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作品ID:1953
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封魔の城塞アルデガン

小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 完結

前書き・紹介


第3部『燃え上がる大地』

前の話 目次

  第1章 国境

 アザリアは東の王国イーリアから南の大国レドラスへ入る国境までやってきた。


 アルデガンを旅立ってから二ヶ月になろうとしていた。最初に北の王国ノールドに立ち寄り宝玉やレドラスに関する情報を交換し、次いでイーリアの宰相とも面会し、許可を得て宝玉を失った東の塔の現状を調べたところだった。アルデガンはその場所こそ北の国ノールドの領内にあるが、エルリア大陸全土に分布していた魔物の掃討のために築かれたという由来ゆえにどこの国からも独立しているものと位置づけられており、建立以来一定の敬意をもって接しられていた。むろんいまも援助を続けているノールドとの信頼関係が特に深いのも事実で、両者は互いの情報を包まず伝えあった。
 これらの情報が示す状況は予想以上に悪かった。レドラスの野心は明白であり、いつ戦端が開かれてもおかしくないとしか思えなかった。

「レドラスは宝玉についての我々の問いかけをはぐらかそうとするばかりだ」
 ノールドの王城リガンで面会した宰相はアザリアにいった。
「南の塔はレドラスの領土内にあり、西部地域の騒乱以来狙う者もあるので宝玉を塔に置いておけない。だから王城で保管しているというのが言い分だ。東の塔の宝玉については一切関知せぬというばかり。これでは我々もそれ以上追求はできぬ」
「だが今のレドラス王ミゲルが十五年前に即位してから、諸国との国境付近に軍勢を増強しているのも事実。表向きは西部地域の混乱が自国に及ばぬようにしているとのことだが、むしろ我が国や東のイーリアに向けて増強されている。
 我らも国境から領内にかけて砦を新たに設け防衛線を強化しておるのだが、ここ数ヶ月の間に軍勢がさらに増強され間者が入り込んでいる様子もある。ここだけの話、王宮ではもしもの場合にそなえての対応も協議しているところだ」
 レドラスはエルリア大陸最大の国だった。その版図はイーリアとノールドを合わせたよりも大きかった。難しい協議になるだろうとアザリアは思った。

 一方イーリアで聞いた話では先代の王の時代までのレドラスは決して野心をむき出しにしていたわけではなかった。豊かで広大な国土を持つレドラスは農耕民族を遊牧民が支配しており、地上軍の強さには定評があったが魔術の技法の分野においてはノールドやイーリアの水準に遠く及ばず、そのことで恐れを抱いている感さえあったという。特にアルデガンとの協力関係が深く魔術研究においては大陸随一とみなされていたノールドに対する先代のレドラス王の猜疑はいささか常軌を逸していたとの話だった。
 ばかげた話だとアザリアは嘆息した。どこから出た話かと。援助がとだえがちになるにつれ衰亡の翳りが目立つ今のアルデガンには魔術士の人材の枯渇こそが目立つというのに。そもそも魔物との戦いに明け暮れ軍事目的での魔術研究どころではなかったというのに。魔物たちの脅威が記憶から薄れ、援助がとだえ疎遠になるとここまで誤解されてしまうのかと。
 もっともアザリアにもそのような魔術に関する誤解に付け込む意図もあればこそ、長旅であるのにわざわざ魔術士の白い長衣を着てきたのだが。
 呪文ひとつ満足に唱えられぬ魔術士である自分がアルデガンの現状の戯画のように感じられた。

 そしてイーリアではまだ間者の侵入や軍の目立つ増強は認められないということだった。これはアザリアにとって意外だった。しかも明らかに悪い兆候だった。
 ラーダ寺院でゴルツから状況を聞いたときには宝玉のことを知らないイーリアの方がより危険なはずだと思っていたが、実際の状況は明らかにノールドを標的にしていることを示唆していた。魔術において優るはずの相手を、レドラスが宝玉を持っていると知っているため不意を襲いにくいはずなのにあえて標的にする。しかも宝玉はなんらかの加工を受けているとなれば、レドラスはノールドを圧倒するなんらかの魔術的な攻撃手段を手に入れたと考えるしかないように思えた。

 アザリアは旅に同行していたラーダ寺院の見習い僧たちにノールドとアルデガンに状況を伝えるために戻るよう命じた。そして自分はレドラスに赴き何か一つでも手掛かりを得るつもりだと告げた。見習い僧たちは危険であると反対し、自分たちも同行すると主張したが、アザリアは事態は急を要すると彼らを説き伏せてイーリアから戻らせた上で自分一人でここまできたのだった。


 国境の警備兵に大司教からレドラス王ミゲルにあてた支援要請の親書を持ってきたことを告げると、アザリアはレドラス領内に迎え入れられた。
 警備隊長は褐色の髪と灰色の目という同じ南部民族の特徴を持つアザリアへの親しみを隠さず、レドラスの王城への連絡・運搬隊の便に同乗できるよう取り計らってくれた。イーリアに面した軍勢が臨戦体制にないのは明らかだった。
 やはりノールドかとアザリアは思った。ノールドも警戒はしているしこちらからも警告はしたので虚を突かれることはないはずだが、アルデガンの主たる宝玉には劣るというものの巨大な力を持つ宝玉を二つも、それもノールドとイーリアの二国を同時に攻めるわけでもないとしたらどういう使い方をする気か想像もできなかった。そもそもそんな使い方をするほど大規模で高度な術式などこのエルリア大陸には存在しないし、一から作り上げるならば大陸屈指の魔術士が生涯のあらかたを費やさなければならないはずだった。

 自分のしていることが正気の沙汰ではないと自覚はしていた。かりにレドラスの秘密をつかんだとして、どうやって国外に伝えるつもりか。秘密を知れば殺されるのがおちではないか。自分もそう思ったからこそ見習い僧たちを帰したのではないか。
 だが、心の奥で警報が鳴り続けていた。なにがなんでも自分はその秘密をつかまなければならないとかつて洞窟で幾多の死線をくぐりぬけることで研ぎすまされた感覚が告げていた。
 馬車の窓からレドラス軍や領内の様子に油断なく目を配りながらも、アザリアはいつしか探索のため洞窟に赴くリアを見送った旅立ちの日のことを思い出していた。

 本当ならリアはこの旅に同行しているはずだった。アルデガンの外の世界をほとんど知らず、ただ洞窟の魔物と向きあうだけの日々において魔獣の魂に感応してしまったリアに、外の世界の営みを見せることで守るべき存在としての人間の姿を示せたなら、きっと自ら戦いの意味をつかみ直してくれたと信じていた。
 だがアルデガンに侵入した吸血鬼の牙は、その望みを無残に打ち砕いた。確かにリアは自分の身に振りかかった恐怖と絶望から他の者を守ろうという意識に目覚め恐ろしい戦いに臨んだ。だがそれは彼女の死をもってしか完結しないはずの戦いだった。
 アルデガンが失ったものは一人の少女などではなかった。衰亡の翳り深い現状では望むことすら難しい最高の守り手になりうる存在だった。つのる無念の思いがアザリアをまた苛んだ。

 あのとき側にいたアラードが自分を指し示したのを見て、アザリアはリアがすでに真昼の太陽に照らされた自分の姿を見ることができなくなっていると察した。リアは戻れるはずもない戦いに赴いた。いまや自分も容易に戻れるはずのない探索の途についている。

 もうリアの戦いの結果を知ることはできないかもしれない。
 リアが私の姿を見ることができなかったように、
 それでもいかなければならない。心の告げる声に従って。
 リアがきっとそうだったように。

 アザリアは背筋を伸ばし顔をあげ、決意も新たに馬車の行く手を見つめるのだった。





  第2章 洞窟下層

 暗闇の中で、大きな飛竜と華奢な少女が向きあっていた。

 その大きさからも姿からも本来洞窟にいるのがふさわしくない飛竜は苛立っていた。その心の動きがリアには手に取るように読み取れた。洞窟の中では広げることもできない翼を思い切り伸ばし天翔けるイメージとして受け取った。
「それが望みなの?」
 応えは言葉でこそなかったが、明らかに肯定の念だった。
 リアは心を鎮めてみた。相手の苛立ちがみるみる鎮まった。
 ゆっくりと感応のつながりを解くと、飛竜は低く唸りながらも向きを変え、横穴の奥に戻っていった。


 あれからもう二ヶ月がたとうとしていた。その間リアは洞窟をさまよい歩き、多くの秘密を知った。
 同時に自分の身に起きた変化がどんなものであるかも。

 洞窟には様々なものが棲んでいた。深くなればなるほど種類も数も多かった。
 下層の岩壁は岩がむき出した場所はほとんどなく、様々な種類の苔やキノコなどの菌類や青白い植物めいたものがはびこっていた。それを糧にしているとおぼしき虫、さらにそれを餌にしているネズミやコウモリなども凄まじい数だった。亜人たちはもっぱらそれらを餌にして、横穴の奥の巣穴にあふれるほど繁殖していた。そしてより大きな魔物たちが彼らを糧にしていた。

 洞窟は一本の太い通路から多くの枝道が伸びていて、その先に様々な様子の空洞があった。それらの多くは単なる空洞のままではなく何らかの力で異質な環境と化し、その環境に応じた魔物の棲みかになっていた。通路にあったものよりはるかに大きく深い地底湖には水棲の魔物たちが棲んでいた。青白い植物が疑似的な森を作っている空洞もあった。暗闇の中に自然な火口ではありえない亀裂から吹き出る噴火の力で、太陽まがいの光と熱を浴びた砂漠めいた環境を作り上げた砂地の空洞もあった。

 それらの空洞に棲む数多くの魔物たちとリアは対峙してきた。その結果わかったことは、自分の感応力がおそらく転化によって強化され変質したことだった。
 彼女はいまや出会った魔物たちと自由に感応しあうことができた。亜人や巨人、一部の魔獣などではほぼ言語に近い水準で思念を交わすことができ、より知性の低い魔物ともイメージの水準のものを伝え合うことができた。
 彼らは一様に外界へ出ることを渇望していた。当然だった。彼らにとってここはしょせん牢獄だった。いくらか本来の環境に似せられていて一応生きてはいけるものの、本来在るべき場所ではなかった。滅びの場として用意されたものだったのだから当たり前ではあったが、それなら環境を変えている力は人間の意図とは矛盾するものだった。アールダ師が魔物を滅ぼすために洞窟に追い込んだのが誤りだったといったというのも、この不思議な力の存在ゆえのことだったのだろうとリアは思った。

 そしておそらくは吸血鬼が持つ獲物に対する支配の力の影響なのか、魔物の精神を自らの精神にある程度まで同調させることができることもわかった。
 しかも彼女の目は出会った全ての魔物の体に命の流れを読み取ることができた。かりに正面から戦いになったとしても、よほど体の大きさが違うのでなければ命の流れを断ち切ることで容易に相手を斃せることが本能的にわかった。

 しかし、どの魔物にも、あるいは洞窟にはびこる小動物にも、命の流れは読み取れても血の流れを見ることはなかった。
 目覚めたばかりのあのとき自分がアラードの姿に見てしまった血の流れ、命の流れと重なり合うように見て取れた真紅の流れを他の生き物に見ることは一切なかった。それを見た瞬間に確かに感じられたあの恐ろしい衝動も、他の魔物や生き物によってかきたてられることはまったくなかった。
 だからこの二ヶ月ほどの間にじりじりと強まってきた渇きも、人間の血でなければ鎮められないものであることがもうわかっていた。

 吸血鬼は生き物の理に収まる存在ではなく呪いの範疇にあり、その渇きは自らが生きるためではなく他の人間を化生させるためのものとゴルツは語ったが、自分が人間という種族に呪縛された最凶の魔物と化したことを彼女はいまや実感していた。
 それゆえリアは多くの魔物のもとを訪れた。自分をこの世から完全に消し去ることのできるものがいることを願って。
 だが、そんなものには会えなかった。彼らはいずれも生き物としての理の中に留まる存在にすぎなかった。自分の肉体を喰らい尽くすものはいるとしても、魂を滅ぼされない限り肉体はいくらでも編み上げられてしまう。魂の水準において自分を滅する力を持つと見て取れたものはいなかった。

 だから数多くの魔物と出会ったものの、戦いを仕掛けることはないままだった。渇きとともに焦りと絶望が増しつつあった。
「どうなるの、私……」
 思わず呻き声が出た。

 どうやら自分を滅ぼせるものはゴルツしかいそうになかった。ならば滅びたければ地上に戻るしかない。けれど地上に戻れば、ゴルツに会うまでに別の誰かに出会うはず。そのとき何が起こるのか、渇きにかられ牙にかけるようなことになるのでは。互いに顔も見知った、大切な仲間だった誰かを……。
 おぞましかった。許せなかった。やはり戻ってはいけない!
 でも、このままでは渇きがいや増すばかり。事態はますます悪くなる……。

 そのときリアは岩壁を覆い尽くすキノコや植物の根元に金色の光がかすかに流れているのに気づいた。改めて洞窟を見回すと、その流れは洞窟の最深部から洞窟全体に流れているのが見て取れた。これが洞窟の異常なまでに豊穣な生命を支えていると彼女は直感した。
 洞窟の環境を変えてしまい数多の命を支える強大な力。それがどんなものかはわからないが、もしかすれば自分を滅ぼすことができる力かも!
 リアは最後に残された未踏の空洞にあるはずの力の源めざし、すがる思いで最深部への坂を駆け下り始めた。





  第3章 レドラス


 アザリアを乗せた馬車がレドラスの王城ドルンに到着したのは午後になってからだった。

 巨大な城だった。しかもまだ築かれて年数が浅いようだった。高さはさほどなく尖塔の類いも少ないが、巨大な切り株のような平たい形状からすれば屋上には巨大な空間を確保しているように見えた。見るからに奇妙な作りだった。
 王城はただならぬ雰囲気につつまれていた。武装した軍隊が城門から北へ続く街道に送り出されていた。しかもその規模や装備から見てこれは本体の背後に置かれる補給部隊か予備兵団のようだった。本体はすでに送り出されたあとらしかった。遅かったかとの思いにアザリアは唇をかんだ。
 だが、王宮の中庭にはひときわ目立つ八頭立ての戦車が留められていた。豪華な装飾から一目で王の乗り物であるとわかった。近衛兵の姿もそこここに見られた。どうやら王はまだ城内にいるらしかった。
 警備兵から話をきいた近衛兵が城内に入った。状況からとても目通りがかなうとは思えなかったが、戻ってきた近衛兵は意外なことに城内に入るようアザリアに告げた。

 鎧を身に付け帯剣して現れたレドラス王ミゲルは四十代半ば。中背で褐色の髪と灰色の目を持つ典型的な南部遊牧民族の特徴の持ち主だった。ここレドラスにおいてそれは支配者の証だった。しかしその風貌は満足を知らぬ貪欲さを見せつけるようだった。その目はむき出しの野望にぎらついていた。
「親書を携えてきたと聞いた。大儀である」
 ひざまづくアザリアの前で、王は近衛兵から親書を受け取り、ざっと目を通した。
「支援を我がレドラスに求めるというか。そなたイーリア側から国境を越えたと聞くが、かの国にも支援を求めたのか?」
 アザリアが首肯すると、ミゲル王の口元に意味ありげな冷笑が浮かんだ。
「まことに大儀である。我が誇り高き一族に遠く連なるその身で使い走りとはな。だが、それももはや無用だ。我らが洞窟の魔物など一掃してくれる」
「おそれながら、それはどういう意味にございますか?」
「我が偉大なるレドラスが誰もなしえなかったことをなす。ゆえに我が国にこそかの地を治める資格があるということだ」
 ミゲル王は声をあげて笑った。
「余は先代と違う。アルデガンやノールドの現状など知り抜いておる。もはや魔法の時代ではない。衰亡した実態に過去の幻影をまとわせ欺いているにすぎぬ。そなたがその白き長衣にて呪文を失った身をまとい欺こうとしているのと同じこと」
 アザリアは色を失った。そんなアルデガンに住む者しか知らぬはずのことを、なぜこのレドラス王が知っているのか!

 倣岸なる王はしばしアザリアの様子を面白そうに眺め、やがて言葉を続けた。
「見てのとおり我が国は取りこんでおる。本来ならば謁見どころではないのだが、使者がそなたであると聞いたからこそこうして会っておるのだ。そなたがおらねば戦支度をすることもなかったのだからな。光栄に思うがよいぞ、アザリア」
「……私がいなければ、戦をすることもなかったと?」
 ますますわからなくなった。この男はなにをいっている?
 侍従の耳打ちにミゲル王がうなづいた。
「もう少しそなたが惑うのを見ていたくもあるが、時間がないのでな。そなた、我が方を探りにきたのであろう? いや、隠さずともよい」
 アザリアが口を開く間も与えず、王は片手で制した。
「余は感嘆しておるのだ。さすが我が民族の血を引く者、大した胆力とな。そなたが恭順を誓うなら処遇を考えてもよいのだぞ。偉大な民族の一員たるそなたのような者が命運尽きたアルデガンになど身を置く意味はありはせぬ」
 ミゲル王は再び笑い声をあげた。

「くるがいい! 我がレドラスの大いなる力を見せてやる!」





  第4章 最下層


 リアが辿り着いたのはこれまでの中で最大の空洞だった。幅や奥行きもさることながら高さがずばぬけて高く、噴煙でけぶっているため天井の様子が見て取れないほどだった。
 ここには人の手による加工はおろか、不思議な力による環境の変化も見て取れなかった。ゴルツがいったとおり、小さいながら火山としての特徴をすべて備えた火山が炎を上げていた。天井までの高さの約半分の高さにある火口から天井を舐めるように炎が吹き上げられるたびに、はるかに離れた岩壁に赤と黒の妖しい文様が踊った。
 そして、炎を吹き上げる火口から円錐状の麓へと、あの金色の微かな光が絶え間なく溢れ出て、洞窟の通路の壁を伝い流れていた。力の源は火口の中らしかった。
 火口の中では手出しができない。リアがとまどっていると、突然強大な思念を感じた。
>人の子よ。汝一人いかにしてここまで辿り着いた?<

 これまで先に呼びかけてきた魔物などいなかった。驚くリアの目の前で火口から太い火柱が上がった。その紅蓮の流れの中を、金色に輝きながら泳ぐものがいた。それが光の源だった。
 だが、それ以上は捉えられなかった。真昼の太陽とまがう光に目を開けていられなくなった。リアは痛む目を閉じて叫んだ。
「あなたはだれ? 姿を見せて!」
 火柱が縦に裂けた。左右に大きく分かれた二本の炎の間にそれが姿を現した。

 決して大きな体ではなかった。腹が赤、背が緑にきらめく蛇体はせいぜい人の背の三倍から四倍程度、金色にまばゆく輝く翼は翼長が人の背と同じくらい。頭部に至っては大きさだけでなく形までいくらか人間に似ていた。細い顔を無数の触手が取り巻いていて、頭頂に生えた一群の短い触手には赤い眼点が認められた。それ以外のより長い触手は蠢きながらも背に流れていた。
 白い毛に根元を取り巻かれた細い首の下には三本の爪を備えた二本の短い腕を持つ肩が続き、いったんくびれたあと金色の翼の付け根のところで太くなっていたので、その半身は奇妙なまでに女性的な印象を与えた。髪の代わりに蛇を生やした女を想わせる半身に翼の生えた蛇体が続いた小型の竜のような姿だった。
 さほど大きくもなくしかも女性的で細身の姿。しかしその印象とはおよそかけ離れた途方もない力を秘めていることが感じられた。これまで出会った魔物とは比べものにならなかった。しかも少なくとも人間と同等の知性を備えた存在だった。
 そして生命の流れが異質だった。他の魔物たちは人間や動物と同じ理の中に生きていたが、目の前の魔物は炎の力を翼を介してじかに取り込み、形を変えて放出していた。まったく違った理に生きる存在だった。一見この世の魔物とそうかけ離れた姿ではないものの、本質は見かけ以上に異質な存在であるらしかった。
 これはこの世の外からきたものかもしれない。
 リアの直感がそう告げた。

>我の問いかけには答えぬのか? 人の子よ<
 魔物の思念が再び放たれた。
「私は人間ではないわ。あなたにはわからない?
 私には、あなたがこの世のものではないように見える。
 あなたには私のことはどう見えるの?」
>我をこの世界のものではないと見たか!<
 驚きを隠さぬ思念が返された。
>ならば汝は確かにただ者ではあるまい。だが我には汝と人間の区別がつかぬ<
 金色の翼を優美に羽ばたかせ、魔物はリアのすぐ上空まで舞い降りた。眼点を持つ触手がのぞき込むように蠢いた。

>確かに汝にはなにか不思議な力を感じる。ただの人間ではないのかもしれぬ。だが二百年前に我と会った者は、はるかに強大な力を持っていた。汝の力とは違っていたかもしれぬが、強さでいえば汝など足元にも及ばぬ力だ。
 それでもかの者は人間だといっていた。おそらくそうだったのだろう。だから我には汝も人間に見える<
「二百年前に出会った者って、まさかアールダ師のこと?」
 リアは叫んだ。
「あなたはアールダ師と話したの?」
>確かにかの者は自分のことをそう呼んでいた<
 どうやら視覚をつかさどるものではないらしい顔面の二つの目のようなものがきらめいた。
>かの者は途方もない力をもっていた。およそ人間という種族の限界をはるかに超えた力を、我と戦って一歩も譲らぬ凄まじい力を。長びくばかりで決着のつかぬ戦いの中で我らは互いの思念を交わせることを悟った。我はこの世界に漂着して永くたつが、それまで人間と思念を交わすことなど思いもよらなかった<
>かの者は誰にも話せぬ疑念を抱え込んでいた。だから我はこの世界に漂着して以来伝えたことのなかったものを伝えた。それがかの者の疑念に答えるものだったから。そして我らは約定を交わすに至ったのだ<

 思いもよらない話に、リアは呆然として聞き入っていた。





  第5章 王城


 アザリアはレドラス王ミゲルに続き、近衛兵に両脇を挟まれたまま長い階段を登りきった。侍従が重い扉を開けた。
 太陽の光がまともにアザリアの目を射ぬき一瞬なにも見えなくなった。風が吹き込むと同時に異様なわめき声が聞こえた。

 扉の外は屋上だった。アザリアは息をのんだ。
 巨大な円形の広場だった。壁から屋根が張り出していたが壁の周囲の一部だけであり、広場の大部分は屋根がなく空がそのまま見えていた。広大な壁の周囲の屋根の下は無数の装置でびっしり埋め尽くされていた。明らかに魔法装置だった。
 部屋の中央には祭壇のようなものが設けられ、ひときわ大きく複雑な装置が大空の下に組み上げられていた。
 大きく西へ傾いた午後の太陽の光をも色あせさせるような虹色の強い光が二すじ祭壇の装置から放たれていた。南と東の塔から持ち去られた二つの宝玉に違いなかった。

 その陰に置かれた鉄の檻の中に、両手を縛られたぼろぼろの男がひとり囚われ暴れ狂っていた。
 鉄灰色の髪が半ばまで白くなっていたためあたかも老境にさしかかっているかのようだったが、そうとは思えぬ獣じみた異様な暴れぶりだった。縛めを解こうともがき鉄格子に身をぶつけ叫び狂う姿からは遠目にも正気ではないことが見て取れた。その叫びの中に呪文の断片が混じっていることにアザリアは気づいた。
 無残な光景にアザリアは立ちすくんだ。自分の顔が引きつるのがわかった。

「そんなところで立っておらずに近う寄ってみてはどうだ」
 ミゲル王の含み笑いが聞こえた。
「久方ぶりの再会ではないか」
 王の声を聞きつけたのか、男が振り向いた。変わり果てた顔形だけではわかりようがなかった。
 だが、男は隻眼だった。左目がえぐられていた。
「まさか! ガラリアン!」
 自分の耳にさえ悲鳴に聞こえた。いつかけ寄ったのかもわからなかった。
「私よ。アザリアよ! わからないのっ?」
 血走った片目が向いた。だがなにも映していなかった。得体の知れぬ妄執の嵐が荒れ狂う地獄の窓さながらだった。アザリアは戦慄した。

「無駄だ。わかりはせぬ」王が笑った。
「余のことさえ、もうわかりはせんのだ」
「残酷な!」アザリアは振り返り、王を睨みつけた。
「彼を閉じ込めてなにをさせるつもり? レドラス王!」
「無礼者!」近衛兵が色めき立ったが、王は片手で制した。
「強いてなどおらぬ。させぬように閉じ込めたまでだ。こちらの準備が整わぬのに勝手に術を発動しようとするのでな」
 王の口ぶりが苦々しげなものに変わった。
「取り押さえるだけで近衛隊が一つ壊滅した。それから丸二日も暴れておる。術を発動するのはそやつの宿願。余はそれを叶えてやったにすぎぬ」
「ガラリアンにノールドを攻める理由などないわ!」
「もう少し察しがよいと思うたぞ、アザリア」
 王の顔に冷笑が戻った。
「そやつの宿願はノールドではない。アルデガンの滅亡だ」

「余がガラリアンと会ったのは即位する少し前だった」
 自失していたアザリアの耳にミゲル王の声が遠くから聞こえてきた。自分が近衛兵の手でガラリアンの檻から引き離されていたことにやっと気づいた。
「宝玉の塔のそばで狩りをしていて見つけた。塔を目指しているように見えた。だから尋問した。むろんそのときのそやつはまだ話が通じた。それでもかなり荒んではおったがな」
「己の力が洞窟を制するに足らず、誰かを救えず絶望したという話をしおった。なにがなんでもアルデガンを根こそぎ吹き飛ばし焼き尽くすといっておった。術の原理は編み出せた、だが膨大な魔力が必要なので支えの宝玉が欠かせぬ。それも一つでは心もとない、二つは欲しいとな」
「むろん先代の耳に入れば処刑は免れぬ。だから余はガラリアンをかくまった」
「なぜ……? どうしてそんなことを?」
「そやつの話でノールドはアルデガンと魔術の共同研究などしておらず、怖るに足らぬと知れたからだ」
 ミゲル王の目がぎらついた。

「もともと余は北の大地を金髪青目の民になどゆだねておきたくなかった。エルリア大陸に覇をとなえるのは我がレドラス以外にありえぬ。先代の怯懦がもどかしかった」
「だが、ノールドを攻めるには問題が二つあった。一つは先代が怖れたノールドの魔術。それは怖るに足らぬと知れた。残るは洞窟の魔物だ。実情はそなたの方が詳しかろう?」
 王はアザリアをじろりと見た。
「いくらノールドを平らげたようと魔物の相手などさせられてはたまらぬ。ならば北の民に番をさせておいたほうがよい。だが、ガラリアンはその脅威を根こそぎ取り除いてくれるというのだ。我が覇道を天が望めばこそガラリアンは余と出会うたのだ!」

 アザリアの視線は野望を隠そうともせぬ傲岸な王と檻の中の妄執に狂うかつての仲間の間をさまよった。悪夢だった。貪乱な野望が狂気に憑かれた凄まじい力を得て人の世に暴威を振るおうとしていた。出会ってはならぬ者たちが出会い、この世を呑み込む巨大な双頭の魔獣と化したも同然だった。
「……アルデガンを、いったいどうするつもり?」
 声がかすれていた。
「ガラリアンの思いのままに。それとも余に魔術の解説でもしてほしいのか?」
 ミゲル王がさもおかしそうに笑った。
「だからそなたをここへ立ち合わせるのではないか。しかとその目で見届けてもらおうと思うてな。そなたがそやつを身を挺して助けてくれたおかげでここに余の大望が成就するのだ。光栄に思うがよいぞ。アザリア」
「そんな……」
 アザリアは呻いた。呻くことしかできなかった。

 あのとき彼を助けたために自分は呪文を唱えれば死ぬ身となり戦いから退かざるをえなくなった。さもなければ救えたはずの仲間が何人も犠牲になったとの思いにもずっと苛まれてきた。
 そのガラリアンがアルデガンを滅ぼそうとしている。レドラス王も混乱を突いて一気にノールドを滅ぼすつもりだ!
 彼を助けたことは間違いだったのか? これでは膨大な人々を戦乱の中で死なせる発端を開いたことになってしまう!
 目の前がまっ暗になった。
「刻限にございます」
 侍従の声に王がうなづいた。
「出してやれ!」

 縛めを解かれたガラリアンは檻から走り出て祭壇の装置に駆け上がると、虹色に輝く二つの宝玉に両手をかざしながら呪文の詠唱を始めた。アザリアはそれが彼の得意とした炎の呪文を途方もない規模にまで編み直したものであることに気づいた。
 宝玉の虹色の光が照らす空に炎が燃え上がった。炎は空一面に広がり宝玉の光を際限なく吸い上げた。膨大な魔力をすべて炎に変えるつもりと知れた。二つの宝玉が光を失い砕け散ったとき、空一面の業火の照り返しは地上のすべてのものを朱に染め上げていた。もはやこの世の光景ではなかった。
 でも、これでは上空がただ途方もない規模で燃え上がっているだけのことだった。
「どうする気なの? こんなことをして……」
「ここからが肝要だ。我が大望にとってもな」
 王の声にも緊迫した響きがあった。

 瞬間、ガラリアンの呪文が変わった。響きに昏い陰がさした。それはアルデガンでは決して使われることのない韻律だった。
「まさか、魔道の呪文!」
 アザリアが叫んだとたん、壁際を埋めつくす魔法装置が赤い光の筋をいっせいに放った。それらがガラリアンの頭上の中空で縦横にからみあい魔法陣を織りなした。魔法陣の真ん中からの赤い光がガラリアンを包み込んだ。すると狂える魔術士の姿が大きくゆらぎ、ねじれ始めた。彼の内部のなにかを魔法陣が吸い上げ、それが上空の炎に転送されていった。
 妄執を炎に移している! それは直感だった。己の妄執で炎をアルデガンに導くつもりだ!
 考えるより早く体が突進した。王も近衛兵も反応できぬうちにアザリアは祭壇のガラリアンに迫った。
「こんなことをさせるために助けたんじゃないわっ!」叫びが後から追ってきた。
 だがねじれて原形を留めていない腕が振りぬかれると、気弾がアザリアを吹き飛ばし、彼女は石畳に叩きつけられた。あばらが折れた激痛に薄れゆく意識のなかでアザリアが最後に目にしたのは、ぬけがらと化して崩れるガラリアンと地獄の太陽さながらに天空を滑る巨大な火の玉の姿だった。

「我が大望は成就せり!」ミゲル王が叫んだ。
「いまこそノールドの異民族を討伐し、かの地をレドラスの威光にて押し包まん! 余も出陣するぞ! 戦車を引けいっ!」
「捨て置け! 討伐の前に同族を斬っては縁起が悪い」
 アザリアにとどめを刺そうとする近衛兵を王は制した。
「これだけ楽しませてくれたのだ。どうせなにもできはせぬ」

「余が凱旋しても生きておれば処遇を考えてやろう」
 階段の降り口でミゲル王は笑った。
「そこまでの強運であれば、ぜひあやかりたいものよのう」
 重い扉が閉ざされた。昏倒したアザリアを残したまま。





  第6章 地下火山


>かの者の力はあまりにも強大だった<
 金色に輝く人面の竜のごとき魔物の思念が告げた。
>もともとは怪物の餌食になる仲間を救いたい一心で戦いを始めたといっていた。だがその力は自身の予想を超えて強大だった。気がつけば広大な土地に棲みついていた幾多の怪物をほとんど己の力一つで討伐し、わずかな生き残りをこの地へと追い込んでいたという。
 周りの人間たちはかの者が怪物を滅ぼすことを望んだ。もはやそれは目前だった。己の手を振るえば幾多の種族がこの世界から消え去ることをかの者は悟った<
 火口から間をおいて吹き上がる炎が魔物の翼に弧を描いて吸い込まれ、背中に流れた触手が打ち震えた。

>そのときかの者は迷ったという。己のなそうとすることは正しいのかと。長く怪物と戦ってきたゆえに、かの者は怪物の本質を知りぬいていた。初めはただ恐るべき化物としか思えなかったものどもが結局のところ生き物の理に従うものでしかないとすでに悟っていた。それを己一人が滅ぼしてよいのかと<
 魔物の全身の金色の輝きが拡散して洞窟の岩壁に流された。
>我と戦いながら、汝と同じくかの者も我がこの世界に属さぬものであることを悟った。そのことがかえってその迷いを大きくしたようだった。同じ世界に属するものを一人の手が滅ぼすことは許されるのかと。神とか造物主とかよくわからぬこともいっていたが、大筋そういうことのようだった。
 そのうえかの者には、仲間たる人間たちの振舞いゆえの悩みもあったのだ<
 炎を吸い込むのを中断した魔物の輝きが薄れ、緑と赤の体色があらわになった。

>かの者は人間という種族の限界をはるかに超えた力を持つゆえに他の人間が見ないものを見、考えないことを考えた。怪物の脅威から救った者どもが同じ人間に滅ぼされたり逆に他の人間を攻めたこともあったようだが、これが新たな懊悩となった。人間という種族が世界を占有し力を振るうことに、かの者は懐疑の念を抱かざるをえなくなっていたのだ。
 だから我はかの者に我が種族の過ちを告げた<
「あなたの種族の過ち?」
 目を焼く輝きが薄れたことにほっとしながらリアがきいた。

>かの者や汝が見たとおり、我はこの世界のものではない<
 魔物は地面に舞い降りて岩に巻きつき翼を休めた。
>異なる星界よりこの世界に漂着した。自らの星界を我ら自身が食い潰し滅ぼしたゆえに<
「……食い潰す? 自分の世界を?」
 それはリアの理解を超えた概念だった。
>見てのとおり我は大地の炎の力を糧に生きるもの。いわば大地の力を吸い上げて生きるものだ<
 長い触手が岩に巻きついた。
>我らは増えすぎたあげく世界を吸い尽くしてしまった。我らの世界は炎の力を失い冷たく不毛な岩の塊になり果てたのだ<
 今度はリアにもおぼろげながらそのありさまが想像できた。

>世界には均衡というものがあるのだ。かつては我らの世界にも我らを貪り生きる種族がいたという。だが、いつしか我が種族はそのものを滅ぼしてしまった。我らから見ればそれは恐ろしい怪物。だが我らが世界を吸い尽くしかねない怪物である以上、それは世界の番人、星界の守護者であった。それを我らは滅ぼした。ゆえに怪物としての我らから世界を守るものはいなくなった<
 眼点を持つ触手に引かれるように、人間に似ていなくもない顔が中空を仰いだ。

>自らの手で種族としての自らを律するのは難しい。それは己に対して必要な時は怪物として振る舞わなければならないことを意味するのだから。自らの力を伸ばすために他の者を滅ぼすのではなく、自らが世界に対する怪物であるとの自覚の下に、容赦なく己が種族の力を削がねばならないのだから。
 我らにはそれができなかった。限度を超えて増えてしまった。ゆえに我らの世界は本来の寿命が尽きるよりはるかに早く我らに吸い尽くされ、他の種族をも巻き添えに滅びてしまったのだ<
 魔物の思念に悔悟らしきものが混じった。

>我らは暗黒の虚空に離散した。広大な虚空にちりぢりとなり、それぞれが先のわからぬ漂泊の旅に出るしかなかった。我はこの世界に漂着した。他のものも二、三きているように感じたので、我はこの世界を探しまわった。出会うことはなかったが<
>そのかわり我は奇妙な生き物に気づいた。それは個体としては弱体であるのに数が集まると明らかに世界を変える力を発揮していた。直接世界を吸い上げるわけではなかったが、かつての我らのように自らの世界の運命を変えうる存在であると見て取れた。それが汝ら人間だ。我はその振る舞いを注視した<

「それで、どう思ったの? 私たちのことを」
>懸念を覚えた。世界に対して振るうその力の大きさにもかかわらず、自らが世界に対する怪物であると認識をしているようには見えなかったゆえ<
>だが、我はこの世界にとってしょせん異物にすぎぬ。軽々しく関与することは有害であろうとも思った。だから見守っていた。しかしそこにかの者が現れ、種族の域からはるかに突出した己の力一つで怪物たちを駆逐し始めた<
 魔物は岩に絡みついた身をほどき、再び翼を広げて舞い上がった。

>だから我はかの者に伝えた。我が種族の過ちを。かの者が汝ら人間という種族と世界の命運にとって大きな岐路にいることを。この岐路を種族としての力ならざるもので決するなら、もし種族としての人間が滅ぼしえないものを滅ぼしてしまったなら、種族の運命も世界の命運も大きく狂いかねないと我は警告した<
>かの者は我の警告を受け入れた。そして我らは約定を結んだ。ここに追い込まれたものどもと人間の運命がより本来の形に近い過程を経て決まるようにと<

「……どんな約定なの? それは」
>かの者は結界を張り人ならぬものが洞窟を破ることを禁じる。人間は出口を守り追い込まれたものどもと種族の域を越えぬ力で戦う。その限りにおいて、我は戦いに関与せず追い込まれたものどもを養うことに専念する。その結果人間がこのものどもを滅ぼせたなら岐路の決定として認める。しかし種族の域を大幅に越えた力で攻めるなら、我がこのものどもを守る。人間が結界を維持できず弱まったり解かれるようなことがあれば、このものどもは再び地上に解き放たれる。
 これがかの者と合意に至った内容だ<
 そのとたん、魔物の背の触手がざあっと広がった。ただならぬ様子にリアは思わず後じさった。
「なんなの? どうしたの?」
 魔物は答えなかった。眼点を持つ触手はしかし別の方向を見上げていた。

>巨大な炎が現れた。南からこの地をめがけて飛んでくる<
 ややあって魔物の思念が告げた。
「なぜわかるの? こんなところにいるのに!」
>我は炎の力を喰らうものだ。それに炎もあまりにも大きい<
 触手が探るように蠢いた。

>この地を丸ごと呑み込む大きさがある。いま地上は日没を迎えている頃だが、日没の残照が消えてさほどたたぬうちにここまでくるはず。直撃すればこの深さまで根こそぎ吹き飛び人間も洞窟のものどもも全滅するだろう<
「なんですって!」
>同族もろとも滅ぼそうというのか。どうも人間の考えることはよくわからぬ。我らは同族同士で殺しあうことはなかった。だからこそ増え過ぎたのかもしれぬが。
 だが人間の殺し合いも相手を排除して自分たちが置き換わろうとするものばかりと我には見える。それでは種族としての自らを律する行為とはいえぬ<
 魔物が大きく翼を広げると全身がまばゆい光に包まれた。洞窟全体が凄まじい力の場に包まれたのをリアは感じた。
>いずれにせよ、これは種族の域を越えた力だ。我は約定に従い洞窟のものどもを守る<
「……では、それでは地上のみんなはどうなるの?」
>炎に呑まれ全滅する<
 リアは絶句した。

>我が力はかの者の結界に阻まれている。地上までは及ばぬ<
 魔物の思念が告げるのをリアは呆然と聞いていた。
>かの者が死んだのなら結界をこじあけることもできぬわけではない。だがそれは約定に反する。それに強大な結界をそれ以上の力でこじあけるのだ。それだけで地上は吹き飛んでしまう<
「……そんな! なんとかならないの?」
>我がなんとかせねばならぬ理由があるか? 人の子よ<
 魔物の思念は不思議そうだった。
>汝が仲間に知らせればよいだけの話ではないか<
「私は……、私は人間じゃない……」
 リアは呻いた。
「決して地上に戻ってはいけない怪物なのよ」
>見たところ人間にしか見えぬ。話す限り心も人間のようにしか思えぬ<
 再び不思議そうな思念が返された。
>我には汝と人間の区別がつかぬ<
「わからないの? 私は魂に不死の呪いを受けた者なのよ」
 リアは魔物を仰ぎ見て叫んだ。
「私はこの魂を滅ぼしてくれるものを求めてここまできたわ。
 あなたは私の魂を滅ぼせないの?」
>汝のいうことはよくわからぬ<
 輝く魔物はとまどっているようだった。
>我にできることは燃やすか凍らせるかのどちらかだ。汝がいうこととは違うような気がするが……<

「……では、この洞窟には私を滅ぼせるものはいないのね」
 リアは自分に問い掛けた。それなら洞窟に留まることはなにを意味するのかと。
 仲間に危害を加えることを自分はなにより恐れてきた。だから洞窟の中で滅びてしまいたかった。だが、それはできないことがわかってしまった。その上ここに留まることはアルデガンの仲間が全滅するのを座して見ていることでしかないことまでわかってしまった。
 ならば自分はどうしたいのか? 答えはすぐ出た。
「アルデガンから逃れさせたい! 誰も死なせたくない!」
 リアはもはや姿も見えないほどまばゆく輝く魔物を見上げた。その目にも激しい光が宿っていた。
「私がみんなに伝えるわ。ありがとう!」
 応えも待たずに身をひるがえし、一目散に洞窟の通路を駆け上り始めた。

 だが背後から、心を挫こうとする姿なきものがたちまち追い縋ってきた。
---そんなことができると思っているのか---
 奈落からの声が囁いた。
---こんな話を誰が信じるのだ---
 逃れようといっそう足を速めた。
---人間でないおまえの話など---
 両手で耳をふさいだ。
---心だけ人間のふりをしてもむだだ---
 歯を食いしばった。牙が唇に触れた。
---牙持つ身でありながら何様のつもり?---
 ラルダの叫びに思わず呻いた。
---できるものか、できるものか、できるものか!---
 いまや洞窟全体に反響する巨大な声に抗いながら、リアは果てしなく続く洞窟を駆け続けた。





  第7章 洞門前


 リアが洞門に辿りついた時、空は燃えるような朱に染めあげられていた。
 夕日がちょうど沈むところだった。岩山と城壁に囲まれた砂地には影が落ちていたが、城壁は沈む夕日を照り返していた。
 暗闇の中で転化したラルダに比べ、リアは転化の過程で光を浴びる時間が長かったので少しは光への耐性が高かった。それでも沈む夕日の照り返しでさえ烙印を押すような苦痛で身を苛んだ。まるで自分が人間でないことを暴き立てる悪意さながらだった。歯を食いしばって、彼女は洞窟から砂地へと歩み出た。
 夕日を浴びて輝く城壁にリアは目がくらみ見張り台の様子などまったく見て取れなかった。痛む目を閉じるとリアは声を限りに呼ばわった。
「誰か! そこに誰かいないの?」
「何者……」城壁の上から誰何しようとした声がとぎれた。
「お、おまえは!」
「降りてきてはだめ! 近づかないで! もう私のことは知っているんでしょう?」
 リアは目で見ることをあきらめ気配を探り捉えた。城壁の上に三人、いや、四人の若者が集まってきた。
「私はそこまで行く気はないわ。ここからでも私の話は聞こえるはずよ」
「なにをしにきた!」
「警告よ」リアは片手で天を指した。
「アルデガンは空からの炎に焼き尽くされる。全員いますぐ脱出して。でないと全滅よ!」

 声が返ってくるまで時間がかかった。
「なんだと……。おまえはなにをいっている?」
「どこかの人間たちが巨大な火の玉を放ったのよ! アルデガンを滅ぼすために」
「ばかな! そんなこと信じられるか!」
 当然の反応だった。逆の立場なら自分だって信じないだろう。だが時間がない! リアはあえて牙を見せつけ叫んだ。
「あなたたちでは話にならないわ! すぐに大司教閣下をここへお呼びして。でないと私がそっちへ乗り込むわよ!」
 慌てた若者たちの一人が脱兎のごとく走り去った。


 夜番に就くため城壁の扉をくぐろうとしたアラードは、飛び出してきた仲間とぶつかりそうになった。
「危ないじゃないか、どうしたんだ!」
「リアが、リアが現れた……」
「なんだって!」
「城壁の下にいるんだ。アルデガンが空から焼き滅ぼされるからみんな逃げろとかいってる。ゴルツ閣下を呼べと」
「……わかった。閣下を呼んでくる。隊長を呼んできてくれ」
 アラードはラーダ寺院へ一目散に走った。


「リアが現れたと! アルデガンに侵入したのか?」
 ゴルツとともにいたグロスが叫んだ。
「城壁の下にいるそうです。アルデガンが空から焼き滅ぼされるからみんな逃げろといっていると。大司教閣下を呼んでいるそうです」
「……どういうことだ?」
「わかりません」
「よもや、閣下を誅しようということか!」
 アラードが答えられずにいると、ゴルツが立ち上がった。眼窩の奥の目がぎらり、と光った。
「一刻を争う。洞門へ転移するからわしにつかまれ!」
 呪文とともに三人の姿はかき消えた。


 輝きを失った城壁の下に三つの人影が現れたのをリアは見た。ゴルツを真ん中に片方がグロス、そして……。
「アラード……」
 リアはつぶやいたが、振りきるように一つ身震いするとゴルツをまっすぐ見つめた。
「閣下、この地はもうすぐ巨大な火の玉に焼かれます。みんなをいますぐ脱出させてください!」
「なぜそんなことがわかる!」グロスが怒鳴った。
「洞窟の奥に潜み魔物を庇護する者が教えてくれました」
「そんなところにいるものが外界のことなどわかるはずがない。だいいち魔物の長ではないか。見えすいた嘘をつくな!」
「われらが去れば、洞窟からは魔物たちがあふれ出よう。それが狙いか」
 ゴルツがいった。恐ろしい声だった。
「さては魔物の走狗となり果て地上に攻め上らせる手引きをするつもりじゃな!」
「もうどちらでも同じなんです!」
 リアは叫んだ。
「アルデガンが火球の直撃を受けても洞窟の魔物たちは無傷なんです。地上のみんなが全滅するだけです。そうなればやはり彼らは外へ出てきてしまいます。
 誰がこんな火球を放ったのか知りません。でももうアルデガンは火球を放った者にこじ開けられたのと同じなんです!」
 城壁の上に群がる人々がどよめいた。

「庇護する者はいいました。人間がどういう気かはわからない。でも現実に火球はアルデガンに迫っている。大地の炎の力を取り込み生きている自分には火球の大きさも威力もわかる。大きさはアルデガン全体をひと舐めできるほどで自分が守らなければ洞窟内部も根こそぎ吹き飛ぶだけの威力があると」
「自分の力ならば洞窟内の魔物は守れる。しかし人間を守るならアールダ師の結界を破らなければ自分の力は及ばない。でも無理に結界を破ればやはり地上は吹き飛ぶし、そもそも自分にはその理由がないといっています。だから私がきたんです!」
 リアはその場に跪き、人々に両手を差しのべた。
「私はもう人間ではありません。でも、みんなが私の大切な仲間だったことに変わりはないんです。お願いです。今すぐ脱出してください! こんなことで死んではいけません!」
「黙れ!」
 ゴルツが錫杖を掲げた。すでに白く輝き始めていた。
「我らの心を迷わし人の世に災いをもたらさんとするその所行、断じて許せぬ。この場で滅びよ!」
 解呪の印を結ぶや大司教は詠唱を始めた。

 その時リアの心に声がした。ここで滅びを受け入れれば自分は無垢のまま死ねる。だが抗えば、もはや誰も殺めないまま滅びることはできないと。
 しょせん信じさせるのが無理な話。訴え続けてどうなる。このまま火球の直撃を受ければ全員が消し飛んでしまう。自分だけが復活して、やがて人を殺めることになるばかり。
 滅びに身をゆだねよ。ならば少なくとも自分が殺めるであろう者は救われる。
「でも、それではみんなは助からない」
 不滅の吸血鬼と化した身。永遠に生きるかもしれぬ。はるかに多くの者を殺めるかもしれぬ……。
「ではこの人たちは死ぬほかないの? 私のかけがえのない仲間だったみんなが」
 無垢のまま滅びることを望んでいたのではないのか?
「……望んでいるわ、今この瞬間も。でも、この人たちがそんな死に方をするのは絶対に間違っている!」

 リアは支えの腕輪を握りしめると、呪文を詠唱するゴルツに訴えた。
「このまま滅びるわけにはいきません。とにかく全員脱出させてください! そうすれば私は喜んで討たれますから!」
「いうな!」
 ゴルツが叫ぶと見えざる嵐がリアを襲った。瞬時に彼女の体はずたずたに斬り裂かれた。
 たちどころに傷が回復を始めた。だが魂をも斬り崩す意志力の刃はリアの体をつむじ風のように巻き込み傷が回復するそばから斬り刻んだ。たまらず彼女は倒れ伏した。
 しかしリアは牙を噛みつつその身を起こし、魂に食い込む刃の痛苦に苛まれながらも声を限りに叫んだ。
「もう時間がないわ! 逃げて! みんな逃げてーっ!」
「まだいうかっ」
 髪を振り乱したゴルツが錫杖を振り上げると精神の嵐の威力が倍加した。それでもリアは叫び続けた。
 眼前の凄惨な光景に城壁の上の人々の間に広がる動揺! だがリアの願いとは裏腹に、誰もがその場に釘付けになっていた。





  第8章 屋上


 アザリアが意識を取り戻したとき、あたりは宵闇に閉ざされていた。起こそうとした上体が折れたあばらの激痛に崩れた。一瞬振り仰いだ目がかろうじて夜空の様子を捉えた。

 西と北の二箇所に赤い残照が映えていた。
 天空から去った二つの太陽の名残だった。
 北の赤黒い残照にアザリアは目を向けた。

 あれはアルデガンめざす火の玉が天空を焦がすのか。
 それとも燃えるアルデガンの炎が大空を舐めるのか。

 無力だった……。止められなかった……。
 地獄の太陽の残照を見る目が絶望に霞んだ。その視線が祭壇に落ちた。
 かつて仲間だった男の無残な残骸が横たわっていた。吸血鬼の手に落ちたラルダを追いながらも及ばなかった己の力に絶望したあげく、狂気に堕ちてしまったガラリアン……。
 無力と絶望に軋むアザリアの心が骸に空しく呼びかけた。
 アルデガンを出奔しどこをどう流れてこれほど凄まじい妄執を育ててしまったの?
 あなたにとって、ラルダが失われた世界は無意味なものでしかなかったの?
 あなたを助けたのはあやまちだったの? ただあなたを苦しめたあげく、アルデガンとこの世が滅びと戦火の災いに落ちる結果を招いただけだったというの?
 私だって無力ゆえに絶望したわ! 何度無念に泣いたかしれない。それでも力が及ぶ限りのことをしようとしたのに……。
 こんな無残なあなたを見せつけられて、数多の人々が死ぬのを無為に眺めるしかできないなんて!

 あなたを助けたのはそれほどの間違いだったというの?
 ただ一度の過ちでこんな結末を見なければならないの?
 ……これほどの罰に値する罪だったとでもいうの……?
 絶望に屈しそうになったその時、一つの声がアザリアの脳裏によみがえった。
「私は誰ひとり守れず無為に死ぬしかないのですか?」

 痛みも忘れて中空を仰いだその目に、青い目に宿る激しい光が映じた。人間ならざるものに変わりゆく恐怖と絶望を突き抜けて燃え上がった光だった。
 あの集会所の朝と同じく、その光はアザリアを動かした。
 無為に死ぬなんてできない。リアだってあれほどの絶望に立ち向かったのだから、それもわが身のためなどでなく!

 アザリアは再び魔術師の骸に目を向けた。
「哀れなガラリアン。でも、誤ったのはあなただったのよ」
 痛苦に耐えて、アザリアは半身を起こした。
「あなたは自分ひとりの世界に生きていた。だから自分の絶望に抗うすべがなかった。守るべきものを失い自分の世界が崩壊したとたんにあなたの魂は支えを失い、なすすべもなく人の身のまま狂える怪物に堕ちるしかなかったのよ。わが身もろともこの世を滅ぼそうというほどの。
 でも私は、わが身が怪物に変わりつつあるのに人々を守ろうという意思を支えに絶望に抗う者を見た。だから私もここで屈するわけにはいかない!」
 激痛に喘ぎながらも、アザリアは開け放たれた檻につかまって立ち上がった。
「間に合わないかもしれない。もう終わったのかもしれない。
 それでも諦めないわ! たとえ死んでも!」

 そのとき心の何かが己の言葉に反応した。
 死線の中で研ぎ澄まされた勘だった。
 諦めない……? 死んでも……?
「そうよ。それがどうしたの?」
 死ぬ身なら……跳べるはず。
 幾多の危機を越えさせた声が告げた。
「まさか。転移の術!」
 アザリアは叫んだ。凄まじい速さで思考が巡った。

 今の自分では転移の呪文はとても唱えられない。なぜ?
 呪文が長く複雑だから。頭の傷が集中に耐えられないから。
 では、転移の呪文はなぜ難しい? 距離の問題?
 違う。無事に降り立つのが難しいから。
 高さを誤れば大空や地中に跳びこんで即死してしまうから。
 到達地点の探知と高さの緻密な指定が欠かせないから。
 ならば、ならば無事に降り立たなくてもよければ、
 唱えれば必ず死ぬ身の私が跳ぶのなら、
 呪文を刈り込んでしまっていい!
 地中にさえ飛び込まなければ、人間が空から墜落してくれば
 見張りの絶えない洞門前なら見落とされはしない!

 洞門前の空高くへと跳ぶだけの呪文!
 脳裏に浮かんだ呪文の長さは半分以下だった。これならば!
 白い長衣の裂けた裾を破ると指先を食い切り、血文字で顛末を書きつけた。そのとき懐かしい声が脳裏に響いた。
「絶対に無理をするな。必ず帰ってきてくれ」
 寺院の廊下で両肩を掴んだボルドフのぶ厚い手を感じた。

 思わず目頭を抑えながら、しかしアザリアは微笑んだ。
「……むちゃくちゃね。でも、もうこれしかないのよ」
 血文字の書状を腕に結びつけた。
「帰るわ! アルデガンに! 無事でいて!」
 集中し呪文を唱え始めたとたん頭の古傷から赤い闇が広がり、神速の呪文に負けじと視界を覆った。盲いてもなお縮めた呪文を唱え続ける白衣の魔術師に、真紅の死神が襲いかかった。





  第9章 アルデガン その1


 叫び訴えるリアと解呪しようとするゴルツの様子にアラードは何かがおかしいと感じた。ラルダのときと違う!
 彼はグロスを見た。グロスもアラードを見た。その顔が蒼白になっていた。
「解呪の技が正常に発動していない。魂に向かうべき力がそれていたずらに肉体を苛んでいる。閣下の御心は危うい……」
「やはり!」
 アラードは地に伏すリアの側にかけ寄った。

 見るも無残なありさまだった。人間なら耐えようのない深手を全身に負いながらもリアは右手で半身を支え、左手で腕輪を握りしめつつ見えざる嵐に抗っていた。だが回復しようとする傷をも嵐の刃は容赦なくえぐり抜いていた。何度も噛みしめた牙が唇を裂き鮮血が顎まで流れていた。
 そのとき、何かが割れる音がした。支えの腕輪がついに砕けたのだ!
 なんとか拮抗していた抵抗を嵐の暴威が圧倒した。もはや回復するのが追いつかなくなり、見る間にリアの全身は塞ぎきれなくなった無数の傷から噴き出す血で朱に染まった。弱りつつあった叫びもついにとぎれた。
 それでも彼女は近づこうとするアラードに息も絶え絶えの声でいった。
「近づか、ないで……。逃げ、て……っ」

 目がくらみそうな怒りにかられてアラードは振り向いた。両手を広げて背後にリアを庇い、ゴルツに向かって叫んだ。
「やめてください! 閣下は間違っています!」
 その場の空気が凍りついた。
「なん……だと」
 ゴルツのぎらつく目がアラードをねめつけた。
「リアは人間です! 体こそ人間でなくても人間として行動しています! わからないんですか? 閣下も、みんなも!」
「ならば、その者の話もそなたは信じるというのか?」
 グロスがいった。
「なぜ我らが人間に攻められねばならぬのだ!」

「それは……わかりません」
 アラードの声がゆらいだ。
「なによりこの洞門を命に替えても守るのが我々の使命です。でも、せめて子供たちだけでも出してやってもいいのでは……」
 城壁からも、ためらいがちな同意の声がいくつか上がった。
「それでは、だめ……」
 やっと出るようになった声で、リアがまたも訴えた。
「信じなくていいの、私のことなんか……。でも、この話だけは信じて、信じてください。お願い! みんな!」
「そやつの言葉に惑わされるな!」
 ゴルツが一喝した。そして再び錫杖をかかげた。
「アラード、そこをどけ。どかねば容赦せぬぞ!」
「どきません!」
「きさま、そやつに魅入られたか!」

 アラードの怒りが再び燃え上がった。
「リアが人間の心のまま転化したと最初におっしゃったのは閣下じゃないですか! 死にかけたリアに血を飲ませてしまった私のことをそう責められたではありませんか!」
 アラードの叫びに周囲のざわめきがやんだ。
「毒蜘蛛の背に胡蝶を縫いつけたも同然だと、だから魂が苦しむのだと! そしてアルデガンを襲ったラルダがその苦しみゆえに無残に歪んでいたのを私たちは見たではありませんか!」
「アラード! やめてっ」
 リアが遮ったが、アラードはもう自分を止められなかった。
「閣下もわかっておられるはず。だから閣下の術はリアの体しか傷つけられないんです。魂に届かないんです。ごまかすのはもうやめてください!」

「きさま……」
 ゴルツの顔が歪んだ。錫杖を握る手が激情に震えた。すると、錫杖の輝きがじわり、と変じた。白い輝きにまごうかたなき赤みがさした。
「吸血鬼に魅入られ傀儡と化したか。主もろとも滅びよ!」
「おやめください、閣下! なりません!」
 ゴルツが振り上げようとした腕をグロスがやにわにつかみ、錫杖を奪おうとした。
「それでは呪殺です! 閣下の御心が砕けます!」
「おまえまで邪魔だてするかっ!」
 二人の司教は錫杖をめぐり争ったが、ゴルツは老人とは思えぬ力でグロスを突き飛ばした。そして冥府の炎の色と化した錫杖を高々と掲げた。

「なにか落ちてくるぞ!」
 城壁の上で誰かが叫んだ。全員が天を仰いだ。
 残照を残す空から落ちてきた白いものがゴルツとアラードたちのちょうど真ん中の砂地に叩きつけられた。
 白い長衣をまとった人間のようだった。宵闇の落ちた地上では人の目にはそこまでだった。
 しかし闇を見通すリアの目はそれが誰かも見て取った。彼女は悲鳴とまがう声で叫んだ。
「アザリア様ぁ!!」
「なんだとっ」
 砂地の四人はわれ先にとかけ寄った。

 こときれているのは一目でわかった。リアは師にすがりつき、聞く者の心さえも引き裂く悲痛な声をあげ泣き伏した。
 あとの三人はその姿を見ながら呆然と立ち尽くした。城壁の上の人々も同じだった。その一瞬、リアが人間でないことを誰もが忘れた。ゴルツの手から錫杖が落ちた。
「……転移の術。いや、唱えられたはずなど……」
 グロスがつぶやいた。
「さては高さを合わせず呪文を略したか。唱えて死ぬ身であればそれでよいと」
 ゴルツが呻いた。
「だがなぜ、なにゆえそこまで……」
 そのとき、アラードは気づいた。
「腕になにか結んでおられます!」
 グロスが結びを解いた。「これは! 閣下、書状です」
 ゴルツは布地を広げた。あとの三人ものぞき込んだ。そこには血文字でこうしたためられていた。

<二十年前に出奔したガラリアンがアルデガンを丸ごと滅ぼす妄執の果てに巨大な火の球を放ちました。アルデガンを洞窟の魔物もろとも吹き飛ばし焼き尽くす威力があります。ガラリアンは己の全てを火の玉に注ぎ込み抜け殻と化して死にました。彼の妄執が巨大な火の玉を束ねています。
 野望に利用するために彼に手を貸したのがレドラスの王です。二つの宝玉をはじめ必要な物をすべて与え何年もの歳月をかけて術を編ませました。しかしレドラスにとってアルデガンの破滅は陽動にすぎません。王は火の球を放つと同時にノールドに大軍を進めました。混乱に乗じて一気に攻め滅ぼすつもりです。
 もう防ぐすべはありません。今すぐ全員アルデガンを脱出して下さい>

「我らを野望を果たすための捨て駒にするというのか!」
 憤怒にかられてグロスが叫んだ。
「虫けらみたいに全員消し飛ばすと!」
 アラードが歯がみした。
「こんな、こんなことのせいでアザリア様が……っ」
 リアの涙に濡れた目が真っ赤に燃え上がった。
 そのとき城壁から悲鳴があがった。
「空が、空が!」
 南の空が血の色に染まっていた。平野を遮る峨々たる山脈の向こうから地獄の太陽さながらの巨大な火の玉が姿を現わした。
 見る間にそれは膨れ上がり、南の空を覆い尽くした。
「間に合わなかった!」リアが絶望に身をよじり叫んだ。
「アルデガンが燃え上がる……」アラードの脳裏にラルダの最期の呪詛がよみがえった。

「この地に封じられし魔物の脅威から人々を守ることこそ我らの使命。そのために死ぬ覚悟なき者などここにはおらぬ……」
 書状に目を落としたままだったゴルツが初めて口を開いた。
 その押し殺された声を耳にした誰もが戦慄した瞬間、ゴルツは血文字の書状を引き裂き叫んだ。
「だが、これは我らに対する裏切りじゃ!」
 照り返しを受け朱に染まった顔で、ゴルツは迫る火の玉を睨みつけた。
「数多の犠牲を払い魂を削って戦ってきた我らを背後から討つというか! ならばアルデガンの長たるこの身一つに使命を捨てた咎を負い、一命に替えただ我が仲間を守るのみ!」
 その声と共にゴルツは印を結び転移した。

「まさか、宝玉を!」グロスの声に振り仰いだ人々の目の前で、ラーダ寺院の尖塔の屋根が吹き飛び、巨大なつむじ風が吹き上げた。それは地獄の太陽と真正面からぶつかった。
 火の玉の巨体をつむじ風が巻き込み切り裂こうとした。濁った太陽は進むのをやめ、どす黒く変色しながらよじるような動きを見せた。
 アラードは何が起こっているのか気づいた。
「あれは、まさか解呪の技!」
「なんだと!」
 グロスの顔色が変わった。
「閣下は火の玉を束ねている妄執を砕くおつもりです!」
「無茶な! そんなことをすれば閣下は……」

 そのとき火の玉が広がりつむじ風を呑み込み、食いつぶそうとするように蠢き縮んだ。
 だが、つむじ風は濁った太陽を内側から突き破った。
 異様な音を立てて火の玉が爆散した。言葉にならぬ怨嗟が尾を引くような響きとともに、大小さまざまなかけらが火の雨と化して大地に降りそそいだ。多くが荒野に落ちて大地を焦がしたが、それでもかなりの炎が城壁や建物に降りかかり激しい火災があちこちで起きた。
「仲間の救助に向かえ! 火のこないところに脱出させろ!」
 城壁の上でボルドフの叫ぶ声がした。人々はあらゆる方向へ、守るべき者のいるところへわれ先にと走り去った。





  第9章 アルデガン その2


 アラードたち三人はラーダ寺院を目指した。だが走るのが遅いグロスは遅れ、アラードとリアは二人で尖塔の螺旋階段を一気に駆け上がった。
 リアが先に宝玉の間に着いた。しかし彼女は部屋に一歩入ったところで立ちすくんだ。アラードは危うくぶつかりそうになりながら、なんとか脇をすりぬけて中に踏み込んだ。
 部屋の中はめちゃめちゃだった、屋根も扉も吹き飛ばされ崩れた石組みが積み上がっていた。その瓦礫に半身を埋めてゴルツが仰向けに倒れていた。宝玉の力を無理な術で解放した衝撃で体がずたずただった。床に大きな血溜まりができていた。
 助からないことは明らかだった。
「閣下、ゴルツ閣下!」
 アラードは叫んだ。去りゆく魂に届けと、ただ声を限りに。
「アルデガンは救われました。閣下の、閣下のおかげで……」
 だが、あとは言葉にならなかった。

 ゴルツが薄く目を開いた。
「アラード、か……?」か細い声が返ってきた。
「目が、見えぬ。リアも、いるのか……?」
 アラードはゴルツの手を取った。ほんのわずか、握り返すのが感じられた。
「そなたが、人の、心ゆえ、訴えている、のは、心のどこかで、感じて、おった……」
 リアへの言葉だった。アラードはか細い声に耳を寄せた。
「だが、認められなんだ。かくも無残に、ラルダは、歪み堕ち、己が手で、その存在を、否定し、滅ぼす以外、なかった。魂を、浄化する、ことも、かなわず……。
 その、口惜しさ、無念さが、そなたに、魂を、認める、のを、阻んだ……。アラードが、申した、とおり……」
 言葉がとぎれがちになった。

「無念さに、歪みつつ、あった。ラルダと、同じ。
 そなたを、解呪する、資格は、わしに、なかった……」
 体が痙攣を起こした。

「そなたを、牙に、かけたは、我が、娘。しかも、わしは、神の御元へ、そなたを、還せず、苛んだ……。
 いくら、詫びても、詫びきれ、ぬ……」
 ゴルツの手がアラードの手から滑り落ちた。

「だが、このまま、では、そなたは、苦しむ。その、人の、魂、ゆえ……。解放、される、には、誰か、の、手で、解呪、され、ねば……」
 消え失せようとする声が、最期の思いをからくも紡いだ。
「せめて……その、日が、すみやか、に、来る、こと、を……、祈らせ、たま、え……」
 末期の息が吐き出され、ゴルツはこときれた。

 こみ上げてくるものに耐えながら、アラードはゴルツの両手を胸の上に組ませた。すぐにグロスも来るだろう。
 彼を出迎えようと立ち上がったアラードは、リアが入ってきた戸口の横の壁に手をつき背を向けて立ち尽くしているのを見た。体が震えていた。泣いているのだと思った。
 戸口へ近づきながらアラードは声をかけた。「リア……」
「こないでぇーっ!!」
 極限まで切迫した異様な叫びに体が凍りついたとたん、赤毛の若者は血溜りからの凄まじい血臭にむせた。なぜ今まで気づかずにいられたのか!
 恐怖に目を見開いたアラードの前で、リアの体がじり、と動いた。無理やり押さえようとしつつ押さえきれないことがはっきり見て取れる動きだった。
 じり、とリアがまた動いた。半身になりかけていた。そむけた顔を片手で覆い、残る片手が抗うように石壁に爪をたてた。
 アラードはまったく動くことができなかった。リアがこちらを向いたら……。頭が考えることを拒否した。意識が真っ白になった。
 壁にたてられた爪が鋭く伸び、石がぼろりと砕けたとたん、リアが言葉をなさぬ悲鳴をあげた。それは絶望に食いつかれた者の絶叫だった。
「閣下!」そのとき階下からグロスの呼び声がした。螺旋階段を足音が駆け上がってきた。
 リアが振り向いた。両手で口元を抑え目を固く閉じたまま体を無理によじり床を蹴った。その身は夜空に大きく口を開けた窓の外へと跳び出し背中から落ちていった。
 入れ替わりにグロスが駆け込んできた。部屋の惨状に彼は切らせた息を呑み込んで一瞬立ち尽くしたが、ゴルツの亡骸のもとにまろび寄り膝まずくと深く頭を垂れた。
 アラードは全身汗まみれだった。声も出せず、膝にも力が入らなかった。彼はよろめき、壁に背をあずけた。
 そのとき窓の外で叫ぶ声が聞こえた。
「岩山が光っているぞ!」

 声を聞いて顔を上げたグロスの姿が金色に輝いていた。リアが身を投げた窓から射し込む光が彼を照らしていた。グロスが窓際にやってきた。アラードもやっとのことで窓の外を見た。
 洞門のある岩山の頂が金色に輝いていた。岩肌に亀裂が入り、そこから光が漏れ出ていたのだ。亀裂は見る間に岩山全体に広がり、まばゆい光の中でついに崩落が始まった。だが、土石は城壁に囲まれた広場の方ではなく、なぜかほとんどが背後へ崩れた。そしてアルデガンの外壁からあふれ出て荒野へとなだれ落ちた。もうもうたる土煙が薄れたとき、そこには洞窟から荒野へ下る土石の坂道がかかっていた。
 そして崩れた岩山から、金色の光をまとったものがゆっくりと夜空へ舞い上がった。
 遠目には小型の竜のような姿だった。きらめく緑と赤の蛇体に金色の輝きを放つ翼を持つそれはゆるやかに羽ばたいた。建物に燃え盛る炎が幾筋も弧を描いてその翼に吸い込まれ、金色の輝きがまばゆさを増した。さして大きくない体には釣り合わぬ途方もない力を秘めていることがひしひしと感じられた。
「炎を取り込むもの……。あれがリアのいう魔物の長か」
 グロスが呆けたようにつぶやいた。
 そのとき、アラードの視界の隅でなにかが動いた。

 尖塔の窓からはるか下の寺院の屋根の上にリアがいた。彼女は人々のいる地面には降りず屋根の上を伝って岩山へ、金色に輝く魔物のもとへ戻ろうとしていた。
 アラードは宝玉の間を跳び出し螺旋階段を駆け降りた。瞬間、人々の脳裏に強大な思念の声が響き渡った。金色の翼持つ魔物の呼びかけだった。
>人間たちよ。汝らの種族は自らを律し結界を守ることができなかった。汝らの種族はいまだこの世界を支配する資格を持たぬと知るがいい<
>結界の崩壊をもって、汝らが封じてきたものたちは再び地上に解き放たれる。同時に我が翼の庇護も終わる。汝らとこのものたちの命運は再びそれぞれの手にゆだねられる。我は二百年前に交わされた約定に従い、これを宣告する<

 思念の声を聞きながら走り続けたアラードは城壁の下の砂地にたどり着いた。ゴルツが尖塔に転移したのはつい先刻だったが、もはやかけ離れた光景が眼前に広がっていた。目の前にあれほど高くそびえていた岩山はほとんど姿を消し、洞門の高さの土台だけが残されていた。岩山の頂があった高さに浮かぶ金色の翼の守護者の放つ光の中に、天に向けて開いた洞窟からあらゆる姿形をした魔物たちが続々と這い出て群をなしていた。
 そして華奢な人影が一つ、その恐ろしい群に歩み寄ろうとしていた。





  第9章 アルデガン その3


「リア……」アラードは呻いた。二、三歩前に歩み出た。だが、塔の上でのあの恐怖がよみがえり、その歩みを押しとどめた。
 そのとき、翼持つ守護者の思念が呼びかけた。
>汝、人間の姿と心を持つ者よ。なぜ歩み寄る?<
 アラードは守護者を見上げた。遠目には竜のように見えただけだったが、間近に見ると頭部がまったく違った。いくらか人間に似ていなくもない細い顔を取り巻く無数の触手が蠢いていた。髪の代わりに蛇を生やした女めいた顔だった。
「私はもう人間ではないわ。だから人間たちとともに在ることはできない」
>……我には汝と人間の区別がつかぬ<
「あなたのその言葉に背中を押されて私は地上へ戻った。少なくとも心だけはまだ人間だと、人間として行動できるのではないかと思えたから、いえ、そう思いたかったから!
 心だけはそうだったかもしれない。私を信じようとしてくれた人もいたわ」
「でも、私はやっぱり人間じゃなかった! 信じてくれた人さえ危うく牙にかけるところだった!」
 一瞬とぎれた声が、しかし絞り出されるように呻いた。
「だめなのよ、もう、いくら人間でありたいと願っても……」

 アラードはがくりと膝をついた。胸が張り裂けそうだった。
 あのとき瀕死のリアにしたたる血を飲ませた自分は、ただ彼女を失いたくないだけだった。彼女の魂がこの世から消え去ることに耐えられず、どんな形であれ、この世に留まり続けてほしいと願っただけだった。
 自分の思いは純粋だとさえ心のどこかで感じていた……。
 その結果がこれなのか!
 どこまでも人間としての心を失わずにいたいという思い。自分の執着などよりずっと切実なはずの願い。それをついに自ら断念しなくてはならないところまで彼女は追い詰められたのだ!
 なんということをしてしまったのか……。

>だから、このものたちと行くというのか<
「人間の間にはもう私の場所はない。私はここにいるどんな魔物よりも人間にとって有害な存在。だから、せめて彼らを棲むべき場所へ連れて行くわ」
>棲むべき場所?<
「この北の大地には実りが少ない。この地に留まるならば彼らは人間を屠るしかない。
 でも実りの多い場所に棲めたなら、必ずしも人間しか糧にできないわけではないのよ。
 だからあなたも彼らを洞窟で養うことができたのでしょう? 洞窟の中にキノコや様々な生き物を増やして与えることで。
 この中で、本当に人間しか糧にできないのは、私だけ……」
「リア!」アラードはたまらず叫んだ。

 リアが振り向いた。幼いときから身近に見知ってきた少女の顔がけなげにも淡く微笑んでいた。だがそれは、あまりにも大きなものを諦めることでかろうじて得られた平静のはざまに、やっと浮かべることのできたものとしか見えなかった。
 そうまでして自分に微笑みかけようとするその心の痛ましさを想っただけで耐えられなくなった。声を限りに叫びたかった。
 そんな、そんな微笑みを向けられる資格なんかないんだ!
 だが声一つ出せなかった。千々に心乱れるばかりだった。

「私は最悪の魔物なのよ。もう私の場所はここしかないの」
 リアの声が聞こえてきた。
「大司教閣下が亡くなられて、私を解呪できる人はもういない。自分で死ぬこともできない……」
 表情が翳ったとたん、はかない微笑みはゆらいで消えた。
「……私はきっと多くの人を殺めることになるわ。
 だから約束して。いつか必ず私を滅ぼしにきてくれるって」

「それが……望みなのか」
 やっと出るようになった声でアラードは問うた。
 リアは頷いた。

「……約束する。いや、誓う!」
 アラードはいった。一言ずつ、胸から削り出すように。
「ただリアをこの世に留めたかったんだ。どんな形でもいいと、とにかく失いたくないと、あのとき願ってしまった……。
 それがリアを苦しめたんだ! これほどむごく、残酷に。
 叶えないなんてもう許されない。たとえどんな望みでも!」

 リアはふたたび微笑んだ。だが、そこにはまぎれもない喜びとかそけき希望の光が射していた。
「私の魂はアラードに願われてこの世に留まった。だからラルダみたいに自分を憎まずにいられた。私がせめて自分にできることをする気になれるのは、アラードのおかげよ。
 だから私は魔物たちと行くわ。この身を置ける場所で今できる何かをなすために。
 私のところへ来るときは、魔物たちのいる場所を訪ねて」

>汝の置かれた境遇は我には不可解なもの<
 守護者の思念が呼びかけた。
>だが、汝は我に似ているのかもしれぬ。種族としての自らを律せられず故郷を滅ぼして離散したあげく、本来我が場所ならざるこの世界に在りながらもその意味を求めてやまぬ我に<
 金色の翼が大きく羽ばたくと、きらめく蛇体はさらに高みへと浮かび上がった。
>この地での我が役割は終わった。我はまたこの世界に漂着した意味を探しにゆく。汝もその心の導く道をゆくがいい<
 その思念を最後に、守護者は翼からの光を流れ星の尾のように引きながら、ゆるやかに西の空へと飛び去っていった。


 いまや荒野に燃える炎だけがあたりを赤く照らしていた。魔物たちの群は照り返しの中に黒々と浮かび上がり、炎を受けた無数の目が赤く輝いた。アラードと向き合ったままリアが数歩後じさると、彼女の姿も黒い影に溶け込んだ。すると彼らは動き出し、荒野に下る坂道を土煙を上げながら降り始めた。
「約束よ。アラード」
 うごめく影の群の中から声がした。
「いつか必ず滅ぼしにきて……」

 魔物の群は炎を上げる荒野を黒い大河のように遠ざかり、平野を遮る峨々たる山脈の麓に溶け込んでいった。アラードは崩れた岩山から荒野に下る坂道の上に立ち尽くし、リアの去った道を、自分と分かたれた道を、彼女の最後の声を胸に刻みつけたまま、ただいつまでも見つめていた。





  第10章 野営地


 レドラス軍は火の球がノールドの国境を越えたのにやや遅れて攻め込んだ。
 砦の軍勢は低空をかすめる巨大な火の球の飛来に浮き足だち、レドラス軍の侵攻に組織的な対処ができなかった。たちまち砦は陥落しレドラス軍によって火をかけられた。
 レドラス王ミゲルは恐怖で敵の抵抗を挫くため、敵兵や領民の虐殺を命じていた。異民族の数をできるだけ減らし空の火の球と地上の軍の恐ろしさで反抗の芽も摘んでしまう。火の球の直撃によるアルデガンの滅亡とレドラス軍の恐怖に挟み討ちされれば砦と同様ノールドの王城リガンもあえなく陥落するはずだった。
 残酷な命令は実行された。砦を次々に落とし村々を略奪しつつ侵攻するレドラス軍の背後には、業火とどす黒い煙と死体の山が残された。女子供も容赦なかった。わずか一日でノールド領内の南部平野の大半が無慈悲な蹂躙に血塗られた。

 次の日もレドラス軍は北上したが、日が落ちたのでミゲル王は焼き討ちにしたある村の外れに野営することにした。将軍は惨殺した村人たちの死体の始末を兵士たちに命じた。
 村で見つけた荷車に村人の体や首を積み上げ手近な崖下に捨てようとした兵士たちは、茂みの前に一人の華奢な少女がいるのを見つけた。口元を押さえ俯いていたので顔こそ見えなかったが、淡い金髪と白い肌は夜目にも見てとれた。
「まだいたのか、へへっ、上玉じゃねえか」
 兵士たちは荷車を放り出して少女を取り囲んだ。散乱した死体の山から子供の首が一つ、少女の足元まで転がった。
「つまらん仕事やらされてんだ。褒美ぐらい当然だよなぁ」

「書状は読んだわ。でも信じたくなかった、こんなこと……」
 細くてきれいな声だった。それも涙声だった。だが、その声のなにかが襲いかかろうとした男たちの体を凍らせた。
「みんなはこの人たちを、地上の人間すべてを守るために戦っていた。たくさんの仲間が斃れた。私の父もそうして死んだわ」
 頭の後ろで束ねられた金髪がざわり、と揺れた。
「洞窟から魔物たちを出してはいけない、ただその一心で封じていた。力弱い者は死に、心弱い者は狂いまでして。
 なのにその洞窟をあなたたちはこじ開けた! アザリア様までそのせいで死んだ。それだけじゃないわ!」
 怒気とも妖気ともつかぬものが細い体から目に見えんばかりの濃密さで吹き出した。
「魔物だって人を殺す。食べるため、生きるために。
 でもあなたたちは殺したのよ、胸一つ痛めず! 生きるためでさえないのに! 人の身でありながらっ」
 少女が顔を上げた。整った華奢な顔だった。しかし涙に濡れた瞳は真紅に燃え、いいつのる口元には細く尖った牙が光った。
「それでも人間なの? 魔物以下よっ!」
「き、吸血鬼だ!」兵士たちの悲鳴と同時に茂みから異形の影がいくつも躍り出た。男たちはたちまちあぎとに捉えらればりばりと噛み砕かれた。その間にも魔獣や亜人たちが闇の中から続々と姿を現わした。
「分散してはだめ。互いにむだな犠牲が増えるわ。固まって突破して!」
 少女の思念に応え、魔物たちは吠えた。



「なんだ? 騒々しい!」
 天幕で休んでいたミゲル王は将軍たちに尋ねた。そのとき一人の兵士が転がり込んできた。
「ま、魔物の大群です」「なんだと!」
 天幕から飛び出した王と将軍たちは、目の前の光景に立ちすくんだ。

 広場には魔物たちがあふれていた。人間に似た亜人や巨人から悪夢のような魔獣まで、ありとあらゆる姿形の魔物たちが恐慌に陥った軍勢を蹴散らしていた。手向かう者は容赦なく食い殺されたが、魔物と出会うことなど想像もしていなかったレドラス軍はもろくも総崩れとなり壊走し始めていた。
「者ども! 逃げるな! 王命だぞ!」
 ミゲル王は叫んだ。その声に応えがあった。
「あなたなのね。虐殺を命じた邪悪な王は!」
 魔物の群からほっそりした少女が歩み出た。子供の面影さえ残したその顔の真紅の瞳と細い牙がかがり火の光に映えた。
「これほどの残虐非道、絶対許せないっ!」
「吸血鬼だ! 斬れ、斬れえっ!」
 ミゲル王の声に将軍の一人が大剣を構え、腰だめに突進した。大剣は少女の薄い胸から背中まで貫いた。
 だが少女が細い腕を無造作に振り抜くと、将軍の体は宙を舞い仲間たちに激突した。
 突き抜けた剣をそのままに少女は王に向かって歩みを進めた。ミゲル王は恐怖のあまり腰を抜かし、それでも後じさりしながらわめいた。
「いやだ、死にたくないっ! 来るなぁ!」

 そのとき少女の顔に動揺が走った。
 目の赤光が薄れ、一瞬青みをおびた。
 歩みが止まり、伸びた牙が折れそうなほど食いしばられた。

 だが一瞬の逡巡ののち、彼女は王にむしゃぶりつき、細い牙が吸い込まれるようにその喉を穿った。背中まで突き抜けた剣さえ抜かずに王の首を貪る少女。その姿の恐ろしさに将軍たちは逃げ去った。



 とうとう本当に堕ちてしまった……。
 渇きの狂気から我に返ったリアをまっさきに捉えたのは、その思いだった。
 足元には血を吸い尽くされた男の骸が転がっていた。
 邪悪な王。アルデガンの瓦解の元凶であり軍勢を駆って隣国の民を虐殺した憎むべき王。
 確かにこの男はそうだった。

 だから自分は、この男なら殺してもいいと思った。いや、そう思い込もうとしていた。
 この男なら殺しても、後ろめたさも胸の痛みもなにも感じずにすむのではないか。心のどこかで、確かに自分はそう期待していた。

 しかし自分が襲いかかろうとしたあの最後の瞬間、彼の叫びがかつての魔獣の断末魔のように自分の心に感応した。そこにいたのは吸血鬼を、迫る死を前にただ脅える一人の人間だった。
 憎むべき邪悪な侵略者という外面が剥げ落ちてみれば、魔物の餌食になるばかりの哀れな男がいただけだった。
 それなのに……。

 自分は堕ちてしまった。ほんの二ヶ月前、魔獣の断末魔に魂を感じて戦うこともできなかった自分は、哀れな人間の魂を感じていながらその血を貪る化物になり果ててしまった。

 リアは胸を貫いたままだった大剣を引き抜いた。傷はたちまちふさがった。
 男の骸を焼くために炎の呪文を唱えた。予想もしなかった激しい炎が爆発し瞬時に骸を焼き尽くした。もともと高かった魔力が転化したため桁違いに強まっていたのだ。リアは慄然とした。

「私は最悪の魔物なのよ。この中で本当に人間しか糧にできないのは、私だけ……」
 アラードと別れるときに自分がいった言葉だ。だがあのときの自分は、まだその意味を本当にわかってはいなかったのだ。

 私は人を殺す。生きるためでさえない。
 死ぬことができないのだから……。
 ただ狂気をもたらす渇きに耐えられないだけ。
 正義をかたる資格なんて、ない……。

 リアは魂の軋みにあえいだ。
「アラード。どうなるの、私……」
 いつかは心が冷えきって、何も感じなくなるのか。渇きを癒すだけのために冷淡に人を殺せるようになるのか。
 それとも魂が軋みに耐えきれず歪んでいくのか。己を、運命を否定するあまり、すべてを呪うしかなくなるのか。あの痛ましいラルダのように。
 あるいはこの恐るべき力が内なる邪悪さを引き出すのか。ラルダやアルマをなぶったあまりにも嗜虐的な吸血鬼がおそらくそうだったように。

 厭わしかった、呪わしかった、おぞましかった。
 だが、この軋みが、苦しみがいつまでも続くとしたら……。
 耐え難い恐ろしさだった。

「苦しみから解放されるには、やはり誰かの手で解呪されるしかない」
 ゴルツの末期の言葉がよみがえった。
「せめて、その日がすみやかに来ることを祈らせたまえ……」

 アラードはいつ来てくれるの?
 解呪の技を修めることができるの? できなかったら?
 私のことなど忘れてしまったら?

 ……死んでしまったら……?

 足下にぽっかりと虚空が口を開けたのをリアは感じた。
 深淵から冷たい虚ろな風が吹き上げた。
 人間の魂など、永遠というものに耐えられはせぬ。
 深淵が、虚ろな風がそう告げた。
「アラード! 助けて、早く! 誰か……っ」
 天を仰いでリアは叫んだ。だが、その悲痛な叫びは酷薄な風に吹き散らされた。

 はるか背後の北の大地は荒野を焼く炎に赤く、魔物たちが向かう南の大地はいまだ暗黒に閉ざされている。
 炎はいずれ燃え尽きる。ならば、すべてがただ暗黒に呑まれるだけなのか。
 リアはひとり天地の狭間に立ちつくし、ただ深淵と虚ろな風に心おののかせるばかりだった。





  第11章 エピローグ その1


 三日間にわたって燃え盛った炎がようやく下火になったとき、アルデガンは変わり果てていた。

 結界の源だった宝玉を収めたラーダ寺院の尖塔は崩れ、魔物を封じていた岩山は完全に姿を消していた。炎が振り注いだ城壁や建物にはいまだに燃えているものも煙を立ち登らせているものもあった。結界を失い魔物が解き放たれたアルデガンはもはや封魔の城塞ではなかった。こじ開けられ焼け焦げた空の檻だった。
 とはいえ金色の翼の魔物が炎をかなり吸い上げたために見かけよりは被害が少なく、人的な被害はさらに少なかった。死者はゴルツとアザリア以外に運悪く炎の直撃を受けた者が数名。大きな火傷や傷などを負った者もそういなかった。火災の規模を思えば奇跡的とさえいえた。

 しかし人々の心に残された爪跡は深刻だった。その荒みようは焼け跡など足下にも及ばないものだった。

 アザリアの書状を直接目にした者は砂地の四人だけだったが、城壁にいた者たちはリアの訴えやゴルツの叫びから事情を悟っていた。なにより外界から襲いかかったあの凄まじい火の玉の姿を見た者ならアルデガンが外からの力で破られたとしか思いようがなかった。裏切られ背後から襲われたように誰もが感じた。
 しかも追い討ちをかけるようにもたらされた戦禍の知らせは、アルデガンの人々、ことにノールド出身の者にとってあまりにも残酷なものだった。


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 焼け跡と化したアルデガンには王城リガンからきた小隊の姿があった。火の玉の標的となったアルデガンの状況を把握し、もし生き残りがいたなら緒戦で失われたノールドの兵力に組み入れることが目的だった。
「わずか二日でこれだけの村々が焼かれ滅ぼされた! 生存者も確認されていない!」
 読み上げられた村の名前を聞いた人々の悲鳴や怒声に負けじと小柄な小隊長は声を張り上げた。
「この地を襲ったあの火の玉もレドラスが放ったものと確認されておる。レドラス許すまじ! レドラス討つべし! 我と思う者は遠征隊に志願せよ!」
「レドラス許すまじ!」洞門前の砂地に集まった人々の叫びは地鳴りのようだったが、野太い声がその響きを突き抜けた。
「遠征隊? おかしいではないか。今聞いた村の名前ならば敵はノールド領内深く攻め入ったはず」
 大熊のようにボルドフが立ち上がった。
「領内の迎撃なのになぜ遠征隊なんだ。何か隠しているな!」

 あたりの空気が変わった。怒鳴り返そうとした小隊長は自分が猜疑の視線の只中にいることに気づいた。
「じゃあ、おれたちの村が焼かれたのも嘘か?」
「嘘なんだろう!」「嘘だといって!」
「ま、待ってくれ! 嘘じゃない、嘘じゃないんだ!」
 殺気だった人々に詰め寄られた小隊長は悲鳴をあげた。
「レドラス軍が南部平野一帯を焼き払ったのは本当なんだ。だが我が軍が迎撃に向かったときには、なぜかレドラス軍はもう壊走していたんだ」
「どういうことだ? なにかわからないのか!」
 ボルドフの巨体に威圧された小隊長は後じさった。

「……捕虜を何人か捕まえたんだが信じられないことばかりいうんだ。魔物の大軍に蹴散らされたとか、王が吸血鬼に吸い殺されたとか……」
「吸血鬼だって?」
 人垣から跳び出した赤毛の若者が小隊長に掴みかかった。勢い余った自分の手が相手の首筋を絞め上げているのにも気づかず、彼は小隊長をゆさぶった。
「本当なのか? どうなんだっ!」
「やめろ、アラード! 手を放せ」
 ボルドフがアラードを引き離したおかげで小隊長はやっと声が出せるようになった。
「……捕虜にした将軍がそういったんだ。小娘の姿をした吸血鬼が王を襲ったと、大剣で串刺しにされても全くひるまずたちまち王を吸い尽くしたと。
 でも、本当かどうかもわからないんだ。王の死骸らしきものは見つからなかった。逃げた王をかばうために嘘をいっているだけかもしれないんだ」

「魔物がいた痕跡は?」
 蒼白になり立ち尽くすアラードを押しのけボルドフが低い声でたずねた。
 小隊長ははっきりとうろたえた。
「あったんだな! ならばなぜレドラス軍の壊走を隠した!」
「理由なんか知らない、ただいうなと命令されただけなんだ」
「王宮の意志か……」苦々しげにボルドフがつぶやいた。
「レドラス軍が統制を失い壊走したのを好機と見て遠征隊を組織しようという気か。村を焼かれた者の憎しみを煽って……」

 ボルドフは仲間たちに向き直った。
「レドラス軍の狼藉は事実だ。それは疑いない。だが遠征隊には参加するな。それでは今度は我らがレドラスの民を殺めることになるぞ!」
「でも、レドラスは断じて許せない!」
 一人が叫ぶと、砂地はたちまち怒号のるつぼと化した。
「冷静になれ! 我らは人々を守るために魔物たちと戦ってきたのではないか。おまえたちはその誇りも忘れて人間に刃を向けるつもりか!」
「やつらは人間なんかじゃないっ」「あいつら悪魔だ!」
 同調する者、反論する者の怒声や悲泣が入り乱れたが、裏切られたという思いに加え故郷の無残な最後を知らされた者たちの怒りは、憎しみはもはや誰にもとどめようがなかった。
 結局、午後になるとノールド出身の者の大多数が小隊とともに王城リガンに向けてアルデガンを出ていった。


「あの金ぴかの化物の説教が正しかったというのか!」
 悔しさを隠せずボルドフは吐き捨てた。
「これでは西部地域の愚行の二の舞だというのに……」
「隊長はこれからどうなさるおつもりですか?」
 背後からアラードの声がたずねた。
「アルデガンを出た魔物を追うつもりだ」
 ボルドフは即座に答えた。
「南下して国境を越えたというがそんなことはかまわん。どこの民であれ魔物の餌食になる者を一人でも多く救いたい。今までと同じことを続けるだけだ」
「それより俺はもう隊長ではないぞ、アラード」
 苦笑しつつ振り返った巨漢の表情が引きしめられた。
「私もいっしょに連れていってください!」
「……かまわんが、なにをそんなに思いつめている?」
 アラードはボルドフに魔物たちと去ったリアとの誓いのことを打ちあけた。

「……それで魔物たちを追うつもりか。だが解呪の技はどうするんだ? 俺にはあんなもの教えようがないぞ」
「それは、あの方にお願いするしかありません」





  第11章 エピローグ その2


「前にいっただろう? 私自身が解呪の技を発動できずにいるのだと」
 グロスはアラードをまじまじと見つめた。
 ラーダ寺院の地下にある霊廟だった。グロスはこの三日間ここに篭り続けゴルツやアザリアをはじめとする犠牲者たちに祈りを捧げていた。やつれた印象だった。疲れもあるのだろうがどこかうつろで覇気が感じられなかった。
「術式を身につけておられる方はもうあなたしかいないんです。あなたにお願いするしかないんです!」
 アラードの必死の頼みにも、グロスはため息をついてかぶりを振るばかりだった。
「発動できない私が教えたところでそなたも発動できるようにはなれまい。それでは意味もなかろう?」

「ならば、これからどうするつもりだ?」
 ボルドフが問うた。
「同い年のよしみでいうが、墓守になるのは早すぎるぞ」
 グロスは答えなかった。ボルドフもまたため息をついた。
「閣下にお仕えしながらなにもできなかった、どうせそんなことでも考えていたのじゃないのか? グロスよ」
「なぜ……、なぜわかるんだ……?」
「その顔をみてわからん奴がいるか」
「……この三日間、ずっと考えてきたんだ。これほど長くお側に仕えながら、私になにができたのかと。なにもなせなかったではないかと……」
 グロスは床を見つめながらつぶやいた。
「なぜ私はかくも無力なのかと……」

「なあ、俺は思うんだが、そもそもゴルツ閣下にお仕えしようというのが間違いだったんじゃないか?」
 ボルドフはグロスをまっすぐ見つめながら言葉を続けた。
「ゴルツ閣下に途方もない負い目を負ってしまったおまえにそれ以外の道がなかったのはわかる。だが、閣下はアルデガン最高の術者だった。おまえに限らず誰だってかなう存在ではなかった。だから閣下を助ける機会そのものがなかった。身の周りの世話や雑務をこなすのがせいぜいだった」
 グロスは黙ってボルドフを見上げていた。
「俺が見た限り、おまえは閣下を実によく補佐した。現に閣下は助かっていたと思う。しかし大きすぎる負い目を負ってしまったおまえ自身はそれでは満たされなかった。それが己の無力として感じられ身を苛んだ、違うか?」

 ボルドフはグロスの肩に手を置いた。
「おまえが無力なんじゃない。助けを必要としていない者に仕えてしまっただけなんだ。そしていまここにおまえの助けを必要としている者たちがいる」
 ボルドフはグロスの体をアラードのほうに向かせた。
「いまアラードがいっただろう。もうこいつ一人の話じゃないんだ。リアは解呪されない限り滅びることができない。心ならずも人々を牙にかけ続けるしかない。おまえが諦めたならこの運命は変えられないものとして定まってしまう。アラードも、リアも、多くの者がおまえの助けを必要としている」
「定まってしまう? 諦めたら?」
 グロスがはっとしたように繰り返した。

「アラードは未熟で思慮が浅い。それがこんな事態を招いた。
 しかし本気で自分の過ちをつぐなおうとしている。この覚悟に免じて助けてやってくれないか」
「お願いします! どうか……っ」
 アラードはグロスに額づいた。

「顔をあげてくれ、アラード。額づかれる資格など私にはない。そもそもラルダを見捨てて逃げたのは私なのだから」
 グロスはアラードの前に身をかがめ、その手を取った。
「閣下もそなたも仕方がなかったといってくれた。あんな吸血鬼が相手ではと。たしかにそうだったのかもしれない。
 でも、なぜか諦めきれなかった。あの時逃げなければなにかが違ったのではないかとずっとずっと思っていたんだ」
 うつろだった目に熱がこもっていた。
「あの時私が逃げたばかりにラルダの運命は定まってしまった。それがリアの運命を狂わせた。リアが誰かを牙にかけるならば、その者の運命もだ」
「ここで諦めたなら過ちを繰り返すことになってしまう。これは私のつぐないでもあるんだ! こちらから頼む。私をいっしょに連れていってくれ!」
「ありがとうございます……」
 アラードはただ繰り返すばかりだった。

「閣下のことはアザリアに頼んでおこう、それなら心配ない」
 ボルドフは祭壇に安置された棺に向き直った。
「なにしろアルデガン最高の守り手だったんだ。最後までな」
 巨躯の戦士が祈りを捧げた。残る二人も彼に倣った。


----------


 翌朝、三人はアルデガンの城門を出た。
 仰ぎ見た城壁は二十年前の嵐の夜に出奔した若者が見たものと同じだったが、それは崩壊した岩山の土石があふれ出たときに崩れ、業火に焼かれた跡をあちこちにとどめていた。その姿に彼らはそれぞれがこの地で過ごした日々を一瞬重ね合わせ、心の中で別れを告げた。

 城壁に背を向けたとたんに強風が真正面から吹きつけた。灰が混じった土埃が荒れ狂うように舞い上がった。
 思わず振り仰ぐと暗雲が風に乗って渦を巻きながら押し寄せていた。崩れた城壁に襲いかかる黒い軍勢さながらだった。轟く風音までが軍靴の響きに聞こえた。
 だが黒一色と見えた空のうちはるか南にただ一ヶ所、わずかに雲が切れていた。渦巻く黒雲からのぞいた青い空は峻烈なまでにまぶしく見えた。

 それはなぜか、ひどく心ゆさぶる光景だった。

 三人は高く顔をあげ、長い旅路の第一歩を踏み出した。激しい光を宿した青空の欠片をまっすぐ見つめながら。


                     終

後書き


作者:ふしじろ もひと
投稿日:2017/05/15 00:54
更新日:2017/05/15 01:00
『封魔の城塞アルデガン』の著作権は、すべて作者 ふしじろ もひと様に属します。

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作品ID:1953
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