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作品ID:83
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約12497文字 読了時間約7分 原稿用紙約16枚
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happy end
作品紹介
自殺しようとビルと飛び降りたけど、その体は空中で止まる。見上げると腕だけの物体が体を掴んでいた。テーマが思い話ですがよろしくお願いします。
ビルにしてみれば高くも低くもないこの場所を選んだのは、ここから飛び降りる前に誰かの目に止まりたかったからかも知れない。けれどそれは、決して誰かに止めてもらいたかったわけではないのだ。俺の事をを知りもしない人間からの「生きて欲しい」「死んじゃダメだ」なんて言葉など聞きたくはない。そう、決してそんなわけではない。
ただ、今まで生きてきた自分の人生を一瞬にして全部、辛かった事も踏ん張って耐えてきたことも・・・自分のこの手で壊してしまうのだから、…だから、誰かに最後を見取って欲しい、俺の最後のページに俺を覚えてくれる人が、一人ぐらい欲しいかったんだ。
不真面目に生きてきたわけでもなければ、誰かに迷惑かけて生きたわけでもない・・・そんな自分が命を絶つのだから。
神様か誰かが決めたルールに、はみ出したことなんてないのに、どうしてこの世界にやさしさを見出せないんだろう?ここは、極寒の地でもなんでもない、食べ物だって、環境だって、生きるのに必要な物だってそろっている。
わがままだと言われてしまったらそれまでなのかもしれない。でも俺には餓えるには十分なほど、何かが足りなかった。死を選ぶこと、それは簡単な気持ちなんかじゃ出来ない。生き物には生存本能がある、誰だって死にたくない、死にたくはないんだ。頑張って生きてきた、苦しんでももがいてきた。それでも一人で頑張るのに疲れたんだ。
だから、そんな俺だから、………最後ぐらいは、…そんな自分を誰かに見て欲しかっただけなんだ。生きている意味がないとか、…そんなバカな理由で死ぬわけではなかった。ただ命を大切といいながら、誰も本当は自分の命しか大切じゃないから、それが寂しかっただけなんだ。俺は手すりに両手を掛け、手すりをまたいだ。
そしてそっと下を見下ろした。
強い風に背中押され、吸い込まれるような下からの重力を感じながら見下ろした地面は遠くて、道路は狭くて………高い、目が眩む。手すりに両手を掛けたこの状態から、手を離してこの足を滑らせてしまえば、…落ちて、つぶれたトマトみたいになる。この高くも低くもないビルの屋上からでも、落ちれば必ず死ぬ。人間は脆い生き物で、蟻はどんな高さから落ちても死なないのに、人は簡単に死んでしまうんだ。逆を言えば、蟻なんか踏み潰しただけで死んでしまう。命は何処まで行っても、命でしかなくて、…どんなものでも死ぬって事だけ。
結局は人も蟻も大して変わらない。
俺はいろんな物を食べてきた、それは言い換えればたくさんの命を殺してきた。でもそれは、罪でもなんでもなくて、食べる専用に殺された物を食べてきただけで、生きるって理由だけで皆許されてることなんだ。言い訳がましい言い訳。
命は大切だなんていわれたって、それは後片付けが嫌なだけ、面倒なだけ。人身事故が起こった時とかに聞いたことあるだろ?「迷惑だ」「死ぬなら他のところで死ね」人にとって命は大切なんかじゃないんだ。俺にはそれが、哀しくて、寂しくて、たまらないんだ。
そんなダークネスな世界で生きていけるほど、俺は強い雑草じゃない。嫌なことからおもしろいほど目線逸らして生きていけるほど、強くもないし、理想を抱けるほどロマンチストじゃない。
俺は、そっと手を離した。
なんだか、不安定。
風は強いわ、あたりの夜景は綺麗だわ、今から死ぬっていうのに清々しくてなんだか不思議な気分だ。
俺、本当に死ぬのかな?キラキラ光る、屋上のビルの点滅する赤い光、夜空の一等星、車やマンション、家族団らんの家庭の光、それらは俺を送り出すためにまるで祝福してくれているかのようにさえ感じた。
こんな綺麗な景色の中落ちれば、きっと天国へ生きる気がした。いや、でも、よく考えたら自分の命でも、奪ったのは自分なのだから、もしかしたら地獄へ行くのかもしれない。
地獄?天国?どっちに行くんだろう?まぁ、どうでもいいか…。
俺は、ゆっくりと右足を宙に滑らせた。体は右から何もない空中にのめり込むようにして滑り、目を開けたまま落ちた。よくこういうのってゆっくり落ちているように感じるってテレビとかでいるけど、本当なんだな…。まるで落ちてないかのように最上階の窓はいつまで経ってもそのまま、空中にある俺の目線を過ぎていかない。
…過ぎて行かない。
…過ぎて………行かない?
それどころか、数ミリも動いてないように感じるのはどうしてなんだろう?
俺はゆっくりと首を持ち上げた。
誰かが俺の服を引っ張っている、青白く細く、葬式で見たような生気の感じられない蝋人形のように固まった手。筋肉のしなやかさを感じない薄気味悪い手が、片手で俺を掴んでいた。一瞬、何が起こったか理解できなかった。
腕が伸びている方を見ると、途中で腕は途切れていた。腕の先には夜空が広がって、ビルの赤い転々とした光が点滅を繰り返して光っているだけ。
俺は状況が飲み込めず呆然と曲げた首を動かさないでいると、細く折れそうな青白い腕が俺を元いたビルの屋上へと投げ飛ばした。
一瞬にしてビルや手すり、夜空がすごいスピードで通り過ぎていき、ぐるぐる回転を繰り返して、そして背中にすごい衝撃、今まで感じなかった重力で胃が圧迫されて、口の中にすっぱい胃液の味がした。
俺が思わず口を手で覆っていると、俺の顔の前に腕が二本、宙に浮いていた。
そして腕は、何かをまさぐるように腕を動かして茶色く黄ばんだカビ臭そうな紙を取り出すと俺の顔の前に広げて見せ、意外と甲高い声で俺にいった。
「困るんですよねー。あなた、まだ死ぬ予定じゃないじゃないですか! 」
そして「ほら、ここっ!ここ見てください!!」と紙を片手で持ち、もう一方の片手である文字のところを指差した。
「あなたの死ぬのは一週間後の交差点で、交通事故っ!!自殺じゃないですよ!!」
俺は思わず、「はっ?」といった。
何を言ってるんだ、こいつは。俺が交通事故?…自殺じゃない?
そんなの俺の自由じゃないか、というか予定って?ていうか、大体これはなんだ?幽霊!?死神!?俺が混乱してるのもかまわず、この腕だけの物体は俺にこう言った。
「時々いるんですよねー、運命と別な事しちゃう人。うちも忙しいですからねー、他の人の運命と絡んでない場合はほっとくんですけど、あなたの場合、あなたが今死ぬことでもう一人余計な死者が出ちゃうんですよー。」
軽い調子で、その腕はいう。
「………えっ?ああ、」
何がなんだか分からない俺は、マヌケな声をあげた。
そして腕は俺を気遣うように優しく声をかけた。
「大丈夫ですかー?人引きあげるなんて久々でー、背中痛くないですかー? 」
腕は、気遣ったように俺に手を伸ばし立つのを手伝ってくれた。
「あ、ありがとう。」
俺は起き上がると、急に頭が冷静になった。なんだ?この状況?腕しかない、体がないんだけど?どうなってるんだろう?
「あ、あんた、何なんだ?幽霊か、何か?死神?…というか、えっと…これ、夢?」
これは一瞬、怖気づいて身を引いた。なにぶん、この腕異様だ。何か、とてつもなく嫌な感じがするのだ。
幽霊…なんてものは見たことも信じたことも一度もないが、多分本当にいたらこんな感じで鳥肌が立つ物なんだと思った。
「ああ、夢じゃないです。現実ですよー。」
腕は手を振って、身振り手振りで必死に言った。腕しかないから本当は必死かなんて分からないけど、声の感じで大体そうかな?と思う。
腕は俺のようすを伺いながら、「いいですか!」というと語尾を伸ばす特徴のあるしゃべり方で話し出した。
「まぁ、落ち着いて聞いてください。実はですね。人には最初から神様に決められた運命というものがあったり、なかったり…。」
「…どっち?」
あまりにもいい加減な説明に少し苛立ちながらつかさず聞くと、語尾を伸ばす妙なしゃべり方の口調で
「言葉の通りですー。ある人もいれば、ない人もいます。未来になってできる人もいれば、消える人もいるわけですよー。…まぁいい加減なんです、神様一人しかいないし、そんな緻密にできませんよー!ははっ」
と話した。
「で。ですねー、時々運命を自ら壊しちゃう人がいるんですよー、死ぬ予定だったのに命の最後にといって、記念にエベレスト登って脳腫瘍が治ったり、あと少しで有名女優になれたはずなのに、認められない悔しさから自殺しちゃったりで、人それぞれいろいろ思惑があって、運命が変わるんですー。でね、本当は別に周りの運命を変えたりさえしなければ、放っておくんですよー、さっきも言ったとおり、うちも暇じゃないんでねー。でも、運命に誰かの運命が絡む時、人の死を止めなくちゃいけなくなるんです。…まぁ、それがあなたなわけですが・・・。」
腕は身振り手振りをくわえながら、わりとざっくりと説明してくれた。
「俺、…なんかするの?」
俺は恐る恐る聞くと、腕はまるで感心するように俺にいった。
「ええ、子供を助けて自分が死んじゃうんですよー。今時えらいですよー!!」
腕は興奮が収まらないみたいで、手まで叩き始めた。
「自分の命放り出して、他人助けるなんてー、すばらしいー。」
手は言いながら、拍手をし続けた。
「………うるさい。」
俺は震えながらいった。
腕は、何も思ってはいないんだろうけど。
腕が手を叩く度、深く深く心の弱い部分がえぐられる気がした。まるで俺の死が笑われているみたいだった。バカにされているようだった。俺の声が聞こえていないのか、腕は拍手をやめなかった。俺は惨めな気分になり、涙を浮かべた。
人生が決められている?そんなの信じたくない!だってそうだろ!?俺は今まで、自分の足で歩いてきたんだ。苦しいことがあっても、哀しいことがあっても、理不尽な事があっても、…どんなことがあっても!!
乗り越えて、苦しんで、絶望して、哀しんで、それでも踏ん張って!俺の人生が決められていた?歩んできたのは紛れもなくこの俺と言う人間なのに?
………決められていた?
自殺だってそうだ!
…人が死ぬ覚悟をするってことがどういう事か、なんて分かってないだろ。どんな思いしして、どんなに葛藤して、どんなに苦しんで…。何があったか、だって何も見てきてないじゃないか!?知るはずもないのに!!
それすら他人にとっちゃ、どうだっていいことだっていうのか!?
俺の今までの人生、何のために?誰のために?たった一人の顔も知らない子供のために?耐えてきた分自分さえ報われないっていうのか?人を救うことで報われた気になってろって?俺の命を投げ出すことで?
それがすばらしいこと?
何故?どうして?なにが?
「やめろっ!!!」
自分でも驚くぐらい大きな声が出た。途端に沈黙があたりを蝕んだ。
俺は自分の顔に手を当て、抱え込みながら呟くように「やめろ」と言った。それはあまりにも力なく、弱々しく、情けなく。
俺は、めちゃくちゃ矛盾してる。
死にたいと言って死のうとしておきながら、誰よりも自分の命に固執してる。
ただ死ぬより、誰かのために死ぬほうがいいに決まってるのに、…俺はそれが気に入らない。
何がしたいんだろう?…俺。
自分ばっかりが大切で、他人のために自己犠牲になるなんて考えられない。名前も顔も知らない、どんな子かも知らない、生きている価値もあるかも、俺が死ぬよりも意味のある事かも、何も知らない、何も分かりやしないのに…それなのに俺は死ぬのか?
………情けないな、本当は自分が誰より自分の事が大切なんだ。
本当は、共有できないのなんて分かってる。
大切な物なんて他人と重ならない限り、お互いがお互いを護り合えないのだって、分かっては、いるんだ。だから誰も俺の命を大切にしないのだって、分かってる。
うわべだけなら、いくらかいるだろうけど、でも、そんなんじゃ嫌なんだ。俺は本当の気持ちが欲しいんだ。
でも、本当はそんなの存在しないことだって分かってる。
理解してる、わかってる、ちゃんと分かっては、いる。
…だけどっ!!
どうして…他人にとって、大切な物が俺じゃないんだろう?
どうして、こんなに塵程いる人間の中で、大切な物が俺な人が、誰一人もいないんだろう?小さすぎる、俺の存在。
ちっぽけ過ぎる俺の存在。
絶望と自分の浅はかさに打ちのめされていると、
「命は大切かと聞かれたら…」
自分の考えに夢中になって、すっかり忘れていた腕が突然しゃべり出した。
「普通、みんな大切だって言いますよ?」
俺が涙ぐんだ目で腕を見ると、腕はまた言葉を紡いだ。
「あなたは大切じゃないんですか?
他の誰かがあなたを必要としないと生きちゃダメなんて事はないんですよ。命なんて自分が一番大切なんだから。だから、………あなたが一番自分を愛してあげないと、自分がかわいそうなんじゃないですか?」
腕はうな垂れたまま、屋上から下りる階段の扉を開けた。
「人は愛情ばかり求めるくせに、誰かを愛したり、大切にするのが下手でいけません。後、一週間も時間がある。あなたはあなたの生き方を見つければいいんですよ!」
腕はそういうと、薄暗い階段の方へ俺を導いた。
俺は目を袖でゴシゴシと強く拭うと、蛾が集る、淀んだ暗闇の空間に導かれるまま降りていった。
腕がいった言葉で納得したわけではなかった。ただ、初めてまともな言葉をもらった気がした。
存外に誰にもちゃんとわかってもらえなかった心に、ちゃんと答えてくれた気がしたから・・・変な気持ちになって、何も言い返すことが出来なかった。
薄暗い階段を、ゆっくりゆっくり下りていく。
腕は一言もしゃべらなかった。腕は一見明るそうなのに、余計な事をしゃべらないタイプのようだ。狭い空間には足音しか響かない。
誰もいない、電気も蛍光灯が弱い光をぼうっと照らすだけの階段は寂しく、こんな曖昧で不安定な心持だったから誰かといることで、余計揺らいでしまいそうで、俺の気持ちはいつも宙にふわふわ浮いている。
死を願う事を拭えない心と、生きたい心のせめぎ合いでいつも苦しむ。今もそれは変わらないで、俺の思考回路の大半を占める。
腕は体を左右に揺らしながら、前に進む。
ビルを降りて、腕は急にピタリと止まると、目の前のビルを指差し俺にいった。
「このビルからすぐ隣の、…あの鏡張りの高層ビル。もうすぐ人が飛び降りますー」
そうはっきりと見てきたように腕は予言すると、このビルからすぐ隣のの鏡張りのビル指差しながら、俺を引っ張ってビルの真下まで来た。
不気味な手に引っ張られた俺は、半信半疑で腕が指したビルを見上げると黒い人影のような物がうっすら見えた。
真っ暗闇の中なのに、なぜかその影は、ぼんやりでも確かに存在を確信できるぐらいはっきりと見えた。そしてその影は、ふっとその場から消えるとベシャっと大きな何かが潰れる音がした。俺の顔に、服に、血がべったりとついていた。
背中に冷たい汗が流れた。見るな!っと脳が俺に強い命令を発して見ない代わりに俺はこわばった顔で、とっさに腕の方を振り返った。
「あの人のは、運命ですー。他人にやられるとぞっとするでしょ?自殺って。」
腕は平静を装っているわけでもなく、普通にいう。俺の中では人の落ちた生々しい音が耳からとれないでリピートされ、怖気が湧き出す。
「…お前」
言おうとして腕がいった。
「酷いものですよー、…後片付け。」
俺は顔が青くなったのが分かった。これが朝で、そばにいるのがこいつじゃなかったらこれほど恐ろしいとは思わなかったかもしれない。いや怖いけど。俺は自分がやろうとしていたことが、目が覚めたように信じられないくらい怖くなって怖気が止まらなくなった。
死が生々しいのは知っている、きっと死がそんなエグイものじゃなかったら世界中の自殺願望者が死を選ぶだろう?取っ掛かりがあるから、まだセーブされているんだ。
腕は俺の反応を見ているようにいう。
「死に酔ってるうちは気付けないなんですよー。…1651年、ウォーター・チャールトンの「自殺によって逃れることの出来ない災難から自己を救うことは罪ではない」ってのがありましたが、それは確かに救いかもしれませんが、神様は酷いものです。死んだ人さえ、いつかは絶対苦しみから逃げられないように、カルマとして残す。知ってますかー?神様はサディストなんですよー。」
腕はそういって自虐的に笑った。
とても笑えるような物ではなかった。人が今、死んだのだから。
それでもなんとなく神様はサディストだというのだけは分かった。
じゃなきゃ、運命なんて作らない。
「さぁ、家へ帰りましょう。」
腕は俺をせかす。
「なんで…なんだ?」
口をついた言葉はそれだった。
腕は前に進むのをやめて「何がですか?」と聞く。
「なんで、お前はあの人、…あの人を止めなかったんだ?なんで、助けなかったんだ?お前はそれができるのに、なんで神様の言う通りにしてるんだよ!!」
腕は腕を組み、困ったような声で俺にいった。
「運命実行委員会ですから」
「それって、要は天の使いってことか?」
「いいえ、罪人なだけです。私は人間だった頃に人の運命を変えてしまった。そういう人間の魂が運命実行委員会で強制的に働かされるんですよ。」
腕はそういうと、俺の腕を掴んで引っ張り、半ば強制的に階段を下らせる。
「あなたも、あと少しで仲間入りでした。危なかったです。」
腕はホッとしたようにため息を吐き、またゆっくりと階段を下っていく。
「何をしたんだ?」
俺は、つかさず聞いてしまったことを後悔した。
「聞きたいんですか?」
そう答えられた時に、人の傷口に入り込んでしまった気がしたから。
「ごめん。」
俺は腕から目線を外して、声を殺すようにして言った。
「いえいえ、誰もが皆気になるみたいで聞かれることが多々ありますので、お気になさらず。」
まるで気にしてないかもように腕はいった。俺はなんだか情けなくなった。それでも、俺にとっちゃ不気味極まりないこいつの事を少しでも知っておくべきだろうと思い、一つだけ聞く。
「ごめんついでに、一つだけ…いいか?」
俺はこれだけは聞きたかった事だった。
「なんで腕だけ?」
腕は俺が聴いた瞬間、噴出すようにして笑った。
「私が死んだとき、腕しか見付からなかったからですよ。体がバラバラになっちゃって…妻が見たのは少しこげた腕だけで…本当に良かった。他のものは、見せられた物じゃなかったんでね。」
俺はさっきよりもすごい恐怖心に襲われた。やっぱり、こいつは死んだ人間なんだと実感してしまって、顔の血の気が更に引いていくのが自分でも分かった。
家に帰り、インスタントコーヒーを作りながらぼーと台所で立っていると、腕はスーッとまるで水面をすべる鳥のような滑らかな動きで、俺のそばまでやってきた。
俺は、それを横目で見ながらボコボコ煮たった湯をマグカップに注いだ。
「何?」
俺は、砂糖を一杯だけ入れたコーヒーを飲みながら怪訝そうな顔つきで聞いた。なんたって気味が悪い腕が近づいてくるのだから。
「話してくれません?」
腕は落ち着き払った口調で聞いてくる。
「何を?」
分からないで聞き返すと、腕がいつの間にか手に持っていた汚い本を差し出して言った。
「自殺の理由ですよ。あなたは死ぬ予定じゃなかった。なのに自殺するなんてどうしてなんだろうか?って思いましてー。…一応、運命実行委員会なので、仕事しないと」
そういうと黄ばんだペンを取り出して本を開いた。
俺は、すごく深いため息を、大げさに吐いた。
「言わないといけない?………そんなナイーブなこと。」
「ええ、言ってもらわないと困ります。すみませんがあなたの気持ちは優先してあげられません。仕事なんで。」
俺は、それを聞いて少し舌打ちした。
「姉さんが自殺したんだよ。」
ぼそっといった言葉が、冷たく感じる台所に響いたように感じた。
「初めて、まともに生きろって言ってくれた人だった。
俺の家は、ちょっと複雑でさ。俺が小学生の時に親父が本当の母さんとは離婚して、新しい母さんと姉さんが来たんだ。姉さんっていうのは、義理の姉。酒癖が悪い親父に当たられて、家庭内暴力ってのに合ってた。
もう苦しくて、死のうかって思って、家にあったなんの薬か分からない、かき集めた適当な薬を80錠ぐらい一気に飲んで、自殺しようとした時、それまで普段仲良くもなかった義理の姉さんが今まで見たこともないぐらい怒って、泣きながら俺に言うんだ。
「生きてるうちにしか、ハッピーエンドは見れないんだから!死んだら哀しいままで終わるんだから!死ぬんじゃない!死んでんじゃダメだ!」って。
意識半分なくて、顔真っ白にして、揺らすもんだから、その衝撃でめちゃくちゃ吐いて動けなくなった俺を、さらに揺さぶって、吐かせて、…まぁそのおかげで死なずに済んだんだけど、そりゃ酷いもんだったよ。母親がその場を見て、気を失って倒れるぐらい。すさまじかったらしい。そこから病院に運ばれて、しばらくたって離婚。母親は血の繋がらない俺を引き取ってくれた。そこまでは良かったんだ。
俺の人生に、光ってのが見えた気がした。
何より、今まで親父に散々「死ねだ」の「消えろ」だの言われてた俺が、家族に優しくされて生活は苦しかったけど、別れた親父の酒代がない分、ずいぶんと楽になって、多分俺は幸せだった。けど、姉さんが20になった年に結婚することになった。その時気付いたんだ、俺は姉さんが好きだったんだってことに。」
そういった後、腕はボトッと持っていた本とペンを落とした。
「どうした?」と俺が聞くと、「いえ別に…」と冷たく返された。
何かおかしいなと感じながらも、俺は続けた。
「それでも良かったんだ、姉さんも幸せそうだったし、相手の男も…いい人そうだったし。でもそんな二人を見ているのは辛かったかった。踏ん切りをつけたくて例えば、思いを伝えたとしても、姉さんは困ってしまうだけだし、仮にも兄弟だし、いくら血が繋がってないとはいえ、世間体って物があるし、疎遠になるのは俺が辛い、本気で好きだったんだ。俺は血が繋がってない家族だから、母さんと姉さんみたいに家族の絆なんて薄いし、完全なる他人になるのが嫌だった。だから当分の間家を出て、気持ちが割り切れるようになるまで、一人で生きようと思った。それで、六年経った。六年経って、電話があった。姉さんの結婚相手が自殺したって。そして、姉さんはその死体を見て、その次の日首吊ったって。
それ聞いて、ずっと姉さんのあの言葉が頭の中で流れてた。怒って泣きながら言ってくれたあの言葉。「生きてるうちにしか、ハッピーエンドは見れないんだから!死んだら哀しいままで終わるんだから!死ぬんじゃない!死んでんじゃダメだ!」
俺、本当にあの言葉で生きてたんだ。
それがいった本人が死んじゃったんだ。たかが、夫が死んだぐらいで、・・・死んじゃったんだ。
哀しいし、辛いよ。あの言葉は嘘だったのかって、どうして助けて上げられなかったんだろうって、どうしてそばにいなかったんだろうって。なんか、自分の気持ちがこんがらがって、考えでがんじがらめになって、死のうって思ったんだ。それが、俺の理由。姉さんが俺の優しさの象徴だったんだ。死んだと思ったら、この世界から優しさが消えてなくなった気がした。
俺の生みの親は、一度も会いに着てくれなかった。二度目の離婚の時、親父はどうでもいいっていった。血の繋がらない母親は、優しくしてくれるけど、それは血が繋がってないからで…。もう、何も考えたくなかったんだ。だから死にたいと思った。これが理由」
「屁理屈ですね。」
腕は冷たく突き放したようにいった。
「いいえ違いますね、甘えたなんですよ。姉さんが死んだから、それで姉さんがいった言葉も嘘になるんですか?違うでしょう。お姉さんは幸せなハッピーエンドを、あなたに迎えて欲しかったんです。だからいったんです。だから泣いてたんです。その思いは本物だったから泣いてたんです。それが嘘ですか?その時の姉さんの気持ち考えたことありますか?」
腕はあまりの剣幕で、驚いて何も言うことができず、黙っていると腕は俺に攻め寄り、問い詰めるようにいった。
「お姉さんは、ただあなたに幸せになってもらいたかっただけなんですよ。」
その言葉を聞いて、本当は実際どうか分からないこの言葉を聞いて、俺は思った。本当は、ただ、哀しかっただけなのかもしれない。姉さんも死んだのだから、俺が後追って死んだっていいじゃないか…なんて、姉さん自信にケチをつけて許してもらおうとしてたんだ。
だって、哀しかったんだ。死なれるぐらいなら、こっちが死にたかった。大切な人を失った人の気持ちが分かるもんか。どうすればいい。どうしたらこの胸の穴を埋められる。
心臓に穴が開いたのに、痛みだけ感じて死ねないでいるみたい。
水の中に押し込められて、息も吸えないのに生きている苦しみ。
ただ、哀しかったんだ。
「ただ………哀しい気持ちは、分からなくもないです。」
ポツリと呟いた腕の言葉は、しんとして冷たい台所に響いた。
「大体の事情は分かりました。おそらくその死んだお姉さんのご主人は死ぬ予定ではなかったんです。でもその男がきっかけでお姉さんの死もあなたも併発させてしまったんです。・・・罪はしっかり償わせます。」
事務的な口調で腕はいうと大きな本をポンと音立てて閉じた。
「俺はどうしたらいいと思う?何をすればいいと思う?」
俺が俯いた顔をあげるとそこには腕はいなくなっていた。なんだか見捨てられた気がした。
何処へもいけなくなった俺。
折れてしまった心、前を向けない、目の前は暗闇。突き進めば、確実に壁にぶち当たる。
涙は涸れない、多分死ぬまで涸れないと思う。足場のない不安、ぐらついて歩けない。
こんな俺を一人置いていった姉。姉を奪った男。突然現れて俺の大切な物を奪っていった男。なんて事をしてくれたんだ。一生、一人になったじゃないか、一生、孤独になったじゃないか、一生、いや、永遠にもう二度と姉さんに逢えないじゃないか・・・。
それからの俺は死人のようになった。
会社は辞めた、家に閉じこもった。
テレビを見た。おもしろくもなかった。飯もろくに食べなかった。食べる気にもならないで、眠ろうとしても眠れない。
終わりだ。
俺は顔に手を押し付けてむちゃくちゃに泣いた。
目の下にクマができて、何故かその日は外に出ようと思った。風は湿ったにおいがして細かな霧雨が降っていて懐かしい梅雨の匂いが鼻を掠めた。
振り向くとそこには、公園があった。俺はなんとなく公園に入り、ベンチに座った。
梅雨の独特のあのにおいがとても好きで、俺は小さな頃の思い出を夢を掘り起こすみたいにして目をつぶった。
雨の日、ろくに仲良くもなかった姉の優しい思い出。梅雨の独特のにおい。霧雨の柔らかな感覚と夏の空を覗く熱い光が降り注ぎ、夢のような世界の中で姉さんは俺の手を引き、ずっと呟いていた。
「大丈夫」
殴られて、怖がって、二人で外へ逃げた雨の日の思い出。
「大丈夫だよ」
声がしてゆっくりと目を開けると、小さな女の子が俺の目の前に立っていて、俺の手を握って言ってくれていた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
その小さな女の子は本当に心配そうな顔をして俺にいった。俺はなんだか懐かしいような切ないような気持ちでいっぱいになってその子を見つめた。
「寂しいんでしょ?」
泣き出しそうな顔をして女の子は俺にいうから、俺はなんとなく大丈夫な気がした。姉さんが言っていた「大丈夫」って言葉の意味が分かった気がした。どんなところにいても、一人でも、きっと心配してくれる人がいることが幸せなんだと、雨に湿った空気を吸い込んで暖かいのか冷たいのか分からないその空間の中で「大丈夫だ」と意味もなく思って、ホッとした。
「大丈夫だよ、もう、そんなに辛くないから。」
言い返すことができて、笑うことができた。
そういうと女の子はお日様みたいな笑顔で俺に笑いかけて、交差点まで走っていった。
交差点?
その時脳裏に腕の言ったあの言葉が浮かんだ。
「あなたの死ぬのは一週間後の交差点で、交通事故っ!!」
「子供を助けて自分が死んじゃうんですよー。」
それに気付いた瞬間、急に時間がゆっくりになった。交差点では歩行者の信号が青信号なのにトラックがスピードを緩めずに走ってくる、このままじゃ・・・ぶつかる。
意識する前から走っていた。そこに恐怖なんかはなくて、あのとき思っていた「俺が死ぬよりも意味のあることなのか」なんていう考えもない。
ただ助けたかった。どうか間に合ってくれそれだけ思った。
ゆっくりとした時間の中で必死に走って、どうにかぶつかる前に女の子のところまで来ると女の子を抱き、向こう側に投げ飛ばした。
投げ飛ばした後、振り向くとトラックはもう目の前まで迫っていた。死を意識した。
俺は最後、どんな顔をしてるんだろう?
きっと笑顔だと思えたのは………。
覚悟を決めて目をつぶった瞬間、体にすごい衝撃が襲った。
「助けられて良かった。」
腕は交差点の止まった時間の中にいた。腕は男の服を掴むと投げ飛ばし、男はガードレールにぶつかった。多分生きているだろう。
「これは罪滅ぼしなんだ。あなたのお姉さんを殺してしまった償い。自分の命を捨ててしまった自分への戒め。
これからのあなたが歩む道は必ずしも幸せという事はないでしょう?
そんなのは自分のがんばり次第だし、時にはいくら頑張ってもどうにもならないときがある。どうにもならなくて死を選ばざるおえなくなるかもしれない。それが運命なのかもしれない。でもまだ運命はそこまで作られてないから、いくらでも頑張ってください。…大丈夫だから。」
腕はそういうと消えた。
時間は、腕が消えた瞬間、止めていた息をするかのように大きく動き出した。
気を失った男は、深い深い夢の中に…今はまだ、いる。
ただ、今まで生きてきた自分の人生を一瞬にして全部、辛かった事も踏ん張って耐えてきたことも・・・自分のこの手で壊してしまうのだから、…だから、誰かに最後を見取って欲しい、俺の最後のページに俺を覚えてくれる人が、一人ぐらい欲しいかったんだ。
不真面目に生きてきたわけでもなければ、誰かに迷惑かけて生きたわけでもない・・・そんな自分が命を絶つのだから。
神様か誰かが決めたルールに、はみ出したことなんてないのに、どうしてこの世界にやさしさを見出せないんだろう?ここは、極寒の地でもなんでもない、食べ物だって、環境だって、生きるのに必要な物だってそろっている。
わがままだと言われてしまったらそれまでなのかもしれない。でも俺には餓えるには十分なほど、何かが足りなかった。死を選ぶこと、それは簡単な気持ちなんかじゃ出来ない。生き物には生存本能がある、誰だって死にたくない、死にたくはないんだ。頑張って生きてきた、苦しんでももがいてきた。それでも一人で頑張るのに疲れたんだ。
だから、そんな俺だから、………最後ぐらいは、…そんな自分を誰かに見て欲しかっただけなんだ。生きている意味がないとか、…そんなバカな理由で死ぬわけではなかった。ただ命を大切といいながら、誰も本当は自分の命しか大切じゃないから、それが寂しかっただけなんだ。俺は手すりに両手を掛け、手すりをまたいだ。
そしてそっと下を見下ろした。
強い風に背中押され、吸い込まれるような下からの重力を感じながら見下ろした地面は遠くて、道路は狭くて………高い、目が眩む。手すりに両手を掛けたこの状態から、手を離してこの足を滑らせてしまえば、…落ちて、つぶれたトマトみたいになる。この高くも低くもないビルの屋上からでも、落ちれば必ず死ぬ。人間は脆い生き物で、蟻はどんな高さから落ちても死なないのに、人は簡単に死んでしまうんだ。逆を言えば、蟻なんか踏み潰しただけで死んでしまう。命は何処まで行っても、命でしかなくて、…どんなものでも死ぬって事だけ。
結局は人も蟻も大して変わらない。
俺はいろんな物を食べてきた、それは言い換えればたくさんの命を殺してきた。でもそれは、罪でもなんでもなくて、食べる専用に殺された物を食べてきただけで、生きるって理由だけで皆許されてることなんだ。言い訳がましい言い訳。
命は大切だなんていわれたって、それは後片付けが嫌なだけ、面倒なだけ。人身事故が起こった時とかに聞いたことあるだろ?「迷惑だ」「死ぬなら他のところで死ね」人にとって命は大切なんかじゃないんだ。俺にはそれが、哀しくて、寂しくて、たまらないんだ。
そんなダークネスな世界で生きていけるほど、俺は強い雑草じゃない。嫌なことからおもしろいほど目線逸らして生きていけるほど、強くもないし、理想を抱けるほどロマンチストじゃない。
俺は、そっと手を離した。
なんだか、不安定。
風は強いわ、あたりの夜景は綺麗だわ、今から死ぬっていうのに清々しくてなんだか不思議な気分だ。
俺、本当に死ぬのかな?キラキラ光る、屋上のビルの点滅する赤い光、夜空の一等星、車やマンション、家族団らんの家庭の光、それらは俺を送り出すためにまるで祝福してくれているかのようにさえ感じた。
こんな綺麗な景色の中落ちれば、きっと天国へ生きる気がした。いや、でも、よく考えたら自分の命でも、奪ったのは自分なのだから、もしかしたら地獄へ行くのかもしれない。
地獄?天国?どっちに行くんだろう?まぁ、どうでもいいか…。
俺は、ゆっくりと右足を宙に滑らせた。体は右から何もない空中にのめり込むようにして滑り、目を開けたまま落ちた。よくこういうのってゆっくり落ちているように感じるってテレビとかでいるけど、本当なんだな…。まるで落ちてないかのように最上階の窓はいつまで経ってもそのまま、空中にある俺の目線を過ぎていかない。
…過ぎて行かない。
…過ぎて………行かない?
それどころか、数ミリも動いてないように感じるのはどうしてなんだろう?
俺はゆっくりと首を持ち上げた。
誰かが俺の服を引っ張っている、青白く細く、葬式で見たような生気の感じられない蝋人形のように固まった手。筋肉のしなやかさを感じない薄気味悪い手が、片手で俺を掴んでいた。一瞬、何が起こったか理解できなかった。
腕が伸びている方を見ると、途中で腕は途切れていた。腕の先には夜空が広がって、ビルの赤い転々とした光が点滅を繰り返して光っているだけ。
俺は状況が飲み込めず呆然と曲げた首を動かさないでいると、細く折れそうな青白い腕が俺を元いたビルの屋上へと投げ飛ばした。
一瞬にしてビルや手すり、夜空がすごいスピードで通り過ぎていき、ぐるぐる回転を繰り返して、そして背中にすごい衝撃、今まで感じなかった重力で胃が圧迫されて、口の中にすっぱい胃液の味がした。
俺が思わず口を手で覆っていると、俺の顔の前に腕が二本、宙に浮いていた。
そして腕は、何かをまさぐるように腕を動かして茶色く黄ばんだカビ臭そうな紙を取り出すと俺の顔の前に広げて見せ、意外と甲高い声で俺にいった。
「困るんですよねー。あなた、まだ死ぬ予定じゃないじゃないですか! 」
そして「ほら、ここっ!ここ見てください!!」と紙を片手で持ち、もう一方の片手である文字のところを指差した。
「あなたの死ぬのは一週間後の交差点で、交通事故っ!!自殺じゃないですよ!!」
俺は思わず、「はっ?」といった。
何を言ってるんだ、こいつは。俺が交通事故?…自殺じゃない?
そんなの俺の自由じゃないか、というか予定って?ていうか、大体これはなんだ?幽霊!?死神!?俺が混乱してるのもかまわず、この腕だけの物体は俺にこう言った。
「時々いるんですよねー、運命と別な事しちゃう人。うちも忙しいですからねー、他の人の運命と絡んでない場合はほっとくんですけど、あなたの場合、あなたが今死ぬことでもう一人余計な死者が出ちゃうんですよー。」
軽い調子で、その腕はいう。
「………えっ?ああ、」
何がなんだか分からない俺は、マヌケな声をあげた。
そして腕は俺を気遣うように優しく声をかけた。
「大丈夫ですかー?人引きあげるなんて久々でー、背中痛くないですかー? 」
腕は、気遣ったように俺に手を伸ばし立つのを手伝ってくれた。
「あ、ありがとう。」
俺は起き上がると、急に頭が冷静になった。なんだ?この状況?腕しかない、体がないんだけど?どうなってるんだろう?
「あ、あんた、何なんだ?幽霊か、何か?死神?…というか、えっと…これ、夢?」
これは一瞬、怖気づいて身を引いた。なにぶん、この腕異様だ。何か、とてつもなく嫌な感じがするのだ。
幽霊…なんてものは見たことも信じたことも一度もないが、多分本当にいたらこんな感じで鳥肌が立つ物なんだと思った。
「ああ、夢じゃないです。現実ですよー。」
腕は手を振って、身振り手振りで必死に言った。腕しかないから本当は必死かなんて分からないけど、声の感じで大体そうかな?と思う。
腕は俺のようすを伺いながら、「いいですか!」というと語尾を伸ばす特徴のあるしゃべり方で話し出した。
「まぁ、落ち着いて聞いてください。実はですね。人には最初から神様に決められた運命というものがあったり、なかったり…。」
「…どっち?」
あまりにもいい加減な説明に少し苛立ちながらつかさず聞くと、語尾を伸ばす妙なしゃべり方の口調で
「言葉の通りですー。ある人もいれば、ない人もいます。未来になってできる人もいれば、消える人もいるわけですよー。…まぁいい加減なんです、神様一人しかいないし、そんな緻密にできませんよー!ははっ」
と話した。
「で。ですねー、時々運命を自ら壊しちゃう人がいるんですよー、死ぬ予定だったのに命の最後にといって、記念にエベレスト登って脳腫瘍が治ったり、あと少しで有名女優になれたはずなのに、認められない悔しさから自殺しちゃったりで、人それぞれいろいろ思惑があって、運命が変わるんですー。でね、本当は別に周りの運命を変えたりさえしなければ、放っておくんですよー、さっきも言ったとおり、うちも暇じゃないんでねー。でも、運命に誰かの運命が絡む時、人の死を止めなくちゃいけなくなるんです。…まぁ、それがあなたなわけですが・・・。」
腕は身振り手振りをくわえながら、わりとざっくりと説明してくれた。
「俺、…なんかするの?」
俺は恐る恐る聞くと、腕はまるで感心するように俺にいった。
「ええ、子供を助けて自分が死んじゃうんですよー。今時えらいですよー!!」
腕は興奮が収まらないみたいで、手まで叩き始めた。
「自分の命放り出して、他人助けるなんてー、すばらしいー。」
手は言いながら、拍手をし続けた。
「………うるさい。」
俺は震えながらいった。
腕は、何も思ってはいないんだろうけど。
腕が手を叩く度、深く深く心の弱い部分がえぐられる気がした。まるで俺の死が笑われているみたいだった。バカにされているようだった。俺の声が聞こえていないのか、腕は拍手をやめなかった。俺は惨めな気分になり、涙を浮かべた。
人生が決められている?そんなの信じたくない!だってそうだろ!?俺は今まで、自分の足で歩いてきたんだ。苦しいことがあっても、哀しいことがあっても、理不尽な事があっても、…どんなことがあっても!!
乗り越えて、苦しんで、絶望して、哀しんで、それでも踏ん張って!俺の人生が決められていた?歩んできたのは紛れもなくこの俺と言う人間なのに?
………決められていた?
自殺だってそうだ!
…人が死ぬ覚悟をするってことがどういう事か、なんて分かってないだろ。どんな思いしして、どんなに葛藤して、どんなに苦しんで…。何があったか、だって何も見てきてないじゃないか!?知るはずもないのに!!
それすら他人にとっちゃ、どうだっていいことだっていうのか!?
俺の今までの人生、何のために?誰のために?たった一人の顔も知らない子供のために?耐えてきた分自分さえ報われないっていうのか?人を救うことで報われた気になってろって?俺の命を投げ出すことで?
それがすばらしいこと?
何故?どうして?なにが?
「やめろっ!!!」
自分でも驚くぐらい大きな声が出た。途端に沈黙があたりを蝕んだ。
俺は自分の顔に手を当て、抱え込みながら呟くように「やめろ」と言った。それはあまりにも力なく、弱々しく、情けなく。
俺は、めちゃくちゃ矛盾してる。
死にたいと言って死のうとしておきながら、誰よりも自分の命に固執してる。
ただ死ぬより、誰かのために死ぬほうがいいに決まってるのに、…俺はそれが気に入らない。
何がしたいんだろう?…俺。
自分ばっかりが大切で、他人のために自己犠牲になるなんて考えられない。名前も顔も知らない、どんな子かも知らない、生きている価値もあるかも、俺が死ぬよりも意味のある事かも、何も知らない、何も分かりやしないのに…それなのに俺は死ぬのか?
………情けないな、本当は自分が誰より自分の事が大切なんだ。
本当は、共有できないのなんて分かってる。
大切な物なんて他人と重ならない限り、お互いがお互いを護り合えないのだって、分かっては、いるんだ。だから誰も俺の命を大切にしないのだって、分かってる。
うわべだけなら、いくらかいるだろうけど、でも、そんなんじゃ嫌なんだ。俺は本当の気持ちが欲しいんだ。
でも、本当はそんなの存在しないことだって分かってる。
理解してる、わかってる、ちゃんと分かっては、いる。
…だけどっ!!
どうして…他人にとって、大切な物が俺じゃないんだろう?
どうして、こんなに塵程いる人間の中で、大切な物が俺な人が、誰一人もいないんだろう?小さすぎる、俺の存在。
ちっぽけ過ぎる俺の存在。
絶望と自分の浅はかさに打ちのめされていると、
「命は大切かと聞かれたら…」
自分の考えに夢中になって、すっかり忘れていた腕が突然しゃべり出した。
「普通、みんな大切だって言いますよ?」
俺が涙ぐんだ目で腕を見ると、腕はまた言葉を紡いだ。
「あなたは大切じゃないんですか?
他の誰かがあなたを必要としないと生きちゃダメなんて事はないんですよ。命なんて自分が一番大切なんだから。だから、………あなたが一番自分を愛してあげないと、自分がかわいそうなんじゃないですか?」
腕はうな垂れたまま、屋上から下りる階段の扉を開けた。
「人は愛情ばかり求めるくせに、誰かを愛したり、大切にするのが下手でいけません。後、一週間も時間がある。あなたはあなたの生き方を見つければいいんですよ!」
腕はそういうと、薄暗い階段の方へ俺を導いた。
俺は目を袖でゴシゴシと強く拭うと、蛾が集る、淀んだ暗闇の空間に導かれるまま降りていった。
腕がいった言葉で納得したわけではなかった。ただ、初めてまともな言葉をもらった気がした。
存外に誰にもちゃんとわかってもらえなかった心に、ちゃんと答えてくれた気がしたから・・・変な気持ちになって、何も言い返すことが出来なかった。
薄暗い階段を、ゆっくりゆっくり下りていく。
腕は一言もしゃべらなかった。腕は一見明るそうなのに、余計な事をしゃべらないタイプのようだ。狭い空間には足音しか響かない。
誰もいない、電気も蛍光灯が弱い光をぼうっと照らすだけの階段は寂しく、こんな曖昧で不安定な心持だったから誰かといることで、余計揺らいでしまいそうで、俺の気持ちはいつも宙にふわふわ浮いている。
死を願う事を拭えない心と、生きたい心のせめぎ合いでいつも苦しむ。今もそれは変わらないで、俺の思考回路の大半を占める。
腕は体を左右に揺らしながら、前に進む。
ビルを降りて、腕は急にピタリと止まると、目の前のビルを指差し俺にいった。
「このビルからすぐ隣の、…あの鏡張りの高層ビル。もうすぐ人が飛び降りますー」
そうはっきりと見てきたように腕は予言すると、このビルからすぐ隣のの鏡張りのビル指差しながら、俺を引っ張ってビルの真下まで来た。
不気味な手に引っ張られた俺は、半信半疑で腕が指したビルを見上げると黒い人影のような物がうっすら見えた。
真っ暗闇の中なのに、なぜかその影は、ぼんやりでも確かに存在を確信できるぐらいはっきりと見えた。そしてその影は、ふっとその場から消えるとベシャっと大きな何かが潰れる音がした。俺の顔に、服に、血がべったりとついていた。
背中に冷たい汗が流れた。見るな!っと脳が俺に強い命令を発して見ない代わりに俺はこわばった顔で、とっさに腕の方を振り返った。
「あの人のは、運命ですー。他人にやられるとぞっとするでしょ?自殺って。」
腕は平静を装っているわけでもなく、普通にいう。俺の中では人の落ちた生々しい音が耳からとれないでリピートされ、怖気が湧き出す。
「…お前」
言おうとして腕がいった。
「酷いものですよー、…後片付け。」
俺は顔が青くなったのが分かった。これが朝で、そばにいるのがこいつじゃなかったらこれほど恐ろしいとは思わなかったかもしれない。いや怖いけど。俺は自分がやろうとしていたことが、目が覚めたように信じられないくらい怖くなって怖気が止まらなくなった。
死が生々しいのは知っている、きっと死がそんなエグイものじゃなかったら世界中の自殺願望者が死を選ぶだろう?取っ掛かりがあるから、まだセーブされているんだ。
腕は俺の反応を見ているようにいう。
「死に酔ってるうちは気付けないなんですよー。…1651年、ウォーター・チャールトンの「自殺によって逃れることの出来ない災難から自己を救うことは罪ではない」ってのがありましたが、それは確かに救いかもしれませんが、神様は酷いものです。死んだ人さえ、いつかは絶対苦しみから逃げられないように、カルマとして残す。知ってますかー?神様はサディストなんですよー。」
腕はそういって自虐的に笑った。
とても笑えるような物ではなかった。人が今、死んだのだから。
それでもなんとなく神様はサディストだというのだけは分かった。
じゃなきゃ、運命なんて作らない。
「さぁ、家へ帰りましょう。」
腕は俺をせかす。
「なんで…なんだ?」
口をついた言葉はそれだった。
腕は前に進むのをやめて「何がですか?」と聞く。
「なんで、お前はあの人、…あの人を止めなかったんだ?なんで、助けなかったんだ?お前はそれができるのに、なんで神様の言う通りにしてるんだよ!!」
腕は腕を組み、困ったような声で俺にいった。
「運命実行委員会ですから」
「それって、要は天の使いってことか?」
「いいえ、罪人なだけです。私は人間だった頃に人の運命を変えてしまった。そういう人間の魂が運命実行委員会で強制的に働かされるんですよ。」
腕はそういうと、俺の腕を掴んで引っ張り、半ば強制的に階段を下らせる。
「あなたも、あと少しで仲間入りでした。危なかったです。」
腕はホッとしたようにため息を吐き、またゆっくりと階段を下っていく。
「何をしたんだ?」
俺は、つかさず聞いてしまったことを後悔した。
「聞きたいんですか?」
そう答えられた時に、人の傷口に入り込んでしまった気がしたから。
「ごめん。」
俺は腕から目線を外して、声を殺すようにして言った。
「いえいえ、誰もが皆気になるみたいで聞かれることが多々ありますので、お気になさらず。」
まるで気にしてないかもように腕はいった。俺はなんだか情けなくなった。それでも、俺にとっちゃ不気味極まりないこいつの事を少しでも知っておくべきだろうと思い、一つだけ聞く。
「ごめんついでに、一つだけ…いいか?」
俺はこれだけは聞きたかった事だった。
「なんで腕だけ?」
腕は俺が聴いた瞬間、噴出すようにして笑った。
「私が死んだとき、腕しか見付からなかったからですよ。体がバラバラになっちゃって…妻が見たのは少しこげた腕だけで…本当に良かった。他のものは、見せられた物じゃなかったんでね。」
俺はさっきよりもすごい恐怖心に襲われた。やっぱり、こいつは死んだ人間なんだと実感してしまって、顔の血の気が更に引いていくのが自分でも分かった。
家に帰り、インスタントコーヒーを作りながらぼーと台所で立っていると、腕はスーッとまるで水面をすべる鳥のような滑らかな動きで、俺のそばまでやってきた。
俺は、それを横目で見ながらボコボコ煮たった湯をマグカップに注いだ。
「何?」
俺は、砂糖を一杯だけ入れたコーヒーを飲みながら怪訝そうな顔つきで聞いた。なんたって気味が悪い腕が近づいてくるのだから。
「話してくれません?」
腕は落ち着き払った口調で聞いてくる。
「何を?」
分からないで聞き返すと、腕がいつの間にか手に持っていた汚い本を差し出して言った。
「自殺の理由ですよ。あなたは死ぬ予定じゃなかった。なのに自殺するなんてどうしてなんだろうか?って思いましてー。…一応、運命実行委員会なので、仕事しないと」
そういうと黄ばんだペンを取り出して本を開いた。
俺は、すごく深いため息を、大げさに吐いた。
「言わないといけない?………そんなナイーブなこと。」
「ええ、言ってもらわないと困ります。すみませんがあなたの気持ちは優先してあげられません。仕事なんで。」
俺は、それを聞いて少し舌打ちした。
「姉さんが自殺したんだよ。」
ぼそっといった言葉が、冷たく感じる台所に響いたように感じた。
「初めて、まともに生きろって言ってくれた人だった。
俺の家は、ちょっと複雑でさ。俺が小学生の時に親父が本当の母さんとは離婚して、新しい母さんと姉さんが来たんだ。姉さんっていうのは、義理の姉。酒癖が悪い親父に当たられて、家庭内暴力ってのに合ってた。
もう苦しくて、死のうかって思って、家にあったなんの薬か分からない、かき集めた適当な薬を80錠ぐらい一気に飲んで、自殺しようとした時、それまで普段仲良くもなかった義理の姉さんが今まで見たこともないぐらい怒って、泣きながら俺に言うんだ。
「生きてるうちにしか、ハッピーエンドは見れないんだから!死んだら哀しいままで終わるんだから!死ぬんじゃない!死んでんじゃダメだ!」って。
意識半分なくて、顔真っ白にして、揺らすもんだから、その衝撃でめちゃくちゃ吐いて動けなくなった俺を、さらに揺さぶって、吐かせて、…まぁそのおかげで死なずに済んだんだけど、そりゃ酷いもんだったよ。母親がその場を見て、気を失って倒れるぐらい。すさまじかったらしい。そこから病院に運ばれて、しばらくたって離婚。母親は血の繋がらない俺を引き取ってくれた。そこまでは良かったんだ。
俺の人生に、光ってのが見えた気がした。
何より、今まで親父に散々「死ねだ」の「消えろ」だの言われてた俺が、家族に優しくされて生活は苦しかったけど、別れた親父の酒代がない分、ずいぶんと楽になって、多分俺は幸せだった。けど、姉さんが20になった年に結婚することになった。その時気付いたんだ、俺は姉さんが好きだったんだってことに。」
そういった後、腕はボトッと持っていた本とペンを落とした。
「どうした?」と俺が聞くと、「いえ別に…」と冷たく返された。
何かおかしいなと感じながらも、俺は続けた。
「それでも良かったんだ、姉さんも幸せそうだったし、相手の男も…いい人そうだったし。でもそんな二人を見ているのは辛かったかった。踏ん切りをつけたくて例えば、思いを伝えたとしても、姉さんは困ってしまうだけだし、仮にも兄弟だし、いくら血が繋がってないとはいえ、世間体って物があるし、疎遠になるのは俺が辛い、本気で好きだったんだ。俺は血が繋がってない家族だから、母さんと姉さんみたいに家族の絆なんて薄いし、完全なる他人になるのが嫌だった。だから当分の間家を出て、気持ちが割り切れるようになるまで、一人で生きようと思った。それで、六年経った。六年経って、電話があった。姉さんの結婚相手が自殺したって。そして、姉さんはその死体を見て、その次の日首吊ったって。
それ聞いて、ずっと姉さんのあの言葉が頭の中で流れてた。怒って泣きながら言ってくれたあの言葉。「生きてるうちにしか、ハッピーエンドは見れないんだから!死んだら哀しいままで終わるんだから!死ぬんじゃない!死んでんじゃダメだ!」
俺、本当にあの言葉で生きてたんだ。
それがいった本人が死んじゃったんだ。たかが、夫が死んだぐらいで、・・・死んじゃったんだ。
哀しいし、辛いよ。あの言葉は嘘だったのかって、どうして助けて上げられなかったんだろうって、どうしてそばにいなかったんだろうって。なんか、自分の気持ちがこんがらがって、考えでがんじがらめになって、死のうって思ったんだ。それが、俺の理由。姉さんが俺の優しさの象徴だったんだ。死んだと思ったら、この世界から優しさが消えてなくなった気がした。
俺の生みの親は、一度も会いに着てくれなかった。二度目の離婚の時、親父はどうでもいいっていった。血の繋がらない母親は、優しくしてくれるけど、それは血が繋がってないからで…。もう、何も考えたくなかったんだ。だから死にたいと思った。これが理由」
「屁理屈ですね。」
腕は冷たく突き放したようにいった。
「いいえ違いますね、甘えたなんですよ。姉さんが死んだから、それで姉さんがいった言葉も嘘になるんですか?違うでしょう。お姉さんは幸せなハッピーエンドを、あなたに迎えて欲しかったんです。だからいったんです。だから泣いてたんです。その思いは本物だったから泣いてたんです。それが嘘ですか?その時の姉さんの気持ち考えたことありますか?」
腕はあまりの剣幕で、驚いて何も言うことができず、黙っていると腕は俺に攻め寄り、問い詰めるようにいった。
「お姉さんは、ただあなたに幸せになってもらいたかっただけなんですよ。」
その言葉を聞いて、本当は実際どうか分からないこの言葉を聞いて、俺は思った。本当は、ただ、哀しかっただけなのかもしれない。姉さんも死んだのだから、俺が後追って死んだっていいじゃないか…なんて、姉さん自信にケチをつけて許してもらおうとしてたんだ。
だって、哀しかったんだ。死なれるぐらいなら、こっちが死にたかった。大切な人を失った人の気持ちが分かるもんか。どうすればいい。どうしたらこの胸の穴を埋められる。
心臓に穴が開いたのに、痛みだけ感じて死ねないでいるみたい。
水の中に押し込められて、息も吸えないのに生きている苦しみ。
ただ、哀しかったんだ。
「ただ………哀しい気持ちは、分からなくもないです。」
ポツリと呟いた腕の言葉は、しんとして冷たい台所に響いた。
「大体の事情は分かりました。おそらくその死んだお姉さんのご主人は死ぬ予定ではなかったんです。でもその男がきっかけでお姉さんの死もあなたも併発させてしまったんです。・・・罪はしっかり償わせます。」
事務的な口調で腕はいうと大きな本をポンと音立てて閉じた。
「俺はどうしたらいいと思う?何をすればいいと思う?」
俺が俯いた顔をあげるとそこには腕はいなくなっていた。なんだか見捨てられた気がした。
何処へもいけなくなった俺。
折れてしまった心、前を向けない、目の前は暗闇。突き進めば、確実に壁にぶち当たる。
涙は涸れない、多分死ぬまで涸れないと思う。足場のない不安、ぐらついて歩けない。
こんな俺を一人置いていった姉。姉を奪った男。突然現れて俺の大切な物を奪っていった男。なんて事をしてくれたんだ。一生、一人になったじゃないか、一生、孤独になったじゃないか、一生、いや、永遠にもう二度と姉さんに逢えないじゃないか・・・。
それからの俺は死人のようになった。
会社は辞めた、家に閉じこもった。
テレビを見た。おもしろくもなかった。飯もろくに食べなかった。食べる気にもならないで、眠ろうとしても眠れない。
終わりだ。
俺は顔に手を押し付けてむちゃくちゃに泣いた。
目の下にクマができて、何故かその日は外に出ようと思った。風は湿ったにおいがして細かな霧雨が降っていて懐かしい梅雨の匂いが鼻を掠めた。
振り向くとそこには、公園があった。俺はなんとなく公園に入り、ベンチに座った。
梅雨の独特のあのにおいがとても好きで、俺は小さな頃の思い出を夢を掘り起こすみたいにして目をつぶった。
雨の日、ろくに仲良くもなかった姉の優しい思い出。梅雨の独特のにおい。霧雨の柔らかな感覚と夏の空を覗く熱い光が降り注ぎ、夢のような世界の中で姉さんは俺の手を引き、ずっと呟いていた。
「大丈夫」
殴られて、怖がって、二人で外へ逃げた雨の日の思い出。
「大丈夫だよ」
声がしてゆっくりと目を開けると、小さな女の子が俺の目の前に立っていて、俺の手を握って言ってくれていた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
その小さな女の子は本当に心配そうな顔をして俺にいった。俺はなんだか懐かしいような切ないような気持ちでいっぱいになってその子を見つめた。
「寂しいんでしょ?」
泣き出しそうな顔をして女の子は俺にいうから、俺はなんとなく大丈夫な気がした。姉さんが言っていた「大丈夫」って言葉の意味が分かった気がした。どんなところにいても、一人でも、きっと心配してくれる人がいることが幸せなんだと、雨に湿った空気を吸い込んで暖かいのか冷たいのか分からないその空間の中で「大丈夫だ」と意味もなく思って、ホッとした。
「大丈夫だよ、もう、そんなに辛くないから。」
言い返すことができて、笑うことができた。
そういうと女の子はお日様みたいな笑顔で俺に笑いかけて、交差点まで走っていった。
交差点?
その時脳裏に腕の言ったあの言葉が浮かんだ。
「あなたの死ぬのは一週間後の交差点で、交通事故っ!!」
「子供を助けて自分が死んじゃうんですよー。」
それに気付いた瞬間、急に時間がゆっくりになった。交差点では歩行者の信号が青信号なのにトラックがスピードを緩めずに走ってくる、このままじゃ・・・ぶつかる。
意識する前から走っていた。そこに恐怖なんかはなくて、あのとき思っていた「俺が死ぬよりも意味のあることなのか」なんていう考えもない。
ただ助けたかった。どうか間に合ってくれそれだけ思った。
ゆっくりとした時間の中で必死に走って、どうにかぶつかる前に女の子のところまで来ると女の子を抱き、向こう側に投げ飛ばした。
投げ飛ばした後、振り向くとトラックはもう目の前まで迫っていた。死を意識した。
俺は最後、どんな顔をしてるんだろう?
きっと笑顔だと思えたのは………。
覚悟を決めて目をつぶった瞬間、体にすごい衝撃が襲った。
「助けられて良かった。」
腕は交差点の止まった時間の中にいた。腕は男の服を掴むと投げ飛ばし、男はガードレールにぶつかった。多分生きているだろう。
「これは罪滅ぼしなんだ。あなたのお姉さんを殺してしまった償い。自分の命を捨ててしまった自分への戒め。
これからのあなたが歩む道は必ずしも幸せという事はないでしょう?
そんなのは自分のがんばり次第だし、時にはいくら頑張ってもどうにもならないときがある。どうにもならなくて死を選ばざるおえなくなるかもしれない。それが運命なのかもしれない。でもまだ運命はそこまで作られてないから、いくらでも頑張ってください。…大丈夫だから。」
腕はそういうと消えた。
時間は、腕が消えた瞬間、止めていた息をするかのように大きく動き出した。
気を失った男は、深い深い夢の中に…今はまだ、いる。
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