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作品ID:82
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約35717文字 読了時間約18分 原稿用紙約45枚
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天使がくれた青春
作品紹介
はじめまして。殿智と申します。
『学園』、『時間逆行』と目新しくない設定ですが、自分なりに表現してみました。
感想、批評、なんでもけっこうですのでご意見いただけたら嬉しいです。厳しい指摘なども、成長に繋げていくつもりです。
よろしくお願いします。
『学園』、『時間逆行』と目新しくない設定ですが、自分なりに表現してみました。
感想、批評、なんでもけっこうですのでご意見いただけたら嬉しいです。厳しい指摘なども、成長に繋げていくつもりです。
よろしくお願いします。
プロローグ
気づけば俺には一人も友達がいなかった。
幼い頃から読書が好きだった俺は貪るように本を読んで育った。そして物語の中に描かれる友情や愛情に強い憧れを抱いて、自分もいつかはこんな友人や恋人に出会いたいと願った。
そんな俺も中学時代には、多くの人がそうであるように『現実』と『物語』は決して同一ではないのだと気づかされることになった。現代の子供にしてはそれはかなり遅かったかもしれない。きっかけはありふれた出来事だったけれど、馬鹿みたいに物語の友情を信じていた俺を絶望させるには十分だった。
現実は辛く厳しい。物語のように理想に溢れていない。
人は特に理由がなくても他人を傷つけるし、特に理由もなく、人は不幸に見舞われる。
現実は不条理で、理不尽だ。
俺はそんな当たり前のことに酷く衝撃を受けて、現実を恨んだ。
高校に入る頃には俺は積極的に他人と関わろうとしなくなった。物語のような崇高な友情は現実にはないのだと、そう思い込んだ俺にはクラスメイトが口にする友達という言葉がその場限りの軽薄なものに感じられた。
幸い――といっていいものかわからないが、そんな俺はクラスメイトから『クールキャラ』として認識され、特別親しい友人ができたわけではないが、苛めにあったり疎外されたりすることもなかった。
そんな調子だったから高校を卒業すると同時に同窓生との交流は絶たれ、大学に入っても親しい友人ができることはなかった。
友達ができないのは自分のせいだということは解っていた。いい歳して作り話のような友情を追い求め、他人と関わろうとしない。もしかしたらそこには現実なりの、物語とは違っても確かな友情があるかもしれないのに――そこに踏み出そうとしない。『現実にそんなものがあるはずがない』と現実を厭うことで臆病な自分を肯定して。
そうして悩むことから逃れるように、読書ばかりして、日々を過ごしてきた。
結果、俺は最後まで本物の友達を得られないまま、この世を去ろうとしていた。
一 天使
大学に入学して四度目の春、俺は一般的な大学生と同様に就職活動に勤しんでいた。特になりたい職業があるわけでもないので金融や保険などの大量採用を行う企業を中心に受けることにした。
その日面接を受けたのは大手の銀行だ。
帰り道を歩きながら面接で訊かれた質問を思い出す。
『あなたは社会に出て働くということをどうのように考えていますか?』
その場では書店で売られる面接対策本に書かれているようなマニュアル通りの答えを返した。
けれど、本当のところどう考えているのだろう。
『社会責任』?
そんなものを感じたことなどない。その言葉で使命感に燃えるようであれば苦労はしない。
『自己実現の手段』?
実現したい自己を――想像することができない。
『経済的自立』?
両親に迷惑をかけ続けることはできないから、それはある。けれど読書以外に趣味もなく、酒も煙草もやらない俺には高い給料は必要ない。それこそフリーターとしてでも生きていくのでも問題ないだろう。
というか極論、厭世を気取っている俺からすれば、生きるということにすら大きな魅力を感じないのであって、そんな俺が働く意義なんてものを思いつくことなどできないのだろう。
なんとなく、生きているだけ。
生きることにも死ぬことにも積極的になれず、
なんとなく、死んでいないだけ。
だから――突然信号無視の自動車が突っ込んできて、俺を撥ねて、体が宙を舞って、アスファルトの地面に叩きつけられて、地面の冷たさと流れ出る血液の熱さを他人事のように感じているときさえ――死ぬことに恐怖を感じることはなかった。
ただ、
(ああ、結局自分の殻に閉じこもったまま人生を終えるのか……)
と思った。
(もしやり直せたら、友達を作るため、自分を変えられるだろうか)
馬鹿げているとは思いつつ、そんなことを想う。
(そう。馬鹿げている。俺はこれから死ぬっていうのに。――俺は、終わろうとしているのに)
仰向けに転がった俺の周りに人が集まってきているようだ。けれど視界はぼやけていてよく見えないし、音もフィルターがかかったようでよく聞こえない。
俺を轢いた車の運転手はどうしただろう。逃げただろうか? いや、これだけ人目があったのだからそれはないか。居眠り運転だったのか、それとも飲酒運転か。どちらにせよ、関係ないのだけれど。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
どくどくと血が流れていくのがわかる。
それが物凄い量だということも。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
痛みはない。
けれど体が重くて動かない。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
恐怖は、ない。
悔いは――、
ないといったら、嘘になる。
――どころか、
(後悔だらけだよ……ちくしょう! もっとがんばってみればよかった。いろんな人に話しかけて、たくさん裏切られても、話しかけて。そうしたら、一人くらいできたかもしれないのに――親友と呼べる、友達が……)
涙が流れたかどうかは、わからない。
その嘆きは声に出したようにも思うし、音にならなかったようにも思う。
意識が遠のいていく。
思考することさえ困難になる。
世界は白く、音は無い。
ぼんやりと、想う。
(俺はあんなに嫌っていた『現実』に、これほど未練を抱くのか)
驚いたように、呆れたように。
と、そのとき、
「おめでとうございますぅ!」
間の抜けた声が耳に響いた。明るい少女の声だ。
(――!)
なんだ? なんだ? なんだ?
周囲の音は完全に聞こえなくなったはず――うん。今も聞こえていない。視界も白いままだ。
「あなたは『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーンに当選しましたぁ!」
もう一度、声。
次の瞬間、目の前に少女が現れた。
「いやぁ、お客さん、運がいいですネ! どのくらい運がいいかっていうと適当に時計を見たら三時三分三秒だったときくらいですぅ――『アラシカブ』!」
なぜ、花札!?
しかもオイチョカブだと!?
――違う、突っ込みどころはそこじゃない! こいつの格好だ。
中学生くらいの幼さの残る容姿。栗色のショートヘアーに白いワンピース。そして――背中には白い羽。頭の上には金色に輝く光輪。
わかりやすいくらいに、天使だった。
ふわふわと、浮いていた。
「…………」
俺は呆然としてその少女を眺める。
「……すいませーん? なにかしらリアクションくださいませんかぁ?」
とぼけた顔して問いかけてくる天使。
「いやまあ驚くのもわかるんですけどねー。自分こう見えて天使歴長いんで死んだ人間の気持ちっていうのが少しは理解できるつもりです」
天使はえへんと胸を張った。
「……天使?」
俺はポツリと呟いた。疑問というより、驚きのあまりつい声が漏れてしまったという感じだ。
そして、気づく。声が出せているということの不自然さに。重症の身であるはずなのに――。
そういえば俺はいつの間にか直立の姿勢になっている――とはいっても視界は真っ白で俺と天使の姿しか見えないから、あくまでも感覚的にだけれど。自分の体を見回しても傷ひとつ負っていないようで痛みも無い。
「そうですー。我輩は天使である。名前はまだない――なんちゃってー!」
やたらとハイテンションだな……。自分のセリフに自分で笑っている。
「……えーと。笑っているところ悪いんだけれど、少し確認させてもらっていいかな?」
「うふふふふ――っと! はい? なんでしょう?」
天使は俺の問いかけにぴたりと笑いを止めて、くりくりとした瞳を向けてきた。
「まず、さっきのセリフからして――というか今の状況からして、俺が死んだってのは間違いないんだよね?」
「そうですよぉ! あなたは死にました。ご愁傷様ですぅ!」
「……これはどうも」
俺のこの返しはどうかと思うが、会話的には間違っていないだろう。――というか『ご愁傷様です』を『お久しぶりです』みたいに快活に言うのはどうなんだ? しかもギャグじゃなくてそのままの用法だ。
と、それはさておき。
『死にました』、か……。
あまり自覚はないけれど、『わけのわからない空間に突然移動して見たまんま天使の少女と会話している』というこの状況が現実だというよりは説得力がある。
つまり、不条理に、理不尽に、何の理由もなく、
俺は死んだ
ということ。
それは、ありふれた――ごく自然な、死。
「そっか。死んだ……のか。そりゃああれだけ血が出てれば――」
「ところがぁ!」
俺のセリフの遮って急に天使が大声で言った。
「あなたは『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーンに当選したので人生をもう一度やり直せるのですぅ!」
『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーン?
「いや、それさっきも言ってたけどどういうことなんだ?」
天使がよくぞ訊いてくれましたとばかりに顔を綻ばせる。
「ええとですねー。先ほどから死んだ死んだって言ってましたけど実はあれ半分嘘なんですよねー」
「半分?」
「いえ、まあこのままだと死ぬのは確定なんですけどー、現時点では三途リバーの一歩手前って感じなんですよぉ。そして! このキャンペーンに当選した人は望んだ時間をやり直すことができるんですぅ!」
ぱちぱちと手を叩いて言う天使。
やり直す? 望んだ時間を? それって――、
「あなた意識を失う直前に『もしやり直せたら』って想いましたよね? 死の直前にそう想った人の中から抽選で選ばれた人の願いを叶えるのがこのキャンペーンなんです! これってすごいことなんですよぉ。何しろ四年に一人当選するくらいの確率なんですから。オリンピック級ですよー!」
なんとも俗っぽい例えをするな……。いや、もともと神聖視されていた祭典だから、天使が言う比喩としてはあながち間違っていないのか? ……いやいや、そういえばさっき『三途リバー』とか言ってたな。やっぱり適当に言ってるだけか。
「さてさてー。わかっていただけましたか? いただけましたねー? それでは――あなたはいつの時代に帰りたいですかぁ?」
わかったかと言われても――常識的に考えればこんな荒唐無稽な話を理解できるはずもないのだけれど、死後の世界に常識が通じるわけがないんだよな……。
とりあえず、この天使の存在と、この天使の言うことを信じるとして。
やり直せるというなら――、
「ああっとぉ! すみませんー。ひとつ大事なことを言っていませんでした!」
と、そこで天使がまた大声を上げる。
「やり直しの期間は一年間になりますぅ。過去に戻っても一年が経過した段階で現時点の時間軸に戻ります。だから死を避けようと思ったら一番簡単なのは事故の直前に戻って未然に防ぐことですねー。その場合は現時点に戻った段階でキャンペーンは終了。人生続行、ってなわけですぅ」
「……それ、超重要じゃねえか……」
「うふふー。すみません。決める前に思い出したんだから許してくださいー!」
天使は悪びれもせずニコニコとしていた。
「反省してますー。どのくらい反省してるかっていうと見え見えの筋引っ掛けのリーチに一発で振り込んじゃったときくらい反省してますぅ」
「今度は麻雀ネタかよ! 天使の癖にギャンブル狂かよ!」
花札に麻雀。俗っぽいどころではない。しかもチョイスが渋い。
――落ち着け、俺。死んでまで突っ込みキャラを覚醒させている場合じゃない。
心を落ち着けて天使の説明について考える。
一年間、か。
「ふむ……」
確かに普通に考えたら天使の言う通り、事故の直前に戻るのがいいのだろう。
けれど――、
俺は生きていたいわけではない。
俺が願ったのは生きることではないのだ。
俺が願ったのは、友達――たった一人でもいいから、死を前にして姿を思い浮かべられる、そいつだけは友達だったと誇れるような、そんな存在。
もし俺が事故を避けて人生を続けたとして、俺は変われるだろうか?
この経験によって心を入れ替えて、友達を作るべく他人に接することができるのだろうか? できたとして――大学生活はあと一年。なんのサークルにも所属せず、ただ授業と課題をこなしていただけの俺に友達ができるか?
それが無理だったら社会人となってから友人を探す? 社会に出ていないから憶測でしかないけれど、それは難しいんじゃないだろうか。不可能ではないだろうけれど会社という枠組みの中で友達と呼ばれるような関係を築くのは困難だろう。
そこまで考えて、俺の頭にある言葉が浮かぶ。
『ドミノ理論』。
そして、
『バタフライ効果』。
取るに足らない些細な出来事が影響してさまざまな事態を引き起こし、結果に大きな差異を生じさせる。
そうだ! 過去に戻って一年間もやり直したら、事故のあった今日の行動は大きく変わるんじゃないだろうか? 一年分もの行動が現在に影響しないはずがない。
確実とはいえない。確実とはいえないが――しかし、やる価値はあるんじゃないか?
もし一年間をやり直して友達ができなければ諦めて死を受け入れよう。
友達ができてそれでもこの日に死ぬのであっても、その運命を甘受しよう。
友達ができて死を避けられるのならそれが最良ではあるが……。
「――決まったよ」
俺がそう言うと、俺が思考を巡らせている間退屈そうにふよふよとあたりを飛び回っていた天使がすうっと俺の前に戻ってきた。
「意外と早かっですねー。助かりますぅ。悩む人だと現実の時間で三日くらい悩むんですよね。そうなると私退屈で死にそうになるんですよぉ。それでは――」
心底嬉しそうに言う天使は、そこで一度言葉を切って、問いかけた。
「――あなたは、いつに帰りたいですか?」
ぞくっと背筋に寒気が走った。
そのときの天使の表情からはそれまでのお気楽さが消えていて――試すような、窺うような、見透かすような、小悪魔的ともいえる微笑に変わっていたからだ。それは、天の使いと呼ばれるに足る神性を感じさせるものだった。ともすれば畏敬の念に駆られ、言葉を発することさえできなくなるような――。
しかし、だからこそ俺は可能な限り力強く、誠意をこめて、答えた。
「――俺は――」
二 知らない顔
目を覚ました俺が見たのは自室の天井だった。
そして、そのことが天使との邂逅が夢でなかったことを実感させた――実をいえば『俺が轢かれたところから既に夢』という可能性も考えていたけれど、それはなかったようだ。
なぜなら俺が見た天井は自室といっても実家のものだったからだ。
俺は東京の大学に入学が決定して実家を出た。そして、キャンパスの近くに安いアパートを借りて一人暮らしをはじめたのだった。それからは年末年始とお盆に帰省するくらいのもので、当然就職活動真っ最中のこの時期に実家に帰っているはずがない。
俺はベッドの上で身を起こし部屋を見回す。
俺が実家を出る前の、記憶通りの様子だった。枕元には充電器に繋がった携帯電話がある。高校生当時使っていた二つ折りタイプの機種だ。それを手にとって日時を確認する。
『20XX年4月7日07時05分』
俺が事故にあった日のちょうど六年前の日付。そしてその日の朝、ということだ。
「……本当に戻ったのか」
天使の言ったことのすべてをその場で信じていたわけではなかったが(当たり前なのだけれど)こうして実際に戻ってみると信じざるを得ない。
この感覚は完全に覚醒時のそれであり、疑いようもなく現実のもの――高校を卒業して、大学に通った記憶のほうこそ夢だったのではないかと思うほどだ。
「天使……ねえ……」
マンガのような展開。
ドラマのような展開。
けれどそれは、望むところだ。
俺はいつだってそんな物語に憧れていたのだから。
「よし!」
俺は両手で頬を強めに叩いて、ベッドから下りた。
二階にある自室を出て、一階へ。
リビングに行くとキッチンに母親がいて朝食を作っていた。母は俺が起きてきたのに気づいて振り返り、
「おはよう。今日から高校生ね」
と言った。
俺はそんな当たり前の光景を見て過去に戻ったという事実を噛み締めて感慨に浸っていたが、母が訝しげに見ていることに気づいて「おはよう」と挨拶を返した。
それから俺は顔を洗いに行って、食卓に戻った。その頃には既に朝食の支度が済んでおり、母と向かい合って座って朝食を取った。父は普段七時前には出勤していたはずだ。今朝もそうなのだろう。
食事を済ませて部屋に戻る。
俺はクローゼットにしまわれた制服を取り出した。卸したての真新しい学ランは生地が硬く、独特な匂いがした。
制服に袖を通し、姿見に全身を映す。
俺の記憶にあるのは二十一歳の自分の姿で、鏡に映っているのは十五歳の自分の姿だ。身長は低く、どこかあどけない。六年で劇的に容姿が変わったというわけではないけれど、だからこそ逆にその微妙な違いが気持ち悪い。
(まあ、じきに慣れるか)
そう考えて、鏡から離れた。
自分の部屋とはいえ、六年も昔のことなので持ち物をそろえるのに手間取ったが、なんとか仕度を終えると俺は家を出た。学校までの道のりは自転車で二十分といったところだが、さすがに三年通った学校への道のりは忘れていない。
こうして俺は『やり直し』一日目をスタートさせた。
俺が天使に願ったのは、
『高校の入学からやり直したい』
ということ。
なぜ高校かといえば、そこに大きな理由があるわけではなくて、『友情』といえば『青春』、『青春』といえば『高校時代』、という安直な発想からだった。
そういう理屈で言えば、それ以前――中学時代に戻るという選択肢もあるにはあるのだけれど、中学校時代には嫌な思い出があるからできるなら戻りたくなかった。その思い出を払拭するべく戻るということさえ、したくない。それに――あの出来事は避けようと思って避けられるようなものではない、と思う。避けたくても、変えたくても、どうしようもない現実。そういうものであって、俺一人の認識でどうなるというようなものではなかったのだと。
『やり直し』の期間が一年間であるなら、目標を絞って行動すべきだ。
最終目標は友達を作ること。
そしてできることなら『やり直し』の青春をその友達と過ごしたい。
それらを達成するためには高校入学からやり直すのは都合がよいように思った。
俺の通っていた高校には中学校から俺一人しか進学しなかったのだけれど、それはつまり過去の人間関係がリセットされるということ。小中学校は地元の人間はほとんどが同じ学校に通うことになっていたのでそうはいかない。そのことも『やり直し』に中学時代を選ばなかった理由のひとつだった。
入学式を終えた俺たち新入生は各クラスに向かってオリエンテーションを受けることになった。
六年前の記憶なんてあやふやだからなんともいえないが、ここまではほとんど記憶通りだと思う。実際一度経験しているためデジャ・ビュとはいえないのだけれど、随所で記憶と合致することがあり、その度になんだか妙な気分を味わった。得したと思えるほど都合がいいことではなく、ないよりはマシというくらいの小さなことだ。
たとえば入学式が始まる前にクラス分けの掲示を見に行ったときのことだ。普通なら七クラス分の氏名が書かれた中から自分の名前を探すのは一苦労なのだが、俺には当時の記憶がある。それに従って一年三組の名簿を見ると、すぐに見つかった――『棗遠哉(なつめとおや)』。俺の名前だ。
そんな風だったけれど、とりあえず俺の記憶はそのままに『やり直し』の生活に利用できるということだということはわかった。俺が行動を変えていけば、その行動によって歴史が変わって記憶が役に立たなくなるかもしれない。それでも当分はその心配もないだろう。
ズルをしているようで気が引けるが、これくらいはハンデをもらったと思っておくとしよう。
この記憶を使って、少しでも有利に人間関係を進めなければ……。時間は限られているんだから。
『人間死んだ気になればなんでもできる』というくらいだ。一度死んだ俺ならポジティブに生きることだってできるだろう。
そう考えている今、クラスでは自己紹介が行われている。そのメンバーはすべて俺が知っている通りだ。積極的に関わりを持たなかった俺でも各人がどんなやつだったかくらいは覚えている――なかには覚えていないくらい印象の薄いやつもいたが、それはまあお互い様だろう。
そんなわけで、俺はクラスメイトの自己紹介を聞き流すくらいの気持ちでぼんやりと聞いていた。
自分の番には可能な限り愛想よく笑顔で挨拶をした。別にここで必要以上に印象付ける必要はない。無難に済ませる。それが一番だ。
俺の番が終わり、着席。多少上がってしまったものの、無事こなせたと思う。
ふうと小さく安堵のため息をついて席に着き、残りの生徒の自己紹介を聞く。
『錦慶介』。
テニス部だったかな。気さくなやつだった気がする。
『根岸有香』。
派手な金髪。女子グループの中心になってたな。
『根本春風』。
爽やかな名前だけどアニメオタクだったよな。このころは隠してたけど。
……とまあそんな感じで一言感想よろしく記憶を掘り起こしていく。
「――それじゃあ次は『雛木小夜』さん。よろしくお願いします」
担任教諭が呼びかける。
『雛木小夜』。
ええと――、
どんなやつだっけ? 名前には聞き覚えが……。
(――!)
思わず声を上げそうになった。
そうだ。『雛木小夜』といえば有名人じゃないか。
だって彼女は、
俺たちが高校三年になった春に、
死んでいるんだから。
俺は思わず振り返った。俺が座っている列の最後尾――『雛木小夜』と呼ばれた少女は席から立ち上がったところだった。
「雛木小夜といいます。父の仕事の都合で中学卒業と同時に東京から引っ越してきました。なのでこちらには友人が一人もいません。みなさん仲良くしていただけると嬉しいです」
そう言って彼女は花の咲くような笑顔を浮かべ、一礼した。
綺麗なストレートの栗色に染めた髪がさらさらと揺れる。前髪をピンクの髪留めで押さえていて、白い額が覗いて見える。大人しそうで、儚げで、けれど芯のある眼差しをした――そんな美少女だった。
美少女。
美少女?
(この美少女は――誰だ?)
俺は混乱した。
俺はこんな少女を、知らない。
『雛木小夜』はこんな少女ではなかったはずだ。
これほどの美少女がいた記憶は、ない。
確かに俺は人付き合いを避けていたし、女子にもそれほど強い興味を持っていなかった。
けれど、これほど存在感のある少女の姿を記憶していないなんて、ありえない。
いや、問題はそんなことではない。
『雛木小夜』はこんな容姿をしていなかった。それは間違いのないこと――俺の記憶とこの少女の容貌が食い違っているということが問題なのだ。
どういうことだ?
ここまでは記憶の通りだったはずなのに!
ここは俺の体験してきた過去とは違う世界なのか?
だとしてもなぜ彼女だけが?
俺が彼女を見つめていると、不意に彼女と目が合った。彼女はすぐに目をそらして――少し俯いて――また目を合わせて穏やかに微笑んだ。
俺は動揺しながらも軽く会釈をして返した。笑顔を作れた自信はない。
それからすぐに俺は黒板のほうに向き直った。自己紹介は続いていたが、それを聞いている余裕はなかった。
彼女が目をそらしたとき、その目が不安に揺れていたような気がして、その表情が妙に、心に残っていた。
三 雛木小夜
『雛木小夜』。
自殺した少女。
二年後に自殺するはずの少女。
学校の三階の窓から飛び降りての自殺だった。屋上は安全のために閉鎖されているから学校で一番高いのがその高さなのだ。三階にあるのは三年生の教室――彼女は自分の教室の窓から飛び降りたのだった。放課後、完全下刻時刻ぎりぎりのことだったらしい。彼女が落ちたのを見た人はいなかった。下校を急ぐ陸上部がその無残な遺体を発見して教員に伝えたということだった。
遺書などは残されていなかったが、苛めを苦にしての自殺だろうというのが公の見解となった。彼女が苛めを受けていたのは同じ学年の人間ならたいてい知っていた(俺でも知っていたくらいだ)からその情報が警察まで回ったのだろう。
その事件は世間を騒がすニュースとなったが、それも一時のことですぐに何事もなかったように忘れ去られた。
苛めを行っていたグループも軽い停学を食らった程度で、特に罰されることはなかった。遺書があったわけではないので、証拠不十分だったのだろう。学内に雛木小夜を擁護するような人間が少なかったのもあるかもしれない。苛めていたグループは顔が広く、雛木小夜には友達がいなかった、らしい――このあたりはクラスで噂を耳に挟んだ程度だ。俺と彼女が同じクラスだったのは一年生のときだけだったので噂程度しか知りえなかったのだった。
なんとか記憶を手繰って思い出した彼女の姿は、天然パーマの黒髪で目元を隠し、いつも猫背で俯いている――そんな姿だった。
昨日はあれから『雛木小夜』のことについて落ち着いて考えるため、オリエンテーションが終わるとすぐに教室を出た。周囲のクラスメイトには印象が悪くならないように「親睦を深めたいのだけれど、体調が悪いので今日は早めに帰る」という旨のセリフを残した。
一晩考えたけれど答えが出るはずもなく、『雛木小夜』はイレギュラー分子としてその存在を特別意識しないように決めた。そしてその上で当初の予定通り行動することにした。
そして今日、俺は始業の三十分以上前には教室にいたのだった。
「……さすがに、だれもいないな……」
俺が教室の扉を開けたとき、教室は無人だった。
入学二日目。部活もはじまっていないのでこの時間に人がいないのは当たり前なのだけれど、できるだけクラスメイトとの交流機会を増やそうと考えて早く登校したのだ。
俺は自分の席に鞄を置いて、他のクラスメイトが来るのを待つことにした。
窓際に寄って校庭の様子を眺める。校庭には満開を迎えた桜が咲き誇っており、グラウンドでは運動部の生徒たちが朝練に励んでいた。窓を開け放つと心地よい風とともにそれらの生徒たちの上げる声が聞こえてくる。
彼らは同じ部活の仲間であり、友達でもあるのだろう。
独り教室に立つ自分と友達とともに汗を流す彼らとの間に大きな隔たりを感じた。
(――けれど、この隔たりを埋めなくては)
傍観者の座から降りること。
それがこのやり直しの青春で俺がやるべきことだ。
そんな風にして自分自身に言い聞かせ決意を新たにしたところで、ガラッと音がして教室の扉が開いた。
誰が来たのだろうと扉のほうを振り返ると、そこに立っていたのは栗色の髪の美少女――雛木小夜だった。
「…………」
彼女は俺を見て驚いたような表情をして――けれどすぐに笑顔になって、
「おはよぉ! 早いんだねー」
と元気な声で言ったのだった。
「ああ、おはよう。早く来たら誰かいるかと思ってね」
俺も笑顔を作って答える。
「そうなんだぁ。私も同じだよ。誰もいないかと思っていたら先を越されていたんでびっくりしちゃったよぉ。――棗遠哉くん、だよね?」
「ん? ああ。覚えていてくれたんだ。簡単な挨拶をしただけなのに」
「うん。私、人の名前を覚えるの得意だからー!」
彼女はそう言って自分の席に鞄を置く。その間もずっとニコニコと笑顔を絶やさずどこか浮かれた調子だった。
「きみは――雛木小夜さん、だったよね?」
こちらも問いかける。
「そうだよー! 覚えてくれたんだ! 嬉しいなぁ。私って影薄いから印象に残ってないと思ってたよ。どれくらい薄いかっていうかっていうと9Hくらい! 鉛筆の一番薄いやつね。売ってるの見たことないけど!」
また、笑顔。けれどこのときの笑顔は本当に嬉しそうで――それまでのどこか作り物めいた笑顔とは違っていた。
しかし今朝の雛木さんはテンションが高い。『今朝の』とは言ってもやり直す前の彼女とは別人のようだし、昨日にしても俺はすぐに帰ってしまったから、それが今朝に限った特別なことなのかはわからないけれど――少なくてもこの子が二年後に自殺するなんて信じられない。
「よろしくねー! 遠哉くん! 昨日も言ったと思うんだけど私こっちに越してきたばかりで友達がいないんだ。だから友達になってくれると嬉しいな」
「こちらこそ。東京から来たんだったね。まだこっちの生活に慣れないかもしれないけれどできるだけ力になるよ。俺、ずっとこのあたりに住んでるから」
「うわぁ! 感激だよー。最初の友達がいい人でよかった。ずっと不安だったんだぁ。どれくらい不安だったかって言うと扇風機くらい――それはファンだろ! ――なんちゃってー」
雛木さんはその場で軽く飛び跳ねるようにして喜んだ。「えへへー」と笑う彼女の髪がふわりと揺れる。
「ねえねえ。遠哉くんは部活とかなにか入るのかなー? 私はまだ決めてないんだけど」
「うーん。そうだな。俺もまだはっきり決めているわけではないのだけれど、なにかしらやろうとは思っているよ。運動はあまり得意じゃないから、文科系の部活を探そうかな」
そうは言ったけれど、実のところ運動が苦手というわけではなく、大抵のスポーツなら人並み以上にこなせる。どちらかといえば『あまり好きではない』という感じだ。もちろんやり直すからにはそういった考えを捨てて運動部に入るというのもアリなのだけれど。
「へー! 私も文科系で部活探そうと思ってるんだぁ。おそろだね! 文科系ならー、吹奏楽部かな。でもでも私、楽器なんてやったことないし。合唱部? 歌は苦手だし……うーん、他には――」
「――文芸部、とか?」
俺はなんとなく、そう言った。俺としても文芸部に入部することを考えていたわけではないけれど自分が読書好きだから、なんとなく思いついたのだ。
「――文芸、部? ……そ、そうだね! 文芸部もあるね。でも、あれじゃない? なんとなく文芸部って根暗っぽくないかな? パッとしないっていうか……」
「そうかな? 俺は別にそうは思わないけれど」
「あ! いや、別に、なんとなくそう思うだけだよ? 特に理由があるわけじゃなくて。私、本とかあんまり読まないから印象湧かなくて。でも。うん。文芸部もいいかも! 見学に行ってみようかな」
雛木さんは俺が文芸部に入ろうとしていると思ったのか慌てて弁解した。
その表情はそれでも笑顔だったけれど、誰の目にもわかるだろう、苦し紛れに取ってつけたようなものだった。
と、そこでまた教室の扉が開く音がして、二人の女子生徒が入ってきた。
確か名前は――、『秋野梢』さんと『殿村優花』さん、だったと思う。二人とも運動部に所属していたはずだ。
二人は「おはよー」といいながら教室に入ってきた。俺たちも挨拶を返した。
「早いねー。私たちが一番かと思ってたのに」
と秋野さん。
「そうそう。『私たち早すぎじゃない』って梢と話してたのに。なんかちょっと悔しいなあ」
これは殿村さんだ。
「えへへー。私だって遠哉くんにさき越されちゃって同じ思いしたんだよ――と、それはともかく。秋野さんに殿村さん、これからよろしくねー!」
雛木さんがそう言うと「名前覚えていてくれたんだ」と先ほどの俺と雛木さん同様の会話が繰り返され、そのまま女子三人で会話が始まった。
俺はなんとなく居辛くなって「ちょっとトイレ」と言って教室を出て――トイレでその行動を反省し――戻ってきた頃には教室には十数人の生徒が集まっていた。
それから自分の席の近くの男子生徒と話をして、あっという間に朝のホームルームの時間となった。
担任教諭の言葉を聞きながら、俺の記憶とは全く異なる雛木さんのことを考え、その口調が誰かに似ているな、と思った。そしてそれが誰なのかはすぐに思い当たった。
ハイテンションで語尾を延ばした喋り方。
特徴的な「えへへ」という笑い方。
それに度々会話に挟んでくる妙なたとえ。
天使だ。
今の雛木さんの口調は俺が死んだときに出会った天使そっくりだ。
たとえに関していえば、あのときのほうがネタがマニアックでレベルが高かったようだけれど――いや、そんなことは関係ないか。
これには何か意味があるのだろうか?
それとあのとき――、
俺が『文芸部』の名前を出したときに見せた驚いたような雛木さんの表情。あれにはどんな意味があったのだろう。あのときだけ彼女は仮面を剥がれたように素の表情を見せたように感じた。
一晩悩んで雛木さんの存在は気にしないようにと決めたのに、ついさっきの会話だけでそれは揺らいでいた。結局ホームルームの間中、彼女のことを考えていた。
四 とある放課後 其一
入学から一週間が経って、進学したての一年生のクラスも少しずつ落ち着きだした。
このときすでに俺のクラス、一年三組のなかにも『仲良しグループ』といわれるようなものができはじめていた。
男女ともに『運動部系グループ』、『文科系グループ』、そして『どちらにも属さないグループ』の三つができて(当然そのどれにも属さない人もいたが)、クラスの中心となったのは『どちらにも属さないグループ』だった。
『どちらにも属さないグループ』というのは帰宅部を宣言した少数の人々で、彼らに言わせれば『高校に入ってまで部活動なんてやってられない』そうである。男女のそのグループに属するのは髪を明るく染めたり、早くも制服を着崩しているようなやつらだ。不真面目――と決め付けるのもどうかと思うが、まあ真面目な連中ではない。俺の記憶ではここに属している中の数人は卒業までに飲酒や喫煙で停学を食らうことになっている。
「よお、遠哉! お前まだ部活決めてないよな?」
担任教諭が放課を宣言して、クラスメイトが思い思いに席を立ち始めたとき、一人のクラスメイトが話しかけてきた。『錦慶介』、俺の後ろの席に座る男だ。
「決まってないならテニス部とかどうよ? 俺もテニスなんかやったことないんだけど、高校から始めるやつも多いんだってよ。まあなにより女子テニス部にはかわいい子集まるからな」
「うーん……まあ悪くはないかな」
「だろ? 今週いっぱい仮入部期間だから一回行ってみようぜ」
「そうだな。考えておくよ」
そう返すと錦は「うっし! 頼むぜ」といって笑って席を離れていった。
この一週間で俺は『運動部系グループ』と親しくなった。理由は簡単で、今話していた錦がそこに属していたからだ。錦はフランクに誰とでも話すので彼を通して他の連中とも親しくなった。錦はルックスがいまひとつでどうにも三枚目といった感じなのだけれど、その人当たりの良い性格から『どちらにも属さないグループ』にも気に入られていた。
それにしても、部活――ね。
確かにそろそろ部活も決めなくてはならない。
後から入部することもできなくはないのだろうが、人間関係を円滑に構築するためには最初から入っていたほうがいいだろう。そう考えればテニス部という選択肢はなかなかいいように思う。うちの高校のテニス部は部員数が多いというのがまず第一で、それに加えて錦が言っていたように女子と親しくなれるというのがある。別段女子と親しくなりたいというふうに考えているわけではないけれど、『男女関係』というのは高校生の共通言語のようなものだ。女子とも親しくなっておいたほうが友達作りに有利に働くはずだ。
(こんな風に打算的に考えるのも悪い癖かな……)
とそんな風に内心で嘆息したとき、教室の後ろのほうで女子の甲高い声が聞こえた。
「えー! 小夜、部活なんか入るつもりなの? やめときなよ。あんなの疲れるだけだって」
そちらを見るとそこには雛木さんを囲んで三人の女子が立っていた。女子の『どちらにも属さないグループ』。今の声はその中でもリーダー格の根岸有香のものだ。
「なんでなんでー? 楽しそうじゃない? 私が部活入ってたら変かなー?」
雛木さんは無邪気な笑顔で尋ねた。
「変だよー。部活に入ってがんばったってなんの得もないじゃん。時間の無駄だよ。そんなことするならバイトでもしたほういいって」
根岸さんの取り巻き二人(俺の記憶では三年間ついて回っていた)も「そうよそうよ」とうなずいている。
「そんな暇あったら適当に街歩いてナンパ待ちやってたほうがまだましよ。メシ奢ってもらえるし。それにたまにはアタリ引いてイケメンと知り合えるかもしんないしー。小夜もかわいいんだからその辺歩いてるだけで男寄ってくるって」
根岸さんと取り巻きが「キャハハ」と笑った。
それを見ている雛木さんは笑顔だったけれど、それはやっぱり仮面のような作り物めいたものだった。
「そっかなー。だったら部活はやめておこうかな。ナンパとかは怖いけど……アルバイトはいいかも。かわいい服欲しいしなー」
「でしょでしょ! それがいいって絶対!」
俺はその様子を見ながら帰り支度を整え、教室を後にした。
下駄箱に向かいながら雛木小夜のことを考える。
彼女は先ほど見たとおり『どちらにも属さないグループ』と親しくしているようだ。
とはいっても彼女の意思でそこに所属しているというわけではないのだろう。雛木さんはグループ問わず仲良くしようと話しかけているようだ。それは男子に対しても同様で、自分の容姿を鼻に掛けたところなく気さくに話しかけていた。それゆえに男女問わず、グループ問わず、好かれているのだった。
ではなぜ根岸さんたちとよく一緒にいるのかといえば、それは根岸さんたちのほうから雛木さんに寄っていっているからだ。
俺は自分が打算的な考え方をするので、他人のそう言った考え方にも鋭いのだが――根岸さんの行動はまさにその打算であるように見えた。彼女の雛木さんへの態度を見ていると心から親しくなりたいと思っているようにはとても思えない。男女ともに人気のある雛木さんを味方につけることで自分の発言力を高めようとしているのではないだろうか。
そういう風に考えるのは俺が持つ『やり直し』前の記憶のせいもある。
俺の記憶では、根岸さんは入学早々にクラスの中心に立ち、男子のリーダー格でさえも逆らえないような絶対的な発言力を得ていた。高慢に、横暴に、気に入らないもの総てを排除しようとするその姿勢は、影で『女王様』などと揶揄されるほどだった。(もちろんそんなことを言っているのがばれた者は徹底的に干されることになったが)
ところが、である。
今回のやり直しの世界ではそのときと違う存在がある。
それが雛木小夜だ。
根岸優花による権力統制が遅れている理由は確実に彼女にあるだろう。
雛木小夜は威圧しない。
雛木小夜は強制しない。
雛木小夜は要求しない。
彼女はただ、笑っている。
けれどその笑顔は根岸優花の存在を霞ませるほどの輝きを持っているのだった。
あれほどまでにプライドが高かった根岸さんが、そんな存在を疎んじていないはずがない。しかし雛木さんの圧倒的なまでのカリスマを打ち崩せず、味方に引き入れることに甘んじているのだろう。内心は忸怩たる思いがあるはずだ。
そして傍目から見ていても根岸優花の態度からそういった感情が読み取れた。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いて、俺が昇降口から出たところで後ろから誰かが駆け寄ってきた。
「おーい! 遠哉くん!」
背中をポンと叩かれる。雛木さんだった。
「帰りー? 一緒に帰ろ?」
「ああ、いいけど、俺自転車だよ? 雛木さんは電車通学だっけ?」
「そだよー。遠哉くんの家駅の向こう側って言ってたよね? だから駅まで。ダメかなー?」
「そういうことなら。喜んで」
「よかったー」と言って雛木さんは笑った。艶やかな髪は陽光を受けて『天使の輪』のように輝きを返していた。
俺が自転車を取りに行く間雛木さんには校門で待っていてもらい、すぐに合流して、帰路を歩み始めた。俺は自転車を押して雛木さんの隣を歩く。
雛木さんの背は低い。百五十センチあるかないか。全体的に発育はよろしくないようだ。とはいってもまだ高校一年生だ。これから成長するかもしれない。
意識の上では最近まで大学生だったので、こんなに見た目の幼い少女と一緒に歩くのは少し照れる。
そんな気持ちを隠すように俺は話題を探す。
「そういえばさっき教室で根岸さんたちと話してたみたいだけど、話は済んだの?」
自然な話題を選んだつもりだ。
「ああ、聞こえてたんだー。うん。ちょっと用あるから先に帰ることにしたの」
「そっか」俺は簡単に答えて、早くも会話が途切れる。
からからとタイヤの回る音を聞いて、数歩。
「――遠哉くんはさ」
「うん?」
「もう、入る部活決めたかなぁ?」
沈黙を嫌うように問いかけてくる雛木さん。
「まだ決められてないんだよなあ。そういう雛木さんは部活入らないの? 教室でそんなこと言っていたみたいだけれど」
「それなんだよねぇ。……うん。優花ちゃんが言ってたみたいにバイトするっていうのもアリかな、って思ったりしてる」
「バイトねえ。俺にはそこまでして買いたいものがないからよくわからないな。――でも、雛木さんがそうしたいならそれでいいんじゃないかな。俺は校則違反だからやめろ、なんて無粋なことを言うつもりはないし」
「そうだね……。ようし! それならがんばってバイト探しちゃおうかなー! どのくらいがんばるかっていうと――」
と、そこまで言って雛木さんは黙ってしまった。
思案するような顔で「むむむ」と唸っている。そんな顔でさえどこか可愛らしい。
しかし、もしかして雛木さん――、
「まさかとは思うけれど……たとえが思いつかなかったとか?」
「――! いやいや、まさかぁ。そんなことないよぉ。間を活かしたエキセントリックなギャグなんだよ!」
バッと俺の顔を見て、両手をぶんぶんと振って否定する雛木さん。
顔は真っ赤である。
ああ。やっぱり思いつかなかったんだ……。
ていうか自分でギャグって言っちゃったよ……。そういうキャラクター設定とかじゃなくて狙ってやってるってバラすのはどうかと思うぞ。しかもそれで失敗するとなると目も当てられない。
「……雛木さん。まずはネタの方向性から考えていこう。ギャンブルネタみたいなのは解ると人が少なすぎるから避けたほうがいいとしても、微妙にマニアックなほうがツボをくすぐるからオススメだ。やりすぎなくらいのネタを使ってツッコミを誘発するくらいがちょうどいい」
同情心から真顔でアドバイスする俺だった。
「ほうほう。なるほどぉ」
そして素直にそれを聞く雛木さん。素直な子だ。
「そうだねー。方向性は大事だよね。……どうしようかな。得意分野はあるけれどマニアックになりすぎてもまずいんだよね……そうだ! みんな知ってる時事ネタなんかはどうかな?」
「ふうん。着眼点はいいかもしれないな。聞こうか」
「この間あった衆議院選挙のときの野党幹事長の発言を引用して――」
「ストップだ! 政治の話はよしたほうがいい。消されるぞ!」
「――急に大声だね……。というか消されるって――」
「あとパロディネタなんかもよくないな。あれもいろいろなところからクレームがくる可能性がある。やっぱりオリジナリティで勝負しないと」
「それは説得力があるね……。そっか、オリジナリティかぁ……。考えておくよ」
「そうしてくれ。健全かつ独創性に富んだネタで頼む」
期せずしてクラスメイトにネタ指導をしてしまった。むしろ俺のキャラクターの方向性が心配だ。あまり変な方向に突っ走ると友達を作るという目標が果たせなくなる。
ちらと隣を窺うと雛木さんはまた「むむむ」と唸っていた。
がんばって早いうちに芸の方向性を見出してほしいものだ。
そんなアホなやり取りをしているうちに駅前通に差し掛かり、駅の向こうに行く俺はそこで雛木さんと別れることとなった。
「ししょー! 今日はご指導いただきありがとうございましたぁ」
別れ際、雛木さんは天使のような笑顔でそんなことを言った。
そして、その笑顔を『天使のよう』に感じた俺は、最後にひとつ訊いてみることにした。
「雛木さん――天使って、いると思う?」
その問いを聴いた瞬間、彼女の表情から感情が抜け落ちたようになった。
「…………」
彼女は答えない。
なんだ? この間は? 頭のおかしいやつだと思われたか?
それとも、彼女は本当に――、
「……なんで、急にそんなこと訊くのかな?」
「あ、いや……別に深い意味はないんだ。ちょっと、そう。昨日そんな小説を読んだから……」
踏み込んではならない場所に足を踏み入れてしまったような、居心地の悪い空気。
しかしそれは、一瞬。
次の瞬間には雛木さんは笑っていた。
「遠哉くんって意外とメルヘンな人なんだねー!」
それから挨拶をして別れ、家に帰った。
五 とある放課後 其二
『雛木小夜は何者なのか』
もはやその疑問は無視できなくなっていた。
俺が『やり直し』をはじめてもう一ヶ月が過ぎ、五月。俺はテレビや新聞を細かくチェックしていたが、経済や政治の大きなニュースや地元であった事件などの印象に残っている出来事は記憶と全く同じ時期に起こっていた。もちろん四月以前の出来事についてもインターネットなどで調べたが、それに関しても同様だった。
クラスで起こる出来事はさすがにここまで俺が行動したことで少しずつ記憶と変わってきていたけれど、それにしたって大きな差異ではない。それに他のクラスや全校レベルで見れば、やはり記憶通りだった。
俺の存在がイレギュラーなのは言うまでもない。
だが、それでは雛木小夜は?
彼女以外のすべてが記憶通りなのに、なぜ彼女だけが異なっているのだ?
『天使』という言葉に異常な反応を見せた彼女。
やはり三途の川の手前で出会ったあの天使となにか関係があるのだろうか?
そうだとしたら、彼女の目的はなんなのだろう。
どうして自殺した少女、『雛木小夜』だけを変質させたのか。
『雛木小夜』が『雛木小夜』であってはいけない理由があるのだろうか?
……こうして悩んだところで答えが出ないことはわかりきっている。
そして、どうすれば答えが出るのかも。
彼女は――『雛木小夜』は確実に答えを知っている。
一緒に帰ったあの日に見せた表情。
けれど次の日あったときにはまた明るい笑顔を見せていた。
俺を避けるようなことはなかったけれど、問い詰めることを許さないような、問い詰められることを怖れているような、そんなふうに見えて――俺はあの日のことを訊けなかった。
彼女のことは気になるが――彼女のことばかり考えて本来の目的を忘れるわけにはいかない。
そちらに関しては、まずまず順調といったところだ。
未だに友達というものを強く実感するには至っていないが、クラスにはそれなりに自然に、溶け込めていると思う。一緒に昼食をとったり、放課後に遊びに行ったり。
部活はテニス部に入った。錦につられて入った形だ。その実態はかなりいい加減で、好きなときに好きな人が参加する、という大学のサークルのようなものだった。それでも俺は週に二三回は顔を出すようにしていた。先輩にも顔と名前を覚えられ、他クラスの知り合いも増えた。テニスはあまり上達していないが。
そんなふうに意識して友達作りを優先させていたから、雛木小夜としっかり話すのは、本当にあの日以来一ヶ月ぶりのこととなった。
「遠哉くんはどんな服装の女の子が好みかな?」
放課後の保健室。向かい合った席に座る彼女が話しかけてきた。
俺たちは保険委員の仕事中。
委員会決めのときに俺は周囲に保険委員になり、女子の側も同様の経緯で雛木小夜に決まったらしい。
委員の人間は月に一度くらい養護教諭に呼び出され、雑用をやらされる。
そして、今日俺たちが言付かったのは保健室利用の書類の整理だった。
「――ん? 唐突だな。それは私服の話?」
「そうそう。別に遠哉くんの特殊な性癖を探ろうっていうわけじゃないよー。何系、とか。あるでしょ?」
天井を指した人差し指をくるくる回しているが、あいにくそのジェスチャーがなにを表しているのかさっぱりわからない。
「ふむ。そうだな――ゴスロリ系とかは大好物かな」
「ええ! 意外すぎるよ! 驚愕だよ! どのくらい驚愕かっていうと高さ一・八メートルしかない世界最小の大仏をはじめてみたときくらい!」
――なるほど。雑学系で責めることにしたのか。悪くない選択だな。
ちなみに世界最小の大仏は千葉県鎌ヶ谷市にある『鎌ヶ谷大仏』だ。大仏の定義自体が曖昧なので名乗ったもん勝ちみたいな感じではあるのだけれど――とにかく小さい。驚愕とまではいわないが、俺もはじめて見たときは驚いたものだ。
「まあ冗談はさておき。そうだな……。そういう『何系』っていうのに詳しくないからそういう答え方はできないけれど、強いて言うなら露出が多すぎたり派手すぎたりっていうのはあまり好きじゃないな」
「そっかぁ。まあ確かに遠哉くんが『ギャル系』とか『お姉系』が好きって言ったら違和感あるしね。それは納得。清楚な感じがいいのかな?」
「別にそうじゃなきゃいけないってわけじゃないけどな。ボーイッシュな感じとかでも似合っていればいいと思うし――で、なんでいきなりこんな話題を?」
「それがね。このあいだ優花ちゃんたちと遊びにいったんだけど、そのときに私服が地味すぎるとかおばさんくさいとか言われちゃって。私としてはそんなことないと思うんだけど、優花ちゃんたち、けっこう派手な服着るから」
優花ちゃん――根岸優花か。まだあいつらと仲良くしてるんだな。
「――見たわけじゃないからなんとも言えないけれど、俺は雛木には派手な格好より大人しい感じのほうが似合うと思うぞ」
この頃には俺は雛木小夜のことを呼び捨てで『雛木』と呼ぶようになっていた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいかなー。でも、やっぱりもっとオシャレについて勉強しなくちゃダメだな。優花ちゃんたちと並んで歩いたときに恥ずかしい思いさせちゃったら嫌だし」
「そういうものかね……。まあ、がんばれ」
「うん! がんばる!」
雛木が両手でグッとガッツポーズのように構えて、笑う。
そこでいったん会話は途切れ、止めていた仕事を再開。
しばらく――五分くらい無言で作業していたが、今度は俺のほうから沈黙を破る。
「なあ、雛木」
「んー? なあに?」
雛木は少しの間書類に向かったまま俯いていたが、すぐにペンを置き顔を上げた。
「雛木は根岸さんたちと、仲良いのか?」
「……うん? どうしていきなりそんな質問なのかわからないけど、仲、良いよ」
確かに会話の流れからして、この質問はおかしい。ついさっき一緒に遊んだと言ってったのだから。
それでも俺がこんな質問をしたのにはわけがある。
入学当初こそ雛木はその圧倒的な魅力で根岸優花に劣等感を抱かせただろう。それがゆえに根岸優花は彼女を敵に回すのではなく味方につけようとしたのだ。
けれど一月をともに過ごすことで彼女は気づいた。気づいてしまった。
雛木小夜が主張を持たない、ということに。
雛木小夜はその魅力を暴力としない、ということに。
つまり、
雛木小夜は根岸優花の敵にはなりえないのだ、ということに。
彼女がそのことにいつ気づいたのかはわからないけれど、ここ最近の二人の様子を見ていると根岸優花の態度がはじめのころと大きく変わっていることがよくわかる。あっという間に立場を逆転させたのだ。
根岸優花は俺の記憶の通りの『女王様』となりつつあった。
そして雛木小夜は『女王様』に支配されつつあった。
それは彼女の無邪気さゆえに。
それは彼女の無害さゆえに。
それは彼女の無垢ゆえに。
俺はそうした関係の変化に気づいたからこそ、先ほどの問いを発したのだった。
その構図に自殺した『雛木小夜』の姿が脳裏によぎったから。
「いや、仲良くやっているならいいんだ。気にしないでくれ」
俺はそう言ってこの話題はこれでおしまいとばかりに書類に視線を落とした。雛木もそれ以上言葉を続けなかった。
俺は雛木の返答から十分に問いへの答えを得ていた。もちろん仲が良いという言葉を信じたわけではない。俺の問いに答えるまでにあった僅かな間――それこそが答えだろう。雛木自身もその関係に疑問を抱きはじめているのかもしれなかった。
これほどまでに記憶と異なった『雛木小夜』が同じ運命を辿るとは考えがたいが――。
「――あー!」
急に雛木が叫び声を上げた。
「なんだ? 急に叫んで?」
「やばいよー。もうこんな時間……今日バイトなのー。遅刻決定だぁ……」
がっくりと項垂れる雛木。こんな表情はめずらしい。
「いいよ。あとは俺がやっとくから急いで向かえよ。どうせ残りはたいした量じゃないし」
「ホントに! 助かるよー。感謝感謝! どのくらい感謝してるかっていうと東大寺の大仏様の螺髪の数くらいたくさん感謝だよー」
「雑学路線かと思ったら仏像路線かよ! 最近流行の仏女かよ!」
ちなみに螺髪というのは仏様の髪の毛だ。あの丸まっているやつである。東大寺の大仏の螺髪の数は九百六十六個――非常にわかりづらいが九百六十六回分の感謝ならけっこうな大感謝といえるか。
「――くっ! 雛木にツッコミを入れさせられる日が来るとは……。しかもこんな短期間で……」
「それもししょーのご指導の賜物であります」
「……ゆけ! 弟子よ、もう俺から教えることはない」
「はい。これからも心に刻んだししょーの言葉とともに邁進していきますぅ! それでは!」
威勢の良い別れの言葉とともに、雛木は去った。
ピシャリと扉の閉まる音を聞いてからしばらくコントの余韻に浸り、残務の処理に勤しんだ。
俺が自分で言ったように残りの仕事はすぐに終わった。
帰ろうと立ち上がって窓の施錠を確認していたとき、俺は床に何かが落ちているのに気づいた。
それは雛木の生徒手帳だった。
帰るとき慌てていたから鞄から落ちたのだろう。俺はそれを拾い上げた。
すると、手帳からひらりとなにかが舞い落ちた。手帳に挟んであっただろうそれは証明書サイズの写真――そしてそこに映っていたのは、
『雛木小夜』だった。
ついさっきまで一緒にいた雛木ではない。
やり直す前の俺の記憶に残っていた『雛木小夜』の姿がそこにあった。
黒い癖毛を目元まで垂らした不健康そうな少女。
『やり直し』の世界で会った明るい、天使のような少女の面影は、ない。
――いや、まったくないとは言い切れない。証明書にさえ俯き加減で移っているこの少女が髪をストレートにして、栗色に染め、前髪を留めて、顔を上げて、微笑んだなら――どうだ?
雛木小夜と似ているのではないか?
わからない。
どうして雛木小夜が『雛木小夜』の写真を持っている?
わからない。
やり直しの世界では雛木小夜は雛木小夜なんじゃなかったのか?
わからない。
この写真に写る『雛木小夜』は誰だ?
俺は混乱し、悩んだ末に写真を手帳のポケットになっている部分に差し込んで、自分の鞄にしまった。
俺はこれを明日雛木に返せるだろうか?
何も見なかった風を装って、冗談交じりの会話ができるだろうか?
――無理だ。
きっと俺はこれを返せない。
そう、思った。
そのとき、すでに本当は真実というものが見えかけていたのだけれど――、
雛木小夜の仮面の下を直視する勇気が、俺にはなかった。
六 雨と真実
『友達を作る』という俺の計画は停滞していた。
クラスメイトからの紹介や部活動で、確かに知り合いは増えていく。そのうちの何人かとはすでに一般的な高校生から見て、『友達』といわれる関係になっているのかもしれない。
それでも俺がどこか納得いっていないのは、やはりそれが上辺だけのように感じているからだろう。これまで俺は自分が特別他人と距離をとって、他人に踏み込まないようにしていたと思っていた。けれど実際に『一般的な』高校生と同様に振舞ってみれば、彼らも俺もたいして変わらないように感じた。
多くの人間は他人との距離をうまく測りながら生きている。
俺はその距離が人より少し遠かった。
その少しが決定的だったのだけれど――。
もうすでに七月。それでもまだやり直しして三ヶ月弱。人間関係を悟ったような気になるには早すぎる。そう考えながらも、『これで本当に運命を変えられるのだろうか』という不安がちらつきはじめていた。
ここのところ雨が降り続いている。
そんな鬱々とした季節のことだった。
――ついに俺はひとつの真実を突きつけられることになる。
ずいぶん前から俺が気にかけていた雛木と根岸さんの関係は徐々に俺の予想通りの形となっていった。特に六月に入ってからは急速に態度が露骨になっていった。
そしてある日の放課後。
連日の雨で部活がしばらく休みなので、俺はたまには読書もいいだろうと図書室に行くことにした。数点の小説を選んで帯出の手続きを済ませそれらを鞄にしまうときに、宿題が出ていた教科の教科書を教室に忘れていることに気づいて、取りに戻ることにした。
教室に戻る途中で昇降口に向かう雛木の姿を見た。雛木はこちらに気づかなかったようで、俯いたように歩いていった。
自分のクラスに近づいたとき、教室から女子の声が聞こえた。誰かが残っているようだ。
借りる本を選ぶのにわりと時間がかかってしまったからもう誰もいないかと思っていたのだけれど――この声は根岸さんだな。
俺は根岸さんにあまりいい印象を持っていないので教室に入るのを躊躇い。隣のクラスの前で立ち止まった。
「ったく、ケッサクだよねー」
ひときわ大きな声。それに続いて笑いが起こる。
いつもの取り巻きが一緒にいるようだ。
「でもさあ、ちょっとやりすぎじゃない?」
「いいんだよ。あいついっつもヘラヘラしててムカつくし」
取り巻き二人が交互に言う。
「そうよ。やりすぎよ――窓から鞄を投げ捨てるなんて」
窓から鞄を投げ捨てる? 誰の? 決まってる――。
「なに言ってんのー。優花がやれっていったんじゃん」
「そうだよ。この、小悪魔ちゃんめー」
三者、哄笑。
それを聞いた瞬間――俺は昇降口に向かって駆けていた。
そして昇降口を出て、自分のクラスの窓の下に目を向ける。
そこに、雛木小夜がいた。
散らばった鞄の中身を拾っている。
雨に打たれながら。
傘も差さずに。
わざわざ鞄を開いてから投げたのか、最初から開いていたのかはわからない。鞄の中身は広範囲に散らばっているようだ。
駆け寄って、手伝おうとして――しかし俺の脚は動かなかった。動けなかった。
今俺が立っている位置にはせり出した屋根があるため二階にある教室からは俺の姿は見えないだろう。けれど、もし雛木に駆け寄ったら――、
俺の姿が根岸さんたちから見えてしまう。
苛められている人間を助けたり、庇ったりしたらどうなるか。
そんなことはわかりきっている。
それは――不条理で、理不尽な、暗黙のルール。
だから、動けない。
雛木がこちら側に振り返ったとき、目が合った。
雛木は微笑んだ。
いつも通りの、天使のような、作り物の笑顔だった。
俺は雛木が荷物を拾い終わるまでその場で呆然と立ち尽くしていた。
雛木はこちらに歩いてきた。俺が視線を離さないでいるので、仕方なくといった感じで口を開いて、
「えへへー。唄でも歌えれば様になったんだけどねー。歌は、苦手なんだ」
と笑った。
「…………雛木、俺は……」
それだけようやく声に出したが、そこから続く言葉が思いつかなかった。
「気に、しないで……」
雛木は俺の横を通り抜けて、昇降口から校舎に入る。
「――待ってくれ!」
俺は振り返り、叫んだ。
「……ダメだよ。大きな声出しちゃ。――見られたら困るでしょう?」
「いいんだ」
「ダメだよ」
「……それでも――」
「……それなら――」
雛木が入っていったのは一階にある家庭科室だった。放課後なので無人だ。
「ここなら、見つかる心配はないかな。絶対とは言い切れないけれど、たぶん、だいじょうぶ」
顔には相変わらず笑顔を張り付けているが、その声の温度は低い。
「電気は点けないでね。下着、透けちゃって恥ずかしいし」
雛木は薄暗い教室の窓を背にして立った。俺は入り口から数歩のところで止まっている。
俺は鞄からハンドタオルを出して、雛木に向けて放った。
「ありがとう。私のは濡れちゃって使えないから――助かる」
雛木は受け取ったタオルで髪を拭いた。
いつもさらさらと風になびく栗色のストレートヘアーは、雨を吸って少しうねっていた。
髪と肌を拭いて――服に関しては拭いても仕方ないと思ったのだろう――そのタオルを胸元に当てる。
「これ、洗って返すね」
「やるよ」
「迷惑かな」
「……わかった。今度な」
「ごめん。こっそり渡す」
そんなつもりじゃない――と言いたかったが、そんなことはわかった上で言っているのだろう。俺は何も言わなかった。
しばらく沈黙が続く。
窓の外で降り続く雨の音。
雛木のスカートから落ちる雫のぽたりと落ちる音。
「――いつか、さ」
静寂を切り裂いたのは、小さく、冷たい、雛木の声。
「遠哉くん、天使はいると思うかって訊いたよね」
「……そんなこと、訊いたかな……」
「いや、忘れてるならそれでもいいんだけれど――」
俯く雛木の表情はよく見えない。笑っているようで、泣いているようだ。
「――私はね。天使に会ったことがあるの」
「そっか」
「信じないよね」
「信じるよ」
驚きは、ない。
「苛めにあってね……。辛かった。死にたくなるくらいに。さっきの鞄のことなんてそれに比べたらおままごとみたいなものだよ――それで、私、死んじゃった」
「…………」
雛木が自殺した年――それは俺が死ぬ四年前。
『何しろ四年に一人当選するくらいの確率なんですから。オリンピック級ですよー!』
天使が何気なく言った、そんな言葉を思い出す。
「死んだはずだったんだけれど、三途リバーの一歩手前っていうところで、天使に会ったの。すごく明るくて、かわいい女の子の天使」
「変なたとえ話ばかりしそうだな」
「でもかわいいの」
「わかる気がする」
「遠哉くんなら、そう言ってくれると思ってた」
そこで雛木はくすりと笑ったようだった。
「それでね。天使が言うの。『未練があるでしょう? やり直したいと願ったでしょう?』って。私は答えたわ――『未練ばかりです。やり直したいです』って……。未練なんて、窓から飛び降りる前に全部捨てたと思ってた――けれど、そんなことなかったって思い知らされた」
雛木は自嘲するように、懺悔するように、言葉を続ける。
『雛木小夜もやり直しをしているのではないか?』
保健室で生徒手帳に挟まれた写真を見てから、俺はその可能性を疑いはじめた。
何もかも記憶通りの世界で二人だけがイレギュラーな存在だというなら――そこに共通項があると考えるのは的外れではないだろう。雛木の存在だけが書き換えられていると考えるより、よっぽど妥当だ。
雛木の口調が天使に似ていたのは、雛木が天使と会っていて、その口調を知っていたから。
雛木が記憶と違うのは、雛木もまた悔恨に満ちた人生を変えようと行動していたから。
「私が死んだ世界でも、私は今回と同じように入学に合わせて引っ越してきた。私は小さい頃から本を読むのが大好きで、それ以外に興味を持てないくらいに大好きで、他人なんてどうでもいいってくらいに思ってた。……いいえ、思い込むようにしてた。単なる臆病者のくせに、自分を誤魔化して、孤独であることを認めなかった。高校に入ってもそれは変わらず、見た目なんか気にしないから、ボサボサの天然パーマで、猫背で俯いて、本ばかり読んでた」
それが――『雛木小夜』。
「――手帳……雛木の手帳、拾ってさ。写真、見たよ」
「ああ。やっぱり遠哉くんが拾ってたんだね。あんまり見られたくないんだけど、遠哉くんでよかった」
「返すよ」
俺は鞄からあれ以来ずっと入れっぱなしになっていた手帳を取り出し、雛木に渡した。近づくとき、濡れた雛木の姿を見ないようにずっと視線を逸らしていた。
渡し終えると、俺はまたさっき立っていた位置まで戻る。
今の俺たちにはその距離がふさわしいように感じた。
「昔の私を見てから今の私を鏡で見ると、変化を実感できたから――お守りみたいなものだったんだ」
雛木はそう言って挟んである写真を取り出し、眺めた。
そしてまた、語りだす。
「『やり直し』の前の世界で――私は文芸部に入っていたの。ほんの気まぐれだった。気が向いて見学に行ったら、部員は三年生の部長一人だけで、受験に専念するから部室を自由に使っていいよって言われて――読書するにはいい場所だったから。でもそのことがどこからどう伝わったのか根岸さんに知られたの。そうしたら彼女はある放課後、数人の友達を連れて部室にやってきて、『こんないい場所独り占めしてるなんてずるいよ。これからここは私たちの溜まり場にするから』って。
それから毎日のようにやってきて、私は雑用扱い。『根暗』とか『キモい』とか言われながら命令されて、用が済んだら『いつまでいるの? 早く帰って』だって。それでも、もし部室に行かないで帰ったら、次の日には今日みたいな悪戯をされるの。それはそれから二年近く、ずうっと続いて、どんどんエスカレートしていって――」
雛木はそこまで言って、すうと息を吸い込むと、顔を上げた。
「――もう耐えられない、って思って、もういいや、って思って、私は、飛んだの」
泣いていなかった。
けれど、
笑ってもいなかった。
それでも、どこか悟りきったような表情だった。
「天使にあったときね。こんな子だったらみんなから好かれるのかな、って思った。自身を持って、勇気を出して、友達を探せるかなって。だから天使が『いつに戻りたい?』って訊いたとき、私は『高校入学の半年前』って答えたわ。半年かけてこの子みたいになろうって思って。髪をいじって、笑顔の練習をして、背筋を伸ばして、明るい声で喋れるように――そうしたら友達できるかもしれないと思った。苛められないかもって思った。遠哉くんに教わったのを参考にして面白いギャグが言えるように練習したし、オシャレするためにバイトもした。でも……ダメだったみたい」
「……まだ、時間はあるんだろ?」
そこでようやく言葉を挟む。自分で言って、なんて空しいセリフなんだろう、と思った。
「あるけど……もうダメだよ。私はもう間違えちゃった。きっと根岸さんは私を手放さない。私はこのまま嬲られて――二年後に、やっぱり飛ぶんだと思う」
「そんな……」
雛木は人生を、変えられなかった。
努力が、行為が、願望が、実らなかった。
天使のくれた機会を、活かすことができなかった。
「……なんてねー! 即興で考えたにしてはなかなかの物語だったんじゃないかな。少しは面白かった? もっと遠哉くんと喋ってたかったけどさすがに体が冷えてきたからもう帰るよー。タオル、ありがとね! 感謝感謝!」
満面の笑顔でそう言って、雛木は俺の脇を通って教室の扉を開いた。
俺は、今度は、止めることができなかった。
雛木が廊下に出て、後ろ手でドアを閉めるとき何か言った気がした。
それは、たぶんこんな言葉。
『――遠哉くんは、間違えないでね――』
七 『やり直し』の終わり
俺が中学生一年生の頃、俺には二人の仲のよい友達がいた。
二人とも読書が好きで、入学してすぐに意気投合して、いつも三人でつるんでいた。
Aは成績優秀、運動神経もよくて――、
Bは成績不良、運動神経も鈍かった。
俺は成績も運動神経も、二人の間に収まっていた。
性格もバラバラの三人だったけれど一緒にいて退屈しない、いい友達だった、と思っていた。
二年生になって、Bだけが別のクラスになった。
新しいクラスになるとAは学年でも有名だった不良に目をつけられた。苛めのターゲットにされたという意味ではない。『仲間になれ』と言われたのだという。なんでも要領よくこなすAだったから、そのことはあまり意外でもなかった。
Aが断れなかったのなら不思議ではない。
けれど――Aは断らなかった。自ら望んで仲間になった。
その真意はわからない。暴力に魅せられたのかもしれないし、権力に憧れたのかもしれなかった。
とにかく、不良グループに入ったAは俺たちと遊ぶことがなくなった。
その半年後に俺が見たのはそのグループの連中とともにBを囲んで、苛めて、笑っているAの姿だった。
俺はBを庇って飛び出して――口元を歪めて嗤うAに殴られた。
夏休み前、期末試験が終わった頃には雛木小夜が苛めのターゲットになったという事実は、もはやクラス中の暗黙の了解となっていた。他クラスの人間でもある程度の人間関係を築いていれば知ることとなったろう。
根岸優花は絶対的な『女王』の座を確固たるものとしていたから、彼女の命に逆らうものはいなかったし、雛木を庇うものもいなかった。
そう。俺も含めて――。
根岸優花に触れないように、かといって離れすぎないように――そのぎりぎりの範囲で生活していた。そして、同様の位置にいるクラスメイトとの間には妙な連帯感が生まれていた。
それはとても友情とは呼べない卑屈で陳腐な関係だったけれど――少なくてもそうしている限りにおいて俺に目をつけられる心配はないだろう。
来年になれば根岸さんとは違うクラスになる。記憶にあるから確実だ。
だから今のクラスでの立ち位置を守って、今のクラスメイトとの関係を守っていれば、最悪の事態は避けられる。もしかしたらタイムリミットまでに目標を達成できるかもしれない。
夏休みには、そんなことを忘れるように親しいクラスメイトと高校生らしく遊んだ。『女王様』の圧制を逃れた開放感からか、みんないつもより伸び伸びとしていた。
街に行った。海に行った。縁日に行った。花火を見に行った。恋愛の真似事みたいなこともした(すぐに終わったけれど)。楽しいと、思った。
そして夏休みが明けて最初に雛木の姿を見たとき、死にたくなるような罪悪感に襲われた。
十月七日、昼休み。
雛木が廊下ですれ違いざまに、
「――昨日また天使に会ったよ。今日まで、だって」
と呟いた。
お迎え――ということだろう。
そういえば今まで考えていなかったが期限が来たらどうなるのだろうか?
主観的な意識が死亡時点に戻されるだけというなら『やり直し期間は一年』ということにはならないだろう。なぜなら今こうしてやり直している俺はその戻された先の俺と連続していなくてはならないからだ。そして、そうであるなら期限が過ぎても『自分がやり直している』という記憶が残り、一年を過ぎても行動を変え続けることが可能になる。
……まあそんなに甘い話はないだろうから、やり直しているという記憶が削除されるとかそれくらいのことはされそうだ。
それも――明日以降の雛木を見ればわかるのだろうか。
雛木小夜の『やり直し』は、今日、終わる。
俺はその日の放課後、部活に行かなかった。
根岸さんたちが毎日教室に残って喋っているのを知っているため俺はホームルームが終わるとすぐに教室を出ることにしていた。
その日もそうしたのだけれど、なんとなく直帰する気にはなれず、図書館に行くことにした。
適当な小説を選び、椅子に座って、思考を放棄するようにして耽読した。
気づくとあっという間に日が傾いていた。ちょうど切りのいいところまで読んでいたので、読むのを中断して帯出手続きを済ませ、帰宅することにした。
昇降口を抜けて、校門へ向かって歩く。
そして――俺はその光景を目にした。
校門の向かって左にある今は花のない桜の木。その根本に――ぺたんと座って読書をしている雛木小夜がいた。鞄とスカートが刃物で切られたように破けていた。
周りの生徒は訝しげな目でそれを眺め、けれど立ち止まらずに帰っていったけれど、俺は立ち止まって動けなくなった。
夕焼けの赤に染まった雛木は――壊れてしまった人形のように、うつろな瞳で手に持った本を読み、口元だけが笑っていて、悲しいくらいに幸福そうな表情をしていた。
下校の風景の中で、学校という空間の中で、そこだけが異質だった。
気づいたら俺の頬に涙が流れていた。
幼い頃から読書が好きだったといった雛木。けれど彼女は『やり直し』の世界では本は読まないと言った。その理由には苛められたときのトラウマというのもあっただろうが、一番の理由はその時間を人と触れ合う時間に当てるためだろう――俺がそうだったように。
俺も、雛木も――自分の弱さを欺瞞で覆って、正当化して逃避していた。
俺たちは似ていた。
俺はいつからか雛木に自分の姿を重ねていた。
だからそんな雛木がやり直しの最後の日に、すべてを諦めて空想に溺れている姿を見るのは、辛かった。
俺たちのような人間だって、『やり直し』というハンデがもらえれば現実世界で幸せを感じることができるんだって――半年分の先輩として、そう示して欲しかった。
俺は涙を流しながら、雛木に歩み寄った。
「ごめんな……。俺のためを思ってわざと遠ざけてたみたいだけれど、もう限界だ」
俺は雛木の目の前にしゃがみこむ。雛木は視線を本から動かさない。
「雛木が運命を変えられなかったのなら、たぶん俺も無理だ……。結局、俺たちには無理だったんだ。悔しいけれど……本当に悔しいけれど」
雛木がぱたりと本を閉じて顔を上げた。
そして右手の指で俺の頬を流れる涙をぬぐった。
「遠哉くんにはまだ時間があるよ。今だって私みたいに苛められてるわけじゃないし、錦くんたちとも仲良くやっているでしょ? 遠哉くんなら、変えられるよ。だから――早く離れたほうが、いいよ」
優しい、声。
「……雛木は――あれだけ辛い目にあっても、俺には希望を持って生きろっていうのか?」
「遠哉くんならできるよ」
「無責任だな」
「責任取るよ」
「死ぬのに?」
「死ぬけど」
雛木は表面だけで笑った。
少しの沈黙。
涙は止まっていた。
もう俺たちの脇を十数人の生徒が通っていった。俺たちの顔を知るやつがいたかもしれない。もしいたら、明日にはこのことは根岸さんの耳に届くだろう。
そうしたら、今クラスで親しくしているやつらとももう口も利けないだろうな。
上辺だけの、脆い関係だから。
「――俺はさ、親友ってやつが欲しかったんだ。小説とかに出てくるような本物のやつ。命をかけてお互いを助け合うような暑苦しいくらいの――」
「いいね。そういうの。私も憧れたな……。うん。きっと遠哉くんならできるよ」
「無責任だな」
「責任取るよ」
「――本当に?」
「――――――」
俺の目的が『一人でもいいから親友が欲しい』ということなら、俺がしようとしていることは間違っていない。
そう。
俺はずっと雛木と友達になりたいと思っていたんだから。
ただ、苛めに巻き込まれる覚悟がなかっただけで。
ただ、雛木の心に踏み込む勇気がなかっただけで。
――けれど、もう決めた。
「俺は雛木に命をかけるよ。運命が変わらなくてもいい。死んでもいい。二人が死ぬまででいい――親友になってくれないか?」
俺は雛木がいればいい。
もし期限が来て、未来が変わらなくて、死んでしまうとしても――雛木が親友でいてくれるなら、親友でいてくれたなら、それで構わない。
「私も、遠哉くんとお友達になりたかった。……でも、私は――」
「責任とってくれるんだろ。それに、もう遅いんだ」
俺は「ほら」と言って昇降口のほうを指差した。そこには根岸さんの取り巻きの一人が立っていてこちらを見ていた。俺たちに見られたのに気づくと、校舎に引っ込んでいった。根岸さんに報告するのだろう。
「もう手遅れだよ――行こう」
俺は雛木の手を引いて立ち上がる。
「どこに?」
「学校じゃ、ないところ」
俺はいつかのように校門に雛木を待たせ、自転車を取りに行った。
取って戻ると、今回は隣を歩くのではなく、雛木を荷台に座らせて走り出した。
目的地も決めずに走った。
日は沈んでいって、夜がやってきた。
走る。できるだけ静かなところへ。人や車の音を避けて、ネオンや街の明かりを避けて。
見上げれば月と星が浮かぶ、雲のない綺麗な夜空だった。
走っている間中、俺も雛木も一言も交わさなかった。
行き着いたのは防災公園といわれるだだっ広い公園。遊具もなにもないその場所で、俺たち二人はベンチに座った。
最初に口を開いたのは雛木だった。
「私ね。半年かけて自分を変えていって、入学の頃には私だってその気になれば変われるんだって思ってた。これで苛められなくなるかなって。だから自己紹介のとき遠哉くんが私のことを驚いたような顔で見てたとき、笑顔の裏側を見透かされたみたいで怖かった」
「……あれは、そんな意味じゃなかったんだけどな」
「うん。そうだね。それは後で気づいたよ。翌朝とか、話していてなんか変だなって思ったし――私の記憶では遠哉くん、あんな風に人と話してなかったから。でも決定的だったのはやっぱり天使のことを訊いたときかな。あれで遠哉くんもやり直しをしてるんだって確信したよ」
「あの頃は雛木は天使なんじゃないか、なんて思ったりしたな――見た目は全然違うのに」
雛木と天使は性格は似ているようだったけれど、外見は全然違ったのだ。
「『やり直し』の前は全然話したことなかったけれど、今回はいっぱい話したよね」
「そうだな」
「遠哉くんと友達になりたいって思ってた」
「なっただろ?」
「なれたかな?」
「俺は雛木と友達になるよ。雛木の『やり直し』が今日、終わっても。半年かけて親友になる。雛木を――死なせないよ」
「遠哉くんはこれでよかったの? 私のために今までの努力を無駄にして――遠哉くんだって自分の過去を変えるためにがんばってきたんでしょう?」
「言ったろ? 俺は友達が欲しかったんだって。雛木が友達になってくれるならそれで満足だよ」
「……友達か。えへへ。うれしいなぁ」
雛木は笑いながら、涙を流した。
嗚咽した。
物語みたいに綺麗じゃなくて酷く現実じみた、人間じみた泣き方だった。
不器用な俺は、積み上げた人間関係をすべてぶち壊して、一人の友達を得た。
それは褒められたことではないのかもしれない。現実的な選択でないのかもしれない。甘ったれた選択かもしれない。
けれど、これでいい。
最善の行動ではなかったけれど――雛木はきっと最高の親友になるから。
「――『やり直し』が終わったら、明日の私はどうなっているんだろう?」
「どうなっていても隣にいるよ」
「なんか私だけ逃げちゃうみたいで、卑怯な気がするな」
「そんなことないんだろ。雛木は雛木なんだから。未来で俺との楽しかった思い出や辛かった思い出を味わってくれ」
「うん。……なんか変な感じだね」
それからしばらく話していたけれど、終電の時間が迫って、雛木を駅まで送った。
駅に着いて、二人で「また明日」と言って別れた。
こうして、雛木の『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーンによる『やり直し』は終了した。
エピローグ
雛木と親友になってからの半年はあっという間だった。
クラスでは予想通り酷い苛めにあったけれど、そんなことは俺にとってどうでもよかった。
『やり直し』が終わった雛木は『やり直し』に関する記憶が曖昧になっていて、自殺した世界のことは覚えていないようだった――そのあたりに関しては詳しく調べなかったし、調べようという気もなかったから、実際にはよくわからない。
ともかく、俺と雛木はその半年の間、本当に命がけの親友だった。
昨日、天使が夢に現れた。
『明日の晩に迎えに来ます』
だそうだ。
俺は最後の日も雛木と変わらない日常を過ごし、「また明日」と言って別れて一日を終えた。
そして今、目の前に天使がいた。
「お疲れ様ですぅ! 『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーン終了のお時間です!」
久しぶりに会った天使は相変わらずテンションが高かった。
「どうでしたかぁ? 満足のいく一年を送れましたかぁ? ダメでも延長はありませんよぉ」
「……ひとつ訊きたいのだけれど――雛木のことは知ってたのか?」
「それはもちろん! 天使ですから。まあ二人の人間が同じ学校の同じ時代をやり直すなんてはじめてでしたから私としてもどうなることやら、って感じだったんですけどね」
相変わらず悪びれもせず笑っている。
「はあ……。おかげでずいぶん驚いたよ」
「それで、どうでしたか? 一年間」
「まあまあかな……戻ってみてよかったよ」
天使はそれを聞いて「それならよかったですぅ」と喜んだ。
「――それじゃあ早速なんですけど、これからあなたの意識をあなたが死んだ時点に戻します。最初のうちは頭がごちゃごちゃしてしまうかもしれませんがじきに記憶――やり直しが終わったところからその時点までの記憶も戻るかと思いますー」
「ああ、わかった」
「とは言っても事故の運命を変えられなかったら、その前に死んじゃうんですけどねー」
そんなことまで笑顔で言う。
「覚悟はできてるよ」
「そうですかぁ。それなら、あまり時間もないのですぐに戻しますよ?」
「そうか。世話になったな」
「いえいえー。これも仕事ですので……。私としてももう少し別れを惜しみたいところなんですけどねー。残念ですぅ。どのくらい残念かって言うと、『雨四光』が確定して『こいこい』したら相手に『花見で一杯』で簡単にアガられてしまったときくらい残念ですぅ」
また花札か。天使はやっぱりギャンブルネタ縛りらしい。
「ん。最後に元祖たとえギャグを聞けたし、思い残すことはないよ。それじゃあ一思いにやってくれ」
その言葉を聞いて、天使は最後に慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「――それでは――」
○
次に意識が戻ったとき俺は病室にいた。
体がまったく動かない。
目線だけを動かすと体に何本ものチューブが繋がっていて、口にもマスクがつけられていた。チューブは点滴やら機材やらに繋がっている。
部屋は静かで機材の作動音と機会的な信号音、そして時計の針が刻む音だけが響いている。
どうやら事故は避けられなかったらしい、と感じた。
雛木が苛められる運命から抜け出せなかったように、俺もまた事故に遭う運命から抜け出さなかったということか。
もしかしたらあの日あの場所で事故に遭ったのではなく、違う日の違う場所だったかもしれない。それはわからないけれど、同じ時期に事故に遭ったのは間違いないだろう――そういう運命だったのだろう。
いろいろな記憶が蘇ろうとしている。
俺がまだ知らない記憶。知らないけれど、それは確かに俺が体験した記憶。
温かい感情が生まれてくる。
次から、次へと。
涙になって溢れそうなくらいに。
けれど、その思い出のすべてを味わうことはできなそうだ。
俺の意識は途絶えようとしている。
そうしたらきっと――。
それでも、
もうあのときほどの後悔はない。
俺の手に、重ねられた手の暖かさを感じるから。
ベッドの隣の椅子に座って、俺の瞳を見つめて微笑む女性がそこにいた。
――雛木小夜が、そこにいた。
気づけば俺には一人も友達がいなかった。
幼い頃から読書が好きだった俺は貪るように本を読んで育った。そして物語の中に描かれる友情や愛情に強い憧れを抱いて、自分もいつかはこんな友人や恋人に出会いたいと願った。
そんな俺も中学時代には、多くの人がそうであるように『現実』と『物語』は決して同一ではないのだと気づかされることになった。現代の子供にしてはそれはかなり遅かったかもしれない。きっかけはありふれた出来事だったけれど、馬鹿みたいに物語の友情を信じていた俺を絶望させるには十分だった。
現実は辛く厳しい。物語のように理想に溢れていない。
人は特に理由がなくても他人を傷つけるし、特に理由もなく、人は不幸に見舞われる。
現実は不条理で、理不尽だ。
俺はそんな当たり前のことに酷く衝撃を受けて、現実を恨んだ。
高校に入る頃には俺は積極的に他人と関わろうとしなくなった。物語のような崇高な友情は現実にはないのだと、そう思い込んだ俺にはクラスメイトが口にする友達という言葉がその場限りの軽薄なものに感じられた。
幸い――といっていいものかわからないが、そんな俺はクラスメイトから『クールキャラ』として認識され、特別親しい友人ができたわけではないが、苛めにあったり疎外されたりすることもなかった。
そんな調子だったから高校を卒業すると同時に同窓生との交流は絶たれ、大学に入っても親しい友人ができることはなかった。
友達ができないのは自分のせいだということは解っていた。いい歳して作り話のような友情を追い求め、他人と関わろうとしない。もしかしたらそこには現実なりの、物語とは違っても確かな友情があるかもしれないのに――そこに踏み出そうとしない。『現実にそんなものがあるはずがない』と現実を厭うことで臆病な自分を肯定して。
そうして悩むことから逃れるように、読書ばかりして、日々を過ごしてきた。
結果、俺は最後まで本物の友達を得られないまま、この世を去ろうとしていた。
一 天使
大学に入学して四度目の春、俺は一般的な大学生と同様に就職活動に勤しんでいた。特になりたい職業があるわけでもないので金融や保険などの大量採用を行う企業を中心に受けることにした。
その日面接を受けたのは大手の銀行だ。
帰り道を歩きながら面接で訊かれた質問を思い出す。
『あなたは社会に出て働くということをどうのように考えていますか?』
その場では書店で売られる面接対策本に書かれているようなマニュアル通りの答えを返した。
けれど、本当のところどう考えているのだろう。
『社会責任』?
そんなものを感じたことなどない。その言葉で使命感に燃えるようであれば苦労はしない。
『自己実現の手段』?
実現したい自己を――想像することができない。
『経済的自立』?
両親に迷惑をかけ続けることはできないから、それはある。けれど読書以外に趣味もなく、酒も煙草もやらない俺には高い給料は必要ない。それこそフリーターとしてでも生きていくのでも問題ないだろう。
というか極論、厭世を気取っている俺からすれば、生きるということにすら大きな魅力を感じないのであって、そんな俺が働く意義なんてものを思いつくことなどできないのだろう。
なんとなく、生きているだけ。
生きることにも死ぬことにも積極的になれず、
なんとなく、死んでいないだけ。
だから――突然信号無視の自動車が突っ込んできて、俺を撥ねて、体が宙を舞って、アスファルトの地面に叩きつけられて、地面の冷たさと流れ出る血液の熱さを他人事のように感じているときさえ――死ぬことに恐怖を感じることはなかった。
ただ、
(ああ、結局自分の殻に閉じこもったまま人生を終えるのか……)
と思った。
(もしやり直せたら、友達を作るため、自分を変えられるだろうか)
馬鹿げているとは思いつつ、そんなことを想う。
(そう。馬鹿げている。俺はこれから死ぬっていうのに。――俺は、終わろうとしているのに)
仰向けに転がった俺の周りに人が集まってきているようだ。けれど視界はぼやけていてよく見えないし、音もフィルターがかかったようでよく聞こえない。
俺を轢いた車の運転手はどうしただろう。逃げただろうか? いや、これだけ人目があったのだからそれはないか。居眠り運転だったのか、それとも飲酒運転か。どちらにせよ、関係ないのだけれど。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
どくどくと血が流れていくのがわかる。
それが物凄い量だということも。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
痛みはない。
けれど体が重くて動かない。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
恐怖は、ない。
悔いは――、
ないといったら、嘘になる。
――どころか、
(後悔だらけだよ……ちくしょう! もっとがんばってみればよかった。いろんな人に話しかけて、たくさん裏切られても、話しかけて。そうしたら、一人くらいできたかもしれないのに――親友と呼べる、友達が……)
涙が流れたかどうかは、わからない。
その嘆きは声に出したようにも思うし、音にならなかったようにも思う。
意識が遠のいていく。
思考することさえ困難になる。
世界は白く、音は無い。
ぼんやりと、想う。
(俺はあんなに嫌っていた『現実』に、これほど未練を抱くのか)
驚いたように、呆れたように。
と、そのとき、
「おめでとうございますぅ!」
間の抜けた声が耳に響いた。明るい少女の声だ。
(――!)
なんだ? なんだ? なんだ?
周囲の音は完全に聞こえなくなったはず――うん。今も聞こえていない。視界も白いままだ。
「あなたは『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーンに当選しましたぁ!」
もう一度、声。
次の瞬間、目の前に少女が現れた。
「いやぁ、お客さん、運がいいですネ! どのくらい運がいいかっていうと適当に時計を見たら三時三分三秒だったときくらいですぅ――『アラシカブ』!」
なぜ、花札!?
しかもオイチョカブだと!?
――違う、突っ込みどころはそこじゃない! こいつの格好だ。
中学生くらいの幼さの残る容姿。栗色のショートヘアーに白いワンピース。そして――背中には白い羽。頭の上には金色に輝く光輪。
わかりやすいくらいに、天使だった。
ふわふわと、浮いていた。
「…………」
俺は呆然としてその少女を眺める。
「……すいませーん? なにかしらリアクションくださいませんかぁ?」
とぼけた顔して問いかけてくる天使。
「いやまあ驚くのもわかるんですけどねー。自分こう見えて天使歴長いんで死んだ人間の気持ちっていうのが少しは理解できるつもりです」
天使はえへんと胸を張った。
「……天使?」
俺はポツリと呟いた。疑問というより、驚きのあまりつい声が漏れてしまったという感じだ。
そして、気づく。声が出せているということの不自然さに。重症の身であるはずなのに――。
そういえば俺はいつの間にか直立の姿勢になっている――とはいっても視界は真っ白で俺と天使の姿しか見えないから、あくまでも感覚的にだけれど。自分の体を見回しても傷ひとつ負っていないようで痛みも無い。
「そうですー。我輩は天使である。名前はまだない――なんちゃってー!」
やたらとハイテンションだな……。自分のセリフに自分で笑っている。
「……えーと。笑っているところ悪いんだけれど、少し確認させてもらっていいかな?」
「うふふふふ――っと! はい? なんでしょう?」
天使は俺の問いかけにぴたりと笑いを止めて、くりくりとした瞳を向けてきた。
「まず、さっきのセリフからして――というか今の状況からして、俺が死んだってのは間違いないんだよね?」
「そうですよぉ! あなたは死にました。ご愁傷様ですぅ!」
「……これはどうも」
俺のこの返しはどうかと思うが、会話的には間違っていないだろう。――というか『ご愁傷様です』を『お久しぶりです』みたいに快活に言うのはどうなんだ? しかもギャグじゃなくてそのままの用法だ。
と、それはさておき。
『死にました』、か……。
あまり自覚はないけれど、『わけのわからない空間に突然移動して見たまんま天使の少女と会話している』というこの状況が現実だというよりは説得力がある。
つまり、不条理に、理不尽に、何の理由もなく、
俺は死んだ
ということ。
それは、ありふれた――ごく自然な、死。
「そっか。死んだ……のか。そりゃああれだけ血が出てれば――」
「ところがぁ!」
俺のセリフの遮って急に天使が大声で言った。
「あなたは『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーンに当選したので人生をもう一度やり直せるのですぅ!」
『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーン?
「いや、それさっきも言ってたけどどういうことなんだ?」
天使がよくぞ訊いてくれましたとばかりに顔を綻ばせる。
「ええとですねー。先ほどから死んだ死んだって言ってましたけど実はあれ半分嘘なんですよねー」
「半分?」
「いえ、まあこのままだと死ぬのは確定なんですけどー、現時点では三途リバーの一歩手前って感じなんですよぉ。そして! このキャンペーンに当選した人は望んだ時間をやり直すことができるんですぅ!」
ぱちぱちと手を叩いて言う天使。
やり直す? 望んだ時間を? それって――、
「あなた意識を失う直前に『もしやり直せたら』って想いましたよね? 死の直前にそう想った人の中から抽選で選ばれた人の願いを叶えるのがこのキャンペーンなんです! これってすごいことなんですよぉ。何しろ四年に一人当選するくらいの確率なんですから。オリンピック級ですよー!」
なんとも俗っぽい例えをするな……。いや、もともと神聖視されていた祭典だから、天使が言う比喩としてはあながち間違っていないのか? ……いやいや、そういえばさっき『三途リバー』とか言ってたな。やっぱり適当に言ってるだけか。
「さてさてー。わかっていただけましたか? いただけましたねー? それでは――あなたはいつの時代に帰りたいですかぁ?」
わかったかと言われても――常識的に考えればこんな荒唐無稽な話を理解できるはずもないのだけれど、死後の世界に常識が通じるわけがないんだよな……。
とりあえず、この天使の存在と、この天使の言うことを信じるとして。
やり直せるというなら――、
「ああっとぉ! すみませんー。ひとつ大事なことを言っていませんでした!」
と、そこで天使がまた大声を上げる。
「やり直しの期間は一年間になりますぅ。過去に戻っても一年が経過した段階で現時点の時間軸に戻ります。だから死を避けようと思ったら一番簡単なのは事故の直前に戻って未然に防ぐことですねー。その場合は現時点に戻った段階でキャンペーンは終了。人生続行、ってなわけですぅ」
「……それ、超重要じゃねえか……」
「うふふー。すみません。決める前に思い出したんだから許してくださいー!」
天使は悪びれもせずニコニコとしていた。
「反省してますー。どのくらい反省してるかっていうと見え見えの筋引っ掛けのリーチに一発で振り込んじゃったときくらい反省してますぅ」
「今度は麻雀ネタかよ! 天使の癖にギャンブル狂かよ!」
花札に麻雀。俗っぽいどころではない。しかもチョイスが渋い。
――落ち着け、俺。死んでまで突っ込みキャラを覚醒させている場合じゃない。
心を落ち着けて天使の説明について考える。
一年間、か。
「ふむ……」
確かに普通に考えたら天使の言う通り、事故の直前に戻るのがいいのだろう。
けれど――、
俺は生きていたいわけではない。
俺が願ったのは生きることではないのだ。
俺が願ったのは、友達――たった一人でもいいから、死を前にして姿を思い浮かべられる、そいつだけは友達だったと誇れるような、そんな存在。
もし俺が事故を避けて人生を続けたとして、俺は変われるだろうか?
この経験によって心を入れ替えて、友達を作るべく他人に接することができるのだろうか? できたとして――大学生活はあと一年。なんのサークルにも所属せず、ただ授業と課題をこなしていただけの俺に友達ができるか?
それが無理だったら社会人となってから友人を探す? 社会に出ていないから憶測でしかないけれど、それは難しいんじゃないだろうか。不可能ではないだろうけれど会社という枠組みの中で友達と呼ばれるような関係を築くのは困難だろう。
そこまで考えて、俺の頭にある言葉が浮かぶ。
『ドミノ理論』。
そして、
『バタフライ効果』。
取るに足らない些細な出来事が影響してさまざまな事態を引き起こし、結果に大きな差異を生じさせる。
そうだ! 過去に戻って一年間もやり直したら、事故のあった今日の行動は大きく変わるんじゃないだろうか? 一年分もの行動が現在に影響しないはずがない。
確実とはいえない。確実とはいえないが――しかし、やる価値はあるんじゃないか?
もし一年間をやり直して友達ができなければ諦めて死を受け入れよう。
友達ができてそれでもこの日に死ぬのであっても、その運命を甘受しよう。
友達ができて死を避けられるのならそれが最良ではあるが……。
「――決まったよ」
俺がそう言うと、俺が思考を巡らせている間退屈そうにふよふよとあたりを飛び回っていた天使がすうっと俺の前に戻ってきた。
「意外と早かっですねー。助かりますぅ。悩む人だと現実の時間で三日くらい悩むんですよね。そうなると私退屈で死にそうになるんですよぉ。それでは――」
心底嬉しそうに言う天使は、そこで一度言葉を切って、問いかけた。
「――あなたは、いつに帰りたいですか?」
ぞくっと背筋に寒気が走った。
そのときの天使の表情からはそれまでのお気楽さが消えていて――試すような、窺うような、見透かすような、小悪魔的ともいえる微笑に変わっていたからだ。それは、天の使いと呼ばれるに足る神性を感じさせるものだった。ともすれば畏敬の念に駆られ、言葉を発することさえできなくなるような――。
しかし、だからこそ俺は可能な限り力強く、誠意をこめて、答えた。
「――俺は――」
二 知らない顔
目を覚ました俺が見たのは自室の天井だった。
そして、そのことが天使との邂逅が夢でなかったことを実感させた――実をいえば『俺が轢かれたところから既に夢』という可能性も考えていたけれど、それはなかったようだ。
なぜなら俺が見た天井は自室といっても実家のものだったからだ。
俺は東京の大学に入学が決定して実家を出た。そして、キャンパスの近くに安いアパートを借りて一人暮らしをはじめたのだった。それからは年末年始とお盆に帰省するくらいのもので、当然就職活動真っ最中のこの時期に実家に帰っているはずがない。
俺はベッドの上で身を起こし部屋を見回す。
俺が実家を出る前の、記憶通りの様子だった。枕元には充電器に繋がった携帯電話がある。高校生当時使っていた二つ折りタイプの機種だ。それを手にとって日時を確認する。
『20XX年4月7日07時05分』
俺が事故にあった日のちょうど六年前の日付。そしてその日の朝、ということだ。
「……本当に戻ったのか」
天使の言ったことのすべてをその場で信じていたわけではなかったが(当たり前なのだけれど)こうして実際に戻ってみると信じざるを得ない。
この感覚は完全に覚醒時のそれであり、疑いようもなく現実のもの――高校を卒業して、大学に通った記憶のほうこそ夢だったのではないかと思うほどだ。
「天使……ねえ……」
マンガのような展開。
ドラマのような展開。
けれどそれは、望むところだ。
俺はいつだってそんな物語に憧れていたのだから。
「よし!」
俺は両手で頬を強めに叩いて、ベッドから下りた。
二階にある自室を出て、一階へ。
リビングに行くとキッチンに母親がいて朝食を作っていた。母は俺が起きてきたのに気づいて振り返り、
「おはよう。今日から高校生ね」
と言った。
俺はそんな当たり前の光景を見て過去に戻ったという事実を噛み締めて感慨に浸っていたが、母が訝しげに見ていることに気づいて「おはよう」と挨拶を返した。
それから俺は顔を洗いに行って、食卓に戻った。その頃には既に朝食の支度が済んでおり、母と向かい合って座って朝食を取った。父は普段七時前には出勤していたはずだ。今朝もそうなのだろう。
食事を済ませて部屋に戻る。
俺はクローゼットにしまわれた制服を取り出した。卸したての真新しい学ランは生地が硬く、独特な匂いがした。
制服に袖を通し、姿見に全身を映す。
俺の記憶にあるのは二十一歳の自分の姿で、鏡に映っているのは十五歳の自分の姿だ。身長は低く、どこかあどけない。六年で劇的に容姿が変わったというわけではないけれど、だからこそ逆にその微妙な違いが気持ち悪い。
(まあ、じきに慣れるか)
そう考えて、鏡から離れた。
自分の部屋とはいえ、六年も昔のことなので持ち物をそろえるのに手間取ったが、なんとか仕度を終えると俺は家を出た。学校までの道のりは自転車で二十分といったところだが、さすがに三年通った学校への道のりは忘れていない。
こうして俺は『やり直し』一日目をスタートさせた。
俺が天使に願ったのは、
『高校の入学からやり直したい』
ということ。
なぜ高校かといえば、そこに大きな理由があるわけではなくて、『友情』といえば『青春』、『青春』といえば『高校時代』、という安直な発想からだった。
そういう理屈で言えば、それ以前――中学時代に戻るという選択肢もあるにはあるのだけれど、中学校時代には嫌な思い出があるからできるなら戻りたくなかった。その思い出を払拭するべく戻るということさえ、したくない。それに――あの出来事は避けようと思って避けられるようなものではない、と思う。避けたくても、変えたくても、どうしようもない現実。そういうものであって、俺一人の認識でどうなるというようなものではなかったのだと。
『やり直し』の期間が一年間であるなら、目標を絞って行動すべきだ。
最終目標は友達を作ること。
そしてできることなら『やり直し』の青春をその友達と過ごしたい。
それらを達成するためには高校入学からやり直すのは都合がよいように思った。
俺の通っていた高校には中学校から俺一人しか進学しなかったのだけれど、それはつまり過去の人間関係がリセットされるということ。小中学校は地元の人間はほとんどが同じ学校に通うことになっていたのでそうはいかない。そのことも『やり直し』に中学時代を選ばなかった理由のひとつだった。
入学式を終えた俺たち新入生は各クラスに向かってオリエンテーションを受けることになった。
六年前の記憶なんてあやふやだからなんともいえないが、ここまではほとんど記憶通りだと思う。実際一度経験しているためデジャ・ビュとはいえないのだけれど、随所で記憶と合致することがあり、その度になんだか妙な気分を味わった。得したと思えるほど都合がいいことではなく、ないよりはマシというくらいの小さなことだ。
たとえば入学式が始まる前にクラス分けの掲示を見に行ったときのことだ。普通なら七クラス分の氏名が書かれた中から自分の名前を探すのは一苦労なのだが、俺には当時の記憶がある。それに従って一年三組の名簿を見ると、すぐに見つかった――『棗遠哉(なつめとおや)』。俺の名前だ。
そんな風だったけれど、とりあえず俺の記憶はそのままに『やり直し』の生活に利用できるということだということはわかった。俺が行動を変えていけば、その行動によって歴史が変わって記憶が役に立たなくなるかもしれない。それでも当分はその心配もないだろう。
ズルをしているようで気が引けるが、これくらいはハンデをもらったと思っておくとしよう。
この記憶を使って、少しでも有利に人間関係を進めなければ……。時間は限られているんだから。
『人間死んだ気になればなんでもできる』というくらいだ。一度死んだ俺ならポジティブに生きることだってできるだろう。
そう考えている今、クラスでは自己紹介が行われている。そのメンバーはすべて俺が知っている通りだ。積極的に関わりを持たなかった俺でも各人がどんなやつだったかくらいは覚えている――なかには覚えていないくらい印象の薄いやつもいたが、それはまあお互い様だろう。
そんなわけで、俺はクラスメイトの自己紹介を聞き流すくらいの気持ちでぼんやりと聞いていた。
自分の番には可能な限り愛想よく笑顔で挨拶をした。別にここで必要以上に印象付ける必要はない。無難に済ませる。それが一番だ。
俺の番が終わり、着席。多少上がってしまったものの、無事こなせたと思う。
ふうと小さく安堵のため息をついて席に着き、残りの生徒の自己紹介を聞く。
『錦慶介』。
テニス部だったかな。気さくなやつだった気がする。
『根岸有香』。
派手な金髪。女子グループの中心になってたな。
『根本春風』。
爽やかな名前だけどアニメオタクだったよな。このころは隠してたけど。
……とまあそんな感じで一言感想よろしく記憶を掘り起こしていく。
「――それじゃあ次は『雛木小夜』さん。よろしくお願いします」
担任教諭が呼びかける。
『雛木小夜』。
ええと――、
どんなやつだっけ? 名前には聞き覚えが……。
(――!)
思わず声を上げそうになった。
そうだ。『雛木小夜』といえば有名人じゃないか。
だって彼女は、
俺たちが高校三年になった春に、
死んでいるんだから。
俺は思わず振り返った。俺が座っている列の最後尾――『雛木小夜』と呼ばれた少女は席から立ち上がったところだった。
「雛木小夜といいます。父の仕事の都合で中学卒業と同時に東京から引っ越してきました。なのでこちらには友人が一人もいません。みなさん仲良くしていただけると嬉しいです」
そう言って彼女は花の咲くような笑顔を浮かべ、一礼した。
綺麗なストレートの栗色に染めた髪がさらさらと揺れる。前髪をピンクの髪留めで押さえていて、白い額が覗いて見える。大人しそうで、儚げで、けれど芯のある眼差しをした――そんな美少女だった。
美少女。
美少女?
(この美少女は――誰だ?)
俺は混乱した。
俺はこんな少女を、知らない。
『雛木小夜』はこんな少女ではなかったはずだ。
これほどの美少女がいた記憶は、ない。
確かに俺は人付き合いを避けていたし、女子にもそれほど強い興味を持っていなかった。
けれど、これほど存在感のある少女の姿を記憶していないなんて、ありえない。
いや、問題はそんなことではない。
『雛木小夜』はこんな容姿をしていなかった。それは間違いのないこと――俺の記憶とこの少女の容貌が食い違っているということが問題なのだ。
どういうことだ?
ここまでは記憶の通りだったはずなのに!
ここは俺の体験してきた過去とは違う世界なのか?
だとしてもなぜ彼女だけが?
俺が彼女を見つめていると、不意に彼女と目が合った。彼女はすぐに目をそらして――少し俯いて――また目を合わせて穏やかに微笑んだ。
俺は動揺しながらも軽く会釈をして返した。笑顔を作れた自信はない。
それからすぐに俺は黒板のほうに向き直った。自己紹介は続いていたが、それを聞いている余裕はなかった。
彼女が目をそらしたとき、その目が不安に揺れていたような気がして、その表情が妙に、心に残っていた。
三 雛木小夜
『雛木小夜』。
自殺した少女。
二年後に自殺するはずの少女。
学校の三階の窓から飛び降りての自殺だった。屋上は安全のために閉鎖されているから学校で一番高いのがその高さなのだ。三階にあるのは三年生の教室――彼女は自分の教室の窓から飛び降りたのだった。放課後、完全下刻時刻ぎりぎりのことだったらしい。彼女が落ちたのを見た人はいなかった。下校を急ぐ陸上部がその無残な遺体を発見して教員に伝えたということだった。
遺書などは残されていなかったが、苛めを苦にしての自殺だろうというのが公の見解となった。彼女が苛めを受けていたのは同じ学年の人間ならたいてい知っていた(俺でも知っていたくらいだ)からその情報が警察まで回ったのだろう。
その事件は世間を騒がすニュースとなったが、それも一時のことですぐに何事もなかったように忘れ去られた。
苛めを行っていたグループも軽い停学を食らった程度で、特に罰されることはなかった。遺書があったわけではないので、証拠不十分だったのだろう。学内に雛木小夜を擁護するような人間が少なかったのもあるかもしれない。苛めていたグループは顔が広く、雛木小夜には友達がいなかった、らしい――このあたりはクラスで噂を耳に挟んだ程度だ。俺と彼女が同じクラスだったのは一年生のときだけだったので噂程度しか知りえなかったのだった。
なんとか記憶を手繰って思い出した彼女の姿は、天然パーマの黒髪で目元を隠し、いつも猫背で俯いている――そんな姿だった。
昨日はあれから『雛木小夜』のことについて落ち着いて考えるため、オリエンテーションが終わるとすぐに教室を出た。周囲のクラスメイトには印象が悪くならないように「親睦を深めたいのだけれど、体調が悪いので今日は早めに帰る」という旨のセリフを残した。
一晩考えたけれど答えが出るはずもなく、『雛木小夜』はイレギュラー分子としてその存在を特別意識しないように決めた。そしてその上で当初の予定通り行動することにした。
そして今日、俺は始業の三十分以上前には教室にいたのだった。
「……さすがに、だれもいないな……」
俺が教室の扉を開けたとき、教室は無人だった。
入学二日目。部活もはじまっていないのでこの時間に人がいないのは当たり前なのだけれど、できるだけクラスメイトとの交流機会を増やそうと考えて早く登校したのだ。
俺は自分の席に鞄を置いて、他のクラスメイトが来るのを待つことにした。
窓際に寄って校庭の様子を眺める。校庭には満開を迎えた桜が咲き誇っており、グラウンドでは運動部の生徒たちが朝練に励んでいた。窓を開け放つと心地よい風とともにそれらの生徒たちの上げる声が聞こえてくる。
彼らは同じ部活の仲間であり、友達でもあるのだろう。
独り教室に立つ自分と友達とともに汗を流す彼らとの間に大きな隔たりを感じた。
(――けれど、この隔たりを埋めなくては)
傍観者の座から降りること。
それがこのやり直しの青春で俺がやるべきことだ。
そんな風にして自分自身に言い聞かせ決意を新たにしたところで、ガラッと音がして教室の扉が開いた。
誰が来たのだろうと扉のほうを振り返ると、そこに立っていたのは栗色の髪の美少女――雛木小夜だった。
「…………」
彼女は俺を見て驚いたような表情をして――けれどすぐに笑顔になって、
「おはよぉ! 早いんだねー」
と元気な声で言ったのだった。
「ああ、おはよう。早く来たら誰かいるかと思ってね」
俺も笑顔を作って答える。
「そうなんだぁ。私も同じだよ。誰もいないかと思っていたら先を越されていたんでびっくりしちゃったよぉ。――棗遠哉くん、だよね?」
「ん? ああ。覚えていてくれたんだ。簡単な挨拶をしただけなのに」
「うん。私、人の名前を覚えるの得意だからー!」
彼女はそう言って自分の席に鞄を置く。その間もずっとニコニコと笑顔を絶やさずどこか浮かれた調子だった。
「きみは――雛木小夜さん、だったよね?」
こちらも問いかける。
「そうだよー! 覚えてくれたんだ! 嬉しいなぁ。私って影薄いから印象に残ってないと思ってたよ。どれくらい薄いかっていうかっていうと9Hくらい! 鉛筆の一番薄いやつね。売ってるの見たことないけど!」
また、笑顔。けれどこのときの笑顔は本当に嬉しそうで――それまでのどこか作り物めいた笑顔とは違っていた。
しかし今朝の雛木さんはテンションが高い。『今朝の』とは言ってもやり直す前の彼女とは別人のようだし、昨日にしても俺はすぐに帰ってしまったから、それが今朝に限った特別なことなのかはわからないけれど――少なくてもこの子が二年後に自殺するなんて信じられない。
「よろしくねー! 遠哉くん! 昨日も言ったと思うんだけど私こっちに越してきたばかりで友達がいないんだ。だから友達になってくれると嬉しいな」
「こちらこそ。東京から来たんだったね。まだこっちの生活に慣れないかもしれないけれどできるだけ力になるよ。俺、ずっとこのあたりに住んでるから」
「うわぁ! 感激だよー。最初の友達がいい人でよかった。ずっと不安だったんだぁ。どれくらい不安だったかって言うと扇風機くらい――それはファンだろ! ――なんちゃってー」
雛木さんはその場で軽く飛び跳ねるようにして喜んだ。「えへへー」と笑う彼女の髪がふわりと揺れる。
「ねえねえ。遠哉くんは部活とかなにか入るのかなー? 私はまだ決めてないんだけど」
「うーん。そうだな。俺もまだはっきり決めているわけではないのだけれど、なにかしらやろうとは思っているよ。運動はあまり得意じゃないから、文科系の部活を探そうかな」
そうは言ったけれど、実のところ運動が苦手というわけではなく、大抵のスポーツなら人並み以上にこなせる。どちらかといえば『あまり好きではない』という感じだ。もちろんやり直すからにはそういった考えを捨てて運動部に入るというのもアリなのだけれど。
「へー! 私も文科系で部活探そうと思ってるんだぁ。おそろだね! 文科系ならー、吹奏楽部かな。でもでも私、楽器なんてやったことないし。合唱部? 歌は苦手だし……うーん、他には――」
「――文芸部、とか?」
俺はなんとなく、そう言った。俺としても文芸部に入部することを考えていたわけではないけれど自分が読書好きだから、なんとなく思いついたのだ。
「――文芸、部? ……そ、そうだね! 文芸部もあるね。でも、あれじゃない? なんとなく文芸部って根暗っぽくないかな? パッとしないっていうか……」
「そうかな? 俺は別にそうは思わないけれど」
「あ! いや、別に、なんとなくそう思うだけだよ? 特に理由があるわけじゃなくて。私、本とかあんまり読まないから印象湧かなくて。でも。うん。文芸部もいいかも! 見学に行ってみようかな」
雛木さんは俺が文芸部に入ろうとしていると思ったのか慌てて弁解した。
その表情はそれでも笑顔だったけれど、誰の目にもわかるだろう、苦し紛れに取ってつけたようなものだった。
と、そこでまた教室の扉が開く音がして、二人の女子生徒が入ってきた。
確か名前は――、『秋野梢』さんと『殿村優花』さん、だったと思う。二人とも運動部に所属していたはずだ。
二人は「おはよー」といいながら教室に入ってきた。俺たちも挨拶を返した。
「早いねー。私たちが一番かと思ってたのに」
と秋野さん。
「そうそう。『私たち早すぎじゃない』って梢と話してたのに。なんかちょっと悔しいなあ」
これは殿村さんだ。
「えへへー。私だって遠哉くんにさき越されちゃって同じ思いしたんだよ――と、それはともかく。秋野さんに殿村さん、これからよろしくねー!」
雛木さんがそう言うと「名前覚えていてくれたんだ」と先ほどの俺と雛木さん同様の会話が繰り返され、そのまま女子三人で会話が始まった。
俺はなんとなく居辛くなって「ちょっとトイレ」と言って教室を出て――トイレでその行動を反省し――戻ってきた頃には教室には十数人の生徒が集まっていた。
それから自分の席の近くの男子生徒と話をして、あっという間に朝のホームルームの時間となった。
担任教諭の言葉を聞きながら、俺の記憶とは全く異なる雛木さんのことを考え、その口調が誰かに似ているな、と思った。そしてそれが誰なのかはすぐに思い当たった。
ハイテンションで語尾を延ばした喋り方。
特徴的な「えへへ」という笑い方。
それに度々会話に挟んでくる妙なたとえ。
天使だ。
今の雛木さんの口調は俺が死んだときに出会った天使そっくりだ。
たとえに関していえば、あのときのほうがネタがマニアックでレベルが高かったようだけれど――いや、そんなことは関係ないか。
これには何か意味があるのだろうか?
それとあのとき――、
俺が『文芸部』の名前を出したときに見せた驚いたような雛木さんの表情。あれにはどんな意味があったのだろう。あのときだけ彼女は仮面を剥がれたように素の表情を見せたように感じた。
一晩悩んで雛木さんの存在は気にしないようにと決めたのに、ついさっきの会話だけでそれは揺らいでいた。結局ホームルームの間中、彼女のことを考えていた。
四 とある放課後 其一
入学から一週間が経って、進学したての一年生のクラスも少しずつ落ち着きだした。
このときすでに俺のクラス、一年三組のなかにも『仲良しグループ』といわれるようなものができはじめていた。
男女ともに『運動部系グループ』、『文科系グループ』、そして『どちらにも属さないグループ』の三つができて(当然そのどれにも属さない人もいたが)、クラスの中心となったのは『どちらにも属さないグループ』だった。
『どちらにも属さないグループ』というのは帰宅部を宣言した少数の人々で、彼らに言わせれば『高校に入ってまで部活動なんてやってられない』そうである。男女のそのグループに属するのは髪を明るく染めたり、早くも制服を着崩しているようなやつらだ。不真面目――と決め付けるのもどうかと思うが、まあ真面目な連中ではない。俺の記憶ではここに属している中の数人は卒業までに飲酒や喫煙で停学を食らうことになっている。
「よお、遠哉! お前まだ部活決めてないよな?」
担任教諭が放課を宣言して、クラスメイトが思い思いに席を立ち始めたとき、一人のクラスメイトが話しかけてきた。『錦慶介』、俺の後ろの席に座る男だ。
「決まってないならテニス部とかどうよ? 俺もテニスなんかやったことないんだけど、高校から始めるやつも多いんだってよ。まあなにより女子テニス部にはかわいい子集まるからな」
「うーん……まあ悪くはないかな」
「だろ? 今週いっぱい仮入部期間だから一回行ってみようぜ」
「そうだな。考えておくよ」
そう返すと錦は「うっし! 頼むぜ」といって笑って席を離れていった。
この一週間で俺は『運動部系グループ』と親しくなった。理由は簡単で、今話していた錦がそこに属していたからだ。錦はフランクに誰とでも話すので彼を通して他の連中とも親しくなった。錦はルックスがいまひとつでどうにも三枚目といった感じなのだけれど、その人当たりの良い性格から『どちらにも属さないグループ』にも気に入られていた。
それにしても、部活――ね。
確かにそろそろ部活も決めなくてはならない。
後から入部することもできなくはないのだろうが、人間関係を円滑に構築するためには最初から入っていたほうがいいだろう。そう考えればテニス部という選択肢はなかなかいいように思う。うちの高校のテニス部は部員数が多いというのがまず第一で、それに加えて錦が言っていたように女子と親しくなれるというのがある。別段女子と親しくなりたいというふうに考えているわけではないけれど、『男女関係』というのは高校生の共通言語のようなものだ。女子とも親しくなっておいたほうが友達作りに有利に働くはずだ。
(こんな風に打算的に考えるのも悪い癖かな……)
とそんな風に内心で嘆息したとき、教室の後ろのほうで女子の甲高い声が聞こえた。
「えー! 小夜、部活なんか入るつもりなの? やめときなよ。あんなの疲れるだけだって」
そちらを見るとそこには雛木さんを囲んで三人の女子が立っていた。女子の『どちらにも属さないグループ』。今の声はその中でもリーダー格の根岸有香のものだ。
「なんでなんでー? 楽しそうじゃない? 私が部活入ってたら変かなー?」
雛木さんは無邪気な笑顔で尋ねた。
「変だよー。部活に入ってがんばったってなんの得もないじゃん。時間の無駄だよ。そんなことするならバイトでもしたほういいって」
根岸さんの取り巻き二人(俺の記憶では三年間ついて回っていた)も「そうよそうよ」とうなずいている。
「そんな暇あったら適当に街歩いてナンパ待ちやってたほうがまだましよ。メシ奢ってもらえるし。それにたまにはアタリ引いてイケメンと知り合えるかもしんないしー。小夜もかわいいんだからその辺歩いてるだけで男寄ってくるって」
根岸さんと取り巻きが「キャハハ」と笑った。
それを見ている雛木さんは笑顔だったけれど、それはやっぱり仮面のような作り物めいたものだった。
「そっかなー。だったら部活はやめておこうかな。ナンパとかは怖いけど……アルバイトはいいかも。かわいい服欲しいしなー」
「でしょでしょ! それがいいって絶対!」
俺はその様子を見ながら帰り支度を整え、教室を後にした。
下駄箱に向かいながら雛木小夜のことを考える。
彼女は先ほど見たとおり『どちらにも属さないグループ』と親しくしているようだ。
とはいっても彼女の意思でそこに所属しているというわけではないのだろう。雛木さんはグループ問わず仲良くしようと話しかけているようだ。それは男子に対しても同様で、自分の容姿を鼻に掛けたところなく気さくに話しかけていた。それゆえに男女問わず、グループ問わず、好かれているのだった。
ではなぜ根岸さんたちとよく一緒にいるのかといえば、それは根岸さんたちのほうから雛木さんに寄っていっているからだ。
俺は自分が打算的な考え方をするので、他人のそう言った考え方にも鋭いのだが――根岸さんの行動はまさにその打算であるように見えた。彼女の雛木さんへの態度を見ていると心から親しくなりたいと思っているようにはとても思えない。男女ともに人気のある雛木さんを味方につけることで自分の発言力を高めようとしているのではないだろうか。
そういう風に考えるのは俺が持つ『やり直し』前の記憶のせいもある。
俺の記憶では、根岸さんは入学早々にクラスの中心に立ち、男子のリーダー格でさえも逆らえないような絶対的な発言力を得ていた。高慢に、横暴に、気に入らないもの総てを排除しようとするその姿勢は、影で『女王様』などと揶揄されるほどだった。(もちろんそんなことを言っているのがばれた者は徹底的に干されることになったが)
ところが、である。
今回のやり直しの世界ではそのときと違う存在がある。
それが雛木小夜だ。
根岸優花による権力統制が遅れている理由は確実に彼女にあるだろう。
雛木小夜は威圧しない。
雛木小夜は強制しない。
雛木小夜は要求しない。
彼女はただ、笑っている。
けれどその笑顔は根岸優花の存在を霞ませるほどの輝きを持っているのだった。
あれほどまでにプライドが高かった根岸さんが、そんな存在を疎んじていないはずがない。しかし雛木さんの圧倒的なまでのカリスマを打ち崩せず、味方に引き入れることに甘んじているのだろう。内心は忸怩たる思いがあるはずだ。
そして傍目から見ていても根岸優花の態度からそういった感情が読み取れた。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いて、俺が昇降口から出たところで後ろから誰かが駆け寄ってきた。
「おーい! 遠哉くん!」
背中をポンと叩かれる。雛木さんだった。
「帰りー? 一緒に帰ろ?」
「ああ、いいけど、俺自転車だよ? 雛木さんは電車通学だっけ?」
「そだよー。遠哉くんの家駅の向こう側って言ってたよね? だから駅まで。ダメかなー?」
「そういうことなら。喜んで」
「よかったー」と言って雛木さんは笑った。艶やかな髪は陽光を受けて『天使の輪』のように輝きを返していた。
俺が自転車を取りに行く間雛木さんには校門で待っていてもらい、すぐに合流して、帰路を歩み始めた。俺は自転車を押して雛木さんの隣を歩く。
雛木さんの背は低い。百五十センチあるかないか。全体的に発育はよろしくないようだ。とはいってもまだ高校一年生だ。これから成長するかもしれない。
意識の上では最近まで大学生だったので、こんなに見た目の幼い少女と一緒に歩くのは少し照れる。
そんな気持ちを隠すように俺は話題を探す。
「そういえばさっき教室で根岸さんたちと話してたみたいだけど、話は済んだの?」
自然な話題を選んだつもりだ。
「ああ、聞こえてたんだー。うん。ちょっと用あるから先に帰ることにしたの」
「そっか」俺は簡単に答えて、早くも会話が途切れる。
からからとタイヤの回る音を聞いて、数歩。
「――遠哉くんはさ」
「うん?」
「もう、入る部活決めたかなぁ?」
沈黙を嫌うように問いかけてくる雛木さん。
「まだ決められてないんだよなあ。そういう雛木さんは部活入らないの? 教室でそんなこと言っていたみたいだけれど」
「それなんだよねぇ。……うん。優花ちゃんが言ってたみたいにバイトするっていうのもアリかな、って思ったりしてる」
「バイトねえ。俺にはそこまでして買いたいものがないからよくわからないな。――でも、雛木さんがそうしたいならそれでいいんじゃないかな。俺は校則違反だからやめろ、なんて無粋なことを言うつもりはないし」
「そうだね……。ようし! それならがんばってバイト探しちゃおうかなー! どのくらいがんばるかっていうと――」
と、そこまで言って雛木さんは黙ってしまった。
思案するような顔で「むむむ」と唸っている。そんな顔でさえどこか可愛らしい。
しかし、もしかして雛木さん――、
「まさかとは思うけれど……たとえが思いつかなかったとか?」
「――! いやいや、まさかぁ。そんなことないよぉ。間を活かしたエキセントリックなギャグなんだよ!」
バッと俺の顔を見て、両手をぶんぶんと振って否定する雛木さん。
顔は真っ赤である。
ああ。やっぱり思いつかなかったんだ……。
ていうか自分でギャグって言っちゃったよ……。そういうキャラクター設定とかじゃなくて狙ってやってるってバラすのはどうかと思うぞ。しかもそれで失敗するとなると目も当てられない。
「……雛木さん。まずはネタの方向性から考えていこう。ギャンブルネタみたいなのは解ると人が少なすぎるから避けたほうがいいとしても、微妙にマニアックなほうがツボをくすぐるからオススメだ。やりすぎなくらいのネタを使ってツッコミを誘発するくらいがちょうどいい」
同情心から真顔でアドバイスする俺だった。
「ほうほう。なるほどぉ」
そして素直にそれを聞く雛木さん。素直な子だ。
「そうだねー。方向性は大事だよね。……どうしようかな。得意分野はあるけれどマニアックになりすぎてもまずいんだよね……そうだ! みんな知ってる時事ネタなんかはどうかな?」
「ふうん。着眼点はいいかもしれないな。聞こうか」
「この間あった衆議院選挙のときの野党幹事長の発言を引用して――」
「ストップだ! 政治の話はよしたほうがいい。消されるぞ!」
「――急に大声だね……。というか消されるって――」
「あとパロディネタなんかもよくないな。あれもいろいろなところからクレームがくる可能性がある。やっぱりオリジナリティで勝負しないと」
「それは説得力があるね……。そっか、オリジナリティかぁ……。考えておくよ」
「そうしてくれ。健全かつ独創性に富んだネタで頼む」
期せずしてクラスメイトにネタ指導をしてしまった。むしろ俺のキャラクターの方向性が心配だ。あまり変な方向に突っ走ると友達を作るという目標が果たせなくなる。
ちらと隣を窺うと雛木さんはまた「むむむ」と唸っていた。
がんばって早いうちに芸の方向性を見出してほしいものだ。
そんなアホなやり取りをしているうちに駅前通に差し掛かり、駅の向こうに行く俺はそこで雛木さんと別れることとなった。
「ししょー! 今日はご指導いただきありがとうございましたぁ」
別れ際、雛木さんは天使のような笑顔でそんなことを言った。
そして、その笑顔を『天使のよう』に感じた俺は、最後にひとつ訊いてみることにした。
「雛木さん――天使って、いると思う?」
その問いを聴いた瞬間、彼女の表情から感情が抜け落ちたようになった。
「…………」
彼女は答えない。
なんだ? この間は? 頭のおかしいやつだと思われたか?
それとも、彼女は本当に――、
「……なんで、急にそんなこと訊くのかな?」
「あ、いや……別に深い意味はないんだ。ちょっと、そう。昨日そんな小説を読んだから……」
踏み込んではならない場所に足を踏み入れてしまったような、居心地の悪い空気。
しかしそれは、一瞬。
次の瞬間には雛木さんは笑っていた。
「遠哉くんって意外とメルヘンな人なんだねー!」
それから挨拶をして別れ、家に帰った。
五 とある放課後 其二
『雛木小夜は何者なのか』
もはやその疑問は無視できなくなっていた。
俺が『やり直し』をはじめてもう一ヶ月が過ぎ、五月。俺はテレビや新聞を細かくチェックしていたが、経済や政治の大きなニュースや地元であった事件などの印象に残っている出来事は記憶と全く同じ時期に起こっていた。もちろん四月以前の出来事についてもインターネットなどで調べたが、それに関しても同様だった。
クラスで起こる出来事はさすがにここまで俺が行動したことで少しずつ記憶と変わってきていたけれど、それにしたって大きな差異ではない。それに他のクラスや全校レベルで見れば、やはり記憶通りだった。
俺の存在がイレギュラーなのは言うまでもない。
だが、それでは雛木小夜は?
彼女以外のすべてが記憶通りなのに、なぜ彼女だけが異なっているのだ?
『天使』という言葉に異常な反応を見せた彼女。
やはり三途の川の手前で出会ったあの天使となにか関係があるのだろうか?
そうだとしたら、彼女の目的はなんなのだろう。
どうして自殺した少女、『雛木小夜』だけを変質させたのか。
『雛木小夜』が『雛木小夜』であってはいけない理由があるのだろうか?
……こうして悩んだところで答えが出ないことはわかりきっている。
そして、どうすれば答えが出るのかも。
彼女は――『雛木小夜』は確実に答えを知っている。
一緒に帰ったあの日に見せた表情。
けれど次の日あったときにはまた明るい笑顔を見せていた。
俺を避けるようなことはなかったけれど、問い詰めることを許さないような、問い詰められることを怖れているような、そんなふうに見えて――俺はあの日のことを訊けなかった。
彼女のことは気になるが――彼女のことばかり考えて本来の目的を忘れるわけにはいかない。
そちらに関しては、まずまず順調といったところだ。
未だに友達というものを強く実感するには至っていないが、クラスにはそれなりに自然に、溶け込めていると思う。一緒に昼食をとったり、放課後に遊びに行ったり。
部活はテニス部に入った。錦につられて入った形だ。その実態はかなりいい加減で、好きなときに好きな人が参加する、という大学のサークルのようなものだった。それでも俺は週に二三回は顔を出すようにしていた。先輩にも顔と名前を覚えられ、他クラスの知り合いも増えた。テニスはあまり上達していないが。
そんなふうに意識して友達作りを優先させていたから、雛木小夜としっかり話すのは、本当にあの日以来一ヶ月ぶりのこととなった。
「遠哉くんはどんな服装の女の子が好みかな?」
放課後の保健室。向かい合った席に座る彼女が話しかけてきた。
俺たちは保険委員の仕事中。
委員会決めのときに俺は周囲に保険委員になり、女子の側も同様の経緯で雛木小夜に決まったらしい。
委員の人間は月に一度くらい養護教諭に呼び出され、雑用をやらされる。
そして、今日俺たちが言付かったのは保健室利用の書類の整理だった。
「――ん? 唐突だな。それは私服の話?」
「そうそう。別に遠哉くんの特殊な性癖を探ろうっていうわけじゃないよー。何系、とか。あるでしょ?」
天井を指した人差し指をくるくる回しているが、あいにくそのジェスチャーがなにを表しているのかさっぱりわからない。
「ふむ。そうだな――ゴスロリ系とかは大好物かな」
「ええ! 意外すぎるよ! 驚愕だよ! どのくらい驚愕かっていうと高さ一・八メートルしかない世界最小の大仏をはじめてみたときくらい!」
――なるほど。雑学系で責めることにしたのか。悪くない選択だな。
ちなみに世界最小の大仏は千葉県鎌ヶ谷市にある『鎌ヶ谷大仏』だ。大仏の定義自体が曖昧なので名乗ったもん勝ちみたいな感じではあるのだけれど――とにかく小さい。驚愕とまではいわないが、俺もはじめて見たときは驚いたものだ。
「まあ冗談はさておき。そうだな……。そういう『何系』っていうのに詳しくないからそういう答え方はできないけれど、強いて言うなら露出が多すぎたり派手すぎたりっていうのはあまり好きじゃないな」
「そっかぁ。まあ確かに遠哉くんが『ギャル系』とか『お姉系』が好きって言ったら違和感あるしね。それは納得。清楚な感じがいいのかな?」
「別にそうじゃなきゃいけないってわけじゃないけどな。ボーイッシュな感じとかでも似合っていればいいと思うし――で、なんでいきなりこんな話題を?」
「それがね。このあいだ優花ちゃんたちと遊びにいったんだけど、そのときに私服が地味すぎるとかおばさんくさいとか言われちゃって。私としてはそんなことないと思うんだけど、優花ちゃんたち、けっこう派手な服着るから」
優花ちゃん――根岸優花か。まだあいつらと仲良くしてるんだな。
「――見たわけじゃないからなんとも言えないけれど、俺は雛木には派手な格好より大人しい感じのほうが似合うと思うぞ」
この頃には俺は雛木小夜のことを呼び捨てで『雛木』と呼ぶようになっていた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいかなー。でも、やっぱりもっとオシャレについて勉強しなくちゃダメだな。優花ちゃんたちと並んで歩いたときに恥ずかしい思いさせちゃったら嫌だし」
「そういうものかね……。まあ、がんばれ」
「うん! がんばる!」
雛木が両手でグッとガッツポーズのように構えて、笑う。
そこでいったん会話は途切れ、止めていた仕事を再開。
しばらく――五分くらい無言で作業していたが、今度は俺のほうから沈黙を破る。
「なあ、雛木」
「んー? なあに?」
雛木は少しの間書類に向かったまま俯いていたが、すぐにペンを置き顔を上げた。
「雛木は根岸さんたちと、仲良いのか?」
「……うん? どうしていきなりそんな質問なのかわからないけど、仲、良いよ」
確かに会話の流れからして、この質問はおかしい。ついさっき一緒に遊んだと言ってったのだから。
それでも俺がこんな質問をしたのにはわけがある。
入学当初こそ雛木はその圧倒的な魅力で根岸優花に劣等感を抱かせただろう。それがゆえに根岸優花は彼女を敵に回すのではなく味方につけようとしたのだ。
けれど一月をともに過ごすことで彼女は気づいた。気づいてしまった。
雛木小夜が主張を持たない、ということに。
雛木小夜はその魅力を暴力としない、ということに。
つまり、
雛木小夜は根岸優花の敵にはなりえないのだ、ということに。
彼女がそのことにいつ気づいたのかはわからないけれど、ここ最近の二人の様子を見ていると根岸優花の態度がはじめのころと大きく変わっていることがよくわかる。あっという間に立場を逆転させたのだ。
根岸優花は俺の記憶の通りの『女王様』となりつつあった。
そして雛木小夜は『女王様』に支配されつつあった。
それは彼女の無邪気さゆえに。
それは彼女の無害さゆえに。
それは彼女の無垢ゆえに。
俺はそうした関係の変化に気づいたからこそ、先ほどの問いを発したのだった。
その構図に自殺した『雛木小夜』の姿が脳裏によぎったから。
「いや、仲良くやっているならいいんだ。気にしないでくれ」
俺はそう言ってこの話題はこれでおしまいとばかりに書類に視線を落とした。雛木もそれ以上言葉を続けなかった。
俺は雛木の返答から十分に問いへの答えを得ていた。もちろん仲が良いという言葉を信じたわけではない。俺の問いに答えるまでにあった僅かな間――それこそが答えだろう。雛木自身もその関係に疑問を抱きはじめているのかもしれなかった。
これほどまでに記憶と異なった『雛木小夜』が同じ運命を辿るとは考えがたいが――。
「――あー!」
急に雛木が叫び声を上げた。
「なんだ? 急に叫んで?」
「やばいよー。もうこんな時間……今日バイトなのー。遅刻決定だぁ……」
がっくりと項垂れる雛木。こんな表情はめずらしい。
「いいよ。あとは俺がやっとくから急いで向かえよ。どうせ残りはたいした量じゃないし」
「ホントに! 助かるよー。感謝感謝! どのくらい感謝してるかっていうと東大寺の大仏様の螺髪の数くらいたくさん感謝だよー」
「雑学路線かと思ったら仏像路線かよ! 最近流行の仏女かよ!」
ちなみに螺髪というのは仏様の髪の毛だ。あの丸まっているやつである。東大寺の大仏の螺髪の数は九百六十六個――非常にわかりづらいが九百六十六回分の感謝ならけっこうな大感謝といえるか。
「――くっ! 雛木にツッコミを入れさせられる日が来るとは……。しかもこんな短期間で……」
「それもししょーのご指導の賜物であります」
「……ゆけ! 弟子よ、もう俺から教えることはない」
「はい。これからも心に刻んだししょーの言葉とともに邁進していきますぅ! それでは!」
威勢の良い別れの言葉とともに、雛木は去った。
ピシャリと扉の閉まる音を聞いてからしばらくコントの余韻に浸り、残務の処理に勤しんだ。
俺が自分で言ったように残りの仕事はすぐに終わった。
帰ろうと立ち上がって窓の施錠を確認していたとき、俺は床に何かが落ちているのに気づいた。
それは雛木の生徒手帳だった。
帰るとき慌てていたから鞄から落ちたのだろう。俺はそれを拾い上げた。
すると、手帳からひらりとなにかが舞い落ちた。手帳に挟んであっただろうそれは証明書サイズの写真――そしてそこに映っていたのは、
『雛木小夜』だった。
ついさっきまで一緒にいた雛木ではない。
やり直す前の俺の記憶に残っていた『雛木小夜』の姿がそこにあった。
黒い癖毛を目元まで垂らした不健康そうな少女。
『やり直し』の世界で会った明るい、天使のような少女の面影は、ない。
――いや、まったくないとは言い切れない。証明書にさえ俯き加減で移っているこの少女が髪をストレートにして、栗色に染め、前髪を留めて、顔を上げて、微笑んだなら――どうだ?
雛木小夜と似ているのではないか?
わからない。
どうして雛木小夜が『雛木小夜』の写真を持っている?
わからない。
やり直しの世界では雛木小夜は雛木小夜なんじゃなかったのか?
わからない。
この写真に写る『雛木小夜』は誰だ?
俺は混乱し、悩んだ末に写真を手帳のポケットになっている部分に差し込んで、自分の鞄にしまった。
俺はこれを明日雛木に返せるだろうか?
何も見なかった風を装って、冗談交じりの会話ができるだろうか?
――無理だ。
きっと俺はこれを返せない。
そう、思った。
そのとき、すでに本当は真実というものが見えかけていたのだけれど――、
雛木小夜の仮面の下を直視する勇気が、俺にはなかった。
六 雨と真実
『友達を作る』という俺の計画は停滞していた。
クラスメイトからの紹介や部活動で、確かに知り合いは増えていく。そのうちの何人かとはすでに一般的な高校生から見て、『友達』といわれる関係になっているのかもしれない。
それでも俺がどこか納得いっていないのは、やはりそれが上辺だけのように感じているからだろう。これまで俺は自分が特別他人と距離をとって、他人に踏み込まないようにしていたと思っていた。けれど実際に『一般的な』高校生と同様に振舞ってみれば、彼らも俺もたいして変わらないように感じた。
多くの人間は他人との距離をうまく測りながら生きている。
俺はその距離が人より少し遠かった。
その少しが決定的だったのだけれど――。
もうすでに七月。それでもまだやり直しして三ヶ月弱。人間関係を悟ったような気になるには早すぎる。そう考えながらも、『これで本当に運命を変えられるのだろうか』という不安がちらつきはじめていた。
ここのところ雨が降り続いている。
そんな鬱々とした季節のことだった。
――ついに俺はひとつの真実を突きつけられることになる。
ずいぶん前から俺が気にかけていた雛木と根岸さんの関係は徐々に俺の予想通りの形となっていった。特に六月に入ってからは急速に態度が露骨になっていった。
そしてある日の放課後。
連日の雨で部活がしばらく休みなので、俺はたまには読書もいいだろうと図書室に行くことにした。数点の小説を選んで帯出の手続きを済ませそれらを鞄にしまうときに、宿題が出ていた教科の教科書を教室に忘れていることに気づいて、取りに戻ることにした。
教室に戻る途中で昇降口に向かう雛木の姿を見た。雛木はこちらに気づかなかったようで、俯いたように歩いていった。
自分のクラスに近づいたとき、教室から女子の声が聞こえた。誰かが残っているようだ。
借りる本を選ぶのにわりと時間がかかってしまったからもう誰もいないかと思っていたのだけれど――この声は根岸さんだな。
俺は根岸さんにあまりいい印象を持っていないので教室に入るのを躊躇い。隣のクラスの前で立ち止まった。
「ったく、ケッサクだよねー」
ひときわ大きな声。それに続いて笑いが起こる。
いつもの取り巻きが一緒にいるようだ。
「でもさあ、ちょっとやりすぎじゃない?」
「いいんだよ。あいついっつもヘラヘラしててムカつくし」
取り巻き二人が交互に言う。
「そうよ。やりすぎよ――窓から鞄を投げ捨てるなんて」
窓から鞄を投げ捨てる? 誰の? 決まってる――。
「なに言ってんのー。優花がやれっていったんじゃん」
「そうだよ。この、小悪魔ちゃんめー」
三者、哄笑。
それを聞いた瞬間――俺は昇降口に向かって駆けていた。
そして昇降口を出て、自分のクラスの窓の下に目を向ける。
そこに、雛木小夜がいた。
散らばった鞄の中身を拾っている。
雨に打たれながら。
傘も差さずに。
わざわざ鞄を開いてから投げたのか、最初から開いていたのかはわからない。鞄の中身は広範囲に散らばっているようだ。
駆け寄って、手伝おうとして――しかし俺の脚は動かなかった。動けなかった。
今俺が立っている位置にはせり出した屋根があるため二階にある教室からは俺の姿は見えないだろう。けれど、もし雛木に駆け寄ったら――、
俺の姿が根岸さんたちから見えてしまう。
苛められている人間を助けたり、庇ったりしたらどうなるか。
そんなことはわかりきっている。
それは――不条理で、理不尽な、暗黙のルール。
だから、動けない。
雛木がこちら側に振り返ったとき、目が合った。
雛木は微笑んだ。
いつも通りの、天使のような、作り物の笑顔だった。
俺は雛木が荷物を拾い終わるまでその場で呆然と立ち尽くしていた。
雛木はこちらに歩いてきた。俺が視線を離さないでいるので、仕方なくといった感じで口を開いて、
「えへへー。唄でも歌えれば様になったんだけどねー。歌は、苦手なんだ」
と笑った。
「…………雛木、俺は……」
それだけようやく声に出したが、そこから続く言葉が思いつかなかった。
「気に、しないで……」
雛木は俺の横を通り抜けて、昇降口から校舎に入る。
「――待ってくれ!」
俺は振り返り、叫んだ。
「……ダメだよ。大きな声出しちゃ。――見られたら困るでしょう?」
「いいんだ」
「ダメだよ」
「……それでも――」
「……それなら――」
雛木が入っていったのは一階にある家庭科室だった。放課後なので無人だ。
「ここなら、見つかる心配はないかな。絶対とは言い切れないけれど、たぶん、だいじょうぶ」
顔には相変わらず笑顔を張り付けているが、その声の温度は低い。
「電気は点けないでね。下着、透けちゃって恥ずかしいし」
雛木は薄暗い教室の窓を背にして立った。俺は入り口から数歩のところで止まっている。
俺は鞄からハンドタオルを出して、雛木に向けて放った。
「ありがとう。私のは濡れちゃって使えないから――助かる」
雛木は受け取ったタオルで髪を拭いた。
いつもさらさらと風になびく栗色のストレートヘアーは、雨を吸って少しうねっていた。
髪と肌を拭いて――服に関しては拭いても仕方ないと思ったのだろう――そのタオルを胸元に当てる。
「これ、洗って返すね」
「やるよ」
「迷惑かな」
「……わかった。今度な」
「ごめん。こっそり渡す」
そんなつもりじゃない――と言いたかったが、そんなことはわかった上で言っているのだろう。俺は何も言わなかった。
しばらく沈黙が続く。
窓の外で降り続く雨の音。
雛木のスカートから落ちる雫のぽたりと落ちる音。
「――いつか、さ」
静寂を切り裂いたのは、小さく、冷たい、雛木の声。
「遠哉くん、天使はいると思うかって訊いたよね」
「……そんなこと、訊いたかな……」
「いや、忘れてるならそれでもいいんだけれど――」
俯く雛木の表情はよく見えない。笑っているようで、泣いているようだ。
「――私はね。天使に会ったことがあるの」
「そっか」
「信じないよね」
「信じるよ」
驚きは、ない。
「苛めにあってね……。辛かった。死にたくなるくらいに。さっきの鞄のことなんてそれに比べたらおままごとみたいなものだよ――それで、私、死んじゃった」
「…………」
雛木が自殺した年――それは俺が死ぬ四年前。
『何しろ四年に一人当選するくらいの確率なんですから。オリンピック級ですよー!』
天使が何気なく言った、そんな言葉を思い出す。
「死んだはずだったんだけれど、三途リバーの一歩手前っていうところで、天使に会ったの。すごく明るくて、かわいい女の子の天使」
「変なたとえ話ばかりしそうだな」
「でもかわいいの」
「わかる気がする」
「遠哉くんなら、そう言ってくれると思ってた」
そこで雛木はくすりと笑ったようだった。
「それでね。天使が言うの。『未練があるでしょう? やり直したいと願ったでしょう?』って。私は答えたわ――『未練ばかりです。やり直したいです』って……。未練なんて、窓から飛び降りる前に全部捨てたと思ってた――けれど、そんなことなかったって思い知らされた」
雛木は自嘲するように、懺悔するように、言葉を続ける。
『雛木小夜もやり直しをしているのではないか?』
保健室で生徒手帳に挟まれた写真を見てから、俺はその可能性を疑いはじめた。
何もかも記憶通りの世界で二人だけがイレギュラーな存在だというなら――そこに共通項があると考えるのは的外れではないだろう。雛木の存在だけが書き換えられていると考えるより、よっぽど妥当だ。
雛木の口調が天使に似ていたのは、雛木が天使と会っていて、その口調を知っていたから。
雛木が記憶と違うのは、雛木もまた悔恨に満ちた人生を変えようと行動していたから。
「私が死んだ世界でも、私は今回と同じように入学に合わせて引っ越してきた。私は小さい頃から本を読むのが大好きで、それ以外に興味を持てないくらいに大好きで、他人なんてどうでもいいってくらいに思ってた。……いいえ、思い込むようにしてた。単なる臆病者のくせに、自分を誤魔化して、孤独であることを認めなかった。高校に入ってもそれは変わらず、見た目なんか気にしないから、ボサボサの天然パーマで、猫背で俯いて、本ばかり読んでた」
それが――『雛木小夜』。
「――手帳……雛木の手帳、拾ってさ。写真、見たよ」
「ああ。やっぱり遠哉くんが拾ってたんだね。あんまり見られたくないんだけど、遠哉くんでよかった」
「返すよ」
俺は鞄からあれ以来ずっと入れっぱなしになっていた手帳を取り出し、雛木に渡した。近づくとき、濡れた雛木の姿を見ないようにずっと視線を逸らしていた。
渡し終えると、俺はまたさっき立っていた位置まで戻る。
今の俺たちにはその距離がふさわしいように感じた。
「昔の私を見てから今の私を鏡で見ると、変化を実感できたから――お守りみたいなものだったんだ」
雛木はそう言って挟んである写真を取り出し、眺めた。
そしてまた、語りだす。
「『やり直し』の前の世界で――私は文芸部に入っていたの。ほんの気まぐれだった。気が向いて見学に行ったら、部員は三年生の部長一人だけで、受験に専念するから部室を自由に使っていいよって言われて――読書するにはいい場所だったから。でもそのことがどこからどう伝わったのか根岸さんに知られたの。そうしたら彼女はある放課後、数人の友達を連れて部室にやってきて、『こんないい場所独り占めしてるなんてずるいよ。これからここは私たちの溜まり場にするから』って。
それから毎日のようにやってきて、私は雑用扱い。『根暗』とか『キモい』とか言われながら命令されて、用が済んだら『いつまでいるの? 早く帰って』だって。それでも、もし部室に行かないで帰ったら、次の日には今日みたいな悪戯をされるの。それはそれから二年近く、ずうっと続いて、どんどんエスカレートしていって――」
雛木はそこまで言って、すうと息を吸い込むと、顔を上げた。
「――もう耐えられない、って思って、もういいや、って思って、私は、飛んだの」
泣いていなかった。
けれど、
笑ってもいなかった。
それでも、どこか悟りきったような表情だった。
「天使にあったときね。こんな子だったらみんなから好かれるのかな、って思った。自身を持って、勇気を出して、友達を探せるかなって。だから天使が『いつに戻りたい?』って訊いたとき、私は『高校入学の半年前』って答えたわ。半年かけてこの子みたいになろうって思って。髪をいじって、笑顔の練習をして、背筋を伸ばして、明るい声で喋れるように――そうしたら友達できるかもしれないと思った。苛められないかもって思った。遠哉くんに教わったのを参考にして面白いギャグが言えるように練習したし、オシャレするためにバイトもした。でも……ダメだったみたい」
「……まだ、時間はあるんだろ?」
そこでようやく言葉を挟む。自分で言って、なんて空しいセリフなんだろう、と思った。
「あるけど……もうダメだよ。私はもう間違えちゃった。きっと根岸さんは私を手放さない。私はこのまま嬲られて――二年後に、やっぱり飛ぶんだと思う」
「そんな……」
雛木は人生を、変えられなかった。
努力が、行為が、願望が、実らなかった。
天使のくれた機会を、活かすことができなかった。
「……なんてねー! 即興で考えたにしてはなかなかの物語だったんじゃないかな。少しは面白かった? もっと遠哉くんと喋ってたかったけどさすがに体が冷えてきたからもう帰るよー。タオル、ありがとね! 感謝感謝!」
満面の笑顔でそう言って、雛木は俺の脇を通って教室の扉を開いた。
俺は、今度は、止めることができなかった。
雛木が廊下に出て、後ろ手でドアを閉めるとき何か言った気がした。
それは、たぶんこんな言葉。
『――遠哉くんは、間違えないでね――』
七 『やり直し』の終わり
俺が中学生一年生の頃、俺には二人の仲のよい友達がいた。
二人とも読書が好きで、入学してすぐに意気投合して、いつも三人でつるんでいた。
Aは成績優秀、運動神経もよくて――、
Bは成績不良、運動神経も鈍かった。
俺は成績も運動神経も、二人の間に収まっていた。
性格もバラバラの三人だったけれど一緒にいて退屈しない、いい友達だった、と思っていた。
二年生になって、Bだけが別のクラスになった。
新しいクラスになるとAは学年でも有名だった不良に目をつけられた。苛めのターゲットにされたという意味ではない。『仲間になれ』と言われたのだという。なんでも要領よくこなすAだったから、そのことはあまり意外でもなかった。
Aが断れなかったのなら不思議ではない。
けれど――Aは断らなかった。自ら望んで仲間になった。
その真意はわからない。暴力に魅せられたのかもしれないし、権力に憧れたのかもしれなかった。
とにかく、不良グループに入ったAは俺たちと遊ぶことがなくなった。
その半年後に俺が見たのはそのグループの連中とともにBを囲んで、苛めて、笑っているAの姿だった。
俺はBを庇って飛び出して――口元を歪めて嗤うAに殴られた。
夏休み前、期末試験が終わった頃には雛木小夜が苛めのターゲットになったという事実は、もはやクラス中の暗黙の了解となっていた。他クラスの人間でもある程度の人間関係を築いていれば知ることとなったろう。
根岸優花は絶対的な『女王』の座を確固たるものとしていたから、彼女の命に逆らうものはいなかったし、雛木を庇うものもいなかった。
そう。俺も含めて――。
根岸優花に触れないように、かといって離れすぎないように――そのぎりぎりの範囲で生活していた。そして、同様の位置にいるクラスメイトとの間には妙な連帯感が生まれていた。
それはとても友情とは呼べない卑屈で陳腐な関係だったけれど――少なくてもそうしている限りにおいて俺に目をつけられる心配はないだろう。
来年になれば根岸さんとは違うクラスになる。記憶にあるから確実だ。
だから今のクラスでの立ち位置を守って、今のクラスメイトとの関係を守っていれば、最悪の事態は避けられる。もしかしたらタイムリミットまでに目標を達成できるかもしれない。
夏休みには、そんなことを忘れるように親しいクラスメイトと高校生らしく遊んだ。『女王様』の圧制を逃れた開放感からか、みんないつもより伸び伸びとしていた。
街に行った。海に行った。縁日に行った。花火を見に行った。恋愛の真似事みたいなこともした(すぐに終わったけれど)。楽しいと、思った。
そして夏休みが明けて最初に雛木の姿を見たとき、死にたくなるような罪悪感に襲われた。
十月七日、昼休み。
雛木が廊下ですれ違いざまに、
「――昨日また天使に会ったよ。今日まで、だって」
と呟いた。
お迎え――ということだろう。
そういえば今まで考えていなかったが期限が来たらどうなるのだろうか?
主観的な意識が死亡時点に戻されるだけというなら『やり直し期間は一年』ということにはならないだろう。なぜなら今こうしてやり直している俺はその戻された先の俺と連続していなくてはならないからだ。そして、そうであるなら期限が過ぎても『自分がやり直している』という記憶が残り、一年を過ぎても行動を変え続けることが可能になる。
……まあそんなに甘い話はないだろうから、やり直しているという記憶が削除されるとかそれくらいのことはされそうだ。
それも――明日以降の雛木を見ればわかるのだろうか。
雛木小夜の『やり直し』は、今日、終わる。
俺はその日の放課後、部活に行かなかった。
根岸さんたちが毎日教室に残って喋っているのを知っているため俺はホームルームが終わるとすぐに教室を出ることにしていた。
その日もそうしたのだけれど、なんとなく直帰する気にはなれず、図書館に行くことにした。
適当な小説を選び、椅子に座って、思考を放棄するようにして耽読した。
気づくとあっという間に日が傾いていた。ちょうど切りのいいところまで読んでいたので、読むのを中断して帯出手続きを済ませ、帰宅することにした。
昇降口を抜けて、校門へ向かって歩く。
そして――俺はその光景を目にした。
校門の向かって左にある今は花のない桜の木。その根本に――ぺたんと座って読書をしている雛木小夜がいた。鞄とスカートが刃物で切られたように破けていた。
周りの生徒は訝しげな目でそれを眺め、けれど立ち止まらずに帰っていったけれど、俺は立ち止まって動けなくなった。
夕焼けの赤に染まった雛木は――壊れてしまった人形のように、うつろな瞳で手に持った本を読み、口元だけが笑っていて、悲しいくらいに幸福そうな表情をしていた。
下校の風景の中で、学校という空間の中で、そこだけが異質だった。
気づいたら俺の頬に涙が流れていた。
幼い頃から読書が好きだったといった雛木。けれど彼女は『やり直し』の世界では本は読まないと言った。その理由には苛められたときのトラウマというのもあっただろうが、一番の理由はその時間を人と触れ合う時間に当てるためだろう――俺がそうだったように。
俺も、雛木も――自分の弱さを欺瞞で覆って、正当化して逃避していた。
俺たちは似ていた。
俺はいつからか雛木に自分の姿を重ねていた。
だからそんな雛木がやり直しの最後の日に、すべてを諦めて空想に溺れている姿を見るのは、辛かった。
俺たちのような人間だって、『やり直し』というハンデがもらえれば現実世界で幸せを感じることができるんだって――半年分の先輩として、そう示して欲しかった。
俺は涙を流しながら、雛木に歩み寄った。
「ごめんな……。俺のためを思ってわざと遠ざけてたみたいだけれど、もう限界だ」
俺は雛木の目の前にしゃがみこむ。雛木は視線を本から動かさない。
「雛木が運命を変えられなかったのなら、たぶん俺も無理だ……。結局、俺たちには無理だったんだ。悔しいけれど……本当に悔しいけれど」
雛木がぱたりと本を閉じて顔を上げた。
そして右手の指で俺の頬を流れる涙をぬぐった。
「遠哉くんにはまだ時間があるよ。今だって私みたいに苛められてるわけじゃないし、錦くんたちとも仲良くやっているでしょ? 遠哉くんなら、変えられるよ。だから――早く離れたほうが、いいよ」
優しい、声。
「……雛木は――あれだけ辛い目にあっても、俺には希望を持って生きろっていうのか?」
「遠哉くんならできるよ」
「無責任だな」
「責任取るよ」
「死ぬのに?」
「死ぬけど」
雛木は表面だけで笑った。
少しの沈黙。
涙は止まっていた。
もう俺たちの脇を十数人の生徒が通っていった。俺たちの顔を知るやつがいたかもしれない。もしいたら、明日にはこのことは根岸さんの耳に届くだろう。
そうしたら、今クラスで親しくしているやつらとももう口も利けないだろうな。
上辺だけの、脆い関係だから。
「――俺はさ、親友ってやつが欲しかったんだ。小説とかに出てくるような本物のやつ。命をかけてお互いを助け合うような暑苦しいくらいの――」
「いいね。そういうの。私も憧れたな……。うん。きっと遠哉くんならできるよ」
「無責任だな」
「責任取るよ」
「――本当に?」
「――――――」
俺の目的が『一人でもいいから親友が欲しい』ということなら、俺がしようとしていることは間違っていない。
そう。
俺はずっと雛木と友達になりたいと思っていたんだから。
ただ、苛めに巻き込まれる覚悟がなかっただけで。
ただ、雛木の心に踏み込む勇気がなかっただけで。
――けれど、もう決めた。
「俺は雛木に命をかけるよ。運命が変わらなくてもいい。死んでもいい。二人が死ぬまででいい――親友になってくれないか?」
俺は雛木がいればいい。
もし期限が来て、未来が変わらなくて、死んでしまうとしても――雛木が親友でいてくれるなら、親友でいてくれたなら、それで構わない。
「私も、遠哉くんとお友達になりたかった。……でも、私は――」
「責任とってくれるんだろ。それに、もう遅いんだ」
俺は「ほら」と言って昇降口のほうを指差した。そこには根岸さんの取り巻きの一人が立っていてこちらを見ていた。俺たちに見られたのに気づくと、校舎に引っ込んでいった。根岸さんに報告するのだろう。
「もう手遅れだよ――行こう」
俺は雛木の手を引いて立ち上がる。
「どこに?」
「学校じゃ、ないところ」
俺はいつかのように校門に雛木を待たせ、自転車を取りに行った。
取って戻ると、今回は隣を歩くのではなく、雛木を荷台に座らせて走り出した。
目的地も決めずに走った。
日は沈んでいって、夜がやってきた。
走る。できるだけ静かなところへ。人や車の音を避けて、ネオンや街の明かりを避けて。
見上げれば月と星が浮かぶ、雲のない綺麗な夜空だった。
走っている間中、俺も雛木も一言も交わさなかった。
行き着いたのは防災公園といわれるだだっ広い公園。遊具もなにもないその場所で、俺たち二人はベンチに座った。
最初に口を開いたのは雛木だった。
「私ね。半年かけて自分を変えていって、入学の頃には私だってその気になれば変われるんだって思ってた。これで苛められなくなるかなって。だから自己紹介のとき遠哉くんが私のことを驚いたような顔で見てたとき、笑顔の裏側を見透かされたみたいで怖かった」
「……あれは、そんな意味じゃなかったんだけどな」
「うん。そうだね。それは後で気づいたよ。翌朝とか、話していてなんか変だなって思ったし――私の記憶では遠哉くん、あんな風に人と話してなかったから。でも決定的だったのはやっぱり天使のことを訊いたときかな。あれで遠哉くんもやり直しをしてるんだって確信したよ」
「あの頃は雛木は天使なんじゃないか、なんて思ったりしたな――見た目は全然違うのに」
雛木と天使は性格は似ているようだったけれど、外見は全然違ったのだ。
「『やり直し』の前は全然話したことなかったけれど、今回はいっぱい話したよね」
「そうだな」
「遠哉くんと友達になりたいって思ってた」
「なっただろ?」
「なれたかな?」
「俺は雛木と友達になるよ。雛木の『やり直し』が今日、終わっても。半年かけて親友になる。雛木を――死なせないよ」
「遠哉くんはこれでよかったの? 私のために今までの努力を無駄にして――遠哉くんだって自分の過去を変えるためにがんばってきたんでしょう?」
「言ったろ? 俺は友達が欲しかったんだって。雛木が友達になってくれるならそれで満足だよ」
「……友達か。えへへ。うれしいなぁ」
雛木は笑いながら、涙を流した。
嗚咽した。
物語みたいに綺麗じゃなくて酷く現実じみた、人間じみた泣き方だった。
不器用な俺は、積み上げた人間関係をすべてぶち壊して、一人の友達を得た。
それは褒められたことではないのかもしれない。現実的な選択でないのかもしれない。甘ったれた選択かもしれない。
けれど、これでいい。
最善の行動ではなかったけれど――雛木はきっと最高の親友になるから。
「――『やり直し』が終わったら、明日の私はどうなっているんだろう?」
「どうなっていても隣にいるよ」
「なんか私だけ逃げちゃうみたいで、卑怯な気がするな」
「そんなことないんだろ。雛木は雛木なんだから。未来で俺との楽しかった思い出や辛かった思い出を味わってくれ」
「うん。……なんか変な感じだね」
それからしばらく話していたけれど、終電の時間が迫って、雛木を駅まで送った。
駅に着いて、二人で「また明日」と言って別れた。
こうして、雛木の『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーンによる『やり直し』は終了した。
エピローグ
雛木と親友になってからの半年はあっという間だった。
クラスでは予想通り酷い苛めにあったけれど、そんなことは俺にとってどうでもよかった。
『やり直し』が終わった雛木は『やり直し』に関する記憶が曖昧になっていて、自殺した世界のことは覚えていないようだった――そのあたりに関しては詳しく調べなかったし、調べようという気もなかったから、実際にはよくわからない。
ともかく、俺と雛木はその半年の間、本当に命がけの親友だった。
昨日、天使が夢に現れた。
『明日の晩に迎えに来ます』
だそうだ。
俺は最後の日も雛木と変わらない日常を過ごし、「また明日」と言って別れて一日を終えた。
そして今、目の前に天使がいた。
「お疲れ様ですぅ! 『あの素晴らしい日々をもう一度』キャンペーン終了のお時間です!」
久しぶりに会った天使は相変わらずテンションが高かった。
「どうでしたかぁ? 満足のいく一年を送れましたかぁ? ダメでも延長はありませんよぉ」
「……ひとつ訊きたいのだけれど――雛木のことは知ってたのか?」
「それはもちろん! 天使ですから。まあ二人の人間が同じ学校の同じ時代をやり直すなんてはじめてでしたから私としてもどうなることやら、って感じだったんですけどね」
相変わらず悪びれもせず笑っている。
「はあ……。おかげでずいぶん驚いたよ」
「それで、どうでしたか? 一年間」
「まあまあかな……戻ってみてよかったよ」
天使はそれを聞いて「それならよかったですぅ」と喜んだ。
「――それじゃあ早速なんですけど、これからあなたの意識をあなたが死んだ時点に戻します。最初のうちは頭がごちゃごちゃしてしまうかもしれませんがじきに記憶――やり直しが終わったところからその時点までの記憶も戻るかと思いますー」
「ああ、わかった」
「とは言っても事故の運命を変えられなかったら、その前に死んじゃうんですけどねー」
そんなことまで笑顔で言う。
「覚悟はできてるよ」
「そうですかぁ。それなら、あまり時間もないのですぐに戻しますよ?」
「そうか。世話になったな」
「いえいえー。これも仕事ですので……。私としてももう少し別れを惜しみたいところなんですけどねー。残念ですぅ。どのくらい残念かって言うと、『雨四光』が確定して『こいこい』したら相手に『花見で一杯』で簡単にアガられてしまったときくらい残念ですぅ」
また花札か。天使はやっぱりギャンブルネタ縛りらしい。
「ん。最後に元祖たとえギャグを聞けたし、思い残すことはないよ。それじゃあ一思いにやってくれ」
その言葉を聞いて、天使は最後に慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「――それでは――」
○
次に意識が戻ったとき俺は病室にいた。
体がまったく動かない。
目線だけを動かすと体に何本ものチューブが繋がっていて、口にもマスクがつけられていた。チューブは点滴やら機材やらに繋がっている。
部屋は静かで機材の作動音と機会的な信号音、そして時計の針が刻む音だけが響いている。
どうやら事故は避けられなかったらしい、と感じた。
雛木が苛められる運命から抜け出せなかったように、俺もまた事故に遭う運命から抜け出さなかったということか。
もしかしたらあの日あの場所で事故に遭ったのではなく、違う日の違う場所だったかもしれない。それはわからないけれど、同じ時期に事故に遭ったのは間違いないだろう――そういう運命だったのだろう。
いろいろな記憶が蘇ろうとしている。
俺がまだ知らない記憶。知らないけれど、それは確かに俺が体験した記憶。
温かい感情が生まれてくる。
次から、次へと。
涙になって溢れそうなくらいに。
けれど、その思い出のすべてを味わうことはできなそうだ。
俺の意識は途絶えようとしている。
そうしたらきっと――。
それでも、
もうあのときほどの後悔はない。
俺の手に、重ねられた手の暖かさを感じるから。
ベッドの隣の椅子に座って、俺の瞳を見つめて微笑む女性がそこにいた。
――雛木小夜が、そこにいた。
後書き
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