作品ID:2396
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レトロフューチャー
小説の属性:一般小説 / S・F / お気軽感想希望 / 上級者 / 年齢制限なし / 完結
前書き・紹介
ダンは母校の近くで自殺しようとしていた女子高生「伊央」を止める。彼女と友人の東海は「琥珀派」に傾倒しているようだ。
ひさしぶりの母校で、ダンはカノンと過ごした学生時代を思い出す。
第三章 3週目
前の話 | 目次 | 次の話 |
その人はどこか陰気で、なんとなく、あの子を連想させた。
だからだろうか。これから死ぬつもりだったのをやめてしまったのは。
・
なんだか見覚えのある道だと思って歩いていたら、かつて毎日通っていた通学路だった。この道を進んでいけば母校がある、そんな確信があった。
不思議と頭は晴れやかで、以前のような靄がかかったような記憶の不鮮明さはなくなっていた。
少し先に敷地がぼんやりと見えている、第二義務教育にあたる高等部の校舎。または高等学校。いわゆる「青春」を過ごした学び舎は、非常灯以外の光源をすでに落としている。あたりは暗闇に沈んでいて、人通りもまばらだった。
高等学校の周りには田畑や自然が残っている。
もちろん、「手つかず」の自然なんてありはしない。人が手を入れなかったら本当の自然にやられて、今頃外来の植物に飲まれている。
ちゃんと管理会社の手によって里山の風景が残され、森も手入れが施されている。このあたりでは、かつて国民病ともなった「花粉症」において猛威をふるった杉はその数を減らし、代わりに動物の食料になりうる木の実が生るドングリやクルミが多い。
そもそも、緑化教育のために初等学校や高等学校は必ず計画都市の郊外に配置されているのだ。
中心地はオフィス街や歓楽街、その外に住宅街。真ん中を貫くように線路と駅。そんな街が盆地の中に点在し、その間には田んぼや畑がある。
地方都市の計画的な復興計画を完遂した姿。大震災後、この国で増殖した「ゆとりがあって、過不足ない、『なんの変哲のない町』」の典型的な風景。
かつての通学路は多少の変化こそあれ同じようにそこに存在していた。
帰る家はもはやない。ぼくが第二義務教育に入る頃にはおじいちゃんは病院にいたし、ほどなくして亡くなったとき、生まれ育った家は手放した。
なぜか都市計画とは違って残されていた古民家。耐震性も怪しいあの家鳴りの多い家。きっともう、森の中に飲まれているんじゃなかろうか。
懐かしくは思えど、用はない。早々に道を進むことにした。
ほどなくして慣れ親しんだ橋が見えた。街と郊外を隔てる嫌に長ったらしい橋は風が吹けばぐらぐらと足元が揺れる代物で、いつか崩れるんじゃないかと思っていたけれど。今のところ、まだ大丈夫なようだ。
ぼくは遊歩道を進む。そして、三分の二ほど進んだところで人影を見つけた。
母校の制服を着た女生徒。肩に触れないぐらいの髪と短いスカートが、風に煽られて舞っている。
その子は器用にも橋の欄干に登り、両腕を広げ、ぼんやりと川を眺めながら歩いていた。
新雪の上でも歩くかのように、一歩、また一歩と進んでいく。
不思議と安定した歩みで、橋の中心辺りまで進んでいく。
細い月が、雲に隠れた。よりいっそう暗闇が映える。
影絵だ。黒のコントラストだけの世界。
それを邪魔する車の往来すら、今はない。
いかに見惚れる情景だろうと、危ないことには変わらない。
橋から川は建物二階ぶんほどの距離が開いている。ぼくは何かあったときに備えて、少女を驚かせないよう、歩道を歩いて近づいた。
ぼくは不思議と、少女に声が届く自信があった。
「……ねえ、なにやってるの。」
ぴたり、と少女が歩みを止める。声のしたほうを探るように視線を彷徨わせる。
ぼくは親切にももう一回声をかけた。
「こっち、こっち。」
顔だけ振り向いた彼女は、さっきまでのうきうきした感じからは想像できないほど沈んだ顔をしていた。いや、冷めた、と言ったほうがいいだろうか。
ぼくすら映していないのでは、と心配になる目には黒いビー玉のにぶい光。
「邪魔しないでくれる。」
「別に、止めようとは思ってないけど。」
「……変なの。」
「どちらかと言うと向こうの人間なんでね。」
ぼくは静かに足元を指さした。見下ろした少女は透けた足を見て納得してくれたのか、ため息をついた。
「なにしてるの、ですって? 決まってるでしょ。」
つん、と響く声だ。落とせば壊れる硝子結晶のような、硬質で透き通った声。
「わたし、これから死ぬのよ。」
そう言うと、少女は川に向かって足をそろえた。
その後姿はすっとのびていて、見惚れてしまいそうになるほど絵になる光景だったのだけれど、ぼくは無言でちょっと浮き上がると彼女の腰を両手で持った。
ぎょっとした目で振り返った少女がわめく。
「――ちょっと!」
「うん。ちょっと待ってね。」
そのまま自分の体と彼女の体をいっしょにすとん、と歩道に下ろす。
その子の体はとても細くて、軽かった。ちゃんとご飯を食べているのか心配になるくらいに。
「君のそれは、自殺だよね。」
少女の前で仁王立ちをする。じっと見つめると彼女はたじろいだように一歩後ずさり、「そうだけど?」と焦った声をだした。
「それがどうしたっていうの。」
「自殺にもそれなりに作法があるって、ぼくの友達が言っていたんだけどね。」
ぼくはそれを指折り数える。
「一つ、遺書を用意すること。
自殺をする人は、自分の死に意味を与えなくてはいけない。
一つ、靴はきちんとそろえること。
最後の場所に敬意を示すため。飛び降りるときもそうでないときも同様に。
一つ、生きたかった気持ちを持つこと。
そのうえでこの道を選ぶしかなかったと、自分を納得させるように。
遺書はちゃんと用意した? 靴はそろえて置いておきなよ。それから――生きたかったと、そう思って飛び降りなよ。」
「……はあ。」
「それから、もう一個確認。」
「なんですか。」
むっすりとした表情の彼女に、飄々と語る。
「これも友達から聞いたんだけどね。自殺をする人は、誰かに自分の苦しい気持ちをわかってもらうために死のうとするんだって。――つまり、本当に死に救いを求めている人は、案外少ないってこと。」
それだけ自分は追い詰められてるんだってわかってほしいんだよ。
そう言った友人の言葉に、ぼくは違和感を持った。
じゃあ、自殺で死んだ人は気がついてもらえなかった人たちなんだね。
友達はそうだね、と平然とした声で、悲し気な顔をして答えた。
「君は本当に死のうと思ってるの。」
ぼくの話を聞いていた彼女はバツの悪そうな顔になった。それからずんずんと、来た道を戻り始める。
さすがに深入りしすぎただろうか。
ぼくは欄干に寄りかかって、息を吐いた。
雲が晴れて、少しばかりの光が戻ってくる。川面が輝くでもない微妙な光。街灯が遠いぶん、幾分か役に立つだけの光だ。
「ん。」
突然、隣から声がした。
見れば先ほどの女生徒がぼくに向かって何かを渡そうとしていた。
ずい、っとぼくの前に突き出されたそれは手紙の入った封筒だった。おそるおそる手を伸ばすぼくに、いらついた彼女がずい、と
少女と手紙を交互に見ていると、「中身読んでよ。」と促される。
ぼくは素直に封を切って中の便箋を取り出した。
今どき珍しい紙の手紙。一枚だけの質素な便箋に数行の言葉が連ねてあった。
『遺書
わたし、橘伊央は自殺します。
理由は二月十四日に世界が終わると知ったからです。
家族に虐待はされていません。とても優しかった両親にはもうしわけなく思っています。
学校でいじめにあったわけではありません。人より何事も遅いわたしを、みんなは根気よく待ってくれました。感謝しています。
わたしのマンガは隣の家のまりちゃんにあげてください。押入れの箱は中身を見ずに処分してください。小太郎、ごめんね。犬の散歩もうできないや。
わたしは、わたしのために死にます。世界が終わるのを見るのが怖いので死にます。けっして、誰かのせいではありません。そこだけは理解してください。
それでは、さようなら。』
ちゃんとした遺書だった。
ぼくは先を歩き出していた背中を追いかけて、隣に並ぶ。
「遺書、用意してたんだ。」
「当たり前でしょ。あんたみたいなやつに声をかけられなければうまくいってたんだけどね。」
面白くない指摘に笑うこともできない。
今日はもうとばないのか、橘伊央は橋を渡って住宅街へ入った。夜の淋しい街灯がちかちかと瞬いている。
ぼくはその後ろをついていった。最初は鬱陶しそうだったけれど、そのうち気にならなくなったのか平気で話し始めた。
「ねえ。その友達は結局とんだの?」
興味本位の質問だろう。こちらをちらりと見る目はしっかりとぼくをとらえている。
「いいや。今でも元気だよ。――たぶん。」
「なにそれ?」
「連絡とってないし。ぼくはこんなんだからなあ。」
ぼくがそう言うと、橘伊央は何も言わなくなってしまった。
実のところ、その友人の名前すらよく思い出せていない。
交友の狭かったぼくの、カノン以外の友達。きっと一癖も二癖もあるやつなんだろうな。
細い背中が一つの家に入っていくまで、遠くから見守っていた。伊央は最後にぼくをふり返って、家の中に入っていく。
ぼくはそっと空を見上げた。まばらな星が、ちかちかと瞬いている。
「また繰り返してるのか。」
謎の確信と共に、ぼくは静かに目を閉じた。
橘伊央はごくごく普通の高等部生に見えた。
おかっぱ頭にごくごく平均的なスカートの長さ。周囲の生徒に溶けこんでしまう、悪く言えば平凡な。
陽の下で見ても、それは変わりない。
次の日の朝。ぼくはまだ気まぐれに学校のあたりをうろついていた。
登校してきた彼女はぼくを見るなり「うげぇ」といわんばかりの顔をした。
特に気にせず、軽く手を振る。
伊央は小さくしっし、と追い払うようなしぐさをする。
仕方ない。嫌われたのなら早々に退散しよう。
そう思ってきびすを返そうとすると、逆にはあ? と首を傾げられた。
……ああ。あれは手招きだったのか。
下に向けた手を前後に振る。どちらも同じ動作だけれど、意味は真逆だ。紛らわしい。
「なんのつもりなの。」
と、誰もいない校舎の片隅で詰め寄られる。
「もしかして、私が死なないように監視でもしに来たの?」
「そういうわけじゃ。」
「迷惑だからやめてもらっていい?」
「……いや。ここ、母校なんだよ。懐かしくなったから見学してこうと思って。」
やさしく、かみ砕くように。刺激を与えないよう注意しながら告げれば、伊央はそう、と肩の力を抜いた。心なしか顔の表情も緩んでいる。
本気で心配していたらしい。
「ていうかOBなの。」
「そう。飛び級しちゃったからまるまるいたわけじゃないけど。」
「……頭いいんだ。えっと。」
口をパクパクさせる彼女。そういえば、まだ名乗っていなかった。
「遠野壇。よろしく、橘伊央さん。」
「よろしく……なんでわたしの名前知ってるの!?」
「遺書にしっかり書いてあったでしょ。」
「あ。」
まったく、忙しい子だ。ころころと表情が変わる。身振り手振りも大きくて、活発なんだろうな、ということが体全体から伝わってくるようだ。
どこにも、自殺をするような暗い影を背負っているような感じはしない。
「……いや、違うか。」
「え?」
「何でもないよ。」
こういう子だから、っていうのもあるかもしれない。
「ね、まだ温室ってあるかな。」
「あるよ。場所とかも変わってないんじゃない。」
「そっか。ちょっと見てくる。」
「そう。じゃあ、わたし行くから。」
そう言って、橘伊央はきびすを返す。
怒ったようにぷりぷり歩いて行くその姿が子どもっぽくて、ついつい笑ってしまった。
ぼくは目立たないように
カノンと一緒に過ごした学校。
カノンと出会った場所。
やけに鮮明に。まるで映像を見せられているように、彼女のことを思い出した。
第二義務教育の途中。五年生に上がったころ。彼女はぼくのクラスに転校してきた。五月の中旬というとても奇妙な時期だった。
そして彼女は、とても目立つ人だった。
ボブヘアーの琥珀みたいな濃い金髪に、はっきりとした顔立ち。すらりとした立ち姿に合うスラックスを履いていて、長い足が強調されていた。一目で外国の血が入っていると分かるその容姿はいやでも学校中の注目を集めた。
ところが彼女は周りからの目なんてないかのように愛想のないクールビューティなうえに授業をさぼるのは当たり前。後から聞いたらもう飛び級と単位取得はあらかた終わっていて、あとは週に一回でも登校すれば卒業できるような状況だったらしい。
最初、ほとんどの生徒は彼女のことを憧れの目で見ていた。中には反感を持って彼女を見る人もいたけれど、彼女がなにもする気がないとわかると落ち着いていった。
……というのを、ぼくは卒業式の後の懇親会で聞いた。
そのころのぼくはといえば、カノンと同じで飛び級済みの単位取得済みで、大学受験のための内申点稼ぎで登校しているようなものだった。普段の授業以外は温室に入り浸り、交友関係はかぎりなく狭かった。
そんなふうだったから、彼女のことさえ「なんか派手な人がいる」ぐらいにしか思わなかったのだ。
カノンの噂はほとんど友人からの受け売りで、そのどれもが、ぼくの知っているカノンとは別人のように感じた。
ぼくがカノンと初めて喋ったのは、校長先生に頼まれて綿花を植えていた時だ。
ちょうど校舎裏の、鉢植え用の腐葉土が積まれたあたりで作業していた。本当なら今日、校長先生が植えるはずだったのに、急に用事ができたらしい。
ちょっと児相行ってくるー、と元気に出かけていった。
ぼくは午前中の授業に出ないことを先生に伝えて、作業にいそしむことにした。
プランターを見繕い、いつも通り準備する。校長先生からもらった、一日水に浸けた綿の種を数粒ずつ植えていく。
集中していると、急に手元が暗くなった。
周りが晴れているので雲が流れてきたわけではなさそうだ。影を目で追えば、隣に人が立っていた。
「あ。」
数歩先にいる、カノンと目が合う。
最初に見たとき、逆光だったこともあって髪色の違和感にまったく気がつかなかった。でも、すぐに本当に太陽が雲で陰って、まともに彼女の顔を見た。
きれいだな、と素直に思った。
一方彼女は気まずそうにしている。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
彼女は今まさに、煙草に火を点けようとしていたらしい。ライターをさっと後ろに隠したが、口に加えた煙草までは隠しきれていない。
なんだかそれがいたずらを見つかった子供のようで、ぼくは彼女のことをみのがすことにした。
「もうちょっと奥のほうだと人気ないよ。」
校舎と反対側、桜の木が植わっているところを指さす。
あの先は軽いフェンスがあって、そのまま隣の雑木林まで木がたくさんある。休憩スペースのベンチもあるけど、虫が多いからあまり生徒が近づいているのは見たことがなかった。
そもそも、校舎裏自体人気はない。ぼくみたいに腐葉土を取りに来るぐらいしか用はない。
「あ、ありがとう。」
そう言って彼女は向こうに行こうとする。
「あ、一応聞くんだけど。」
「は、はい。」
「それって……合法なやつだよね?」
ぼくは彼女の煙草を指さす。
煙草はずいぶんと前から規制対象で、最近はニコチンの含有量が多いものは違法化されている。あと、それに合わせて裏で流通している煙草の中身が実は危険薬物だった、なんて話もある。
そして、これを知っていて人に煙草を勧めたり、吸っているのを黙認するのも罪に問われる。
「大丈夫。合法。」
「『安心、安全な』?」
「うん。」
「ならよし。」
ぼくは自分が共犯にならないことを確認すると、じゃ、と自分の作業に戻った。
ちょっとおどおどしている彼女はそそくさと木の向こうに消えていった。
そして、少しして帰ってくる。
手には吸い殻入れをぶらぶらさせている。そしてどこか、気まずそうだった。
彼女は無言でぼくの隣に来た。ただし、人ひとりぶんの間を開けて、しゃがみこむ。
「……え、なにかあった?」
「うん……。」
そのまま黙ってしまった彼女を、とりあえず気にしながら作業を続けた。校長先生はバケツいっぱいの綿の種を仕込んでいて、もうこれ畑に直接撒くレベルじゃないかと思ったけれど、まだ学校の畑には別の作物が植わっているようだ。
「ヤッテタ。」
唐突に彼女がつぶやく。
なにを、と聞きそうになって、しばらく考えを巡らせる。言葉を濁すような何かの存在を思い浮かべて、ぼくは彼女のほうを向くのを控えた。
「……いちゃいちゃしてた、ってこと?」
「うん。」
「ごめん。そういう場所だって全然知らなかった……。」
「うん……。や、知らなくていいよ……。」
ぼくは作業のスピードを上げる。一刻も早くここから離れたかった。
その様子をしばらく眺めた後、彼女はおもむろにぼくのほうへ一歩寄ってきた。
「手伝う。」
「え、いいの。」
「うん。授業でたまにやってただけだけど……。」
「ありがとう。教えるよ。」
それから二人でプランターに種を植えて、水をやって、日当たりのいいところまで運んだ。その間、ちらちらと木の向こうを見ては「行った?」「まだいそう。」「あ、行ったかも。」なんて会話をした。それ以外のことは特に話さなかった。
黙々と作業をするのは、彼女にとっても楽だったようで、震えていた手も、青かった顔も、徐々にもとに戻っていった。
太陽が真上に昇る頃、最後のプランターを動かし終えたぼくらに、校長先生が声をかけてくる。
「――あらあら。二人ともさぼり?」
「先生が頼んだんじゃないですか。」
「遠野くんにはね。――あら、こんにちは。」
「……こんにちは。」
校長先生は真っ先に彼女のほうに歩み寄って、小声でなにか聞いていた。彼女は小さくうなずいたり、首を振ったりしていた。
ぼくは手持ち無沙汰なので、使ったシャベルや一輪車を片づけに行く。軍手を外しながら戻ると、もう校長先生はいなかった。
「あれ、先生は?」
「どっか行っちゃった。」
そう、とうなずいて、ぼくはじゃあと彼女に手を振った。手を洗いに行ってご飯でも買いに行こう。
「あ、先生がこれあげるって。」
慌てて彼女が袋に入ったお菓子を掲げる。ぼくは全部彼女にあげてもよかったけど、いちおうきっちり半分もらっておいた。
これで、貸し借りもなにもない。フラットな状態なはず。
「じゃあね。」
「うん。じゃあね。」
軍手とおせんべいで両手がふさがっていたから、手も振らずに別れた。角っこでちらりと振り返ると、彼女はあまりにもあっさりした別れにぼうっとつっ立っていた。
これが、最初に関わった彼女。
彼女がぼくに名乗るほど近づいてくれるのは、もう少し先のことだ。
温室はそのままそこにあって、相変わらず裏寂れた雰囲気をまとっていた。
高さは三階建ての校舎と同じぐらい。鳥籠のような円形で、教室一つぶんぐらいの広さがある。
暖かい室内には朝の柔らかい光が降り注いでいる。
ぼくの育てていた鉢植えは、もうない。当たり前だ。卒業するときに止める先生の反対を押し切って全部引き取ったから。
卒業式の日の先生とのやり取りはいまだによく覚えている。
「立派に育ったからあ……! ぜひ寄贈してえ……!」
「嫌です。」
まだいるだろうか。生物の三松先生。
ふふ、と笑ってから、ああ、いいなあと思った。
やっぱり記憶があったほうが、ぼくって感じがする。
代わりと言ってはなんだが、なぜか月光草が咲いている。管理されているというよりは、無造作に生えている感じか。
月光草は日陰を好む。温室の中の、基本的に直射日光の届かない背の高い木の下に咲いていた。
賢いな、と、月光草を見ると思う。日当たりの悪い場所は、他の植物は避ける傾向にあるから競争率が高くない。つまり、種として生き残りやすい。
そして、この花は――。
……あれ。なにを思ったんだっけ。
急に、思考が不鮮明になる。まだ思い出し切れていないことがあるのだろう。
ぼうっとしている間に、今日何度目かのチャイムが鳴り響いた。あっという間に放課後だった。
一日中温室でぼんやりするだなんて、まるで学生時代に戻ったかのようだ。
下校が始まり、ぼくは校門のところで伊央を待った。いちおう帰る旨を伝えておこうと思って。
人混みが引き始めたころに伊央は元気にかけだしてきて、ぼくをスルーしてどこかへと走っていく。追いかけてみると、どうやら友達が先に帰ってしまっていたらしい。
「東海!」
伊央の声がする。呼びかけに振り向いたのは、ほっそりとしたシルエットの、制服からして高等部生だった。
「伊央。もう帰ったかと思った。」
「ちょっと先生に呼ばれてて。」
陽の光をまったく通さない日傘に、防寒とは違う意味でつけているのであろう手袋。農作業でもするかのような垂れのついた帽子からは目立つ白髪がちらりと見えている。
アルビノ、というんだっけか。体の中の色素が欠けていて、日光に弱いというのは聞いたことがある。でも、それ以外は特に何の変哲もない学生にみえる。
壊滅的に成績が悪いとか、性格に難があったのならわからないが。
少年は伊央を見つけると濃い色のサングラスをずらす。赤い目が伊央を見て、そして、少し横を見る。
色素の薄い赤目の少年は、ぼくのことをまっすぐに見ていて、ぺこり、とお辞儀までしてきた。
伊央もすぐわかったのだろう。振り向いてぼくがいるのを確認すると(とても嫌そうな顔をされた)、慌てて少年に駆け寄った。
「東海、あれ視えるの?」
「え、うん。……橘さんの知り合い?」
「そんなとこ、だけど……。」
伊央も困ったように俺を振り向く。
二人の視線を一心に浴びながら、気さくな動作で歩き出す。目の前に立つと、東海と呼ばれた彼はぼくよりすこし背が小さいくらいだった。そのうち追い抜かれちゃうんじゃないかな。
確認のために彼に目を合わせる。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
しっかりした返事をもらって、ぼくはひとつ頷いた。
東海はぼくを見て、彼女を見てを繰り返してから「どこか行きませんか」とぼくらを促した。確かに道の真ん中に立っているのは邪魔だろう。
「付いてっていい?」
にこにこと話しかけたぼくに、東海はまたきょときょととぼくらを見て、ひかえめに頷いた。伊央はむすっとした顔で先を歩き始めた。
二人はあてがあるようで、迷いなく歩いて行く。
ぼくは隣を歩く東海に声をかけた。
「突然ごめんね。」
「いえ。……伊央の知り合いですか?」
「うーん。昨日会ったばかりなんだけど。あ、名前、遠野壇。」
「東海千広です。東海とか、ヒロとか呼ばれてるのでどちらでも。」
「じゃあ、ヒロで。」
確証を持って言おう。
ぼくが視える人間とはつまり。一度でも本気で、自殺を実行した人なのだ。
ジーンもアキラも。そしてきっと、彼女――森川ゆいなも。
向こう側を見ようとしたから。向こう側にいる、ぼくが視えるようになった。
もう、自分が視える人に安心感を持つのはよそう。
時おりすれ違う人が、東海をちらりと見る。
「ね、伊央。」
「なによ。」
「東海ってどんな子。」
後ろから話しかけても振り返ってもらえない。
「本人がいる前で聞く?」
「本人に聞く内容でもないだろ。」
「そうだけど。」
ぼくらの会話を聞いて、困ったように東海が振り返った。
それから伊央の顔を見て「ふっ」と笑う。ふくれっ面でもしていたのだろうか。
「ぼくも聞いてみたいな。」
「へっ。」
「伊央はぼくの事、どんなふうに思ってるの。」
「そ、それは……。」
明らかにこちらにするのとは別の声音で戸惑い、そしてようやくぼくをふり返る。伊央は顔を真っ赤にして怒っているようだった。
もごもごと口を動かしていたが、やがて東海のまっすぐな視線に耐えられなくなったのだろう。
「そ、そうだなあ。……他の男子みたいにうるさくなくて、物静かで。」
「うん。」
「落ち着いてて、いつも冷静で……。」
「うん。」
「……せ、成績いいし。」
「うん。」
東海は、やさしい笑顔で伊央を見ていた。
その姿が、なんだかなつかしく思える。
「……どうしたの?」
いつの間にか立ち止まっていたらしい。伊央に声をかけられて、首を横に振る。
「なんでもない。ちょっと友達の事を思い出しただけ。」
「ふーん。」
至極不満そうな顔の伊央。
そりゃあそうか。こっちが質問したのに聞いてないんだから。
ぷう、とほっぺを膨らませて、伊央がそっぽをむく。
そのままずんずん歩いて行く彼女を、ぼくと東海は黙って追いかけた。
二人の密会場所は自然公園の中にあった。
百年くらい前は学校の敷地として使われていたらしい公園。
端っこに旧校舎がある以外はなんの変哲もない公園になってしまっている。
「こっち。」
手招きされるままにもっさりと木の生える人口の丘を上がる。頂上には東屋があった。
「いつもこんなところで話してるのか。」
「人いないし、屋根があるから。」
確かに、東海にとってはそっちの方がいいか。
東海はベンチに座ると日傘を畳んで、サングラスをとる。
やっぱり真面目そうな子だ。礼儀正しさが伝わってくる。
こんな子が伊央とつるんでいるのがいまいちわからない。
そんな目線を送っているのがばれたのだろう。にらまれた。
「遠野さんは、その。」
「死んでるんだって。」
至極当然のように会話が進む。いやいや、そんな突拍子もないこと言ってどうするんだ。
そう思っていたのに、東海は意外と驚きもせず、伊央のほうを見ている。
「そうなの?」
「うん。――ねえ、やっぱりあの話、本当なんだね。」
「遠野さんがそうなら本当なんだよ。ほら、言った通りだったでしょ。」
なぜか二人で盛り上がっている。
「どういうこと?」
ぼくはたまらず聞いた。
伊央はちらりとぼくを見る。その隣で東海は平然と言ってのけた。
「二月十四日の新電波開放。それによって人間は肉体の枷から解き放たれる。既存の社会は崩壊するけど、人間はもっと自由になれるって、琥珀派の人が言ってたんです。――ぼくは、それを信じてます。」
琥珀派。ここでもその名前を聞くことになるなんて。
いや。この話は伊央が遺書に書いていたか。
じゃあ、東海は琥珀派の人間なのか。
ぼくは伊央を見る。
伊央は、東海から顔を背けていた。その顔は険しい。琥珀派の思想を手放しで信じているようには見えなかった。
琥珀派に傾倒する東海。
そんな東海を心配している伊央。
二人の関係が見えた気がした。
「本当にそうなったとしたらどうするんだ?」
「そうなるのは決まってますけど……。その時を静かに待つだけです。」
東海は伊央に振り向いた。
「最期の瞬間は橘さんと過ごす約束をしているんです。ね。」
「……うん。」
嬉しそうな東海。
伊央は、必死に笑顔を作っている。
ぼくはそんな二人を見ていられなくなった。
「……そんな理想的な話じゃない。」
顔を上げる。
きょとんとした顔の二人が、ぼくを見ている。
「肉体から離れると、元の肉体は死ぬんだよ。もう後戻りはできない。自由になるなんて、そんなことはない。」
現にぼくは、生前の自分の姿を追い求めることに執着している。
ぜんぜん、自由なんかじゃない。
「むしろ不自由なくらいだ。記憶は曖昧、時間も一定じゃない。なにもかも勝手は違うしできないことができるようになってもできていたことはほとんどできなくなって。」
「遠野さん?」
おかしくなっていくぼくを見て固まる伊央の隣で。それでも東海は冷静だった。
「それでも、みんなが肉体の枷から解放されることを否定はしないんですね。」
「――ああ。」
何かを確信しているような、冷静沈着な東海。
そんな彼に言うか迷ったけれど。
「ぼくは、二月十四日から来たからね。」
ありきたりに、事実を告げた。
普通なら信じないはずだ。
でも。ぼくはジーンを思い出す。
ぼくが見られるこの二人なら。いや、ぼくのようになりたいと願ってしまった人ならば。
「本当に?」
そう疑問形で尋ねながらも東海は先ほどとは打って変わって明るい顔をしている。
「ああ。二月十四日、新電波が解放されたら――みんな、ぼくみたいになるよ。」
「やっぱり、間違いじゃなかったんだ……!」
まるでツチノコでも見つけたみたいに瞳を輝かせる東海。
ぼくは、彼をにらんでしまったかもしれない。
あの惨劇を。たくさんの人が命を落としたあの日を、知っているからこそ。
それが救いにならないと、教えないといけない。
「……東海。」
そのとき、伊央と目が合った。
何も言うなと言わんばかりに、小さく首を横に振っている。
その泣きそうな顔を見て、ぼくは口をつぐむ。
喜ぶ東海は幼く見えて。
そんな彼に現実を教え込んだところで、果たして幸せになれるのか、ちょっと考えればわかることだった。
夕方。東海と伊央がやって来たのは、まずは最寄りの駅前。
改札前の陽があたらない場所。
人を待つには奥まったそこは、東海のための配置だ。
「ここで待ち合わせして、そっから行くんだ。」
「初対面なんだっけ。」
「うん。第二空間で昨日会って。」
それで何の疑いもなく来ちゃうんだからすごいよな。
生前、人付き合いはよくなかったし、あまり第二空間を利用した記憶がなかったから感覚が違うのを実感する。
「ね。トーノさんってどんな学生だったの。」
話題に困ったのだろうか。伊央が訊いてくる。
ぼくは苦笑いを返した。
「今とほとんど変わらないよ。」
「幽霊みたいってこと?」
「……そうかもね。」
そこにいてもいなくても周りの人から見れば変わらない。
確かに、今と同じだ。
「トーノさんって友達いなさそうだもんね。」
おい。
黙ってにらむとふふ、と声をあげて伊央が笑う。
その隣で東海はぼうっとしている。
魂が抜け落ちたように虚空を見る彼。
実際にまわりにいたわけではないから詳しくはわからないが、鬱病の患者ってこんな感じなんじゃないかな。
無気力。おそらく笑うことすらできないくらい疲れ切ってる。
「――大丈夫か?」
ぼくは東海の前で手を振る。
は、と東海が目を上げる。
「――。うん。」
あまり元気ではない返事。
ぼくはその返事に「そうか。」と返す。
反応があればそれでいいだろう。
そのとき、足音が近づいてきた。
「――あの。ベルさん?」
「あ、夕ちゃん、こっちこっち。」
かつかつ鳴るローファーの足音と共に歩いてきたのは、どこか見たことのあるシルエット。
ぼくとは決して合わない、目線。
「お待たせしちゃった……今日はよろしくね。」
聞き慣れた声。
紛れもない。そこにいたのはアカネだった。
アカネが失踪する前、第二空間で会っていたのは伊央だったのか。
電車に乗って移動する三人は、どこからどう見ても仲のいい学生グループで。
それが逆に、気持ち悪い。
ぼくがムズムズしていると、ちょっと待ってねと伊央が情端を取り出す。
電話をかけるふりをしているが――目線はぼくに合わせている。
ぼくが周りからは見えないことを知っての配慮だろう。
「どうしたの?」
「……知らない人とよく仲良く喋れるなと思ってさ。」
「あはは。やっぱコミュ障なんですね。」
なんでだろう。ていねいな口調が逆に癪に障る。
「確かに、友達なんて二人ぐらいしかいなかったよぼくには。」
「まだいいですよ。私なんて一人だけなんだから。」
ちらり、と東海のほうを見る伊央。
そうだろうか。
少なくとも伊央は、学校では他の子とも喋っていたじゃないか。
むしろ孤独なのは。
ぼくもちらり、と東海を見る。
一見元気そうにアカネと話しているけれど。
から元気、なのだろうか。
ぼくにとっては見慣れた倉庫街。見慣れた倉庫に案内されたアカネはきゅっと鞄を持つ手に力を込めていた。
まあ、いろいろあるんだよな、ここで。
緊張するのもわかるよ。
そう声をかけてやりたいのは山々だったが、なんせ見えてないからな。
倉庫の扉が開く。
「やあやあ。よく来たね。」
その声は、こちらも聞き覚えのあるもの。
アカネも写真を覚えていたんだろう。すぐに気がついたらしい。
「……安芸真弓さん?」
「お、その名前で呼ばれたのは久しぶりだなあ。」
前にあったときはもっと学生らしい雰囲気だった気がしたが、今は大人っぽい落ち着きを身にまとっている。高等部のやつらがいるからだろうか。
「ここでは『入武家三香』で通してるんだ。ハンドルネームみたいなものだから、どちらで呼んでもらってもかまわないよ。」
その名前にも覚えがある。以前杉戸と一緒に聞いた警官からの報告にあった。
「じゃあ、入武家さんで。」
アカネはさすがに順応が早い。
彼女の答えに古守はにっこりと笑って、三人を手招きした。
「寒いから早く入りな。もうすぐ日も暮れるし。」
促されて歩く三人のすぐ後ろで扉が閉められる。
ぼくはなにも気にせず、扉を透りぬけた。
明らかに視線を感じる。
前回話したやつらだ。見覚えのある顔がこちらを一瞬見て、何事もなかったかのように再び動き出す。
周りのことを見て生きていた証拠のようで、なんだか悲しい。
三人は倉庫の真ん中にある大きな機械の脇を通り抜け、反対側にある別の機械の前にやってきた。
そこにあったのはパソコンからのびるごつごつしたヘッドフォンと、簡素な椅子。
「これは?」
「まあ、まずは座ってくれたまえ。」
アカネは首をかしげながらも言われるがまま丸椅子に腰かける。
入武家はさっとアカネの頭にヘッドフォンを装着させ、パソコンをいじった。
「まずはこれを聞いて。」
アカネはあきらめたように目を閉じた。
ぼくも、耳を澄ます。
漏れ聞こえてきたそれは、「音」だった。
音楽じゃない。不規則に並んだ「音」。どこか神経を逆なでする、不協和音。
アカネも眉間に皺を寄せながら頑張って聞いているようだ。
一度聞いたら忘れられないような。
と思ったら次の瞬間には忘れていそうな。
そんな不思議な、「音」。
ぼくはその音を――どこかで聞いたような気がした。
そんなはずはない。こんな変なものが二つとあってたまるか。
けど、どこか既視感のある音なんだ。
聞き終わったアカネはすぐに入武家に向き直る。
「これ、なんなんですか?」
叩きつけられるように返されたヘッドフォンをやさしく置いて、入武家は至極真面目にこう言った。
「『精神分離信号対消滅音』だ。人には、魂のようなものが確かに存在している。けれどそれは実体を伴わない、まあ従来通りに言うと精神に近いもの。新しく運用が開始される新電波『ペル』は第二空間への没入感を高めるなんて触れ込みらしいが、それだけ精神が第二空間に馴染みやすいってことなんだ。そのぶん、体との乖離が起きやすくなることも容易に想像できる。でもそんなの、天文学的可能性にすぎない。実際にそんなふうに通常通りの生活ができなくなるほどの影響が出るのはほんの一握りの人だけだろう。」
「じゃあ、何がそんなにいけないんですか?」
アカネの疑問はもっともだ。
入武家はにやり、とわらう。
「君は月光草を知っているかい?」
「ええ、もちろん。」
そりゃそうだろう。そのへんに雑草並みに生えてるからな。
「元々自然界には生存するために進化をする動植物が多々あるわけだが。あれは自分に有害な電波を変質させる効果を持つ植物なんだ。わかりやすく言うと、月光草は電波を有害と判断し、その効果を歪めてしまう。」
「……変質した電波はどうなるんですか。」
「人体と魂を分離させる効果をもつ、最悪な電波になる。」
はあ、とアカネの気の抜けた声が響く。
「そこで我々が研究していたのが『精神分離信号対消滅音』。これと月光草の歪めた電波をすべて受信することで、精神を体にとどめる作用を起こす。どうだい、わかってもらえただろうか?」
アカネは少し無言で考えていた。
「質問を、いいですか。」
「ええ、どうぞ。」
「その、あなたの考えた、『対消滅音』? を聞けば、新しい電波を流しても問題ないんですよね。」
「理論上は。」
「――なら、なんで電波塔爆破なんて話が出てきたんですか?」
「それは、大間という人物の、個人的な感情が計画をゆがめてしまったから、かな。カノンは元々私のプランで動く予定だったようだけど。」
「大間……。」
いまいち実態がつかめないのだろう。アカネはあいまいに首を傾ける。
この日、この時間のアカネにとってはまだ大間はそこまで重要な存在じゃないだろうから。
「電波塔が破壊されたとして、みんなは助かりますか?」
「おそらく電波による被害よりも爆破による被害のほうが大きいだろうね。」
なるほど、と今度ははっきり頷くアカネ。
「じゃあ止めなきゃですね。」
すっと立ち上がったその顔は、いつもの柔和な笑みだった。
どこかすっきりとしているような。
「お話、ありがとうございます。」
「参考になったかな。」
「ええ、とっても。私なりに頑張ってみますね。」
その場を去ろうとして、アカネはふと振り返る。
「でも月光草って迷惑な植物ですね。なんでそんなふうに変わっちゃったんでしょう。」
「さあ。それはなんとも。」
「見た目はきれいなのに。――いっそ、なくなっちゃえばいいのに。」
そう言って、スカートを翻し、颯爽と二人に合流した。
アカネの様子を眺めていた東海と伊央はすぐに彼女を伴って、下の階に通じる扉に歩いて行く。
最後の言葉はほとんどつぶやくような声で、もしかしたら入武家には聞こえていなかったかもしれない。
研究者はふう、と息を吐く。
「――もちろん月光草は人間に被害が出ることなんて考えてないさ。あれは自分を守るために進化しただけ。――むしろ人間のほうが進化に乗り遅れた、滅びるべき種族なのかもしれない。」
ふ、と研究者は笑う。
「あなたならそう言いそうですね。遠野壇。」
まっすぐな目が、ぼくを視ている。
「どうかな。そこまで人に興味はないよ。」
入武家は――安芸真弓は、確かに前回もぼくと喋っていたっけ。
ぼくの言葉に入武家は満足げに瞑目した。
「噂はかねがね。いつかお会いしたいと思っていましたが、もう手遅れのようですね。」
その言葉には、苦笑いを返すしかない。
「ぼくが死ぬのは十四日の夜だから、生きてる方はまだ捜せばどこかにいるんじゃないかな。」
「それはまた面妖な。――いうなれば幽霊というよりは生霊ですかな。」
「より正確に言うなら時間に縛られた地縛霊、かな。」
「なるほど。『“時”縛霊』ですか。」
入武家はくつくつ笑う。
「時間が許せばあなたの状況も観察してみたかったものです。」
黙って肩をすくめることで、返事をしたことにする。
「――最近、カノンに会いました?」
「直接はないですね。どうしてです?」
「大間に囚われてるみたいなんで。助けたいんですけど。」
ぼくの言葉に入武家は首を傾げた。
「そんなことしたって、なにも変わりませんよ。」
「扉開けます。」
「あー、鍵かかってるねえ。」
「じゃあ鍵開け使います。」
「はいどうぞー。」
机にダイスの転がる音が響く。
ぱん! と手を叩く音と共にアカネが拳を突き上げた。
「はい初期値成功!」
「ええ……。」
「……ええっとぉ……。」
困惑する東海の横で、伊央が今まさに開かれた扉の先に何があるのか、情端の画面をスクロールして情報を捜している。
……なんでアナログゲームなんだ……。
ぼくはここ二、三日繰り返されている彼らのゲーム風景をため息と共に見守っている。
アカネは東海や伊央と共に地下の部屋で過ごすことにしたらしい。
前にいなくなったときもこんなふうに過ごしていたのかな。
さすが、適応能力が高いとした言えないところだけれど。
常にローテンションの東海に合わせるように、自分の調子を変えている。
まるで元から三人で行動していたみたいにしっくりと馴染んでいる。
見えない彼女に配慮してか、伊央は、たまにこっそりぼくに話しかけてくれる。
「あの『対消滅音』を聞いても体に異常がなければ琥珀派に入れるんだ。夕ちゃ――アカネちゃんも大丈夫だったみたいだね。」
「へえ。」
ぼくの興味のなさに伊央は立腹していたようだ。
「ひどい人はそのまま目覚めなかったりするんだからね!」
「――そんなに危険なのか?」
鋭い質問にすっと目線を横にずらす伊央。
「えっと、危険というか。聞いた瞬間トーノさんみたいになる、っていうのが正しいかも。」
なるほど。対消滅音だけだとそういう効果があるのか。
ぼくだってぼんやりとしているばかりじゃない。
あれだけ電波の話を聞いていれば、自分が「こう」なった理由に、思いを馳せないわけないから。
そのことを考えていてぼうっとしてしまうのは、許してほしいところだ。
三人は学校に戻ることなくずっとここで遊んでいた。
最初はボードゲーム。ダイアモンドとかリバーシとか。その後カードゲームの日があって、今日はどこからか出てきたダイスを使いたいからとCOCだ。それしかルルブがなかったらしい。
知識では知っていたけど、本当にやってるところを見るのは初めてだ。
アカネと伊央はきゃあきゃあと楽しそうに遊んでいて、それを東海が静かにほほ笑みながら見ている。きっと、疲れているんだろうな。
東海はたまに二人と遊ばずに横になったり、そのあたりをふらふらしていることもあった。
ぼくは、東海が部屋から出るときはその後姿を追いかけた。
伊央が心配そうにその背中を見送るから。
たとえ力になれないとしても、伊央が安心できるなら監視役ぐらいにはなるだろう。
倉庫の屋上に東海はいた。
ぼうっと街のほうを見ている。
ぼくも隣に並んで同じ景色を見た。
うっすらと新電波塔の黄色い影が見えている。案外近いんだな。
「……遠野さん。」
「うん?」
「自殺したいって思ったこと、ある?」
ストレートな質問に、相当参っているようだと感じる。
「ぼくはないけど。友達がいろいろ方法とか調べてたな。」
初めて会った時、高瀬藍はテーマパークシンドロームを患っていた。
いつもフルフェイスのゴーグルをかけ、世界と自分を隔てるものがなければ生活できない。そのぶん藍はネットに詳しかった。
「自殺するときの作法とか、どの方法が一番迷惑かからないかとか。ほら、練炭って準備するのも片づけるのも大変じゃんか。」
「いや。知らないけど。」
そっか。そんなものか。
友人のせいで迷惑な知識がついてしまった。
「……一番簡単な死に方って、なんだと思う?」
「さあ。」
この答えを聞いたとき、ぼくは目から鱗が落ちる思いだった。
それは首を吊ることでも、崖から飛び降りることでもなく、もちろん睡眠薬をたくさん飲むことでもない。
「生きることだって。」
そのことをぼくに告げた藍自身、自分の言葉に肩をすくめてたっけ。
東海がここに来てから初めてぼくのほうを見た。虚ろな瞳に、しっかりとぼくを映す。
「……なに、それ。」
「それなりに人付き合いを持って天寿を全うすれば、警察の厄介になることもなく、すんなり死亡届を出してもらえて、ちゃんと火葬してもらってお墓に入れる。身辺整理をしておけばもっと完璧。面倒な後始末は特にない。一番、他人に迷惑をかけない死に方なんだってさ。」
ああ、とぼくは続ける。
「もちろん残された人に面倒ごとを押しつけてもいいって思うなら、今すぐ飛び降りたとしても止めないよ。」
倉庫の屋上はだいたい五階ぶんぐらいの高さがある。命を絶つには十分な高さだろう。
ぼくの言葉を聞いても、しばらく東海は動けずにいたようだ。それから静かにため息をついて、ぼくのほうに体を向ける。
「……そこまで自分勝手になる勇気なんてないよ……。」
「そうか。」
内心、ほっと胸をなでおろす。
ここで東海を助けられなかったから、後で伊央たちに何て言われていたか。
東海はその場にずるずると座りこんで、脚を抱えてうつむいてしまった。
落ちていく陽はあたらない。ちょうど日陰になるところに立っていたから。
そう。彼にとって手段の一つであるはずの「陽に当たる」という行為を、実際にやっているところは見たことがなかった。
「一人で死ぬつもりだったのに。でも琥珀派の『予言』を聞いて、なんだかほっとしたんです。」
「――『電波を浴びればみんな死ぬ』ってやつ?」
「そう。」
東海はへへ、と顔を上げて笑った。
「遠野さんみたいになるって知れてよかったなあ。そんなの、ぼくのほしかった『終わり』じゃないから。」
「うん。」
「最初はみんな一緒に終われるならさみしくないな、って思って。……本当はさみしかったんだなって。」
今更気がついたみたいな。
言葉にしてやっと気がついたかのような、その表情。
「だから、伊央が一緒に行ってくれるって言ってくれて、うれしかった。もう一人じゃない。と、思ったから……。でも、どうしよう。これ以上彼女を巻き込みたくないとも思うんです。」
東海はまた頭を抱える。
「ぼくでもわかる。琥珀派がやろうとしていることが犯罪になるってことも、ぼくらに接してくれている人たちみたいな優しい人ばっかりじゃないことも。
でも、これだけのことを知ってしまったら、もう逃れられないでしょ……?」
「どうだかな。」
ぼくは空から地上へと光源がうつっていくのを眺めながら、このどこかに今まで出会ってきた人々がいることを夢想した。
もしも前回みたいにジーンがここにたどり着けたら。
杉戸に助けを求めていたら。
そんなことを考える。
「案外すんなり出してもらえるかもしれないぞ。」
「でも。」
「やってみなよ。死ぬよりは簡単なはずだ。」
ぼくは東海と目線を合わせるようにしゃがむ。
「伊央を連れてここから離れろ。今すぐだ。」
東海は目を泳がせて逡巡してから、確かに首を縦に振った。
放課後は必ず温室にいた。
家に帰っても一人だ。だったら植物を眺めていたほうがいい。
そんな僕の傍らには、いつも友達が暇つぶしのためにやって来る。
ぼくの友達は二人。
保住花音と、高瀬藍。
不定期に学校を休むやつらだった。
特に藍は休みがちなやつだったから、カノンと顔を合わせることはあまりなかったのだけれど。
「今日もいるのか、ノッポ女。」
「夢男もね。」
なぜか、会うとケンカをする。
どこで覚えてきたんだってくらい昔のスラングを交えながら言い合う二人を、温室を見に来た生物の先生は「仲がいいねえ。」なんて笑ってみていたけれど。
ぼくにとっては植物の世話の邪魔でしかなかった。
ヒートアップする二人の前に、アブラムシのついてしまった鉢植えをどん、と置く。
「作業をしないなら、帰れ。」
二人はぼくと鉢植えを見比べて、仕方なくピンセットを取った。
その日は確かテスト前の自習期間で、クラブに所属している生徒は各々下校を済ませていた。
静かな校内で、ちまちまと作業をするぼくら。
ふたたび温室にやってきた生物の三松先生は、寒かろうと思ったのか三人分のコーヒーを持ってきてくれた。
「……いいねえ、ここは平和で。」
湯気の出るマグカップをありがたくもらう。
二人も先生には礼儀正しくお礼を言ったが、一緒に添えてあったお菓子の味で喧嘩をはじめた。
「外は戦争中ですか。」
ふざけて聞いてみる。
先生は肩をすくめた。
「受験って名前のね。いやあ。普通の六年生は今頃必死に勉強してるんだけどねえ。」
残念ながら三人とも飛び級を終えていて、進路も固まっている。
ぼくは近くの国立大の推薦をもらっていて。
藍は得意だったプログラミングの会社へ就職。
カノンは夏には私大のAOを突破していた。
「先生。別に私たちが特殊ってわけじゃないですよ。」
「そうですね。行き方は人それぞれだから。」
「どんな手段でも進路が決まってしまえばこっちのもんですよ。」
飛び級生達の言葉に、先生ははは、とかわいた声を漏らす。
まあ、他の生徒たちには申し訳ないけれど。
ここにいる三人は、まともに学校に馴染めなかったんだから、このぐらい許してほしい。
カノンが孤高の人なのはただ単に「人付き合いが面倒なだけ」なんだけど。
藍に関しては、ぼくに会う前からいじめられていた。
そのせいで、一時期テーマパークシンドロームになるくらいには。
ぼくと友達になる頃にはほとんど治ってたみたいだけど。
それにしたって、最近の二人は入り浸りすぎだと思う。
「そこの二人は自由にどこにでも行けばいいと思うよ。」
ぼくの言葉に、カノンがふんと高飛車に笑う。
「好きでここに入り浸ってるのよ。なにか文句ある?」
「そうだそうだ。」
珍しく藍も賛同する。
ぼくは肩をすくめた。
そうやって、高等部最後の冬が過ぎていく。
あっという間に卒業式がやってきて、ぼくらはばらばらの進路に進む。
はずだった。
ある日の、放課後の温室。
その日は珍しく、カノンのほうが先に温室に来ていた。
「なにやってるの?」
サボテンの鉢植えを持ち上げていたカノンに問う。
「あ、見られちゃった。」
「まさか盗むつもりじゃないだろうな。」
ここの植物はほとんど部費で買ったものか、生徒の家からの寄付……もとい育てきれなくなって押しつけられたものかの二択で、ぼくが勝手に持ち出していいのは自分で持ちこんだ植物しかない。
「いや。サボテンって、いざとなったら武器になるかな、と思って。」
「……相手に投げつけて倒そうって言うなら鉢植えだけでもいいと思うけど。」
むしろ棘が自分に刺さる可能性のほうが高い。危ない。
ぼくは早々にカノンから鉢植えを取り上げた。
乱暴に扱ったんだろう。土が少し零れてしまっている。
まったく。
そう思いながらカノンに背を向け、サボテンに霧吹きをかけてやる。
「ごめんって。持ってくつもりはなかったんだけどさ。」
「こんな回りくどい物持つくらいならもっと役に立つものを持ってけよ。」
「……ごめん。」
いつもよりしおらしい彼女。こんなに素直に謝るところなんて見たことなかったのに。
その時のぼくには、サボテンしか見えていなくて。
自分の言ったことの重みもわかっていなくて。
「ありがとう。――バイバイ、トーノ。」
彼女の、そんな不自然な別れのあいさつも聞き流してしまって。
どうして気がついてやれなかったんだろう。
振り向いたら、カノンはもう温室にはいなかった。
連絡があったのは、夜中。
珍しい担任からの着信に、ぼくは飛び起きて出た。なにかやらかしたかと思ったから。
でも、先生の声はとても沈んでいて。
「遠野。落ち着いて聞けよ。」
電話越しの雰囲気のほうが、ざわついているのがわかった。
「保住が、車にはねられて。今病院で――手術、いつ終わるかわからないんだ。」
自分を落ち着かせるように、一つひとつ確認するようなその言葉に。
ぼくは、なぜかそれを他人事のようにぼんやり聞いていた。
ホズミ? ――ああ、カノンの事か。
それすら少ししてから気がついた。
先生は何も言わないぼくに何を感じたのだろう。
「そうだよな。信じられないよな。」
そう言ってカノンの運ばれた病院を教えてくれた。
次にはっと気がついたとき、ぼくは道路わきに倒れていた。こいでいた自転車は側溝にはまっていて、全身が痛んだ。
先生との電話を終えて、勢いだけでここまで走ってきたみたいだ。
「……落ち着けっ。」
自分の脚を拳で殴る。痛みが伝わって、脚が震えた。
荒れた呼吸を整える。
顔を上げれば雲間から月が見えた。風の流れが速く、姿が見え隠れしている。
冷たい空気を吸っていたら幾分か落ち着いた。
自転車を救出して、またがる。
情端を開く。現在位置は病院まであと五百メートル地点。なんとほとんど自宅の真ん前で転んでいて、ちょっと気が抜けた。
病院には先生とカノンのお母さんがいた。
ぼろぼろのぼくを二人は心配してくれたけれど、それよりも、手術室の赤く灯った表示に気を取られて、二人の言葉なんて聞いてなかった。
「カノンは?」
状況を見れば、まだわからないとわかるのに。
先生もカノンのお母さんも口ごもっている。
ぼくは、廊下の長椅子にすとんと腰を下ろした。
魂が抜けてしまったように、しばらく呆けてしまっていたと思う。
手術はなかなか終わらなかった。
手術中の表示を見上げるぼくに、カノンのお母さんがやさしく話しかけてくれた。
「あなた、夏に学校で花音と話してた子よね。」
「……はい。」
そうか。あの時顔を見られていたのか。
「あの子があんなふうに普通に喋れているの、久しぶりに見たからびっくりしちゃったわ。ずっと男の人と喋れなかったから。」
ぼくは、学校でのカノンを思い出した。
誰とも慣れあわない、一匹狼の保住さん。
本人は人と話すのが面倒だと言っていたけれど。
男と話すのを避けていたから、そもそも口数が少なかったのか。
思えば生徒指導教諭と話していた時も具合が悪そうだったし、唯一なついていた三松先生は女性だったな。
「なんで。」
ぼくの言葉に、カノンのお母さんは手術室とは違う方向を見た。
視線の先に何があるのか、ぼくは知っている。おじいちゃんが亡くなったときに入ったことがあったから。
遺体を安置する部屋。
「あの子の父親ね。あの子のことが大好きだったの。――女性として。」
お母さんの視線は微動だにしない。
「初等部の三年生ぐらいの時だったかしら。被害に遭ってるって告白されたときは頭の中が真っ白になったけれど、すぐに離婚を決めて、逃げるようにいろんなところを転々としてきたの。――でも不思議よね。どうしても居場所がばれちゃうのよ。」
「それは、カノンのお父さんに?」
「ええ。今回もそう。」
そういえば、先生から事故の詳細は聞いていなかった。
「あの子、父親が近くに来てるって気がついたんでしょうね。なんでか園芸用のはさみを持っていたらしくて、それで抵抗しようとして、もみ合ってる間に車の前に飛び出しちゃったんですって。」
「……。」
ぼくが、サボテンなんか持ってくなって言ったからだ。
代わりに温室にあったはさみを盗んでいったのだ。
「あの人も……カノンの父親もびっくりしたみたいで。とっさにカノンだけ突き飛ばして、でも結局、二人とも轢かれちゃったのよ……。」
だんだん、消え入りそうな声になっていく。
ぼくはなぐさめる言葉が見つからなくて口ごもった。代わりに近くにいた先生がお母さんに声をかけている。
……あの時、もっとカノンと話していれば。
握った手のひらが汗ばむ。
サボテンの話でもなんでも。もっとカノンに気を向けておけば、彼女は抵抗するための道具なんて持って行かなかっただろうか。
抵抗せずに交番に駆けこんだり、助けを求めたり。
こうならないようにする手段は。もっとあったはずなのに。
「ぼくが……もっと、ちゃんと。」
気がつけば、ぼくも泣いていた。
視界がおぼつかなくなって、下を向く。
気づいた先生が「お前のせいじゃないよ。」と背中をさすってくれていたけれど、ぼくはずっと泣きながら、首を横に振り続けた。
手術が終わったのは、明け方だった。
命に別状はないけれど、意識が戻るまでもっとかかって。
その間、何も手がつかずに、学校にも行かず、ずっと家に一人でいた。
途中、藍からは連絡が来た。
「まだ確証ないけど。――あの女の居場所がばれたの、先生のせいかも。」
「どういうこと。」
「あいつ、保住に校長にチクられて謹慎くらってたじゃん。あれの腹いせで個人情報売られたんじゃないかと思って。」
「なんでそんなこと……。」
「あいつ、相当やばいよ。親が教育委員会で偉いさんやってるから今までもいろいろもみ消してるって。」
藍は興奮しているようでいつもよりよく喋ったけれど、後半はぼんやりしていてよく覚えていない。
一週間後。
カノンが目を覚ましたと連絡があって、ぼくはすぐに病院に行こうとした。
でも、先生に止められた。
「落ち着いて聞けよ。」
あの時と全く同じ、嫌な予感。
「保住な。……今までの記憶、全部なくなってるみたいなんだ。」
カノンの怪我は全治二か月の骨折ぐらいで、記憶を失った以外は普通の病人だった。毎日クラスメイトのだれかしらがプリントを届けに行っては、はじめましてのあいさつをしていたらしい。
ほとんどの人は、ほんとうにカノンと喋るのが初めてだっただろう。学校にいるとき、教室でひとりぼっちのカノンをよく見ていたから。
一ヶ月が過ぎるころ、そんなクラスメイトの人達に、ぼくはこんなことを言われるようになった。
「どうして保住さんのお見舞いに行ってあげないの?」
こちらを非難するような目。言葉。
ぼくはそのすべてから目を逸らした。
まだ、カノンの記憶喪失ですら、ぼくは直視できていなかった。
ぼくのせいなのだろうか。
たくさん、一緒に過ごした。たくさん話をした。踏みこんだ話もした。
でも、ぼくは、表面上のぼくしか見せられていなかった。あんなに一緒にいたのに。カノンもそれがわかっていたんじゃないか。そんな気がしてならない。
だから、一番重要な相談事はしてくれなかったんじゃないか。
あの日。事故のあった日。いやそれ以前からカノンの周囲を彼女の父親がうろついていて。それに思い悩んでいたことを、ぼくは気がつこうともしなかった。
穏やかな日がずっと続けばいいと、平和を妄信していた。
カノンがもうすぐ退院すると教えてくれたのは彼女の母親だった。退院後は卒業までそんなに時間もないので自宅療養するらしく、二人でゆっくり会えるのは最後になるかもしれないから、と言われた。
しぶしぶ向かったのは、東峰大学附属病院。進学先の大学と同じ名前の施設だ。
彼女の病室に向かう途中、中庭を通りがかった。ぼんやりと空を見上げる入院患者がベンチに座っている。あたたかな光に目を細めて。
その髪が、ぼくのよく知っている色と同じで、思わず足を止めた。
相手もぼくに気がついたらしい。棒立ちのぼくに、ゆっくり視線を向ける。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「あの、すみません。はじめまして、……ですよね?」
きょとんとした顔。おろおろする顔。ころころとよく変わる表情。見慣れない、彼女の顔。
絞り出すように声を出す。平静を装って。今にも泣き出しそうだったけれど。
努めて、明るく振舞った。
「あー、君にとっては初対面か。」
「……はい?」
「初めまして。遠野壇といいます。保住花音の――友達、で。よく喋ってたんだ。」
「そう、ですか。」
戸惑っている表情だ。顔を向き合わせているのがこそばゆくて、ぼくは彼女の座っているベンチの反対端に腰かけた。
ややあって、今度は彼女が口を開く。
「どうして今までお見舞いに来てくれなかったんですか。」
「……。」
「いろんな人から言われました。遠野君は来てないのか、って。だから、どんな人か気になってました。」
「……実際会ってみて、どう?」
彼女に見られている気がする。
「意外と普通でした。」
「はは、そうかい……。」
ぼくの反応に、彼女はあわてて弁明を始めた。その饒舌な様子に、入院中話し相手がたくさんいたんだなと安堵した。
ぼくがいなくても大丈夫なんじゃないか。
心の中で思った言葉がすとん、と腑に落ちた。つい、彼女を眺めながら、思う。
ああ、ぼくは彼女に必要とされたかったんだな。
あんなに警戒して、踏みこませないようにしていたくせに。
彼女はひとしきり喋ってから、空を見上げた。昼下がりの太陽が、寒風を温めている。
「トーノさんとお話できてよかったです。」
「どうしたの、急に。」
彼女はなおも空を見上げたまま、そちらに手をのばす。
「いろんな人に、あなたは保住花音って人間なんだよ、って言われたんですけど。ぜんぜんわからなくて。何も思い出せなくて。――はやく思い出せるといいねって、たくさん言われました。」
きっとあの無神経なクラスメイト達だろう。
こころなしか、彼女の表情が明るくなった気がする。
「だから、仲が良かったって聞いてたトーノさんも同じことを言うんじゃないかって不安で。もうずっと、早く思い出さなきゃって思ってたから。」
それから彼女は満面の笑みでぼくを見た。
「だから、トーノさんが一人の人として私と喋ってくれて、うれしかったんです。私が保住花音じゃなくてもいいようなきがして。自分勝手ですけど。」
その素直な表情に、今度こそぼくは零れ落ちそうな涙を我慢した。
「……そ、っかあ。」
ぼくは、そのときほんとうに後悔した。
もう、ぼくの知っている保住花音はどこにもいないとわかってしまったから。
カノン――いや、「彼女」はすごかった。
退院したのち、まだ間に合った東峰大学の試験を受けて合格。ぼくと同じ進路に変えた。学科は違ったけれどよく顔を合わせるようになった。
理由を聞いたら「知り合いがいたほうが安心するから。」と言われて、ぼくは特に口出しすることなく受け入れた。元々のカノンの頭の良さを引き継いで、彼女はすぐに主席になった。
そんな人気者の彼女と、研究室と植物園にだけ出没するぼく。不釣り合いな二人を周りは「どうして付き合ってるのかわからない」と言っていたけれど、ぼくにとってはまず男女の関係であるとみなされているのが不快で、極力そういう人たちのところには顔を出さないようになった。
心の隅で「カノンならこういうとき無視しそうだ」と思うのを免罪符にして。
彼女の中にカノンの面影はない。だからそのぶん、ぼくの中の、想像のカノンだけは守りたかった。
それでも、べったりとぼくについてくる彼女にいっしゅんカノンの面影を見ては、その乖離に苦しんだ。
彼女と完全に決別したのは、大学を卒業するころだった。
ぼくは突然大学の指導教授に呼び出され、卒業論文を書き直すように言われていた。一度提出し、講評を待っているさなかのことで、ぼくはさすがに説明を求めた。けれど、教授はただ一言を繰り返すだけだった。
「ほんとうにすまない。」
深々と頭を下げる教授に、ぼくは何も言えなかった。
言う気が失せた、というのが正しい。
否定されることに慣れてしまっていた。両親から存在を否定されたときからずっと心の中にあった諦めが、急に顔を出したような。
「……わかりました。」
ぼくは黙って論文を書き直しはじめた。残った時間でできるのはまるで小学生の自由研究みたいな内容だったけれど、教授は締め切りはいつでもいい、単位と就職先は保証すると言ってくれていたし、ぼくは何もかもがどうでもよかった。
けれど、ぼくの代わりに怒ってくれたのが、彼女だった。
「私、大学にもう一回抗議に行ってきます!」
「やめときなよ。どうせ前みたいに隠蔽されるだけだ。」
ぼくは何も話していないのに彼女はどこからか話を聞きつけてきては四方八方手当たり次第に心当たりにアタックし続け、そのたびに大人たちに言葉を濁され、はぐらかされて帰ってきた。悔し涙さえ浮かべながら行動する彼女の影で、ぼくはもそもそと論文を書いていた。
それももうまとめ終わって、後は提出するだけだ。
「納得できません! あんなに素晴らしい論文がどうして世に出ないんですか? トーノさんはもっと評価されるべきなのに!」
気がついたら、提出する論文の紙束を、机に叩きつけてきた。
びっくりして目を見開いている彼女が目に入る。
「……いいんだよ、もう。何もしなくて。」
何もわかっていない。そんな彼女にイライラしていた。
ずっとそうだった。ぼくだけしか見えてないみたいについてきて、ぼくに合わせて行動して。
ずっと、カノンの姿でうろうろして。
……そうだ。彼女は、カノンじゃない。
主席卒業を目前にしている彼女にそんな汚点を残させるわけにはいかない。
何もかも忘れて、第二の人生を順風満帆に進んできたかの女の唯一の汚点がぼくになるわけにはいかない。
ぼくは彼女の人生に関係ない。
「もう、関わらないでくれ。」
関係ないところに行かないといけない。
ぼくは、そうして彼女と絶縁した。論文は内容もろくに見られないまま承認されて大学を無事に卒業できて、就職先も教授から彼女へは教えないように頼んできたからわからないはずだ。
でも、最後の彼女の言葉が忘れられない。
去り際、後ろから小さな声が聞こえてきた。絞り出すような小さな声で。
「私、あきらめません。」
思えばあれが、彼女にとって「琥珀派」の始まりだったのかもしれない。
ぼくはその後、教授に紹介された研究機関で数年働き、貯めたお金で海外に飛んだ。そこからはプラントハンターみたいな仕事をして食いつないだ。
故郷に帰ってきたのは、藍から彼女が危ない活動をしていると連絡をもらったからだった。
こっそりと倉庫を出たのは、伊央と東海だけだった。
アカネはその場に残った。どうやら何か考えがあるらしい。
――まあ、前回もそうだったから別段不思議ではない。
ぼくは念のため、入武家にジーンのメールアドレスを教えておく。
「まあ、気が向いたら、ね。」
信用できない返事。
それでも可能性さえ残ればいいだろう。
不安げな東海と、その隣にぴったりと立つ伊央を、学校の最寄り駅まで送り届けた。
「安心して。責任もって家まで送り届けるから!」
伊央の笑顔が頼もしい。
彼女も、漠然とした不安を抱えていたんだろう。
やっぱり、この二人はこうやって一緒にいるのがいい。
あんな暗闇で、引き裂かれるぐらいなら。
二人と別れて、ぼくはそのあたりを歩く。
気がついたら、病院まで歩いてきていた。
白く、のっぺりとした病院。百年ぐらい前からある総合病院で、建物は変わってるらしいけど、ずっとこの街を見てきた場所。
ここにカノンが入院していた。
記憶を失くした彼女はまるで「普通の女の子」みたいに日々を過ごした。
ぼくと同じ大学に通い、いい成績をとってお母さんを安心させ、常にぼくの周りにいて。
そんな彼女を、ぼくは。
「……。」
この世から逃げようとした東海のことを、とやかく言える立場じゃなかったな。
ほとんど全部、思い出せたと思う。
カノンとのこと。ぼくのこと。高校での日々。友達。
ぼくらに何があって、決別して、あの日になったのか。
このときの生きているぼくは。
何もかも嫌になって、海外で仕事をしていたはずだ。
なんでこの国に帰ってきているのかまでは思い出せないけれど、とにかく、運悪く二月十四日の電波塔付近に行ってしまったんだな。
「……お似合いだったかもな。」
すべてから逃げた結果、一人さみしく路地裏で息絶えるのは。
少しでも償いになるだろうか?
そんなことを考えていたら、瞬きと共に景色が切り替わった。
「……え。」
目の前。舞い散る埃と共に、今まさに崩れた瓦礫がある。
それはまるで、あのときの爆発後のような。
でも、それならどうして。
「…………伊央?」
ぼくのつぶやきに、振り返る影が一人。
「橘さんを知ってるんですか?」
アカネだ。どこか存在感が希薄になった感覚。
案の定、足先が透けている。
「助けてください! さっきの爆発に巻き込まれて意識が戻らなくて……!」
「なんで、彼女がここに。」
ぼくを必死に見上げていたアカネは、気まずそうに目を伏せる。
「……わたしを、助けようとして。」
ああ、そうだよな。
自殺しようとしているやつを止めようとするぐらいだからな。
優しいやつだもんな。伊央は。
ぼくはその場にしゃがむ。
ぐったりと倒れている伊央は体のあちこちから血を流していた。
なかでも出血が多いのはわき腹。瓦礫が突き刺さって血だまりを作っている。
息をしているようには、見えなかった。
ぼくはきょろきょろとあたりを見渡す。
「男の子、一緒じゃなかった?」
「……あ、い、いました、けど、どこに行ったかは……。」
うず高く積み上がった瓦礫。
その下からは、薄い湯気が上がっている。
いったい、この下に何人いたのだろう。
東海も、この下だろうか。
ぼくはゆっくりと立ち上がる。
「この子はもう、助からないよ。」
「――そんなこと!」
「心停止してから何分経った? 救助が来る見込みは? ――ここに他の人が来るまで、何分かかる?」
一つ一つ、教えこむように言う。
アカネはぼろぼろ泣いていた。
賢い子だから、本当はわかっているはずなのだ。
しばらく、アカネの鳴く声だけがビルの間に響いた。どこからか聞こえてくる喧騒も、ここから出は遠すぎる。
「誰かくるまで、この子についていてあげて。」
ぼくはそう告げると、ゆっくり歩き出した。
「あなたは? どこに行くんですか?」
「周りの様子を見てくる。」
振り返らずに答える。
人を連れてくるとも、救助を求めることも。
ぼくには確約できない。
いや。もうできない。
そんなことをやっている間にタイムリミットだ。
角を曲がるときにそっと後ろを見ると、祈るように手を合わせるアカネの姿が見えた。
見慣れた混乱。
まだ、頭がこの喧騒を理解できていない。
伊央の幽霊はこの近くにいない。
それどころか、瓦礫のあたりにいたのはアカネだけだった。
あのあたりにいたのは琥珀派――つまり、ほとんどが自殺を考えていた人たちだ。
アカネのことも加味すると、生前幽霊が見えていた人は、そもそも幽霊になれないんじゃないだろうか。
「……くり返したらわかるかな。」
そんなことを呟いて、はは、と息を漏らす。
そこでいっしょうけんめい生きていた人がいるのに。
ぼくの心はもうここにあらず、だ。
足が勝手に向かうのは、いつもの場所。
今回もあそこで終わろう。
ふらふらと歩いて行くと、急に誰かが体を透り抜けた。
見覚えのあるシルエット。
「――大間。」
彼女を刺して、ビルを爆破して、たくさん殺して。
こいつ、まだ生きてたのか。
ぼくはおもわず声をかける。
けれど、その声にやつが振り返ることはない。
大間にぼくは、見えていない。
それでももう一度声をかけようとした時だ。
「おい、そこのやつ。」
ぼくの後ろから、大間に向かって声がかけられた。
聞き覚えのある声。この世で一番なじみ深いその音に。
ぼくも一緒に、後ろを振り返った。
……ああ。初めて見たな。
ボロボロのコート。低身長。ずいぶんと若く見える、童顔の男。
生きている頃の、「ぼく」。
遠出をしていたのだろうか。山に行くみたいな大きなリュックを持っていたが、大間の様子に眉をひそめ、リュックをそのへんに放って歩いてきた。
「お前の名前は知らないんだけどさ。――保住花音、知ってるな。」
「それが?」
明らかにイラついている。
「なあ。まだ女らしい格好してたか?」
「――あ?」
「いいから。」
「……いつもスカートだったけどよ。」
大間は「ぼく」に近づいてきた。
誰だって危ないとわかる状況なのに。
「ぼく」は、明らかに落胆して肩を落としている。
「やっぱりまだ戻ってないのか。こんな騒動起こすくらいだからもしかしたら、と思ったんだけど。」
「なにぶつぶつ言ってんだよ。」
大間が目の前に立つ。
眠そうな、ぼんやりとした目で大間を見上げる「ぼく」。
「保住花音だよ。いくらなんでも長すぎるだろ。もう帰ってきてもいいんじゃないかな。」
「だから、意味がわかんねえよ!」
懐から二本目の刃物を出して、凶器を手にふりかぶる大間。
ひゅん、という音と共にナイフが一すじの光を描くように「ぼく」にのびる。
それをぼくは、ちょっと横に動いて避けた。
大間がバランスを崩す。すかさず「ぼく」は大間の背中に手を置き、脚を引っかける。
力の向く方向に、後押しをするように。
派手に転んだ大男。
その後ろでぱんぱんと手を叩く「ぼく」。
ああ、そういえば。
海外にいたときは、見た目のせいでよく絡まれていたから、痴漢撃退術みたいなものを習っていたんだっけ。
「まだ『彼女』のままだとすると――どうするかな。とりあえず藍にでも連絡入れるか。」
ポケットを探る「ぼく」。情端を捜すそぶりだったが、結局どこにもなかったのか、代わりに胸ポケットのメモ帳をパラパラめくる。
「藍の番号は書いてあったはず……。」
ぼくは、今のぼくとまったく同じ格好をした「ぼく」を見ながら、――静かに、自分の着ているコートの胸ポケットに手をやった。
メモ帳の感触が布越しに伝わってくる。
「ぼく」はふらふらと歩き出しながら、虚空を見つめている。
「――カノン。」
見慣れた路地の、角に向かっているその後姿を、静かに見つめる。
かすかに呟く声が聞こえてくる。
「会いたいよ。」
そんなふうに接してはいなかっただろうけれど。
すべて思い出した今ならわかる。
「ぼく」にとってカノンはとても大切な友人で、ずっと一緒にいたい人で。たぶん、惚れてた。
ちょうど曲がり角で立ち止まる。
今回もまったく同じところで死ぬんだな、ぼくは。
「ぼくが死んだら、元に戻ってくれるかな。――なんて。」
ふ、と笑う「ぼく」。
「さすがにそれは怒られちゃうな。」
その後ろに、影が立ち上がった。
「ぼく」が振り向くより、早かった。
荒い息を吐く大間。
その手には、赤くぬめるレンガが握られている。
物言わぬ「ぼく」が、地面に横になる。
同時に、ぼくにもめまいに似た症状が現れた。
……ああ、今回も終わるのか。
「……もしかして、お前の差し金だったのか?」
大間は静かに、ぼくを見下している。
何の話だ。
そう問いかけたくてもできないってわかってるのに。
「ま、今となっては誤差の範囲だ。――俺は。」
大男がビルの影に消えようとしている。
いや。ぼくの視界が狭いだけか。
「あいつと向こうに行ければ、後はどうでも――。」
遠くで響く爆発音。
誰かの悲鳴。
サイレン。
怒号。
前回と変わらない、いつもの「今日」だ。
そんなことを思っている間に、ぼくの視界は暗転した。
だからだろうか。これから死ぬつもりだったのをやめてしまったのは。
・
なんだか見覚えのある道だと思って歩いていたら、かつて毎日通っていた通学路だった。この道を進んでいけば母校がある、そんな確信があった。
不思議と頭は晴れやかで、以前のような靄がかかったような記憶の不鮮明さはなくなっていた。
少し先に敷地がぼんやりと見えている、第二義務教育にあたる高等部の校舎。または高等学校。いわゆる「青春」を過ごした学び舎は、非常灯以外の光源をすでに落としている。あたりは暗闇に沈んでいて、人通りもまばらだった。
高等学校の周りには田畑や自然が残っている。
もちろん、「手つかず」の自然なんてありはしない。人が手を入れなかったら本当の自然にやられて、今頃外来の植物に飲まれている。
ちゃんと管理会社の手によって里山の風景が残され、森も手入れが施されている。このあたりでは、かつて国民病ともなった「花粉症」において猛威をふるった杉はその数を減らし、代わりに動物の食料になりうる木の実が生るドングリやクルミが多い。
そもそも、緑化教育のために初等学校や高等学校は必ず計画都市の郊外に配置されているのだ。
中心地はオフィス街や歓楽街、その外に住宅街。真ん中を貫くように線路と駅。そんな街が盆地の中に点在し、その間には田んぼや畑がある。
地方都市の計画的な復興計画を完遂した姿。大震災後、この国で増殖した「ゆとりがあって、過不足ない、『なんの変哲のない町』」の典型的な風景。
かつての通学路は多少の変化こそあれ同じようにそこに存在していた。
帰る家はもはやない。ぼくが第二義務教育に入る頃にはおじいちゃんは病院にいたし、ほどなくして亡くなったとき、生まれ育った家は手放した。
なぜか都市計画とは違って残されていた古民家。耐震性も怪しいあの家鳴りの多い家。きっともう、森の中に飲まれているんじゃなかろうか。
懐かしくは思えど、用はない。早々に道を進むことにした。
ほどなくして慣れ親しんだ橋が見えた。街と郊外を隔てる嫌に長ったらしい橋は風が吹けばぐらぐらと足元が揺れる代物で、いつか崩れるんじゃないかと思っていたけれど。今のところ、まだ大丈夫なようだ。
ぼくは遊歩道を進む。そして、三分の二ほど進んだところで人影を見つけた。
母校の制服を着た女生徒。肩に触れないぐらいの髪と短いスカートが、風に煽られて舞っている。
その子は器用にも橋の欄干に登り、両腕を広げ、ぼんやりと川を眺めながら歩いていた。
新雪の上でも歩くかのように、一歩、また一歩と進んでいく。
不思議と安定した歩みで、橋の中心辺りまで進んでいく。
細い月が、雲に隠れた。よりいっそう暗闇が映える。
影絵だ。黒のコントラストだけの世界。
それを邪魔する車の往来すら、今はない。
いかに見惚れる情景だろうと、危ないことには変わらない。
橋から川は建物二階ぶんほどの距離が開いている。ぼくは何かあったときに備えて、少女を驚かせないよう、歩道を歩いて近づいた。
ぼくは不思議と、少女に声が届く自信があった。
「……ねえ、なにやってるの。」
ぴたり、と少女が歩みを止める。声のしたほうを探るように視線を彷徨わせる。
ぼくは親切にももう一回声をかけた。
「こっち、こっち。」
顔だけ振り向いた彼女は、さっきまでのうきうきした感じからは想像できないほど沈んだ顔をしていた。いや、冷めた、と言ったほうがいいだろうか。
ぼくすら映していないのでは、と心配になる目には黒いビー玉のにぶい光。
「邪魔しないでくれる。」
「別に、止めようとは思ってないけど。」
「……変なの。」
「どちらかと言うと向こうの人間なんでね。」
ぼくは静かに足元を指さした。見下ろした少女は透けた足を見て納得してくれたのか、ため息をついた。
「なにしてるの、ですって? 決まってるでしょ。」
つん、と響く声だ。落とせば壊れる硝子結晶のような、硬質で透き通った声。
「わたし、これから死ぬのよ。」
そう言うと、少女は川に向かって足をそろえた。
その後姿はすっとのびていて、見惚れてしまいそうになるほど絵になる光景だったのだけれど、ぼくは無言でちょっと浮き上がると彼女の腰を両手で持った。
ぎょっとした目で振り返った少女がわめく。
「――ちょっと!」
「うん。ちょっと待ってね。」
そのまま自分の体と彼女の体をいっしょにすとん、と歩道に下ろす。
その子の体はとても細くて、軽かった。ちゃんとご飯を食べているのか心配になるくらいに。
「君のそれは、自殺だよね。」
少女の前で仁王立ちをする。じっと見つめると彼女はたじろいだように一歩後ずさり、「そうだけど?」と焦った声をだした。
「それがどうしたっていうの。」
「自殺にもそれなりに作法があるって、ぼくの友達が言っていたんだけどね。」
ぼくはそれを指折り数える。
「一つ、遺書を用意すること。
自殺をする人は、自分の死に意味を与えなくてはいけない。
一つ、靴はきちんとそろえること。
最後の場所に敬意を示すため。飛び降りるときもそうでないときも同様に。
一つ、生きたかった気持ちを持つこと。
そのうえでこの道を選ぶしかなかったと、自分を納得させるように。
遺書はちゃんと用意した? 靴はそろえて置いておきなよ。それから――生きたかったと、そう思って飛び降りなよ。」
「……はあ。」
「それから、もう一個確認。」
「なんですか。」
むっすりとした表情の彼女に、飄々と語る。
「これも友達から聞いたんだけどね。自殺をする人は、誰かに自分の苦しい気持ちをわかってもらうために死のうとするんだって。――つまり、本当に死に救いを求めている人は、案外少ないってこと。」
それだけ自分は追い詰められてるんだってわかってほしいんだよ。
そう言った友人の言葉に、ぼくは違和感を持った。
じゃあ、自殺で死んだ人は気がついてもらえなかった人たちなんだね。
友達はそうだね、と平然とした声で、悲し気な顔をして答えた。
「君は本当に死のうと思ってるの。」
ぼくの話を聞いていた彼女はバツの悪そうな顔になった。それからずんずんと、来た道を戻り始める。
さすがに深入りしすぎただろうか。
ぼくは欄干に寄りかかって、息を吐いた。
雲が晴れて、少しばかりの光が戻ってくる。川面が輝くでもない微妙な光。街灯が遠いぶん、幾分か役に立つだけの光だ。
「ん。」
突然、隣から声がした。
見れば先ほどの女生徒がぼくに向かって何かを渡そうとしていた。
ずい、っとぼくの前に突き出されたそれは手紙の入った封筒だった。おそるおそる手を伸ばすぼくに、いらついた彼女がずい、と
少女と手紙を交互に見ていると、「中身読んでよ。」と促される。
ぼくは素直に封を切って中の便箋を取り出した。
今どき珍しい紙の手紙。一枚だけの質素な便箋に数行の言葉が連ねてあった。
『遺書
わたし、橘伊央は自殺します。
理由は二月十四日に世界が終わると知ったからです。
家族に虐待はされていません。とても優しかった両親にはもうしわけなく思っています。
学校でいじめにあったわけではありません。人より何事も遅いわたしを、みんなは根気よく待ってくれました。感謝しています。
わたしのマンガは隣の家のまりちゃんにあげてください。押入れの箱は中身を見ずに処分してください。小太郎、ごめんね。犬の散歩もうできないや。
わたしは、わたしのために死にます。世界が終わるのを見るのが怖いので死にます。けっして、誰かのせいではありません。そこだけは理解してください。
それでは、さようなら。』
ちゃんとした遺書だった。
ぼくは先を歩き出していた背中を追いかけて、隣に並ぶ。
「遺書、用意してたんだ。」
「当たり前でしょ。あんたみたいなやつに声をかけられなければうまくいってたんだけどね。」
面白くない指摘に笑うこともできない。
今日はもうとばないのか、橘伊央は橋を渡って住宅街へ入った。夜の淋しい街灯がちかちかと瞬いている。
ぼくはその後ろをついていった。最初は鬱陶しそうだったけれど、そのうち気にならなくなったのか平気で話し始めた。
「ねえ。その友達は結局とんだの?」
興味本位の質問だろう。こちらをちらりと見る目はしっかりとぼくをとらえている。
「いいや。今でも元気だよ。――たぶん。」
「なにそれ?」
「連絡とってないし。ぼくはこんなんだからなあ。」
ぼくがそう言うと、橘伊央は何も言わなくなってしまった。
実のところ、その友人の名前すらよく思い出せていない。
交友の狭かったぼくの、カノン以外の友達。きっと一癖も二癖もあるやつなんだろうな。
細い背中が一つの家に入っていくまで、遠くから見守っていた。伊央は最後にぼくをふり返って、家の中に入っていく。
ぼくはそっと空を見上げた。まばらな星が、ちかちかと瞬いている。
「また繰り返してるのか。」
謎の確信と共に、ぼくは静かに目を閉じた。
橘伊央はごくごく普通の高等部生に見えた。
おかっぱ頭にごくごく平均的なスカートの長さ。周囲の生徒に溶けこんでしまう、悪く言えば平凡な。
陽の下で見ても、それは変わりない。
次の日の朝。ぼくはまだ気まぐれに学校のあたりをうろついていた。
登校してきた彼女はぼくを見るなり「うげぇ」といわんばかりの顔をした。
特に気にせず、軽く手を振る。
伊央は小さくしっし、と追い払うようなしぐさをする。
仕方ない。嫌われたのなら早々に退散しよう。
そう思ってきびすを返そうとすると、逆にはあ? と首を傾げられた。
……ああ。あれは手招きだったのか。
下に向けた手を前後に振る。どちらも同じ動作だけれど、意味は真逆だ。紛らわしい。
「なんのつもりなの。」
と、誰もいない校舎の片隅で詰め寄られる。
「もしかして、私が死なないように監視でもしに来たの?」
「そういうわけじゃ。」
「迷惑だからやめてもらっていい?」
「……いや。ここ、母校なんだよ。懐かしくなったから見学してこうと思って。」
やさしく、かみ砕くように。刺激を与えないよう注意しながら告げれば、伊央はそう、と肩の力を抜いた。心なしか顔の表情も緩んでいる。
本気で心配していたらしい。
「ていうかOBなの。」
「そう。飛び級しちゃったからまるまるいたわけじゃないけど。」
「……頭いいんだ。えっと。」
口をパクパクさせる彼女。そういえば、まだ名乗っていなかった。
「遠野壇。よろしく、橘伊央さん。」
「よろしく……なんでわたしの名前知ってるの!?」
「遺書にしっかり書いてあったでしょ。」
「あ。」
まったく、忙しい子だ。ころころと表情が変わる。身振り手振りも大きくて、活発なんだろうな、ということが体全体から伝わってくるようだ。
どこにも、自殺をするような暗い影を背負っているような感じはしない。
「……いや、違うか。」
「え?」
「何でもないよ。」
こういう子だから、っていうのもあるかもしれない。
「ね、まだ温室ってあるかな。」
「あるよ。場所とかも変わってないんじゃない。」
「そっか。ちょっと見てくる。」
「そう。じゃあ、わたし行くから。」
そう言って、橘伊央はきびすを返す。
怒ったようにぷりぷり歩いて行くその姿が子どもっぽくて、ついつい笑ってしまった。
ぼくは目立たないように
カノンと一緒に過ごした学校。
カノンと出会った場所。
やけに鮮明に。まるで映像を見せられているように、彼女のことを思い出した。
第二義務教育の途中。五年生に上がったころ。彼女はぼくのクラスに転校してきた。五月の中旬というとても奇妙な時期だった。
そして彼女は、とても目立つ人だった。
ボブヘアーの琥珀みたいな濃い金髪に、はっきりとした顔立ち。すらりとした立ち姿に合うスラックスを履いていて、長い足が強調されていた。一目で外国の血が入っていると分かるその容姿はいやでも学校中の注目を集めた。
ところが彼女は周りからの目なんてないかのように愛想のないクールビューティなうえに授業をさぼるのは当たり前。後から聞いたらもう飛び級と単位取得はあらかた終わっていて、あとは週に一回でも登校すれば卒業できるような状況だったらしい。
最初、ほとんどの生徒は彼女のことを憧れの目で見ていた。中には反感を持って彼女を見る人もいたけれど、彼女がなにもする気がないとわかると落ち着いていった。
……というのを、ぼくは卒業式の後の懇親会で聞いた。
そのころのぼくはといえば、カノンと同じで飛び級済みの単位取得済みで、大学受験のための内申点稼ぎで登校しているようなものだった。普段の授業以外は温室に入り浸り、交友関係はかぎりなく狭かった。
そんなふうだったから、彼女のことさえ「なんか派手な人がいる」ぐらいにしか思わなかったのだ。
カノンの噂はほとんど友人からの受け売りで、そのどれもが、ぼくの知っているカノンとは別人のように感じた。
ぼくがカノンと初めて喋ったのは、校長先生に頼まれて綿花を植えていた時だ。
ちょうど校舎裏の、鉢植え用の腐葉土が積まれたあたりで作業していた。本当なら今日、校長先生が植えるはずだったのに、急に用事ができたらしい。
ちょっと児相行ってくるー、と元気に出かけていった。
ぼくは午前中の授業に出ないことを先生に伝えて、作業にいそしむことにした。
プランターを見繕い、いつも通り準備する。校長先生からもらった、一日水に浸けた綿の種を数粒ずつ植えていく。
集中していると、急に手元が暗くなった。
周りが晴れているので雲が流れてきたわけではなさそうだ。影を目で追えば、隣に人が立っていた。
「あ。」
数歩先にいる、カノンと目が合う。
最初に見たとき、逆光だったこともあって髪色の違和感にまったく気がつかなかった。でも、すぐに本当に太陽が雲で陰って、まともに彼女の顔を見た。
きれいだな、と素直に思った。
一方彼女は気まずそうにしている。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
彼女は今まさに、煙草に火を点けようとしていたらしい。ライターをさっと後ろに隠したが、口に加えた煙草までは隠しきれていない。
なんだかそれがいたずらを見つかった子供のようで、ぼくは彼女のことをみのがすことにした。
「もうちょっと奥のほうだと人気ないよ。」
校舎と反対側、桜の木が植わっているところを指さす。
あの先は軽いフェンスがあって、そのまま隣の雑木林まで木がたくさんある。休憩スペースのベンチもあるけど、虫が多いからあまり生徒が近づいているのは見たことがなかった。
そもそも、校舎裏自体人気はない。ぼくみたいに腐葉土を取りに来るぐらいしか用はない。
「あ、ありがとう。」
そう言って彼女は向こうに行こうとする。
「あ、一応聞くんだけど。」
「は、はい。」
「それって……合法なやつだよね?」
ぼくは彼女の煙草を指さす。
煙草はずいぶんと前から規制対象で、最近はニコチンの含有量が多いものは違法化されている。あと、それに合わせて裏で流通している煙草の中身が実は危険薬物だった、なんて話もある。
そして、これを知っていて人に煙草を勧めたり、吸っているのを黙認するのも罪に問われる。
「大丈夫。合法。」
「『安心、安全な』?」
「うん。」
「ならよし。」
ぼくは自分が共犯にならないことを確認すると、じゃ、と自分の作業に戻った。
ちょっとおどおどしている彼女はそそくさと木の向こうに消えていった。
そして、少しして帰ってくる。
手には吸い殻入れをぶらぶらさせている。そしてどこか、気まずそうだった。
彼女は無言でぼくの隣に来た。ただし、人ひとりぶんの間を開けて、しゃがみこむ。
「……え、なにかあった?」
「うん……。」
そのまま黙ってしまった彼女を、とりあえず気にしながら作業を続けた。校長先生はバケツいっぱいの綿の種を仕込んでいて、もうこれ畑に直接撒くレベルじゃないかと思ったけれど、まだ学校の畑には別の作物が植わっているようだ。
「ヤッテタ。」
唐突に彼女がつぶやく。
なにを、と聞きそうになって、しばらく考えを巡らせる。言葉を濁すような何かの存在を思い浮かべて、ぼくは彼女のほうを向くのを控えた。
「……いちゃいちゃしてた、ってこと?」
「うん。」
「ごめん。そういう場所だって全然知らなかった……。」
「うん……。や、知らなくていいよ……。」
ぼくは作業のスピードを上げる。一刻も早くここから離れたかった。
その様子をしばらく眺めた後、彼女はおもむろにぼくのほうへ一歩寄ってきた。
「手伝う。」
「え、いいの。」
「うん。授業でたまにやってただけだけど……。」
「ありがとう。教えるよ。」
それから二人でプランターに種を植えて、水をやって、日当たりのいいところまで運んだ。その間、ちらちらと木の向こうを見ては「行った?」「まだいそう。」「あ、行ったかも。」なんて会話をした。それ以外のことは特に話さなかった。
黙々と作業をするのは、彼女にとっても楽だったようで、震えていた手も、青かった顔も、徐々にもとに戻っていった。
太陽が真上に昇る頃、最後のプランターを動かし終えたぼくらに、校長先生が声をかけてくる。
「――あらあら。二人ともさぼり?」
「先生が頼んだんじゃないですか。」
「遠野くんにはね。――あら、こんにちは。」
「……こんにちは。」
校長先生は真っ先に彼女のほうに歩み寄って、小声でなにか聞いていた。彼女は小さくうなずいたり、首を振ったりしていた。
ぼくは手持ち無沙汰なので、使ったシャベルや一輪車を片づけに行く。軍手を外しながら戻ると、もう校長先生はいなかった。
「あれ、先生は?」
「どっか行っちゃった。」
そう、とうなずいて、ぼくはじゃあと彼女に手を振った。手を洗いに行ってご飯でも買いに行こう。
「あ、先生がこれあげるって。」
慌てて彼女が袋に入ったお菓子を掲げる。ぼくは全部彼女にあげてもよかったけど、いちおうきっちり半分もらっておいた。
これで、貸し借りもなにもない。フラットな状態なはず。
「じゃあね。」
「うん。じゃあね。」
軍手とおせんべいで両手がふさがっていたから、手も振らずに別れた。角っこでちらりと振り返ると、彼女はあまりにもあっさりした別れにぼうっとつっ立っていた。
これが、最初に関わった彼女。
彼女がぼくに名乗るほど近づいてくれるのは、もう少し先のことだ。
温室はそのままそこにあって、相変わらず裏寂れた雰囲気をまとっていた。
高さは三階建ての校舎と同じぐらい。鳥籠のような円形で、教室一つぶんぐらいの広さがある。
暖かい室内には朝の柔らかい光が降り注いでいる。
ぼくの育てていた鉢植えは、もうない。当たり前だ。卒業するときに止める先生の反対を押し切って全部引き取ったから。
卒業式の日の先生とのやり取りはいまだによく覚えている。
「立派に育ったからあ……! ぜひ寄贈してえ……!」
「嫌です。」
まだいるだろうか。生物の三松先生。
ふふ、と笑ってから、ああ、いいなあと思った。
やっぱり記憶があったほうが、ぼくって感じがする。
代わりと言ってはなんだが、なぜか月光草が咲いている。管理されているというよりは、無造作に生えている感じか。
月光草は日陰を好む。温室の中の、基本的に直射日光の届かない背の高い木の下に咲いていた。
賢いな、と、月光草を見ると思う。日当たりの悪い場所は、他の植物は避ける傾向にあるから競争率が高くない。つまり、種として生き残りやすい。
そして、この花は――。
……あれ。なにを思ったんだっけ。
急に、思考が不鮮明になる。まだ思い出し切れていないことがあるのだろう。
ぼうっとしている間に、今日何度目かのチャイムが鳴り響いた。あっという間に放課後だった。
一日中温室でぼんやりするだなんて、まるで学生時代に戻ったかのようだ。
下校が始まり、ぼくは校門のところで伊央を待った。いちおう帰る旨を伝えておこうと思って。
人混みが引き始めたころに伊央は元気にかけだしてきて、ぼくをスルーしてどこかへと走っていく。追いかけてみると、どうやら友達が先に帰ってしまっていたらしい。
「東海!」
伊央の声がする。呼びかけに振り向いたのは、ほっそりとしたシルエットの、制服からして高等部生だった。
「伊央。もう帰ったかと思った。」
「ちょっと先生に呼ばれてて。」
陽の光をまったく通さない日傘に、防寒とは違う意味でつけているのであろう手袋。農作業でもするかのような垂れのついた帽子からは目立つ白髪がちらりと見えている。
アルビノ、というんだっけか。体の中の色素が欠けていて、日光に弱いというのは聞いたことがある。でも、それ以外は特に何の変哲もない学生にみえる。
壊滅的に成績が悪いとか、性格に難があったのならわからないが。
少年は伊央を見つけると濃い色のサングラスをずらす。赤い目が伊央を見て、そして、少し横を見る。
色素の薄い赤目の少年は、ぼくのことをまっすぐに見ていて、ぺこり、とお辞儀までしてきた。
伊央もすぐわかったのだろう。振り向いてぼくがいるのを確認すると(とても嫌そうな顔をされた)、慌てて少年に駆け寄った。
「東海、あれ視えるの?」
「え、うん。……橘さんの知り合い?」
「そんなとこ、だけど……。」
伊央も困ったように俺を振り向く。
二人の視線を一心に浴びながら、気さくな動作で歩き出す。目の前に立つと、東海と呼ばれた彼はぼくよりすこし背が小さいくらいだった。そのうち追い抜かれちゃうんじゃないかな。
確認のために彼に目を合わせる。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
しっかりした返事をもらって、ぼくはひとつ頷いた。
東海はぼくを見て、彼女を見てを繰り返してから「どこか行きませんか」とぼくらを促した。確かに道の真ん中に立っているのは邪魔だろう。
「付いてっていい?」
にこにこと話しかけたぼくに、東海はまたきょときょととぼくらを見て、ひかえめに頷いた。伊央はむすっとした顔で先を歩き始めた。
二人はあてがあるようで、迷いなく歩いて行く。
ぼくは隣を歩く東海に声をかけた。
「突然ごめんね。」
「いえ。……伊央の知り合いですか?」
「うーん。昨日会ったばかりなんだけど。あ、名前、遠野壇。」
「東海千広です。東海とか、ヒロとか呼ばれてるのでどちらでも。」
「じゃあ、ヒロで。」
確証を持って言おう。
ぼくが視える人間とはつまり。一度でも本気で、自殺を実行した人なのだ。
ジーンもアキラも。そしてきっと、彼女――森川ゆいなも。
向こう側を見ようとしたから。向こう側にいる、ぼくが視えるようになった。
もう、自分が視える人に安心感を持つのはよそう。
時おりすれ違う人が、東海をちらりと見る。
「ね、伊央。」
「なによ。」
「東海ってどんな子。」
後ろから話しかけても振り返ってもらえない。
「本人がいる前で聞く?」
「本人に聞く内容でもないだろ。」
「そうだけど。」
ぼくらの会話を聞いて、困ったように東海が振り返った。
それから伊央の顔を見て「ふっ」と笑う。ふくれっ面でもしていたのだろうか。
「ぼくも聞いてみたいな。」
「へっ。」
「伊央はぼくの事、どんなふうに思ってるの。」
「そ、それは……。」
明らかにこちらにするのとは別の声音で戸惑い、そしてようやくぼくをふり返る。伊央は顔を真っ赤にして怒っているようだった。
もごもごと口を動かしていたが、やがて東海のまっすぐな視線に耐えられなくなったのだろう。
「そ、そうだなあ。……他の男子みたいにうるさくなくて、物静かで。」
「うん。」
「落ち着いてて、いつも冷静で……。」
「うん。」
「……せ、成績いいし。」
「うん。」
東海は、やさしい笑顔で伊央を見ていた。
その姿が、なんだかなつかしく思える。
「……どうしたの?」
いつの間にか立ち止まっていたらしい。伊央に声をかけられて、首を横に振る。
「なんでもない。ちょっと友達の事を思い出しただけ。」
「ふーん。」
至極不満そうな顔の伊央。
そりゃあそうか。こっちが質問したのに聞いてないんだから。
ぷう、とほっぺを膨らませて、伊央がそっぽをむく。
そのままずんずん歩いて行く彼女を、ぼくと東海は黙って追いかけた。
二人の密会場所は自然公園の中にあった。
百年くらい前は学校の敷地として使われていたらしい公園。
端っこに旧校舎がある以外はなんの変哲もない公園になってしまっている。
「こっち。」
手招きされるままにもっさりと木の生える人口の丘を上がる。頂上には東屋があった。
「いつもこんなところで話してるのか。」
「人いないし、屋根があるから。」
確かに、東海にとってはそっちの方がいいか。
東海はベンチに座ると日傘を畳んで、サングラスをとる。
やっぱり真面目そうな子だ。礼儀正しさが伝わってくる。
こんな子が伊央とつるんでいるのがいまいちわからない。
そんな目線を送っているのがばれたのだろう。にらまれた。
「遠野さんは、その。」
「死んでるんだって。」
至極当然のように会話が進む。いやいや、そんな突拍子もないこと言ってどうするんだ。
そう思っていたのに、東海は意外と驚きもせず、伊央のほうを見ている。
「そうなの?」
「うん。――ねえ、やっぱりあの話、本当なんだね。」
「遠野さんがそうなら本当なんだよ。ほら、言った通りだったでしょ。」
なぜか二人で盛り上がっている。
「どういうこと?」
ぼくはたまらず聞いた。
伊央はちらりとぼくを見る。その隣で東海は平然と言ってのけた。
「二月十四日の新電波開放。それによって人間は肉体の枷から解き放たれる。既存の社会は崩壊するけど、人間はもっと自由になれるって、琥珀派の人が言ってたんです。――ぼくは、それを信じてます。」
琥珀派。ここでもその名前を聞くことになるなんて。
いや。この話は伊央が遺書に書いていたか。
じゃあ、東海は琥珀派の人間なのか。
ぼくは伊央を見る。
伊央は、東海から顔を背けていた。その顔は険しい。琥珀派の思想を手放しで信じているようには見えなかった。
琥珀派に傾倒する東海。
そんな東海を心配している伊央。
二人の関係が見えた気がした。
「本当にそうなったとしたらどうするんだ?」
「そうなるのは決まってますけど……。その時を静かに待つだけです。」
東海は伊央に振り向いた。
「最期の瞬間は橘さんと過ごす約束をしているんです。ね。」
「……うん。」
嬉しそうな東海。
伊央は、必死に笑顔を作っている。
ぼくはそんな二人を見ていられなくなった。
「……そんな理想的な話じゃない。」
顔を上げる。
きょとんとした顔の二人が、ぼくを見ている。
「肉体から離れると、元の肉体は死ぬんだよ。もう後戻りはできない。自由になるなんて、そんなことはない。」
現にぼくは、生前の自分の姿を追い求めることに執着している。
ぜんぜん、自由なんかじゃない。
「むしろ不自由なくらいだ。記憶は曖昧、時間も一定じゃない。なにもかも勝手は違うしできないことができるようになってもできていたことはほとんどできなくなって。」
「遠野さん?」
おかしくなっていくぼくを見て固まる伊央の隣で。それでも東海は冷静だった。
「それでも、みんなが肉体の枷から解放されることを否定はしないんですね。」
「――ああ。」
何かを確信しているような、冷静沈着な東海。
そんな彼に言うか迷ったけれど。
「ぼくは、二月十四日から来たからね。」
ありきたりに、事実を告げた。
普通なら信じないはずだ。
でも。ぼくはジーンを思い出す。
ぼくが見られるこの二人なら。いや、ぼくのようになりたいと願ってしまった人ならば。
「本当に?」
そう疑問形で尋ねながらも東海は先ほどとは打って変わって明るい顔をしている。
「ああ。二月十四日、新電波が解放されたら――みんな、ぼくみたいになるよ。」
「やっぱり、間違いじゃなかったんだ……!」
まるでツチノコでも見つけたみたいに瞳を輝かせる東海。
ぼくは、彼をにらんでしまったかもしれない。
あの惨劇を。たくさんの人が命を落としたあの日を、知っているからこそ。
それが救いにならないと、教えないといけない。
「……東海。」
そのとき、伊央と目が合った。
何も言うなと言わんばかりに、小さく首を横に振っている。
その泣きそうな顔を見て、ぼくは口をつぐむ。
喜ぶ東海は幼く見えて。
そんな彼に現実を教え込んだところで、果たして幸せになれるのか、ちょっと考えればわかることだった。
夕方。東海と伊央がやって来たのは、まずは最寄りの駅前。
改札前の陽があたらない場所。
人を待つには奥まったそこは、東海のための配置だ。
「ここで待ち合わせして、そっから行くんだ。」
「初対面なんだっけ。」
「うん。第二空間で昨日会って。」
それで何の疑いもなく来ちゃうんだからすごいよな。
生前、人付き合いはよくなかったし、あまり第二空間を利用した記憶がなかったから感覚が違うのを実感する。
「ね。トーノさんってどんな学生だったの。」
話題に困ったのだろうか。伊央が訊いてくる。
ぼくは苦笑いを返した。
「今とほとんど変わらないよ。」
「幽霊みたいってこと?」
「……そうかもね。」
そこにいてもいなくても周りの人から見れば変わらない。
確かに、今と同じだ。
「トーノさんって友達いなさそうだもんね。」
おい。
黙ってにらむとふふ、と声をあげて伊央が笑う。
その隣で東海はぼうっとしている。
魂が抜け落ちたように虚空を見る彼。
実際にまわりにいたわけではないから詳しくはわからないが、鬱病の患者ってこんな感じなんじゃないかな。
無気力。おそらく笑うことすらできないくらい疲れ切ってる。
「――大丈夫か?」
ぼくは東海の前で手を振る。
は、と東海が目を上げる。
「――。うん。」
あまり元気ではない返事。
ぼくはその返事に「そうか。」と返す。
反応があればそれでいいだろう。
そのとき、足音が近づいてきた。
「――あの。ベルさん?」
「あ、夕ちゃん、こっちこっち。」
かつかつ鳴るローファーの足音と共に歩いてきたのは、どこか見たことのあるシルエット。
ぼくとは決して合わない、目線。
「お待たせしちゃった……今日はよろしくね。」
聞き慣れた声。
紛れもない。そこにいたのはアカネだった。
アカネが失踪する前、第二空間で会っていたのは伊央だったのか。
電車に乗って移動する三人は、どこからどう見ても仲のいい学生グループで。
それが逆に、気持ち悪い。
ぼくがムズムズしていると、ちょっと待ってねと伊央が情端を取り出す。
電話をかけるふりをしているが――目線はぼくに合わせている。
ぼくが周りからは見えないことを知っての配慮だろう。
「どうしたの?」
「……知らない人とよく仲良く喋れるなと思ってさ。」
「あはは。やっぱコミュ障なんですね。」
なんでだろう。ていねいな口調が逆に癪に障る。
「確かに、友達なんて二人ぐらいしかいなかったよぼくには。」
「まだいいですよ。私なんて一人だけなんだから。」
ちらり、と東海のほうを見る伊央。
そうだろうか。
少なくとも伊央は、学校では他の子とも喋っていたじゃないか。
むしろ孤独なのは。
ぼくもちらり、と東海を見る。
一見元気そうにアカネと話しているけれど。
から元気、なのだろうか。
ぼくにとっては見慣れた倉庫街。見慣れた倉庫に案内されたアカネはきゅっと鞄を持つ手に力を込めていた。
まあ、いろいろあるんだよな、ここで。
緊張するのもわかるよ。
そう声をかけてやりたいのは山々だったが、なんせ見えてないからな。
倉庫の扉が開く。
「やあやあ。よく来たね。」
その声は、こちらも聞き覚えのあるもの。
アカネも写真を覚えていたんだろう。すぐに気がついたらしい。
「……安芸真弓さん?」
「お、その名前で呼ばれたのは久しぶりだなあ。」
前にあったときはもっと学生らしい雰囲気だった気がしたが、今は大人っぽい落ち着きを身にまとっている。高等部のやつらがいるからだろうか。
「ここでは『入武家三香』で通してるんだ。ハンドルネームみたいなものだから、どちらで呼んでもらってもかまわないよ。」
その名前にも覚えがある。以前杉戸と一緒に聞いた警官からの報告にあった。
「じゃあ、入武家さんで。」
アカネはさすがに順応が早い。
彼女の答えに古守はにっこりと笑って、三人を手招きした。
「寒いから早く入りな。もうすぐ日も暮れるし。」
促されて歩く三人のすぐ後ろで扉が閉められる。
ぼくはなにも気にせず、扉を透りぬけた。
明らかに視線を感じる。
前回話したやつらだ。見覚えのある顔がこちらを一瞬見て、何事もなかったかのように再び動き出す。
周りのことを見て生きていた証拠のようで、なんだか悲しい。
三人は倉庫の真ん中にある大きな機械の脇を通り抜け、反対側にある別の機械の前にやってきた。
そこにあったのはパソコンからのびるごつごつしたヘッドフォンと、簡素な椅子。
「これは?」
「まあ、まずは座ってくれたまえ。」
アカネは首をかしげながらも言われるがまま丸椅子に腰かける。
入武家はさっとアカネの頭にヘッドフォンを装着させ、パソコンをいじった。
「まずはこれを聞いて。」
アカネはあきらめたように目を閉じた。
ぼくも、耳を澄ます。
漏れ聞こえてきたそれは、「音」だった。
音楽じゃない。不規則に並んだ「音」。どこか神経を逆なでする、不協和音。
アカネも眉間に皺を寄せながら頑張って聞いているようだ。
一度聞いたら忘れられないような。
と思ったら次の瞬間には忘れていそうな。
そんな不思議な、「音」。
ぼくはその音を――どこかで聞いたような気がした。
そんなはずはない。こんな変なものが二つとあってたまるか。
けど、どこか既視感のある音なんだ。
聞き終わったアカネはすぐに入武家に向き直る。
「これ、なんなんですか?」
叩きつけられるように返されたヘッドフォンをやさしく置いて、入武家は至極真面目にこう言った。
「『精神分離信号対消滅音』だ。人には、魂のようなものが確かに存在している。けれどそれは実体を伴わない、まあ従来通りに言うと精神に近いもの。新しく運用が開始される新電波『ペル』は第二空間への没入感を高めるなんて触れ込みらしいが、それだけ精神が第二空間に馴染みやすいってことなんだ。そのぶん、体との乖離が起きやすくなることも容易に想像できる。でもそんなの、天文学的可能性にすぎない。実際にそんなふうに通常通りの生活ができなくなるほどの影響が出るのはほんの一握りの人だけだろう。」
「じゃあ、何がそんなにいけないんですか?」
アカネの疑問はもっともだ。
入武家はにやり、とわらう。
「君は月光草を知っているかい?」
「ええ、もちろん。」
そりゃそうだろう。そのへんに雑草並みに生えてるからな。
「元々自然界には生存するために進化をする動植物が多々あるわけだが。あれは自分に有害な電波を変質させる効果を持つ植物なんだ。わかりやすく言うと、月光草は電波を有害と判断し、その効果を歪めてしまう。」
「……変質した電波はどうなるんですか。」
「人体と魂を分離させる効果をもつ、最悪な電波になる。」
はあ、とアカネの気の抜けた声が響く。
「そこで我々が研究していたのが『精神分離信号対消滅音』。これと月光草の歪めた電波をすべて受信することで、精神を体にとどめる作用を起こす。どうだい、わかってもらえただろうか?」
アカネは少し無言で考えていた。
「質問を、いいですか。」
「ええ、どうぞ。」
「その、あなたの考えた、『対消滅音』? を聞けば、新しい電波を流しても問題ないんですよね。」
「理論上は。」
「――なら、なんで電波塔爆破なんて話が出てきたんですか?」
「それは、大間という人物の、個人的な感情が計画をゆがめてしまったから、かな。カノンは元々私のプランで動く予定だったようだけど。」
「大間……。」
いまいち実態がつかめないのだろう。アカネはあいまいに首を傾ける。
この日、この時間のアカネにとってはまだ大間はそこまで重要な存在じゃないだろうから。
「電波塔が破壊されたとして、みんなは助かりますか?」
「おそらく電波による被害よりも爆破による被害のほうが大きいだろうね。」
なるほど、と今度ははっきり頷くアカネ。
「じゃあ止めなきゃですね。」
すっと立ち上がったその顔は、いつもの柔和な笑みだった。
どこかすっきりとしているような。
「お話、ありがとうございます。」
「参考になったかな。」
「ええ、とっても。私なりに頑張ってみますね。」
その場を去ろうとして、アカネはふと振り返る。
「でも月光草って迷惑な植物ですね。なんでそんなふうに変わっちゃったんでしょう。」
「さあ。それはなんとも。」
「見た目はきれいなのに。――いっそ、なくなっちゃえばいいのに。」
そう言って、スカートを翻し、颯爽と二人に合流した。
アカネの様子を眺めていた東海と伊央はすぐに彼女を伴って、下の階に通じる扉に歩いて行く。
最後の言葉はほとんどつぶやくような声で、もしかしたら入武家には聞こえていなかったかもしれない。
研究者はふう、と息を吐く。
「――もちろん月光草は人間に被害が出ることなんて考えてないさ。あれは自分を守るために進化しただけ。――むしろ人間のほうが進化に乗り遅れた、滅びるべき種族なのかもしれない。」
ふ、と研究者は笑う。
「あなたならそう言いそうですね。遠野壇。」
まっすぐな目が、ぼくを視ている。
「どうかな。そこまで人に興味はないよ。」
入武家は――安芸真弓は、確かに前回もぼくと喋っていたっけ。
ぼくの言葉に入武家は満足げに瞑目した。
「噂はかねがね。いつかお会いしたいと思っていましたが、もう手遅れのようですね。」
その言葉には、苦笑いを返すしかない。
「ぼくが死ぬのは十四日の夜だから、生きてる方はまだ捜せばどこかにいるんじゃないかな。」
「それはまた面妖な。――いうなれば幽霊というよりは生霊ですかな。」
「より正確に言うなら時間に縛られた地縛霊、かな。」
「なるほど。『“時”縛霊』ですか。」
入武家はくつくつ笑う。
「時間が許せばあなたの状況も観察してみたかったものです。」
黙って肩をすくめることで、返事をしたことにする。
「――最近、カノンに会いました?」
「直接はないですね。どうしてです?」
「大間に囚われてるみたいなんで。助けたいんですけど。」
ぼくの言葉に入武家は首を傾げた。
「そんなことしたって、なにも変わりませんよ。」
「扉開けます。」
「あー、鍵かかってるねえ。」
「じゃあ鍵開け使います。」
「はいどうぞー。」
机にダイスの転がる音が響く。
ぱん! と手を叩く音と共にアカネが拳を突き上げた。
「はい初期値成功!」
「ええ……。」
「……ええっとぉ……。」
困惑する東海の横で、伊央が今まさに開かれた扉の先に何があるのか、情端の画面をスクロールして情報を捜している。
……なんでアナログゲームなんだ……。
ぼくはここ二、三日繰り返されている彼らのゲーム風景をため息と共に見守っている。
アカネは東海や伊央と共に地下の部屋で過ごすことにしたらしい。
前にいなくなったときもこんなふうに過ごしていたのかな。
さすが、適応能力が高いとした言えないところだけれど。
常にローテンションの東海に合わせるように、自分の調子を変えている。
まるで元から三人で行動していたみたいにしっくりと馴染んでいる。
見えない彼女に配慮してか、伊央は、たまにこっそりぼくに話しかけてくれる。
「あの『対消滅音』を聞いても体に異常がなければ琥珀派に入れるんだ。夕ちゃ――アカネちゃんも大丈夫だったみたいだね。」
「へえ。」
ぼくの興味のなさに伊央は立腹していたようだ。
「ひどい人はそのまま目覚めなかったりするんだからね!」
「――そんなに危険なのか?」
鋭い質問にすっと目線を横にずらす伊央。
「えっと、危険というか。聞いた瞬間トーノさんみたいになる、っていうのが正しいかも。」
なるほど。対消滅音だけだとそういう効果があるのか。
ぼくだってぼんやりとしているばかりじゃない。
あれだけ電波の話を聞いていれば、自分が「こう」なった理由に、思いを馳せないわけないから。
そのことを考えていてぼうっとしてしまうのは、許してほしいところだ。
三人は学校に戻ることなくずっとここで遊んでいた。
最初はボードゲーム。ダイアモンドとかリバーシとか。その後カードゲームの日があって、今日はどこからか出てきたダイスを使いたいからとCOCだ。それしかルルブがなかったらしい。
知識では知っていたけど、本当にやってるところを見るのは初めてだ。
アカネと伊央はきゃあきゃあと楽しそうに遊んでいて、それを東海が静かにほほ笑みながら見ている。きっと、疲れているんだろうな。
東海はたまに二人と遊ばずに横になったり、そのあたりをふらふらしていることもあった。
ぼくは、東海が部屋から出るときはその後姿を追いかけた。
伊央が心配そうにその背中を見送るから。
たとえ力になれないとしても、伊央が安心できるなら監視役ぐらいにはなるだろう。
倉庫の屋上に東海はいた。
ぼうっと街のほうを見ている。
ぼくも隣に並んで同じ景色を見た。
うっすらと新電波塔の黄色い影が見えている。案外近いんだな。
「……遠野さん。」
「うん?」
「自殺したいって思ったこと、ある?」
ストレートな質問に、相当参っているようだと感じる。
「ぼくはないけど。友達がいろいろ方法とか調べてたな。」
初めて会った時、高瀬藍はテーマパークシンドロームを患っていた。
いつもフルフェイスのゴーグルをかけ、世界と自分を隔てるものがなければ生活できない。そのぶん藍はネットに詳しかった。
「自殺するときの作法とか、どの方法が一番迷惑かからないかとか。ほら、練炭って準備するのも片づけるのも大変じゃんか。」
「いや。知らないけど。」
そっか。そんなものか。
友人のせいで迷惑な知識がついてしまった。
「……一番簡単な死に方って、なんだと思う?」
「さあ。」
この答えを聞いたとき、ぼくは目から鱗が落ちる思いだった。
それは首を吊ることでも、崖から飛び降りることでもなく、もちろん睡眠薬をたくさん飲むことでもない。
「生きることだって。」
そのことをぼくに告げた藍自身、自分の言葉に肩をすくめてたっけ。
東海がここに来てから初めてぼくのほうを見た。虚ろな瞳に、しっかりとぼくを映す。
「……なに、それ。」
「それなりに人付き合いを持って天寿を全うすれば、警察の厄介になることもなく、すんなり死亡届を出してもらえて、ちゃんと火葬してもらってお墓に入れる。身辺整理をしておけばもっと完璧。面倒な後始末は特にない。一番、他人に迷惑をかけない死に方なんだってさ。」
ああ、とぼくは続ける。
「もちろん残された人に面倒ごとを押しつけてもいいって思うなら、今すぐ飛び降りたとしても止めないよ。」
倉庫の屋上はだいたい五階ぶんぐらいの高さがある。命を絶つには十分な高さだろう。
ぼくの言葉を聞いても、しばらく東海は動けずにいたようだ。それから静かにため息をついて、ぼくのほうに体を向ける。
「……そこまで自分勝手になる勇気なんてないよ……。」
「そうか。」
内心、ほっと胸をなでおろす。
ここで東海を助けられなかったから、後で伊央たちに何て言われていたか。
東海はその場にずるずると座りこんで、脚を抱えてうつむいてしまった。
落ちていく陽はあたらない。ちょうど日陰になるところに立っていたから。
そう。彼にとって手段の一つであるはずの「陽に当たる」という行為を、実際にやっているところは見たことがなかった。
「一人で死ぬつもりだったのに。でも琥珀派の『予言』を聞いて、なんだかほっとしたんです。」
「――『電波を浴びればみんな死ぬ』ってやつ?」
「そう。」
東海はへへ、と顔を上げて笑った。
「遠野さんみたいになるって知れてよかったなあ。そんなの、ぼくのほしかった『終わり』じゃないから。」
「うん。」
「最初はみんな一緒に終われるならさみしくないな、って思って。……本当はさみしかったんだなって。」
今更気がついたみたいな。
言葉にしてやっと気がついたかのような、その表情。
「だから、伊央が一緒に行ってくれるって言ってくれて、うれしかった。もう一人じゃない。と、思ったから……。でも、どうしよう。これ以上彼女を巻き込みたくないとも思うんです。」
東海はまた頭を抱える。
「ぼくでもわかる。琥珀派がやろうとしていることが犯罪になるってことも、ぼくらに接してくれている人たちみたいな優しい人ばっかりじゃないことも。
でも、これだけのことを知ってしまったら、もう逃れられないでしょ……?」
「どうだかな。」
ぼくは空から地上へと光源がうつっていくのを眺めながら、このどこかに今まで出会ってきた人々がいることを夢想した。
もしも前回みたいにジーンがここにたどり着けたら。
杉戸に助けを求めていたら。
そんなことを考える。
「案外すんなり出してもらえるかもしれないぞ。」
「でも。」
「やってみなよ。死ぬよりは簡単なはずだ。」
ぼくは東海と目線を合わせるようにしゃがむ。
「伊央を連れてここから離れろ。今すぐだ。」
東海は目を泳がせて逡巡してから、確かに首を縦に振った。
放課後は必ず温室にいた。
家に帰っても一人だ。だったら植物を眺めていたほうがいい。
そんな僕の傍らには、いつも友達が暇つぶしのためにやって来る。
ぼくの友達は二人。
保住花音と、高瀬藍。
不定期に学校を休むやつらだった。
特に藍は休みがちなやつだったから、カノンと顔を合わせることはあまりなかったのだけれど。
「今日もいるのか、ノッポ女。」
「夢男もね。」
なぜか、会うとケンカをする。
どこで覚えてきたんだってくらい昔のスラングを交えながら言い合う二人を、温室を見に来た生物の先生は「仲がいいねえ。」なんて笑ってみていたけれど。
ぼくにとっては植物の世話の邪魔でしかなかった。
ヒートアップする二人の前に、アブラムシのついてしまった鉢植えをどん、と置く。
「作業をしないなら、帰れ。」
二人はぼくと鉢植えを見比べて、仕方なくピンセットを取った。
その日は確かテスト前の自習期間で、クラブに所属している生徒は各々下校を済ませていた。
静かな校内で、ちまちまと作業をするぼくら。
ふたたび温室にやってきた生物の三松先生は、寒かろうと思ったのか三人分のコーヒーを持ってきてくれた。
「……いいねえ、ここは平和で。」
湯気の出るマグカップをありがたくもらう。
二人も先生には礼儀正しくお礼を言ったが、一緒に添えてあったお菓子の味で喧嘩をはじめた。
「外は戦争中ですか。」
ふざけて聞いてみる。
先生は肩をすくめた。
「受験って名前のね。いやあ。普通の六年生は今頃必死に勉強してるんだけどねえ。」
残念ながら三人とも飛び級を終えていて、進路も固まっている。
ぼくは近くの国立大の推薦をもらっていて。
藍は得意だったプログラミングの会社へ就職。
カノンは夏には私大のAOを突破していた。
「先生。別に私たちが特殊ってわけじゃないですよ。」
「そうですね。行き方は人それぞれだから。」
「どんな手段でも進路が決まってしまえばこっちのもんですよ。」
飛び級生達の言葉に、先生ははは、とかわいた声を漏らす。
まあ、他の生徒たちには申し訳ないけれど。
ここにいる三人は、まともに学校に馴染めなかったんだから、このぐらい許してほしい。
カノンが孤高の人なのはただ単に「人付き合いが面倒なだけ」なんだけど。
藍に関しては、ぼくに会う前からいじめられていた。
そのせいで、一時期テーマパークシンドロームになるくらいには。
ぼくと友達になる頃にはほとんど治ってたみたいだけど。
それにしたって、最近の二人は入り浸りすぎだと思う。
「そこの二人は自由にどこにでも行けばいいと思うよ。」
ぼくの言葉に、カノンがふんと高飛車に笑う。
「好きでここに入り浸ってるのよ。なにか文句ある?」
「そうだそうだ。」
珍しく藍も賛同する。
ぼくは肩をすくめた。
そうやって、高等部最後の冬が過ぎていく。
あっという間に卒業式がやってきて、ぼくらはばらばらの進路に進む。
はずだった。
ある日の、放課後の温室。
その日は珍しく、カノンのほうが先に温室に来ていた。
「なにやってるの?」
サボテンの鉢植えを持ち上げていたカノンに問う。
「あ、見られちゃった。」
「まさか盗むつもりじゃないだろうな。」
ここの植物はほとんど部費で買ったものか、生徒の家からの寄付……もとい育てきれなくなって押しつけられたものかの二択で、ぼくが勝手に持ち出していいのは自分で持ちこんだ植物しかない。
「いや。サボテンって、いざとなったら武器になるかな、と思って。」
「……相手に投げつけて倒そうって言うなら鉢植えだけでもいいと思うけど。」
むしろ棘が自分に刺さる可能性のほうが高い。危ない。
ぼくは早々にカノンから鉢植えを取り上げた。
乱暴に扱ったんだろう。土が少し零れてしまっている。
まったく。
そう思いながらカノンに背を向け、サボテンに霧吹きをかけてやる。
「ごめんって。持ってくつもりはなかったんだけどさ。」
「こんな回りくどい物持つくらいならもっと役に立つものを持ってけよ。」
「……ごめん。」
いつもよりしおらしい彼女。こんなに素直に謝るところなんて見たことなかったのに。
その時のぼくには、サボテンしか見えていなくて。
自分の言ったことの重みもわかっていなくて。
「ありがとう。――バイバイ、トーノ。」
彼女の、そんな不自然な別れのあいさつも聞き流してしまって。
どうして気がついてやれなかったんだろう。
振り向いたら、カノンはもう温室にはいなかった。
連絡があったのは、夜中。
珍しい担任からの着信に、ぼくは飛び起きて出た。なにかやらかしたかと思ったから。
でも、先生の声はとても沈んでいて。
「遠野。落ち着いて聞けよ。」
電話越しの雰囲気のほうが、ざわついているのがわかった。
「保住が、車にはねられて。今病院で――手術、いつ終わるかわからないんだ。」
自分を落ち着かせるように、一つひとつ確認するようなその言葉に。
ぼくは、なぜかそれを他人事のようにぼんやり聞いていた。
ホズミ? ――ああ、カノンの事か。
それすら少ししてから気がついた。
先生は何も言わないぼくに何を感じたのだろう。
「そうだよな。信じられないよな。」
そう言ってカノンの運ばれた病院を教えてくれた。
次にはっと気がついたとき、ぼくは道路わきに倒れていた。こいでいた自転車は側溝にはまっていて、全身が痛んだ。
先生との電話を終えて、勢いだけでここまで走ってきたみたいだ。
「……落ち着けっ。」
自分の脚を拳で殴る。痛みが伝わって、脚が震えた。
荒れた呼吸を整える。
顔を上げれば雲間から月が見えた。風の流れが速く、姿が見え隠れしている。
冷たい空気を吸っていたら幾分か落ち着いた。
自転車を救出して、またがる。
情端を開く。現在位置は病院まであと五百メートル地点。なんとほとんど自宅の真ん前で転んでいて、ちょっと気が抜けた。
病院には先生とカノンのお母さんがいた。
ぼろぼろのぼくを二人は心配してくれたけれど、それよりも、手術室の赤く灯った表示に気を取られて、二人の言葉なんて聞いてなかった。
「カノンは?」
状況を見れば、まだわからないとわかるのに。
先生もカノンのお母さんも口ごもっている。
ぼくは、廊下の長椅子にすとんと腰を下ろした。
魂が抜けてしまったように、しばらく呆けてしまっていたと思う。
手術はなかなか終わらなかった。
手術中の表示を見上げるぼくに、カノンのお母さんがやさしく話しかけてくれた。
「あなた、夏に学校で花音と話してた子よね。」
「……はい。」
そうか。あの時顔を見られていたのか。
「あの子があんなふうに普通に喋れているの、久しぶりに見たからびっくりしちゃったわ。ずっと男の人と喋れなかったから。」
ぼくは、学校でのカノンを思い出した。
誰とも慣れあわない、一匹狼の保住さん。
本人は人と話すのが面倒だと言っていたけれど。
男と話すのを避けていたから、そもそも口数が少なかったのか。
思えば生徒指導教諭と話していた時も具合が悪そうだったし、唯一なついていた三松先生は女性だったな。
「なんで。」
ぼくの言葉に、カノンのお母さんは手術室とは違う方向を見た。
視線の先に何があるのか、ぼくは知っている。おじいちゃんが亡くなったときに入ったことがあったから。
遺体を安置する部屋。
「あの子の父親ね。あの子のことが大好きだったの。――女性として。」
お母さんの視線は微動だにしない。
「初等部の三年生ぐらいの時だったかしら。被害に遭ってるって告白されたときは頭の中が真っ白になったけれど、すぐに離婚を決めて、逃げるようにいろんなところを転々としてきたの。――でも不思議よね。どうしても居場所がばれちゃうのよ。」
「それは、カノンのお父さんに?」
「ええ。今回もそう。」
そういえば、先生から事故の詳細は聞いていなかった。
「あの子、父親が近くに来てるって気がついたんでしょうね。なんでか園芸用のはさみを持っていたらしくて、それで抵抗しようとして、もみ合ってる間に車の前に飛び出しちゃったんですって。」
「……。」
ぼくが、サボテンなんか持ってくなって言ったからだ。
代わりに温室にあったはさみを盗んでいったのだ。
「あの人も……カノンの父親もびっくりしたみたいで。とっさにカノンだけ突き飛ばして、でも結局、二人とも轢かれちゃったのよ……。」
だんだん、消え入りそうな声になっていく。
ぼくはなぐさめる言葉が見つからなくて口ごもった。代わりに近くにいた先生がお母さんに声をかけている。
……あの時、もっとカノンと話していれば。
握った手のひらが汗ばむ。
サボテンの話でもなんでも。もっとカノンに気を向けておけば、彼女は抵抗するための道具なんて持って行かなかっただろうか。
抵抗せずに交番に駆けこんだり、助けを求めたり。
こうならないようにする手段は。もっとあったはずなのに。
「ぼくが……もっと、ちゃんと。」
気がつけば、ぼくも泣いていた。
視界がおぼつかなくなって、下を向く。
気づいた先生が「お前のせいじゃないよ。」と背中をさすってくれていたけれど、ぼくはずっと泣きながら、首を横に振り続けた。
手術が終わったのは、明け方だった。
命に別状はないけれど、意識が戻るまでもっとかかって。
その間、何も手がつかずに、学校にも行かず、ずっと家に一人でいた。
途中、藍からは連絡が来た。
「まだ確証ないけど。――あの女の居場所がばれたの、先生のせいかも。」
「どういうこと。」
「あいつ、保住に校長にチクられて謹慎くらってたじゃん。あれの腹いせで個人情報売られたんじゃないかと思って。」
「なんでそんなこと……。」
「あいつ、相当やばいよ。親が教育委員会で偉いさんやってるから今までもいろいろもみ消してるって。」
藍は興奮しているようでいつもよりよく喋ったけれど、後半はぼんやりしていてよく覚えていない。
一週間後。
カノンが目を覚ましたと連絡があって、ぼくはすぐに病院に行こうとした。
でも、先生に止められた。
「落ち着いて聞けよ。」
あの時と全く同じ、嫌な予感。
「保住な。……今までの記憶、全部なくなってるみたいなんだ。」
カノンの怪我は全治二か月の骨折ぐらいで、記憶を失った以外は普通の病人だった。毎日クラスメイトのだれかしらがプリントを届けに行っては、はじめましてのあいさつをしていたらしい。
ほとんどの人は、ほんとうにカノンと喋るのが初めてだっただろう。学校にいるとき、教室でひとりぼっちのカノンをよく見ていたから。
一ヶ月が過ぎるころ、そんなクラスメイトの人達に、ぼくはこんなことを言われるようになった。
「どうして保住さんのお見舞いに行ってあげないの?」
こちらを非難するような目。言葉。
ぼくはそのすべてから目を逸らした。
まだ、カノンの記憶喪失ですら、ぼくは直視できていなかった。
ぼくのせいなのだろうか。
たくさん、一緒に過ごした。たくさん話をした。踏みこんだ話もした。
でも、ぼくは、表面上のぼくしか見せられていなかった。あんなに一緒にいたのに。カノンもそれがわかっていたんじゃないか。そんな気がしてならない。
だから、一番重要な相談事はしてくれなかったんじゃないか。
あの日。事故のあった日。いやそれ以前からカノンの周囲を彼女の父親がうろついていて。それに思い悩んでいたことを、ぼくは気がつこうともしなかった。
穏やかな日がずっと続けばいいと、平和を妄信していた。
カノンがもうすぐ退院すると教えてくれたのは彼女の母親だった。退院後は卒業までそんなに時間もないので自宅療養するらしく、二人でゆっくり会えるのは最後になるかもしれないから、と言われた。
しぶしぶ向かったのは、東峰大学附属病院。進学先の大学と同じ名前の施設だ。
彼女の病室に向かう途中、中庭を通りがかった。ぼんやりと空を見上げる入院患者がベンチに座っている。あたたかな光に目を細めて。
その髪が、ぼくのよく知っている色と同じで、思わず足を止めた。
相手もぼくに気がついたらしい。棒立ちのぼくに、ゆっくり視線を向ける。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「あの、すみません。はじめまして、……ですよね?」
きょとんとした顔。おろおろする顔。ころころとよく変わる表情。見慣れない、彼女の顔。
絞り出すように声を出す。平静を装って。今にも泣き出しそうだったけれど。
努めて、明るく振舞った。
「あー、君にとっては初対面か。」
「……はい?」
「初めまして。遠野壇といいます。保住花音の――友達、で。よく喋ってたんだ。」
「そう、ですか。」
戸惑っている表情だ。顔を向き合わせているのがこそばゆくて、ぼくは彼女の座っているベンチの反対端に腰かけた。
ややあって、今度は彼女が口を開く。
「どうして今までお見舞いに来てくれなかったんですか。」
「……。」
「いろんな人から言われました。遠野君は来てないのか、って。だから、どんな人か気になってました。」
「……実際会ってみて、どう?」
彼女に見られている気がする。
「意外と普通でした。」
「はは、そうかい……。」
ぼくの反応に、彼女はあわてて弁明を始めた。その饒舌な様子に、入院中話し相手がたくさんいたんだなと安堵した。
ぼくがいなくても大丈夫なんじゃないか。
心の中で思った言葉がすとん、と腑に落ちた。つい、彼女を眺めながら、思う。
ああ、ぼくは彼女に必要とされたかったんだな。
あんなに警戒して、踏みこませないようにしていたくせに。
彼女はひとしきり喋ってから、空を見上げた。昼下がりの太陽が、寒風を温めている。
「トーノさんとお話できてよかったです。」
「どうしたの、急に。」
彼女はなおも空を見上げたまま、そちらに手をのばす。
「いろんな人に、あなたは保住花音って人間なんだよ、って言われたんですけど。ぜんぜんわからなくて。何も思い出せなくて。――はやく思い出せるといいねって、たくさん言われました。」
きっとあの無神経なクラスメイト達だろう。
こころなしか、彼女の表情が明るくなった気がする。
「だから、仲が良かったって聞いてたトーノさんも同じことを言うんじゃないかって不安で。もうずっと、早く思い出さなきゃって思ってたから。」
それから彼女は満面の笑みでぼくを見た。
「だから、トーノさんが一人の人として私と喋ってくれて、うれしかったんです。私が保住花音じゃなくてもいいようなきがして。自分勝手ですけど。」
その素直な表情に、今度こそぼくは零れ落ちそうな涙を我慢した。
「……そ、っかあ。」
ぼくは、そのときほんとうに後悔した。
もう、ぼくの知っている保住花音はどこにもいないとわかってしまったから。
カノン――いや、「彼女」はすごかった。
退院したのち、まだ間に合った東峰大学の試験を受けて合格。ぼくと同じ進路に変えた。学科は違ったけれどよく顔を合わせるようになった。
理由を聞いたら「知り合いがいたほうが安心するから。」と言われて、ぼくは特に口出しすることなく受け入れた。元々のカノンの頭の良さを引き継いで、彼女はすぐに主席になった。
そんな人気者の彼女と、研究室と植物園にだけ出没するぼく。不釣り合いな二人を周りは「どうして付き合ってるのかわからない」と言っていたけれど、ぼくにとってはまず男女の関係であるとみなされているのが不快で、極力そういう人たちのところには顔を出さないようになった。
心の隅で「カノンならこういうとき無視しそうだ」と思うのを免罪符にして。
彼女の中にカノンの面影はない。だからそのぶん、ぼくの中の、想像のカノンだけは守りたかった。
それでも、べったりとぼくについてくる彼女にいっしゅんカノンの面影を見ては、その乖離に苦しんだ。
彼女と完全に決別したのは、大学を卒業するころだった。
ぼくは突然大学の指導教授に呼び出され、卒業論文を書き直すように言われていた。一度提出し、講評を待っているさなかのことで、ぼくはさすがに説明を求めた。けれど、教授はただ一言を繰り返すだけだった。
「ほんとうにすまない。」
深々と頭を下げる教授に、ぼくは何も言えなかった。
言う気が失せた、というのが正しい。
否定されることに慣れてしまっていた。両親から存在を否定されたときからずっと心の中にあった諦めが、急に顔を出したような。
「……わかりました。」
ぼくは黙って論文を書き直しはじめた。残った時間でできるのはまるで小学生の自由研究みたいな内容だったけれど、教授は締め切りはいつでもいい、単位と就職先は保証すると言ってくれていたし、ぼくは何もかもがどうでもよかった。
けれど、ぼくの代わりに怒ってくれたのが、彼女だった。
「私、大学にもう一回抗議に行ってきます!」
「やめときなよ。どうせ前みたいに隠蔽されるだけだ。」
ぼくは何も話していないのに彼女はどこからか話を聞きつけてきては四方八方手当たり次第に心当たりにアタックし続け、そのたびに大人たちに言葉を濁され、はぐらかされて帰ってきた。悔し涙さえ浮かべながら行動する彼女の影で、ぼくはもそもそと論文を書いていた。
それももうまとめ終わって、後は提出するだけだ。
「納得できません! あんなに素晴らしい論文がどうして世に出ないんですか? トーノさんはもっと評価されるべきなのに!」
気がついたら、提出する論文の紙束を、机に叩きつけてきた。
びっくりして目を見開いている彼女が目に入る。
「……いいんだよ、もう。何もしなくて。」
何もわかっていない。そんな彼女にイライラしていた。
ずっとそうだった。ぼくだけしか見えてないみたいについてきて、ぼくに合わせて行動して。
ずっと、カノンの姿でうろうろして。
……そうだ。彼女は、カノンじゃない。
主席卒業を目前にしている彼女にそんな汚点を残させるわけにはいかない。
何もかも忘れて、第二の人生を順風満帆に進んできたかの女の唯一の汚点がぼくになるわけにはいかない。
ぼくは彼女の人生に関係ない。
「もう、関わらないでくれ。」
関係ないところに行かないといけない。
ぼくは、そうして彼女と絶縁した。論文は内容もろくに見られないまま承認されて大学を無事に卒業できて、就職先も教授から彼女へは教えないように頼んできたからわからないはずだ。
でも、最後の彼女の言葉が忘れられない。
去り際、後ろから小さな声が聞こえてきた。絞り出すような小さな声で。
「私、あきらめません。」
思えばあれが、彼女にとって「琥珀派」の始まりだったのかもしれない。
ぼくはその後、教授に紹介された研究機関で数年働き、貯めたお金で海外に飛んだ。そこからはプラントハンターみたいな仕事をして食いつないだ。
故郷に帰ってきたのは、藍から彼女が危ない活動をしていると連絡をもらったからだった。
こっそりと倉庫を出たのは、伊央と東海だけだった。
アカネはその場に残った。どうやら何か考えがあるらしい。
――まあ、前回もそうだったから別段不思議ではない。
ぼくは念のため、入武家にジーンのメールアドレスを教えておく。
「まあ、気が向いたら、ね。」
信用できない返事。
それでも可能性さえ残ればいいだろう。
不安げな東海と、その隣にぴったりと立つ伊央を、学校の最寄り駅まで送り届けた。
「安心して。責任もって家まで送り届けるから!」
伊央の笑顔が頼もしい。
彼女も、漠然とした不安を抱えていたんだろう。
やっぱり、この二人はこうやって一緒にいるのがいい。
あんな暗闇で、引き裂かれるぐらいなら。
二人と別れて、ぼくはそのあたりを歩く。
気がついたら、病院まで歩いてきていた。
白く、のっぺりとした病院。百年ぐらい前からある総合病院で、建物は変わってるらしいけど、ずっとこの街を見てきた場所。
ここにカノンが入院していた。
記憶を失くした彼女はまるで「普通の女の子」みたいに日々を過ごした。
ぼくと同じ大学に通い、いい成績をとってお母さんを安心させ、常にぼくの周りにいて。
そんな彼女を、ぼくは。
「……。」
この世から逃げようとした東海のことを、とやかく言える立場じゃなかったな。
ほとんど全部、思い出せたと思う。
カノンとのこと。ぼくのこと。高校での日々。友達。
ぼくらに何があって、決別して、あの日になったのか。
このときの生きているぼくは。
何もかも嫌になって、海外で仕事をしていたはずだ。
なんでこの国に帰ってきているのかまでは思い出せないけれど、とにかく、運悪く二月十四日の電波塔付近に行ってしまったんだな。
「……お似合いだったかもな。」
すべてから逃げた結果、一人さみしく路地裏で息絶えるのは。
少しでも償いになるだろうか?
そんなことを考えていたら、瞬きと共に景色が切り替わった。
「……え。」
目の前。舞い散る埃と共に、今まさに崩れた瓦礫がある。
それはまるで、あのときの爆発後のような。
でも、それならどうして。
「…………伊央?」
ぼくのつぶやきに、振り返る影が一人。
「橘さんを知ってるんですか?」
アカネだ。どこか存在感が希薄になった感覚。
案の定、足先が透けている。
「助けてください! さっきの爆発に巻き込まれて意識が戻らなくて……!」
「なんで、彼女がここに。」
ぼくを必死に見上げていたアカネは、気まずそうに目を伏せる。
「……わたしを、助けようとして。」
ああ、そうだよな。
自殺しようとしているやつを止めようとするぐらいだからな。
優しいやつだもんな。伊央は。
ぼくはその場にしゃがむ。
ぐったりと倒れている伊央は体のあちこちから血を流していた。
なかでも出血が多いのはわき腹。瓦礫が突き刺さって血だまりを作っている。
息をしているようには、見えなかった。
ぼくはきょろきょろとあたりを見渡す。
「男の子、一緒じゃなかった?」
「……あ、い、いました、けど、どこに行ったかは……。」
うず高く積み上がった瓦礫。
その下からは、薄い湯気が上がっている。
いったい、この下に何人いたのだろう。
東海も、この下だろうか。
ぼくはゆっくりと立ち上がる。
「この子はもう、助からないよ。」
「――そんなこと!」
「心停止してから何分経った? 救助が来る見込みは? ――ここに他の人が来るまで、何分かかる?」
一つ一つ、教えこむように言う。
アカネはぼろぼろ泣いていた。
賢い子だから、本当はわかっているはずなのだ。
しばらく、アカネの鳴く声だけがビルの間に響いた。どこからか聞こえてくる喧騒も、ここから出は遠すぎる。
「誰かくるまで、この子についていてあげて。」
ぼくはそう告げると、ゆっくり歩き出した。
「あなたは? どこに行くんですか?」
「周りの様子を見てくる。」
振り返らずに答える。
人を連れてくるとも、救助を求めることも。
ぼくには確約できない。
いや。もうできない。
そんなことをやっている間にタイムリミットだ。
角を曲がるときにそっと後ろを見ると、祈るように手を合わせるアカネの姿が見えた。
見慣れた混乱。
まだ、頭がこの喧騒を理解できていない。
伊央の幽霊はこの近くにいない。
それどころか、瓦礫のあたりにいたのはアカネだけだった。
あのあたりにいたのは琥珀派――つまり、ほとんどが自殺を考えていた人たちだ。
アカネのことも加味すると、生前幽霊が見えていた人は、そもそも幽霊になれないんじゃないだろうか。
「……くり返したらわかるかな。」
そんなことを呟いて、はは、と息を漏らす。
そこでいっしょうけんめい生きていた人がいるのに。
ぼくの心はもうここにあらず、だ。
足が勝手に向かうのは、いつもの場所。
今回もあそこで終わろう。
ふらふらと歩いて行くと、急に誰かが体を透り抜けた。
見覚えのあるシルエット。
「――大間。」
彼女を刺して、ビルを爆破して、たくさん殺して。
こいつ、まだ生きてたのか。
ぼくはおもわず声をかける。
けれど、その声にやつが振り返ることはない。
大間にぼくは、見えていない。
それでももう一度声をかけようとした時だ。
「おい、そこのやつ。」
ぼくの後ろから、大間に向かって声がかけられた。
聞き覚えのある声。この世で一番なじみ深いその音に。
ぼくも一緒に、後ろを振り返った。
……ああ。初めて見たな。
ボロボロのコート。低身長。ずいぶんと若く見える、童顔の男。
生きている頃の、「ぼく」。
遠出をしていたのだろうか。山に行くみたいな大きなリュックを持っていたが、大間の様子に眉をひそめ、リュックをそのへんに放って歩いてきた。
「お前の名前は知らないんだけどさ。――保住花音、知ってるな。」
「それが?」
明らかにイラついている。
「なあ。まだ女らしい格好してたか?」
「――あ?」
「いいから。」
「……いつもスカートだったけどよ。」
大間は「ぼく」に近づいてきた。
誰だって危ないとわかる状況なのに。
「ぼく」は、明らかに落胆して肩を落としている。
「やっぱりまだ戻ってないのか。こんな騒動起こすくらいだからもしかしたら、と思ったんだけど。」
「なにぶつぶつ言ってんだよ。」
大間が目の前に立つ。
眠そうな、ぼんやりとした目で大間を見上げる「ぼく」。
「保住花音だよ。いくらなんでも長すぎるだろ。もう帰ってきてもいいんじゃないかな。」
「だから、意味がわかんねえよ!」
懐から二本目の刃物を出して、凶器を手にふりかぶる大間。
ひゅん、という音と共にナイフが一すじの光を描くように「ぼく」にのびる。
それをぼくは、ちょっと横に動いて避けた。
大間がバランスを崩す。すかさず「ぼく」は大間の背中に手を置き、脚を引っかける。
力の向く方向に、後押しをするように。
派手に転んだ大男。
その後ろでぱんぱんと手を叩く「ぼく」。
ああ、そういえば。
海外にいたときは、見た目のせいでよく絡まれていたから、痴漢撃退術みたいなものを習っていたんだっけ。
「まだ『彼女』のままだとすると――どうするかな。とりあえず藍にでも連絡入れるか。」
ポケットを探る「ぼく」。情端を捜すそぶりだったが、結局どこにもなかったのか、代わりに胸ポケットのメモ帳をパラパラめくる。
「藍の番号は書いてあったはず……。」
ぼくは、今のぼくとまったく同じ格好をした「ぼく」を見ながら、――静かに、自分の着ているコートの胸ポケットに手をやった。
メモ帳の感触が布越しに伝わってくる。
「ぼく」はふらふらと歩き出しながら、虚空を見つめている。
「――カノン。」
見慣れた路地の、角に向かっているその後姿を、静かに見つめる。
かすかに呟く声が聞こえてくる。
「会いたいよ。」
そんなふうに接してはいなかっただろうけれど。
すべて思い出した今ならわかる。
「ぼく」にとってカノンはとても大切な友人で、ずっと一緒にいたい人で。たぶん、惚れてた。
ちょうど曲がり角で立ち止まる。
今回もまったく同じところで死ぬんだな、ぼくは。
「ぼくが死んだら、元に戻ってくれるかな。――なんて。」
ふ、と笑う「ぼく」。
「さすがにそれは怒られちゃうな。」
その後ろに、影が立ち上がった。
「ぼく」が振り向くより、早かった。
荒い息を吐く大間。
その手には、赤くぬめるレンガが握られている。
物言わぬ「ぼく」が、地面に横になる。
同時に、ぼくにもめまいに似た症状が現れた。
……ああ、今回も終わるのか。
「……もしかして、お前の差し金だったのか?」
大間は静かに、ぼくを見下している。
何の話だ。
そう問いかけたくてもできないってわかってるのに。
「ま、今となっては誤差の範囲だ。――俺は。」
大男がビルの影に消えようとしている。
いや。ぼくの視界が狭いだけか。
「あいつと向こうに行ければ、後はどうでも――。」
遠くで響く爆発音。
誰かの悲鳴。
サイレン。
怒号。
前回と変わらない、いつもの「今日」だ。
そんなことを思っている間に、ぼくの視界は暗転した。
後書き
第四章「4週目」に続く
作者:水沢妃 |
投稿日:2025/08/27 13:56 更新日:2025/08/27 13:56 『レトロフューチャー』の著作権は、すべて作者 水沢妃様に属します。 |
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