作品ID:2267
あなたの読了ステータス
(読了ボタン正常)一般ユーザと認識
「シーンズ ・ ライク ・ ディーズ 」を読み始めました。
読了ステータス(人数)
読了(64)・読中(1)・読止(0)・一般PV数(218)
読了した住民(一般ユーザは含まれません)
シーンズ ・ ライク ・ ディーズ
小説の属性:一般小説 / 未選択 / お気軽感想希望 / 初投稿・初心者 / R-15&18 / 連載中
前書き・紹介
のんびり白猫ドミナント。
田舎在住。
特に不満なし。
飼い主さん大好き。
でも時々いなくなる。
被害なし、被害者なし、犯人なし、推理あり。
ふわふわミステリー。
白猫家出事件
前の話 | 目次 |
『 白猫家出事件 』
【 1 】
春の朝日を浴びる、自然豊かな山あいの派出所に申し訳なさそうな様子で早川のおばあさんが現れたのは、今月に入ってからもう三度目の事だった。 その回数を去年から今年にかけての一年間トータルで考えれば、おそらく優に十回を越えているだろう。
おばあさんの姿に気付いた大森巡査は、早くも席から立ち上がって公務車両専用のキー・ラックへと近付いていく。 この流れには、そろそろ慣れつつあった。
きっと、車が必要になるだろう ……。
「 おはようございます、早川先生。 どうかなさいましたか ? 」
「 おはよう、大森くん。 このお願いをするとあなたの仕事を増やす事になってしまうから、本当に悪いんだけど …… 」
早川のおばあさんはプロ級の腕前を持つボランティアのピアノ奏者で、辺鄙な田舎という表現がぴったり来るこの地域では、貴重な才能の持ち主だった。 大抵の音楽教師より上手だったから、周辺の小・中学校で行なわれる入学式や卒業式のピアノ伴奏には欠かせない存在だ。 人手の足りない時には音楽講師として短期間の特別授業を引き受けたりもしたので、彼女から教えを受けたことのある人は今でも子供時代の習慣のまま、早川のおばあさんを先生と呼ぶ。
この村で生まれ育ち、都会で勉強したあと故郷に戻って警察官になった大森巡査もその一人だった。
「 先生、お気遣いなく。 誰かが困っている時に頑張るのが僕の仕事ですからね。 ご用件は …… お宅のドミナントくんに関して、でしょうか?」
「 ええ、また猫が逃げたの 」
【 2 】
ドミナントは、早川のおばあさんがただ一人の家族だった旦那さんに先立たれてふさぎがちになったのを心配する昔の知り合いから贈られた、アルヘンティーノス・リグヘアードという珍しい品種の真っ白な猫だ。 アルゼンチン南部が原産の大型種で、いかにも寒冷地の猫らしくふわふわした長めの巻き毛が全身を覆っている。
子猫の時に村にやって来たドミナントは新しい家族として早川のおばあさんの日常に笑顔を取り戻し、飼い主と猫のどちらも幸せに暮らし始めた。 ところが何の問題もなく二年ほど飼われてから、最近になってそのドミナントに謎の脱走ぐせがついてしまった。
特に目当ても無さそうなのに、気まぐれにふっと外に出掛けてしまうのだ。 そして村の色々な所をつまらなそうにぶらついて、最後には飽きて、そこがどこだろうとやる気を無くしたその場に寝転がってしまう。 理由は誰にも分からなかった。
「 では早速ドミナントくんを探しに行ってきます。 大丈夫、軽く村の周りを一周すればすぐに見つかりますよ 」
大森巡査は 『 ただいま巡回中 』 と書かれた無人札を派出所の入口にぶら下げると、先生に軽く請けあってからパトカーに乗り込んだ。
丁寧な仕草でお辞儀をする早川のおばあさんを後に、車を村道に出した大森巡査は車内の無線を入れて、要領良く消防団や営林所、青年会の詰め所に連絡を取っていく。
拡声スピーカーを利用できる村内放送を使えば手っ取り早いが、初めてドミナントが逃げ出した折にそれをやって村の人々に猫探しへの協力を呼び掛けたところ、自分自身もその放送を耳にした早川のおばあさんは、保護された猫を受け取る時に、見ていて気の毒になるほど恐縮してしまった。
もう、ああいう気まずい思いをさせるわけには行かないな。 なるべく大ごとに見えないようにしないと。 なあに、猫の一匹ぐらい、すぐに捕まえられるさ ……。
大森巡査の楽観的な見通しは、残念ながら外れてしまう。
結局、猫が無事に見つかったのは午後もずっと遅くなって、陽が傾きかけた頃の事だった。
【 3 】
夕方、村の中央にある神社そばの集会所では村の役員さん全員 ─── と言っても、たったの四人だが ─── による、今日起きた猫脱走騒ぎの報告会が開かれようとしていた。 助言役として、獣医師の岸上先生が呼ばれている。
普段の顔ぶれに加えて岸上先生が五人目として参加する手はずになっているのは、議題が動物についての事だからだろう。 白衣姿の岸上先生は、小学六年生になる娘の美晴ちゃんと一緒に、二人連れで集会所への石段を上っていく。
神社の入り口でたまたま犬の散歩中だった美晴ちゃんと集会所へ向かう途中で顔を会わせた岸上先生が、話し合いの間、捕まえられた猫を世話しておいてほしいと頼んだのだ。
犬を鳥居の横に待たせて、美晴ちゃんはお父さんのために臨時の助手になった。
集会所の中で岸上親娘を出迎えたのは、四人の役員さんたちと、テーブルの上でとことんリラックスして、ごろっと寝転がっている白猫ドミナント。 その格好を見た美晴ちゃんは、つい笑顔になってしまう。 逃げた猫について村の役員さんが勢揃いして話し合うと聞かされて、なんとなく裁判や取り調べのようなものを想像していたが、絵面としては、やる気の無い猫の王様と、困り顔の家臣たちみたいだ。
岸上先生は泥や枯れ草が付いて少し汚れているドミナントの体を調べ、病気の兆候や傷がないことを確認すると、「 ブラッシングしてあげていい?」と尋ねる美晴ちゃんに静かにうなずいた。
【 4 】
「 にゃあうぅ 」ドミナントは体が調べられている間も特に嫌がることなく、少し暇そうに鳴いているだけだ。 人の手が触れて来るのに慣れているのは、早川のおばあさんが普段から猫の世話を欠かさないからだろう。 逃げたりする様子は全く窺えず、ケージやつなぎ紐を用意したりする必要はまるで無さそうだった。
「 君は、一人でお出かけしたのね 」
美晴ちゃんは優しく声をかけながら歩み寄って、猫の首の、たてがみのように長い毛の房に絡まっている草の種をつまみ取ると、折りたたみブラシを広げてドミナントの毛並みを整え始めた。
「 にゃあ 」
「 黙って外に行っちゃダメなのよ 」
「 にゃ 」
目につく大きさの草くずや泥を、体の片側を下にして寝転んでいる猫から丹念に払い落とし、次に反対側もきれいにするために猫の脚をそっと掴む。
「 うゅ 」
ドミナントはくつろぎきって立とうともせずに、無抵抗でぽふっとひっくり返された。
【 5 】
「 …… 以上が、本日ドミナントの捜索に協力して下さった村民の皆さんのリストです。 後で、私の方からお礼として菓子折でもお送りしておきましょう 」
副村長で、青年会の主事でもある酒井さんが村内連絡帳をパタンと閉じ、手際よく報告を締めくくった。 少し思い込みが強くてそそっかしいのが玉にキズだが、行動力があってなかなか頼りがいがある。
「 うむ、よろしく頼むよ、若社長。 だが …… この猫がこう何度も何度も逃げ出すようでは、一件落着と喜んでばかりもおられん …… 実に困った猫じゃ 」
話の後を引き取ったのは、この辺では一番の地主農家で、もう三十年以上も村長を務め続けている種田さんだ。 村のために一所懸命に尽くす酒井さんの働きを十分認めているが、酒井さんが大きな建設会社の社長となった今でもまだ、時々昔の先入観が先立って若造扱いしてしまうきらいがある。
「 まあまあ、そうドミナントを責めてやりなさんな。 この猫は、ほんの少し冒険心が強すぎるだけさね 」
ドミナントの頭をなでてやりながら消防団の山瀬さんが髭づらをほころばせ、わざとふざけ気味にとりなした。 あまりこの脱走騒ぎを深刻なトーンの話題にしたくはないように見える。
「 今回も無事に見つかったんだからそれでいいじゃないか、村長。 あらたまって話し合いなんかしなくても、早川先生が猫を受け取って安心してくれるんなら俺はそれでいいよ 」
細かい事にはこだわらない、タフガイ豪快おじさんの山瀬さんらしいスタンスの考え方だった。
「 次も同じように保護できるとは限らん 」
種田村長がぴしゃりと言い返した。
「 わしは猫を探す手間だけを問題にしとるわけではないわい。 いくらこの村が田舎だと言うても、道にはよその車が通る。 ツーリングバイクの行列だって通る。 外の暮らしに慣れておらんこいつが 」
そう言って指差した人差し指に、「 にゃっう 」と鳴いたドミナントが前脚フックでじゃれかかるのを受け止め、親指アッパーで応戦して猫を喜ばせてから種田村長は続けた。
「 このままではいつか、取り返しのつかん目に遭うかもしれんと心配しとるんじゃ 」
種田村長は昔、放し飼いにしていたニワトリを乱暴な運転のトラックに轢かれて亡くした事がある。 村長の責任感は別としても、この一件が他人ごととは思えないのだろう。
「 僕は猫だけでなく、早川先生ご本人の事も心配なんです 」
と、村役員の中では一番若い大森巡査が種田村長に同調した。
「 早川先生は、ドミナントがいなくなるたびに多勢の人手が猫探しのために割かれてしまうことを気に掛けておられます。 そのうち、助けを求めずに一人だけで、逃げた猫をなんとか探そうとしてしまうかもしれない。
ご高齢ですし、万一何かあってからでは間に合いません。 どうにかして今のうちにこの問題を解決しないと 」
【 6 】
「 確かに。 言われてみれば、この猫を捜すために村全体が総出に近い騒ぎになった事が何度かありましたな …… 我々だけでなく、警察犬まで使ったりもして 」
連絡帳の名簿ページを再び開きつつ酒井さんが相槌を打った。
「 ああ、岸上先生んとこに頼んでプレアデスを出動させてもらった時の事だろ。 どうしても見つかんなくて、人間だけじゃ手に負えないってんでさ。 あの犬が来てくれて本当に助かったよ。 いつの話だっけ?」
「 最初に出動をお願いしたのは、確か去年の三月頃です 」
当の岸上先生よりも早く、村民名簿のメモ欄を確認した酒井さんが山瀬さんの疑問に答える。 パラパラめくられる紙の動きが気になるのか、猫も首だけを起こして酒井さんの手元を覗き込んだ。
「 私が電話したから良く覚えてます。 他には、夏祭りの時と …… 今年に入ってからも一度ありましたね。 年が明けてしばらくした頃だったかな 」
「 秋口と冬至の近くにも一回づつあったぞ。 わしの記憶では、この一年で五回か六回は依頼させてもろうとるはずじゃ。 プレアデスがおらなんだら、どうなっておった事か 」
プレアデスとは、岸上先生の家で飼っている警察犬の名前だ。 ドミナントがいくら白くて目立つ大きな猫だといっても、自然に囲まれているこの村には森や深い草地がいろいろな所に広がっているので、地形によっては人間の目だけで逃げた猫を探し当てるのが難しい場合もあった。 そういう時、岸上家にいるプレアデスを使って猫の歩いた跡を嗅ぎ分け、その匂いをたどらせるのだ。 訓練された優秀な犬だけの事はあって、プレアデスは出動するたびに見事にドミナントを見つけ出していた。
「 でもさ、常に騒動になるってわけでもないんだよ。 この猫だって、一ヶ月や二ヶ月は家の中で行儀良くしてる時期もあっただろ。
何が理由で旅立ちモードに入るのかは解らんが、大掛かりな捜索さわぎの後は大抵おとなしくなったような気がするけどなあ。 案外こいつなりに俺たちに迷惑かけたことを、申し訳ないって思ってたりするんじゃないか 」
「 いーや、そうでもないて。 山瀬くんはあの時を忘れたか。一、二…… 」
種田村長が記憶を掘り起こしながら、少し苦々しげに指を折って数を数えていく。
「 五月の連休の時なんぞは、二週間に三回も脱走しおった 」
「 あ? あー …… あ、そういやそうだった! あの時が一番疲れたな! 大森くんは交通規制の応援で県警本部に詰めてたし、それに岸上先生の所が家族旅行中で、切り札のプレアデスが出せなかったんだ。 そうそう、今思い出したぜ 」
山瀬さんは三十秒も経たずに前言を撤回し、あっけらかんとして去年の苦労を笑い飛ばした。
【 7 】
「 しかし結局のところ、なぜドミナントはこうもちょくちょく早川先生の家から逃げ出してしまうんですかね。 さっきこの猫を見つけて届けてくれた人の話だと、こいつは道ばたの茂みにちょこんと座ったままボーっとしていて、近付いても全然逃げようとしなかったそうなんですよ。 つまり、今まで我々が保護してきた状況とまったく同じです。
家からは逃げるが、捕まえようとしても逃げない。
人を怖がるわけじゃないし、抱きかかえられるのを嫌がるわけでもないし …… 何と言うか、『 自由を求めて外に出て行った 』という感じがまるでありません 」
しきりに不思議がる大森巡査の言葉を受けて、酒井さんがハッとした表情とともに声をひそめた。
「 まっまさか、まさかとは思いますが、早川先生が動物を虐待しているという可能性はどうですか皆さん 」
「 バカバカしい、あまりに成立しがたい推測じゃ。 この猫が家に帰された時にどれだけ喜んで早川さんにじゃれついて行くか、あんたは見た事がないのかね。 ドミナントがこの世で一番好きな人間は、間違い無く飼い主の早川さんじゃよ 」
種田村長が昂然と反論して、酒井さんの仮説をあっけなく葬った。
「 念のために付け足しておきますと、ピアノも家出の原因にはなり得ません 」
大森巡査が報告書を示して情報を追加する。
「 ドミナントは子猫の頃から早川先生のピアノを聴き慣れていますから、鍵盤楽器の音を嫌がらないのです。 第一、早川先生は毎日ピアノを練習なさるので、もし音が理由ならば毎日逃げ出していなければおかしい 」
「 家にも飼い主にも理由が無いってんなら、原因は外だぜ。
せめて外に出たがるようになったキッカケが分かれば、何か手の打ちようもありそうなもんだがなあ 」
「 最初の脱走は、去年の冬から春、季節の変わり目の事ですね。 その頃ドミナントに何があったのかが問題です。 もしかすると、そこにカギがあるのかも …… 」
大森巡査が声を低めて考えをまとめようとしている。 それに釣られて、岸上先生が軽く一言を挟んだ。
「 去年の春といえば、早川さんから猫インフルエンザの予防接種を依頼されました。 ご本人が診療所までドミナントを連れて来られたので私が注射をしましたが、特に変わった様子はなかったな 」
うつむき気味に考え込んでいた大森巡査が顔を上げた。
「 岸上先生、その注射はドミナント最初の脱走事件の前でしょうか、後でしょうか 」
「 えっ? ええと …… どうだったろう …… 」
「 正確にいつの事だったか、日付は分かりますか?」
「 帰宅してカルテを確認すれば、はっきりしますが …… 。 そうだ、美晴はあれがいつ頃の事だったか覚えてるかい?」
【 8 】
テーブルの上でドミナントの長い巻き毛を丁寧にブラッシングしていた美晴ちゃんは岸上先生にそう呼びかけられると、集会所と神社の境内を隔てる生垣に面した窓の方向をしばらくの間見上げてから ───、
「 あの予防注射は去年の二月二十八日の事よ、お父さん 」と迷いなく簡潔に答えた。
「 …… 」「 ほ …… 」「 ほぅ …… 」
あまりにも具体的な日時が返って来たせいで、それを聞いた大人たちはちょっと唖然としている。
「 …… 何という記憶力だ。 一年以上も前の出来事ですぞ 」
「 驚いたな、美晴ちゃんには 」
「 俺なんて昨日食った晩めしのメニューも覚えてないぜ 」
「 わしゃこの子が神童じゃと最初から分かっとった!」
「 いや落ち着いて下さい皆さん。 美晴、それは間違いないのかな?」
美晴ちゃんは椅子から立ち上がって、さっき視線を注いでいた窓のところまで行くと、そのすぐ横に貼られていた一枚のポスターを剥がして岸上先生に手渡した。
「 去年描いたドミナントの迷子ポスターに、注射した時に撮った写真を使ったじゃない? ほらここ、デジカメ側の画像データ表示をオンにしたままレイアウトしちゃったから、日付が写真と一緒にプリントされてるの。
わたしは今、それを見たのよ 」
美晴ちゃんはタネ明かしを済ませると、毛づくろいされるのを待つ猫の元に戻った。
一同が身を乗り出してポスターをのぞき込む。
「 おっ、美晴ちゃんの言う通りだな 」
それは診察室で撮られた、来院記念の写真だった。 早川のおばあさんとドミナント、それに岸上一家と飼い犬のプレアデスが写った集合写真だ。 下側の右すみに、撮影日時を示す数字がはっきりと見えていた。
「 それで大森くん、その日付に何か意味があるのかね 」
大森巡査は問いかけてくる酒井さんに強くうなずいて、ファイル帳にまとめた報告書の一番上にある書類を抜き取って皆に示した。
「 これは、ドミナント最初の脱走事件に関する公式記録です。 昨年、三月二日の事でした。 注射があったのは二月の二十八日ですから、注射から事件までは数日しか経っていないことになります。
この二つの出来事はあまりに日時が近い。
岸上先生、猫用のインフルエンザ予防注射が原因となって、ドミナントの行動に変化が現れたとは考えられませんか?」
岸上先生は、意外な視点から提起された自分の専門分野についての質問に不意を突かれて、思わず背筋を伸ばした。
【 9 】
「 えっ、予防注射が家出の理由だと言うのかい? うーん。…… いや、外に出たがるようになるなんて、そんな副作用の症例は聞いたことがないなあ。
注射針が刺さる時の痛みの経験が悪い印象になって残った …… という程度の事だったらあり得るけど、その場合はむしろ外に出るのが嫌になると思うし。…… まあ、注射を打った私のことが嫌いになったというなら分かるが。
どうだね、ドミナント 」
岸上先生が握手をするように腕を伸ばすと、猫は「 にゅっあ 」という返答とともに先生の手首にしがみつき、消毒液の匂いが残る白衣の袖紐を興味津々の様子で甘噛みした。
「 注射は見当違いですか …… では考え方を180 度変えて、しつけの方面から対処する、という手はどうでしょう。 岸上先生、先生の奥様に、ドミナントが家から勝手に出なくなるように訓練していただく事は可能ですか 」
大森巡査が食い下がった。
岸上先生の妻、つまり美晴ちゃんの母親の岸上陽子さんは、プレアデスを始めとして何頭もの犬たちを訓練し、犬が飼い主の言うことを聞くようにしつけている警察犬の訓練士だ。 プレアデスに正しい方法で高度な命令を伝え、間違いの許されない犯罪捜査の現場で、しっかり仕事をさせる事ができる唯一の人物でもあった。
立派に任務を果たす犬の姿を仕事柄かなり多く目にしている大森巡査は、そのしつけの手法をドミナントの素行にも応用できないものかと考えたようだ。
「 猫を訓練? それは少し無茶だ。 なんと言っても、まるで違う動物だからね。 食事やトイレのしつけ位だったらともかく ………… いや待てよ、駄目だと決めつけるのは早いかな。 一定のエリアから出ないようにするだけの限定的な条件反射なら、もしかして可能かも …… 」
岸上先生は突拍子もないアイデアに面食らいながらも、腕組みをして検討し始める。
「 おおっそうだ。 外に出さないという目的を突き詰めるなら、絶対に脱出不可能な壁を早川先生のお宅の周りに建設して、国境みたいにしてしまうというのはどうですか。 費用なら私が 」
酒井さんの極端過ぎる意見が全員による文字にしにくい厳しさを帯びた非難で総攻撃されて、ようやくそれが一段落すると、真っ先に息を整えた山瀬さんが話題を切り換えた。
【 10 】
「 こいつは雄猫だよな 」
自分の顎ひげを引っ張りつつ、誰にともなく問いかける。
「 そろそろ、あー、あれだ、お嫁さんが欲しくなってきた …… なんてのが理由でした、って事はないかな 」
ガラにもなくマイルドな表現を試みるのは、美晴ちゃんに気を使ったのかもしれない。
「 発情期である可能性はゼロですね 」
岸上先生は特に娘の存在を気にすることなく、曖昧さを交えずに獣医としてきっぱり断言した。 どうやらこの種の話題でも気にしない親子のようだ。
「 この品種に限らず、大型の猫は体が育ちきるまで時間がかかります。 普通サイズの猫に比べると今でも充分大きく見えますが、ドミナントはまだまだ成長期の子供ですよ 」
「 そうなのか …… じゃあ、こういう行動が、初めからこの品種の猫に特有なものだとしたらどうだい? 元々放浪しやすい傾向がある、みたいなさ。
要するに、これはそういうもんなんだと男らしく、全てをドーンと受け止めてやるんだよ。
岸上先生、ドミナントは正確に言うとどんな種類の猫なんですか。 俺、前にチラッと南米の猫だって聞いた事があるんだけど 」
「 アルヘンティーノス・リグヘアード・キャットは、二十世紀の初頭に品種改良で生み出された、まだ歴史の新しい猫です 」
こういう話が大好きな岸上先生は、講義をするようにてきぱきと答え始めた。 手入れを終えてすっかり綺麗になったドミナントと遊ぼうとしている美晴ちゃんの眉が、ほんの少しぴくっと動いた変化には誰も気付かない。
「 アルゼンチン最南端のセント・イベルダ島で飼われていた猫の血統を元に、寒さに強い品種としてその特徴を固定されました。 南米というと暑いイメージがありますが、その島はアルゼンチン本土よりもむしろ南極圏に近い地点に位置する寒冷地で、ほぼ一年を通じて低温が続く環境下にあります 」
「 は、はあ 」
一種独特なテンションになった岸上先生の迫力に押されて、山瀬さんが口ごもる。 俺、そこまで詳しい事情を聞かせてもらわなくてもいいんだけど …… と助けを求めるように美晴ちゃんを見やるが、猫を抱いた美晴ちゃんは『 無理です。 頑張って耐えて 』な表情で小さく首を振った。
【 11 】
「 …… 品種としての気質的な特徴は、のんびりした性格で強い闘争性や縄張り意識がなく、あまり活発ではないことです。 寒い時に人間が湯たんぽ代わりに抱きしめたり馬車に乗せたり、一緒に寝たりするといった目的もあったので、品種が成立していく過程で落ち着きのある性質が第一に重視されたのでしょう。 そういう点から見ても、ドミナントの取る行動は変わっていると言えますね。
おそらくドミナントの家出好きは品種としての性質ではなく、彼自身がこの村で暮らすうちに身に付けた個性でしょう 」
「 わかった 」復活した酒井さんが、新理論を思いつく。「 ドミナントは寒い島の猫だから、冬が来ると嬉しいんじゃないかな。 普通の猫と違い、寒いと浮かれて外に出たがるようになる …… 」
「 この猫は夏にも逃げていますよ 」と大森巡査。
「 わざわざエアコンの効いた家から夏の炎天下に出て行って、外をうろつく行動の説明がつきません 」
「 ごほん。 人も動物も植物も、生き物に大切なのは、結局のところ『 土 』じゃ。 生き物は、土を離れては生きていけん 」
種田村長が重々しく語り出した。
「 そこでじゃ、この猫の祖先が住んでおった、そのセントなんとかいう島の土を日本へ持ち帰って、早川さんのお宅の庭に敷き詰めてみればどうじゃろう。 猫にとって遠い先祖の地、すなわち故郷の雰囲気を自分の住む場所から感じ取れば、そこを離れようとはせぬようになるのではなかろうか 」
農家の種田村長らしい意見だ ─── 少し説教くさいが。
「 園芸土砂の輸入は手続きが面倒ですよ。 量にもよりますが、加熱ないし指定薬品で滅菌した旨の輸出証明書を、採取先の国であらかじめ作成しておく必要があります 」
酒井さんが、珍しくプロの口調で釘をさした。
「 すぐにというわけには行きませんが、そうですな …… アルゼンチンに渉外担当の専門家を我が社から派遣して、半月ばかり時間をいただければ …… 」
「 いや待て。 熱だの薬だの、そんな杓子定規な工業主義的処理を施した代物を、果たして故郷の土と呼べるのかね 」
「 ですが村長、法律を無視するわけには ─── 」
【 12 】
「 あのう、ちょっといいでしょうか 」
穏やかな少女の声が、集会所にふわりと広がった。
いつの間にか猫を膝の上に乗せて話の輪に入っていた美晴ちゃんは、ドミナントの背中を撫でながらゆっくり話し出した。
「 ドミナントは、お友達に会いたいから、寂しくて外に出かけてしまうんじゃないかと思うんですけど 」
「 え?」「 あ?」「 いやいや美晴ちゃん 」「 誰を 」「 そりゃさすがに 」「 ほう 」「 しかし 」「 みんな静かにせんか 」「 はあ 」
美晴ちゃんはまず、報告書ファイルを取り上げた。
「 これはさっき大森のおじさんが見せてくれた、村の皆でドミナントを探した時の報告書です。 全部で14通ありました。
ドミナントはここ一年で14回、一人でお出掛けしているという事です 」
美晴ちゃんは猫を膝からテーブルに移すと、立ち上がってホワイトボードにキュキュっと記録の日付を書き出していった。
「 ドミナントのお出かけペースは一見、とても不規則です。 見つかって早川先生のお家に戻されてから、二ヶ月近くの間も特に不満も無く良い子でいる時もあれば、初めに種田のお爺さんが思い出したような、お家に帰ってもまたすぐに、場合によっては何度も、繰り返してお出かけしてしまう事もあるからです 」
「 ふうむ 」ボードにずらっと並んだ日付を眺めて、種田村長がうなった。「 見事にバラバラじゃな 」
「 多分この不規則さは、お出かけがドミナントにとって満足できる楽しいものだったか、それとも、あまり楽しくなかったからもう一度お出かけし直そうと感じるか、その違いなんだと思うんです。 それから …… 」
村民連絡帳をめくって、
「 酒井のおじさんが作った捜索協力のお礼のお菓子セット送付リストに、わたしのお父さんとお母さんの名前が入っている事があります。 プレアデスを出動させた時のことですね。 日付は …… 」
並んだ日時のいくつかに、飛びとびで、丸印がつけられていく。
「 丸で囲んだ日を見ると、プレアデスの出動ペースはほとんど一定です。 村を離れていた五月の連休を例外とすると、プレアデスは大体、九週間に一回の割合で出動して、ドミナントを見つけています 」
何度か続けて自分の名前を聞かされたドミナントが美晴ちゃんの近くまで歩いて行って、でも別に呼ばれたわけではなさそうだと判断したのか、前転するようにコロンと寝転んだ。
「 そして、プレアデスがドミナントを見つけた後は山瀬のおじさんが言う通りに、しばらく静かな毎日が続いて、二ヶ月ほど経つとまたお出かけが始まります。
そろそろお友だちに会いたくなるから 」
美晴ちゃんはドミナントの頭全体を掌で優しく覆った。
「 そのお出かけ気分はプレアデスが出動する事になるまで短いペースで何度も続きます。 そして、プレアデスがドミナントを見つけると止まります。
つまり、プレアデスが出動してこの子を見つけてあげた時だけが、この子を満足させるんです 」
【 13 】
大人たちの視線がホワイトボードと猫の間を何度も往復した。
「 多分ドミナントは、予防注射でうちに初めてやって来たその日にプレアデスと仲良くなったんでしょう。
…… ドミナントのお友だちは、プレアデスです 」
美晴ちゃんは村民連絡帳を閉じるとドミナントの目の前に置いて、間に合わせのオモチャにした。
「 にゅう 」
紙片をまとめているリングの連なりと光沢が、ほんのわずかに猫の注意を惹いている。
「 きっとドミナントにとって、お出かけそのものは目的ではないんです。 見つかって保護される時に人からまったく逃げようとしないのは、そもそも自分が早川先生のお家から逃げ出しているという自覚が無いからではないでしょうか。 この子はただ、お友だちのプレアデスに会いたくて、プレアデスに自分を見つけてもらおうとして外に出て行くんじゃないかと思います 」
ここまで話すと美晴ちゃんは、さっき迷子ポスターをはがした所まで歩いて行くとそこの窓を一杯に開き、大きく息を吸い込んでから外に向けて叫んだ。
「 プ レ ア デ ス !!」
神社の鳥居脇で、みかげ石の駒犬に混ざって番をしていた大きくて焦げ茶色のジャーマンシェパードは、遠くから自分を呼ぶ少女の声に一瞬で反応すると広い境内を真っ直ぐに駆け抜けた。 犬はあっという間に集会所の建物まで至り、走る速さを緩める事なく 2 メートル近くもある生垣を楽々とジャンプし、開かれた窓から集会所の中へ、風のように飛び込んで来た。
プレアデスだ。
現役の警察犬として正式に県警に登録されているプレアデスは、家出人や行方不明者の捜索に何度も協力した実績があり、今までに賞状と感謝状を数えきれない位受け取っている。
プレアデスは美晴ちゃんに無駄のない動きで近付いて行って、その体の周りを警察犬の規範通り時計回りにくるっと半周してから、左脚のすぐ横に正確にお座りした。
【 14 】
「 にゃー。にゃーう。にゃーうー 」
テーブルの上で寛ぎ過ぎて、なんだか溶けかけアイスみたいになっていたドミナントが急に起き上がって、現れたプレアデスへ一生懸命に呼びかけ始めた。
「 にゃー …… 」
行っていい? と見上げるプレアデスに、美晴ちゃんは小さく「 よし 」とささやき、犬の首すじをポンと叩いて応えた。
猫のいるテーブルに向かったプレアデスの顔にドミナントが抱きついていって、喉をごろごろ言わせながら鼻を何度も突き合わせる。
ドミナントはしばらく前半身で相手の耳と額をぎゅっと押さえてから、やがて意外な優雅さで床に飛び降りると、プレアデスの脚の間をくるくる縫うみたいに歩き回って、忙しく擦り寄り遊びを始めた。
この結論に言葉を失っている一同は、のんびりじゃれ合う焦げ茶色の大きな犬とふわふわの白い猫をぽかんと眺めるばかりだ。
「 これからは、プレアデスのお散歩コースが早川先生のお家を通るように、少し道を変えてみます。
二人が毎日顔を会わせて挨拶できるようになれば、もうドミナントは家から出て行こうとは思いませんよ 」
美晴ちゃんはそう言うと、ポケットから小さなゴムボールを取り出して、二頭の遊びに自分も加わった。
【 15 / 終章 】
早川のおばあさんは大森巡査のパトカーで家に帰ってきたドミナントの無事な姿を見ると心から喜んだ。 次にドミナントの脱走の理由とその対処法を説明されて、もう猫がいなくなる心配が無いと分かると、びっくりしつつも幸せそうに笑って、もう一度喜んでくれた。
終わり
【 16 / 帰り道の会話 】
岸上動物医院のおんぼろランドクルーザーが、暗くなり始めた村道をガタゴト走りながら家路へのヘッドライトを控えめに点灯させた。
夜道は危ないから、という理由で美晴ちゃんとプレアデスも後部座席に乗せられているが、警察犬が同伴してくれる夜道と、このランクル耐久ドライブだとどちらがより危険なのか …… 判断の微妙なところだ。
「 それにしても、良く真相に気付いたなあ。 まるで、あの猫の通訳みたいだったよ。 美晴はどうしてドミナントの気持ちが分かったんだい?」
岸上先生は手放しで感心し続けていた。
「 そんなに強い理由があったわけじゃないけど …… ただ、ブラシをかけてる時、あの子はプレアデスの名前を聞くたびに少し周りを気にしたの。 誰かを探すみたいに。 それでちょっと考えてみただけ 」
美晴ちゃんは伏せをしているプレアデスが車の動きで前へと転がらないように、犬の首を抱きしめている。
「 よし、晩ごはんの時に、二人でママに今日の謎解きを話してあげよう。 きっと初めのうちはすごく不思議がって、最後にはびっくりするに違いないぞ 」
美晴ちゃんは少し思案顔になった。
「 うーん、それはどうかな …… もし今日、ママが集会所で私たちと一緒にいてくれたら、あっと言う間にドミナントのお出かけ理由が分かった気もするの。
だって、プレアデスが今までドミナントを探し当てた時に、いつも必ずその場にいて、一番近くからその様子を見てたのは …… 」
「 …… プレアデスに命令を出して、あの猫を探させていた、ママだ!」
岸上先生が美晴ちゃんの言う意味に気付いて大きな声を出した。
「 確かに、その都度二匹の仲がいい事を目の前で見ていたはずだね。 ママがいてくれてたら即解決だったなあ …… 今日はどこに出掛けてるんだっけ? 朝ごはんの時に大慌てで何か支度をしていたけど 」
「 今日は、街の駅ビルでみんなの春服を買って来るって言ってたよ 」
先生はその言葉が耳に入るや否や、プレアデスが不覚にも「 ばうっ 」と短く吠えてしまったくらいの急なブレーキで車を停めて、それからゆっくりと確認するように聞いた。
「 …… みんなの。……って、言ってたかな?」
「 うん。 お父さんのシャツとかスラックスとか …… ネクタイとか。 凄く張り切ってた 」
岸上先生は奥さんの服選びのセンスに少しの間だけ思いを馳せていたが、すぐ後ろにいるプレアデスにすら届かないくらいの小さな声で一言二言ひとりごとを呟くと、ものすごく慎重に再び車をスタートさせた。
【 16 】、 終わり
【 1 】
春の朝日を浴びる、自然豊かな山あいの派出所に申し訳なさそうな様子で早川のおばあさんが現れたのは、今月に入ってからもう三度目の事だった。 その回数を去年から今年にかけての一年間トータルで考えれば、おそらく優に十回を越えているだろう。
おばあさんの姿に気付いた大森巡査は、早くも席から立ち上がって公務車両専用のキー・ラックへと近付いていく。 この流れには、そろそろ慣れつつあった。
きっと、車が必要になるだろう ……。
「 おはようございます、早川先生。 どうかなさいましたか ? 」
「 おはよう、大森くん。 このお願いをするとあなたの仕事を増やす事になってしまうから、本当に悪いんだけど …… 」
早川のおばあさんはプロ級の腕前を持つボランティアのピアノ奏者で、辺鄙な田舎という表現がぴったり来るこの地域では、貴重な才能の持ち主だった。 大抵の音楽教師より上手だったから、周辺の小・中学校で行なわれる入学式や卒業式のピアノ伴奏には欠かせない存在だ。 人手の足りない時には音楽講師として短期間の特別授業を引き受けたりもしたので、彼女から教えを受けたことのある人は今でも子供時代の習慣のまま、早川のおばあさんを先生と呼ぶ。
この村で生まれ育ち、都会で勉強したあと故郷に戻って警察官になった大森巡査もその一人だった。
「 先生、お気遣いなく。 誰かが困っている時に頑張るのが僕の仕事ですからね。 ご用件は …… お宅のドミナントくんに関して、でしょうか?」
「 ええ、また猫が逃げたの 」
【 2 】
ドミナントは、早川のおばあさんがただ一人の家族だった旦那さんに先立たれてふさぎがちになったのを心配する昔の知り合いから贈られた、アルヘンティーノス・リグヘアードという珍しい品種の真っ白な猫だ。 アルゼンチン南部が原産の大型種で、いかにも寒冷地の猫らしくふわふわした長めの巻き毛が全身を覆っている。
子猫の時に村にやって来たドミナントは新しい家族として早川のおばあさんの日常に笑顔を取り戻し、飼い主と猫のどちらも幸せに暮らし始めた。 ところが何の問題もなく二年ほど飼われてから、最近になってそのドミナントに謎の脱走ぐせがついてしまった。
特に目当ても無さそうなのに、気まぐれにふっと外に出掛けてしまうのだ。 そして村の色々な所をつまらなそうにぶらついて、最後には飽きて、そこがどこだろうとやる気を無くしたその場に寝転がってしまう。 理由は誰にも分からなかった。
「 では早速ドミナントくんを探しに行ってきます。 大丈夫、軽く村の周りを一周すればすぐに見つかりますよ 」
大森巡査は 『 ただいま巡回中 』 と書かれた無人札を派出所の入口にぶら下げると、先生に軽く請けあってからパトカーに乗り込んだ。
丁寧な仕草でお辞儀をする早川のおばあさんを後に、車を村道に出した大森巡査は車内の無線を入れて、要領良く消防団や営林所、青年会の詰め所に連絡を取っていく。
拡声スピーカーを利用できる村内放送を使えば手っ取り早いが、初めてドミナントが逃げ出した折にそれをやって村の人々に猫探しへの協力を呼び掛けたところ、自分自身もその放送を耳にした早川のおばあさんは、保護された猫を受け取る時に、見ていて気の毒になるほど恐縮してしまった。
もう、ああいう気まずい思いをさせるわけには行かないな。 なるべく大ごとに見えないようにしないと。 なあに、猫の一匹ぐらい、すぐに捕まえられるさ ……。
大森巡査の楽観的な見通しは、残念ながら外れてしまう。
結局、猫が無事に見つかったのは午後もずっと遅くなって、陽が傾きかけた頃の事だった。
【 3 】
夕方、村の中央にある神社そばの集会所では村の役員さん全員 ─── と言っても、たったの四人だが ─── による、今日起きた猫脱走騒ぎの報告会が開かれようとしていた。 助言役として、獣医師の岸上先生が呼ばれている。
普段の顔ぶれに加えて岸上先生が五人目として参加する手はずになっているのは、議題が動物についての事だからだろう。 白衣姿の岸上先生は、小学六年生になる娘の美晴ちゃんと一緒に、二人連れで集会所への石段を上っていく。
神社の入り口でたまたま犬の散歩中だった美晴ちゃんと集会所へ向かう途中で顔を会わせた岸上先生が、話し合いの間、捕まえられた猫を世話しておいてほしいと頼んだのだ。
犬を鳥居の横に待たせて、美晴ちゃんはお父さんのために臨時の助手になった。
集会所の中で岸上親娘を出迎えたのは、四人の役員さんたちと、テーブルの上でとことんリラックスして、ごろっと寝転がっている白猫ドミナント。 その格好を見た美晴ちゃんは、つい笑顔になってしまう。 逃げた猫について村の役員さんが勢揃いして話し合うと聞かされて、なんとなく裁判や取り調べのようなものを想像していたが、絵面としては、やる気の無い猫の王様と、困り顔の家臣たちみたいだ。
岸上先生は泥や枯れ草が付いて少し汚れているドミナントの体を調べ、病気の兆候や傷がないことを確認すると、「 ブラッシングしてあげていい?」と尋ねる美晴ちゃんに静かにうなずいた。
【 4 】
「 にゃあうぅ 」ドミナントは体が調べられている間も特に嫌がることなく、少し暇そうに鳴いているだけだ。 人の手が触れて来るのに慣れているのは、早川のおばあさんが普段から猫の世話を欠かさないからだろう。 逃げたりする様子は全く窺えず、ケージやつなぎ紐を用意したりする必要はまるで無さそうだった。
「 君は、一人でお出かけしたのね 」
美晴ちゃんは優しく声をかけながら歩み寄って、猫の首の、たてがみのように長い毛の房に絡まっている草の種をつまみ取ると、折りたたみブラシを広げてドミナントの毛並みを整え始めた。
「 にゃあ 」
「 黙って外に行っちゃダメなのよ 」
「 にゃ 」
目につく大きさの草くずや泥を、体の片側を下にして寝転んでいる猫から丹念に払い落とし、次に反対側もきれいにするために猫の脚をそっと掴む。
「 うゅ 」
ドミナントはくつろぎきって立とうともせずに、無抵抗でぽふっとひっくり返された。
【 5 】
「 …… 以上が、本日ドミナントの捜索に協力して下さった村民の皆さんのリストです。 後で、私の方からお礼として菓子折でもお送りしておきましょう 」
副村長で、青年会の主事でもある酒井さんが村内連絡帳をパタンと閉じ、手際よく報告を締めくくった。 少し思い込みが強くてそそっかしいのが玉にキズだが、行動力があってなかなか頼りがいがある。
「 うむ、よろしく頼むよ、若社長。 だが …… この猫がこう何度も何度も逃げ出すようでは、一件落着と喜んでばかりもおられん …… 実に困った猫じゃ 」
話の後を引き取ったのは、この辺では一番の地主農家で、もう三十年以上も村長を務め続けている種田さんだ。 村のために一所懸命に尽くす酒井さんの働きを十分認めているが、酒井さんが大きな建設会社の社長となった今でもまだ、時々昔の先入観が先立って若造扱いしてしまうきらいがある。
「 まあまあ、そうドミナントを責めてやりなさんな。 この猫は、ほんの少し冒険心が強すぎるだけさね 」
ドミナントの頭をなでてやりながら消防団の山瀬さんが髭づらをほころばせ、わざとふざけ気味にとりなした。 あまりこの脱走騒ぎを深刻なトーンの話題にしたくはないように見える。
「 今回も無事に見つかったんだからそれでいいじゃないか、村長。 あらたまって話し合いなんかしなくても、早川先生が猫を受け取って安心してくれるんなら俺はそれでいいよ 」
細かい事にはこだわらない、タフガイ豪快おじさんの山瀬さんらしいスタンスの考え方だった。
「 次も同じように保護できるとは限らん 」
種田村長がぴしゃりと言い返した。
「 わしは猫を探す手間だけを問題にしとるわけではないわい。 いくらこの村が田舎だと言うても、道にはよその車が通る。 ツーリングバイクの行列だって通る。 外の暮らしに慣れておらんこいつが 」
そう言って指差した人差し指に、「 にゃっう 」と鳴いたドミナントが前脚フックでじゃれかかるのを受け止め、親指アッパーで応戦して猫を喜ばせてから種田村長は続けた。
「 このままではいつか、取り返しのつかん目に遭うかもしれんと心配しとるんじゃ 」
種田村長は昔、放し飼いにしていたニワトリを乱暴な運転のトラックに轢かれて亡くした事がある。 村長の責任感は別としても、この一件が他人ごととは思えないのだろう。
「 僕は猫だけでなく、早川先生ご本人の事も心配なんです 」
と、村役員の中では一番若い大森巡査が種田村長に同調した。
「 早川先生は、ドミナントがいなくなるたびに多勢の人手が猫探しのために割かれてしまうことを気に掛けておられます。 そのうち、助けを求めずに一人だけで、逃げた猫をなんとか探そうとしてしまうかもしれない。
ご高齢ですし、万一何かあってからでは間に合いません。 どうにかして今のうちにこの問題を解決しないと 」
【 6 】
「 確かに。 言われてみれば、この猫を捜すために村全体が総出に近い騒ぎになった事が何度かありましたな …… 我々だけでなく、警察犬まで使ったりもして 」
連絡帳の名簿ページを再び開きつつ酒井さんが相槌を打った。
「 ああ、岸上先生んとこに頼んでプレアデスを出動させてもらった時の事だろ。 どうしても見つかんなくて、人間だけじゃ手に負えないってんでさ。 あの犬が来てくれて本当に助かったよ。 いつの話だっけ?」
「 最初に出動をお願いしたのは、確か去年の三月頃です 」
当の岸上先生よりも早く、村民名簿のメモ欄を確認した酒井さんが山瀬さんの疑問に答える。 パラパラめくられる紙の動きが気になるのか、猫も首だけを起こして酒井さんの手元を覗き込んだ。
「 私が電話したから良く覚えてます。 他には、夏祭りの時と …… 今年に入ってからも一度ありましたね。 年が明けてしばらくした頃だったかな 」
「 秋口と冬至の近くにも一回づつあったぞ。 わしの記憶では、この一年で五回か六回は依頼させてもろうとるはずじゃ。 プレアデスがおらなんだら、どうなっておった事か 」
プレアデスとは、岸上先生の家で飼っている警察犬の名前だ。 ドミナントがいくら白くて目立つ大きな猫だといっても、自然に囲まれているこの村には森や深い草地がいろいろな所に広がっているので、地形によっては人間の目だけで逃げた猫を探し当てるのが難しい場合もあった。 そういう時、岸上家にいるプレアデスを使って猫の歩いた跡を嗅ぎ分け、その匂いをたどらせるのだ。 訓練された優秀な犬だけの事はあって、プレアデスは出動するたびに見事にドミナントを見つけ出していた。
「 でもさ、常に騒動になるってわけでもないんだよ。 この猫だって、一ヶ月や二ヶ月は家の中で行儀良くしてる時期もあっただろ。
何が理由で旅立ちモードに入るのかは解らんが、大掛かりな捜索さわぎの後は大抵おとなしくなったような気がするけどなあ。 案外こいつなりに俺たちに迷惑かけたことを、申し訳ないって思ってたりするんじゃないか 」
「 いーや、そうでもないて。 山瀬くんはあの時を忘れたか。一、二…… 」
種田村長が記憶を掘り起こしながら、少し苦々しげに指を折って数を数えていく。
「 五月の連休の時なんぞは、二週間に三回も脱走しおった 」
「 あ? あー …… あ、そういやそうだった! あの時が一番疲れたな! 大森くんは交通規制の応援で県警本部に詰めてたし、それに岸上先生の所が家族旅行中で、切り札のプレアデスが出せなかったんだ。 そうそう、今思い出したぜ 」
山瀬さんは三十秒も経たずに前言を撤回し、あっけらかんとして去年の苦労を笑い飛ばした。
【 7 】
「 しかし結局のところ、なぜドミナントはこうもちょくちょく早川先生の家から逃げ出してしまうんですかね。 さっきこの猫を見つけて届けてくれた人の話だと、こいつは道ばたの茂みにちょこんと座ったままボーっとしていて、近付いても全然逃げようとしなかったそうなんですよ。 つまり、今まで我々が保護してきた状況とまったく同じです。
家からは逃げるが、捕まえようとしても逃げない。
人を怖がるわけじゃないし、抱きかかえられるのを嫌がるわけでもないし …… 何と言うか、『 自由を求めて外に出て行った 』という感じがまるでありません 」
しきりに不思議がる大森巡査の言葉を受けて、酒井さんがハッとした表情とともに声をひそめた。
「 まっまさか、まさかとは思いますが、早川先生が動物を虐待しているという可能性はどうですか皆さん 」
「 バカバカしい、あまりに成立しがたい推測じゃ。 この猫が家に帰された時にどれだけ喜んで早川さんにじゃれついて行くか、あんたは見た事がないのかね。 ドミナントがこの世で一番好きな人間は、間違い無く飼い主の早川さんじゃよ 」
種田村長が昂然と反論して、酒井さんの仮説をあっけなく葬った。
「 念のために付け足しておきますと、ピアノも家出の原因にはなり得ません 」
大森巡査が報告書を示して情報を追加する。
「 ドミナントは子猫の頃から早川先生のピアノを聴き慣れていますから、鍵盤楽器の音を嫌がらないのです。 第一、早川先生は毎日ピアノを練習なさるので、もし音が理由ならば毎日逃げ出していなければおかしい 」
「 家にも飼い主にも理由が無いってんなら、原因は外だぜ。
せめて外に出たがるようになったキッカケが分かれば、何か手の打ちようもありそうなもんだがなあ 」
「 最初の脱走は、去年の冬から春、季節の変わり目の事ですね。 その頃ドミナントに何があったのかが問題です。 もしかすると、そこにカギがあるのかも …… 」
大森巡査が声を低めて考えをまとめようとしている。 それに釣られて、岸上先生が軽く一言を挟んだ。
「 去年の春といえば、早川さんから猫インフルエンザの予防接種を依頼されました。 ご本人が診療所までドミナントを連れて来られたので私が注射をしましたが、特に変わった様子はなかったな 」
うつむき気味に考え込んでいた大森巡査が顔を上げた。
「 岸上先生、その注射はドミナント最初の脱走事件の前でしょうか、後でしょうか 」
「 えっ? ええと …… どうだったろう …… 」
「 正確にいつの事だったか、日付は分かりますか?」
「 帰宅してカルテを確認すれば、はっきりしますが …… 。 そうだ、美晴はあれがいつ頃の事だったか覚えてるかい?」
【 8 】
テーブルの上でドミナントの長い巻き毛を丁寧にブラッシングしていた美晴ちゃんは岸上先生にそう呼びかけられると、集会所と神社の境内を隔てる生垣に面した窓の方向をしばらくの間見上げてから ───、
「 あの予防注射は去年の二月二十八日の事よ、お父さん 」と迷いなく簡潔に答えた。
「 …… 」「 ほ …… 」「 ほぅ …… 」
あまりにも具体的な日時が返って来たせいで、それを聞いた大人たちはちょっと唖然としている。
「 …… 何という記憶力だ。 一年以上も前の出来事ですぞ 」
「 驚いたな、美晴ちゃんには 」
「 俺なんて昨日食った晩めしのメニューも覚えてないぜ 」
「 わしゃこの子が神童じゃと最初から分かっとった!」
「 いや落ち着いて下さい皆さん。 美晴、それは間違いないのかな?」
美晴ちゃんは椅子から立ち上がって、さっき視線を注いでいた窓のところまで行くと、そのすぐ横に貼られていた一枚のポスターを剥がして岸上先生に手渡した。
「 去年描いたドミナントの迷子ポスターに、注射した時に撮った写真を使ったじゃない? ほらここ、デジカメ側の画像データ表示をオンにしたままレイアウトしちゃったから、日付が写真と一緒にプリントされてるの。
わたしは今、それを見たのよ 」
美晴ちゃんはタネ明かしを済ませると、毛づくろいされるのを待つ猫の元に戻った。
一同が身を乗り出してポスターをのぞき込む。
「 おっ、美晴ちゃんの言う通りだな 」
それは診察室で撮られた、来院記念の写真だった。 早川のおばあさんとドミナント、それに岸上一家と飼い犬のプレアデスが写った集合写真だ。 下側の右すみに、撮影日時を示す数字がはっきりと見えていた。
「 それで大森くん、その日付に何か意味があるのかね 」
大森巡査は問いかけてくる酒井さんに強くうなずいて、ファイル帳にまとめた報告書の一番上にある書類を抜き取って皆に示した。
「 これは、ドミナント最初の脱走事件に関する公式記録です。 昨年、三月二日の事でした。 注射があったのは二月の二十八日ですから、注射から事件までは数日しか経っていないことになります。
この二つの出来事はあまりに日時が近い。
岸上先生、猫用のインフルエンザ予防注射が原因となって、ドミナントの行動に変化が現れたとは考えられませんか?」
岸上先生は、意外な視点から提起された自分の専門分野についての質問に不意を突かれて、思わず背筋を伸ばした。
【 9 】
「 えっ、予防注射が家出の理由だと言うのかい? うーん。…… いや、外に出たがるようになるなんて、そんな副作用の症例は聞いたことがないなあ。
注射針が刺さる時の痛みの経験が悪い印象になって残った …… という程度の事だったらあり得るけど、その場合はむしろ外に出るのが嫌になると思うし。…… まあ、注射を打った私のことが嫌いになったというなら分かるが。
どうだね、ドミナント 」
岸上先生が握手をするように腕を伸ばすと、猫は「 にゅっあ 」という返答とともに先生の手首にしがみつき、消毒液の匂いが残る白衣の袖紐を興味津々の様子で甘噛みした。
「 注射は見当違いですか …… では考え方を180 度変えて、しつけの方面から対処する、という手はどうでしょう。 岸上先生、先生の奥様に、ドミナントが家から勝手に出なくなるように訓練していただく事は可能ですか 」
大森巡査が食い下がった。
岸上先生の妻、つまり美晴ちゃんの母親の岸上陽子さんは、プレアデスを始めとして何頭もの犬たちを訓練し、犬が飼い主の言うことを聞くようにしつけている警察犬の訓練士だ。 プレアデスに正しい方法で高度な命令を伝え、間違いの許されない犯罪捜査の現場で、しっかり仕事をさせる事ができる唯一の人物でもあった。
立派に任務を果たす犬の姿を仕事柄かなり多く目にしている大森巡査は、そのしつけの手法をドミナントの素行にも応用できないものかと考えたようだ。
「 猫を訓練? それは少し無茶だ。 なんと言っても、まるで違う動物だからね。 食事やトイレのしつけ位だったらともかく ………… いや待てよ、駄目だと決めつけるのは早いかな。 一定のエリアから出ないようにするだけの限定的な条件反射なら、もしかして可能かも …… 」
岸上先生は突拍子もないアイデアに面食らいながらも、腕組みをして検討し始める。
「 おおっそうだ。 外に出さないという目的を突き詰めるなら、絶対に脱出不可能な壁を早川先生のお宅の周りに建設して、国境みたいにしてしまうというのはどうですか。 費用なら私が 」
酒井さんの極端過ぎる意見が全員による文字にしにくい厳しさを帯びた非難で総攻撃されて、ようやくそれが一段落すると、真っ先に息を整えた山瀬さんが話題を切り換えた。
【 10 】
「 こいつは雄猫だよな 」
自分の顎ひげを引っ張りつつ、誰にともなく問いかける。
「 そろそろ、あー、あれだ、お嫁さんが欲しくなってきた …… なんてのが理由でした、って事はないかな 」
ガラにもなくマイルドな表現を試みるのは、美晴ちゃんに気を使ったのかもしれない。
「 発情期である可能性はゼロですね 」
岸上先生は特に娘の存在を気にすることなく、曖昧さを交えずに獣医としてきっぱり断言した。 どうやらこの種の話題でも気にしない親子のようだ。
「 この品種に限らず、大型の猫は体が育ちきるまで時間がかかります。 普通サイズの猫に比べると今でも充分大きく見えますが、ドミナントはまだまだ成長期の子供ですよ 」
「 そうなのか …… じゃあ、こういう行動が、初めからこの品種の猫に特有なものだとしたらどうだい? 元々放浪しやすい傾向がある、みたいなさ。
要するに、これはそういうもんなんだと男らしく、全てをドーンと受け止めてやるんだよ。
岸上先生、ドミナントは正確に言うとどんな種類の猫なんですか。 俺、前にチラッと南米の猫だって聞いた事があるんだけど 」
「 アルヘンティーノス・リグヘアード・キャットは、二十世紀の初頭に品種改良で生み出された、まだ歴史の新しい猫です 」
こういう話が大好きな岸上先生は、講義をするようにてきぱきと答え始めた。 手入れを終えてすっかり綺麗になったドミナントと遊ぼうとしている美晴ちゃんの眉が、ほんの少しぴくっと動いた変化には誰も気付かない。
「 アルゼンチン最南端のセント・イベルダ島で飼われていた猫の血統を元に、寒さに強い品種としてその特徴を固定されました。 南米というと暑いイメージがありますが、その島はアルゼンチン本土よりもむしろ南極圏に近い地点に位置する寒冷地で、ほぼ一年を通じて低温が続く環境下にあります 」
「 は、はあ 」
一種独特なテンションになった岸上先生の迫力に押されて、山瀬さんが口ごもる。 俺、そこまで詳しい事情を聞かせてもらわなくてもいいんだけど …… と助けを求めるように美晴ちゃんを見やるが、猫を抱いた美晴ちゃんは『 無理です。 頑張って耐えて 』な表情で小さく首を振った。
【 11 】
「 …… 品種としての気質的な特徴は、のんびりした性格で強い闘争性や縄張り意識がなく、あまり活発ではないことです。 寒い時に人間が湯たんぽ代わりに抱きしめたり馬車に乗せたり、一緒に寝たりするといった目的もあったので、品種が成立していく過程で落ち着きのある性質が第一に重視されたのでしょう。 そういう点から見ても、ドミナントの取る行動は変わっていると言えますね。
おそらくドミナントの家出好きは品種としての性質ではなく、彼自身がこの村で暮らすうちに身に付けた個性でしょう 」
「 わかった 」復活した酒井さんが、新理論を思いつく。「 ドミナントは寒い島の猫だから、冬が来ると嬉しいんじゃないかな。 普通の猫と違い、寒いと浮かれて外に出たがるようになる …… 」
「 この猫は夏にも逃げていますよ 」と大森巡査。
「 わざわざエアコンの効いた家から夏の炎天下に出て行って、外をうろつく行動の説明がつきません 」
「 ごほん。 人も動物も植物も、生き物に大切なのは、結局のところ『 土 』じゃ。 生き物は、土を離れては生きていけん 」
種田村長が重々しく語り出した。
「 そこでじゃ、この猫の祖先が住んでおった、そのセントなんとかいう島の土を日本へ持ち帰って、早川さんのお宅の庭に敷き詰めてみればどうじゃろう。 猫にとって遠い先祖の地、すなわち故郷の雰囲気を自分の住む場所から感じ取れば、そこを離れようとはせぬようになるのではなかろうか 」
農家の種田村長らしい意見だ ─── 少し説教くさいが。
「 園芸土砂の輸入は手続きが面倒ですよ。 量にもよりますが、加熱ないし指定薬品で滅菌した旨の輸出証明書を、採取先の国であらかじめ作成しておく必要があります 」
酒井さんが、珍しくプロの口調で釘をさした。
「 すぐにというわけには行きませんが、そうですな …… アルゼンチンに渉外担当の専門家を我が社から派遣して、半月ばかり時間をいただければ …… 」
「 いや待て。 熱だの薬だの、そんな杓子定規な工業主義的処理を施した代物を、果たして故郷の土と呼べるのかね 」
「 ですが村長、法律を無視するわけには ─── 」
【 12 】
「 あのう、ちょっといいでしょうか 」
穏やかな少女の声が、集会所にふわりと広がった。
いつの間にか猫を膝の上に乗せて話の輪に入っていた美晴ちゃんは、ドミナントの背中を撫でながらゆっくり話し出した。
「 ドミナントは、お友達に会いたいから、寂しくて外に出かけてしまうんじゃないかと思うんですけど 」
「 え?」「 あ?」「 いやいや美晴ちゃん 」「 誰を 」「 そりゃさすがに 」「 ほう 」「 しかし 」「 みんな静かにせんか 」「 はあ 」
美晴ちゃんはまず、報告書ファイルを取り上げた。
「 これはさっき大森のおじさんが見せてくれた、村の皆でドミナントを探した時の報告書です。 全部で14通ありました。
ドミナントはここ一年で14回、一人でお出掛けしているという事です 」
美晴ちゃんは猫を膝からテーブルに移すと、立ち上がってホワイトボードにキュキュっと記録の日付を書き出していった。
「 ドミナントのお出かけペースは一見、とても不規則です。 見つかって早川先生のお家に戻されてから、二ヶ月近くの間も特に不満も無く良い子でいる時もあれば、初めに種田のお爺さんが思い出したような、お家に帰ってもまたすぐに、場合によっては何度も、繰り返してお出かけしてしまう事もあるからです 」
「 ふうむ 」ボードにずらっと並んだ日付を眺めて、種田村長がうなった。「 見事にバラバラじゃな 」
「 多分この不規則さは、お出かけがドミナントにとって満足できる楽しいものだったか、それとも、あまり楽しくなかったからもう一度お出かけし直そうと感じるか、その違いなんだと思うんです。 それから …… 」
村民連絡帳をめくって、
「 酒井のおじさんが作った捜索協力のお礼のお菓子セット送付リストに、わたしのお父さんとお母さんの名前が入っている事があります。 プレアデスを出動させた時のことですね。 日付は …… 」
並んだ日時のいくつかに、飛びとびで、丸印がつけられていく。
「 丸で囲んだ日を見ると、プレアデスの出動ペースはほとんど一定です。 村を離れていた五月の連休を例外とすると、プレアデスは大体、九週間に一回の割合で出動して、ドミナントを見つけています 」
何度か続けて自分の名前を聞かされたドミナントが美晴ちゃんの近くまで歩いて行って、でも別に呼ばれたわけではなさそうだと判断したのか、前転するようにコロンと寝転んだ。
「 そして、プレアデスがドミナントを見つけた後は山瀬のおじさんが言う通りに、しばらく静かな毎日が続いて、二ヶ月ほど経つとまたお出かけが始まります。
そろそろお友だちに会いたくなるから 」
美晴ちゃんはドミナントの頭全体を掌で優しく覆った。
「 そのお出かけ気分はプレアデスが出動する事になるまで短いペースで何度も続きます。 そして、プレアデスがドミナントを見つけると止まります。
つまり、プレアデスが出動してこの子を見つけてあげた時だけが、この子を満足させるんです 」
【 13 】
大人たちの視線がホワイトボードと猫の間を何度も往復した。
「 多分ドミナントは、予防注射でうちに初めてやって来たその日にプレアデスと仲良くなったんでしょう。
…… ドミナントのお友だちは、プレアデスです 」
美晴ちゃんは村民連絡帳を閉じるとドミナントの目の前に置いて、間に合わせのオモチャにした。
「 にゅう 」
紙片をまとめているリングの連なりと光沢が、ほんのわずかに猫の注意を惹いている。
「 きっとドミナントにとって、お出かけそのものは目的ではないんです。 見つかって保護される時に人からまったく逃げようとしないのは、そもそも自分が早川先生のお家から逃げ出しているという自覚が無いからではないでしょうか。 この子はただ、お友だちのプレアデスに会いたくて、プレアデスに自分を見つけてもらおうとして外に出て行くんじゃないかと思います 」
ここまで話すと美晴ちゃんは、さっき迷子ポスターをはがした所まで歩いて行くとそこの窓を一杯に開き、大きく息を吸い込んでから外に向けて叫んだ。
「 プ レ ア デ ス !!」
神社の鳥居脇で、みかげ石の駒犬に混ざって番をしていた大きくて焦げ茶色のジャーマンシェパードは、遠くから自分を呼ぶ少女の声に一瞬で反応すると広い境内を真っ直ぐに駆け抜けた。 犬はあっという間に集会所の建物まで至り、走る速さを緩める事なく 2 メートル近くもある生垣を楽々とジャンプし、開かれた窓から集会所の中へ、風のように飛び込んで来た。
プレアデスだ。
現役の警察犬として正式に県警に登録されているプレアデスは、家出人や行方不明者の捜索に何度も協力した実績があり、今までに賞状と感謝状を数えきれない位受け取っている。
プレアデスは美晴ちゃんに無駄のない動きで近付いて行って、その体の周りを警察犬の規範通り時計回りにくるっと半周してから、左脚のすぐ横に正確にお座りした。
【 14 】
「 にゃー。にゃーう。にゃーうー 」
テーブルの上で寛ぎ過ぎて、なんだか溶けかけアイスみたいになっていたドミナントが急に起き上がって、現れたプレアデスへ一生懸命に呼びかけ始めた。
「 にゃー …… 」
行っていい? と見上げるプレアデスに、美晴ちゃんは小さく「 よし 」とささやき、犬の首すじをポンと叩いて応えた。
猫のいるテーブルに向かったプレアデスの顔にドミナントが抱きついていって、喉をごろごろ言わせながら鼻を何度も突き合わせる。
ドミナントはしばらく前半身で相手の耳と額をぎゅっと押さえてから、やがて意外な優雅さで床に飛び降りると、プレアデスの脚の間をくるくる縫うみたいに歩き回って、忙しく擦り寄り遊びを始めた。
この結論に言葉を失っている一同は、のんびりじゃれ合う焦げ茶色の大きな犬とふわふわの白い猫をぽかんと眺めるばかりだ。
「 これからは、プレアデスのお散歩コースが早川先生のお家を通るように、少し道を変えてみます。
二人が毎日顔を会わせて挨拶できるようになれば、もうドミナントは家から出て行こうとは思いませんよ 」
美晴ちゃんはそう言うと、ポケットから小さなゴムボールを取り出して、二頭の遊びに自分も加わった。
【 15 / 終章 】
早川のおばあさんは大森巡査のパトカーで家に帰ってきたドミナントの無事な姿を見ると心から喜んだ。 次にドミナントの脱走の理由とその対処法を説明されて、もう猫がいなくなる心配が無いと分かると、びっくりしつつも幸せそうに笑って、もう一度喜んでくれた。
終わり
【 16 / 帰り道の会話 】
岸上動物医院のおんぼろランドクルーザーが、暗くなり始めた村道をガタゴト走りながら家路へのヘッドライトを控えめに点灯させた。
夜道は危ないから、という理由で美晴ちゃんとプレアデスも後部座席に乗せられているが、警察犬が同伴してくれる夜道と、このランクル耐久ドライブだとどちらがより危険なのか …… 判断の微妙なところだ。
「 それにしても、良く真相に気付いたなあ。 まるで、あの猫の通訳みたいだったよ。 美晴はどうしてドミナントの気持ちが分かったんだい?」
岸上先生は手放しで感心し続けていた。
「 そんなに強い理由があったわけじゃないけど …… ただ、ブラシをかけてる時、あの子はプレアデスの名前を聞くたびに少し周りを気にしたの。 誰かを探すみたいに。 それでちょっと考えてみただけ 」
美晴ちゃんは伏せをしているプレアデスが車の動きで前へと転がらないように、犬の首を抱きしめている。
「 よし、晩ごはんの時に、二人でママに今日の謎解きを話してあげよう。 きっと初めのうちはすごく不思議がって、最後にはびっくりするに違いないぞ 」
美晴ちゃんは少し思案顔になった。
「 うーん、それはどうかな …… もし今日、ママが集会所で私たちと一緒にいてくれたら、あっと言う間にドミナントのお出かけ理由が分かった気もするの。
だって、プレアデスが今までドミナントを探し当てた時に、いつも必ずその場にいて、一番近くからその様子を見てたのは …… 」
「 …… プレアデスに命令を出して、あの猫を探させていた、ママだ!」
岸上先生が美晴ちゃんの言う意味に気付いて大きな声を出した。
「 確かに、その都度二匹の仲がいい事を目の前で見ていたはずだね。 ママがいてくれてたら即解決だったなあ …… 今日はどこに出掛けてるんだっけ? 朝ごはんの時に大慌てで何か支度をしていたけど 」
「 今日は、街の駅ビルでみんなの春服を買って来るって言ってたよ 」
先生はその言葉が耳に入るや否や、プレアデスが不覚にも「 ばうっ 」と短く吠えてしまったくらいの急なブレーキで車を停めて、それからゆっくりと確認するように聞いた。
「 …… みんなの。……って、言ってたかな?」
「 うん。 お父さんのシャツとかスラックスとか …… ネクタイとか。 凄く張り切ってた 」
岸上先生は奥さんの服選びのセンスに少しの間だけ思いを馳せていたが、すぐ後ろにいるプレアデスにすら届かないくらいの小さな声で一言二言ひとりごとを呟くと、ものすごく慎重に再び車をスタートさせた。
【 16 】、 終わり
後書き
推理部分が成立しているのかどうか、まったく自信がありません。
改善案などありましたら、どうかアドバイスをお願いします。
作者:a10 ワーディルト |
投稿日:2020/02/07 03:05 更新日:2020/02/07 03:05 『シーンズ ・ ライク ・ ディーズ 』の著作権は、すべて作者 a10 ワーディルト様に属します。 |
前の話 | 目次 |
読了ボタン