の煙が滑っていく。老人の目はその軌跡を追っているかのようだった。何かを思い出すように。
「どちらまで行かれる?」 老人は訊ねる。
「さぁね」 僕は笑う。
「話を聞きたくないか?」 老人は僕を見ずに、笑うこともなく言った。
「誰の?」
「誰でもいいだろう」
僕は銜えたままだった煙草に火をつけた。石段に腰掛ける老人の横に佇み、黙って煙を吐く。喉の奥が少しヒリヒリした。
沈黙を肯定と受け取ったのか、老人はぽつぽつと語り始める。
「もう五十年も昔、その男は、この街の武装蜂起に参加した。数少ない戦闘兵の生き残りだ」 老人は煙草を指に挟み、ウォッカを一口呷った。 「瓦礫の山を這いずって、ナチスどもと戦ったんだ」
突飛な内容に驚いたが、僕は平静を装って聞いていた。
街にはまだ戦争の追憶が色濃く残っていて、老人の話す武装蜂起のモニュメントも、街中の至る所で目にすることができた。シンボル的な建造物だけでなく、おぞましい痕跡もそこかしこで確認できる。悲劇の一言で済ましてしまうにはあまりにも凄惨な歴史……、その象徴の数々が、そこで死んだ者達の息遣いを肌に感じさせるほど、克明な姿で残されていた。
「蜂起が失敗して、軍が壊滅した後には収容所へ送られた。ひどいもんさ。毎日仲間が殺されていく。明日は我が身と男は心底震えていた。いっそ死んだほうが楽になるとも思ったよ」
「でも、死ななかった」
老人が目尻を釣り上げた。怒るかもしれないと僕は身構えた。人は自分の話に水を差されるのを嫌う。それは、歳を経れば経るほど顕著になっていく性質だ。
しかし、老人はにやりと口端を上げた。
「そうさ」 彼は煙を吐きながら頷く。 「あの時、殺されたほうがよかったと思うことが、何度もあるがね」
「なぜ?」
だが、老人は暮れなずんだ空を仰いで、答えない。
その濁った眼が何を見ているのか気になって、僕も空を仰ぐ。でも、そこには何もない。あるのは夜を迎える静かな大気と、霞んだ雲の軌跡。
「誰だって、英雄になりたいだろう?」 老人が皮肉な笑みで言う。
「そうかな」
「そいつがどんな人間だったかを決めるのは、結局のところ、墓標に刻まれる文字ばかりだ」
なんとなく、わかる気がした。
僕は息を漏らして、煙草を口に運ぶ。もう燃え尽きそうだった。
彼が未だに続く生を悔やむのは、一つの完結した物語を欲しているからなのかもしれない。
それは短命であればあるほど濃縮され、鮮烈な光を放ち、美しく語られる。
寒気を呼び起こすほどの美しさ。
でも、美しいことが、すなわち正しいとは限らない。
そんな簡単な方程式で世界は成り立っていないのだ。
そう思えるほどには、僕も相応の歳を食ったらしい。
長く伸びた不毛の道の途上であっても、時折、夕べの蛍のように燐光を放つ瞬間があるかもしれない。それはあまりにも微々たる光であるが、綺麗なことにきっと変わりはない。
蛍か、と口の中で呟く。
随分と懐かしい記憶だ。
「ありがとう」
僕は吸殻を踵で潰し、老人へ煙草の箱を差し出した。老人は少し驚いたように僕を見返す。
「面白い話だった」
「まだ続きがある」
「いや、もう結構。先を急いでいるんだ」 僕は微笑む。 「かつての戦士へ贈るよ」
老人はおずおずと煙草の箱を受け取る。もしかしたら、彼にとっては久しぶりに与えられた慈悲なのかもしれなかった。
「面白い、か」 老人の微笑に沈むような影が滲んだ。
「本望だろう?」
彼が顔を上げたが、その時の僕は言葉を切って、既にレンタカーへ歩き出していた。
ふと視線を感じて店の方へ顔を向けると、マスターがステップに腰を下ろしていた。煙草を銜えたままに僕を睨んでいる。目が合うと、黙って煙を吐き、ちらりと老人を一瞥してから、再び僕を見た。
「奴は嘘つきだ」 ぎりぎりで僕に届くくらいの声量で言った。
「知ってるよ」 僕は頷く。 「さっき、教えてくれたじゃないか」
「恥晒しだ」
「それも知ってる」
マスターはにこりともせずに目を逸らした。片手で右脚をさすっている。痛むのだろうか。
僕は目礼し、運転席へ体を滑り込ませた。今朝手配したこのレンタカーは新車のようで、まだ汗を吸っていないシートが相変わらず快い感触だった。セルを回し、ベルトを締めてから、ゆっくりとハンドルを切って車道へ進む。
ちらりと左を見る。
マスターがまだこちらを見ている。その後ろのガラスドアを越して、カウンターの端の彼女がこちらを見ているのがわかった。今はサングラスを掛けている。彼女は今晩、どんな男と寝るのだろうか、と少しだけ気になった。
右手を見ると、腰掛けていた老人が既に立ち上がっていて、僕をまっすぐに見つめていた。煙草の箱を掲げ、それからきっちりとした動作でお辞儀をした。僕は思わず笑ってしまう。本当に僕のことを日本人だと思っているのかもしれない。
郊外の道路は、地の果てを目指すかのような直線だ。車道の両脇には一面の黒々とした野原。もしかしたら畑かもしれない。遠くに小屋がぽつぽつと現れるが、陽を失くした地表に並ぶ影はまるで墓標のようだった。
もしかしたら、と僕は考える。
あの無愛想なマスターこそが、老人の話していた英雄だったのではないか。
本当に瓦礫の山を這い、銃を手にして戦ったのは、彼だったのではないか。
二人の歳は近いし、マスターがあの老人に示す憤怒は、何か一個人の私情を遥かに超える背景から生み出されているように僕には思えた。まるで大勢の仲間の仇を見るような……、そう思うと、マスターが引き摺る右脚に、街のモニュメントに抱いたのと同じ奇妙な感慨を覚えた。
雄弁な嘘つきと、寡黙な英雄。
もちろん、根拠のない憶測に過ぎない。
あまりに突飛な話だ。
意味なんかない。
ダッシュボードから新しい煙草を取り出し、一本銜える。
僕の墓碑にはどんな文字が並ぶだろうか。
ちらりと考えたが、浮かぶのは苦笑ばかり。墓の下で眠れるかどうかもわからないのだから想像もできない。でも、きっと、名前と、生年と、没年。それくらいだろう。それだけで充分、上等だ。
火を点ける。
一瞬、すべてがオレンジ色に照らされる。
バックミラーを覗くと、陰気な顔の男と目が合った。煙草を銜えている。何が可笑しいのか、笑っているような表情だった。僕がどこの何者で、どこに向かうのか、どうでもいい。そんな目をしていた。僕だって、誰にもそれを語る気なんてない。自分の墓石にだって刻まないだろう。
しかし。
黙っているということは、どうしてこうも難しいのだろうか。
なぜ話さずにはいられなくなるのだろうか。
時々、考える。
でも、何となく答えはわかっていた。
それはきっと、誰にも、自分の墓標を見ることができないからに違いない。
だから、語って聞かせてやりたくなる。
たとえ嘘でも、誰かに墓碑銘を刻んで欲しくなるのだろう。
窓を少し開ける。涼しい風が入り込んだ。
フロントガラスの上方には瞬き始めた星。
その光点を眺めていると、異国のアスファルト道路の先に、懐かしい蛍の燐光が見える気がした。
後書き
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