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作品ID:571
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約11824文字 読了時間約6分 原稿用紙約15枚
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ココロココニハナイ
作品紹介
起きなくては。
原曲・ゆらゆら帝国『ロボットでした』
※半年ほど前に即興で書いたものです。
めちゃくちゃ淡々とした風景を書いてみたくてやりました。
即興なので感想希望としていますが、批評も喜んで受け付けます。
原曲・ゆらゆら帝国『ロボットでした』
※半年ほど前に即興で書いたものです。
めちゃくちゃ淡々とした風景を書いてみたくてやりました。
即興なので感想希望としていますが、批評も喜んで受け付けます。
起きなくては。
僕は目を開ける。目覚ましは必要ない。決まった時刻に僕は目を覚ます。
部屋の様子は昨日から変わっていない。半開きのカーテン、綺麗に畳まれた服、シーツの皺の寄り具合、消臭された部屋の空気。
ベッドから脚を下ろす。裸足にひんやりしたフローリングの感触。僕は靴下を履かない。起きている時も寝ている時も靴下を履かない。立ち上がると、重力というものを感じる。だけど、それは不思議と寝ている時ほど支配的ではない。
彼女はいなかった。いたら起こさなくてはいけなかったけど、その必要はなくなったわけだ。玄関には僕の靴と、彼女の運動靴。無くなったのは彼女の革靴だけだった。
服を着ていなかった。どうりで肌がひんやりするわけだ。干されたままのシャツを一枚被ってズボンを履く。外に行く予定はなかったけど、無意識のうちに着ていたということは、外に出たいと僕が思っているのだろう。そうであれば、今日は外出にはうってつけの日ということだ。少なくとも、僕にとっては。
洗面所。鏡の前で舌を出してみる。ちょっと薄い赤色だ。健康的だといわれたけど、赤色って不健康な印象がする。青色や緑色の方が爽やかで和やかで健康的だと思うし、でも、一番綺麗なのはやっぱり透明色だ。色が付いているものは結局、どこかに変調をきたしている証なのだろう。
顔を洗って洗面所を出ると、満タンのゴミ袋が二つ転がっている。彼女が出し忘れたのだ。僕はゴミ袋を両手に掴んで外に出る。きっと出してあげた方が喜ぶ。
晴れているのに、外は涼しかった。秋になったのかもしれない。気候って不思議だ。約束したわけでもないのに毎年ちゃんと戻ってくる。暑くなりすぎるということがないし、寒すぎるということにもならない。おかしな話だ、いったい、誰がコントロールしているのだろう?
ゴミを出し終えると、大家さんと会った。
「おはようございます」
「おはよう。今朝は早いのね」
「いつもこの時間には起きています」
アパートの前を列を作った子供達が歩いていた。ランドセルを背負っているということは小学生。彼女にそう教えてもらった。銃を構えていたら少年兵で、空を飛んでいたらネバーランドの子供達だとも教えてもらったけど、そんな子供達を僕はまだ見たことがない。
「あなた、お仕事はしないの?」大家さんが訊く。
「もうしています」僕は空になった両手を見せる。「ゴミを、出しました」
大家さんは目を丸くしてから「じゃあね」とどこかへ行ってしまう。大家さんの仕事は何だろうと思う。
部屋に戻って、冷蔵庫を確認した。本当はあまりお腹が空いていないのだけど、この時間になったらご飯を食べるように言われているのだ。彼女が食べるものを僕も食べる。冷蔵庫にはそれがある。彼女がいつも食べるフルーチェがある。
スプーンでフルーチェを食べながら、汚れていく歯を意識する。さっき磨いたばかりなのに、もうヨーグルトでめちゃめちゃになってしまった。せめてヨーグルトだけなら飲み込むだけで済むのだけど、フルーツも入っているから噛まなくてはいけない。億劫なことだ。全世界の食べ物が全てヨーグルトになればいいのに。そうすれば歯が折れる心配もないし、歯がなくても物を食べて生きていけるようになるのに。
食べ終わってから、僕は財布を持って外に出る。中身は昨夜に確認した二十五万円から変わっていない。彼女に渡されたお金だ。毎月五万円ずつ渡されるのだけど、使い道もないから何となく溜まってしまった。
たまには買い物をしようと思う。使わなきゃ悪い気もした。使って欲しくて渡したものなのだ。何か買い物をすれば、彼女も喜ぶかもしれない。
二十五万円で何が買えるかな。
自動車や飛行機や潜水艦が思い浮かんだけど、きっと買えないだろう。それから、乗り物ばかり想像した自分がちょっと意外だった。もしかして僕はどこかに行きたいと思っているのだろうか。ここではないどこかへ乗せて行ってくれる、魔法のような代物に憧れているのだろうか。だとすれば、今日はここではないどこかへ行くのに絶好な日ということだ。
でも、自動車が買えないので、妥協してバスに乗った。乗車賃はいくらかと運転手に尋ねたら、それは降りる停留所によって変わるらしい。そこで、僕はどの停留所に降りるか考えなくてはいけなかった。どこかへ行きたいと考えただけで、行きたい場所なんて特に思いつかなかったのだ。
なので、他の乗客を観察して、降車するお客が一番多いところで降りた。僕はお金を払おうとしたけど、運転手は横目で僕をじっと見て、それから僕が身に着けているものを見て、あんたは払わなくていい、と言った。不思議だけど、それは時々、彼女と一緒に街へ出ると起こることだった。レストランのお金も払わなくてよかったことがある。他の人は払っているのに、どうして僕だけ払わなくていいのだろう。いや、どうして払わせてくれないのかという方が近い。
バスから降りて、辺りを見回してみた。電車の駅の近くで、なかなか騒がしい場所だった。初めて来た場所に思えたけど、よく眺めてみると、そういえばだいぶ前に彼女と彼女の両親に連れられてやってきた場所だと気付いた。歩道の眺めも、近くに建つショッピングモールの外観も変わっていなかった。
なんとなしに歩き出す。二十五万円の使い道を考えていた。いったい、何を買えば二十五万円に値するだろう。あまり大きすぎるものは駄目だ。持って帰れなくなるし、アパートの部屋では邪魔にもなるだろう。食べ物を買えばいいかと閃いたけれど、お腹もあまり空いていない。二十五万円ともなると象の食事みたいな量になるかもしれない。どうしたものか。
とぼとぼ歩いて行くと、やがて道沿いに不思議な建物が見えてきた。サーカスかと思ったけど、どうやら違う。しかし、まるでテントのように緑色のネットを広々と張って、天蓋はビルのように高い位置にある。そのテントの端っこに平たい小屋のような建物があるのだ。
かぁん、と甲高い音が響いた。どきっとして目を向けると、そのネットの中を白い球が飛んでいくのが見えた。それはやがてネットの壁に当たり、力を失って落ちていった。よく見れば、小屋の反対には機械が並んでいて、そこから今飛んでいった球が物凄い速度で放たれているのだった。
僕は興味を覚えて小屋へ入る。かぁん、と小気味の良い音がますます響いた。
何かのお店らしい。カウンターの向こうに男が座っていて、ちらと僕に目を向けてから、興味が無さそうに手許の新聞へ視線を落とした。その男以外に人はいない。しかし、小屋の奥にはもう一つドアがあって、その向こうには誰かがいるようだった。煙草の匂いがする。彼女は嫌がるが、僕は煙草の匂いはそれほど嫌いではない。
小屋の壁際にはポスターや棒が並んでいて、それらが示すスポーツをようやく僕は思い出した。そうか、野球だ。あの棒はバットで、あのポスターは野球チームの写真なんだ。
「ここは野球屋さんですか?」
「は?」カウンターの男が顔を上げる。
「ここは何屋さんですか?」僕は質問を変える。
「バッティングセンター」短く答えてから、彼は怪しそうに僕を見た。「おたくは?」
「おたくってなんですか?」
「いや、つまり、あんたってこと。あんた、あなた、お前、君、ユー。そういう意味」
「客です」
「あ、そう。お姉さん、バッティングやるの? それともゲーム?」
思わず振り返るけど、僕以外には誰もいない。
「あ、すまん、もしかして男か? 悪いね」
「何がですか?」
「いや……、まぁ、いいや、どっちでも」彼は立ち上がって、カウンターの脇にある箱型の機械を指した。「そこにお金入れて。そしたらメダルが出てくるから、メダル持ってあっちに行って。で、あっちにある機械にメダルを入れたら、ボール飛んでくるから、バットで打ち返して」
「わかりました」
「なんなんだよ、あんた」男が吹き出した。よくわからないけど、何か愉快なことがあったらしい。
取り出した一万円札を機械のスリットへ投入すると、びっくりするほどの量のメダルが出てきた。慌てて手で受け止めるけど、すぐに溢れてしまって床に零れてしまった。
「この機械、壊れています。メダルが止まりません」
「一万円突っ込む奴、初めて見たよ」
男は笑って、床にばらまかれたメダルを拾ってくれた。大きな紙のコップを取ってきて、それにメダルを入れてくれた。
「ありがとうございます」僕は微笑んで頭を下げる。「えっと……」
「何?」
「お名前は何とおっしゃるのですか?」
「あ? なんで?」
「いえ、お礼が言いたいので」
「今、言ったじゃん」
「お名前を伺うのが礼儀だと教えられました」
「変な奴」男は笑う。「俺はミタニ」
「ありがとうございます、ミタニさん」
それから、僕もミタニさんに名乗った。相手の名前を聞いたら自分も名乗るのが礼儀だと彼女に教えられたからだ。
でも、僕が名乗るとミタニさんはしばらく答えなかった。眼鏡の奥の目を見開いてまじまじと僕を見つめていた。もう笑っていない。強張った表情だった。
あぁ、嫌だな、と僕は思った。
さっきの運転手もこうだった。僕の名前は何かしらの作用を発生させる響きなのだ。名乗る前からこうなることは予想していたけれど、礼儀を軽んじるわけにいかないから、結局避けることはできなかった。
「驚いたな」ミタニさんは狼狽した顔で頭を掻いた。
「何にですか?」
「いや、まぁ……」彼は僕を見ずに口端を上げた。「しかし、うん、バッターボックスに立てば皆平等だからな、うん」
よくわからなかったけど、平等という響きに引っ掛かりを感じた。だけど、それは言わないでおく。
僕はずっしりしたコップを持って、奥の扉を開ける。広々とした空間で、外から見えたネットの内側がそこだった。網で仕切られたスペースが横一列に並んでいて、バットを握った人が疎らに立っている。ごうんごうんと唸る機械が向こう側に並んでいて、細い射出口から白球が物凄いスピードで吐き出される。
それを打ち返す音。
金属が鳴らす打撃音。
そして、虚空へ伸びていく球の軌道。
僕はそれを眺め、自分の鼓動が速くなっているのに気付いた。どうしたのだろう。何に対して興奮しているのか。自分の命を脅かす者などここにはいないのに。
金網のドアをくぐり、箱型の投入口にメダルを入れた。それから、無造作に置かれたバットを眺めて、さてどれにしようかと悩んでいる間にボールが飛んできた。合図もなく始まるのに驚いた。
慌ててバットを掴み、隣のボックスに立つお爺さんを真似てバットを振り抜く。でも、球には当たらず、力み過ぎて体が回転してしまった。次こそはとさらに力むのだが、バットの先には何の手応えも生まれなかった。
そんな調子で僕は二十五球全て空振った。
くすくす笑う声が聞こえた。振り向くと、二つ隣のボックスで頭の丸い少年がいる。ボックスの外にも二人いて、皆同じような恰好と頭をしていた。僕が観ると、慌てて笑みを引っ込めて目を逸らす。
「あんた、そんなんじゃ駄目だよ」
今度は逆側からしわがれた声。そちらに向くと、さっきまで僕が見様見真似していたお爺さんだった。彼はバットを杖のようにして、ボックスを隔てる金網越しに話しかけていた。
「全然なっていない。打つ気がないんじゃないか?」
「打つ気はあります」僕は言う。打つ気がなかったらバットも持っていない。
しかし、お爺さんは首を振った。
「あんたのは当たればいいというやり方だ。よく見てろ」
そう言うと、お爺さんは新しいメダルを機械に入れる。実演してくれるらしい。どうしてそんなことをしてくれるのか、いまひとつ意図がわからなかったけど、親切だとは思ったので僕は目に力を込めて観察した。
飛んできた球を、お爺さんは重そうなバットを軽々と振って打ち返す。鳴り響く音にまで感触があった。振り抜かれるバットはとても速く、打たれた球はぐんぐんと速度を上げてネットの彼方へ上昇していった。次の打球は、鋭く地を裂くような軌道で、打ち上げられた球よりも速く地表を駆けていく。最後にそれは投球機を囲うフェンスにぶつかった。
僕はお爺さんのフォームを眺め、自分の体もそれに合わせて動かす。でも、振り抜くバットは鄙びた草のように貧弱な気がした。いったい、どこがどう違うのだろう?
お爺さんは二十五球全てを打ち返した。ある時は高く弧を描き、ある時は弾丸のように鋭く撃つ打球だった。僕は自分の機械にメダルを入れて、もう一度挑戦してみた。
「腕だけで振るな」とお爺さんは言う。
腕だけで、とは言うが、振るのは腕でしかできないのではないだろか。
その後もお爺さんは網越しに僕を指導した。「目を瞑るな。ボールを見ろ」、「腰をふらつかせるな」、「バットに振られてる、脇を閉めろ」などとアドバイスをしてくる。僕はちょっとうるさく思ったけど、お爺さんの言う通りにやって、一球だけバットが球に掠る感触が起こってびっくりした。
「当たりました」
「掠っただけだ。それじゃ実戦ではストライク扱いだよ」
実戦ってなんだろう。ちょっと可笑しかった。
お爺さんは時々自分もバットを振ったけど、疲れやすいのか、額に汗を浮かべ始めた。それでも口は休まなかったけれど、ついに「おい、小僧ども」と助っ人を呼んだ。誰のことかと思ったら、さっき僕を見てくすくすしていた少年達だった。
「こいつのフォームを見てやれ」
何かこのお爺さんと上下関係があるのだろう、頭の丸い少年達はしぶしぶといった調子で頷いた。
「違う、違う、こう、脇を閉めるの」
「こっちの脚に重心を置いて……」
「耳の横から背中に向かって振り抜く感じ」
参ったな、と思う。早く次をやりたいのに、少年達に囲まれてずっと素振りをさせられた。でも、僕の腕を取って指導する子の顔がほんのりと赤くなっていて、それを見ているのは面白かった。健康な色だとなぜか思う。
しばらく素振りをしてから、ようやく少年達がボックスから出て行った。打球の許可が下りたということだ。僕はいそいそとメダルを投入し、機械の唸りを聴きながら投球を持った。お爺さんと少年達が固唾を呑んで見守っているのが、背中越しにわかった。
来る。
白い軌跡。
その寸前、既に僕の腰は沈んでいる。
ぎゅっと手に力を。
体の中心を意識して。
脚は自然に。
腰を回転。
振り抜く。
掌に弾むような感触。
振動。
やった。
僕が打ち返した球が、低く飛んでいく。投球機のフェンスを越えた。
おぉ、と少年達が声を上げる。振り返ると皆笑っていた。まるで自分が打ったかのようだった。
それから僕は、成功したフォームを体に刻みこむ為に、残りの球数を全て同じ振り方で試した。良かったのは最初の一球目だけで、残りは空振りか、真下か斜め後ろに飛んでいくような結果だったけど、僕はとても嬉しかった。
不思議だな……、どうして、これだけのことがこんなに嬉しいんだろう。
「まだまだだが、だいぶマシにはなったな」
「ありがとうございます」
一ゲームを終えて、僕はバッターボックスを出る。ちょっと休憩だ。手がじんじんする。
「あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「俺か? 俺はトミタという」お爺さんが答える。
少年達もそれぞれに名乗った。僕は全て復唱して、頭を下げた。
「皆さん、ご教授下さってありがとうございます」
「変わってるな」お爺さんはにやりと笑った。「あんたは何ていうんだ?」
僕は自分の名前を名乗り、そしてすぐに後悔した。
皆の顔色が変わったからだ。
「あぁ……、なるほど」お爺さんは溜息のように呟く。
「なるほどって、何がですか?」僕は尋ねる。
でも、誰も答えない。愛らしく顔を赤くしていた少年も、今では僕から目を逸らした。わかっていた。彼らがそういう態度になることは予想していたことだ。
「じゃあ、俺達はこれで」
そう言ってお爺さんは、少年達を引き連れて出て行った。少年達は何度か僕に振り返ったけど、何も言わずにお爺さんについていった。
残された僕はその場にしばらく立ち尽くしていた。先ほどまであれほど軽やかだった胸の内が、今はずっしりと重くなっていた。これは時々あることだったけど、その度に不思議に思う。なぜこんなに重くなったり軽くなったりするのだろうか。見えない水を注ぎこまれているかのようだ。
僕はバットを置いたまま、バッターボックスに入る。ぼんやりと青空を背にしたネットの天蓋を見上げた。さっきから見えていたのだけど、遠くのネットの壁に丸いプレートが掛かっている。何か書いてあるようだが、文字はすっかり掠れて読めなくなっていた。
「どうした、やらんの?」
声がしたので振り向く。
ミタニさんが煙草を銜えて立っていた。入口の近くには灰皿があった。
「あれは、何ですか?」僕は指をさす。
「あれって?」彼は目を細める。
「あの丸い板です」
「あぁ、あれはホームランパネル。あれに当てると喧しいアナウンスが流れて、景品がもらえて、なかなか嬉しい気分になる」
「景品とは何ですか?」僕は尋ねた。何かにつけて景品という響きを耳にすると、彼女がよく喜ぶからだ。
「大したもんは置いてない。お菓子とか、だっせぇキーホルダーとか、安物のバットとか、玩具とか……」
「玩具がいいです」
「ん?」
「玩具だと喜ぶから」
「誰が?」
「チアキが、です」僕は彼女の名前を口にする。
「あ、そう」ミタニさんは煙を吐いて微笑む。「そのチアキちゃんの為に頑張ってみるかい? でも、さっき見てたけど、あんたバッティング初めてだろ?」
僕は少し考えて、足許に転がっていた球を拾った。そして、遠くにあるパネル目掛けて投げつけた。球はほぼ一直線にパネルへ突き刺さり、凄まじい音量のアナウンスが流れた――、ホームランです、ただいまホームランを記録しました。
「すげぇ肩」ミタニさんが呆然と言う。「さすが」
僕は自分の肩と彼の肩を見比べたけれど、特に違いは見当たらなかった。
「景品をください」
「待て待て、今のは反則。打ち返さなきゃホームランとはいえない」
僕はちょっとがっかりした。打ち返すだけで精一杯な状態なのに、あんな小さな的を狙うなんて絶望的だ。
「僕にはできません」
「まぁ、そう簡単に諦めんなよ」彼は笑う。「試してみなよ」
僕は水を飲んでから、再びバッターボックスに立つ。飛んでくるボールに目の焦点を合わせ、握ったバットを振り抜く。二回に一回は当たるようになったけど、当たってもあんな高くまでは飛ばせない。角度的にも厳しい。
それでも僕は挑戦し続けた。途中で、玩具を買ったほうが早くないかと気付いたけど、それでも打席から動く気にはなれなかった。
不思議なことに……、悔しいと思い始めていたのだ。
妙な話だ。僕よりも優れた者を、僕は数え切れないほど見てきたし、時には対峙することもあった。その度に僕は「あぁ、この人は上にいるな」と感じてきたが、今のような悔しさや歯痒さ、憤りは感じなかった。なぜだろう。
でも、バットを振り続けて、少しわかったことがある。
相手が自分だからこんなに悔しいのだ。
漠然としたものではなく、確固とした壁が目の前に立ちはだかっている。それは誰かと相対した時と違って、もっと絶対的な存在なのだ。それを乗り越えなくてはもっと高みへ行けない。自分に負けてしまえば、もう何にも勝てなくなる。
だけど、勝って、それでどうなるのかな。
そんな考えも頭をもたげてくるのだ。
きっと深い満足を得るだろう。飛んでくるボールを打ち返せるようになった自分の成長に納得し、さらなる上達を目指す。誰にも負けない技量を得ようとひたすら鍛錬をするに違いない。
それが、普通の者達の考え方。
僕は違う。
勝利を手に入れる前に、勝利について考えてしまう。
子供の頃からそうだった。
勝っても嬉しいと感じなかった。
なぜ嬉しくないのか。
勝ちたいと思っていないからだ。
では、なぜ勝ちたいと思えないのか。
勝っても、得る物がないし、得なくても充分だったから。最低限与えられるものだけで僕は充分だったから。
他の者達は違う。
理由など二の次で、何が何でも勝利を目指す。
そうしなければ生き残れないから。
だけど……、どうして生き残らなければいけないのかな?
もういい。疲れた。
そんな風に考えて目を閉じる自由が、なぜ世間で認められていないのかが不可解だ。皆、そうまでして誰かと競争したいのだろうか。
その気持ちが、僕には理解できない。
理解できないはずだったのに。
今の自分の鼓動が不思議だった。高鳴っている。稼働している。吸い込み、吐き出し、繰り返している。疲労しきった自分を越えようとしている。まるで戦いだ。懐かしい風景だ。
重ねられた勝利が自分を磨いていく。
高みへ運んでいく。
その成長が素直に嬉しい。
全ては自分の成長の為の糧だ。
しかし、ならば、その成長した自分は何の為にある?
それも結局は、自分の為?
自分の為の自分?
なるほど……、そういうものかもしれない。
狭い輪の中で、自分だけの実をつければいいということか。
なんとも小さい。
やっぱり、勝ったって得られるものはそんな小さな果実じゃないか。
馬鹿馬鹿しい。
「だんだん筋が良くなってる」ミタニさんがフェンスの外から声を掛けてきた。「まぐれ当たりを期待できるくらいにはなってきたぞ。チアキちゃんの為に頑張れ」
あ、そうか。
肩の力が抜けた。
振り抜いたバットが手から離れ、からんからんと吹っ飛んでいった。
「こら、あぶねぇだろ!」ミタニさんが怒鳴る。
僕はぽかんと立ち尽くす。
そうだ……。
僕の今日の成長は、彼女の為だ。
それを繰り返していけばいいのだ。
「すみません」
僕は慌ててバットを拾う。白球が誰もいないバッターボックスにとんでもない速度で投げ込まれるのを見ると、そこに立っていた自分がなんだか信じられないくらいだった。
新しい発想を得た僕は、その後も彼女の為にバットを振るった。でも、とうとうホームランパネルには当たらなかった。何度か惜しいところまで打ち返すことができたけれど、どうしても当たらなかった。
気付けば空が夕陽で赤く染まっていた。ネットの内側はいつの間にか大きなライトで照らされている。それを意識すると、固く締まっていた体の節々が緩くなったかのようだった。手はとっくに痺れてしまっている。
ポケットの中で電話が鳴った。彼女からだ。きっともう家に帰っていて、心配して掛けてきたのだろう。僕が電話を受ける時、彼女はいつも心配している。
「今、どこにいるの?」
「外です」
「それはわかるよ」彼女は息を漏らす。「ご飯作ってるから、帰ってきて」
「ごめんなさい。すぐに帰ります」
電話を切ると、小屋に戻っていたはずのミタニさんがベンチで煙草を吸っていた。
「すいません、電話があったので、僕はもう帰ります」
「あ、そう」彼は興味がなさそうに頷く。「そうだな、あんたは帰ったほうがいいね」
コップにはまだ沢山のメダルが残っていた。今日一日で半分くらいしか使えなかった。
「このメダル、お返しします」
「いいよ、置いといてやるからまた来な」
「そうですか。では、明日また来ます」
「玩具も、そんなに欲しけりゃやるよ」
「いえ、景品はパネルに当たった時に貰います」
「変な奴」ミタニさんは煙を漏らして笑った。「半日必死こいてやってたのに」
僕はバッティングセンターを出た。明日また来なくてはいけない、と強く思った。
夕暮れの街はどこか活気づいているように思えた。ネクタイをした人や、鞄を持った人が沢山いる。皆、どこかへ行っていて、そして今戻ってきた人達だ。僕も早く戻らなければ。
バス停まで戻る途中、小さな玩具屋を見つけた。
店頭に出された棚にロボットの玩具がある。雑多に積まれた玩具の中から、そのロボットがなぜか強く僕の目を惹いた。
「これを頂けますか?」
「百円」カウンターの奥のお婆さんが言った。目があまり見えない人らしかった。
僕は百円を支払い、なぜだか嬉しくなって、固いロボットを抱き締めてバス停へ急いだ。ちょうどよくやってきた車両に乗り込み、空いていたシートに座り込む。目的の停留所につくまで、買ったロボットをこねくり回した。古い玩具だったけど、良く出来た代物だった。それから、僕は珍しく悪知恵を思いついた。
アパートに戻る頃には辺りもすっかり暗くなってしまい、どこかの家から夕飯の匂いが漏れていた。カレー、コロッケ、すき焼き、うどん、と僕は一つひとつを嗅ぎ分ける。ソースの匂いは僕の部屋からで、途端に嬉しくなる。焼きそばは僕の好物だったからだ。ちょっとくたびれていたけど、それで一気に力が戻ってきた。
彼女は高校の制服も脱がずにエプロンをして、焼きそばをフライパンからお皿に盛りつけているところだった。
「どこに行ってたの?」彼女は興味深そうに尋ねる。その表情はまだまだ子供っぽい。「それ、何?」
「これはロボットです」僕は笑いを堪えて持ち上げる。「バッティングセンターでホームランを打ちました。その景品です」
「バッティングセンター?」案の定、彼女は驚いた顔をした。
「はい。ご存知ですか? 野球のことです。飛んできたボールをバットで打ち返すのです」
「手、見せて」
僕は掌を差し出す。
「わぁ、豆できてる」
「あ、そうですね」僕も今さら気付いた。それから、自分の掌のでこぼこが急に誇らしくなった。「明日も行く予定です。いいですか?」
「いいけどさ」彼女は呆れたようだった。
玩具のロボットにそれほど食いついてくれないのが、僕には少し残念だった。
それから焼きそばを二人で食べた。彼女は高校での一日の出来事を語り、僕はバスに乗ったことやバッティングセンターで話したお爺さんや少年達やミタニさんのことを話した。それから、打球の感触とその時に感じたことを語り尽くした。
話題が尽きると、彼女はテレビを点ける。それを見て笑い声を上げる。テレビでは着物姿の男達がなにやら会話している。どうやらその会話が面白いらしかった。
「今年の秋と掛けまして、私の年収と解きます」男が言う。
「その心は?」もう一人の男が尋ねる。
心は?
僕は心というものについて考える。
時々、僕にはそれがないと指摘されるのだ。でも、そんなはずがない。僕にだって心はあるはずだ。それがない生物などいないはずだ。ただ、僕の場合は、それが自分の中のどこにあるのか、自分にもよく見えていないだけだ。
でも、僕でなくても、自分の心が見えている人が、どれほどいるのだろう?
今日出会った人々を思い出し、過去にあった人々を思い出し、テレビを観て笑う彼女を見つめてみる。心というものがどこにあるのか、彼女達にはわかるのだろうか? それをちゃんと見定めることができるのだろうか? それがここにあること、あるいはないこと、それが見極められるのだろうか?
「ねぇ、兄さん、それ動かしてみて」
彼女がロボットを指したのは焼きそばを食べ、風呂に入ってしばらくした後のことだ。たまたま目についたのだろう。
僕は玩具の背中に生えたゼンマイを巻いてやる。床に置くと、じりじりと内臓の歯車を軋ませながら、ぎこちなく床を歩いた。一歩一歩を確かめるような、慎重な足取りだ。
彼女は無言でそれに見入っていたが、ふと口を開いた。
「なんか、兄さんみたい」
「え?」
「ううん」彼女はうっかりした顔で首を振る。「なんでもない」
本当は聞こえていたけど、僕はあえて何も言わなかった。
ロボットはフローリングと絨毯の僅かな段差につまづいて転んでしまう。それにも気付かないように、二つのガラス玉の目は天井を眺め、なおも脚をぎこちなく動かしていた。
起きなくては。
僕はそう思う。僕ではなく、その哀れなロボットの為に思ったことだった。
僕は目を開ける。目覚ましは必要ない。決まった時刻に僕は目を覚ます。
部屋の様子は昨日から変わっていない。半開きのカーテン、綺麗に畳まれた服、シーツの皺の寄り具合、消臭された部屋の空気。
ベッドから脚を下ろす。裸足にひんやりしたフローリングの感触。僕は靴下を履かない。起きている時も寝ている時も靴下を履かない。立ち上がると、重力というものを感じる。だけど、それは不思議と寝ている時ほど支配的ではない。
彼女はいなかった。いたら起こさなくてはいけなかったけど、その必要はなくなったわけだ。玄関には僕の靴と、彼女の運動靴。無くなったのは彼女の革靴だけだった。
服を着ていなかった。どうりで肌がひんやりするわけだ。干されたままのシャツを一枚被ってズボンを履く。外に行く予定はなかったけど、無意識のうちに着ていたということは、外に出たいと僕が思っているのだろう。そうであれば、今日は外出にはうってつけの日ということだ。少なくとも、僕にとっては。
洗面所。鏡の前で舌を出してみる。ちょっと薄い赤色だ。健康的だといわれたけど、赤色って不健康な印象がする。青色や緑色の方が爽やかで和やかで健康的だと思うし、でも、一番綺麗なのはやっぱり透明色だ。色が付いているものは結局、どこかに変調をきたしている証なのだろう。
顔を洗って洗面所を出ると、満タンのゴミ袋が二つ転がっている。彼女が出し忘れたのだ。僕はゴミ袋を両手に掴んで外に出る。きっと出してあげた方が喜ぶ。
晴れているのに、外は涼しかった。秋になったのかもしれない。気候って不思議だ。約束したわけでもないのに毎年ちゃんと戻ってくる。暑くなりすぎるということがないし、寒すぎるということにもならない。おかしな話だ、いったい、誰がコントロールしているのだろう?
ゴミを出し終えると、大家さんと会った。
「おはようございます」
「おはよう。今朝は早いのね」
「いつもこの時間には起きています」
アパートの前を列を作った子供達が歩いていた。ランドセルを背負っているということは小学生。彼女にそう教えてもらった。銃を構えていたら少年兵で、空を飛んでいたらネバーランドの子供達だとも教えてもらったけど、そんな子供達を僕はまだ見たことがない。
「あなた、お仕事はしないの?」大家さんが訊く。
「もうしています」僕は空になった両手を見せる。「ゴミを、出しました」
大家さんは目を丸くしてから「じゃあね」とどこかへ行ってしまう。大家さんの仕事は何だろうと思う。
部屋に戻って、冷蔵庫を確認した。本当はあまりお腹が空いていないのだけど、この時間になったらご飯を食べるように言われているのだ。彼女が食べるものを僕も食べる。冷蔵庫にはそれがある。彼女がいつも食べるフルーチェがある。
スプーンでフルーチェを食べながら、汚れていく歯を意識する。さっき磨いたばかりなのに、もうヨーグルトでめちゃめちゃになってしまった。せめてヨーグルトだけなら飲み込むだけで済むのだけど、フルーツも入っているから噛まなくてはいけない。億劫なことだ。全世界の食べ物が全てヨーグルトになればいいのに。そうすれば歯が折れる心配もないし、歯がなくても物を食べて生きていけるようになるのに。
食べ終わってから、僕は財布を持って外に出る。中身は昨夜に確認した二十五万円から変わっていない。彼女に渡されたお金だ。毎月五万円ずつ渡されるのだけど、使い道もないから何となく溜まってしまった。
たまには買い物をしようと思う。使わなきゃ悪い気もした。使って欲しくて渡したものなのだ。何か買い物をすれば、彼女も喜ぶかもしれない。
二十五万円で何が買えるかな。
自動車や飛行機や潜水艦が思い浮かんだけど、きっと買えないだろう。それから、乗り物ばかり想像した自分がちょっと意外だった。もしかして僕はどこかに行きたいと思っているのだろうか。ここではないどこかへ乗せて行ってくれる、魔法のような代物に憧れているのだろうか。だとすれば、今日はここではないどこかへ行くのに絶好な日ということだ。
でも、自動車が買えないので、妥協してバスに乗った。乗車賃はいくらかと運転手に尋ねたら、それは降りる停留所によって変わるらしい。そこで、僕はどの停留所に降りるか考えなくてはいけなかった。どこかへ行きたいと考えただけで、行きたい場所なんて特に思いつかなかったのだ。
なので、他の乗客を観察して、降車するお客が一番多いところで降りた。僕はお金を払おうとしたけど、運転手は横目で僕をじっと見て、それから僕が身に着けているものを見て、あんたは払わなくていい、と言った。不思議だけど、それは時々、彼女と一緒に街へ出ると起こることだった。レストランのお金も払わなくてよかったことがある。他の人は払っているのに、どうして僕だけ払わなくていいのだろう。いや、どうして払わせてくれないのかという方が近い。
バスから降りて、辺りを見回してみた。電車の駅の近くで、なかなか騒がしい場所だった。初めて来た場所に思えたけど、よく眺めてみると、そういえばだいぶ前に彼女と彼女の両親に連れられてやってきた場所だと気付いた。歩道の眺めも、近くに建つショッピングモールの外観も変わっていなかった。
なんとなしに歩き出す。二十五万円の使い道を考えていた。いったい、何を買えば二十五万円に値するだろう。あまり大きすぎるものは駄目だ。持って帰れなくなるし、アパートの部屋では邪魔にもなるだろう。食べ物を買えばいいかと閃いたけれど、お腹もあまり空いていない。二十五万円ともなると象の食事みたいな量になるかもしれない。どうしたものか。
とぼとぼ歩いて行くと、やがて道沿いに不思議な建物が見えてきた。サーカスかと思ったけど、どうやら違う。しかし、まるでテントのように緑色のネットを広々と張って、天蓋はビルのように高い位置にある。そのテントの端っこに平たい小屋のような建物があるのだ。
かぁん、と甲高い音が響いた。どきっとして目を向けると、そのネットの中を白い球が飛んでいくのが見えた。それはやがてネットの壁に当たり、力を失って落ちていった。よく見れば、小屋の反対には機械が並んでいて、そこから今飛んでいった球が物凄い速度で放たれているのだった。
僕は興味を覚えて小屋へ入る。かぁん、と小気味の良い音がますます響いた。
何かのお店らしい。カウンターの向こうに男が座っていて、ちらと僕に目を向けてから、興味が無さそうに手許の新聞へ視線を落とした。その男以外に人はいない。しかし、小屋の奥にはもう一つドアがあって、その向こうには誰かがいるようだった。煙草の匂いがする。彼女は嫌がるが、僕は煙草の匂いはそれほど嫌いではない。
小屋の壁際にはポスターや棒が並んでいて、それらが示すスポーツをようやく僕は思い出した。そうか、野球だ。あの棒はバットで、あのポスターは野球チームの写真なんだ。
「ここは野球屋さんですか?」
「は?」カウンターの男が顔を上げる。
「ここは何屋さんですか?」僕は質問を変える。
「バッティングセンター」短く答えてから、彼は怪しそうに僕を見た。「おたくは?」
「おたくってなんですか?」
「いや、つまり、あんたってこと。あんた、あなた、お前、君、ユー。そういう意味」
「客です」
「あ、そう。お姉さん、バッティングやるの? それともゲーム?」
思わず振り返るけど、僕以外には誰もいない。
「あ、すまん、もしかして男か? 悪いね」
「何がですか?」
「いや……、まぁ、いいや、どっちでも」彼は立ち上がって、カウンターの脇にある箱型の機械を指した。「そこにお金入れて。そしたらメダルが出てくるから、メダル持ってあっちに行って。で、あっちにある機械にメダルを入れたら、ボール飛んでくるから、バットで打ち返して」
「わかりました」
「なんなんだよ、あんた」男が吹き出した。よくわからないけど、何か愉快なことがあったらしい。
取り出した一万円札を機械のスリットへ投入すると、びっくりするほどの量のメダルが出てきた。慌てて手で受け止めるけど、すぐに溢れてしまって床に零れてしまった。
「この機械、壊れています。メダルが止まりません」
「一万円突っ込む奴、初めて見たよ」
男は笑って、床にばらまかれたメダルを拾ってくれた。大きな紙のコップを取ってきて、それにメダルを入れてくれた。
「ありがとうございます」僕は微笑んで頭を下げる。「えっと……」
「何?」
「お名前は何とおっしゃるのですか?」
「あ? なんで?」
「いえ、お礼が言いたいので」
「今、言ったじゃん」
「お名前を伺うのが礼儀だと教えられました」
「変な奴」男は笑う。「俺はミタニ」
「ありがとうございます、ミタニさん」
それから、僕もミタニさんに名乗った。相手の名前を聞いたら自分も名乗るのが礼儀だと彼女に教えられたからだ。
でも、僕が名乗るとミタニさんはしばらく答えなかった。眼鏡の奥の目を見開いてまじまじと僕を見つめていた。もう笑っていない。強張った表情だった。
あぁ、嫌だな、と僕は思った。
さっきの運転手もこうだった。僕の名前は何かしらの作用を発生させる響きなのだ。名乗る前からこうなることは予想していたけれど、礼儀を軽んじるわけにいかないから、結局避けることはできなかった。
「驚いたな」ミタニさんは狼狽した顔で頭を掻いた。
「何にですか?」
「いや、まぁ……」彼は僕を見ずに口端を上げた。「しかし、うん、バッターボックスに立てば皆平等だからな、うん」
よくわからなかったけど、平等という響きに引っ掛かりを感じた。だけど、それは言わないでおく。
僕はずっしりしたコップを持って、奥の扉を開ける。広々とした空間で、外から見えたネットの内側がそこだった。網で仕切られたスペースが横一列に並んでいて、バットを握った人が疎らに立っている。ごうんごうんと唸る機械が向こう側に並んでいて、細い射出口から白球が物凄いスピードで吐き出される。
それを打ち返す音。
金属が鳴らす打撃音。
そして、虚空へ伸びていく球の軌道。
僕はそれを眺め、自分の鼓動が速くなっているのに気付いた。どうしたのだろう。何に対して興奮しているのか。自分の命を脅かす者などここにはいないのに。
金網のドアをくぐり、箱型の投入口にメダルを入れた。それから、無造作に置かれたバットを眺めて、さてどれにしようかと悩んでいる間にボールが飛んできた。合図もなく始まるのに驚いた。
慌ててバットを掴み、隣のボックスに立つお爺さんを真似てバットを振り抜く。でも、球には当たらず、力み過ぎて体が回転してしまった。次こそはとさらに力むのだが、バットの先には何の手応えも生まれなかった。
そんな調子で僕は二十五球全て空振った。
くすくす笑う声が聞こえた。振り向くと、二つ隣のボックスで頭の丸い少年がいる。ボックスの外にも二人いて、皆同じような恰好と頭をしていた。僕が観ると、慌てて笑みを引っ込めて目を逸らす。
「あんた、そんなんじゃ駄目だよ」
今度は逆側からしわがれた声。そちらに向くと、さっきまで僕が見様見真似していたお爺さんだった。彼はバットを杖のようにして、ボックスを隔てる金網越しに話しかけていた。
「全然なっていない。打つ気がないんじゃないか?」
「打つ気はあります」僕は言う。打つ気がなかったらバットも持っていない。
しかし、お爺さんは首を振った。
「あんたのは当たればいいというやり方だ。よく見てろ」
そう言うと、お爺さんは新しいメダルを機械に入れる。実演してくれるらしい。どうしてそんなことをしてくれるのか、いまひとつ意図がわからなかったけど、親切だとは思ったので僕は目に力を込めて観察した。
飛んできた球を、お爺さんは重そうなバットを軽々と振って打ち返す。鳴り響く音にまで感触があった。振り抜かれるバットはとても速く、打たれた球はぐんぐんと速度を上げてネットの彼方へ上昇していった。次の打球は、鋭く地を裂くような軌道で、打ち上げられた球よりも速く地表を駆けていく。最後にそれは投球機を囲うフェンスにぶつかった。
僕はお爺さんのフォームを眺め、自分の体もそれに合わせて動かす。でも、振り抜くバットは鄙びた草のように貧弱な気がした。いったい、どこがどう違うのだろう?
お爺さんは二十五球全てを打ち返した。ある時は高く弧を描き、ある時は弾丸のように鋭く撃つ打球だった。僕は自分の機械にメダルを入れて、もう一度挑戦してみた。
「腕だけで振るな」とお爺さんは言う。
腕だけで、とは言うが、振るのは腕でしかできないのではないだろか。
その後もお爺さんは網越しに僕を指導した。「目を瞑るな。ボールを見ろ」、「腰をふらつかせるな」、「バットに振られてる、脇を閉めろ」などとアドバイスをしてくる。僕はちょっとうるさく思ったけど、お爺さんの言う通りにやって、一球だけバットが球に掠る感触が起こってびっくりした。
「当たりました」
「掠っただけだ。それじゃ実戦ではストライク扱いだよ」
実戦ってなんだろう。ちょっと可笑しかった。
お爺さんは時々自分もバットを振ったけど、疲れやすいのか、額に汗を浮かべ始めた。それでも口は休まなかったけれど、ついに「おい、小僧ども」と助っ人を呼んだ。誰のことかと思ったら、さっき僕を見てくすくすしていた少年達だった。
「こいつのフォームを見てやれ」
何かこのお爺さんと上下関係があるのだろう、頭の丸い少年達はしぶしぶといった調子で頷いた。
「違う、違う、こう、脇を閉めるの」
「こっちの脚に重心を置いて……」
「耳の横から背中に向かって振り抜く感じ」
参ったな、と思う。早く次をやりたいのに、少年達に囲まれてずっと素振りをさせられた。でも、僕の腕を取って指導する子の顔がほんのりと赤くなっていて、それを見ているのは面白かった。健康な色だとなぜか思う。
しばらく素振りをしてから、ようやく少年達がボックスから出て行った。打球の許可が下りたということだ。僕はいそいそとメダルを投入し、機械の唸りを聴きながら投球を持った。お爺さんと少年達が固唾を呑んで見守っているのが、背中越しにわかった。
来る。
白い軌跡。
その寸前、既に僕の腰は沈んでいる。
ぎゅっと手に力を。
体の中心を意識して。
脚は自然に。
腰を回転。
振り抜く。
掌に弾むような感触。
振動。
やった。
僕が打ち返した球が、低く飛んでいく。投球機のフェンスを越えた。
おぉ、と少年達が声を上げる。振り返ると皆笑っていた。まるで自分が打ったかのようだった。
それから僕は、成功したフォームを体に刻みこむ為に、残りの球数を全て同じ振り方で試した。良かったのは最初の一球目だけで、残りは空振りか、真下か斜め後ろに飛んでいくような結果だったけど、僕はとても嬉しかった。
不思議だな……、どうして、これだけのことがこんなに嬉しいんだろう。
「まだまだだが、だいぶマシにはなったな」
「ありがとうございます」
一ゲームを終えて、僕はバッターボックスを出る。ちょっと休憩だ。手がじんじんする。
「あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「俺か? 俺はトミタという」お爺さんが答える。
少年達もそれぞれに名乗った。僕は全て復唱して、頭を下げた。
「皆さん、ご教授下さってありがとうございます」
「変わってるな」お爺さんはにやりと笑った。「あんたは何ていうんだ?」
僕は自分の名前を名乗り、そしてすぐに後悔した。
皆の顔色が変わったからだ。
「あぁ……、なるほど」お爺さんは溜息のように呟く。
「なるほどって、何がですか?」僕は尋ねる。
でも、誰も答えない。愛らしく顔を赤くしていた少年も、今では僕から目を逸らした。わかっていた。彼らがそういう態度になることは予想していたことだ。
「じゃあ、俺達はこれで」
そう言ってお爺さんは、少年達を引き連れて出て行った。少年達は何度か僕に振り返ったけど、何も言わずにお爺さんについていった。
残された僕はその場にしばらく立ち尽くしていた。先ほどまであれほど軽やかだった胸の内が、今はずっしりと重くなっていた。これは時々あることだったけど、その度に不思議に思う。なぜこんなに重くなったり軽くなったりするのだろうか。見えない水を注ぎこまれているかのようだ。
僕はバットを置いたまま、バッターボックスに入る。ぼんやりと青空を背にしたネットの天蓋を見上げた。さっきから見えていたのだけど、遠くのネットの壁に丸いプレートが掛かっている。何か書いてあるようだが、文字はすっかり掠れて読めなくなっていた。
「どうした、やらんの?」
声がしたので振り向く。
ミタニさんが煙草を銜えて立っていた。入口の近くには灰皿があった。
「あれは、何ですか?」僕は指をさす。
「あれって?」彼は目を細める。
「あの丸い板です」
「あぁ、あれはホームランパネル。あれに当てると喧しいアナウンスが流れて、景品がもらえて、なかなか嬉しい気分になる」
「景品とは何ですか?」僕は尋ねた。何かにつけて景品という響きを耳にすると、彼女がよく喜ぶからだ。
「大したもんは置いてない。お菓子とか、だっせぇキーホルダーとか、安物のバットとか、玩具とか……」
「玩具がいいです」
「ん?」
「玩具だと喜ぶから」
「誰が?」
「チアキが、です」僕は彼女の名前を口にする。
「あ、そう」ミタニさんは煙を吐いて微笑む。「そのチアキちゃんの為に頑張ってみるかい? でも、さっき見てたけど、あんたバッティング初めてだろ?」
僕は少し考えて、足許に転がっていた球を拾った。そして、遠くにあるパネル目掛けて投げつけた。球はほぼ一直線にパネルへ突き刺さり、凄まじい音量のアナウンスが流れた――、ホームランです、ただいまホームランを記録しました。
「すげぇ肩」ミタニさんが呆然と言う。「さすが」
僕は自分の肩と彼の肩を見比べたけれど、特に違いは見当たらなかった。
「景品をください」
「待て待て、今のは反則。打ち返さなきゃホームランとはいえない」
僕はちょっとがっかりした。打ち返すだけで精一杯な状態なのに、あんな小さな的を狙うなんて絶望的だ。
「僕にはできません」
「まぁ、そう簡単に諦めんなよ」彼は笑う。「試してみなよ」
僕は水を飲んでから、再びバッターボックスに立つ。飛んでくるボールに目の焦点を合わせ、握ったバットを振り抜く。二回に一回は当たるようになったけど、当たってもあんな高くまでは飛ばせない。角度的にも厳しい。
それでも僕は挑戦し続けた。途中で、玩具を買ったほうが早くないかと気付いたけど、それでも打席から動く気にはなれなかった。
不思議なことに……、悔しいと思い始めていたのだ。
妙な話だ。僕よりも優れた者を、僕は数え切れないほど見てきたし、時には対峙することもあった。その度に僕は「あぁ、この人は上にいるな」と感じてきたが、今のような悔しさや歯痒さ、憤りは感じなかった。なぜだろう。
でも、バットを振り続けて、少しわかったことがある。
相手が自分だからこんなに悔しいのだ。
漠然としたものではなく、確固とした壁が目の前に立ちはだかっている。それは誰かと相対した時と違って、もっと絶対的な存在なのだ。それを乗り越えなくてはもっと高みへ行けない。自分に負けてしまえば、もう何にも勝てなくなる。
だけど、勝って、それでどうなるのかな。
そんな考えも頭をもたげてくるのだ。
きっと深い満足を得るだろう。飛んでくるボールを打ち返せるようになった自分の成長に納得し、さらなる上達を目指す。誰にも負けない技量を得ようとひたすら鍛錬をするに違いない。
それが、普通の者達の考え方。
僕は違う。
勝利を手に入れる前に、勝利について考えてしまう。
子供の頃からそうだった。
勝っても嬉しいと感じなかった。
なぜ嬉しくないのか。
勝ちたいと思っていないからだ。
では、なぜ勝ちたいと思えないのか。
勝っても、得る物がないし、得なくても充分だったから。最低限与えられるものだけで僕は充分だったから。
他の者達は違う。
理由など二の次で、何が何でも勝利を目指す。
そうしなければ生き残れないから。
だけど……、どうして生き残らなければいけないのかな?
もういい。疲れた。
そんな風に考えて目を閉じる自由が、なぜ世間で認められていないのかが不可解だ。皆、そうまでして誰かと競争したいのだろうか。
その気持ちが、僕には理解できない。
理解できないはずだったのに。
今の自分の鼓動が不思議だった。高鳴っている。稼働している。吸い込み、吐き出し、繰り返している。疲労しきった自分を越えようとしている。まるで戦いだ。懐かしい風景だ。
重ねられた勝利が自分を磨いていく。
高みへ運んでいく。
その成長が素直に嬉しい。
全ては自分の成長の為の糧だ。
しかし、ならば、その成長した自分は何の為にある?
それも結局は、自分の為?
自分の為の自分?
なるほど……、そういうものかもしれない。
狭い輪の中で、自分だけの実をつければいいということか。
なんとも小さい。
やっぱり、勝ったって得られるものはそんな小さな果実じゃないか。
馬鹿馬鹿しい。
「だんだん筋が良くなってる」ミタニさんがフェンスの外から声を掛けてきた。「まぐれ当たりを期待できるくらいにはなってきたぞ。チアキちゃんの為に頑張れ」
あ、そうか。
肩の力が抜けた。
振り抜いたバットが手から離れ、からんからんと吹っ飛んでいった。
「こら、あぶねぇだろ!」ミタニさんが怒鳴る。
僕はぽかんと立ち尽くす。
そうだ……。
僕の今日の成長は、彼女の為だ。
それを繰り返していけばいいのだ。
「すみません」
僕は慌ててバットを拾う。白球が誰もいないバッターボックスにとんでもない速度で投げ込まれるのを見ると、そこに立っていた自分がなんだか信じられないくらいだった。
新しい発想を得た僕は、その後も彼女の為にバットを振るった。でも、とうとうホームランパネルには当たらなかった。何度か惜しいところまで打ち返すことができたけれど、どうしても当たらなかった。
気付けば空が夕陽で赤く染まっていた。ネットの内側はいつの間にか大きなライトで照らされている。それを意識すると、固く締まっていた体の節々が緩くなったかのようだった。手はとっくに痺れてしまっている。
ポケットの中で電話が鳴った。彼女からだ。きっともう家に帰っていて、心配して掛けてきたのだろう。僕が電話を受ける時、彼女はいつも心配している。
「今、どこにいるの?」
「外です」
「それはわかるよ」彼女は息を漏らす。「ご飯作ってるから、帰ってきて」
「ごめんなさい。すぐに帰ります」
電話を切ると、小屋に戻っていたはずのミタニさんがベンチで煙草を吸っていた。
「すいません、電話があったので、僕はもう帰ります」
「あ、そう」彼は興味がなさそうに頷く。「そうだな、あんたは帰ったほうがいいね」
コップにはまだ沢山のメダルが残っていた。今日一日で半分くらいしか使えなかった。
「このメダル、お返しします」
「いいよ、置いといてやるからまた来な」
「そうですか。では、明日また来ます」
「玩具も、そんなに欲しけりゃやるよ」
「いえ、景品はパネルに当たった時に貰います」
「変な奴」ミタニさんは煙を漏らして笑った。「半日必死こいてやってたのに」
僕はバッティングセンターを出た。明日また来なくてはいけない、と強く思った。
夕暮れの街はどこか活気づいているように思えた。ネクタイをした人や、鞄を持った人が沢山いる。皆、どこかへ行っていて、そして今戻ってきた人達だ。僕も早く戻らなければ。
バス停まで戻る途中、小さな玩具屋を見つけた。
店頭に出された棚にロボットの玩具がある。雑多に積まれた玩具の中から、そのロボットがなぜか強く僕の目を惹いた。
「これを頂けますか?」
「百円」カウンターの奥のお婆さんが言った。目があまり見えない人らしかった。
僕は百円を支払い、なぜだか嬉しくなって、固いロボットを抱き締めてバス停へ急いだ。ちょうどよくやってきた車両に乗り込み、空いていたシートに座り込む。目的の停留所につくまで、買ったロボットをこねくり回した。古い玩具だったけど、良く出来た代物だった。それから、僕は珍しく悪知恵を思いついた。
アパートに戻る頃には辺りもすっかり暗くなってしまい、どこかの家から夕飯の匂いが漏れていた。カレー、コロッケ、すき焼き、うどん、と僕は一つひとつを嗅ぎ分ける。ソースの匂いは僕の部屋からで、途端に嬉しくなる。焼きそばは僕の好物だったからだ。ちょっとくたびれていたけど、それで一気に力が戻ってきた。
彼女は高校の制服も脱がずにエプロンをして、焼きそばをフライパンからお皿に盛りつけているところだった。
「どこに行ってたの?」彼女は興味深そうに尋ねる。その表情はまだまだ子供っぽい。「それ、何?」
「これはロボットです」僕は笑いを堪えて持ち上げる。「バッティングセンターでホームランを打ちました。その景品です」
「バッティングセンター?」案の定、彼女は驚いた顔をした。
「はい。ご存知ですか? 野球のことです。飛んできたボールをバットで打ち返すのです」
「手、見せて」
僕は掌を差し出す。
「わぁ、豆できてる」
「あ、そうですね」僕も今さら気付いた。それから、自分の掌のでこぼこが急に誇らしくなった。「明日も行く予定です。いいですか?」
「いいけどさ」彼女は呆れたようだった。
玩具のロボットにそれほど食いついてくれないのが、僕には少し残念だった。
それから焼きそばを二人で食べた。彼女は高校での一日の出来事を語り、僕はバスに乗ったことやバッティングセンターで話したお爺さんや少年達やミタニさんのことを話した。それから、打球の感触とその時に感じたことを語り尽くした。
話題が尽きると、彼女はテレビを点ける。それを見て笑い声を上げる。テレビでは着物姿の男達がなにやら会話している。どうやらその会話が面白いらしかった。
「今年の秋と掛けまして、私の年収と解きます」男が言う。
「その心は?」もう一人の男が尋ねる。
心は?
僕は心というものについて考える。
時々、僕にはそれがないと指摘されるのだ。でも、そんなはずがない。僕にだって心はあるはずだ。それがない生物などいないはずだ。ただ、僕の場合は、それが自分の中のどこにあるのか、自分にもよく見えていないだけだ。
でも、僕でなくても、自分の心が見えている人が、どれほどいるのだろう?
今日出会った人々を思い出し、過去にあった人々を思い出し、テレビを観て笑う彼女を見つめてみる。心というものがどこにあるのか、彼女達にはわかるのだろうか? それをちゃんと見定めることができるのだろうか? それがここにあること、あるいはないこと、それが見極められるのだろうか?
「ねぇ、兄さん、それ動かしてみて」
彼女がロボットを指したのは焼きそばを食べ、風呂に入ってしばらくした後のことだ。たまたま目についたのだろう。
僕は玩具の背中に生えたゼンマイを巻いてやる。床に置くと、じりじりと内臓の歯車を軋ませながら、ぎこちなく床を歩いた。一歩一歩を確かめるような、慎重な足取りだ。
彼女は無言でそれに見入っていたが、ふと口を開いた。
「なんか、兄さんみたい」
「え?」
「ううん」彼女はうっかりした顔で首を振る。「なんでもない」
本当は聞こえていたけど、僕はあえて何も言わなかった。
ロボットはフローリングと絨毯の僅かな段差につまづいて転んでしまう。それにも気付かないように、二つのガラス玉の目は天井を眺め、なおも脚をぎこちなく動かしていた。
起きなくては。
僕はそう思う。僕ではなく、その哀れなロボットの為に思ったことだった。
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