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作品ID:614
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約6538文字 読了時間約4分 原稿用紙約9枚
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小説の属性:一般小説 / 現代ドラマ / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /
maria
作品紹介
神のまなざしと少女のおはなし
陽炎が街を歪めるようにゆらゆらと立ち上る中、真里亞は、うつむき気味に一人で繁華街を歩いていた。時刻はまだ15時過ぎで、大学生である彼女には授業があるはずだった。けれど、学科内で一番の劣等生の真里亞は現在大学三年生でありながらもう既に留年が決まっていた。だからどんな授業に対してもひどく無気力で、今日も授業をさぼっていた。最短であと二年、自分は一体何をすればいいのだろう。こんなにも無気力で無関心、無感動で、一体どう生きていけばいいというのだろう。真里亞はげんなりとした気持ちで太陽を見上げた。はるか頭上にある太陽は地球を照らすという仕事を実直にこなしている。太陽なんて意志を持たないものが義務を果たすことが出来て、意志を持つ自分が授業に出席するという義務を少しも果たせないのはなぜだろう。何かに負けたような気がする。一瞬そう思ったが、真里亞はすぐに太陽をにらむのをやめ、再びうつむいた。意志を持つことが幸せとは限らないものね。だって、そうでしょう?人生って、意志がない方が気楽よ。真里亞はそう結論付けて、一度後ろを振り返った。そして車が来ていないことを確認すると、素早く車道を渡り、向かいにあった勤務先の喫茶店の裏口へ向かった。
タイムカードを切り、さっさと制服に着替える。偶然バックヤードで社員と鉢合わせて、少しの世間話をした後、真里亞はホールへと向かった。真里亞は授業料を自分で払うために、アルバイトを必死でこなしていた。元は学費全額免除の奨学金生として優秀な成績で入学した真里亞だったが、入学以来、成績の悪化は止まらず、二年の時に奨学金は打ち切られた。
それから、彼女はそれまで以上に働くようになった。ほぼ毎日何時間も何時間も働いていて、でもそのほとんどが学費に消えていくのだった。
私なんのために働いてんだろうね。なんのために大学入ったんだろう。なんのために生まれて来たんだろう。頭に浮かんだ疑問を打ち消すように真里亞は客の去った後のテーブルをごしごしと拭いた。
敬虔なクリスチャンの父を持つ真里亞にとって幼い頃から、神は何よりも重要な存在だった。神様が見ている。真里亞の父は繰り返し幼い彼女にそう伝えた。真里亞の母は、彼女を生んで死んだ。父はそのことをひどく悲しんだけれど、やがてそれを神から与えられた運命として受け入れた。受け入れられなかったのはむしろ真里亞の方だった。父に母の話を聞くたびに、母を殺したのは私なのだと彼に謝らなければならないような気持ちになった。人を傷つけてはならない、人を殺してはならない。神様が見ている。真里亞の心は傷んだ。母を殺し、父を傷つけた。そしてそのことを罪だと思っていながら、隠していることをきっと、いや絶対に神は見ている。絶えず注がれる神のまなざしに真里亞はいつも怯えていた。
真里亞は10歳の頃に洗礼を受けた。それから毎週教会に通い様々な人間を見た。神にすがらねば生きていけない人、神を疑いながらそれでも教会に来る人、神を愛し、信頼しきっている人。自分は、そのどれにも当てはまれないと真里亞は思った。そして、そのことを恥じていた。真里亞は教会に馴染めなかったわけではない、友人や知人はたくさんいた。ただ、彼女は教会で望まれる信仰のあり方に馴染めなかったのだ。彼女にとって神は恐怖の対象でしかなかった。神は愛であると信じきることは真里亞には不可能で、いつも自分だけが教会から浮いているような気がしていた。
高校三年になった真里亞は神学部に進もうと考えていた。神について学べばこの浮遊感や孤独感を埋められると信じていた。けれどそれには問題があった。父が鬱病になり、仕事を辞めてしまったのだ。真里亞の暮らしはそれ以来息の詰まるものになった。学校から帰ると、暗い顔をした父と過ごさねばならなかった。真里亞には父の憂鬱が理解できなかった。ただ暗い目をした父の焦点の緩やかな目つきが恐ろしかった。父が鬱病になったのは仕事上のストレスが原因だと聞いていた。父は今まで以上に必死に神に祈った。けれど彼の心が救われることはなく、むしろ病状は悪化していった。最後に一緒にミサに与かったとき、父は隣の椅子に座って涙を流して祈っていた。真里亞は、ただ苦しくて胸が詰まって、嘔吐してしまいそうだった。
それからすぐに父は消えた。どこに行ったかもわからない。生きているのか死んでいるのかもわからない。そこから真里亞の生活は暗転した。彼女は神学部には行こうとは思えなくなった。あれほど苦しんだ父を救わなかった神が、自分をこんな目に遭わせた神が、信じられなくなった。いつも思い出すのは、最後のミサで泣きながら祈る父の姿だった。
真里亞が神を信じられなくなっても、神への恐怖だけは残った。いつも神に見られているという、まなざしに対する恐怖があった。父は消えたのに、父の言葉だけが真里亞の胸に残り、彼女を縛った。
『神は死んだ』
黒板にはそう書かれている。けれどそれを教えている教授が何を話しているのかは一切聞こえてこない。真里亞はイヤホンをつけてそれを長い髪で隠していた。耳に入って来る音楽は何度も聞いたものでなんの目新しさもなかったけれど、その音楽は真里亞の心を落ち着けるだけの効果ぐらいは持っていた。3日ぶりに出た授業は哲学の授業だった。けれど、世界がある、という自明のことがぐらぐらと揺らいでくるような気がして真里亞は哲学が嫌いだった。
神は死んだ。殺したのは人間だ。その通りだと思う。理解できる、そのことはわかるのだ。では、神が死んだとすれば、私は今、何に怯えているのだろう。真里亞はエアコンの冷風にさらされた肩を摩った。やはり自分に見えない誰かに、神に、すべてを見られている気がした。
「ねぇ、哲学のレポート、何書けばいいかわかんない」
バイト帰りの真里亞は、部屋のベッドに横になったまま、恋人の佐倉にそう話かけた。佐倉は課題として出された本を読んでいる途中だった。わずかに視線をあげた彼と少し目があった。佐倉は呆れたように唇を歪めて笑った。
「どうせまた授業中、イヤホンつけてて聞いてへんかったんやろ」
佐倉は哲学科の四年生で、しかし就活もせず院試の勉強もしていない。彼もまた真里亞同様、まるで宙ぶらりんの生活を送っていた。彼は、哲学科の人間の割に課題以外では哲学書を読まず、部屋でぼんやりとしているだけなのに、残念ながら真里亞と違って要領がよかった。佐倉はもう大半の単位は取り終えていて、後は卒業論文を書くだけだ。
真里亞は自分の部屋でベッドに裸の体を横たえてマッチを擦っていた。マッチに火をつけて、しばらくするとベッド横のナイトテーブルに置かれたグラスへそれを投げ入れるという遊びを、彼女は、少なくとも佐倉と出会ったころからずっと続けている。マッチを擦りながら真里亞は、小さな声でアヴェ・マリアを歌っていた。おめでとう、マリア。佐倉は苦々しい思いでその訳を思い出していた。真里亞の生い立ちや苦悩を知っている佐倉からすれば、神やキリスト教なんてものはなんの救いにもならないもので、捨ててしまえばいいのにと真里亞を見ていてそう思う。それでも捨てられない真里亞が、小さな声でアヴェ・マリアを歌っているのを聞くと、佐倉は名状しがたい気持ちになった。佐倉は無神論者だった。それは真里亞に出会う前からで、佐倉は家庭に恵まれていなかった。アルコール中毒で暴力を振るう父とその奴隷のような母に育てられた佐倉は、家族の愛なんてものを信じていなかった。幼い頃から、神なんていない、いるなら俺を助けてみろと、佐倉はずっと念じ続けてきた。佐倉は大学進学と共に家を出た。それで彼はやっと救われた。自分を救うのは神なんかじゃない、自分の努力なのだと佐倉は確信した。
真里亞の家のエアコンが壊れたので、彼女は数日佐倉の家に泊まりに来ていた。けれど佐倉は友人とキャンプに行く用事があったので、真里亞は佐倉の家で一人だった。佐倉が数日ぶりの我が家に帰ってくると、真里亞がベッドの上でだるそうに目を開けて横になっていた。
「ただいま。今日バイトは?」
「ない、そんなことよりも」
その林檎、腐ってる。真里亞は上体を起こすこともなく重たげに腕だけを上げ、あけ放たれたドア越しのキッチンに置かれていた林檎を指差した。静かに林檎を指を指す真里亞はまるで死んでいるみたいだった。佐倉はぞっとした。けれど言われてみれば、久しぶりに帰ってきた部屋には甘さを通り越し、酸っぱい匂いが立ち込めていた。その林檎は、佐倉の実家から送られてきたものだった。故郷から送られて来た林檎。佐倉はどうしてもそれを食べたくなくて、また触れることさえもしたくなくて、置いたままにしていた。そうすれば真里亞が捨ててくれるかもしれない、と微かに期待していた。佐倉はキッチンの一角にそろそろと近づき、林檎を嫌々手に取った。それはどろりと溶け出していた。小さな蠅が林檎に止まったり、そこから飛び立ったりを繰り返している。
「なんで捨てへんかったん?」
佐倉は単純に不思議だった。
「それ実家からでしょう?悪いかなって思って」
真里亞のその感覚が佐倉には不思議に思えた。いくらそれが実家から送られてきたものとは言えど、腐った林檎はただのゴミだ。真里亞はおそらく、家族という考えにとらわれすぎている。両親がいなくなったのだからそれも当然なのかもしれないけれど、家族なんて、ただ血のつながった他人なのに。
「これ捨ててくるわ」
「明日、不燃ごみの日だよ」
「そんなんどうでもええやん」
「掃除のおばあちゃんが困る。すごく優しい人なのにかわいそう」
「けど、家にも置いとけへんしな。しゃあないわ」
真里亞は優しい人にめっぽう弱かった。普段は、人生に疲れ切ったという表情ばかりしているのに、人の真心みたいなものに触れると、目を輝かせて喜ぶ。そんな真里亞を見ていると、彼女はこんな風でいいのだろうか、と佐倉は不安になる。しかしそこで、ふいに熱い肌が佐倉の腕に触れ、彼の思考はかき消された。キャミソールにジャージ姿の真里亞がコンビニの空の袋を持って隣にぴったりと立っていた。
「捨てよう」
真里亞はそう言った。清掃員のはなしはどこにいったのだろう。しかし真里亞の瞳にはいつも力があった。ただ、腐った林檎を捨てるだけなのに、その言葉には、まるで故郷を「捨てる」ような、そういうなにかタブーを犯すような意味合いが含まれている風にすら感じられた。真里亞にさえも佐倉は家族の話をあまりしなかった。昔の話をするのを佐倉は嫌がったし、真里亞もそれを強いなかった。けれどある程度察しはつくのだろうし、真里亞は林檎を佐倉自身の手で捨てさせるために腐ったそれを放っておいたのかもしれない。故郷を捨てる。林檎はその象徴のようだった。
「・・・そやな」
真里亞のその強い目に押されて、佐倉は林檎を真里亞の差し出す袋に突っ込んだ。
真里亞は夜勤明けの疲れた体を引きずってメイクも落とさずに、自宅のベッドに横になった。時計を見ると、朝の6時半だった。誰もいない部屋に、たった1人でいると、いつも以上に、見られている、という感覚は強くなった。
「主よ、私を見ないでください」
そう呟いた後、真里亞は半ば意識を失うように深い眠りについた。
夢の中で、真里亞は迷路に閉じ込められていた。しかし成人していると思われる男性の声に導かれ、彼女は迷路を進んで行った。誰の声だろうと真里亞は初めそう思った。けれどそれは、父の声だと、迷路を出てから気づいた。そして迷路の果てには、父の姿があった。お父さん!真里亞は叫んだ。そして彼に抱きついた。父は病気になる前の元気な姿だった。お父さん、今どこにいるの?父は微笑むだけで答えなかった。お父さんは、もしかしてーー。真里亞は涙ぐみながら言った。「死んじゃったの?」父はその問いにも答えてくれなかった。「お父さん、神様は?神様は救ってくれた?お父さんは今幸せなの?」
真里亞は父にきつく抱きついて尋ねた。父は目を細めて、静かに首を横に振ると、やっと唇を動かした。
「真里亞、自由になりなさい」
どういうこと?お父さん、神様はいないの?真里亞がそう泣きながら尋ねているのに父は少しずつ消えていくのだった。まるで砂のようにさらさらと。真里亞は叫んだ。
「お父さん!!」
真里亞は自分のさけび声で目を覚ました。涙が止まらなかった。神様は?神様はいないの?父は真里亞のその問いに答えなかった。それが全てだった。真里亞はしばらくのあいだ1人でひっそりと泣いた。何もかもが空虚に感じられた。
そして真里亞はシャワーも浴びずに、佐倉の家に向かった。まだ朝の8時前だった。けれどただ、彼に会いたいと思った。
「真里亞、どうしたん」
ドアを開けた先にいた佐倉に真里亞は思わず抱きついた。汗臭いかも、と思ったのは抱きついてからだった。
「一緒にお風呂はいろ」
佐倉を見つめてそう言うと、彼は黙って頷いた。お湯をためている間も真里亞と佐倉は無言だった。真里亞の泣きはらした目や常ではないような様子を見て佐倉は理由を一度尋ねたけれど、怪我をしたりさせられたわけではないとわかると、それ以上は聞いてこなかった。
風呂が沸いたと小さな通知音がした。佐倉は真里亞の手を引いて彼女を立たせると風呂場へと連れていった。佐倉はそのまま風呂場で彼女の服と下着とを脱がせた。子供にするみたいだと思いながらも、真里亞は相変わらず下を向いたままだった。浴槽から桶に湯をとって掛け湯をしてから佐倉は浴槽に浸かった。真里亞は俯いたまま浴室の椅子に腰掛けていた。佐倉はどうしていいかわからないまま、とりあえず真里亞を見ていた。すると真里亞はいきなりシャワーを取ると勢い良く蛇口をひねった。シャワーからは大量の冷水が出てきた。
真里亞は冷水を真正面から浴びた。あまりの冷たさに肩がびくりと跳ねた。
冷たい!そう感じたときに、真里亞はすべてがわかったような不思議な感覚に包まれた。母が死んだこと、父がいなくなったこと、神を信じられなくなったこと、自分の身に起きたことすべてが輪のように繋がった。自分を死んで亡くなった母と、聖母マリアのようになるようにと安直に娘に真里亞と名付けてしまうような父。そしてそれを奪っていった神という存在。
いつまでも続く冷水は、降り注ぐ雨のようだった。
「あ!水のままになってた!」
佐倉の焦って蛇口をひねり、水を止め、温水に切り替えようとする手を真里亞は強い力で握った。
真里亞?そう声をかけられても真里亞は黙っていた。神は死んだ。人間が殺した。いやちがう、最初から神はいない!真里亞は笑った。初めは聞こえないような小さな声で、しかしやがて彼女は大きな声で笑い始めた。父の、自由になりなさいという言葉だけが思い出されていた。天にいるのは死者だけだ。神はいない。神はどこにもいない。初めから、全部、思い込みだったのだ。
「神様なんていない!」
佐倉は呆然とした表情で、水を浴びる真里亞を見つめている。
「佐倉、神様なんていないの!だから私は自由よ!」
真里亞は濡れた髪をかきあげると、佐倉の方を向き笑いかけた。そんな彼女の様子に驚き、言葉も出ない佐倉に真里亞は、ぎゅっと蛇口をひねって水を止め、浴槽に飛び込んで、佐倉に抱きついた。水しぶきが目に入って目元をこする佐倉に真里亞はキスをした。なんだそういうことか、真里亞はすべてが1つの輪になるその不思議な感覚を佐倉ごと抱きしめて笑っていた。もう誰のまなざしに悩まされることもない。真里亞は、その自由を噛み締めて笑っていた。
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