作品ID:2394
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レトロフューチャー
小説の属性:一般小説 / S・F / お気軽感想希望 / 上級者 / 年齢制限なし / 完結
前書き・紹介
気がついたら夜の街に佇んでいた。
意識を取り戻した男は街を彷徨う。そこで出会ったのはストーカー被害に遭う女子大生。彼女と交流しながら、男は自分の記憶を少しずつ思い出していく。
そして来たるべき2月14日、彼女は――。
第一章 1週目
目次 | 次の話 |
その日、わたしは幽霊に会った。
ちゃらんぽらんに見えたけど、どこかさみしそうな幽霊だった。
・
気がつくと、ぼくは、道路に立っていた。
あたりは暗い。時間はわからないが夜。日没直後の人通りではないから、もしかしたら真夜中かもしれない。少し離れたところにはちかちかと瞬く光源。きっと充電が足りなかったのだろう。
「……街灯。充電……真夜中。……人通り。」
自分の手を見下ろす。半分が薄汚れた袖口で隠れている。よく見ればそれは砂色のうすっぺらいコートで、ずっと着ているのかなにかのシミが広がり、今にも破けそうなほどヨレヨレになっている。
ぼくはデジャビュを見ている心地になった。なにもわからないと思っても、なにかを見た瞬間にそれがなにかをわかっている。記憶はあるけれど、記憶があることを忘れている。
一体ぼくは、ここに来る前なにをやっていた?
知識はあるのに、自分が何者かはついぞ思い出せない。そして気持ちがなにか急いている。
ぼくはやみくもに、コートに反して頑丈な靴をはいた足を動かした。
まずは明るいところでよく見てみよう――。
光に向かって一歩踏み出すと、次の瞬間には街灯の下にいた。
「……。」
ふり返る。さっきまでいた場所は暗闇に沈んでよく見えない。五十歩は離れていたはずだ。
呆けたように電灯を見上げていると、なにかの音が近づいてくるのがわかった。車? にしてはけたたましい。鉄と鉄をすり合わせるような。
やがて音は光を伴って大きく、大きく近づいてくる。
風と共に、すぐ脇の線路を電車が通った。長い。確か十両編成ぐらいだったか。暗くて気がつかなかったけれど、どうやら線路わきの道路に立っていたらしい。線路の反対側は、これもどこかで見たことのあるような生垣だ。
よれよれの上着が寒風に舞う。
電車が通っている……ということは、駅があるはずだ。
ぼくは駅に向かって歩くことにした。今度は自分の足でしっかり歩けた。
はるか先に見える明るい駅舎にぼくの脇を通りすぎた電車がすいこまれていく。これで三本目。駅の規模は線路が四つある程度の小さいもの。駅舎の入り口が見えたとたん、ぼくは駅舎の改札前に立っていた。
目的地をはっきりと見ると移動できるのだろうか。それとも意識すればとべるのだろうか。実験したいのは山々だが、また後でにしよう。
駅の名前は「御射山」。どこか聞き覚えがあった。駅単体での記憶はないから降りたことはないはずだ。券売機の上にある路線図を眺めていると、三つ先に見知った駅の名前を発見した。「東峰大学前」。――ぼくの通っていた大学の最寄り駅だ。
そう思ってから、笑ってしまった。どうやらぼくは、大学を卒業しているらしい。それなりの年齢というわけだ。いや、もしもとても優秀だったなら飛び級を続けてニ十歳で卒業なのだから、むしろ子供なのか。
時計を見ると夜の十時過ぎで、終電までにはまだ時間がある。駅前を見回してもそれといった繁華街はなくて、ただただ住宅地が広がっているだけだ。もしかしたら同じ大学の人が下宿していたかもしれないが、交友関係なんてわからない。
ああもう、わからないことだらけだ。
せめて日にちが知りたかった。でも残念ながらそれとわかるものもない。きょろきょろとあたりを見回しているぼくが不審者に見えたのか、女子大生っぽい女の子と目が合った。
その顔がすっと青ざめて、目をそらされる。
……なにかあったのか?
振り向いてもそこには駅があるだけ。その先は暗い住宅街の景色。
単に具合でも悪くなったか。
振り向いたら、もう女の子はいなかった。
なんだったんだろう。
ぼくはふと気がついて、駅員のいる改札脇の案内所に近づいた。こういう窓口にはたいてい日にちがわかるものが置いてあるものだ。
自動ドアはぼくに反応しなかった。
……壊れてる? まさか。
そのとき改札でべーっと音がした。見ればおじさんが改札に引っかかっている。定期券でも切らしていたんだろうか。
おじさんがふらふらとした足取りでぼくのほうに近づいてきた。ぼくは自分の感づきを証明するため、そのままそこに立っていた。
おじさんが近づいてくる。
そしてそのまま、ぼくに気がつかないまま、ぼくの体を通りぬけた。
……うすうす、感づいていたんだ。
ああそうかという納得と、どうしたもんかなという困惑。
不可解な移動。無くした記憶。そのくせ無くしていない知識。
なにかがあったことは確実だ。
けれど。そんなこと、ありえない。
自動ドアが閉まる。光が反射して、ぼくの姿が見えた。
よれよれのコートを着た男。まだ二十代前半。背は低くて、自分で言うのもなんだけど、童顔だ。中学生に間違えられても文句は言えない。
そしてその足は、お決まりのようにうっすらと空気に溶けこんでいた。
おかしいな。ぼくからは頑丈な靴が見えているのに。
確かにそう思って見下ろす。……そうだ。見えていたのに。今は、足元にスモークでも焚いてるかのようにぼんやりとした光景になっている。
見えるものが確実とは限らないのか。
ぼくは自動ドアが開くのを待たずにおじさんに続いて案内所に入る。自動ドアは開かず、駅員もおじさんもぼくに気がつかない。
窓口の万年カレンダーをひょいと見れば、今日の日付は「二〇七〇年二月八日」だった。
どうしてが止まらない。
どうしてみんなぼくに気がつかない?
どうしてぼくはここにいる?
どうしてぼくはこうなった?
どうしてぼくは思い出せないことがある?
どうしてぼくはここにいる?
どうして彼女だけは、ぼくが見えたんだ?
駅を出た。喧騒とは程遠い、駅前のロータリーが闇に沈んでいる。
大学に行ってみようと思った。見覚えのある場所に行けばなにか思い出せるんじゃないかという安直な考えで。足を止めてしまえば不安に飲みこまれるという、直感で。
でも、いいじゃないか。
気持ちは何かに急いているけど、だからって急いでもなんにもならない。心だけは悟りを開いたように凪いでいる。なんだろう。自分自身が二つに分裂したみたいに、複数の思考が同時存在している。
でも、さて、困った。どっちに行けば大学にたどり着けるのか、まだ思い出せない。
あたりを見回すと、先ほどの女の子が道を歩いているのを発見した。
よし、あの子に聞こう。
彼女の後ろ姿に向かって跳躍。すぐ後ろに近づいてから、あ、これ不審者だわと思って前にまわりこんだ。
でも、知らない人に突然後ろから声をかけられるのと、知らない人に突然前から声をかけられるのってどっちが怖いんだろう。
目の前で靴音が止まる。案の定、街灯の下の彼女は真っ青な顔をしていた。
ショートカットの髪。しっかり着込んだコート。きっちり巻いたマフラー。コートからのびる細い脚には黒いタイツ。かわいらしい女の子が、目の前でプルプル震えている。
寒いのかな。引き留めて悪かったかな。
「あのう。」
とりあえず安心させないと。
「あの、ぼくの事、見えてますか。」
「……はっ?」
涙交じりの声がした。
……泣くほど怖かっただろうか。もうしわけない。
でも、良かった。とりあえずぼくの言葉は通じるようだった。
「あの。東峰大学って、どっちのほうですか。」
震えが収まらないのか、肩が小刻みに動いている。
コートでよくわからないけれど、足の細さからして全体的に華奢なんじゃないだろうか。早く家に帰って温まった方がいい。じゃないと彼女にとってもぼくにとってもただただ寒いだけの時間が過ぎ去ることになる。
寒さで回らないのか、彼女の声はひどく小さくて、不明瞭だった。
「……あ、あっちです。」
すっと進行方向を指さす女の子。そちらを見ると定期的に街灯があるだけで、あとは先ほどと同じような線路わきの道路が続いてる。
「そっか。ありがとう。」
これ以上引き留めても悪い。ぼくは早々に身をひるがえすと、彼女の指した方向へと足を向けた。今度は一歩ずつ歩いている。線路沿いをいけば、そのうち目的の最寄り駅に着くだろう。
ちらりと振り向くと、女の子はもういなくなっていた。こんなに暗いのにどこかの路地にでも入ったのだろうか。不用心な。でも、早く家まで帰り着けるといいな。
ぼくは薄暗い道を歩く。
そうだ。今のうちに試しておこう。いちおう目を閉じてから、頭の中に大学の姿を思い描いた。
駅からの道のり、校舎の形。友人たち。
「……。」
何一つ、思い出せない。
霧がかかってるなんてもんじゃない。白い画用紙に架空の街を想像するていどの無茶な気配がする。
そもそもぼくはなにを思い出そうとしたのだろう。目を開ければ、そこは前と同じく淋しい道路の上。
どうやらうすぼんやり憶えているくらいでは、目的の場所までとぶことはできないようだ。だとすると、一度しっかりと見てしまえば、どんなに離れていてもとべるのだろうか?
ぼくは無意識に、コートの中に着ていたシャツの胸ポケットへと手をのばした。自然にペンと小さなメモ帳を取り出してから、実物を見て笑ってしまう。たしかにこれらはぼくの愛用の品なのだろう。
メモ帳にはなにか文字が書いてあったが、ミミズが這いずったような跡にも見えた。もしかしたらこれは頭にもやがかかった景色で、ほんとうはしっかり何かが書いてあるのかもしれないけれど、今のぼくには読めない。
そう、その客観的事実だけが、今のぼくにとってほんとうのこと。
「暗いから読めないな……。」
とにかく、そういうことにしておこう。
ぼくは何の気なしに白いページを開き、万年筆のような形状のペンで「二〇七〇年二月七日夜十時。迷子。大学を目指す」と書きつけて、 大人しく、出したものをコートのポケットに、大事にしまう。いつかちゃんと、すべてが読めるときがくると信じて。
一時間ほどのんびり歩いて行くと、見慣れた駅が見えてきた。その駅を知っているということを思い出せたことにほっとした。
人はまばら。そりゃあそうだろう。もう終電の時間は過ぎている。
このあたりは見るからに、企業の入るビルなどが乱立しているオフィス街。夜の人口は極端に減る。さっきの駅とあまり離れていないのにえらい違いだ。
闇に沈むビルはどれも輪郭がぼやけていた。ぼくの足と同じ、というわけではない。街灯のかすかな光が、生い茂る樹木を黒く照らしている。
ありとあらゆるビルが、蔓や細い幹に覆われていた。もちろん朽ちるような雰囲気はなく、きっちりと管理された壁面緑化の結果で、窓や入り口はしっかり光を取り込めるように空いている。
計算された伸び方で。ただし、自然に見えるように。
駅前通りを歩いていると、既視感をひしひしと感じる。今のぼくにとっては初めて歩く道のはずなんだけどな。
ふと、ぼくはあるビルの前で足を止めた。知っているビルだ。まったく思い出せなかったことのはずなのに、その事実が真実であると根拠もなく理解してしまう。
ぼくはこのビルに入っている会社に勤めていたことがある。
ゼミの教授からの推薦で入った会社だった。仕事はデータの解析が主で、大学でやっていた研究の延長のようなもの。
大学院に行くよりも、専門の機関に所属したほうがいい。確か教授にそんなことを言われたような気がする。ぼくの研究は学術的に見るとそこまで重要視されていなかったから。
そこまでのことを思い出せるのに、教授の顔も、学部も、研究の内容もさっぱり思い出せない。
試しにビルの中に入ってみた。自動ドアをするりと透り抜ける。
電気はすべて消えている。試しにエレベーターのボタンを押してみたら動いた。
ぽん、と音がして明るい光がこぼれる。
エレベーターの中に入ると、慣れた動作で五階のボタンを押していた。
会社のことで思い出したのは、ぼくの他に研究員が五人、事務員が二人いたってことだけ。顔なんてもってのほか。
記憶に残るような思い出はなにもない。
エレベーターが五階に止まる。
暗い廊下は非常灯の緑色の光の中にうすぼんやりと浮かんでいる。すぐ目の前にはドアが二つ。
一つは事務所への扉。もう一つがぼくらの研究室への扉。
ぼくは研究室への扉を透りぬける。
中にはブースに区切られた四つのスペースがある。
……四つ?
一番奥、ぼくの机があるところへ向かう。しかしそこにぼくの机はなかった。置いてあったはずのパソコンや紙の資料、大学の研究室からそのまま移してきた鉢植えたちも、なにもない。
部屋を間違えたのだろうか。いや、そんなはずはない。他のブースは物の動きはあるものの記憶の中と配置は変わっていない。
どういうことだ? ぼくは、もうここにいないのか?
そこでぼくははっと気がつく。今さっきぼくは、このビルを見てなにを思い出したのか。「勤めていたこと」だ。
ぼくはもうこの会社にいない。そのことを確信したのに、じゃあ今のぼくがどこにいるのかは全く思い出せなかった。
「……いや。今はどこにもいないのか。」
ぼくは自嘲気味に自分の足を見下した。
うん。視えない。
こうなった以上、もう社会のどこにも所属しているわけがない。
しかし面白いもんだ。まったく根拠がないのに、思い出した記憶に関してはそれが記憶違いや妄想の類ではないと謎の自信がある。一体この自信はどこから来るんだろう?
その時、外で音がした。
非常階段のほうから光がゆらゆらと近づいてきて、研究室の前にやって来る。どうやら光源を持った人のようだ。がちゃがちゃと音がして、扉の鍵が開けられた気配。
ぼくは隣の机の下にすべりこんだ。
扉が開いた。
かつ、かつと慎重に歩く音。ふらふらと光が揺れる。懐中電灯だろうか。
光の後に男の足が見えた。ぼくのほうを照らすが、「おかしいなあ。」と呟いてそのまま去ってしまう。
どうやら警備員だったようだ。
なんだったんだろう。まあ、いいか。ぼくもさっさと外に出ることにした。
エレベーターの前まで来た。警備員は帰りも階段を使ったようでエレベーターは五階にいるままだ。他に使う人もいないから当たり前か。
ぼくは「あ。」と声を上げる。
ぼくは今、特定の人にしか見えないようになっているようだ。つまり見えない人からしたら、エレベーターがひとりでに動いたように見えたのではなかろうか。警備員だったら監視カメラくらい見ているだろう。
ひやひやしていたのはぼくばかりではない、ということだ。
案外、世の人々が遭遇する心霊現象というのは、こうやって発生するのかもしれない。……や、まだぼくが幽霊になったという確証もないのだが、
静かに階段に足を向ける。これ以上警備員の仕事を増やすのはしのびなかった。
大学への興味はなくなっていた。先ほどいた駅を思い浮かべると、二歩先はもう駅の中だった。
時間は深夜をおおきくまわっていた。終電の終わった駅は電気が消えて不気味に闇に沈んでいる。
こういう光景を見たことがある気がした。自分の体験談、ではないはず。確かぼくはあの時座っていたような。なんだっけ。夜中の線路を歩く、昔の映画。
改札をすりぬけても、おじさんみたいにはひっかからない。
駅員も帰った後なのだろう。がらんとしたホームに人気はない。
なんのためらいもなく、線路に飛び降りた。
線路を歩く。方角が合っているなら最初に彼女と出会った駅へ帰ることができるはずだ。線路は映画のようにまっすぐ伸びているわけではなかった。枕木の上を選んで歩いているうちに、目の前を花びらのようなものが横切った。
「……雪か。」
残念ながら、温度は感じていない。雪が降るほどの凍てついた空気を、もうぼくは感じられないのだ。息をしているのかも定かではないが、白い息を吐けることもない。
元の駅に戻るころにはレールにうっすらと雪が積もっていた。住宅地は点々とある街灯以外闇に包まれているが、白い雪のおかげで明るさが増している。
これは明日の朝、雪かきする程度に積もるかもしれないな、と思いながらひらひらと舞う雪を目で追った。
時間の流れは一定だ。
ただし、その中で生活する人の感覚は、時間を常に一定にとらえることはできない。
楽しい時間は早く過ぎる。つらい時間は間延びしている。
すべてに感情がつきまとうがために、人は正確に、均等に、時間を見ることができない。
それはもちろん、ぼくのような存在にも言える。むしろ顕著に現れていると言ってもいい。人がベッドの中で目を閉じた次の瞬間朝になったと錯覚するように、ぼくは気がついたら昼間の駅にいた。
昨日来た時よりも人が多い。当たり前か、今は昼間だ。
記憶が正しければ、こうやってほっつき歩くようになって三日目になる。見るという技術を習得したから、今のところ日付は把握できている。
昨日は今の自分になにができるのか、ひたすらに実験していた。結果から言えば一度行った場所への瞬間移動、空中遊泳、そして機械への干渉ができると判明した。
たとえば一人ひとつは持っている手のひらに乗るくらいの情報端末(世間的には情端と略されているが、そこまでして名称を短くする意味がわからない)に半ば指を突っこむように触れると、中の情報をいじったり、ネットで検索ができたりと意外と便利だった。
検索だけなら履歴を見ないと解らないから、情端を持っている人にも気づかれない。
それに今のところ、ぼくのことを認識できるのは初日に出会った彼女だけだった。
彼女とは、あれ以降顔を合わせていない。もしかしたらぼくを警戒して駅を避けているのかもしれない。
それともただ単に、タイミングが合わないだけだろうか。
まあ、考えていたらその人が来たなんてよくある話は、ぼくのおじいちゃんが若かった頃からあまり変わらなかっただろう。
見覚えのある後ろ姿を見つけて、すっとそっちにとぶ。
最初のころは思った場所にひと動作でとんでしまっていたが、それは自分の感覚が乱れるからやめた。今はちゃんとない足で地面を蹴って跳躍している。
なお、意識的にそんなことをして変わるのは自分の感覚だけで、ぼくが瞬間移動のようにおかしな移動をしていることには変わりない。
と、いつもならすぐに彼女の後ろに立っているのだが、今日は途中でぴたりと止まった。宙に浮いている足を地面につけて、誰にも見られていないのに物陰に隠れる。
彼女は、男に手を引かれていた。
なんだ、彼氏か? デートか?
それなら邪魔しちゃいけないだろうと距離を置いて眺めていたら、人気がなくなったところで彼女が男の手を振りほどいた。それから、なにか言う声。怒鳴るほどではないものの、語気は強い。
なにかあったのだろうか。
彼女たちのいる道の物陰にとぶと、その会話がつぶさに聞こえた。
「もう会わないって言ったよね。」
「……ああ。」
「どうして来たの。」
「だって、意味わかんねえもん。突然あんなふうに言われたってわかんねえって。」
彼氏は彼女の手をとろうとする。彼女は一歩下がって相手をにらみつけた。
「これ以上近づいたら、通報するから。」
……なんだかきな臭くなってきた。
男のほうはむっとした顔で彼女にせまる。
「なんでだよ。」
「……本当にわかってないの?」
「なにが。」
ぼくは彼女の声が震えているのに気がついた。
最初、男に怒っているから震えているのかと思った。けれど違う。その震えはぼくの時と同じもの。かなしいけど、ぼくも彼女に同じような感情を植え付けたことになる。
それは、怯えとか、恐れとか。もっと簡単に言うと怖いって感情だ。
「同じ講義に必ずいたり。」
「それは授業が一緒だから。」
「学科が違うのに? なんでゼミの時間までいるの。」
「それは、外を歩いていたら君が見えたから。」
「駅で待ち伏せしてたのも? 勝手に家に入ろうとしたのも、偶然だっていうの?」
「夜一人で歩くのは危険だと思ったんだよ。」
男はいらだったように体を揺らしている。
……おいおいおい。ぼくの聞く限り、そいつは――。
「そういうの、ストーカーっていうのよ。」
彼女の言葉に激しく同意する。
ついでに男に向かって「お前さっさと帰れよ。」と念を送ってみたけど、当の本人はなぜか顔を真っ赤にしていた。残念、こういう効果は望めないようだ。
「……んだよ、なんなんだよ。」
ぶつぶつと声が聞えた、と思ったら、突然男は彼女をなぐった。
どん、と鈍い音がした。彼女はお腹を押さえてその場に座りこんだ。
「俺が心配してやってるのに。なんでそんなこと言うんだよ。俺を全否定して面白いかよ、え?」
赤を通り越してどす黒くなっていく男の顔に、ぼくはさすがに彼女たちに近づいた。男の後ろに立つと、そいつが興奮しているのがはたから見ても伝わってきた。
道路に膝をつきながらも男をにらみ返した彼女と目が合う。気を張ってぎらぎらとしていた目が、ぼくをとらえて離さなくなった。
傍観する気はなかった。困っている人は助けなくてはいけない。
謎の強迫観念に押されて、ぼくの体は動いている。
男がなにかやる前に、ぼくは男のふくらんだズボンのポケットに触れた。案の定中には折りたたまれた情端が入っていた。
指を差し入れて、中を探る。プロフィールを覚えてから適当にアラームをバグらせた。
けたたましいベルの音。男はびくりと体を震わせて情端を取り出した。開いて画面をタップするけど、止まらない。
あと五十回くらい押せば止まるよ。がんばれ。
彼女にもわかるように、男に向かってあっかんベーと舌を出す。
焦る男をじっとりとした目で見ていた彼女は、さっと立ち上がった。「じゃあね。」と淡白に言って、男に背を向ける。
「あっ、おい、待て!」
アラーム男は彼女を追いかけようとする。ところがその時にはもう、男の大声に何事かとやってきた人々が男をがっつり見ていた。男はすぐに無数の目線にたじろいだ。その間に彼女はさっさと人ごみに消えている。
ぼくは彼女の姿を目で追った。駅前のロータリーをぐるりとまわりこむ彼女を見つけて、すぐそばにとぶ。
一気にアラームの音が遠のいた。
隣に降り立つと、彼女はちらりとこちらを見た。ぼくは気づかないふりをして、口笛なんて吹いてみる。その間にも、何人もの人がぼくの体をすり抜けた。
「……。」
無言のまま、彼女はまっすぐ前を向いて速足で歩く。
ぼくはその後を、のんきについていった。
いつの間にか、アラームの音は聞こえなくなっていた
彼女は少し遠回りをしながら、住宅地にたたずむマンションへと向かった。ぼくはやつが追いかけて来ていないか注意深く周りを見ていて、そんなぼくを、彼女がマンションのエントランスからしばらく見えていた。
十分ほど周りを見たが、人影が近づいてこなかった。ぼくは彼女に向かって、手を振った。
それをしっかりと見た彼女は、ふ、と小さく息を吐いたのだろうか。若干肩が上下して、口元が動く。
「ありがとう。」
そんな言葉がつぶやかれた気がした。
ぼくはマンションの奥へと消えていく彼女を見て満足して、きびすを返した。
四日目の夜、ぼくは空中を足場にして空に登るという秘儀を編み出した。
この状態は、突き詰めればなんでもありなのかもしれない。
階段を昇るように足を出せばその足元には「なにか」がある。なにかを踏んだ足を軸にしてもう一方の足を踏み出すと、その足もまたなにかを踏む。
なにかの連続で、どんどん高度があがっていく。
ぼくらの街の空はどんよりと曇っていて、星など見えない。
けれどぼくは確実に空に近づいた。それだけでじゅうぶん楽しかった。
もっともこれは客観的に見れば無い足で存在しない階段を登っているわけで、挙動不審の幽霊として名を馳せるにはちょうどいい奇行だ。幽霊万歳。
ここまで状況が変わらないと、もう諦めが思考のほとんどを占めた。
ぼくは、幽霊になって、この見知った街を、あてどなく、たまに記憶を思い出しながら、彷徨うしかないのだと。この状況は、もう「そういうもの」なのだと。
やがてこの町で一番高い電波塔ですら足元に見るようになって、ぴたりと歩みを止めた。
ここから「踏み外す」と、どうなるんだろう。
ひやりと、ない体が冷えたような気がした。
おそるおそる一歩進む。
ぼくの心理を反映したように、そこから先は下りになっていた。
緩い弧を描きながら下る。最初に登り始めたところから若干ずれたところまで戻ってきたところで、だんだん空が晴れてきたことに気がつく。
昔の都会では、夜に星が見えなかったらしい。そもそも夜空を見上げる人も少なかったのだと。星を求めて田舎へ移住する人もいたらしい。
おじいちゃんの昔話は、寝る前のお楽しみだった。
かつては「平等」がトレンドだったのだという。けれど天災というのは全国の人にいっせいに襲い掛かることはない。そんななかで、国民の半分が被災するような大地震があった。
それに乗じて、政府は「全国復興」の言葉と共に平等な土地開発に着手した。持ち主のいない土地を移住者に提供したり、電波環境を整えたり。都市部に溜まっていた人々を分散させるために、全国に同じような中小都市が作られた。気候や文化の差はそのままに、人が生活する基盤についてはみんながみんな、同じものを持つようになった。
過疎化や都市部への一極集中なんてものは、ぼくの生まれる前に強制的に解消されていた。
そうしてみんなしあわせになりました。めでたしめでたし。
「おじいちゃんはそれで幸せになったの。」
そのとき、ぼくはそんなことを聞いたような気がする。
返事は、忘れてしまった。
おじいちゃんの思い出話を思い出すたびに、ぼくは悲しい気持ちになる。
ぼくの大好きなおじいちゃんがもうこの世にいないことも。そして、おじいちゃん以外の家族の記憶がないことも、嫌というほどわかってしまうから。
そんなふうに星空を見上げて黄昏ていると、隣のマンションからちょうど住人が出てきて、どうやらぼくと同じように空を見上げているようだ。
その横顔に、ぼくはおもわず近づく。なんだか彼女に見える。
着地したどこかのビルの上から、クリア素材の柵を透りぬけ、中空を歩く。まっすぐ近づいていくと、ざっくりと編んだ彼女のカーディガンまではっきり見えてきた。
ぼくはそのまま近づいていって、彼女の前に立つ。
上を見ていた目がぱっと降りて、ぼくを見た。
彼女の顔が青くなる。
「どうも。いい夜だね。」
彼女は注意深くぼくを見つめて、現実逃避でもするように晴れ間の多くなってきた夜空に視線を戻した。つられて見上げれば新月の穏やかな空にはまばゆい星がきらきらと輝いている。
しばらく後、彼女は動かないぼくにしびれをきらしたのか、視線を戻し、ぼくに向かって静かに頷いた。
「少し話をしていってもいい?」
「……ベランダならいいよ。」
「ありがとう。」
ぼくはいそいそと、ベランダの柵を透りぬける。
ベランダの柵にもたれたぼくの後ろで、たぶん胡散臭そうな目で、彼女が座っている。お尻は部屋のフローリングの上で、開け放った窓から足だけ出して。
彼女は防寒対策をしっかりしたうえで出てきている。
ぼくはちらりと開け放たれた窓をふり返る。
部屋の中は一般的な一人暮らしの部屋。家具は大きなベッドと机くらい。天井に部屋全体を照らせる映写装置がついていたからテレビは壁に映すやつだろうし、窓は温度やリモコン操作によってガラスの色が変わるもの。
機能的でシンプルな、今の流行そのままだ。
彼女はぼくの扱いに困っているのか、元からなのか、常に静かだった。
そのかわり、ぼくを無視することはない。無視っていうのは、いると解っているのにいないように扱うようなことだ。
いちおう、助けてくれたことも考慮して不審人物と見ないでいてくれているのだろうけど。
「幽霊なの。」
彼女の声に振り向く。彼女は手に情端を持っているけれど、その画面はスクロールされるばかりのウェブサイト。なにか触ってないと気まずかったんだろう。
疲れなんて感じていなかったけど、その場にずるずると座りこんで、彼女と目線を合わせた。
「そう見える?」
「……足、ないし。」
まあ、そうだよなあ。
「うん。ちゃんと死んでる……んだと思う。」
ぴくり、と彼女の肩が震えた。
「でも、名前も、死ぬ前のことも、思い出せないんだよね。」
「……そう、なの。」
「せめて死因くらい覚えていてほしかったなあ。……基本的な一般常識は憶えてるくせにね。気がついたら線路わきの道に立ってた。」
あの時のことを思い出したのだろう。彼女がふっと顔を上げて、ぼくの目を見る。
紅茶色に澄んだ目。
彼女はことりと首を傾げた。
「死因?」
気になったのはそこか。
そもそも、幽霊自体怖くないのだろうか。彼女はなんというか、幽霊という存在自体は肯定しているように思える。もしかしたら、元々見えていたのかもしれない。
「だって、どうやって死んだのかって、幽霊にとって一番重要なアイデンティティになるじゃないか。地縛霊ならその土地にゆえんがあるし、身体的特徴があれば自殺か他殺かわかるだろう?」
たとえ何も覚えていなくても。死因がわかれば、自分が何をして生きていたのか、わかるのに。
ぼくは何の外傷もなしで、浮遊霊だからどこにでも行ける。
この土地にも、人にも、もう縁はない。
ぼくはない体を震わせた。寒さからくる震えじゃない。そもそも温度なんて、ぼくにはもう関係ない。この感覚は、ぼくの存在自体の震えだろう。
ぼくを見て、なにを思ったのか。彼女は小さな声で空気を震わせる。
「……不安なの。」
彼女の吐く息は白かった。
夜の闇に溶ける色を追いかけて、ぼくもああ、と息を吐く。
ぼくの息は、透明だった。
「そうかもしれないね。」
それっきり、なにも言葉は生まれなかった。なんの音もない、会話もない。ただただ時間だけが過ぎる。けれどそれが、心苦しいことはなかった。
でも、このままでいいのはぼくだけだ。寒さに震える彼女は、そろそろ窓を閉めて部屋を暖かくしなくちゃいけない。もう夜も遅い。夜更かしは体に毒だ。ぼくは静かに、彼女に問いかけた。
「また来ていい?」
彼女はどこか寂しそうな顔をして、ぼくからふい、と視線をそらした。返事はない。
ぼくは肩をすくめて、すっと立ち上がる。ベランダの柵を飛び越えたとき、後ろから音がした。
「…………好きにすれば。」
立ち上がった彼女が、部屋に入る。自動的に明かりがついて、空調の動く音がする。
小さな声は、小動物のようなはかなさを湛えていた。
ぼくの死因はなんだったのだろう。
彼女の元を去ってから、自分がそのことを考えないようにしていたことに気づく。
今思い出せるのは、小さい頃のこと。
ぼくの家族はおじいちゃんしかいなかった。両親の記憶はない。おじいちゃんは小さいぼくをかわいがってくれたし、ぼくもいろんな話をしてくれるおじいちゃんが好きだった。
でも、それ以外のこと、学校のことだったり、おじいちゃんがいついなくなったのかは思い出せなかった。
その後記憶にあるのは、研究室のこと。
大学でぼくの担当だった教授はおじいちゃんに似た人で。ぼくはその人に出会ったことで母校への進学を決めたし、卒業後の職場を決めた。
だけど、それらは直接ぼくの死因とは関係なくて、ぼくという人間を語るにも情報が少なすぎた。
だから次の日、もう一度大学へ行ってみることにした。前は結局行かなかったから、この姿になって初めて行くようなものだけれど。行ってもほとんど意味はないだろうな、とは思う。
学生は毎年入れ替わっていくのだ。よほど行動的でない限り、痕跡を残すことは難しい。そしてぼくには、自分が活発だったという記憶がない。
実際敷地に入ってみても、かろうじて覚えていたのは研究室の位置くらいだった。迷わずに行けたことを褒めてほしい。
昼間の大学では生徒たちが自由気ままに過ごしている。芝生に寝ころんでいるやつもいれば教室で居眠りしているやつも。そういう人に限って目につくのはぼくも同じようなことをしていたからだろうか。
生徒の年齢層は十代半ばから二十代前半まで。
ぼくは現行の教育体系を思い出す。
義務教育は初等学校と高等学校に分かれていて、それぞれ六年間。そのうち優秀な生徒は五年で卒業ができて、それとは別に一度だけ飛び級試験が受けられる。
入学が六歳だから、もしも飛び級を二回していてどちらも五年で卒業できていたら、大学入学は十五歳ごろになる。
ぼくはこの制度が好きだ。――好きだった、と思う。努力すればそれだけ早く、自分の人生で自由にできる時間が増える。確かぼくも、早めに大学に入学している。
飛び級試験も割と簡単だった記憶がある。今思い出した。
ぼくの所属していた研究室は変わりなかった。清潔さは守られているものの雑然としている室内。今も白衣の学生がうごめいている。
ぼくのテリトリーはとっくにほかの学生に奪われている。隅っこの窓際で、教授の部屋に近い。
窓際にはまだ教授の大切にしている盆栽が置いてあった。その隣の、なにも置かれていない台に目が行く。拭いても消えないのだろう。植木鉢のトレイが置かれていた跡が残っている。
そこに軽く触れた。別に意味はなかったのに、とたん、ぴりっと静電気のようなものが走る。
『――トーノさん。またそんなところで――。』
脳裏を白い花びらと、陽の光がかすめる。
そうだ。ここに置いてあったのは、ぼくの研究していた月光草の鉢植えだ。
そして、彼女は――。
その時、教授の部屋の扉が開いた。
盆栽を整えようとしたのか、小さな背丈をきっちりスーツにおさめた教授が出てきてぴたりと止まる。ぼくの手のあるあたりをじっと見ているのが少し気まずい。
通りがかりの学生がそんな教授を不審に思ったのか、ぼくのかたわらまで近づいてくる。
「どうしたんですか、教授。」
「……いやね。なんだかふいに遠野君のことを思い出して。」
「遠野君って……遠野壇ですか?」
「知ってるのかい?」
「学年は違いましたけど、高等学校が一緒で。その……彼女が有名人だったから。名前だけは知っています。」
ぼくは学生のほうを振り向いた。まったく知らない顔の男だった。どうやら一方的に知られているだけのようだ。
教授は彼の言葉にほほ笑んだ。
「彼女っていうのは、もしかして保住くんのことかな。」
「そうです。花音先輩は、その……よくも悪くも目立っていたので。」
「変わらないねえ、彼女も。」
それから二人はそれ以上、この話をすることはなかった。教授は彼に研究の進捗を聞いて、聞かれたほうは気まずげに「ぼちぼちです。」と言って、そそくさと自分の席へと帰っていった。
ちゃんとやれよ、と後輩の背中を見ながら思う。
教授は盆栽に手を加え始めた。ぼくはすっかり丸まってしまったその背中を見つめる。
トオノダンと、ホズミカノン。
その名前を聞いても、いまいちピンとこない。ただ、植木鉢のあったところに触れたとき、彼女は確かにトーノと口にしていた。
ぼくは、彼女を知っているような気がする。
あれは陽の光なんかじゃない。彼女の色素の薄い髪の色。そこまで思い出すと切りそろえられたショートカットまで鮮明に浮かんでくるが、残念ながら顔はまだぼんやりとしていた。
「……彼らは今、どうしているのかな。」
教授のちいさなつぶやき。
まさか後ろに立っていますとは言えなかった。
いつの間にか盆栽の手入れを終えたのか、教授が部屋へ帰っていく。開かれた扉の先に無数の写真立てを見つけたぼくは、その後ろにくっついて部屋に忍びこんだ。
教授は写真好きで、電子アルバムではなくちゃんと紙に印刷して部屋に飾っていたのを思い出す。ぼくの写真もあるはずだ。
書類仕事を始めた教授の後ろで、一枚一枚写真を見ていく。するとかなり端のほうに置かれた写真が目に入った。
二十人ほどの人間が写っている写真だった。私服だろうか、思い思いの格好をした学生らしき集団の真ん中に先生が写っている。
一番右端に、彼らはいた。
二人だけはなぜか白衣姿だった。白金の髪をのばした背の高い女は笑顔で隣に立つ人物を見下ろしていて、その隣に立つ背の低い男は、彼女でもカメラでもなく、あらぬ方向を向いている。なんなら動いてしまったのか顔もぶれている。
ぶれていてもわかる。悲しいかな、この背の小ささは紛れもなくぼくだ。とすると隣の女性がホズミカノンだろう。
ホズミカノンは外国の血が入っていると一目でわかる容姿だった。確かにこれでは悪目立ちするだろう。対してぼくは白衣を脱いでしまえばこの学生の中に紛れこめる一般的な感じ。
どうしてこの二人がコンビみたいに写っているのか。当事者にもかかわらず、そのあたりの記憶は曖昧だった。ぼくは何度も写真を見ては首を傾げた。
どこからか、ざわめきが聞こえるような気がする。ひそひそ話すような。
町の喧騒はあまり届かない高さだと思うけど。もしかしたら草の揺れる音だったかもしれない。
ビルの屋上。高く伸びたススキの間から顔を出し、クリアな素材の柵にもたれる。
傍らを見れば、ススキより下、地面を這うように白い花が咲いていた。蔓の先に花をつける植物。見慣れた花だった。
この新種の植物はおよそ五十年前に発見された。都市部に多く分布し、夜に咲く。学術的に一番重要視された特徴は、この花が夜の間自ら発光する事だった。その姿は「月の光を反射するよう」とよく言われる。けれどその表現に反して、月のない暗闇にこそ輝きを増す。ちょうど月の満ち欠けと逆になるよう仕組まれたみたいに。
誰が呼んだか「月光草」。
新月の夜、その花弁はまるで満月の光を一心に浴びているよう光り輝き、不気味な美しさは人を寄せつける。
創作の対象として取り上げられることも多いが、未だになぜこの花が光るのか、なぜ五十年前突然都市部に自生し始めたのか。原因はわかっていないし、研究も進んでいない。学術的価値が高い植物とはすなわち「緑化発電を効率よく行える植物」だから。
ビルの屋上の緑地には月光草が蔓延っていた。もう少し間引かないと他の植物がだめになってしまいそうだ。どうにか管理元に伝えたいところだが、手段としては誰かの情端を借りてメッセージフォームに投稿、とか? 誰が情端を貸してくれるっていうんだ。
自虐的に考えてもらちが明かない。
前回来た時はまったく目に留まらなかったけれど、自分の事を思い出したとたん、嫌でも目に付くようになった。面白いもんだ。
ニヤニヤとビルの屋上を徘徊していると、近くから視線を感じた。
――いや、今、ベランダの柵に頬杖をついた彼女と目が合った。
そう、ここはストーカー被害に遭っていたあの子の家の隣のビルの上。すなわち前回空中散歩の後にたどり着いた場所だ。
彼女のショートカットの髪が夜風に揺れるのが見えた。添えられた手は柔らかなほっぺたをゆがませている。今日は部屋着の上にコートを引っかけていた。
ぼくは、無意識にその姿に、一歩踏み出す。
宙を歩いて彼女の元へ行く。綱渡りのように一本の線をイメージして。
肩の延長に手をのばすとあたかもバランスをとっているかのように体を揺らした。彼女が頬杖を解いて、ぼくをじっと見つめる。
面白くなったぼくはぐらり、と体を反らせた。
身を乗り出す彼女。
ない足場を蹴って一回転する。ぴたりと元のあたりに戻ると、彼女がほっと胸をなでおろしているのが見えた。
これ以上ふざけると口を聞いてもらえなくなりそうだ。まっすぐ歩いて、ベランダの柵に手をかけた。
「こんばんは。」
「こんばんは。……大丈夫?」
彼女の気遣いがもうしわけない。
ベランダの柵を透りぬける。彼女の隣に立つと「この通り。」とおどけてみせた。
珍しいことに、彼女はちょっぴり口元をゆるめた。
「何かいいことでもあったの。」
いっしゅん表情が固まってから、彼女は昨日と同じように開いた窓のところに座りこんだ。それからお尻のポケットに入れていたのが痛かったのか、情端を取り出す。
「大間のこと……この間のこと、警察に言ってきた。だからたぶん、もう、大丈夫。」
聞いたことない名前だ。でも察するにこの間のアラーム男のことだろう。
「そっか。」
「うん。」
「でも、捕まったとかそういうことじゃないでしょ。」
「……うん。厳重注意止まり。」
「またなにかあったら声かけてよ。とうぶんこの辺うろうろしてるから。」
彼女の目が、不安そうにぼくを見た。
「……できれば、頼りたくない。」
「そっか。」
肩をすくめて、笑ってみせた。
もうあの男と関わりあいになりたくない、ということか。それとも、もうぼくとは会いたくない、ということか。
ぼくの言葉にはなにも、確実なことはない。頼られたとしても明日には存在が消えているかもしれないし、次に目覚めたら百年後、なんてことだって可能性としてはあり得る。
ぼくも、頼られないほうがいいのかもしれない。でも、残念な気持ちは確かにどこかにあるのだ。
暗闇から頬を切るような風がくる。
彼女はその気がなくて気がついていないのか、それとも賢く両方の意味を含ませて言ったのか。ほとんど変わらない表情からはなにも読み取れない。
ぼくはなんとなく彼女を取り巻くベランダの植物を見た。ポトス、ブナの木、あとサボテンたち……は、室内にもいる。
ベランダに出る窓の他に、ベランダの柵外にもシャッター付きの外窓がついている。新植物保護法によってマンションのベランダは植物を育てるためのサンルームにすることが決まっているから、どこに行っても見る景色だ。安心感すら覚える。この植物たちに機具を取り付けることによって、部屋の中の電気を賄う。足りないぶんは屋上の植物か電力会社から電力が来る。
もう少しこのサンルームの植物が多ければ、育てている植物だけで温室が作れるんじゃないかな。
「月光草はないんだね。」
「あれ、育たない。やってみたけど。」
「そうなの?」
おかしいな。ぼくは普通に育ててたはずなんだけど。
彼女はすっと隣のビルを指さした。街の灯りとは少し違う自然の明るさがビルの屋上を照らしている。少し離れたところから見るとその異様さが際立った。
「嫌いなの?」
「向こうにあるから、いいの。」
なるほど。隣の芝は青くないわけだ。
「あそこの月光草、もう少し数を減らしたほうがいいんだ。あのままじゃ歩道や東屋まで覆われちゃう。」
「……東屋?」
きょとんとした瞳がぼくを見る。
「行ったことないの?」
「用事、ないし。」
そっか、そんなもんか。
ぼくはいたずら心を発揮して、彼女に「じゃあさ。」と手を差し出した。
「行ってみない?」
「は?」
本心からの拒絶だったろう。彼女の何も飾らない言葉がぼくに突き刺さる。
「はは。こんな怪しいやつとなんて行きたくないか。」
ぼくはそのまま、柵を乗り越えようとする。
「えっ、いや。そんなつもりは。」
彼女はそんなぼくに手をのばして、肩に食いこんだ手を見て細い声を上げた。やっぱり今までの発言は天然からくるものだったようだ。安心した。
戸惑っている間に、その手をつかむ。しっかりと、やわかな手の感触が伝わってきた。
「ああ、よかった。ふつうに触れた。」
しかし、女性の手を握るなんていつぶりだろう。少なくともぼくの(現時点での)記憶の中にはない。ホズミカノンとはどういう関係だったのかわからないけど、あまり甘い雰囲気は感じなかったし。
先っぽは冷たいけど、人の温かみを感じる。
実は、この提案はぼくにとって賭けだった。
今まで、ぼくはこの体で誰かに触れたことがない。情端をいじったときは機械にしか触れてなかった。ぼくが見えない人はもちろんぼくに触れない。唯一、希望を見出せそうなのが彼女だった。
ぼくが触ろうと思って触れば、少なくともぼくが見えている人には触れられる。
すっかりうれしくなって、彼女の両手をとった。まだ戸惑っている彼女の手を引いて、中空に躍り出る。
「ちょっと、まっ――。」
ちなみに彼女の部屋は五階の高さにある。
はるか下を見た彼女はそれっきり声にならない空気をパクパクさせた口から放出するしかなくなった。
ぼくは彼女を抱えるように、ベランダのふちを蹴る。
隣のビルは四階建てで、屋上までは少し下り坂といったところ。
おじいちゃんによると、昔は「電柱」というものがそこかしこにあったのだという。
電力を供給するための線が地上に敷設されていた時代の話だ。今は地階層に全自動管理道が迷路のように広がっているから、地上に露出していることは少ない。
もしも電柱とそれを繋ぐ線があったとしたら、その上を本当に綱渡りできたかもしれない。
けれど今の時代、建物の間にあるのは道路と街路樹くらいなものだ。
一息に隣のビルまでとぶと、彼女をそっと遊歩道に下ろした。腰から崩れ落ちるように、彼女は座りこむ。その手はぼくの手をしっかり握っている。
「怖かった?」
いたずらっぽく問いかけると、鋭い目に見返された。
「ね、ぼくにもいいことがあったんだよ。どうやらぼくは『トオノダン』って名前らしい。」
「……へえ。」
彼女の反応は薄かった。
「あと、友達かわからないけど、知り合いもいるっぽい。」
「その人、まだ生きてるんですか。」
冷たい彼女の声に、ぼくは言葉に詰まった。ぼくの様子に彼女もしまった、という表情をしている。
いろんなことに気を使わせて、本当に申し訳ない。ただ単に、その可能性は全然、考えていなかったから。
「……さあ、どうだろう。」
とぼけた返事をして、ぼくは月光草に目線をやった。
まだぼくは知り合いどころか、自分がどこで、どうして、どうやって死んだのかさえ知らない。
どこからか、ぼくをあざ笑うかのような葉擦れが聞こえている。彼女は、そんなぼくに何も言わず、ただ隣に座ってくれていた。
その日、街は浮かれていた。
二月十四日。
新しい電波塔の開業日。そして、新しい電波の開放日。
容量の大きくなった通信に対して適応されるもので、簡単に説明するニュースキャスターの言葉を借りると「通信容量が上がり、通信速度が安定する」、らしい。
ぼくにはそんなこと関係がなくて、いつもながら街を彷徨っていた。
目の前には天を支えるかのような新電波塔。まるで、昔話に出てくる光る竹みたいだ。
呼応するように、細い月が塔の横にいた。もうすぐ沈むのだろう。だいぶ低い位置に見える。
塔は異様に暗い色でそびえ立っている。土地の再分配によってせせこましい場所に住まなくなってよくなったおかげで高くても五階建てのビルが群がるこの街で、その倍はあろうかという高さ。
遠くまで電波を飛ばすにはこのくらいの高さが必要なのか。それはちょっと違う。もちろんこの電波塔一つではまんべんなく電波を飛ばすなんてことできない。
この電波塔は、より小さな電波塔が全国に無数に建てられているからこそその能力を発揮する。新しい電波はこの塔のアンテナでないと発信できないから建てられたのだ。
大本の電波塔から電波が発進される。そうすると小さな塔に届く。
ぼくらはその電波を介してネットを楽しむというわけだ。今まではできなかったことも今日からできるようになる。と、言われている。
ネット配信もされているだろうに、電波塔の周りはすごい人混みだった。
新しい電波が発信されるのは午後十時ごろから。夕方の駅の電光掲示板が「あと五時間」のカウントダウンをけばけばしく表示している。
もちろんぼくはただの見物人ではない。
今日の朝、この電波塔行きの電車に例のアラーム男が乗りこむのをたまたま見てしまったのだ。
その顔が切羽詰まった、眉間にしわの寄った厳ついものになっているのを見て少し怖くなった。まるで別人みたいな顔だった。
彼女の件かは知らないけど。この状態で彼女の前にでも現れたら確実に問題が起きる。そう思ったら、気がついたら男を追っていた。
男はずっと電波塔のあたりをうろついていた。何の用があるのかは全く分からない。
夜の七時になると交通規制がかかり始めた。近くの交差点に集まってきていた人達が警官によって分散するように促されている。
男は頻繁にどこかと連絡を取っていた。
男もそうだけれど、街の人々は新しい情端を持ち歩いていた。従来の物とは違う、折りたたむと正方形になるタイプのものが多い。
新しい電波に対応した機種に変えなければせっかくの電波も使えない。それでみんな新しいものを買わざるをえなかったわけだ。まあ、それで生活が快適になるなら従う他ないけど。
ぼくは新しい情端を買った記憶がなかった。
不明瞭な記憶しかなくても、普段使うものが目の前にあれば自然と使えてしまうだろう。それなのにぼくは、彼女も使っていた新しい情端の使い方がよくわかっていない。
ほんの少しの間に、なにもかも変わってしまうような感覚になる。
そもそも持ち物が少なすぎて情端どころじゃないんだけどね。今確認できる持ち物といえば、胸ポケットに入っていた読めないメモ帳ぐらいのものなのだから。
男は前にぼくがバグらせた情端をまだ使っていた。
今のぼくは、触れるだけでその機械を扱える。自分の意識を回線に流して使う、というのが一番近い言い方だろうか。
データの中を移動するのは普通に歩くのと変わらなかった。巨大で複雑な建物の中を歩いている気分。ショッピングモールで目的のお店が見つからなくて右往左往するのと同じだ。
もちろん、地図もちゃんとある。それを読み解けばスムーズにアラームをバグらせたりできる。この感覚は、仮想現実にいるのと相違ない。
あっという間に時間が過ぎていく。電光掲示板は「あと一時間」を切り、分刻みの表示に変わった。
男――彼女曰く、大間というらしい――はずっと駅のほうを見ている。誰かとの待ち合わせなんだろうな、ということがなんとなくわかるけど、それにしたって待ちぼうけをくらっている。かれこれ四時間はこのままだ。
同じように、何の気なしに駅のほうを見たぼくは、ありえないものを見た。
彼女がいた。
暖かそうな格好で、きょろきょろとあたりを見回している。待ち合わせだろうか? いや確かに大学生のようだったし、友達とお祭り感覚で来てもおかしくはない。 なぜそのことに思い至らなかったんだろう。
ぼくの目線の中で、大間が、静かに動いた。ジャケットに両手を突っこんで、彼女に近づく。彼の待ち人もまた、彼女だったのだ。
ぼくはなりふり構わず彼女のところにとんだ。一瞬で彼女の隣に立ち、その肩を叩く。
振り向いた彼女はさらに目を見開いた。
「――えっ。」
「今すぐ逃げて。あいつがいる。」
なんで、と戸惑った顔の彼女が言う。ぼくはやつがどこにいるか見ようと振り返る。
そのわき腹に、ぶすりとなにかが刺さった。
いや、実際刺さったのはぼくじゃない。ぼくを透りぬけた先。
彼女に肉薄した男とぼくが重なった。
「……あ。」
男が離れる。血の滴る生々しい音がして、彼女が石畳の道に倒れた。
石の間を編み目のように温かな液体が流れていく。
男は何食わぬ顔でナイフを抜くと、足元に落とした。喧騒の中に軽い音が響く。次の瞬間にはきびすを返し、人ごみの中に突入した。あっけにとられた人の間をすり抜け、雑踏に消える。
呆然と立ち尽くすぼくの近くで、やっと誰かの悲鳴が聞こえた。
別の喧騒に囲まれた駅前で、ぼくはその場に縫い留められたように動けなくなっていた。黙って彼女を見下すことしかできない。
彼女の周りから人が遠のく。彼女は微動だにしない。もう、息がないのかもしれない。
ややあって、近くの駅舎から駅員が駆けつけて、周りの人を遠ざけようとする。そのうち警察や救急隊も来るだろう。
遠くではカウントダウンが聞こえてきていた。
「十、九、八、七――、」
知るか、そんなこと。
ぼくは彼女に近づいた。青い顔をした彼女は、ろう人形のように生気がない。
名前を呼ぼうとして、そもそもそんなの知らないことに気がつく。
どん、と爆発するような音がした。
にわかに空が明るくなる。あたりにいた全員の視線が上を向く。
季節外れの大輪の花が、暗い夜空に咲いている。月すらない夜だ。それ単体ならとてもきれいだったろう。
けれど、彼女の近くにいる人たちが、魂が抜けたように上を見上げるさまは少し不気味だった。
「――ゆいな?」
ふと、目線を戻す。彼女に駆け寄ってきた女性が、動かない体をゆらゆら揺らしている。
ぼくら以外、彼女のことなんて見ていなかった。駅からやってきた駅員と、そのへんで人混みを誘導していた警察官が駆け寄ってくるのと、彼女の知り合いらしき女性が自分のマフラーで止血を試みているの以外、まるで何も見ていなかったみたいに熱狂が戻っていく。
近くで人が刺されたのに。
ぼくは怒りか、衝動かわからないままに、男が去って行ったほうに足を向けた。どうせ彼女の隣にいても呆然とつっ立っていることしかできないのだから。
あいつを締め上げたほうが早いのだ。
雑踏の中に引き留める声が聞えたかもしれない。
どちらにしろ、足を止める気はなかった。
男はナイフを落として行ったが、しっかり返り血は浴びていたようだ。赤い足跡がかろうじてあって、それを辿っていくと入り組んだ路地へと続いていた。
勢いのままに路地に入る。
そのとき、見覚えのある姿が視界をかすめた。
疾風のように駆けて行った影は曲がり角で一度立ち止まった。それからどちらに向けて言ったのか。咆哮するように声が響く。
「カノン!」
どこかで聞き覚えのある声だった。
足が、そちらを向く。
男を追いかけないと。それはわかっていたけれど、でも、今のは。
その名前が、声が、ぼくを彼らに引き寄せる。
人影が消えた方向へ走る。後ろ姿はすぐにとらえられた。路地裏の細い道で、すぐ向こうはフェンスになって開けている。
そのフェンスの向こうを見つめるその姿は、まぎれもなく「ぼく」だった。
「くっそ!」
荒々しい息遣いと、声。フェンスの向こうに見えるのは、電波塔。
ぼくは、生きている目の前の「ぼく」は、すぐにフェンス沿いの路地を進もうと角を曲がっていく。その勢いについていけなかった。
今のぼくと、まったく一緒の格好だった。ごつい靴によれよれの上着。息写しのようにそっくりな――。
はた、と気がつく。
本当にぼくが幽霊なのだとして、今の格好というのは、死んで幽体離脱でもしたのであれば。
そのとき、鈍い音が響いた。
「ぼく」が駆けていったほうだ。慌てて走って角を曲がる。建物の裏手は片側がフェンスで、建物の切れ目からまた別の路地がのびている。
おそるおそる近づけば、「ぼく」の頭からはおびただしい量の血が流れ、どうやら骨が陥没しているらしい、ということがわかった。
誰かに、殴られた?
急に、地縛霊のようにそこから動けなくなった。いや、ぼくを動かしてくれないのは土地じゃない。自分自身だ。足がすくんで、動かない。
今、わかった。死因は他殺だ。――いったい誰に?
太ももを拳で殴る。ちゃんと衝撃が響いて、衝撃が加えられた方向に動く。少しずつ感覚が戻ってきた。よろよろと一歩を踏み出すけれど、まだちゃんとは歩けない。
今、「ぼく」が殺された。――じゃあこの一週間、徘徊をしていたぼくはなんなんだ?
ああ、足がまた動かなくなった。
心なしか、視界が狭くなったように感じる。まるで貧血のような。今にも「死んでしまいそう」だ。
「……はは。」
なにを言ってるんだろう。
ぼくはさっき、目の前で殺されたじゃないか。
そのまま、自分に触れることなく意識が遠くなる。元の体と同じように地に伏して、どこからか漏れるまばゆい光を感じながら、ぼくは目を閉じた。
肉体を抜け出せるようになった人間は、たとえ体が死んだところで、精神、いや、魂は、別の理の下で生き続けることができるのだろうか?
もう、考えることすらできない。
視界は真っ暗になった。
「……ははは。」
今、体重計に乗ったら。ちゃんと二十一グラムと表示されるだろうか。
ちゃらんぽらんに見えたけど、どこかさみしそうな幽霊だった。
・
気がつくと、ぼくは、道路に立っていた。
あたりは暗い。時間はわからないが夜。日没直後の人通りではないから、もしかしたら真夜中かもしれない。少し離れたところにはちかちかと瞬く光源。きっと充電が足りなかったのだろう。
「……街灯。充電……真夜中。……人通り。」
自分の手を見下ろす。半分が薄汚れた袖口で隠れている。よく見ればそれは砂色のうすっぺらいコートで、ずっと着ているのかなにかのシミが広がり、今にも破けそうなほどヨレヨレになっている。
ぼくはデジャビュを見ている心地になった。なにもわからないと思っても、なにかを見た瞬間にそれがなにかをわかっている。記憶はあるけれど、記憶があることを忘れている。
一体ぼくは、ここに来る前なにをやっていた?
知識はあるのに、自分が何者かはついぞ思い出せない。そして気持ちがなにか急いている。
ぼくはやみくもに、コートに反して頑丈な靴をはいた足を動かした。
まずは明るいところでよく見てみよう――。
光に向かって一歩踏み出すと、次の瞬間には街灯の下にいた。
「……。」
ふり返る。さっきまでいた場所は暗闇に沈んでよく見えない。五十歩は離れていたはずだ。
呆けたように電灯を見上げていると、なにかの音が近づいてくるのがわかった。車? にしてはけたたましい。鉄と鉄をすり合わせるような。
やがて音は光を伴って大きく、大きく近づいてくる。
風と共に、すぐ脇の線路を電車が通った。長い。確か十両編成ぐらいだったか。暗くて気がつかなかったけれど、どうやら線路わきの道路に立っていたらしい。線路の反対側は、これもどこかで見たことのあるような生垣だ。
よれよれの上着が寒風に舞う。
電車が通っている……ということは、駅があるはずだ。
ぼくは駅に向かって歩くことにした。今度は自分の足でしっかり歩けた。
はるか先に見える明るい駅舎にぼくの脇を通りすぎた電車がすいこまれていく。これで三本目。駅の規模は線路が四つある程度の小さいもの。駅舎の入り口が見えたとたん、ぼくは駅舎の改札前に立っていた。
目的地をはっきりと見ると移動できるのだろうか。それとも意識すればとべるのだろうか。実験したいのは山々だが、また後でにしよう。
駅の名前は「御射山」。どこか聞き覚えがあった。駅単体での記憶はないから降りたことはないはずだ。券売機の上にある路線図を眺めていると、三つ先に見知った駅の名前を発見した。「東峰大学前」。――ぼくの通っていた大学の最寄り駅だ。
そう思ってから、笑ってしまった。どうやらぼくは、大学を卒業しているらしい。それなりの年齢というわけだ。いや、もしもとても優秀だったなら飛び級を続けてニ十歳で卒業なのだから、むしろ子供なのか。
時計を見ると夜の十時過ぎで、終電までにはまだ時間がある。駅前を見回してもそれといった繁華街はなくて、ただただ住宅地が広がっているだけだ。もしかしたら同じ大学の人が下宿していたかもしれないが、交友関係なんてわからない。
ああもう、わからないことだらけだ。
せめて日にちが知りたかった。でも残念ながらそれとわかるものもない。きょろきょろとあたりを見回しているぼくが不審者に見えたのか、女子大生っぽい女の子と目が合った。
その顔がすっと青ざめて、目をそらされる。
……なにかあったのか?
振り向いてもそこには駅があるだけ。その先は暗い住宅街の景色。
単に具合でも悪くなったか。
振り向いたら、もう女の子はいなかった。
なんだったんだろう。
ぼくはふと気がついて、駅員のいる改札脇の案内所に近づいた。こういう窓口にはたいてい日にちがわかるものが置いてあるものだ。
自動ドアはぼくに反応しなかった。
……壊れてる? まさか。
そのとき改札でべーっと音がした。見ればおじさんが改札に引っかかっている。定期券でも切らしていたんだろうか。
おじさんがふらふらとした足取りでぼくのほうに近づいてきた。ぼくは自分の感づきを証明するため、そのままそこに立っていた。
おじさんが近づいてくる。
そしてそのまま、ぼくに気がつかないまま、ぼくの体を通りぬけた。
……うすうす、感づいていたんだ。
ああそうかという納得と、どうしたもんかなという困惑。
不可解な移動。無くした記憶。そのくせ無くしていない知識。
なにかがあったことは確実だ。
けれど。そんなこと、ありえない。
自動ドアが閉まる。光が反射して、ぼくの姿が見えた。
よれよれのコートを着た男。まだ二十代前半。背は低くて、自分で言うのもなんだけど、童顔だ。中学生に間違えられても文句は言えない。
そしてその足は、お決まりのようにうっすらと空気に溶けこんでいた。
おかしいな。ぼくからは頑丈な靴が見えているのに。
確かにそう思って見下ろす。……そうだ。見えていたのに。今は、足元にスモークでも焚いてるかのようにぼんやりとした光景になっている。
見えるものが確実とは限らないのか。
ぼくは自動ドアが開くのを待たずにおじさんに続いて案内所に入る。自動ドアは開かず、駅員もおじさんもぼくに気がつかない。
窓口の万年カレンダーをひょいと見れば、今日の日付は「二〇七〇年二月八日」だった。
どうしてが止まらない。
どうしてみんなぼくに気がつかない?
どうしてぼくはここにいる?
どうしてぼくはこうなった?
どうしてぼくは思い出せないことがある?
どうしてぼくはここにいる?
どうして彼女だけは、ぼくが見えたんだ?
駅を出た。喧騒とは程遠い、駅前のロータリーが闇に沈んでいる。
大学に行ってみようと思った。見覚えのある場所に行けばなにか思い出せるんじゃないかという安直な考えで。足を止めてしまえば不安に飲みこまれるという、直感で。
でも、いいじゃないか。
気持ちは何かに急いているけど、だからって急いでもなんにもならない。心だけは悟りを開いたように凪いでいる。なんだろう。自分自身が二つに分裂したみたいに、複数の思考が同時存在している。
でも、さて、困った。どっちに行けば大学にたどり着けるのか、まだ思い出せない。
あたりを見回すと、先ほどの女の子が道を歩いているのを発見した。
よし、あの子に聞こう。
彼女の後ろ姿に向かって跳躍。すぐ後ろに近づいてから、あ、これ不審者だわと思って前にまわりこんだ。
でも、知らない人に突然後ろから声をかけられるのと、知らない人に突然前から声をかけられるのってどっちが怖いんだろう。
目の前で靴音が止まる。案の定、街灯の下の彼女は真っ青な顔をしていた。
ショートカットの髪。しっかり着込んだコート。きっちり巻いたマフラー。コートからのびる細い脚には黒いタイツ。かわいらしい女の子が、目の前でプルプル震えている。
寒いのかな。引き留めて悪かったかな。
「あのう。」
とりあえず安心させないと。
「あの、ぼくの事、見えてますか。」
「……はっ?」
涙交じりの声がした。
……泣くほど怖かっただろうか。もうしわけない。
でも、良かった。とりあえずぼくの言葉は通じるようだった。
「あの。東峰大学って、どっちのほうですか。」
震えが収まらないのか、肩が小刻みに動いている。
コートでよくわからないけれど、足の細さからして全体的に華奢なんじゃないだろうか。早く家に帰って温まった方がいい。じゃないと彼女にとってもぼくにとってもただただ寒いだけの時間が過ぎ去ることになる。
寒さで回らないのか、彼女の声はひどく小さくて、不明瞭だった。
「……あ、あっちです。」
すっと進行方向を指さす女の子。そちらを見ると定期的に街灯があるだけで、あとは先ほどと同じような線路わきの道路が続いてる。
「そっか。ありがとう。」
これ以上引き留めても悪い。ぼくは早々に身をひるがえすと、彼女の指した方向へと足を向けた。今度は一歩ずつ歩いている。線路沿いをいけば、そのうち目的の最寄り駅に着くだろう。
ちらりと振り向くと、女の子はもういなくなっていた。こんなに暗いのにどこかの路地にでも入ったのだろうか。不用心な。でも、早く家まで帰り着けるといいな。
ぼくは薄暗い道を歩く。
そうだ。今のうちに試しておこう。いちおう目を閉じてから、頭の中に大学の姿を思い描いた。
駅からの道のり、校舎の形。友人たち。
「……。」
何一つ、思い出せない。
霧がかかってるなんてもんじゃない。白い画用紙に架空の街を想像するていどの無茶な気配がする。
そもそもぼくはなにを思い出そうとしたのだろう。目を開ければ、そこは前と同じく淋しい道路の上。
どうやらうすぼんやり憶えているくらいでは、目的の場所までとぶことはできないようだ。だとすると、一度しっかりと見てしまえば、どんなに離れていてもとべるのだろうか?
ぼくは無意識に、コートの中に着ていたシャツの胸ポケットへと手をのばした。自然にペンと小さなメモ帳を取り出してから、実物を見て笑ってしまう。たしかにこれらはぼくの愛用の品なのだろう。
メモ帳にはなにか文字が書いてあったが、ミミズが這いずったような跡にも見えた。もしかしたらこれは頭にもやがかかった景色で、ほんとうはしっかり何かが書いてあるのかもしれないけれど、今のぼくには読めない。
そう、その客観的事実だけが、今のぼくにとってほんとうのこと。
「暗いから読めないな……。」
とにかく、そういうことにしておこう。
ぼくは何の気なしに白いページを開き、万年筆のような形状のペンで「二〇七〇年二月七日夜十時。迷子。大学を目指す」と書きつけて、 大人しく、出したものをコートのポケットに、大事にしまう。いつかちゃんと、すべてが読めるときがくると信じて。
一時間ほどのんびり歩いて行くと、見慣れた駅が見えてきた。その駅を知っているということを思い出せたことにほっとした。
人はまばら。そりゃあそうだろう。もう終電の時間は過ぎている。
このあたりは見るからに、企業の入るビルなどが乱立しているオフィス街。夜の人口は極端に減る。さっきの駅とあまり離れていないのにえらい違いだ。
闇に沈むビルはどれも輪郭がぼやけていた。ぼくの足と同じ、というわけではない。街灯のかすかな光が、生い茂る樹木を黒く照らしている。
ありとあらゆるビルが、蔓や細い幹に覆われていた。もちろん朽ちるような雰囲気はなく、きっちりと管理された壁面緑化の結果で、窓や入り口はしっかり光を取り込めるように空いている。
計算された伸び方で。ただし、自然に見えるように。
駅前通りを歩いていると、既視感をひしひしと感じる。今のぼくにとっては初めて歩く道のはずなんだけどな。
ふと、ぼくはあるビルの前で足を止めた。知っているビルだ。まったく思い出せなかったことのはずなのに、その事実が真実であると根拠もなく理解してしまう。
ぼくはこのビルに入っている会社に勤めていたことがある。
ゼミの教授からの推薦で入った会社だった。仕事はデータの解析が主で、大学でやっていた研究の延長のようなもの。
大学院に行くよりも、専門の機関に所属したほうがいい。確か教授にそんなことを言われたような気がする。ぼくの研究は学術的に見るとそこまで重要視されていなかったから。
そこまでのことを思い出せるのに、教授の顔も、学部も、研究の内容もさっぱり思い出せない。
試しにビルの中に入ってみた。自動ドアをするりと透り抜ける。
電気はすべて消えている。試しにエレベーターのボタンを押してみたら動いた。
ぽん、と音がして明るい光がこぼれる。
エレベーターの中に入ると、慣れた動作で五階のボタンを押していた。
会社のことで思い出したのは、ぼくの他に研究員が五人、事務員が二人いたってことだけ。顔なんてもってのほか。
記憶に残るような思い出はなにもない。
エレベーターが五階に止まる。
暗い廊下は非常灯の緑色の光の中にうすぼんやりと浮かんでいる。すぐ目の前にはドアが二つ。
一つは事務所への扉。もう一つがぼくらの研究室への扉。
ぼくは研究室への扉を透りぬける。
中にはブースに区切られた四つのスペースがある。
……四つ?
一番奥、ぼくの机があるところへ向かう。しかしそこにぼくの机はなかった。置いてあったはずのパソコンや紙の資料、大学の研究室からそのまま移してきた鉢植えたちも、なにもない。
部屋を間違えたのだろうか。いや、そんなはずはない。他のブースは物の動きはあるものの記憶の中と配置は変わっていない。
どういうことだ? ぼくは、もうここにいないのか?
そこでぼくははっと気がつく。今さっきぼくは、このビルを見てなにを思い出したのか。「勤めていたこと」だ。
ぼくはもうこの会社にいない。そのことを確信したのに、じゃあ今のぼくがどこにいるのかは全く思い出せなかった。
「……いや。今はどこにもいないのか。」
ぼくは自嘲気味に自分の足を見下した。
うん。視えない。
こうなった以上、もう社会のどこにも所属しているわけがない。
しかし面白いもんだ。まったく根拠がないのに、思い出した記憶に関してはそれが記憶違いや妄想の類ではないと謎の自信がある。一体この自信はどこから来るんだろう?
その時、外で音がした。
非常階段のほうから光がゆらゆらと近づいてきて、研究室の前にやって来る。どうやら光源を持った人のようだ。がちゃがちゃと音がして、扉の鍵が開けられた気配。
ぼくは隣の机の下にすべりこんだ。
扉が開いた。
かつ、かつと慎重に歩く音。ふらふらと光が揺れる。懐中電灯だろうか。
光の後に男の足が見えた。ぼくのほうを照らすが、「おかしいなあ。」と呟いてそのまま去ってしまう。
どうやら警備員だったようだ。
なんだったんだろう。まあ、いいか。ぼくもさっさと外に出ることにした。
エレベーターの前まで来た。警備員は帰りも階段を使ったようでエレベーターは五階にいるままだ。他に使う人もいないから当たり前か。
ぼくは「あ。」と声を上げる。
ぼくは今、特定の人にしか見えないようになっているようだ。つまり見えない人からしたら、エレベーターがひとりでに動いたように見えたのではなかろうか。警備員だったら監視カメラくらい見ているだろう。
ひやひやしていたのはぼくばかりではない、ということだ。
案外、世の人々が遭遇する心霊現象というのは、こうやって発生するのかもしれない。……や、まだぼくが幽霊になったという確証もないのだが、
静かに階段に足を向ける。これ以上警備員の仕事を増やすのはしのびなかった。
大学への興味はなくなっていた。先ほどいた駅を思い浮かべると、二歩先はもう駅の中だった。
時間は深夜をおおきくまわっていた。終電の終わった駅は電気が消えて不気味に闇に沈んでいる。
こういう光景を見たことがある気がした。自分の体験談、ではないはず。確かぼくはあの時座っていたような。なんだっけ。夜中の線路を歩く、昔の映画。
改札をすりぬけても、おじさんみたいにはひっかからない。
駅員も帰った後なのだろう。がらんとしたホームに人気はない。
なんのためらいもなく、線路に飛び降りた。
線路を歩く。方角が合っているなら最初に彼女と出会った駅へ帰ることができるはずだ。線路は映画のようにまっすぐ伸びているわけではなかった。枕木の上を選んで歩いているうちに、目の前を花びらのようなものが横切った。
「……雪か。」
残念ながら、温度は感じていない。雪が降るほどの凍てついた空気を、もうぼくは感じられないのだ。息をしているのかも定かではないが、白い息を吐けることもない。
元の駅に戻るころにはレールにうっすらと雪が積もっていた。住宅地は点々とある街灯以外闇に包まれているが、白い雪のおかげで明るさが増している。
これは明日の朝、雪かきする程度に積もるかもしれないな、と思いながらひらひらと舞う雪を目で追った。
時間の流れは一定だ。
ただし、その中で生活する人の感覚は、時間を常に一定にとらえることはできない。
楽しい時間は早く過ぎる。つらい時間は間延びしている。
すべてに感情がつきまとうがために、人は正確に、均等に、時間を見ることができない。
それはもちろん、ぼくのような存在にも言える。むしろ顕著に現れていると言ってもいい。人がベッドの中で目を閉じた次の瞬間朝になったと錯覚するように、ぼくは気がついたら昼間の駅にいた。
昨日来た時よりも人が多い。当たり前か、今は昼間だ。
記憶が正しければ、こうやってほっつき歩くようになって三日目になる。見るという技術を習得したから、今のところ日付は把握できている。
昨日は今の自分になにができるのか、ひたすらに実験していた。結果から言えば一度行った場所への瞬間移動、空中遊泳、そして機械への干渉ができると判明した。
たとえば一人ひとつは持っている手のひらに乗るくらいの情報端末(世間的には情端と略されているが、そこまでして名称を短くする意味がわからない)に半ば指を突っこむように触れると、中の情報をいじったり、ネットで検索ができたりと意外と便利だった。
検索だけなら履歴を見ないと解らないから、情端を持っている人にも気づかれない。
それに今のところ、ぼくのことを認識できるのは初日に出会った彼女だけだった。
彼女とは、あれ以降顔を合わせていない。もしかしたらぼくを警戒して駅を避けているのかもしれない。
それともただ単に、タイミングが合わないだけだろうか。
まあ、考えていたらその人が来たなんてよくある話は、ぼくのおじいちゃんが若かった頃からあまり変わらなかっただろう。
見覚えのある後ろ姿を見つけて、すっとそっちにとぶ。
最初のころは思った場所にひと動作でとんでしまっていたが、それは自分の感覚が乱れるからやめた。今はちゃんとない足で地面を蹴って跳躍している。
なお、意識的にそんなことをして変わるのは自分の感覚だけで、ぼくが瞬間移動のようにおかしな移動をしていることには変わりない。
と、いつもならすぐに彼女の後ろに立っているのだが、今日は途中でぴたりと止まった。宙に浮いている足を地面につけて、誰にも見られていないのに物陰に隠れる。
彼女は、男に手を引かれていた。
なんだ、彼氏か? デートか?
それなら邪魔しちゃいけないだろうと距離を置いて眺めていたら、人気がなくなったところで彼女が男の手を振りほどいた。それから、なにか言う声。怒鳴るほどではないものの、語気は強い。
なにかあったのだろうか。
彼女たちのいる道の物陰にとぶと、その会話がつぶさに聞こえた。
「もう会わないって言ったよね。」
「……ああ。」
「どうして来たの。」
「だって、意味わかんねえもん。突然あんなふうに言われたってわかんねえって。」
彼氏は彼女の手をとろうとする。彼女は一歩下がって相手をにらみつけた。
「これ以上近づいたら、通報するから。」
……なんだかきな臭くなってきた。
男のほうはむっとした顔で彼女にせまる。
「なんでだよ。」
「……本当にわかってないの?」
「なにが。」
ぼくは彼女の声が震えているのに気がついた。
最初、男に怒っているから震えているのかと思った。けれど違う。その震えはぼくの時と同じもの。かなしいけど、ぼくも彼女に同じような感情を植え付けたことになる。
それは、怯えとか、恐れとか。もっと簡単に言うと怖いって感情だ。
「同じ講義に必ずいたり。」
「それは授業が一緒だから。」
「学科が違うのに? なんでゼミの時間までいるの。」
「それは、外を歩いていたら君が見えたから。」
「駅で待ち伏せしてたのも? 勝手に家に入ろうとしたのも、偶然だっていうの?」
「夜一人で歩くのは危険だと思ったんだよ。」
男はいらだったように体を揺らしている。
……おいおいおい。ぼくの聞く限り、そいつは――。
「そういうの、ストーカーっていうのよ。」
彼女の言葉に激しく同意する。
ついでに男に向かって「お前さっさと帰れよ。」と念を送ってみたけど、当の本人はなぜか顔を真っ赤にしていた。残念、こういう効果は望めないようだ。
「……んだよ、なんなんだよ。」
ぶつぶつと声が聞えた、と思ったら、突然男は彼女をなぐった。
どん、と鈍い音がした。彼女はお腹を押さえてその場に座りこんだ。
「俺が心配してやってるのに。なんでそんなこと言うんだよ。俺を全否定して面白いかよ、え?」
赤を通り越してどす黒くなっていく男の顔に、ぼくはさすがに彼女たちに近づいた。男の後ろに立つと、そいつが興奮しているのがはたから見ても伝わってきた。
道路に膝をつきながらも男をにらみ返した彼女と目が合う。気を張ってぎらぎらとしていた目が、ぼくをとらえて離さなくなった。
傍観する気はなかった。困っている人は助けなくてはいけない。
謎の強迫観念に押されて、ぼくの体は動いている。
男がなにかやる前に、ぼくは男のふくらんだズボンのポケットに触れた。案の定中には折りたたまれた情端が入っていた。
指を差し入れて、中を探る。プロフィールを覚えてから適当にアラームをバグらせた。
けたたましいベルの音。男はびくりと体を震わせて情端を取り出した。開いて画面をタップするけど、止まらない。
あと五十回くらい押せば止まるよ。がんばれ。
彼女にもわかるように、男に向かってあっかんベーと舌を出す。
焦る男をじっとりとした目で見ていた彼女は、さっと立ち上がった。「じゃあね。」と淡白に言って、男に背を向ける。
「あっ、おい、待て!」
アラーム男は彼女を追いかけようとする。ところがその時にはもう、男の大声に何事かとやってきた人々が男をがっつり見ていた。男はすぐに無数の目線にたじろいだ。その間に彼女はさっさと人ごみに消えている。
ぼくは彼女の姿を目で追った。駅前のロータリーをぐるりとまわりこむ彼女を見つけて、すぐそばにとぶ。
一気にアラームの音が遠のいた。
隣に降り立つと、彼女はちらりとこちらを見た。ぼくは気づかないふりをして、口笛なんて吹いてみる。その間にも、何人もの人がぼくの体をすり抜けた。
「……。」
無言のまま、彼女はまっすぐ前を向いて速足で歩く。
ぼくはその後を、のんきについていった。
いつの間にか、アラームの音は聞こえなくなっていた
彼女は少し遠回りをしながら、住宅地にたたずむマンションへと向かった。ぼくはやつが追いかけて来ていないか注意深く周りを見ていて、そんなぼくを、彼女がマンションのエントランスからしばらく見えていた。
十分ほど周りを見たが、人影が近づいてこなかった。ぼくは彼女に向かって、手を振った。
それをしっかりと見た彼女は、ふ、と小さく息を吐いたのだろうか。若干肩が上下して、口元が動く。
「ありがとう。」
そんな言葉がつぶやかれた気がした。
ぼくはマンションの奥へと消えていく彼女を見て満足して、きびすを返した。
四日目の夜、ぼくは空中を足場にして空に登るという秘儀を編み出した。
この状態は、突き詰めればなんでもありなのかもしれない。
階段を昇るように足を出せばその足元には「なにか」がある。なにかを踏んだ足を軸にしてもう一方の足を踏み出すと、その足もまたなにかを踏む。
なにかの連続で、どんどん高度があがっていく。
ぼくらの街の空はどんよりと曇っていて、星など見えない。
けれどぼくは確実に空に近づいた。それだけでじゅうぶん楽しかった。
もっともこれは客観的に見れば無い足で存在しない階段を登っているわけで、挙動不審の幽霊として名を馳せるにはちょうどいい奇行だ。幽霊万歳。
ここまで状況が変わらないと、もう諦めが思考のほとんどを占めた。
ぼくは、幽霊になって、この見知った街を、あてどなく、たまに記憶を思い出しながら、彷徨うしかないのだと。この状況は、もう「そういうもの」なのだと。
やがてこの町で一番高い電波塔ですら足元に見るようになって、ぴたりと歩みを止めた。
ここから「踏み外す」と、どうなるんだろう。
ひやりと、ない体が冷えたような気がした。
おそるおそる一歩進む。
ぼくの心理を反映したように、そこから先は下りになっていた。
緩い弧を描きながら下る。最初に登り始めたところから若干ずれたところまで戻ってきたところで、だんだん空が晴れてきたことに気がつく。
昔の都会では、夜に星が見えなかったらしい。そもそも夜空を見上げる人も少なかったのだと。星を求めて田舎へ移住する人もいたらしい。
おじいちゃんの昔話は、寝る前のお楽しみだった。
かつては「平等」がトレンドだったのだという。けれど天災というのは全国の人にいっせいに襲い掛かることはない。そんななかで、国民の半分が被災するような大地震があった。
それに乗じて、政府は「全国復興」の言葉と共に平等な土地開発に着手した。持ち主のいない土地を移住者に提供したり、電波環境を整えたり。都市部に溜まっていた人々を分散させるために、全国に同じような中小都市が作られた。気候や文化の差はそのままに、人が生活する基盤についてはみんながみんな、同じものを持つようになった。
過疎化や都市部への一極集中なんてものは、ぼくの生まれる前に強制的に解消されていた。
そうしてみんなしあわせになりました。めでたしめでたし。
「おじいちゃんはそれで幸せになったの。」
そのとき、ぼくはそんなことを聞いたような気がする。
返事は、忘れてしまった。
おじいちゃんの思い出話を思い出すたびに、ぼくは悲しい気持ちになる。
ぼくの大好きなおじいちゃんがもうこの世にいないことも。そして、おじいちゃん以外の家族の記憶がないことも、嫌というほどわかってしまうから。
そんなふうに星空を見上げて黄昏ていると、隣のマンションからちょうど住人が出てきて、どうやらぼくと同じように空を見上げているようだ。
その横顔に、ぼくはおもわず近づく。なんだか彼女に見える。
着地したどこかのビルの上から、クリア素材の柵を透りぬけ、中空を歩く。まっすぐ近づいていくと、ざっくりと編んだ彼女のカーディガンまではっきり見えてきた。
ぼくはそのまま近づいていって、彼女の前に立つ。
上を見ていた目がぱっと降りて、ぼくを見た。
彼女の顔が青くなる。
「どうも。いい夜だね。」
彼女は注意深くぼくを見つめて、現実逃避でもするように晴れ間の多くなってきた夜空に視線を戻した。つられて見上げれば新月の穏やかな空にはまばゆい星がきらきらと輝いている。
しばらく後、彼女は動かないぼくにしびれをきらしたのか、視線を戻し、ぼくに向かって静かに頷いた。
「少し話をしていってもいい?」
「……ベランダならいいよ。」
「ありがとう。」
ぼくはいそいそと、ベランダの柵を透りぬける。
ベランダの柵にもたれたぼくの後ろで、たぶん胡散臭そうな目で、彼女が座っている。お尻は部屋のフローリングの上で、開け放った窓から足だけ出して。
彼女は防寒対策をしっかりしたうえで出てきている。
ぼくはちらりと開け放たれた窓をふり返る。
部屋の中は一般的な一人暮らしの部屋。家具は大きなベッドと机くらい。天井に部屋全体を照らせる映写装置がついていたからテレビは壁に映すやつだろうし、窓は温度やリモコン操作によってガラスの色が変わるもの。
機能的でシンプルな、今の流行そのままだ。
彼女はぼくの扱いに困っているのか、元からなのか、常に静かだった。
そのかわり、ぼくを無視することはない。無視っていうのは、いると解っているのにいないように扱うようなことだ。
いちおう、助けてくれたことも考慮して不審人物と見ないでいてくれているのだろうけど。
「幽霊なの。」
彼女の声に振り向く。彼女は手に情端を持っているけれど、その画面はスクロールされるばかりのウェブサイト。なにか触ってないと気まずかったんだろう。
疲れなんて感じていなかったけど、その場にずるずると座りこんで、彼女と目線を合わせた。
「そう見える?」
「……足、ないし。」
まあ、そうだよなあ。
「うん。ちゃんと死んでる……んだと思う。」
ぴくり、と彼女の肩が震えた。
「でも、名前も、死ぬ前のことも、思い出せないんだよね。」
「……そう、なの。」
「せめて死因くらい覚えていてほしかったなあ。……基本的な一般常識は憶えてるくせにね。気がついたら線路わきの道に立ってた。」
あの時のことを思い出したのだろう。彼女がふっと顔を上げて、ぼくの目を見る。
紅茶色に澄んだ目。
彼女はことりと首を傾げた。
「死因?」
気になったのはそこか。
そもそも、幽霊自体怖くないのだろうか。彼女はなんというか、幽霊という存在自体は肯定しているように思える。もしかしたら、元々見えていたのかもしれない。
「だって、どうやって死んだのかって、幽霊にとって一番重要なアイデンティティになるじゃないか。地縛霊ならその土地にゆえんがあるし、身体的特徴があれば自殺か他殺かわかるだろう?」
たとえ何も覚えていなくても。死因がわかれば、自分が何をして生きていたのか、わかるのに。
ぼくは何の外傷もなしで、浮遊霊だからどこにでも行ける。
この土地にも、人にも、もう縁はない。
ぼくはない体を震わせた。寒さからくる震えじゃない。そもそも温度なんて、ぼくにはもう関係ない。この感覚は、ぼくの存在自体の震えだろう。
ぼくを見て、なにを思ったのか。彼女は小さな声で空気を震わせる。
「……不安なの。」
彼女の吐く息は白かった。
夜の闇に溶ける色を追いかけて、ぼくもああ、と息を吐く。
ぼくの息は、透明だった。
「そうかもしれないね。」
それっきり、なにも言葉は生まれなかった。なんの音もない、会話もない。ただただ時間だけが過ぎる。けれどそれが、心苦しいことはなかった。
でも、このままでいいのはぼくだけだ。寒さに震える彼女は、そろそろ窓を閉めて部屋を暖かくしなくちゃいけない。もう夜も遅い。夜更かしは体に毒だ。ぼくは静かに、彼女に問いかけた。
「また来ていい?」
彼女はどこか寂しそうな顔をして、ぼくからふい、と視線をそらした。返事はない。
ぼくは肩をすくめて、すっと立ち上がる。ベランダの柵を飛び越えたとき、後ろから音がした。
「…………好きにすれば。」
立ち上がった彼女が、部屋に入る。自動的に明かりがついて、空調の動く音がする。
小さな声は、小動物のようなはかなさを湛えていた。
ぼくの死因はなんだったのだろう。
彼女の元を去ってから、自分がそのことを考えないようにしていたことに気づく。
今思い出せるのは、小さい頃のこと。
ぼくの家族はおじいちゃんしかいなかった。両親の記憶はない。おじいちゃんは小さいぼくをかわいがってくれたし、ぼくもいろんな話をしてくれるおじいちゃんが好きだった。
でも、それ以外のこと、学校のことだったり、おじいちゃんがいついなくなったのかは思い出せなかった。
その後記憶にあるのは、研究室のこと。
大学でぼくの担当だった教授はおじいちゃんに似た人で。ぼくはその人に出会ったことで母校への進学を決めたし、卒業後の職場を決めた。
だけど、それらは直接ぼくの死因とは関係なくて、ぼくという人間を語るにも情報が少なすぎた。
だから次の日、もう一度大学へ行ってみることにした。前は結局行かなかったから、この姿になって初めて行くようなものだけれど。行ってもほとんど意味はないだろうな、とは思う。
学生は毎年入れ替わっていくのだ。よほど行動的でない限り、痕跡を残すことは難しい。そしてぼくには、自分が活発だったという記憶がない。
実際敷地に入ってみても、かろうじて覚えていたのは研究室の位置くらいだった。迷わずに行けたことを褒めてほしい。
昼間の大学では生徒たちが自由気ままに過ごしている。芝生に寝ころんでいるやつもいれば教室で居眠りしているやつも。そういう人に限って目につくのはぼくも同じようなことをしていたからだろうか。
生徒の年齢層は十代半ばから二十代前半まで。
ぼくは現行の教育体系を思い出す。
義務教育は初等学校と高等学校に分かれていて、それぞれ六年間。そのうち優秀な生徒は五年で卒業ができて、それとは別に一度だけ飛び級試験が受けられる。
入学が六歳だから、もしも飛び級を二回していてどちらも五年で卒業できていたら、大学入学は十五歳ごろになる。
ぼくはこの制度が好きだ。――好きだった、と思う。努力すればそれだけ早く、自分の人生で自由にできる時間が増える。確かぼくも、早めに大学に入学している。
飛び級試験も割と簡単だった記憶がある。今思い出した。
ぼくの所属していた研究室は変わりなかった。清潔さは守られているものの雑然としている室内。今も白衣の学生がうごめいている。
ぼくのテリトリーはとっくにほかの学生に奪われている。隅っこの窓際で、教授の部屋に近い。
窓際にはまだ教授の大切にしている盆栽が置いてあった。その隣の、なにも置かれていない台に目が行く。拭いても消えないのだろう。植木鉢のトレイが置かれていた跡が残っている。
そこに軽く触れた。別に意味はなかったのに、とたん、ぴりっと静電気のようなものが走る。
『――トーノさん。またそんなところで――。』
脳裏を白い花びらと、陽の光がかすめる。
そうだ。ここに置いてあったのは、ぼくの研究していた月光草の鉢植えだ。
そして、彼女は――。
その時、教授の部屋の扉が開いた。
盆栽を整えようとしたのか、小さな背丈をきっちりスーツにおさめた教授が出てきてぴたりと止まる。ぼくの手のあるあたりをじっと見ているのが少し気まずい。
通りがかりの学生がそんな教授を不審に思ったのか、ぼくのかたわらまで近づいてくる。
「どうしたんですか、教授。」
「……いやね。なんだかふいに遠野君のことを思い出して。」
「遠野君って……遠野壇ですか?」
「知ってるのかい?」
「学年は違いましたけど、高等学校が一緒で。その……彼女が有名人だったから。名前だけは知っています。」
ぼくは学生のほうを振り向いた。まったく知らない顔の男だった。どうやら一方的に知られているだけのようだ。
教授は彼の言葉にほほ笑んだ。
「彼女っていうのは、もしかして保住くんのことかな。」
「そうです。花音先輩は、その……よくも悪くも目立っていたので。」
「変わらないねえ、彼女も。」
それから二人はそれ以上、この話をすることはなかった。教授は彼に研究の進捗を聞いて、聞かれたほうは気まずげに「ぼちぼちです。」と言って、そそくさと自分の席へと帰っていった。
ちゃんとやれよ、と後輩の背中を見ながら思う。
教授は盆栽に手を加え始めた。ぼくはすっかり丸まってしまったその背中を見つめる。
トオノダンと、ホズミカノン。
その名前を聞いても、いまいちピンとこない。ただ、植木鉢のあったところに触れたとき、彼女は確かにトーノと口にしていた。
ぼくは、彼女を知っているような気がする。
あれは陽の光なんかじゃない。彼女の色素の薄い髪の色。そこまで思い出すと切りそろえられたショートカットまで鮮明に浮かんでくるが、残念ながら顔はまだぼんやりとしていた。
「……彼らは今、どうしているのかな。」
教授のちいさなつぶやき。
まさか後ろに立っていますとは言えなかった。
いつの間にか盆栽の手入れを終えたのか、教授が部屋へ帰っていく。開かれた扉の先に無数の写真立てを見つけたぼくは、その後ろにくっついて部屋に忍びこんだ。
教授は写真好きで、電子アルバムではなくちゃんと紙に印刷して部屋に飾っていたのを思い出す。ぼくの写真もあるはずだ。
書類仕事を始めた教授の後ろで、一枚一枚写真を見ていく。するとかなり端のほうに置かれた写真が目に入った。
二十人ほどの人間が写っている写真だった。私服だろうか、思い思いの格好をした学生らしき集団の真ん中に先生が写っている。
一番右端に、彼らはいた。
二人だけはなぜか白衣姿だった。白金の髪をのばした背の高い女は笑顔で隣に立つ人物を見下ろしていて、その隣に立つ背の低い男は、彼女でもカメラでもなく、あらぬ方向を向いている。なんなら動いてしまったのか顔もぶれている。
ぶれていてもわかる。悲しいかな、この背の小ささは紛れもなくぼくだ。とすると隣の女性がホズミカノンだろう。
ホズミカノンは外国の血が入っていると一目でわかる容姿だった。確かにこれでは悪目立ちするだろう。対してぼくは白衣を脱いでしまえばこの学生の中に紛れこめる一般的な感じ。
どうしてこの二人がコンビみたいに写っているのか。当事者にもかかわらず、そのあたりの記憶は曖昧だった。ぼくは何度も写真を見ては首を傾げた。
どこからか、ざわめきが聞こえるような気がする。ひそひそ話すような。
町の喧騒はあまり届かない高さだと思うけど。もしかしたら草の揺れる音だったかもしれない。
ビルの屋上。高く伸びたススキの間から顔を出し、クリアな素材の柵にもたれる。
傍らを見れば、ススキより下、地面を這うように白い花が咲いていた。蔓の先に花をつける植物。見慣れた花だった。
この新種の植物はおよそ五十年前に発見された。都市部に多く分布し、夜に咲く。学術的に一番重要視された特徴は、この花が夜の間自ら発光する事だった。その姿は「月の光を反射するよう」とよく言われる。けれどその表現に反して、月のない暗闇にこそ輝きを増す。ちょうど月の満ち欠けと逆になるよう仕組まれたみたいに。
誰が呼んだか「月光草」。
新月の夜、その花弁はまるで満月の光を一心に浴びているよう光り輝き、不気味な美しさは人を寄せつける。
創作の対象として取り上げられることも多いが、未だになぜこの花が光るのか、なぜ五十年前突然都市部に自生し始めたのか。原因はわかっていないし、研究も進んでいない。学術的価値が高い植物とはすなわち「緑化発電を効率よく行える植物」だから。
ビルの屋上の緑地には月光草が蔓延っていた。もう少し間引かないと他の植物がだめになってしまいそうだ。どうにか管理元に伝えたいところだが、手段としては誰かの情端を借りてメッセージフォームに投稿、とか? 誰が情端を貸してくれるっていうんだ。
自虐的に考えてもらちが明かない。
前回来た時はまったく目に留まらなかったけれど、自分の事を思い出したとたん、嫌でも目に付くようになった。面白いもんだ。
ニヤニヤとビルの屋上を徘徊していると、近くから視線を感じた。
――いや、今、ベランダの柵に頬杖をついた彼女と目が合った。
そう、ここはストーカー被害に遭っていたあの子の家の隣のビルの上。すなわち前回空中散歩の後にたどり着いた場所だ。
彼女のショートカットの髪が夜風に揺れるのが見えた。添えられた手は柔らかなほっぺたをゆがませている。今日は部屋着の上にコートを引っかけていた。
ぼくは、無意識にその姿に、一歩踏み出す。
宙を歩いて彼女の元へ行く。綱渡りのように一本の線をイメージして。
肩の延長に手をのばすとあたかもバランスをとっているかのように体を揺らした。彼女が頬杖を解いて、ぼくをじっと見つめる。
面白くなったぼくはぐらり、と体を反らせた。
身を乗り出す彼女。
ない足場を蹴って一回転する。ぴたりと元のあたりに戻ると、彼女がほっと胸をなでおろしているのが見えた。
これ以上ふざけると口を聞いてもらえなくなりそうだ。まっすぐ歩いて、ベランダの柵に手をかけた。
「こんばんは。」
「こんばんは。……大丈夫?」
彼女の気遣いがもうしわけない。
ベランダの柵を透りぬける。彼女の隣に立つと「この通り。」とおどけてみせた。
珍しいことに、彼女はちょっぴり口元をゆるめた。
「何かいいことでもあったの。」
いっしゅん表情が固まってから、彼女は昨日と同じように開いた窓のところに座りこんだ。それからお尻のポケットに入れていたのが痛かったのか、情端を取り出す。
「大間のこと……この間のこと、警察に言ってきた。だからたぶん、もう、大丈夫。」
聞いたことない名前だ。でも察するにこの間のアラーム男のことだろう。
「そっか。」
「うん。」
「でも、捕まったとかそういうことじゃないでしょ。」
「……うん。厳重注意止まり。」
「またなにかあったら声かけてよ。とうぶんこの辺うろうろしてるから。」
彼女の目が、不安そうにぼくを見た。
「……できれば、頼りたくない。」
「そっか。」
肩をすくめて、笑ってみせた。
もうあの男と関わりあいになりたくない、ということか。それとも、もうぼくとは会いたくない、ということか。
ぼくの言葉にはなにも、確実なことはない。頼られたとしても明日には存在が消えているかもしれないし、次に目覚めたら百年後、なんてことだって可能性としてはあり得る。
ぼくも、頼られないほうがいいのかもしれない。でも、残念な気持ちは確かにどこかにあるのだ。
暗闇から頬を切るような風がくる。
彼女はその気がなくて気がついていないのか、それとも賢く両方の意味を含ませて言ったのか。ほとんど変わらない表情からはなにも読み取れない。
ぼくはなんとなく彼女を取り巻くベランダの植物を見た。ポトス、ブナの木、あとサボテンたち……は、室内にもいる。
ベランダに出る窓の他に、ベランダの柵外にもシャッター付きの外窓がついている。新植物保護法によってマンションのベランダは植物を育てるためのサンルームにすることが決まっているから、どこに行っても見る景色だ。安心感すら覚える。この植物たちに機具を取り付けることによって、部屋の中の電気を賄う。足りないぶんは屋上の植物か電力会社から電力が来る。
もう少しこのサンルームの植物が多ければ、育てている植物だけで温室が作れるんじゃないかな。
「月光草はないんだね。」
「あれ、育たない。やってみたけど。」
「そうなの?」
おかしいな。ぼくは普通に育ててたはずなんだけど。
彼女はすっと隣のビルを指さした。街の灯りとは少し違う自然の明るさがビルの屋上を照らしている。少し離れたところから見るとその異様さが際立った。
「嫌いなの?」
「向こうにあるから、いいの。」
なるほど。隣の芝は青くないわけだ。
「あそこの月光草、もう少し数を減らしたほうがいいんだ。あのままじゃ歩道や東屋まで覆われちゃう。」
「……東屋?」
きょとんとした瞳がぼくを見る。
「行ったことないの?」
「用事、ないし。」
そっか、そんなもんか。
ぼくはいたずら心を発揮して、彼女に「じゃあさ。」と手を差し出した。
「行ってみない?」
「は?」
本心からの拒絶だったろう。彼女の何も飾らない言葉がぼくに突き刺さる。
「はは。こんな怪しいやつとなんて行きたくないか。」
ぼくはそのまま、柵を乗り越えようとする。
「えっ、いや。そんなつもりは。」
彼女はそんなぼくに手をのばして、肩に食いこんだ手を見て細い声を上げた。やっぱり今までの発言は天然からくるものだったようだ。安心した。
戸惑っている間に、その手をつかむ。しっかりと、やわかな手の感触が伝わってきた。
「ああ、よかった。ふつうに触れた。」
しかし、女性の手を握るなんていつぶりだろう。少なくともぼくの(現時点での)記憶の中にはない。ホズミカノンとはどういう関係だったのかわからないけど、あまり甘い雰囲気は感じなかったし。
先っぽは冷たいけど、人の温かみを感じる。
実は、この提案はぼくにとって賭けだった。
今まで、ぼくはこの体で誰かに触れたことがない。情端をいじったときは機械にしか触れてなかった。ぼくが見えない人はもちろんぼくに触れない。唯一、希望を見出せそうなのが彼女だった。
ぼくが触ろうと思って触れば、少なくともぼくが見えている人には触れられる。
すっかりうれしくなって、彼女の両手をとった。まだ戸惑っている彼女の手を引いて、中空に躍り出る。
「ちょっと、まっ――。」
ちなみに彼女の部屋は五階の高さにある。
はるか下を見た彼女はそれっきり声にならない空気をパクパクさせた口から放出するしかなくなった。
ぼくは彼女を抱えるように、ベランダのふちを蹴る。
隣のビルは四階建てで、屋上までは少し下り坂といったところ。
おじいちゃんによると、昔は「電柱」というものがそこかしこにあったのだという。
電力を供給するための線が地上に敷設されていた時代の話だ。今は地階層に全自動管理道が迷路のように広がっているから、地上に露出していることは少ない。
もしも電柱とそれを繋ぐ線があったとしたら、その上を本当に綱渡りできたかもしれない。
けれど今の時代、建物の間にあるのは道路と街路樹くらいなものだ。
一息に隣のビルまでとぶと、彼女をそっと遊歩道に下ろした。腰から崩れ落ちるように、彼女は座りこむ。その手はぼくの手をしっかり握っている。
「怖かった?」
いたずらっぽく問いかけると、鋭い目に見返された。
「ね、ぼくにもいいことがあったんだよ。どうやらぼくは『トオノダン』って名前らしい。」
「……へえ。」
彼女の反応は薄かった。
「あと、友達かわからないけど、知り合いもいるっぽい。」
「その人、まだ生きてるんですか。」
冷たい彼女の声に、ぼくは言葉に詰まった。ぼくの様子に彼女もしまった、という表情をしている。
いろんなことに気を使わせて、本当に申し訳ない。ただ単に、その可能性は全然、考えていなかったから。
「……さあ、どうだろう。」
とぼけた返事をして、ぼくは月光草に目線をやった。
まだぼくは知り合いどころか、自分がどこで、どうして、どうやって死んだのかさえ知らない。
どこからか、ぼくをあざ笑うかのような葉擦れが聞こえている。彼女は、そんなぼくに何も言わず、ただ隣に座ってくれていた。
その日、街は浮かれていた。
二月十四日。
新しい電波塔の開業日。そして、新しい電波の開放日。
容量の大きくなった通信に対して適応されるもので、簡単に説明するニュースキャスターの言葉を借りると「通信容量が上がり、通信速度が安定する」、らしい。
ぼくにはそんなこと関係がなくて、いつもながら街を彷徨っていた。
目の前には天を支えるかのような新電波塔。まるで、昔話に出てくる光る竹みたいだ。
呼応するように、細い月が塔の横にいた。もうすぐ沈むのだろう。だいぶ低い位置に見える。
塔は異様に暗い色でそびえ立っている。土地の再分配によってせせこましい場所に住まなくなってよくなったおかげで高くても五階建てのビルが群がるこの街で、その倍はあろうかという高さ。
遠くまで電波を飛ばすにはこのくらいの高さが必要なのか。それはちょっと違う。もちろんこの電波塔一つではまんべんなく電波を飛ばすなんてことできない。
この電波塔は、より小さな電波塔が全国に無数に建てられているからこそその能力を発揮する。新しい電波はこの塔のアンテナでないと発信できないから建てられたのだ。
大本の電波塔から電波が発進される。そうすると小さな塔に届く。
ぼくらはその電波を介してネットを楽しむというわけだ。今まではできなかったことも今日からできるようになる。と、言われている。
ネット配信もされているだろうに、電波塔の周りはすごい人混みだった。
新しい電波が発信されるのは午後十時ごろから。夕方の駅の電光掲示板が「あと五時間」のカウントダウンをけばけばしく表示している。
もちろんぼくはただの見物人ではない。
今日の朝、この電波塔行きの電車に例のアラーム男が乗りこむのをたまたま見てしまったのだ。
その顔が切羽詰まった、眉間にしわの寄った厳ついものになっているのを見て少し怖くなった。まるで別人みたいな顔だった。
彼女の件かは知らないけど。この状態で彼女の前にでも現れたら確実に問題が起きる。そう思ったら、気がついたら男を追っていた。
男はずっと電波塔のあたりをうろついていた。何の用があるのかは全く分からない。
夜の七時になると交通規制がかかり始めた。近くの交差点に集まってきていた人達が警官によって分散するように促されている。
男は頻繁にどこかと連絡を取っていた。
男もそうだけれど、街の人々は新しい情端を持ち歩いていた。従来の物とは違う、折りたたむと正方形になるタイプのものが多い。
新しい電波に対応した機種に変えなければせっかくの電波も使えない。それでみんな新しいものを買わざるをえなかったわけだ。まあ、それで生活が快適になるなら従う他ないけど。
ぼくは新しい情端を買った記憶がなかった。
不明瞭な記憶しかなくても、普段使うものが目の前にあれば自然と使えてしまうだろう。それなのにぼくは、彼女も使っていた新しい情端の使い方がよくわかっていない。
ほんの少しの間に、なにもかも変わってしまうような感覚になる。
そもそも持ち物が少なすぎて情端どころじゃないんだけどね。今確認できる持ち物といえば、胸ポケットに入っていた読めないメモ帳ぐらいのものなのだから。
男は前にぼくがバグらせた情端をまだ使っていた。
今のぼくは、触れるだけでその機械を扱える。自分の意識を回線に流して使う、というのが一番近い言い方だろうか。
データの中を移動するのは普通に歩くのと変わらなかった。巨大で複雑な建物の中を歩いている気分。ショッピングモールで目的のお店が見つからなくて右往左往するのと同じだ。
もちろん、地図もちゃんとある。それを読み解けばスムーズにアラームをバグらせたりできる。この感覚は、仮想現実にいるのと相違ない。
あっという間に時間が過ぎていく。電光掲示板は「あと一時間」を切り、分刻みの表示に変わった。
男――彼女曰く、大間というらしい――はずっと駅のほうを見ている。誰かとの待ち合わせなんだろうな、ということがなんとなくわかるけど、それにしたって待ちぼうけをくらっている。かれこれ四時間はこのままだ。
同じように、何の気なしに駅のほうを見たぼくは、ありえないものを見た。
彼女がいた。
暖かそうな格好で、きょろきょろとあたりを見回している。待ち合わせだろうか? いや確かに大学生のようだったし、友達とお祭り感覚で来てもおかしくはない。 なぜそのことに思い至らなかったんだろう。
ぼくの目線の中で、大間が、静かに動いた。ジャケットに両手を突っこんで、彼女に近づく。彼の待ち人もまた、彼女だったのだ。
ぼくはなりふり構わず彼女のところにとんだ。一瞬で彼女の隣に立ち、その肩を叩く。
振り向いた彼女はさらに目を見開いた。
「――えっ。」
「今すぐ逃げて。あいつがいる。」
なんで、と戸惑った顔の彼女が言う。ぼくはやつがどこにいるか見ようと振り返る。
そのわき腹に、ぶすりとなにかが刺さった。
いや、実際刺さったのはぼくじゃない。ぼくを透りぬけた先。
彼女に肉薄した男とぼくが重なった。
「……あ。」
男が離れる。血の滴る生々しい音がして、彼女が石畳の道に倒れた。
石の間を編み目のように温かな液体が流れていく。
男は何食わぬ顔でナイフを抜くと、足元に落とした。喧騒の中に軽い音が響く。次の瞬間にはきびすを返し、人ごみの中に突入した。あっけにとられた人の間をすり抜け、雑踏に消える。
呆然と立ち尽くすぼくの近くで、やっと誰かの悲鳴が聞こえた。
別の喧騒に囲まれた駅前で、ぼくはその場に縫い留められたように動けなくなっていた。黙って彼女を見下すことしかできない。
彼女の周りから人が遠のく。彼女は微動だにしない。もう、息がないのかもしれない。
ややあって、近くの駅舎から駅員が駆けつけて、周りの人を遠ざけようとする。そのうち警察や救急隊も来るだろう。
遠くではカウントダウンが聞こえてきていた。
「十、九、八、七――、」
知るか、そんなこと。
ぼくは彼女に近づいた。青い顔をした彼女は、ろう人形のように生気がない。
名前を呼ぼうとして、そもそもそんなの知らないことに気がつく。
どん、と爆発するような音がした。
にわかに空が明るくなる。あたりにいた全員の視線が上を向く。
季節外れの大輪の花が、暗い夜空に咲いている。月すらない夜だ。それ単体ならとてもきれいだったろう。
けれど、彼女の近くにいる人たちが、魂が抜けたように上を見上げるさまは少し不気味だった。
「――ゆいな?」
ふと、目線を戻す。彼女に駆け寄ってきた女性が、動かない体をゆらゆら揺らしている。
ぼくら以外、彼女のことなんて見ていなかった。駅からやってきた駅員と、そのへんで人混みを誘導していた警察官が駆け寄ってくるのと、彼女の知り合いらしき女性が自分のマフラーで止血を試みているの以外、まるで何も見ていなかったみたいに熱狂が戻っていく。
近くで人が刺されたのに。
ぼくは怒りか、衝動かわからないままに、男が去って行ったほうに足を向けた。どうせ彼女の隣にいても呆然とつっ立っていることしかできないのだから。
あいつを締め上げたほうが早いのだ。
雑踏の中に引き留める声が聞えたかもしれない。
どちらにしろ、足を止める気はなかった。
男はナイフを落として行ったが、しっかり返り血は浴びていたようだ。赤い足跡がかろうじてあって、それを辿っていくと入り組んだ路地へと続いていた。
勢いのままに路地に入る。
そのとき、見覚えのある姿が視界をかすめた。
疾風のように駆けて行った影は曲がり角で一度立ち止まった。それからどちらに向けて言ったのか。咆哮するように声が響く。
「カノン!」
どこかで聞き覚えのある声だった。
足が、そちらを向く。
男を追いかけないと。それはわかっていたけれど、でも、今のは。
その名前が、声が、ぼくを彼らに引き寄せる。
人影が消えた方向へ走る。後ろ姿はすぐにとらえられた。路地裏の細い道で、すぐ向こうはフェンスになって開けている。
そのフェンスの向こうを見つめるその姿は、まぎれもなく「ぼく」だった。
「くっそ!」
荒々しい息遣いと、声。フェンスの向こうに見えるのは、電波塔。
ぼくは、生きている目の前の「ぼく」は、すぐにフェンス沿いの路地を進もうと角を曲がっていく。その勢いについていけなかった。
今のぼくと、まったく一緒の格好だった。ごつい靴によれよれの上着。息写しのようにそっくりな――。
はた、と気がつく。
本当にぼくが幽霊なのだとして、今の格好というのは、死んで幽体離脱でもしたのであれば。
そのとき、鈍い音が響いた。
「ぼく」が駆けていったほうだ。慌てて走って角を曲がる。建物の裏手は片側がフェンスで、建物の切れ目からまた別の路地がのびている。
おそるおそる近づけば、「ぼく」の頭からはおびただしい量の血が流れ、どうやら骨が陥没しているらしい、ということがわかった。
誰かに、殴られた?
急に、地縛霊のようにそこから動けなくなった。いや、ぼくを動かしてくれないのは土地じゃない。自分自身だ。足がすくんで、動かない。
今、わかった。死因は他殺だ。――いったい誰に?
太ももを拳で殴る。ちゃんと衝撃が響いて、衝撃が加えられた方向に動く。少しずつ感覚が戻ってきた。よろよろと一歩を踏み出すけれど、まだちゃんとは歩けない。
今、「ぼく」が殺された。――じゃあこの一週間、徘徊をしていたぼくはなんなんだ?
ああ、足がまた動かなくなった。
心なしか、視界が狭くなったように感じる。まるで貧血のような。今にも「死んでしまいそう」だ。
「……はは。」
なにを言ってるんだろう。
ぼくはさっき、目の前で殺されたじゃないか。
そのまま、自分に触れることなく意識が遠くなる。元の体と同じように地に伏して、どこからか漏れるまばゆい光を感じながら、ぼくは目を閉じた。
肉体を抜け出せるようになった人間は、たとえ体が死んだところで、精神、いや、魂は、別の理の下で生き続けることができるのだろうか?
もう、考えることすらできない。
視界は真っ暗になった。
「……ははは。」
今、体重計に乗ったら。ちゃんと二十一グラムと表示されるだろうか。
後書き
第二章「2週目」に続く
作者:水沢妃 |
投稿日:2025/08/27 13:34 更新日:2025/08/27 13:34 『レトロフューチャー』の著作権は、すべて作者 水沢妃様に属します。 |
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