作品ID:2397
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レトロフューチャー
小説の属性:一般小説 / S・F / お気軽感想希望 / 上級者 / 年齢制限なし / 完結
前書き・紹介
ジーンの友人、杉戸彰に出会ったダン。彼は未来からやってきて、二月十四日の事件を解決しようと奔走していた。
彼と一緒に、ダンは事の真相を知る人物へと迫っていく――。
第四章 4週目
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その男を巻き込んだのは俺で、そして彼は、同じ時間を彷徨う「時縛霊」になっていた。
そんなことを聞けば、誰だって責任を取りたくなるだろう?
・
そいつはぼくを凝視しながら、ずり落ちそうになった眼鏡をくいっと上げた。
なにかのイベント会場で目覚めたみたいだ。ぼくはぼんやりと、辺りを見渡す。
薄暗い照明の中を「STAFF」と書かれたジャケットを着た人たちが忙しそうに行き過ぎる。平然と立っているのはぼくくらいだった。
天井から吊り下げられている電子幕のきらびやかな映像から、ここが何かのゲームのイベント会場だということは読み取れた。なにかトラブルがあったようで、周りのスタッフはみんなわたわたと動きまわっている。会場のほうもざわざわと、観客らしき人々の声が反響して聞こえてきていた。
他にも何か――日付がわかるものがないかきょろきょろしていると、ふと視線が合った。
ああ、ぼくが視えるやつがいるのか。そんなふうに思っただけだった。
ぼくのほうは、だ。
しばらくして、その人物に会ったことがあることを思い出した。すらりとした長身。くせっぽい髪の毛。眼鏡。忘れもしない……いや、今の今まで忘れてたけど。でも、思い出すことはできるくらいの印象は残っている。
そう、そいつはジーンと一緒にいた、
「……杉戸彰?」
おもわずフルネームで呼んでしまう。
ぼくが視える、ジーンの友人。ただし、相手がぼくのことを覚えていることはないだろう。いつだって、繰り返せばみんな忘れてしまうから。繰り返しを覚えているのはぼくだけだ。一度会ったことのある人でもまるで赤の他人みたいになる。
そう考えたら、ジーンと一緒にいたとき森川ゆいなから隠れていた自分が恥ずかしくなった。
余計なことを考えていたからだろう。いつの間にか、隣に誰かが立っているのに今気づいた。
はっとそちらを振り向く。
にやり、と笑う杉戸が隣に立っていた。
「遠野壇!」
いきなり名前を呼ばれて、思わずギョッと相手を見返してしまった。
「……は?」
おもわず変な声が口から漏れる。
杉戸はぼくのリアクションがお気に召したらしい。口元を押さえながらもぐふぐふ笑い声が漏れている。
ぼくの目の前に立ったやつは、明らかに親し気に、こちらに話しかけてきた。
「なんだよその声……っ。はー、おもろ。」
「……なんで、ぼくのこと。」
「覚えてないと思ったか?」
当たり前だろう。
「普通はそうなんだよ。」
「『普通』は、な。」
杉戸はぼくの戸惑いなどお構いなしだ。含みを持たせた言葉にさらに追及したくなったがそれは赦してもらえなかった。
「何週間ぶりだあ? 元気に繰り返してるみたいで安心したわー。」
「……おい。」
少なくともこいつは、ぼくのことを覚えていて、ある程度事情を察している。なんだか、自分だけが置いてきぼりをくらったようで癪に障った。
「あのなあ。」
「とにかく会えてよかった。――たくさん、話したいことがあったんだ。」
文句を言おうと思った口を、思わず閉じた。
杉戸は相変わらず笑っている。けれど、その真摯なまなざしは本物で、どこか安堵しているようにも見えたから。
ぼくははあ、と息を吐く。
状況が呑み込めないけど。その説明も含めて、話を聞くのもいいかもしれない。
「ちょっと待って。職場に連絡だけ入れるから。」
そう言うと、杉戸はどこかに連絡を取り始めた。
よく見かける情端ではない。噂に聞く、古の「ガラケ―」のような形で、しかし二つ折りの手帳ほどの薄さのそれを開き、誰かに連絡を取っている。
この光景を見たことがある。事故の現場や災害時の誘導で。あるいは街中の交番の前で。
警察は自分の警察手帳を通信機として携帯しているのだ。
「本当に警察の人間だったんだな。」
杉戸はすぐに通信を終える。電話口の誰かはどうやら怒っているようだったが、構わずに電話を切っている。
彼ははちらりと手帳をぼくに見せてから丁寧に胸ポケットにしまった。ジーンが殴られたときも言ってはいたが、実感は湧かなかった。
「言っただろ。高卒で警察学校に入ったって。」
「そうだっけ。」
「……まあ、いいよ。」
ぼくらは会場から少し離れた公園に向かって歩いた。
まったく来たことのない場所だ。もしかしたら街のどこかなのかもしれないが覚えがない。ここ数年で新しくできた、と言われればそれまでだ。オフィス街の中にある緑地公園の一部らしく、人通りはない。
ぼくらは公園に入り、杉戸はベンチに腰かけてこちらを見上げる。
……これはぼくも座ったら見下ろされるな。
そんなことを思って、意地でも立っていることにする。どうせベンチに触れられないから座ることもできないんだけど。
「なんで覚えてるんだ?」
ぼくは単刀直入に聞いた。さっさと必要なことだけ聞いて去ろう。
杉戸はつっけんどんなぼくの態度を気にした様子もなく、自分の胸に手を当てる。
「改めて自己紹介な。――俺は警視庁特務科サイバー班所属で、特別捜査員をやってる杉戸彰。牧下仁の友達で、前に仁の紹介で遠野壇――あんたと会ったことがある。」
「ああ、そうだな。」
ぼくはついつい、杉戸をにらんでしまう。
「お前がそれを憶えてるのはおかしいんだよ。」
「その様子だと、他のやつは憶えてないのか?」
黙ってうなずく。
杉戸はあごに手を当てた。
「だとすると、あんたはパラレルワールドを移動してるのかもな。」
「……はあ?」
「ああ、細かい説明は省くよ? この時代には不必要な知識だから。」
「お前さあ。」
「あ、杉戸でも彰でも、なんか呼び名をつけてくれてもいいよ。」
こいつ、真面目に話す気がないな?
ジーンと同級生ってことは……確実に年下だな。
「じゃあ、彰。」
「おう。」
「原理とかはすっ飛ばすとして、お前はぼくに起きてることを理解してる。って認識でいいのか?」
「ああ。だいたいは把握してる。どうしてそうなったのかも説明できると思う。」
それは予想してなかった。
目を見開くぼくに対して、彰はどこか後ろめたいことでもあるのか目を伏せた。
「じゃあ、それを知ってるお前は。――杉戸彰ってやつは、一体何なんだ?」
また、はぐらかされるだろうか。その可能性はおおいにあった。
しかし、ぼくの予想に反して彰は至極真面目な顔でぼくに向き合う。
「俺は、――。」
一呼吸おいて、彰はポケットからなにかを取り出した。半透明で中の配線のような模様が光る板。おおよそ類似するものを見たことのない機械。まるで、この時代にあってはいけないオーパーツのようななにか。
「俺は今から十五年後からやってきた、時間遡行者だ。」
彰の言葉に、ぼくは静かに頷いた。
「そうか。」
「……無感動すぎない?」
「そんな気はしてた。」
「信じてくれるのか?」
「まあ、一度死んだくせに幽霊になってまで同じ時間を繰り返してるやつがここにいるし。」
緊張していたのだろうか。彰が「ははは。」という声と共に肩をがっくりと落とした。
「ぼくに起こってる『時縛霊化』にも関わってるんだろう?」
「それは。」
空気がぴり、と張り詰めた。明らかに知っている。それを隠す余裕もないのだろう。彰は息を吐き、すぐに顔を上げた。
「俺が最初にこの時間に来た時、お前の死体のところで一週間前に時間遡行をしたから、だと思う。」
……なるほど。
そうか。こいつのせいだったのか。
「やっぱりそれがタイムマシンか。」
「わかってたのか?」
「この間見たからな。」
いつかの繰り返しで見た彰の姿。確かに死体の前で、今手に持ってる機械を出していたのを憶えている。
「けど、あんたが幽霊化したのはまた別の原因がある。」
それについても検討はついている。
「琥珀派の言ってる新電波のせいって、本当なのか?」
「そこまでわかってるのかよ。」
「まあ、三回も繰り返せばある程度は。」
「そうだな。俺の知っている歴史通りなら、あんたがそうなったのも、琥珀派の言ってることも納得だ。」
情報を握っているからか、いちいち上から目線なのがむかつく。
仕方がない。こちらはすべて教えてもらう立場だ。
あと気になることといえば。
「なあ、なんで彰はここにいる?」
「――今日は大規模電波障害テロを企ててた犯人を捕まえに。」
「そうじゃなくて。」
聞き方が悪かったか。
「どうして、この時代に戻ってきたんだ?」
「それは。」
彰はタイムマシン的ななにかをポケットにしまって、かわりに普通の情端を取り出した。
表示されている画面を、こちらに向ける。
二〇七〇年二月七日の十一時すぎ。
いつもの時間帯だ。
「一週間後の二月十四日。新電波開放の日。電波塔の開業日で人が集まっているところに琥珀派のテロが起きて、多くの死者が出た。昔の行事になぞらえて、未来では『血のバレンタインデー』って呼ばれてる。」
「……その名前はダサくないか。」
「俺もそう思うよ。」
少しだけ、彰の顔に笑みが戻った。
「俺は、そんな黒歴史をなくしに来たんだ。」
「一つ聞いていいか。」
「何?」
「彰のいた時間では、ジーンはどうなった?」
へらへらとしていた彰の笑みは完全に引っこんだ。
「死んだよ。あの夜に。」
「……そうか。」
「ああ。――だから、あんたのせいじゃない。」
ぼくは彰の言葉につい苦笑を漏らした。頭の中を読まれたみたいに正確に、ぼくが抱えていた罪悪感を見抜かれたから。
「彰だって、ジーンの死を抱えてるんじゃないのか。」
答えはない。けれど、その沈黙が答えだろう。
ジーンを、大切な友人を救うために、時を越えてきたのだろう。
彰はまっすぐにぼくを見る。
「なあ、あんた。よければ手伝ってくれないか?」
そんな気はしてた。
でも、素直に「いいよ」と答えるのは何か違う気がして、あえてそっぽを向いてやる。
「まずはその、『あんた』って失礼な呼び方をどうにかしてくれないか?」
「……なんて呼べばいい、ですか。」
やっと気がついたか、ぼくが年上だということに!
ぼくはしばらく考えた。
今までは。思い出す前はどうでもよかったけれど。すべてを思い出した今。自分に一番しっくりくる呼び方は。
「トーノって呼べ。」
「わかった。トーノ。」
その呼び方に、笑顔に、かつての友人たちの顔がちらつく。
「仕方ない。手伝ってやるよ。」
ぼくの言葉に彰は右手を上げた。そういえばジーンともこんなふうにハイタッチしてたっけ。
仕方ないなあ、とぼくも右手を掲げる。
ぼくの腕は、見事に彰の腕を透りぬけた。
「で、なにか手立てはあるのか?」
ぼくは彰の座っている椅子の後ろから話しかける。
彰はぼくと話した後、すぐに職場から連絡が入ってオフィスにとんぼ返りしていた。もちろん、それから二時間上司とおぼしき人から説教を受けていたのは言うまでもない。
彰のデスクは薄暗い光に照らされた部署の端っこ、とってつけたように置かれた机とパソコン一つ。他の職員は全身を包むような椅子とヘルメット型のグラスを着けて何か作業をしている。
「手掛かりはある。」
彰はそう言って、パソコンでファイルを開き始める。
「これは?」
「俺が時間遡行する中で調べ上げた関係者と、その中でもイレギュラーな動きをした人物。」
そこにはぼくがかかわった人物の他に、琥珀派の人々の名前も並んでいる。ついつい「保住花音」の名前があることに目が行ってしまったが、彰が指さしたのは別の人物だった。
「この、『入武家三香』って人物。名前が明らかになっている中ではこの人だけ国民番号がヒットしない。」
国民番号。出生時与えられるランダムな数字の羅列。出生地から経歴、戸籍、病歴や納税の記録など、様々な情報が紐づけられている。口座の開設、クレジットカードの新規発行、住宅の購入や相続に至るまですべての手続きで必須とされるがゆえに国民番号なしには生活できない。
逆に言えば、国民番号さえわかってしまえば公的な機関であれば情報をいくらでもみることができる、ということだ。例えば警察とか。
「この国で国民番号がない人間なんていないだろ。」
「普通はな。ところが、偽装された国民番号ですら出てこないんだ。つまりこの人物は、本来の名前と国民番号を隠して生活していることになる。」
「本来の?」
「入武家三香は偽名ってこと。本名は安芸真弓。」
なんだ。そこまで知ってるのか。もちろんぼくは彼女に会ったことがあるからわかる。
「不可解なのはここからだ。彼女は電信社に対抗できるだけの技術者のはずなのに、経歴が普通過ぎる。」
確かに画面に表示されたデータは一般的な学生のそれで、飛び級をしていることから頭はいいのだろうな、ということがわかるくらいで目立った情報はない。
「可能性としては?」
「俺と同じ時間遡行者である可能性。で、一度、未来で調べてみたんだ。彼女この後電信社に入社してる。」
「ビンゴじゃないか。」
「絶対この人がキーマンだ。――でも確証がつかめない。それに電信社に所属していたのに今は反電信社組織である『琥珀派』の中核人物……。まったく意図が読めない。」
ぼくは杉戸の横に座りこんで、ぼうっと画面を眺めた。
初等部を順当に卒業して、高等部を飛び級して、大学に進んで。それで今、カノンといっしょに『琥珀派』をやっている。
「人生何週目なんだろうなあ。」
「まあ、とりあえず二〇九〇年までは生きているはずだ。電信社の記録に潜ったとき、二〇九〇年からタイムマシンの実験で研究員がやってきたって記録が残ってた。」
「……それ、いつの話?」
「二〇五六年。」
今から十四年前。本来の安芸真弓はもう生まれてる……。
「つまり、タイムマシンでやってきた彼女と、人生一周目の彼女が同時存在していた時期があるんだ。」
「そうか? だって精神だけで飛んでこれるんだぞ。」
杉戸はタイムリープに使っている端末を取り出してひらひらと振る。
「二〇九〇年にそれが存在していたら、タイムマシンなんて使わなくてもよかったんじゃないか?」
「……つまり?」
「一回目はタイムマシンで来た。で、その技術で二回目のタイムリープはその端末で行った、なら?」
「なるほど……?」
杉戸は首をひねりながらも、別の資料を画面に開き始める。 二〇五六年、タイムマシンがやってきたときの電信社のレポートだ。
「この資料によれば、技術的には三〇年先取りで進むことができるとかいいことは書いてあるけど、結局タイムマシンが故障していて研究は縮小、タイムマシンに乗っていた人がどうなったのかはわからない。」
「じゃあ、帰ることはできなかったんだ。」
「もしもそのまま生きているとしたら、この世界に二人の安芸真弓が存在していることになる?」
「そうだとしたらなにか調べる術があるんじゃないか。」
今度こそ杉戸は頭を抱えた。
「どうやって探すって言うんだ? 出生地はわからない、経歴もわからない、もちろん国民番号もない! 検索しようったって手がかりがなさすぎる。」
国民番号は導入されて半世紀を超え、今や番号を出生時に割り当てられた人しか存在していない。あるのが当たり前すぎて、通し番号のない時代が想像もできない。けれども、導入され始めたのはぼくのおじいちゃんがまだ若いころで、その頃はまだ導入に賛否が分かれていたという。反対する理由を聞いてもいまいちわからなかったが、おじいちゃんはそんなぼくを頭ごなしに叱ったりはしなかった。
「人は、急になにかを変えられると困ったふりをするもんさ。」
そういうものなのか。そういうこともあるかもしれない。
不思議とおじいちゃんの言葉はすとん、とぼくの心を落ち着けてくれる。
「なにか、例外があるんじゃない?」
「例外?」
「そうだな……たとえばぼくみたいに肉体がない場合とか。」
「そんなやつまだこの国には存在してないよ。」
そうだろうか。現にぼくはここにいるのに。
「や、ちょっと待てよ……。」
何か思いついたのか、急に杉戸はパソコンに向き直る。カタカタと何かを打ちこむと、新たな数字の羅列が画面に表示された。
「――本当にあった!」
「え、なになに。」
画面の最初には「臨時国民番号」の文字。
「身分証の確認できない人――たとえば事故で病院に運ばれてきた人、徘徊しているところを保護された人、海外で生まれて出生時に割り振られるはずだった番号が凍結されている人。そういう『例外』に対応する国民番号。それが『臨時国民番号』だ。」
「あるんじゃん、こういうの。」
「制度として知ってはいたけど活用されたところなんて見たことなかったんだよ。――ほら。」
エンターキーの軽快な音と共に、ピロン、と検索結果がはじき出される。
「今から十年前、事故現場で彷徨していたところを病院に保護されたものの、記憶を失っていてそのまま入院生活を続けている女性。年齢は推定七十歳。」
「七十歳?」
今、生きていたとしても八十歳になってるってことか? 本当にそれが安芸真弓なんだろうか。
「可能性はある。――だって彼女、生身でタイムトラベルを繰り返していたんだろう?」
「確かに『肉体に限界が来たからとっくの昔に捨てた』とは言ってたけど。そんなこと、可能なんだろうか。いくら未来の化学が発展したとしても、そこまで極端に適応できるだろうか。」
「あんたがまだ生きてるかもって言ったんじゃないか。とにかく確認しに行こう。」
「こんな時間に?」
ぼくはモニターの端っこを指さす。いつの間にか時計は朝の六時を指していた。
さすがに時間が悪い。
「仮眠しろよ。昼ぐらいでも大丈夫だろう。」
杉戸はぼくと時計を見比べて、しぶしぶ机の下に入っていた寝袋を広げた。ぼくも近くに寝ころがる。
「本当に生きてるの、その人。」
「死んでたらそう表記されてるさ。――入院先の病院は変わってない。東峰大学附属病院。」
杉戸がこちらを見る。
「なあ、あんたも東峰大学だったよな。」
「……うん。」
「案外、目と鼻の先でずっと見られてたんじゃないか。」
「まさか。」
冗談、であってほしい。何も言わないぼくに、杉戸は「ま、冗談だけど。」と明るく言い放ち、静かに目を閉じた。
東峰大学附属病院。地域医療の中心地であり、このあたりでいちばん大きい病院。
巨大な敷地には迷路のように各科が配置され、訪れる人は毎日何千人に及ぶ。外から見ると、ヘリポートにはドクターヘリが常時スタンバイしている。
昼下がりの病院は混みあっていた。杉戸は迷うことなく受付で警察手帳を取り出し、安芸真弓と思しき人物の臨時国民番号を伝える。しばらく受付嬢が電話で方々に確認をとり、ひとつの病室が示された。
その病室は、敷地の外れにある療養施設の中にあった。
長い廊下を歩き、迷路のような病棟内を移動する。案内の看護婦さんが病室の前までていねいに案内してくれて、杉戸にだけ会釈をして帰って行った。
扉をノックすると、中からはか細い声が聞こえてくる。
「失礼します。」
静かに扉を開ける杉戸。ぎこちないその動作に彼の緊張が伝わってくる。あれだけ自信満々だったのが嘘のようだ。
「どなたかしら。」
手狭な病室にはベッドとサイドチェストがあるばかり。モニタの類や点滴すらもない。
部屋の主は静かにベッドの縁に腰かけていた。小さく開かれた窓から、二月の寒風が緩く部屋の中をかき回している。
パッと見て、安芸真弓かどうかはわからなかった。若い彼女を知っているだけに重ねた年月が有無を言わさぬ断絶を見せびらかし、本人といえる特徴を見ることは叶わなかった。
しかし、振り返った彼女は、確かにぼくを見た。
「……あら。珍しいお客さんね。」
「安芸真弓さん、で合ってますか?」
「ええ。」
ぼくの呼びかけに答えた彼女に、杉戸も「本当かよ。」と声を漏らす。
理知的なその瞳。その目線にだけは、確かに安芸真弓の面影があった。
「どうぞ、何もないところだけれど。」
ぽんぽん、と彼女はベッドの脇の丸椅子を叩く。杉戸はおそるおそる腰を下ろし、ぼくはその隣で壁によりかかった。
「本当に安芸真弓さんなんですか。」
「そうよ。」
見た目のわりに矍鑠としている。とても九十を超えているようには見えない。
「なんでこんなところに。」
「さあねえ。もう昔のことは朧げで。なにせ、人より長く時間を行き来していたから。」
その言葉に杉戸が切り込む。
「じゃああなたはタイムトラベルをしていたんですね。」
「ええ。」
「何回くらい?」
「さあ、ねえ。」
彼女は遠くを見るように窓の外に目をやった。
窓には珍しくカーテンがかかっている。薄いレースのカーテンは昼下がりの日差しをやさしく遮り、室内に影を落としていた。
「途中から――いつだったか、なんだかすべてがどうでもよくなって、数えるのをやめてしまったの。」
「なんで、すべてが嫌になったんです?」
ぼくの問いかけに、返事は返ってこなかった。
窓の外に注がれる視線は、若いころの彼女とは違って憂いを帯びていて、決定的な感情を隠しもしない。それなのに、口は一文字に結ばれている。
いつまでも、だんまりを決め込むつもりだろうか。
「ぼくには、会わないといけない人がいます。――けれど、今のままでは合うことは叶わないでしょう。彼女に会う前に、ぼくは死んでしまうから。でも、それではいけないんです。」
「それで?」
「ぼくは、この先何があるのか――どうしてぼくらがこうならないといけなかったのか、知らないといけない。」
ずっと、興味なんてなかった。
ぼくがこうなったことも。カノンが別人のようになってしまった事も。すべては起こってしまった事で、何も変えることなどできないのだと。
だけど、知ってしまった。
ぼくらの未来を、勝手に変えたやつがいるらしい、ということを。
なら、――なら、ぼくだって、身勝手にあがいてもいいじゃないか。
彼女はゆっくりとぼくに目線を戻す。その顔はずっと疲れているようにみえた。
「そう。でもね、私はずっと、すべて自分のために好き勝手していただけなのよ。」
そうして、「安芸真弓」は静かに語りだした。
その「病気」が世間の注目を集めるようになったのは、「今」から二〇年後の二〇九〇年頃のこと。
「当時」、「それ」はテーマパークシンドロームの際に見る幻覚や、重症化した状態であると思われていた。けれど、徐々にその数は増していき、いつしかテーマパークシンドロームとは無関係の人まで罹患することになった。この現象は「精神剥離」や「身体離脱」など様々な呼ばれ方をしたが、最終的に「幽霊化現象」と呼ばれることになるわ。
「幽霊化現象」の主な症状は二つ。一つは精神が体から分離し、「幽霊化」すること。死んだ人間が引き起こすこともあれば生きている人間がある日突然「幽霊化」することもある。このとき体は脳死状態になり、徐々に衰弱していく。
もう一つは、「幽霊化」した人物を認識できること。こちらは健常者にとって一番つらい症状だったわ。なぜなら世の中が「見える人」と「見えない人」に分かれてしまったから。
かくいう私もその一人だった。
私にはだいぶ初期のころからすべての「幽霊化」が「視えて」いた。それこそ二〇九〇年なんてずっと未来に思えるほど昔から。それが果たしてひそかに「幽霊化」が進んでいたからなのか、それとも本当に幽霊だったのかは今更判別できないけれど、とにかく他者より多く「視える」というのは日常生活に支障が出るの
ありていに言えばいじめに遭ってね。
こればっかりはどうしようもなかった。クラスで無視されようが変な噂を流されようが、私にはどうすることもできなかったから。立ち向かう勇気もなくて、日々ひっそりと過ごすのが日課になったわ。
そんな中で出会ったのが、「森川ゆいな」だった。
ゆいなは物静かな少女だった。たまに喋ると鋭い言葉で他者を傷つけては一人でへこんでいて、そんなところがかわいらしく見えて、私はゆいなと二人でぽつぽつ会話をしながら過ごすのが好きだった。
鬱屈とした教室を抜け出すために飛び級をして、二人そろって大学へ進学した。学部は違ったけれど、私もゆいなも距離感は以前と変わらなかった。
一年生の秋ごろ。私はゆいなから彼氏ができたと聞かされたわ。
そいつは同じ学部の「大間」という男で、この半年ずっとゆいなに言い寄っていたらしいの。一回付き合えば満足するかと思って、って、ゆいなは冗談めかして言っていた。
実際、大間は数か月でゆいなに飽きて別れたわ。
その後よ。彼がゆいなのストーカーになったのは。
近づかれては逃げての繰り返し。その果てに、ゆいなは大間に刺されて亡くなってしまった。
あっけなかった。だからかしら。人混みの中にゆいなを探してしまう癖がついたのは。けれども見えるのは普通の人と、幽霊ばかりなのよね。
いっそ化けて出て来てくれればどんなによかったか。
二〇九〇年。「幽霊化」のニュースを見ない日はないぐらい社会問題として顕在してきたころ。私は研究職として電信社のラボに所属していたわ。
そこは多少アングラな研究でも扱うような魔窟で、実際私は後輩の「タイムマシン」研究に付き合っていたの。世間に知られてはいけない一大プロジェクトを俯瞰する立場。後輩のサポートばかりで、本当は半ば左遷されてここに居ることもわかっていた。
私の本来の研究は「音声による記憶の消去/書き換え」。トラウマを背負った人に対しての治療法として期待されていたのに、結局実用化できずに研究終了になってしまったの。けれども、後輩の東海は私の研究を評価してくれていた。
「いつかタイムマシンとは別に、精神のみをタイムリープさせる方法を考えたいと思っていたんです。ほら、生身には限界があるし、幽霊化した人でも精神のみで時間旅行をできるかもしれない。」
それはきっと、東海自身の話だったのでしょうね。
あとから聞いたら、昔死んでしまった友達に会いたいから過去に戻りたいと言っていたから。肉体に限界が来ても、自分が「幽霊化現象」で精神体になったとしても、私の研究が完成していればいくらでもタイムリープを繰り返すことができる。
その話を聞いて、私はゆいなに会いたくなったの。
彼の言っていることはまるっきり私に当てはまることばかりだった。死んだ友人に会うために、いくつ実験を繰り返そうが努力できるだけの才を、私たちは持ち合わせてしまっていた。
だから、タイムマシンの初号実験に立候補したわ。
東海はもちろん自分が行くと言って聞かなかったけれど、それは会社に止められてしまった。そりゃあそうよね。下手したら地獄への片道切符だもの。
会社は東海の代わりに、実験体を用意した。服役囚で無期懲役が言い渡された男。つまり、死んでも誰も文句を言わない人物。
出発の直前に顔を合わせたそいつは、まぎれもなく大間だった。二十年ぶりの再会だったわ。
できれば一生関わりたくなかったけれど。こればっかりは仕方なかったわね。
実験は最初に大間を一人でタイムマシンに載せて、直近の過去に飛ばす。実験は成功。それをうけて、今度は私と大間を過去へと飛ばす。
旅の目的地は、二〇六五年。電信社のラボが幽霊化現象について研究を始めたころ。
会社から私への指令は二つ。一つは実験が成功した場合の大間の破棄。もう一つはとある論文の書き換えだった。
「論文?」
静かに聞いていた彰が口をはさむ。
「ええ。」
「急に雲行きが怪しくなってきたじゃないですか。」
いや、雲行きならタイムマシンのあたりからおかしかったぞ。
「あなたが口をはさむ問題じゃないわ。――関係があるのは遠野壇。あなたのほうよ。」
「へ?」
ぼくは急に出てきた「東海」という名前について考えていたのだが、名前を呼ばれて安芸真弓のほうを向く。
「そう、あなた。私が改ざんを頼まれた論文は、まだ学会に発表されていない、それも学生の修士論文だったの。」
「へえ。」
「タイトルは『月光草における植物言語の活用と人体への影響』。」
彰はすぐさま情端を取り出した。どうやらデータベースを検索したようだが、なにも引っかからない。
「もしかして、改ざんどころかなかったことにしたのか?」
「いいや違う。タイトルが変えられてるんだ。『月光草の分布と植生変化』で調べてみて。」
ぼくの言葉に彰は訝し気な顔をするが、素直に検索を再開する。するとすぐに一件のデータがヒットした。
「あった。二〇五六年執筆、『月光草の分布と植生変化』。執筆者……『遠野壇』。」
「本当にこの論文を?」
「ええ。あなたも覚えがあるでしょう。」
彰は熱心にぼくの論文に目を通している。恥ずかしい。それはほとんど、元の論文の面影などない、言ってしまえば初等部生の自由研究のようなものだから。
「思い出してはいます。朧げですけど。――確か、卒論を提出したら急に教授に呼び出されて、論文の書き直しを要求されたんです。それで八割がた書き直しました。卒業するには到底及ばないつたない論文のはずなのに、それで試問を通ってしまえて、なぜか卒業できた。なんなら教授に就職先を斡旋されて――。それを、あなたがやったって言うんですか?」
「私がやったのは、当時の電信社へのコンタクトと論文のリークだけ。未来に残っていた論文はペーパーバックにして持ち込んでいたから、電子データがなくても大丈夫だったの。」
彼女は喋りつかれたのか、ふう、と息を吐く。
「それで、元の論文ってのはどんな内容だったんだ。こんな小学生の宿題みたいな感じじゃなかったんだろ?」
彰は早々に読み終えたぼくの論文の映ったモニタをペシペシ叩く。
「それは……。」
「なんだ。憶えてないのか。」
「そんなことはないけど。」
ぼくはちらりと安芸真弓を見る。一度もみ消された論文の内容を、今ここで喋って彼女に影響はないか。
視線の意図を読み取ったのか、彼女は静かにうなずいた。
「大丈夫よ。電信社は、私は死んだと思っているから。」
「そのお話も後で聞くとして……じゃあ、簡単に。」
『月光草における植物言語の活用と人体への影響』。それは、ぼくが四年かけて調べ上げたデータから導き出した、あまりに突飛な論文だった。
「この街に存在する月光草の分布図を作った結果、それまで日陰に咲くことしか知られていなかった月光草の植生について別の基準が見えてきた。月光草は電波塔の近くによく群生するんだ。そしてその電波塔は月光草が増えれば増えるほど、電波障害が多くなっていく。これはこの街や別の街にも電信社が大きな電波塔を建てる一要因になったのではないか、とは書いた。」
「『植物言語』はどう関わってくるんだ?」
「『植物言語』……とは書いたけれど、それはぼくら人間の聴覚では聞き取れない音波で、もちろん文字化されていない音声言語なんだ。――つまり、月光草の言葉と、ぼくらの使っている通信網は、なんというか、周波数がかぶってしまっている、といえばいいのかな。月光草の中でこれらの言葉のやり取りが多くなると電波障害が起こる。」
「はぇ……。」
だめだ。彰の頭がパンクし始めた。
「ぼくだって突飛だと思うよ。けど、実際、電信社はこの論文の内容が会社にとって不都合だと判断した。そうでしょう?」
「そのとおりね。」
安芸真弓はうなずき、また語り始めた。
電信社が論文を改ざんしようとした理由。それは会社の威信にかけて準備していた新電波『ペル』が、月光草による電波障害の影響を受けること、また変質した電波が人体に影響を与えることを遠野壇の論文が二〇五六年に証明していては困るからだったの。
人体への影響――そう、「幽霊化現象」の原因はここにあった。
会社は当時、原因を把握していたわけではなかったわ。「ペル」は予定通り主要通信網となり会社は成長し、何も気がつかないまま人々は自分の精神を肉体から離れさせる電波を浴び続けた。そして「幽霊化現象」が起き始めて、このことはとある記者のリークから電信社の不祥事として糾弾されることになる。
由々しき事態であるとともに、二〇九〇年の会社ではこの事がわかっていたからこそタイムマシンを開発させたのかとも納得したわ。
すべては電信社の火消しのために。
私にとって大きな誤算だったのは、タイムマシンが二〇五六年へと到着するとともに壊れてしまったこと。私は会社に助けを求めたけれど、当時の電信社はまだラボに注力していなかったからタイムマシンの実験なんて言っても信じてはもらえなかった。
ただし、論文の改ざんについては話が違ったわ。
論文を読んだ技術者は血相を変えて会社にとり合ったようだけれど、論文のことだけが隠蔽されて新電波「ペル」は予定通りサービスを開始したの。
私は異議を唱えた技術者――ラボ設立者であり、私の未来の上司だった――に大間共々匿われ、彼の下で研究に没頭したわ。
私の本来の研究である「音声による記憶の消去/書き換え」を応用することで肉体から剥離してしまう精神を留めることはできないのか。また一度離れてしまった精神を元の体に戻すことはできないのか。
実験は何度も行われた。すべての実験の被験者は、大間だった。
正直、いい気味だと思っていたわ。彼は何度も記憶を書き換えられ、だんだんおかしくなっていった。
最初に開発できたのは、自分の記憶を過去の自分に送信する技術「精神携帯」だったの。同時に「前回」と同じように入社してきた東海によって過去に電話できる通信機器が開発されて、私と大間は精神を過去に飛ばすことになったの。
杉戸彰さん。あなたが使っているのが東海の開発した電話よ。便利でしょう?
けれど、これが間違いだったのかもしれないわね。
容易にタイムトラベルができるようになって、私は何度も過去に戻ることになったから。
二回目の二〇九〇年は、依然とまったく変わらない世界だったわ。「幽霊化現象」は止まらないし、ゆいなは殺されて、大間は終身刑。
やっぱり、「ペル」を流させないようにしないといけない。私は大間の精神が無事に転移したことを確認して過去へと飛んだわ。
今度は電信社のラボ所属の研究者ではなく、まだ十代の「安芸真弓」として、二〇五六年に戻ってきた。
そこで初めて、生きているゆいなに再会したの。うれしかったわ。それで満足してしまった。
私、そこで終わりにすることにしたの。
大間さえ始末してしまえばゆいなは長生きできる。私にはそれさえできれば世界の命運なんてどうでもよかったから。
そうして大間に会いに行ったら、あいつ精神病院にいたのよね。もうすっかりおかしくなって。私、かわいそうになったから精神をもっと過去にとばしてあげたの。精神を失った大間の肉体は「幽霊化現象」のように脳死状態になったわ。
これですべて解決した。――そう思ってた。
ゆいなが亡くなった後、幽霊化「しなかった」ときまでは。
これだけ頑張ったのに結局ゆいなは三十まで生きられなかった。今度は交通事故で亡くなった。世界は早めに「幽霊化現象」に気がつき始めていたけれど、ゆいなは幽霊になんてならなかった。
おかしい。他の人と同じように幽霊化すれば、ずっと一緒に居られるのに。
……もっと早く、「自分自身がおかしくなっている」って気がつければよかったのかもしれないわね。
私はまた、研究に没頭したわ。なぜ「幽霊化」に個人差が出るのか。みんな均一に幽霊になるにはどうすればいいのか。
「たぶん、それは。」
今度はぼくが口をはさんでしまった。
二人の視線がぼくに集まる。
ぼくは思い出していた。大間に刺された彼女――森川ゆいながぼくと同じにはならなかった情景を。
「あくまでも仮説だけれど、それも『植物の言語』が関わっている気がする。」
「というと?」
「『幽霊化現象』は月光草と新電波『ペル』が干渉しあうことによって人間の精神を肉体から分離させてしまう現象。と、仮定すると、このとき人間の精神はおそらく『植物の言語』に情報が書き換えられている、んだと思う。そのとき、何らかのエラーが発生すると置き換えが正常に完了せず、死後も精神が肉体から分離することはなくなる……んだと思う。」
「はぁ。」
「そのエラーに心当たりは?」
安芸真弓の質問に、ぼくは今まで会った人々を思い浮かべた。
ぼくと同じで幽霊化したのはアカネぐらいだった。他の、ジーンやゆいなさん、東海や伊央は爆発の後、つまり亡くなってから幽霊化してはいない――。
「希死念慮、かな。」
そう返すも、二人とも曖昧な顔をしている。
「ぼくが視える人はみんな幽霊化しなかった。代わりに自殺未遂をしていたり、死について思い悩んでいたり……。ぼくが視えなかったアカネは、きっと死にたいと深く思ったことがないんだろうね。」
「それがどうして幽霊化と関係があると?」
「植物の言語に精神が書き換えられる過程で、もしも翻訳できない情報が出てきたら?」
月光草には自死の概念が存在していない。そう考えると辻褄は合う。確かに深刻なエラーだ。自分を形成する大きな要因が一つ、抜け落ちてしまうのだから。
けれどそうなると、死を想うというのは、人間の特権なのだろうか。
「……人間の希死念慮が『植物の言語』によって翻訳できないから、正常に幽霊化できなかった。」
安芸真弓はそう言って、天を仰いだ。
「私は、ゆいなのことをそこまで慮ることができてなかったのね。」
その背中は先ほどよりもいっそう諦めに満ちて、最初に見たときよりもいくぶんか小さく見えた。
「それで、すべてがどうでもよくなって、ゆいなさんも『幽霊化』せず。あなたはその後どうしたんですか。」
そろそろ日が傾いてきた。西日の射す部屋の中で、ぼくらの影が長くのびている。
それからは、また研究の日々だったわ。
さまざまな効果のある音声を作っては試し、失敗すれば過去に戻る。一体何回繰り返したのかさっぱり忘れてしまったけれど、とにかくゆいなを「幽霊化」させるまであきらめる気はなかったわ。
でも、イレギュラーはどこにでも起こりうるもの。
あるとき、ゆいなが大間に殺されたの。それも最初の人生とまったく同じあの日、あの時、あの場所で。
私は拘留された大間に会いに行ったわ。そして気がついた。この大間は、私とタイムマシンに乗って過去へ飛び、実験によって精神をおかしくした大間だって。
大間をさらに過去へと飛ばしたことで、彼に回復の時間を与えてしまっていたと気がついたわ。それも最悪な方向に軌道修正されていた。彼はすべてを忘れたうえで「電信社の陰謀で人類は精神体にさせられそうになっている。その前になるべく多くの人を殺して、『救う』ためにタイムリープを繰り返しているのだ」と思いこんでいたの。
彼は精神鑑定で正式におかしいやつだと認められて、執行猶予つきで出てきてはすぐに過去に飛ぶことを繰り返し始めた。「今回も失敗だった」と言って。
その姿を見て、私は、自分が何をしてきたのかわからなくなったのよ。
なにをしようが結局同じ結末にたどり着く。どんなに世界を変えた気になっても同じこと。
だからいっそ、この世界を壊してしまおうと思ったの。
私は新しく、自分の精神を音声化したわ。それを過去へと飛ばして、後は好きにすることにした。
そうして無為に過ごしているのが、今あなたたちの前にいる私。琥珀派で暗躍しているのは、私が送り出した当時の私の精神データ。これが、私のやってきたことのすべてよ。
安芸真弓はそこまで喋ると、ふう、と大きく息を吐いた。
「自分の人格データを任意の記憶までで切り取って過去に送る……そんな高度なことが?」
「できるようになったわ。最終的にはね。」
彼女は手を伸ばすと、部屋の明かりを点けた。あたりはすっかり暗くなっていた。照明のリモコンを置くついでに、ベッドサイドのチェストの一番下段が開かれる。そこには電子ロックの金庫が入っていた。
軽い電子音と共に扉が開き、その中から小さな記録媒体が出てきた。
一般的なメモリーだ。但し、その透明な本体に刻まれた回路の密度は一般的に売っている物の比ではない。
「この中に私の研究のすべてが入っているわ。杉戸彰、あなたになら解析できるでしょう。ロックはかかっていないから好きに使いなさい。」
「いいんですか。」
「これも何かの縁……いいえ、私にたどり着いたあなたたちへの餞別ね。」
きっと、人に話すことはないと思っていたことだったからだろう。安芸真弓は最初のしっかりとした雰囲気に戻り、ぼくらを見つめた。
「私はあきらめてしまったけれど。あなたたちには、まだあきらめないで、望んだ未来を手に入れてほしい。」
「……はい。確かに受け取りました。」
杉戸は決意を秘めたような目で彼女を見返して、メモリーを受け取った。そして、ぼくらは静かに病室を後にした。
日陰で輝く月光草をぼんやりと見ながら、ぼくらは夜の街を歩く。緑に覆われた都市では霞みがちだが、気にすればいろんなところに生えているもんだな。
ぼくは、安芸真弓の言っていたことを反芻する。
望んだ未来。
そんなもの、ぼくにあるだろうか。
「なあ、彰はどんな未来が欲しい?」
「なんだよ、藪から棒に。」
「安芸真弓が言ってたじゃんか。『望んだ未来を手に入れてほしい』って。」
ぼくの問いに、彰はすぐには答えられなかった。駅まで歩いてきてから、誰もいないホームの端で、やっと口を開く。
「前にも言ったけど、俺は『血のバレンタイン』をなくしに来た。それで、仁と茜が生き残っていれば、それでいい。」
「そうか。」
「今のところ、その、『幽霊化現象』ってのは解決したいかと言われると……。まだ、実感が湧かないってのが正直なところだな。」
「お手本のようなやつが目の前にいるのにか?」
「まだわからないだろ。ダンだけが特別で、全人類そうなるとはまだ確定していない。さっき全員がなるとは限らないって言ってたし。」
杉戸はもらったメモリーを入れたポケットを、上から軽く叩く。
「これを解析して、たとえばダンを元に戻す方法とかが見つかれば、ついでに世界を救ってもいいかもしれないな。」
「そんなにうまくいくかな。全部無駄になるかもよ。」
「そういうダンはどうなんだ。」
「うん?」
「未来、見えてるか?」
まるで、ぼくの心を見透かしたような言い方だった。
そう。ぼくにはまるで想像ができなかった。ぼくのいる未来が。どこかで幸せそうに生きていて、誰かと結婚して、それなりの家庭を築き、老後は子供に見守られるような。
そんな人生を歩める気がしない。
「……ぼく、もうこんな姿になってるんだよ。」
「ああ。」
「普通の生活に戻れるわけないじゃんか。」
「もし戻れるとしたら?」
「そんなことわかんないよ。」
「もしもでいいからさ。なにやってたかわからないけど、もうすぐ日本に帰ってくる遠野壇が、大間に殴られることなく無事に十四日を過ごして生き延びたとしたら、何をしたい?」
ぼくらの前を電車が通りすぎる。風が線路の雪を巻き上げて、視界を白く煙らせた。
「わからないって。」
目の前は、どこまで行っても闇。知っていた。とっくの昔に自分が無気力になっていたことくらい。
「ぼくを心配している家族なんていないし、帰る家もない。連絡を取れる友人も、かろうじて一人いるけど、社会復帰しているかわからないし先に死んでるかもしれない。――カノンも。今のままなら会いたくない。」
「……そうか。でも。」
ぼくは言い募る杉戸をにらみつける。やつは気にする様子もなく飄々と、ぼくに笑いかけた。
「それでも『死にたい』って思ったこと、ないだろ。」
目の前に電車が止まる。まるで時が止まったかのように。
彰に言われて、ぼくは、息が止まるのを感じた。しばらくしてから、ああ、と息を吐いた。
「それこそさっき病室で言ってたやつだ。『希死念慮』を強く感じている人間は幽霊化できない。――じゃあ、ここに居る幽霊の遠野壇は、『希死念慮』に取り憑かれたことがないってことじゃないのか。」
「……死ぬ勇気もなくてぼんやり生きてただけだ。」
「じゃあ、そのままぼんやり生きればいい。」
扉の開いた電車に彰が一歩踏み出す。ガラガラの車内。すぐに発車のアナウンスが鳴る。
「とにかく俺はデータを解析してみるから。気が向いたら来てくれよ。」
目の前で扉が閉まった。こちらにひらひらと手を振る彰が遠ざかり、ぼくはまたしばらく、その場から動けないままに虚空を見つめていた。
結局その後、彰のところに行こうと思ったのは、やることなどないからだった。
とはいえ、ぼくからの連絡手段などないから勝手に行くしかない。
いまさら生前のぼくについて考えを巡らせたところで……と、心が完全に諦めてしまっている。ここから先に進めるだなんて、考えられない。
思い浮かべてとんだ彰のオフィスでは、案の定彼がディスプレイとにらめっこをしている。
ぼくは後ろから彼の手元を覗きこんだ。
「――データの中身は音声ファイルがいくつかと、安芸真弓の手記。この間話してくれた内容が大体入ってた。あとは、これだな。」
彰はぼくの気配にすぐ気がついて、画面に一つのファイルを開く。「『記憶定着音』と『記憶剥離音』による精神的トラウマの克服実験」。安芸真弓の論文らしい。
「これが?」
「実際に音声ファイルとして存在しているんだよ。これ。」
確かに一覧に「記憶定着音」と「記憶剥離音」がある。
「流したらどうなるんだ?」
「安芸真弓は『記憶剝離音』で自分の記憶をまるっとデータ化して過去に送って、『記憶定着音』で自分自身にその記憶を戻したみたいだけど。本来は医療目的で使いたいから被験体を探していたみたいだな。」
「へえ。」
ぼくはぼんやりと論文を読む。
――心的外傷を負った人の当時の記憶を一時的に消すことで社会復帰の準備を整える。このとき記憶を戻すか、そのまま記憶を失ったままにしておくかは考慮の余地がある。
「記憶を戻す――。」
これは、記憶を失っている人にも可能なのだろうか。
ぼくの様子がおかしいことに気がついたのか、いつの間にか彰に顔を覗きこまれていた。
「どうした。」
「……いや。」
視線をそらし、ぼくは言いよどむ。
彰は不思議そうにしながらも、データの解析に戻った。ぼくはその後ろに棒立ちでしばらく考えた。
記憶喪失の人に『記憶定着音』を聞かせたら、どうなるかな。いや、そもそも『記憶剥離音』で奪った記憶データを『記憶定着音』で戻すのだろうから。
じゃあ、カノンの記憶を戻すには、先に過去で『記憶剥離音』を使わないと。
「おーい。トーノさんやい。」
はっと顔を上げれば、彰がぼくの目の前で手を振っている。
「なに。」
「なにじゃないよ。気になることがあるんなら聞いてくれって。」
「……いや。まだいい。」
まだいい。だって安芸真弓だって書いている。記憶を取り戻すことがその人にとっていいこととは限らない、って。
「あっそ。俺、いつもだったらこの後大間の消息を追うんだけど。何もないなら行っていいか?」
「大間……今日何日だっけ。」
「十一日。」
彰のオフィスは窓がないから時間の感覚があいまいになっていたけれど。そうか、データの解析にそんなにかかっていたんだな。
「今日か明日あたり、森川ゆいなが大間のことを警察に相談しに行くんじゃないかな。」
「大間の足取り自体は知らないわけ?」
「確か、クラブに出入りしていたような。」
あれはいつだっただろう。ジーンとアカネと過ごしていたのが遠い昔のようだ。
「そういうことは早く言えよ。どこのクラブだ。」
「どこだったかな。それこそジーンに聞けばわかるんだけど。」
彰は友人の名前が出たことにため息をついている。
「あのなあ。俺、あいつに着拒されてるんだけど。」
「でも、番号は知ってるだろ。」
「そりゃもちろん。」
「じゃあいくらでも連絡できるじゃないか。」
「駄目だ。」
ぼくが文句を言うと、彰は強く、言い返す。その声色は聞いたことがないくらい低かった。顔も何時になく険しい。
じっと、彰の顔を見る。あちらも語気が荒くなったことに今更気がついたのか、そっと視線をそらした。
なにかトラブルがあったとは聞いているけれど、彰がジーンをここまで避けるのは腑に落ちない。とはいえ深く踏み込むのも。
……いや、今更か。
こんなふうになってしまって今更関わる必要がないと思うのも、今更関わったところで自分にはノーダメージだからぐいぐい行ってしまうのと。どちらになったとて、ぼくには影響がない。
だったら、彰みたいにぐいぐい言ってやろう。
「なんで駄目なんだよ。」
「別にいいだろ。」
「巻きこみたくないって言うんなら、もうとっくに巻きこまれてるのは知ってるじゃないか。」
「あれはトーノさんが――。」
「ぼくはついてっただけだよ。あのとき彰を頼る判断をしたのはジーン自身だからな。」
そう。ぼくはいつだってそうだった。口を出しはするけど、肉体がなくて、見える人が少ないことをいいことに、無関係を装っていた。
でも、もし、安芸真弓の研究が有用なら。この時間から抜け出すにはいい口実かもしれない。
「連絡してやれよ。どっちにしろアカネは琥珀派につっこんでいって行方不明になるんだし。」
ぼくの言葉に彰は口をパクパクさせている。それから深くため息をついて、ぼくの胸倉でもつかもうとしたのだろう。のばされた手がぼくの体を透りぬけて、彰が前につんのめった。
後ろで崩れ落ちた彰が、「そうだった……。」と絞り出すように言っているのが聞こえた。
「それだけ言うなら、とことん協力してもらうぞ。」
振り向いたその眼はいつになくギラギラしている。ああ、これは、ジーンじゃなくてアカネの名前を出したほうが有効だったのか。
「協力?」
「ああ。この一週間で起こること、洗いざらい話してもらおうか。」
「つまりエックスデーは今日ってことだ。」
息を切らした彰が一息に言う。それから派手に咳きこんで、隣にいた上官らしき人物ににらまれていた。
「本当にここに大間がいるんだな?」
「監視カメラで確認しました。それから、保住花音も。」
「よし。――突入してくれ。」
ぼくは二人の近くに立って、クラブの中に特殊部隊が入っていくのを見送る。
ぼくの三週間の行動を時系列がわかるだけ並べた結果、「保住花音と大間秋人を同時に捕らえられる時刻」が、ジーンたちがアカネを捜してクラブに来ていた時であるということが急に割り出されてしまったので、彰がどうにか街中の監視カメラを倍速視聴して証拠をつかませた。
上官が離れていったことをいいことに、彰がぼくに近づく。
ここまで時間にして四時間ほど。ノンストップでぼくへの聞き取り、監視カメラのチェック、上司への打診を終えた彰は疲れきった顔でそのまま地面にへたりこんだ。
「人生で一番……いや、二番目に、焦ったな。」
「なんだ、一番じゃないのか。」
「一番は……仁のこと、いじめてしまってるとわかったときかな。」
彰はそう言ってうつむいた。なんどか咳をして、呼吸を整えている。
「俺と仁は小さいころから近所に住んでて。ああ、アカネちゃんも。学校もずっと一緒だった。俺は高等部に入ったころに、なんか教師の手伝いでハッキングとかやらされて覚えてさ。鬱憤晴らしにゲームでチートして遊んでた。それで、イキってゲームのチャットで弱そうなやつの個人情報がばらまかれるようなウイルスを仕込んで……そのアカウントが仁のやつで。」
言葉に詰まった彰の隣に、黙って座る。その顔は青白く、みるからに具合が悪そうだった。
クラブのほうからは何かがぶつかるような音がしてきている。大間が抵抗でもしているのだろうか。
「それで、あいつの家の住所とか全部ばれて、変なメールいっぱい来たり、家に直接悪戯されたり。仁はお母さんと二人だったから、二人とも精神的に参って、心中、しようと。」
軽い発砲音と共に、クラブ周辺に煙がたちこめた。催涙弾が投げ込まれたようだ。
彰の震える肩を、隣で眺める。背中をさすってなぐさめることは、残念ながらできないから。
「でも、ジーンは今も生きてるだろ。」
「うん……二人で手首切ってるの、見つけたの俺だから。」
「……そうか。」
「それから、それが警察にばれて、厳重保護対象ってやつになって、俺は警察学校に転校することになったから、それっきり仁には会ってない。――や、会ってなかった。久しぶりだったんだよ、本当に。元気そうでよかった。」
「そうか。」
話しているうちに、彰の顔に血色が戻ってきた。
ぼくはふと気になったことを聞いてみる。
「教師の手伝いでハッキングってなんだ。」
「なんか、資料とか抜いたり、セキュリティソフト黙らせてお金抜き取ったり。ちょっとパソコン作業が早かったからって目をつけられたんだよなあ。」
「その教師、どうなったの。」
「さあ。確か親が教育委員会のお偉いさんらしくて、同じようなこと何度もやってるけど、お咎めなしだったって。」
「へえ。」
そのとき、クラブのほうから「確保ー!」という大きな声が聞こえた。
特殊部隊の屈強な隊員に連れられて、大間が出てくる。ついでにクラブのアルバイトをしていた琥珀派の男もだ。その後ややあってから、担架に乗せられた誰かが見えた。
担架から飛び出している脚。ブロンドの長い髪。整った顔。見覚えのある人物だ。
「保住花音。まさか大間に監禁されてたなんて。どうりで目撃情報がないわけだ。」
「カノンは、どうなる?」
「じっさいのところ、琥珀派の中心人物とは言われてるけど活動自体は確認できてないんだよな。もしかしたら事情聴取だけで釈放かも。」
「……それならよかった。」
「あとは安芸真弓だけど、まあ、あっちはどこにいるか割れてるからな。」
彰は立ちあがって体をほぐしている。そのうち彼の上司がやってきて、ついてこなかったことを怒られていた。
それにしても。
ぼくはやってきた救急車で搬送されていくカノンを、見えなくなるまで目で追った。
……問題を起こしてもお咎めなしの、教師。
まるで、どこかで聞いたことのあるような話だった。
二月十四日。
いつになく穏やかな日中だ。なにせこの後電波塔を破壊する大間は檻の中、しかもすべての事情を知る彰が目を光らせて大間の端末を取り上げたので、過去にとぶこともできない。
ぼくは、忙しそうな彰を置いてもう一度病院に来ていた。
カノンも入院中だとは思うが――正直、あちらのカノンに会ってもしょうがない。
どうせぼくの姿は見えないのだから。
一度行った病室前にとぶ。ノックをしようと思ったが実態がなくてできなかったので、仕方なく声をかける。
「こんにちはー。」
「……どうぞ。」
前と同じ、ひかえめな声。扉を透りぬけて病室に入ると、安芸真弓はゆっくりとぼくのほうを見た。
「今度はなにかしら。」
「お願いがあってきました。」
「私には何もできないわ。」
ぼくは彼女の前の椅子に座る。うまく座れているかはわからない。だって感覚がないから。
「いいえ、そんなことはないです。――あなたの論文読みました。それで思い出したんです。ぼくの友人の事。」
「友人?」
「保住花音です。」
その名前に彼女は手を握りこんだ。今現在琥珀派にいる安芸真弓は厳密には彼女のコピー。だから、面識はないと思うけれど。
「彼女は高等部のとき、不慮の事故で記憶を失いました。ぼくは、それはそれでいいと思ったんです。なぜなら彼女は父親との記憶をないものにしたがっていて、その記憶がなくなって心機一転、新しい人生が歩めると思ったから。」
「でも、そうはなっていないでしょう。」
「はい。――ぼくが、見ないふりをしてしまったから。」
そうだ。ぼくは逃げ続けた。
この人はカノンの体の中にいる、別の人だから。だからぼくには関係ないと。得体の知れない何かに触れるような接し方をして、大学を卒業したらすぐに彼女の側からいなくなって。
挙句の果てに、琥珀派なんて活動に参加していたのすら知らず、止めることもできなかった。
「おそらくカノンが琥珀派の活動をするきっかけになったのは、あなたがぼくの論文を世に出させないようにしたからでしょう。大学時代の彼女、だいぶぼくに執着していて、論文を書いている時も近くに居ましたから。」
「……それで?」
「すべてをやり直すなら、それはぼくでないといけない。――そう思ったんです。」
ぼくの言葉に、安芸真弓は深いため息をついた。
これからやろうとしていることの困難さ――それは、彼女が一番よく知っている。
「先輩からの助言よ。あなたは何もしなくていい。時間はいつの間にか過ぎ去って、なにもないままその存在ごと風化するから。その方がきっと楽よ。」
「嫌ですよ。それに諦めたところで、ぼくはこの一週間を繰り返すばかり。前になんて進めません。」
「絶対後悔するわ。」
「するかもしれない。でも、あきらめるよりましです。」
安芸真弓は微動だにしないぼくを見て、またため息をつく。
「無鉄砲ね。」
「まあ、そうかも。――でも、ぼくがやる気になったのはあなたのせいでもあるんですよ。」
「私?」
「ええ。あなたの論文を元に記憶を取る治療をカノンにしたらどうなるのか。――どんな未来が待っているのか、見てみたくなっちゃったんですから。」
ぼくの言葉を聞いて、安芸真弓は、今度は小さく息を吐く。その顔はいつになく輝いているような気がした。
「それで、私は何をすればいいの?」
「まずは肉体に戻りたいと思っています。ぼくの体に『記憶剥離音』を聞かせて、代わりに幽霊のぼくのデータを『記憶定着音』で流せばいけませんかね。」
「記憶を上書きするのね。それならこの端末でできるわ。ただし、生身の人間に手伝ってもらわないと。」
それなら頼る相手は杉戸しかいないだろう。
「その後は?」
「改めて、過去にとぼうと思っています。」
「……私が手伝えるのは、そこまでね。」
「はい。十分です。」
安芸真弓はベッド脇のチェストからパソコンを取り出した。しばらく触っていないのか、おぼつかない手つきで立ち上げている。
「夕方までには杉戸にデータを送るから。あなたは彼と一緒にいなさい。」
「ありがとうございます。」
ぼくは椅子から立って扉に向かう。最後に振り返ると、安芸真弓はじっとこちらを見ていた。
「無事に過去に戻ったら、また頼らせてもらってもいいですか?」
「それは、過去の私を説得してちょうだい。」
「はは。そうですよねえ……。がんばります。」
そのいっしゅん、ぼくにはそれまで無表情だった彼女がほほ笑んでいるようにみえた。
ぼくは、ゆっくりと目を開く。
目の前にはこちらを覗きこむ彰の顔。ぼくはいつも通り立ち上がろうとして、体があまりにも重いことにびっくりした。
そう、体だ。
自分の手を見る。――動かせる。ちゃんと、握った感触がある。
久々の感覚に、ぼくは体のあちこちを動かしてみた。足も動く。顔も動く。胸ポケットに手を入れればメモ帳があって、全然かすれていない文字で藍の連絡先が書いてある。
動かしているうちにスムーズに立ちあがれるようになった。
前の記憶がとんでしまったけれど、どうやら幽霊のぼくは体に入れたらしい。
「安芸真弓様様だなあ。本当にできるなんて。」
「俺は『保住花音のことで話がある』って匿名の電話をもらって、単身乗り込んできた過去のトーノさんが怖いよ……。」
そんな感じだったのか。普通だとおもうけど。
「でもよかったじゃんか。急に体に戻りたいとか言い出したときはびっくりしたけど。」
「うん。」
彰には、ここまでのことしか話していない。これからぼくが何をやろうが、彰には関係ないから。
そのとき、通りのほうから彰を呼ぶ声がした。
「……もしかしてアキラ兄ぃ?」
どこかで見たシルエットだ。ぼくも久しぶりに見る。それは紛れもなくアカネだった。
アカネはえー! と声を上げて、彰を手招きした。今回の彼女にとっては数年ぶりに会う人だろうから当然か。
ぼくは彰の背をとん、と押した。
「行ってあげなよ。」
彰は、は、と息を吐いて、すぐに小走りで大通りへと向かった。その後姿がアカネと共に雑踏へと消える。
ぼくは、彰の背を押したときの感触が忘れられなくて、手を開いたり、閉じたりしながらその場を離れた。
ずっと聞こえていた気がしていた誰かのささやきは、いつの間にか聞こえなくなっていた。
もう片方の手には、今のいっしゅんで彰からすり取った端末がある。
アクリルみたいな薄くて透明な板。精緻な基盤が中で光っている。画面はないが、ボタンが三つ、適当に触れると文字列が浮き上がる。
左のボタンが決定で、真ん中が選択。右が戻る。そんな簡単な操作。
『過去に戻る』操作は、何度かボタンを押したら簡単にできてしまった。
時間を設定する。二〇六〇年の、秋。
ぼくは最後に後ろを振り返った。いつかのこの時間、ぼく自身が倒れていたこの路地は、今は静かに暗闇に沈んでいる。
現在時刻は十時過ぎ。いつもならもうすぐここは爆発の影響で混乱することになるけど。もう、ぼくには関係のないことだ。
ここから始まって――そして、ここから終わらせに行こう。
端末は相変わらず、時間を点滅させている。
これが正解かはわからない。でも、あがいてみればどうにかなる、かもしれない。
ぼくのためじゃない。これはすべて、カノンのために。
頭の中に言い訳を並べ立てて、ぼくはおもわず笑ってしまった。
「――じゃあな、彰。」
決定ボタンを押せば、端末のどこからか音が聞こえてきた。まるでモールス信号で助けを求めているかのような音。端末を耳に当て、何重にも響いたそれを聞いているうちに、ぼくの視界は暗転した。
確かに、これは以前繰り返したとの同じ感覚に思えた。
そんなことを聞けば、誰だって責任を取りたくなるだろう?
・
そいつはぼくを凝視しながら、ずり落ちそうになった眼鏡をくいっと上げた。
なにかのイベント会場で目覚めたみたいだ。ぼくはぼんやりと、辺りを見渡す。
薄暗い照明の中を「STAFF」と書かれたジャケットを着た人たちが忙しそうに行き過ぎる。平然と立っているのはぼくくらいだった。
天井から吊り下げられている電子幕のきらびやかな映像から、ここが何かのゲームのイベント会場だということは読み取れた。なにかトラブルがあったようで、周りのスタッフはみんなわたわたと動きまわっている。会場のほうもざわざわと、観客らしき人々の声が反響して聞こえてきていた。
他にも何か――日付がわかるものがないかきょろきょろしていると、ふと視線が合った。
ああ、ぼくが視えるやつがいるのか。そんなふうに思っただけだった。
ぼくのほうは、だ。
しばらくして、その人物に会ったことがあることを思い出した。すらりとした長身。くせっぽい髪の毛。眼鏡。忘れもしない……いや、今の今まで忘れてたけど。でも、思い出すことはできるくらいの印象は残っている。
そう、そいつはジーンと一緒にいた、
「……杉戸彰?」
おもわずフルネームで呼んでしまう。
ぼくが視える、ジーンの友人。ただし、相手がぼくのことを覚えていることはないだろう。いつだって、繰り返せばみんな忘れてしまうから。繰り返しを覚えているのはぼくだけだ。一度会ったことのある人でもまるで赤の他人みたいになる。
そう考えたら、ジーンと一緒にいたとき森川ゆいなから隠れていた自分が恥ずかしくなった。
余計なことを考えていたからだろう。いつの間にか、隣に誰かが立っているのに今気づいた。
はっとそちらを振り向く。
にやり、と笑う杉戸が隣に立っていた。
「遠野壇!」
いきなり名前を呼ばれて、思わずギョッと相手を見返してしまった。
「……は?」
おもわず変な声が口から漏れる。
杉戸はぼくのリアクションがお気に召したらしい。口元を押さえながらもぐふぐふ笑い声が漏れている。
ぼくの目の前に立ったやつは、明らかに親し気に、こちらに話しかけてきた。
「なんだよその声……っ。はー、おもろ。」
「……なんで、ぼくのこと。」
「覚えてないと思ったか?」
当たり前だろう。
「普通はそうなんだよ。」
「『普通』は、な。」
杉戸はぼくの戸惑いなどお構いなしだ。含みを持たせた言葉にさらに追及したくなったがそれは赦してもらえなかった。
「何週間ぶりだあ? 元気に繰り返してるみたいで安心したわー。」
「……おい。」
少なくともこいつは、ぼくのことを覚えていて、ある程度事情を察している。なんだか、自分だけが置いてきぼりをくらったようで癪に障った。
「あのなあ。」
「とにかく会えてよかった。――たくさん、話したいことがあったんだ。」
文句を言おうと思った口を、思わず閉じた。
杉戸は相変わらず笑っている。けれど、その真摯なまなざしは本物で、どこか安堵しているようにも見えたから。
ぼくははあ、と息を吐く。
状況が呑み込めないけど。その説明も含めて、話を聞くのもいいかもしれない。
「ちょっと待って。職場に連絡だけ入れるから。」
そう言うと、杉戸はどこかに連絡を取り始めた。
よく見かける情端ではない。噂に聞く、古の「ガラケ―」のような形で、しかし二つ折りの手帳ほどの薄さのそれを開き、誰かに連絡を取っている。
この光景を見たことがある。事故の現場や災害時の誘導で。あるいは街中の交番の前で。
警察は自分の警察手帳を通信機として携帯しているのだ。
「本当に警察の人間だったんだな。」
杉戸はすぐに通信を終える。電話口の誰かはどうやら怒っているようだったが、構わずに電話を切っている。
彼ははちらりと手帳をぼくに見せてから丁寧に胸ポケットにしまった。ジーンが殴られたときも言ってはいたが、実感は湧かなかった。
「言っただろ。高卒で警察学校に入ったって。」
「そうだっけ。」
「……まあ、いいよ。」
ぼくらは会場から少し離れた公園に向かって歩いた。
まったく来たことのない場所だ。もしかしたら街のどこかなのかもしれないが覚えがない。ここ数年で新しくできた、と言われればそれまでだ。オフィス街の中にある緑地公園の一部らしく、人通りはない。
ぼくらは公園に入り、杉戸はベンチに腰かけてこちらを見上げる。
……これはぼくも座ったら見下ろされるな。
そんなことを思って、意地でも立っていることにする。どうせベンチに触れられないから座ることもできないんだけど。
「なんで覚えてるんだ?」
ぼくは単刀直入に聞いた。さっさと必要なことだけ聞いて去ろう。
杉戸はつっけんどんなぼくの態度を気にした様子もなく、自分の胸に手を当てる。
「改めて自己紹介な。――俺は警視庁特務科サイバー班所属で、特別捜査員をやってる杉戸彰。牧下仁の友達で、前に仁の紹介で遠野壇――あんたと会ったことがある。」
「ああ、そうだな。」
ぼくはついつい、杉戸をにらんでしまう。
「お前がそれを憶えてるのはおかしいんだよ。」
「その様子だと、他のやつは憶えてないのか?」
黙ってうなずく。
杉戸はあごに手を当てた。
「だとすると、あんたはパラレルワールドを移動してるのかもな。」
「……はあ?」
「ああ、細かい説明は省くよ? この時代には不必要な知識だから。」
「お前さあ。」
「あ、杉戸でも彰でも、なんか呼び名をつけてくれてもいいよ。」
こいつ、真面目に話す気がないな?
ジーンと同級生ってことは……確実に年下だな。
「じゃあ、彰。」
「おう。」
「原理とかはすっ飛ばすとして、お前はぼくに起きてることを理解してる。って認識でいいのか?」
「ああ。だいたいは把握してる。どうしてそうなったのかも説明できると思う。」
それは予想してなかった。
目を見開くぼくに対して、彰はどこか後ろめたいことでもあるのか目を伏せた。
「じゃあ、それを知ってるお前は。――杉戸彰ってやつは、一体何なんだ?」
また、はぐらかされるだろうか。その可能性はおおいにあった。
しかし、ぼくの予想に反して彰は至極真面目な顔でぼくに向き合う。
「俺は、――。」
一呼吸おいて、彰はポケットからなにかを取り出した。半透明で中の配線のような模様が光る板。おおよそ類似するものを見たことのない機械。まるで、この時代にあってはいけないオーパーツのようななにか。
「俺は今から十五年後からやってきた、時間遡行者だ。」
彰の言葉に、ぼくは静かに頷いた。
「そうか。」
「……無感動すぎない?」
「そんな気はしてた。」
「信じてくれるのか?」
「まあ、一度死んだくせに幽霊になってまで同じ時間を繰り返してるやつがここにいるし。」
緊張していたのだろうか。彰が「ははは。」という声と共に肩をがっくりと落とした。
「ぼくに起こってる『時縛霊化』にも関わってるんだろう?」
「それは。」
空気がぴり、と張り詰めた。明らかに知っている。それを隠す余裕もないのだろう。彰は息を吐き、すぐに顔を上げた。
「俺が最初にこの時間に来た時、お前の死体のところで一週間前に時間遡行をしたから、だと思う。」
……なるほど。
そうか。こいつのせいだったのか。
「やっぱりそれがタイムマシンか。」
「わかってたのか?」
「この間見たからな。」
いつかの繰り返しで見た彰の姿。確かに死体の前で、今手に持ってる機械を出していたのを憶えている。
「けど、あんたが幽霊化したのはまた別の原因がある。」
それについても検討はついている。
「琥珀派の言ってる新電波のせいって、本当なのか?」
「そこまでわかってるのかよ。」
「まあ、三回も繰り返せばある程度は。」
「そうだな。俺の知っている歴史通りなら、あんたがそうなったのも、琥珀派の言ってることも納得だ。」
情報を握っているからか、いちいち上から目線なのがむかつく。
仕方がない。こちらはすべて教えてもらう立場だ。
あと気になることといえば。
「なあ、なんで彰はここにいる?」
「――今日は大規模電波障害テロを企ててた犯人を捕まえに。」
「そうじゃなくて。」
聞き方が悪かったか。
「どうして、この時代に戻ってきたんだ?」
「それは。」
彰はタイムマシン的ななにかをポケットにしまって、かわりに普通の情端を取り出した。
表示されている画面を、こちらに向ける。
二〇七〇年二月七日の十一時すぎ。
いつもの時間帯だ。
「一週間後の二月十四日。新電波開放の日。電波塔の開業日で人が集まっているところに琥珀派のテロが起きて、多くの死者が出た。昔の行事になぞらえて、未来では『血のバレンタインデー』って呼ばれてる。」
「……その名前はダサくないか。」
「俺もそう思うよ。」
少しだけ、彰の顔に笑みが戻った。
「俺は、そんな黒歴史をなくしに来たんだ。」
「一つ聞いていいか。」
「何?」
「彰のいた時間では、ジーンはどうなった?」
へらへらとしていた彰の笑みは完全に引っこんだ。
「死んだよ。あの夜に。」
「……そうか。」
「ああ。――だから、あんたのせいじゃない。」
ぼくは彰の言葉につい苦笑を漏らした。頭の中を読まれたみたいに正確に、ぼくが抱えていた罪悪感を見抜かれたから。
「彰だって、ジーンの死を抱えてるんじゃないのか。」
答えはない。けれど、その沈黙が答えだろう。
ジーンを、大切な友人を救うために、時を越えてきたのだろう。
彰はまっすぐにぼくを見る。
「なあ、あんた。よければ手伝ってくれないか?」
そんな気はしてた。
でも、素直に「いいよ」と答えるのは何か違う気がして、あえてそっぽを向いてやる。
「まずはその、『あんた』って失礼な呼び方をどうにかしてくれないか?」
「……なんて呼べばいい、ですか。」
やっと気がついたか、ぼくが年上だということに!
ぼくはしばらく考えた。
今までは。思い出す前はどうでもよかったけれど。すべてを思い出した今。自分に一番しっくりくる呼び方は。
「トーノって呼べ。」
「わかった。トーノ。」
その呼び方に、笑顔に、かつての友人たちの顔がちらつく。
「仕方ない。手伝ってやるよ。」
ぼくの言葉に彰は右手を上げた。そういえばジーンともこんなふうにハイタッチしてたっけ。
仕方ないなあ、とぼくも右手を掲げる。
ぼくの腕は、見事に彰の腕を透りぬけた。
「で、なにか手立てはあるのか?」
ぼくは彰の座っている椅子の後ろから話しかける。
彰はぼくと話した後、すぐに職場から連絡が入ってオフィスにとんぼ返りしていた。もちろん、それから二時間上司とおぼしき人から説教を受けていたのは言うまでもない。
彰のデスクは薄暗い光に照らされた部署の端っこ、とってつけたように置かれた机とパソコン一つ。他の職員は全身を包むような椅子とヘルメット型のグラスを着けて何か作業をしている。
「手掛かりはある。」
彰はそう言って、パソコンでファイルを開き始める。
「これは?」
「俺が時間遡行する中で調べ上げた関係者と、その中でもイレギュラーな動きをした人物。」
そこにはぼくがかかわった人物の他に、琥珀派の人々の名前も並んでいる。ついつい「保住花音」の名前があることに目が行ってしまったが、彰が指さしたのは別の人物だった。
「この、『入武家三香』って人物。名前が明らかになっている中ではこの人だけ国民番号がヒットしない。」
国民番号。出生時与えられるランダムな数字の羅列。出生地から経歴、戸籍、病歴や納税の記録など、様々な情報が紐づけられている。口座の開設、クレジットカードの新規発行、住宅の購入や相続に至るまですべての手続きで必須とされるがゆえに国民番号なしには生活できない。
逆に言えば、国民番号さえわかってしまえば公的な機関であれば情報をいくらでもみることができる、ということだ。例えば警察とか。
「この国で国民番号がない人間なんていないだろ。」
「普通はな。ところが、偽装された国民番号ですら出てこないんだ。つまりこの人物は、本来の名前と国民番号を隠して生活していることになる。」
「本来の?」
「入武家三香は偽名ってこと。本名は安芸真弓。」
なんだ。そこまで知ってるのか。もちろんぼくは彼女に会ったことがあるからわかる。
「不可解なのはここからだ。彼女は電信社に対抗できるだけの技術者のはずなのに、経歴が普通過ぎる。」
確かに画面に表示されたデータは一般的な学生のそれで、飛び級をしていることから頭はいいのだろうな、ということがわかるくらいで目立った情報はない。
「可能性としては?」
「俺と同じ時間遡行者である可能性。で、一度、未来で調べてみたんだ。彼女この後電信社に入社してる。」
「ビンゴじゃないか。」
「絶対この人がキーマンだ。――でも確証がつかめない。それに電信社に所属していたのに今は反電信社組織である『琥珀派』の中核人物……。まったく意図が読めない。」
ぼくは杉戸の横に座りこんで、ぼうっと画面を眺めた。
初等部を順当に卒業して、高等部を飛び級して、大学に進んで。それで今、カノンといっしょに『琥珀派』をやっている。
「人生何週目なんだろうなあ。」
「まあ、とりあえず二〇九〇年までは生きているはずだ。電信社の記録に潜ったとき、二〇九〇年からタイムマシンの実験で研究員がやってきたって記録が残ってた。」
「……それ、いつの話?」
「二〇五六年。」
今から十四年前。本来の安芸真弓はもう生まれてる……。
「つまり、タイムマシンでやってきた彼女と、人生一周目の彼女が同時存在していた時期があるんだ。」
「そうか? だって精神だけで飛んでこれるんだぞ。」
杉戸はタイムリープに使っている端末を取り出してひらひらと振る。
「二〇九〇年にそれが存在していたら、タイムマシンなんて使わなくてもよかったんじゃないか?」
「……つまり?」
「一回目はタイムマシンで来た。で、その技術で二回目のタイムリープはその端末で行った、なら?」
「なるほど……?」
杉戸は首をひねりながらも、別の資料を画面に開き始める。 二〇五六年、タイムマシンがやってきたときの電信社のレポートだ。
「この資料によれば、技術的には三〇年先取りで進むことができるとかいいことは書いてあるけど、結局タイムマシンが故障していて研究は縮小、タイムマシンに乗っていた人がどうなったのかはわからない。」
「じゃあ、帰ることはできなかったんだ。」
「もしもそのまま生きているとしたら、この世界に二人の安芸真弓が存在していることになる?」
「そうだとしたらなにか調べる術があるんじゃないか。」
今度こそ杉戸は頭を抱えた。
「どうやって探すって言うんだ? 出生地はわからない、経歴もわからない、もちろん国民番号もない! 検索しようったって手がかりがなさすぎる。」
国民番号は導入されて半世紀を超え、今や番号を出生時に割り当てられた人しか存在していない。あるのが当たり前すぎて、通し番号のない時代が想像もできない。けれども、導入され始めたのはぼくのおじいちゃんがまだ若いころで、その頃はまだ導入に賛否が分かれていたという。反対する理由を聞いてもいまいちわからなかったが、おじいちゃんはそんなぼくを頭ごなしに叱ったりはしなかった。
「人は、急になにかを変えられると困ったふりをするもんさ。」
そういうものなのか。そういうこともあるかもしれない。
不思議とおじいちゃんの言葉はすとん、とぼくの心を落ち着けてくれる。
「なにか、例外があるんじゃない?」
「例外?」
「そうだな……たとえばぼくみたいに肉体がない場合とか。」
「そんなやつまだこの国には存在してないよ。」
そうだろうか。現にぼくはここにいるのに。
「や、ちょっと待てよ……。」
何か思いついたのか、急に杉戸はパソコンに向き直る。カタカタと何かを打ちこむと、新たな数字の羅列が画面に表示された。
「――本当にあった!」
「え、なになに。」
画面の最初には「臨時国民番号」の文字。
「身分証の確認できない人――たとえば事故で病院に運ばれてきた人、徘徊しているところを保護された人、海外で生まれて出生時に割り振られるはずだった番号が凍結されている人。そういう『例外』に対応する国民番号。それが『臨時国民番号』だ。」
「あるんじゃん、こういうの。」
「制度として知ってはいたけど活用されたところなんて見たことなかったんだよ。――ほら。」
エンターキーの軽快な音と共に、ピロン、と検索結果がはじき出される。
「今から十年前、事故現場で彷徨していたところを病院に保護されたものの、記憶を失っていてそのまま入院生活を続けている女性。年齢は推定七十歳。」
「七十歳?」
今、生きていたとしても八十歳になってるってことか? 本当にそれが安芸真弓なんだろうか。
「可能性はある。――だって彼女、生身でタイムトラベルを繰り返していたんだろう?」
「確かに『肉体に限界が来たからとっくの昔に捨てた』とは言ってたけど。そんなこと、可能なんだろうか。いくら未来の化学が発展したとしても、そこまで極端に適応できるだろうか。」
「あんたがまだ生きてるかもって言ったんじゃないか。とにかく確認しに行こう。」
「こんな時間に?」
ぼくはモニターの端っこを指さす。いつの間にか時計は朝の六時を指していた。
さすがに時間が悪い。
「仮眠しろよ。昼ぐらいでも大丈夫だろう。」
杉戸はぼくと時計を見比べて、しぶしぶ机の下に入っていた寝袋を広げた。ぼくも近くに寝ころがる。
「本当に生きてるの、その人。」
「死んでたらそう表記されてるさ。――入院先の病院は変わってない。東峰大学附属病院。」
杉戸がこちらを見る。
「なあ、あんたも東峰大学だったよな。」
「……うん。」
「案外、目と鼻の先でずっと見られてたんじゃないか。」
「まさか。」
冗談、であってほしい。何も言わないぼくに、杉戸は「ま、冗談だけど。」と明るく言い放ち、静かに目を閉じた。
東峰大学附属病院。地域医療の中心地であり、このあたりでいちばん大きい病院。
巨大な敷地には迷路のように各科が配置され、訪れる人は毎日何千人に及ぶ。外から見ると、ヘリポートにはドクターヘリが常時スタンバイしている。
昼下がりの病院は混みあっていた。杉戸は迷うことなく受付で警察手帳を取り出し、安芸真弓と思しき人物の臨時国民番号を伝える。しばらく受付嬢が電話で方々に確認をとり、ひとつの病室が示された。
その病室は、敷地の外れにある療養施設の中にあった。
長い廊下を歩き、迷路のような病棟内を移動する。案内の看護婦さんが病室の前までていねいに案内してくれて、杉戸にだけ会釈をして帰って行った。
扉をノックすると、中からはか細い声が聞こえてくる。
「失礼します。」
静かに扉を開ける杉戸。ぎこちないその動作に彼の緊張が伝わってくる。あれだけ自信満々だったのが嘘のようだ。
「どなたかしら。」
手狭な病室にはベッドとサイドチェストがあるばかり。モニタの類や点滴すらもない。
部屋の主は静かにベッドの縁に腰かけていた。小さく開かれた窓から、二月の寒風が緩く部屋の中をかき回している。
パッと見て、安芸真弓かどうかはわからなかった。若い彼女を知っているだけに重ねた年月が有無を言わさぬ断絶を見せびらかし、本人といえる特徴を見ることは叶わなかった。
しかし、振り返った彼女は、確かにぼくを見た。
「……あら。珍しいお客さんね。」
「安芸真弓さん、で合ってますか?」
「ええ。」
ぼくの呼びかけに答えた彼女に、杉戸も「本当かよ。」と声を漏らす。
理知的なその瞳。その目線にだけは、確かに安芸真弓の面影があった。
「どうぞ、何もないところだけれど。」
ぽんぽん、と彼女はベッドの脇の丸椅子を叩く。杉戸はおそるおそる腰を下ろし、ぼくはその隣で壁によりかかった。
「本当に安芸真弓さんなんですか。」
「そうよ。」
見た目のわりに矍鑠としている。とても九十を超えているようには見えない。
「なんでこんなところに。」
「さあねえ。もう昔のことは朧げで。なにせ、人より長く時間を行き来していたから。」
その言葉に杉戸が切り込む。
「じゃああなたはタイムトラベルをしていたんですね。」
「ええ。」
「何回くらい?」
「さあ、ねえ。」
彼女は遠くを見るように窓の外に目をやった。
窓には珍しくカーテンがかかっている。薄いレースのカーテンは昼下がりの日差しをやさしく遮り、室内に影を落としていた。
「途中から――いつだったか、なんだかすべてがどうでもよくなって、数えるのをやめてしまったの。」
「なんで、すべてが嫌になったんです?」
ぼくの問いかけに、返事は返ってこなかった。
窓の外に注がれる視線は、若いころの彼女とは違って憂いを帯びていて、決定的な感情を隠しもしない。それなのに、口は一文字に結ばれている。
いつまでも、だんまりを決め込むつもりだろうか。
「ぼくには、会わないといけない人がいます。――けれど、今のままでは合うことは叶わないでしょう。彼女に会う前に、ぼくは死んでしまうから。でも、それではいけないんです。」
「それで?」
「ぼくは、この先何があるのか――どうしてぼくらがこうならないといけなかったのか、知らないといけない。」
ずっと、興味なんてなかった。
ぼくがこうなったことも。カノンが別人のようになってしまった事も。すべては起こってしまった事で、何も変えることなどできないのだと。
だけど、知ってしまった。
ぼくらの未来を、勝手に変えたやつがいるらしい、ということを。
なら、――なら、ぼくだって、身勝手にあがいてもいいじゃないか。
彼女はゆっくりとぼくに目線を戻す。その顔はずっと疲れているようにみえた。
「そう。でもね、私はずっと、すべて自分のために好き勝手していただけなのよ。」
そうして、「安芸真弓」は静かに語りだした。
その「病気」が世間の注目を集めるようになったのは、「今」から二〇年後の二〇九〇年頃のこと。
「当時」、「それ」はテーマパークシンドロームの際に見る幻覚や、重症化した状態であると思われていた。けれど、徐々にその数は増していき、いつしかテーマパークシンドロームとは無関係の人まで罹患することになった。この現象は「精神剥離」や「身体離脱」など様々な呼ばれ方をしたが、最終的に「幽霊化現象」と呼ばれることになるわ。
「幽霊化現象」の主な症状は二つ。一つは精神が体から分離し、「幽霊化」すること。死んだ人間が引き起こすこともあれば生きている人間がある日突然「幽霊化」することもある。このとき体は脳死状態になり、徐々に衰弱していく。
もう一つは、「幽霊化」した人物を認識できること。こちらは健常者にとって一番つらい症状だったわ。なぜなら世の中が「見える人」と「見えない人」に分かれてしまったから。
かくいう私もその一人だった。
私にはだいぶ初期のころからすべての「幽霊化」が「視えて」いた。それこそ二〇九〇年なんてずっと未来に思えるほど昔から。それが果たしてひそかに「幽霊化」が進んでいたからなのか、それとも本当に幽霊だったのかは今更判別できないけれど、とにかく他者より多く「視える」というのは日常生活に支障が出るの
ありていに言えばいじめに遭ってね。
こればっかりはどうしようもなかった。クラスで無視されようが変な噂を流されようが、私にはどうすることもできなかったから。立ち向かう勇気もなくて、日々ひっそりと過ごすのが日課になったわ。
そんな中で出会ったのが、「森川ゆいな」だった。
ゆいなは物静かな少女だった。たまに喋ると鋭い言葉で他者を傷つけては一人でへこんでいて、そんなところがかわいらしく見えて、私はゆいなと二人でぽつぽつ会話をしながら過ごすのが好きだった。
鬱屈とした教室を抜け出すために飛び級をして、二人そろって大学へ進学した。学部は違ったけれど、私もゆいなも距離感は以前と変わらなかった。
一年生の秋ごろ。私はゆいなから彼氏ができたと聞かされたわ。
そいつは同じ学部の「大間」という男で、この半年ずっとゆいなに言い寄っていたらしいの。一回付き合えば満足するかと思って、って、ゆいなは冗談めかして言っていた。
実際、大間は数か月でゆいなに飽きて別れたわ。
その後よ。彼がゆいなのストーカーになったのは。
近づかれては逃げての繰り返し。その果てに、ゆいなは大間に刺されて亡くなってしまった。
あっけなかった。だからかしら。人混みの中にゆいなを探してしまう癖がついたのは。けれども見えるのは普通の人と、幽霊ばかりなのよね。
いっそ化けて出て来てくれればどんなによかったか。
二〇九〇年。「幽霊化」のニュースを見ない日はないぐらい社会問題として顕在してきたころ。私は研究職として電信社のラボに所属していたわ。
そこは多少アングラな研究でも扱うような魔窟で、実際私は後輩の「タイムマシン」研究に付き合っていたの。世間に知られてはいけない一大プロジェクトを俯瞰する立場。後輩のサポートばかりで、本当は半ば左遷されてここに居ることもわかっていた。
私の本来の研究は「音声による記憶の消去/書き換え」。トラウマを背負った人に対しての治療法として期待されていたのに、結局実用化できずに研究終了になってしまったの。けれども、後輩の東海は私の研究を評価してくれていた。
「いつかタイムマシンとは別に、精神のみをタイムリープさせる方法を考えたいと思っていたんです。ほら、生身には限界があるし、幽霊化した人でも精神のみで時間旅行をできるかもしれない。」
それはきっと、東海自身の話だったのでしょうね。
あとから聞いたら、昔死んでしまった友達に会いたいから過去に戻りたいと言っていたから。肉体に限界が来ても、自分が「幽霊化現象」で精神体になったとしても、私の研究が完成していればいくらでもタイムリープを繰り返すことができる。
その話を聞いて、私はゆいなに会いたくなったの。
彼の言っていることはまるっきり私に当てはまることばかりだった。死んだ友人に会うために、いくつ実験を繰り返そうが努力できるだけの才を、私たちは持ち合わせてしまっていた。
だから、タイムマシンの初号実験に立候補したわ。
東海はもちろん自分が行くと言って聞かなかったけれど、それは会社に止められてしまった。そりゃあそうよね。下手したら地獄への片道切符だもの。
会社は東海の代わりに、実験体を用意した。服役囚で無期懲役が言い渡された男。つまり、死んでも誰も文句を言わない人物。
出発の直前に顔を合わせたそいつは、まぎれもなく大間だった。二十年ぶりの再会だったわ。
できれば一生関わりたくなかったけれど。こればっかりは仕方なかったわね。
実験は最初に大間を一人でタイムマシンに載せて、直近の過去に飛ばす。実験は成功。それをうけて、今度は私と大間を過去へと飛ばす。
旅の目的地は、二〇六五年。電信社のラボが幽霊化現象について研究を始めたころ。
会社から私への指令は二つ。一つは実験が成功した場合の大間の破棄。もう一つはとある論文の書き換えだった。
「論文?」
静かに聞いていた彰が口をはさむ。
「ええ。」
「急に雲行きが怪しくなってきたじゃないですか。」
いや、雲行きならタイムマシンのあたりからおかしかったぞ。
「あなたが口をはさむ問題じゃないわ。――関係があるのは遠野壇。あなたのほうよ。」
「へ?」
ぼくは急に出てきた「東海」という名前について考えていたのだが、名前を呼ばれて安芸真弓のほうを向く。
「そう、あなた。私が改ざんを頼まれた論文は、まだ学会に発表されていない、それも学生の修士論文だったの。」
「へえ。」
「タイトルは『月光草における植物言語の活用と人体への影響』。」
彰はすぐさま情端を取り出した。どうやらデータベースを検索したようだが、なにも引っかからない。
「もしかして、改ざんどころかなかったことにしたのか?」
「いいや違う。タイトルが変えられてるんだ。『月光草の分布と植生変化』で調べてみて。」
ぼくの言葉に彰は訝し気な顔をするが、素直に検索を再開する。するとすぐに一件のデータがヒットした。
「あった。二〇五六年執筆、『月光草の分布と植生変化』。執筆者……『遠野壇』。」
「本当にこの論文を?」
「ええ。あなたも覚えがあるでしょう。」
彰は熱心にぼくの論文に目を通している。恥ずかしい。それはほとんど、元の論文の面影などない、言ってしまえば初等部生の自由研究のようなものだから。
「思い出してはいます。朧げですけど。――確か、卒論を提出したら急に教授に呼び出されて、論文の書き直しを要求されたんです。それで八割がた書き直しました。卒業するには到底及ばないつたない論文のはずなのに、それで試問を通ってしまえて、なぜか卒業できた。なんなら教授に就職先を斡旋されて――。それを、あなたがやったって言うんですか?」
「私がやったのは、当時の電信社へのコンタクトと論文のリークだけ。未来に残っていた論文はペーパーバックにして持ち込んでいたから、電子データがなくても大丈夫だったの。」
彼女は喋りつかれたのか、ふう、と息を吐く。
「それで、元の論文ってのはどんな内容だったんだ。こんな小学生の宿題みたいな感じじゃなかったんだろ?」
彰は早々に読み終えたぼくの論文の映ったモニタをペシペシ叩く。
「それは……。」
「なんだ。憶えてないのか。」
「そんなことはないけど。」
ぼくはちらりと安芸真弓を見る。一度もみ消された論文の内容を、今ここで喋って彼女に影響はないか。
視線の意図を読み取ったのか、彼女は静かにうなずいた。
「大丈夫よ。電信社は、私は死んだと思っているから。」
「そのお話も後で聞くとして……じゃあ、簡単に。」
『月光草における植物言語の活用と人体への影響』。それは、ぼくが四年かけて調べ上げたデータから導き出した、あまりに突飛な論文だった。
「この街に存在する月光草の分布図を作った結果、それまで日陰に咲くことしか知られていなかった月光草の植生について別の基準が見えてきた。月光草は電波塔の近くによく群生するんだ。そしてその電波塔は月光草が増えれば増えるほど、電波障害が多くなっていく。これはこの街や別の街にも電信社が大きな電波塔を建てる一要因になったのではないか、とは書いた。」
「『植物言語』はどう関わってくるんだ?」
「『植物言語』……とは書いたけれど、それはぼくら人間の聴覚では聞き取れない音波で、もちろん文字化されていない音声言語なんだ。――つまり、月光草の言葉と、ぼくらの使っている通信網は、なんというか、周波数がかぶってしまっている、といえばいいのかな。月光草の中でこれらの言葉のやり取りが多くなると電波障害が起こる。」
「はぇ……。」
だめだ。彰の頭がパンクし始めた。
「ぼくだって突飛だと思うよ。けど、実際、電信社はこの論文の内容が会社にとって不都合だと判断した。そうでしょう?」
「そのとおりね。」
安芸真弓はうなずき、また語り始めた。
電信社が論文を改ざんしようとした理由。それは会社の威信にかけて準備していた新電波『ペル』が、月光草による電波障害の影響を受けること、また変質した電波が人体に影響を与えることを遠野壇の論文が二〇五六年に証明していては困るからだったの。
人体への影響――そう、「幽霊化現象」の原因はここにあった。
会社は当時、原因を把握していたわけではなかったわ。「ペル」は予定通り主要通信網となり会社は成長し、何も気がつかないまま人々は自分の精神を肉体から離れさせる電波を浴び続けた。そして「幽霊化現象」が起き始めて、このことはとある記者のリークから電信社の不祥事として糾弾されることになる。
由々しき事態であるとともに、二〇九〇年の会社ではこの事がわかっていたからこそタイムマシンを開発させたのかとも納得したわ。
すべては電信社の火消しのために。
私にとって大きな誤算だったのは、タイムマシンが二〇五六年へと到着するとともに壊れてしまったこと。私は会社に助けを求めたけれど、当時の電信社はまだラボに注力していなかったからタイムマシンの実験なんて言っても信じてはもらえなかった。
ただし、論文の改ざんについては話が違ったわ。
論文を読んだ技術者は血相を変えて会社にとり合ったようだけれど、論文のことだけが隠蔽されて新電波「ペル」は予定通りサービスを開始したの。
私は異議を唱えた技術者――ラボ設立者であり、私の未来の上司だった――に大間共々匿われ、彼の下で研究に没頭したわ。
私の本来の研究である「音声による記憶の消去/書き換え」を応用することで肉体から剥離してしまう精神を留めることはできないのか。また一度離れてしまった精神を元の体に戻すことはできないのか。
実験は何度も行われた。すべての実験の被験者は、大間だった。
正直、いい気味だと思っていたわ。彼は何度も記憶を書き換えられ、だんだんおかしくなっていった。
最初に開発できたのは、自分の記憶を過去の自分に送信する技術「精神携帯」だったの。同時に「前回」と同じように入社してきた東海によって過去に電話できる通信機器が開発されて、私と大間は精神を過去に飛ばすことになったの。
杉戸彰さん。あなたが使っているのが東海の開発した電話よ。便利でしょう?
けれど、これが間違いだったのかもしれないわね。
容易にタイムトラベルができるようになって、私は何度も過去に戻ることになったから。
二回目の二〇九〇年は、依然とまったく変わらない世界だったわ。「幽霊化現象」は止まらないし、ゆいなは殺されて、大間は終身刑。
やっぱり、「ペル」を流させないようにしないといけない。私は大間の精神が無事に転移したことを確認して過去へと飛んだわ。
今度は電信社のラボ所属の研究者ではなく、まだ十代の「安芸真弓」として、二〇五六年に戻ってきた。
そこで初めて、生きているゆいなに再会したの。うれしかったわ。それで満足してしまった。
私、そこで終わりにすることにしたの。
大間さえ始末してしまえばゆいなは長生きできる。私にはそれさえできれば世界の命運なんてどうでもよかったから。
そうして大間に会いに行ったら、あいつ精神病院にいたのよね。もうすっかりおかしくなって。私、かわいそうになったから精神をもっと過去にとばしてあげたの。精神を失った大間の肉体は「幽霊化現象」のように脳死状態になったわ。
これですべて解決した。――そう思ってた。
ゆいなが亡くなった後、幽霊化「しなかった」ときまでは。
これだけ頑張ったのに結局ゆいなは三十まで生きられなかった。今度は交通事故で亡くなった。世界は早めに「幽霊化現象」に気がつき始めていたけれど、ゆいなは幽霊になんてならなかった。
おかしい。他の人と同じように幽霊化すれば、ずっと一緒に居られるのに。
……もっと早く、「自分自身がおかしくなっている」って気がつければよかったのかもしれないわね。
私はまた、研究に没頭したわ。なぜ「幽霊化」に個人差が出るのか。みんな均一に幽霊になるにはどうすればいいのか。
「たぶん、それは。」
今度はぼくが口をはさんでしまった。
二人の視線がぼくに集まる。
ぼくは思い出していた。大間に刺された彼女――森川ゆいながぼくと同じにはならなかった情景を。
「あくまでも仮説だけれど、それも『植物の言語』が関わっている気がする。」
「というと?」
「『幽霊化現象』は月光草と新電波『ペル』が干渉しあうことによって人間の精神を肉体から分離させてしまう現象。と、仮定すると、このとき人間の精神はおそらく『植物の言語』に情報が書き換えられている、んだと思う。そのとき、何らかのエラーが発生すると置き換えが正常に完了せず、死後も精神が肉体から分離することはなくなる……んだと思う。」
「はぁ。」
「そのエラーに心当たりは?」
安芸真弓の質問に、ぼくは今まで会った人々を思い浮かべた。
ぼくと同じで幽霊化したのはアカネぐらいだった。他の、ジーンやゆいなさん、東海や伊央は爆発の後、つまり亡くなってから幽霊化してはいない――。
「希死念慮、かな。」
そう返すも、二人とも曖昧な顔をしている。
「ぼくが視える人はみんな幽霊化しなかった。代わりに自殺未遂をしていたり、死について思い悩んでいたり……。ぼくが視えなかったアカネは、きっと死にたいと深く思ったことがないんだろうね。」
「それがどうして幽霊化と関係があると?」
「植物の言語に精神が書き換えられる過程で、もしも翻訳できない情報が出てきたら?」
月光草には自死の概念が存在していない。そう考えると辻褄は合う。確かに深刻なエラーだ。自分を形成する大きな要因が一つ、抜け落ちてしまうのだから。
けれどそうなると、死を想うというのは、人間の特権なのだろうか。
「……人間の希死念慮が『植物の言語』によって翻訳できないから、正常に幽霊化できなかった。」
安芸真弓はそう言って、天を仰いだ。
「私は、ゆいなのことをそこまで慮ることができてなかったのね。」
その背中は先ほどよりもいっそう諦めに満ちて、最初に見たときよりもいくぶんか小さく見えた。
「それで、すべてがどうでもよくなって、ゆいなさんも『幽霊化』せず。あなたはその後どうしたんですか。」
そろそろ日が傾いてきた。西日の射す部屋の中で、ぼくらの影が長くのびている。
それからは、また研究の日々だったわ。
さまざまな効果のある音声を作っては試し、失敗すれば過去に戻る。一体何回繰り返したのかさっぱり忘れてしまったけれど、とにかくゆいなを「幽霊化」させるまであきらめる気はなかったわ。
でも、イレギュラーはどこにでも起こりうるもの。
あるとき、ゆいなが大間に殺されたの。それも最初の人生とまったく同じあの日、あの時、あの場所で。
私は拘留された大間に会いに行ったわ。そして気がついた。この大間は、私とタイムマシンに乗って過去へ飛び、実験によって精神をおかしくした大間だって。
大間をさらに過去へと飛ばしたことで、彼に回復の時間を与えてしまっていたと気がついたわ。それも最悪な方向に軌道修正されていた。彼はすべてを忘れたうえで「電信社の陰謀で人類は精神体にさせられそうになっている。その前になるべく多くの人を殺して、『救う』ためにタイムリープを繰り返しているのだ」と思いこんでいたの。
彼は精神鑑定で正式におかしいやつだと認められて、執行猶予つきで出てきてはすぐに過去に飛ぶことを繰り返し始めた。「今回も失敗だった」と言って。
その姿を見て、私は、自分が何をしてきたのかわからなくなったのよ。
なにをしようが結局同じ結末にたどり着く。どんなに世界を変えた気になっても同じこと。
だからいっそ、この世界を壊してしまおうと思ったの。
私は新しく、自分の精神を音声化したわ。それを過去へと飛ばして、後は好きにすることにした。
そうして無為に過ごしているのが、今あなたたちの前にいる私。琥珀派で暗躍しているのは、私が送り出した当時の私の精神データ。これが、私のやってきたことのすべてよ。
安芸真弓はそこまで喋ると、ふう、と大きく息を吐いた。
「自分の人格データを任意の記憶までで切り取って過去に送る……そんな高度なことが?」
「できるようになったわ。最終的にはね。」
彼女は手を伸ばすと、部屋の明かりを点けた。あたりはすっかり暗くなっていた。照明のリモコンを置くついでに、ベッドサイドのチェストの一番下段が開かれる。そこには電子ロックの金庫が入っていた。
軽い電子音と共に扉が開き、その中から小さな記録媒体が出てきた。
一般的なメモリーだ。但し、その透明な本体に刻まれた回路の密度は一般的に売っている物の比ではない。
「この中に私の研究のすべてが入っているわ。杉戸彰、あなたになら解析できるでしょう。ロックはかかっていないから好きに使いなさい。」
「いいんですか。」
「これも何かの縁……いいえ、私にたどり着いたあなたたちへの餞別ね。」
きっと、人に話すことはないと思っていたことだったからだろう。安芸真弓は最初のしっかりとした雰囲気に戻り、ぼくらを見つめた。
「私はあきらめてしまったけれど。あなたたちには、まだあきらめないで、望んだ未来を手に入れてほしい。」
「……はい。確かに受け取りました。」
杉戸は決意を秘めたような目で彼女を見返して、メモリーを受け取った。そして、ぼくらは静かに病室を後にした。
日陰で輝く月光草をぼんやりと見ながら、ぼくらは夜の街を歩く。緑に覆われた都市では霞みがちだが、気にすればいろんなところに生えているもんだな。
ぼくは、安芸真弓の言っていたことを反芻する。
望んだ未来。
そんなもの、ぼくにあるだろうか。
「なあ、彰はどんな未来が欲しい?」
「なんだよ、藪から棒に。」
「安芸真弓が言ってたじゃんか。『望んだ未来を手に入れてほしい』って。」
ぼくの問いに、彰はすぐには答えられなかった。駅まで歩いてきてから、誰もいないホームの端で、やっと口を開く。
「前にも言ったけど、俺は『血のバレンタイン』をなくしに来た。それで、仁と茜が生き残っていれば、それでいい。」
「そうか。」
「今のところ、その、『幽霊化現象』ってのは解決したいかと言われると……。まだ、実感が湧かないってのが正直なところだな。」
「お手本のようなやつが目の前にいるのにか?」
「まだわからないだろ。ダンだけが特別で、全人類そうなるとはまだ確定していない。さっき全員がなるとは限らないって言ってたし。」
杉戸はもらったメモリーを入れたポケットを、上から軽く叩く。
「これを解析して、たとえばダンを元に戻す方法とかが見つかれば、ついでに世界を救ってもいいかもしれないな。」
「そんなにうまくいくかな。全部無駄になるかもよ。」
「そういうダンはどうなんだ。」
「うん?」
「未来、見えてるか?」
まるで、ぼくの心を見透かしたような言い方だった。
そう。ぼくにはまるで想像ができなかった。ぼくのいる未来が。どこかで幸せそうに生きていて、誰かと結婚して、それなりの家庭を築き、老後は子供に見守られるような。
そんな人生を歩める気がしない。
「……ぼく、もうこんな姿になってるんだよ。」
「ああ。」
「普通の生活に戻れるわけないじゃんか。」
「もし戻れるとしたら?」
「そんなことわかんないよ。」
「もしもでいいからさ。なにやってたかわからないけど、もうすぐ日本に帰ってくる遠野壇が、大間に殴られることなく無事に十四日を過ごして生き延びたとしたら、何をしたい?」
ぼくらの前を電車が通りすぎる。風が線路の雪を巻き上げて、視界を白く煙らせた。
「わからないって。」
目の前は、どこまで行っても闇。知っていた。とっくの昔に自分が無気力になっていたことくらい。
「ぼくを心配している家族なんていないし、帰る家もない。連絡を取れる友人も、かろうじて一人いるけど、社会復帰しているかわからないし先に死んでるかもしれない。――カノンも。今のままなら会いたくない。」
「……そうか。でも。」
ぼくは言い募る杉戸をにらみつける。やつは気にする様子もなく飄々と、ぼくに笑いかけた。
「それでも『死にたい』って思ったこと、ないだろ。」
目の前に電車が止まる。まるで時が止まったかのように。
彰に言われて、ぼくは、息が止まるのを感じた。しばらくしてから、ああ、と息を吐いた。
「それこそさっき病室で言ってたやつだ。『希死念慮』を強く感じている人間は幽霊化できない。――じゃあ、ここに居る幽霊の遠野壇は、『希死念慮』に取り憑かれたことがないってことじゃないのか。」
「……死ぬ勇気もなくてぼんやり生きてただけだ。」
「じゃあ、そのままぼんやり生きればいい。」
扉の開いた電車に彰が一歩踏み出す。ガラガラの車内。すぐに発車のアナウンスが鳴る。
「とにかく俺はデータを解析してみるから。気が向いたら来てくれよ。」
目の前で扉が閉まった。こちらにひらひらと手を振る彰が遠ざかり、ぼくはまたしばらく、その場から動けないままに虚空を見つめていた。
結局その後、彰のところに行こうと思ったのは、やることなどないからだった。
とはいえ、ぼくからの連絡手段などないから勝手に行くしかない。
いまさら生前のぼくについて考えを巡らせたところで……と、心が完全に諦めてしまっている。ここから先に進めるだなんて、考えられない。
思い浮かべてとんだ彰のオフィスでは、案の定彼がディスプレイとにらめっこをしている。
ぼくは後ろから彼の手元を覗きこんだ。
「――データの中身は音声ファイルがいくつかと、安芸真弓の手記。この間話してくれた内容が大体入ってた。あとは、これだな。」
彰はぼくの気配にすぐ気がついて、画面に一つのファイルを開く。「『記憶定着音』と『記憶剥離音』による精神的トラウマの克服実験」。安芸真弓の論文らしい。
「これが?」
「実際に音声ファイルとして存在しているんだよ。これ。」
確かに一覧に「記憶定着音」と「記憶剥離音」がある。
「流したらどうなるんだ?」
「安芸真弓は『記憶剝離音』で自分の記憶をまるっとデータ化して過去に送って、『記憶定着音』で自分自身にその記憶を戻したみたいだけど。本来は医療目的で使いたいから被験体を探していたみたいだな。」
「へえ。」
ぼくはぼんやりと論文を読む。
――心的外傷を負った人の当時の記憶を一時的に消すことで社会復帰の準備を整える。このとき記憶を戻すか、そのまま記憶を失ったままにしておくかは考慮の余地がある。
「記憶を戻す――。」
これは、記憶を失っている人にも可能なのだろうか。
ぼくの様子がおかしいことに気がついたのか、いつの間にか彰に顔を覗きこまれていた。
「どうした。」
「……いや。」
視線をそらし、ぼくは言いよどむ。
彰は不思議そうにしながらも、データの解析に戻った。ぼくはその後ろに棒立ちでしばらく考えた。
記憶喪失の人に『記憶定着音』を聞かせたら、どうなるかな。いや、そもそも『記憶剥離音』で奪った記憶データを『記憶定着音』で戻すのだろうから。
じゃあ、カノンの記憶を戻すには、先に過去で『記憶剥離音』を使わないと。
「おーい。トーノさんやい。」
はっと顔を上げれば、彰がぼくの目の前で手を振っている。
「なに。」
「なにじゃないよ。気になることがあるんなら聞いてくれって。」
「……いや。まだいい。」
まだいい。だって安芸真弓だって書いている。記憶を取り戻すことがその人にとっていいこととは限らない、って。
「あっそ。俺、いつもだったらこの後大間の消息を追うんだけど。何もないなら行っていいか?」
「大間……今日何日だっけ。」
「十一日。」
彰のオフィスは窓がないから時間の感覚があいまいになっていたけれど。そうか、データの解析にそんなにかかっていたんだな。
「今日か明日あたり、森川ゆいなが大間のことを警察に相談しに行くんじゃないかな。」
「大間の足取り自体は知らないわけ?」
「確か、クラブに出入りしていたような。」
あれはいつだっただろう。ジーンとアカネと過ごしていたのが遠い昔のようだ。
「そういうことは早く言えよ。どこのクラブだ。」
「どこだったかな。それこそジーンに聞けばわかるんだけど。」
彰は友人の名前が出たことにため息をついている。
「あのなあ。俺、あいつに着拒されてるんだけど。」
「でも、番号は知ってるだろ。」
「そりゃもちろん。」
「じゃあいくらでも連絡できるじゃないか。」
「駄目だ。」
ぼくが文句を言うと、彰は強く、言い返す。その声色は聞いたことがないくらい低かった。顔も何時になく険しい。
じっと、彰の顔を見る。あちらも語気が荒くなったことに今更気がついたのか、そっと視線をそらした。
なにかトラブルがあったとは聞いているけれど、彰がジーンをここまで避けるのは腑に落ちない。とはいえ深く踏み込むのも。
……いや、今更か。
こんなふうになってしまって今更関わる必要がないと思うのも、今更関わったところで自分にはノーダメージだからぐいぐい行ってしまうのと。どちらになったとて、ぼくには影響がない。
だったら、彰みたいにぐいぐい言ってやろう。
「なんで駄目なんだよ。」
「別にいいだろ。」
「巻きこみたくないって言うんなら、もうとっくに巻きこまれてるのは知ってるじゃないか。」
「あれはトーノさんが――。」
「ぼくはついてっただけだよ。あのとき彰を頼る判断をしたのはジーン自身だからな。」
そう。ぼくはいつだってそうだった。口を出しはするけど、肉体がなくて、見える人が少ないことをいいことに、無関係を装っていた。
でも、もし、安芸真弓の研究が有用なら。この時間から抜け出すにはいい口実かもしれない。
「連絡してやれよ。どっちにしろアカネは琥珀派につっこんでいって行方不明になるんだし。」
ぼくの言葉に彰は口をパクパクさせている。それから深くため息をついて、ぼくの胸倉でもつかもうとしたのだろう。のばされた手がぼくの体を透りぬけて、彰が前につんのめった。
後ろで崩れ落ちた彰が、「そうだった……。」と絞り出すように言っているのが聞こえた。
「それだけ言うなら、とことん協力してもらうぞ。」
振り向いたその眼はいつになくギラギラしている。ああ、これは、ジーンじゃなくてアカネの名前を出したほうが有効だったのか。
「協力?」
「ああ。この一週間で起こること、洗いざらい話してもらおうか。」
「つまりエックスデーは今日ってことだ。」
息を切らした彰が一息に言う。それから派手に咳きこんで、隣にいた上官らしき人物ににらまれていた。
「本当にここに大間がいるんだな?」
「監視カメラで確認しました。それから、保住花音も。」
「よし。――突入してくれ。」
ぼくは二人の近くに立って、クラブの中に特殊部隊が入っていくのを見送る。
ぼくの三週間の行動を時系列がわかるだけ並べた結果、「保住花音と大間秋人を同時に捕らえられる時刻」が、ジーンたちがアカネを捜してクラブに来ていた時であるということが急に割り出されてしまったので、彰がどうにか街中の監視カメラを倍速視聴して証拠をつかませた。
上官が離れていったことをいいことに、彰がぼくに近づく。
ここまで時間にして四時間ほど。ノンストップでぼくへの聞き取り、監視カメラのチェック、上司への打診を終えた彰は疲れきった顔でそのまま地面にへたりこんだ。
「人生で一番……いや、二番目に、焦ったな。」
「なんだ、一番じゃないのか。」
「一番は……仁のこと、いじめてしまってるとわかったときかな。」
彰はそう言ってうつむいた。なんどか咳をして、呼吸を整えている。
「俺と仁は小さいころから近所に住んでて。ああ、アカネちゃんも。学校もずっと一緒だった。俺は高等部に入ったころに、なんか教師の手伝いでハッキングとかやらされて覚えてさ。鬱憤晴らしにゲームでチートして遊んでた。それで、イキってゲームのチャットで弱そうなやつの個人情報がばらまかれるようなウイルスを仕込んで……そのアカウントが仁のやつで。」
言葉に詰まった彰の隣に、黙って座る。その顔は青白く、みるからに具合が悪そうだった。
クラブのほうからは何かがぶつかるような音がしてきている。大間が抵抗でもしているのだろうか。
「それで、あいつの家の住所とか全部ばれて、変なメールいっぱい来たり、家に直接悪戯されたり。仁はお母さんと二人だったから、二人とも精神的に参って、心中、しようと。」
軽い発砲音と共に、クラブ周辺に煙がたちこめた。催涙弾が投げ込まれたようだ。
彰の震える肩を、隣で眺める。背中をさすってなぐさめることは、残念ながらできないから。
「でも、ジーンは今も生きてるだろ。」
「うん……二人で手首切ってるの、見つけたの俺だから。」
「……そうか。」
「それから、それが警察にばれて、厳重保護対象ってやつになって、俺は警察学校に転校することになったから、それっきり仁には会ってない。――や、会ってなかった。久しぶりだったんだよ、本当に。元気そうでよかった。」
「そうか。」
話しているうちに、彰の顔に血色が戻ってきた。
ぼくはふと気になったことを聞いてみる。
「教師の手伝いでハッキングってなんだ。」
「なんか、資料とか抜いたり、セキュリティソフト黙らせてお金抜き取ったり。ちょっとパソコン作業が早かったからって目をつけられたんだよなあ。」
「その教師、どうなったの。」
「さあ。確か親が教育委員会のお偉いさんらしくて、同じようなこと何度もやってるけど、お咎めなしだったって。」
「へえ。」
そのとき、クラブのほうから「確保ー!」という大きな声が聞こえた。
特殊部隊の屈強な隊員に連れられて、大間が出てくる。ついでにクラブのアルバイトをしていた琥珀派の男もだ。その後ややあってから、担架に乗せられた誰かが見えた。
担架から飛び出している脚。ブロンドの長い髪。整った顔。見覚えのある人物だ。
「保住花音。まさか大間に監禁されてたなんて。どうりで目撃情報がないわけだ。」
「カノンは、どうなる?」
「じっさいのところ、琥珀派の中心人物とは言われてるけど活動自体は確認できてないんだよな。もしかしたら事情聴取だけで釈放かも。」
「……それならよかった。」
「あとは安芸真弓だけど、まあ、あっちはどこにいるか割れてるからな。」
彰は立ちあがって体をほぐしている。そのうち彼の上司がやってきて、ついてこなかったことを怒られていた。
それにしても。
ぼくはやってきた救急車で搬送されていくカノンを、見えなくなるまで目で追った。
……問題を起こしてもお咎めなしの、教師。
まるで、どこかで聞いたことのあるような話だった。
二月十四日。
いつになく穏やかな日中だ。なにせこの後電波塔を破壊する大間は檻の中、しかもすべての事情を知る彰が目を光らせて大間の端末を取り上げたので、過去にとぶこともできない。
ぼくは、忙しそうな彰を置いてもう一度病院に来ていた。
カノンも入院中だとは思うが――正直、あちらのカノンに会ってもしょうがない。
どうせぼくの姿は見えないのだから。
一度行った病室前にとぶ。ノックをしようと思ったが実態がなくてできなかったので、仕方なく声をかける。
「こんにちはー。」
「……どうぞ。」
前と同じ、ひかえめな声。扉を透りぬけて病室に入ると、安芸真弓はゆっくりとぼくのほうを見た。
「今度はなにかしら。」
「お願いがあってきました。」
「私には何もできないわ。」
ぼくは彼女の前の椅子に座る。うまく座れているかはわからない。だって感覚がないから。
「いいえ、そんなことはないです。――あなたの論文読みました。それで思い出したんです。ぼくの友人の事。」
「友人?」
「保住花音です。」
その名前に彼女は手を握りこんだ。今現在琥珀派にいる安芸真弓は厳密には彼女のコピー。だから、面識はないと思うけれど。
「彼女は高等部のとき、不慮の事故で記憶を失いました。ぼくは、それはそれでいいと思ったんです。なぜなら彼女は父親との記憶をないものにしたがっていて、その記憶がなくなって心機一転、新しい人生が歩めると思ったから。」
「でも、そうはなっていないでしょう。」
「はい。――ぼくが、見ないふりをしてしまったから。」
そうだ。ぼくは逃げ続けた。
この人はカノンの体の中にいる、別の人だから。だからぼくには関係ないと。得体の知れない何かに触れるような接し方をして、大学を卒業したらすぐに彼女の側からいなくなって。
挙句の果てに、琥珀派なんて活動に参加していたのすら知らず、止めることもできなかった。
「おそらくカノンが琥珀派の活動をするきっかけになったのは、あなたがぼくの論文を世に出させないようにしたからでしょう。大学時代の彼女、だいぶぼくに執着していて、論文を書いている時も近くに居ましたから。」
「……それで?」
「すべてをやり直すなら、それはぼくでないといけない。――そう思ったんです。」
ぼくの言葉に、安芸真弓は深いため息をついた。
これからやろうとしていることの困難さ――それは、彼女が一番よく知っている。
「先輩からの助言よ。あなたは何もしなくていい。時間はいつの間にか過ぎ去って、なにもないままその存在ごと風化するから。その方がきっと楽よ。」
「嫌ですよ。それに諦めたところで、ぼくはこの一週間を繰り返すばかり。前になんて進めません。」
「絶対後悔するわ。」
「するかもしれない。でも、あきらめるよりましです。」
安芸真弓は微動だにしないぼくを見て、またため息をつく。
「無鉄砲ね。」
「まあ、そうかも。――でも、ぼくがやる気になったのはあなたのせいでもあるんですよ。」
「私?」
「ええ。あなたの論文を元に記憶を取る治療をカノンにしたらどうなるのか。――どんな未来が待っているのか、見てみたくなっちゃったんですから。」
ぼくの言葉を聞いて、安芸真弓は、今度は小さく息を吐く。その顔はいつになく輝いているような気がした。
「それで、私は何をすればいいの?」
「まずは肉体に戻りたいと思っています。ぼくの体に『記憶剥離音』を聞かせて、代わりに幽霊のぼくのデータを『記憶定着音』で流せばいけませんかね。」
「記憶を上書きするのね。それならこの端末でできるわ。ただし、生身の人間に手伝ってもらわないと。」
それなら頼る相手は杉戸しかいないだろう。
「その後は?」
「改めて、過去にとぼうと思っています。」
「……私が手伝えるのは、そこまでね。」
「はい。十分です。」
安芸真弓はベッド脇のチェストからパソコンを取り出した。しばらく触っていないのか、おぼつかない手つきで立ち上げている。
「夕方までには杉戸にデータを送るから。あなたは彼と一緒にいなさい。」
「ありがとうございます。」
ぼくは椅子から立って扉に向かう。最後に振り返ると、安芸真弓はじっとこちらを見ていた。
「無事に過去に戻ったら、また頼らせてもらってもいいですか?」
「それは、過去の私を説得してちょうだい。」
「はは。そうですよねえ……。がんばります。」
そのいっしゅん、ぼくにはそれまで無表情だった彼女がほほ笑んでいるようにみえた。
ぼくは、ゆっくりと目を開く。
目の前にはこちらを覗きこむ彰の顔。ぼくはいつも通り立ち上がろうとして、体があまりにも重いことにびっくりした。
そう、体だ。
自分の手を見る。――動かせる。ちゃんと、握った感触がある。
久々の感覚に、ぼくは体のあちこちを動かしてみた。足も動く。顔も動く。胸ポケットに手を入れればメモ帳があって、全然かすれていない文字で藍の連絡先が書いてある。
動かしているうちにスムーズに立ちあがれるようになった。
前の記憶がとんでしまったけれど、どうやら幽霊のぼくは体に入れたらしい。
「安芸真弓様様だなあ。本当にできるなんて。」
「俺は『保住花音のことで話がある』って匿名の電話をもらって、単身乗り込んできた過去のトーノさんが怖いよ……。」
そんな感じだったのか。普通だとおもうけど。
「でもよかったじゃんか。急に体に戻りたいとか言い出したときはびっくりしたけど。」
「うん。」
彰には、ここまでのことしか話していない。これからぼくが何をやろうが、彰には関係ないから。
そのとき、通りのほうから彰を呼ぶ声がした。
「……もしかしてアキラ兄ぃ?」
どこかで見たシルエットだ。ぼくも久しぶりに見る。それは紛れもなくアカネだった。
アカネはえー! と声を上げて、彰を手招きした。今回の彼女にとっては数年ぶりに会う人だろうから当然か。
ぼくは彰の背をとん、と押した。
「行ってあげなよ。」
彰は、は、と息を吐いて、すぐに小走りで大通りへと向かった。その後姿がアカネと共に雑踏へと消える。
ぼくは、彰の背を押したときの感触が忘れられなくて、手を開いたり、閉じたりしながらその場を離れた。
ずっと聞こえていた気がしていた誰かのささやきは、いつの間にか聞こえなくなっていた。
もう片方の手には、今のいっしゅんで彰からすり取った端末がある。
アクリルみたいな薄くて透明な板。精緻な基盤が中で光っている。画面はないが、ボタンが三つ、適当に触れると文字列が浮き上がる。
左のボタンが決定で、真ん中が選択。右が戻る。そんな簡単な操作。
『過去に戻る』操作は、何度かボタンを押したら簡単にできてしまった。
時間を設定する。二〇六〇年の、秋。
ぼくは最後に後ろを振り返った。いつかのこの時間、ぼく自身が倒れていたこの路地は、今は静かに暗闇に沈んでいる。
現在時刻は十時過ぎ。いつもならもうすぐここは爆発の影響で混乱することになるけど。もう、ぼくには関係のないことだ。
ここから始まって――そして、ここから終わらせに行こう。
端末は相変わらず、時間を点滅させている。
これが正解かはわからない。でも、あがいてみればどうにかなる、かもしれない。
ぼくのためじゃない。これはすべて、カノンのために。
頭の中に言い訳を並べ立てて、ぼくはおもわず笑ってしまった。
「――じゃあな、彰。」
決定ボタンを押せば、端末のどこからか音が聞こえてきた。まるでモールス信号で助けを求めているかのような音。端末を耳に当て、何重にも響いたそれを聞いているうちに、ぼくの視界は暗転した。
確かに、これは以前繰り返したとの同じ感覚に思えた。
後書き
終章「0週目 新・2070年2月14日」に続く
作者:水沢妃 |
投稿日:2025/08/27 14:02 更新日:2025/08/27 14:02 『レトロフューチャー』の著作権は、すべて作者 水沢妃様に属します。 |
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