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作品ID:2304
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鏖都アギュギテムの紅昏

小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中

前書き・紹介

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悦楽

前の話 目次

 餓天法師らの手当ては迅速かつ無駄がなかった。酒精で清めた手袋をはめて臓物を腹腔の中に押し込み、縫い合わせ、呪い除けのご利益がある魚腥草を刻んだものと一緒に包帯で固定。その他無数の外傷も、次々と処置されていった。
 典礼以外で人が死ぬことを極端に厭う餓天宗の、象徴めいた場面だった。
「容体は」
 刈舞が努めて感情を抑えながら問う。
「強靭な〈魄〉ゆえに九割九分持ち直すであろう。明日の典礼までに回復し切るかは神(ヘビ)のみぞ知る」
「そうですか……」
 旋療院を辞する。
 そこに、小さな影がいた。
「維沙どの」
 それ以降どう声をかけたものか、悩む。
 男でも女でもない子供は、隻眼でじっとこちらを見つめながら、歩み寄ってくる。
「説明、してください」
 気圧される。
「狼淵は、どうなったんですか」
 単眼鏡(モノクル)を外し、布で拭う。息をつき、装着し、維沙を見る。
「私にとってもこれは予想外の事態です。何が起きているのか正確に述べることは不可能です。前例のないことですしね」
「狼淵は、生きているの」
「なんとも言えません。しかし、私の主観的な意見を言えば、あれは狼淵どのにしか見えませんでした」
 維沙は、じっとこちらを見上げてくる。
「……[どっちが]、[狼淵なの]」
 維沙は、つい先ほどまで狼淵・ザラガの遺体の溶鋼葬に参列していた。
 そのとき葬られた〈魄(からだ)〉と、いま餓天法師らに治療を受けている〈魂(せいしん)〉は、どっちが狼淵なのか。
「感覚としては、もちろん〈魂〉こそが狼淵どのの本質であると思えます。しかし、それは果たして公正な視点なのか? 精神によって肉体が動いているのだから精神の方が優位にある、というのは一面的な見方です。逆に肉体によって精神が規定されることもある。生まれつき力が強いこと、目が良いこと、臓器の働きが強靭であること、あるいは見目が美しいこと――それらの事実が精神の在りように影響を与えるであろうことは誰にでもわかる理屈です。肉体が精神を規定しているという面もある。であるならば、刃蘭・アイオリアの肉体に狼淵・ザラガの精神を有するあの存在を、果たして何と定義づけるべきなのか、私には答えられない」
「……ありがとう」
 その反応に、刈舞は首をかしげる。
「僕を子ども扱いして気休めじみたことを言って誤魔化されたりしたらどうしようと思ってたから」
「もはやそのような気持ちはありません。私は……何にも寄りかかることなく立っていられるような人間ではないことを思い知りました。維沙どの、あなたを蔑ろにするつもりはありません」
「……部下の、人達は」
「最初からいませんよ、部下など。私は、ただの囚人です。疎まれ、裏切られ、陥れられた、愚かな小役人です。カナニアス卿の計画がなくば、私はここまで毅然としてはいられなかったでしょう。自分はただの囚人ではないのだと、つい先ほどまで必死に言い聞かせてきましたが、もはやそれも終わりです」
 刈舞は、空を見上げた。気を緩めれば歪みかける顔を見られまいと。
 上向いた視線の先に――

 ――何か、妙なものがいた。

「……?」
 アギュギテムは限られた居住面積ゆえに地価が高騰しており、建築は上へと伸びてゆく傾向にある。刈舞の視線の先には、積層構造の雑居長屋(インスラ)が聳え立っていた。
 その、屋上。
 二つの人影が、あった。
 片方は長身。片方は矮躯。
「え……?」
 思わず、間の抜けた声が出てしまった。
 明らかに、あんな場所にいるはずのない二人だったから。
「どうかしましたか?」
 すぐ傍らで、維沙が尋ねてくる。
 しかし、刈舞は答えられない。
 なぜなら、[視線の先にも維沙がいたから]。
 他人の空似では断じてない。険しい目つきで、目の前にいる長身の人物を睨みつけている。
 だが――
 何かが、違うような気がした。恰好も、顔の造形も、髪の色も、髪型も、すべて維沙と同じにもかかわらず、何かが。
 だが、その違和感が何なのかを自覚する前に、維沙に似た人物が対峙している相手に目を奪われる。
 夜翅・アウスフォレス。
 墓標のごとき長身を、薄汚れた包帯で包み込んだ男。
 本名も、罪状も、目的も、何もかも不明な特異点。
 いつも外れの霊廟でうずくまっているだけの怪人が、なぜ、何の用で雑居長屋(インスラ)の屋上にいるのか。
 刈舞の視線の先を辿ったのか、すぐ傍らで息を呑む気配がした。
「な……あれは……え……?」
 即座に駆け出す。
「維沙どの!」
 刈舞も後を追う。
 いったい何が起こっているのか、わけがわからなかった。

 ●

 屋上に出た瞬間、そこには様々な意味においてあり得ない光景が広がっていた。
 甲高い裂帛と、陽光を透過する拷問具の煌めき、そして火花。
 夜翅・アウスフォレスと、維沙・ライビシュナッハが戦っていた。
 刈舞は瞠目する。
 夜翅が卓越した武威を振るうのはわかる。拷問具に選ばれし八鱗覇濤参加者だ。どのような技を身に着けたのかは不明だが、尋常の域ではないだろうということは想像がつく。
 だが――維沙が夜翅と真っ向から拮抗しているのはどういうわけか。
「いったい何が……」
 横の維沙が茫然と呟く。
 二振りの拷問具が乱舞する。
 白き直剣と、黒き野太刀。
 閃き、噛み合い、離れ、また噛み合う。
 ――白き直剣だと?
 それは追憶剣カリテスと忘却剣オブリヴィオ以外にあり得ない。
 ――そんな馬鹿な。
 白の二振りはどちらも狼淵の裡にあるはず。
 〈魄(にくたい)〉が入れ替わったところで、〈魂(せいしん)〉が元のままである以上、それ以外の結果はありえない。
 だが、では、なんなのか。
 なぜこの維沙に酷似した子供は白き拷問具を振るっているのか。
 夜翅の黒き外套が翻り、元のように垂れ下がるまでに無数の攻防が交わされる。一見すると静かで地味とすら思える丁々発止だったが、実際には成されなかった動作も含めると、まさしく驚天動地とするほかない手数が交わされていた。
 じゃんけんが、実際の殺傷能力ではなく、抑止効果によって戦況を支配しているのだ。
 剣劇の合間合間になされるわずかな腕の動き。それらは実際に出されることのなかったじゃんけんの手だ。じゃんけんの予備動作が斬撃を抑止し、斬撃がじゃんけんを抑止する。
 結果として、まばらに刃が交わされる他は、目に見える攻撃のない戦いに終始している。だが、刈舞には、わかる。途轍もない濃度の、殺意の交換が、見える。複雑怪奇な機序の結果として顕れた、つばを飲み込むこともはばかられるほどの緊張を強いてくる、それは芸術であった。
 だが――均衡はいつかは崩れる。
 維沙に似た子供は、いったいあの幼さでどうやって会得したのかまるで想像もつかない技巧をもって黒き墓標の男と殺意を交わし合っていたが――しかし根本的な体格差は残酷なまでに優劣を浮き彫りにする。
 ひとつ撃ち合うたびに、維沙は大きくよろけ、次の手の選択肢を狭めてゆく。技術的にはできていたはずの牽制・返し・強襲ができなくなってゆく。
 体格差を無視して即死せしめるじゃんけんも、「視界外からの不意打ちができない」という弱点がある以上、劇的に状況をひっくり返しうる一手にはならない。少なくとも、達人同士の死合いでは。
 ――どうする!?
 果たしてこれは介入し、子供を助けるべきなのか? そもそもこの童が何者で、なぜ維沙・ライビシュナッハと瓜二つの顔を持ち、どういう経緯で夜翅・アウスフォレスと殺し合っているのか。なにもかもわからないのだ。
 ……そこで、刈舞の脳裏に思考が閃いた。
 さきほど覚えた違和感の正体が、ようやく理解できた。
 隣で茫然としている維沙の体つきを見る。
 [わずかに骨格が違うのだ]。
 性差が顕著になる前の年代ゆえに、司法剣死官ともあろうものが今の今まで気づかなかった。
 ――そうだ、あれはどう見ても童女の骨格だ。
 性別を持たない隣の維沙とは、若干違う。微妙な差異であったが、職務上死体は見慣れているのでどうにか気づけた。
 であるならば――
 [彼女は]、[維來・ライビシュナッハではないのか]?
 維沙の、死別した、妹。
 それ以外に考えられないのでは?
 ちらと、隣の維沙に目をやる。
 しかし、その顔には「自分とそっくりな人間に出くわした驚き」以外の表情は浮かんでいなかった。
 死に別れたはずの妹が目の前にいるという反応ではない。
 刈舞はわずかにかぶりを振って混乱する自分を切り替える。
「もし! そこのご両人!」
 声をかけた時には、すでに黒き野太刀が夜翅の体重ごと振り下ろされ、受けた童女を片膝立ちにさせていた。キリキリと刃が噛み合う軋みが上がり、屍のごとき男は無慈悲に力を込め続けている。
 二人が刈舞の呼びかけに反応する様子はない。
 制式執行服を翻し、刈舞は悠然と歩みを進める。わざと乾いた靴音を立てながら。
「介入する筋合いでもないのは重々承知。されどそれはあまりに無法。刃を引いてはいただけませんか、夜翅・アウスフォレスどの」
 夜翅の反応はない。
「もし刃を引いてもらえないのでしたら、力づくで、ということになりますが」
「駄目だッ! 来ては!!」
 反応したのは維沙に似た童女の方だった。
 その口調があまりに強い調子だったので、思わず鼻白む。今まさに自分が切り殺される瀬戸際で、部外者であるこちらの心配を真っ先にするなど、どう考えても尋常ではない。
「そういうわけにはいきません。立会人なき決闘など法的にも看過しえない」
 なにより一人の大人として、子供が殺されようとしているときに見ているだけなどという恥ずべき態度は取れなかった。
 鋭い呼気とともに踏み込む。手の中に虚構鎌フォルトゥムの柄が凝固する。
 ――戦鎌という武具は、根本的にはつるはしと同様の使い方を想定している。
 歪曲した切っ先を質量に乗せて撃ち込み、もって相手の防御を貫通する。そのような武具である以上、敵手に許される対処は回避のみとなる。仮に死(チョキ)をもって刈舞を殺したとしても、加速のついた鎌の切っ先は止まらない。ゆえに回避しかない。
 が――
 虚構鎌が、止まった。
「……ッ!」
 切っ先と、切っ先が、正面からぶつかり合っている。黒き拷問具が、虚構鎌フォルトゥムの軌道を寸分たがわず捉え、ひとつの曲線を描くように一体化している。長大な刀身そのものを分厚い装甲として、防御不可能なはずの一撃を受け止めたのだ。
 柄を掴まれて止められることぐらいは予測していたが、よもやの対処に返ってきた反動への備えが遅れ、たたらを踏む刈舞。
 そこへ、童女の裂帛が耳を劈いた。
 大気が弾けるような音を立て、ついで衣擦れと肉が肉を打つ音が連続する。童女が繰り出すチョキを、夜翅が腕で払い落としている。あたかも精緻なからくり仕掛けのごとく、無数の殺意が交わされ、いなされ、そらされる。
 呼吸の合間を見切って、夜翅が黒刀を一閃。視界が闇色に斬割される。
 その瞬間にはもう刈舞は必殺の仕込みを終えていた。
 虚構鎌フォルトゥムの権能。「嘘を信じ込ませる」。
 声をかけた時点で、すでに効果は発動していた。
 嘘をつく対象は、人物に限らない。相手が器物であろうとも、一定の基準で判断を行う存在であるならば、虚構鎌の力は及ぶのだ。
 ――[融解せよ]。
 ばしゃり、と。黒き粘液と化し、夜翅の肉体へ戻ってゆく。己こそが黒き野太刀の宿主であるという嘘を吹き込み、強制的に液状化せしめる。
 おかげで、両断される他なかった童女は一命を取り留めた。
 だが、刈舞の胸に余裕はない。
 言うまでもなく拷問具の強制融解が最も効果的なのは初撃だ。不意打ちに仕留められる見込みがあった最初の一回を、童女を救うために使い潰してしまった。二度と同じ手は通用するまい。
 背筋を走る戦慄に駆られ、左手を手袋から引き抜きざま死(チョキ)を繰り出す。法の執行者として、近代拳殺技は徹底的に叩き込まれていた。その駆拳は、そこらの達人に反応できる域にはない。
 だが――
 夜翅は、それに対して何の反応もしなかった。身じろぎひとつしなかった。
 ただひたすらに、前を――童女を見ている。粘度を帯びた暗黒の眼光が、刈舞には理解不能な感情を湛えて、ただ童女にだけ向けられている。
 そのまなざしの質量に、思わず一歩引く。〈魔拳〉朱龍・ケーリュシアが維沙に向けた感情とも似ていない、それは夜の海底に淀む澱を思わせる、欲望とは完全にかけ離れた執着であった。
 これまでの人生で相対したどのような人物と比べても、別格の異質がそこにいた。
 野太刀を携えた人間、であるはずなのだが、なぜかそうは見えなかった。視界に入っているのに、「それ」が存在していることを認識できなかった者が、不意に事実に気づいたときに味わう戦慄のような気持が、刈舞の胸を満たしていた。
 むしろどうして今まで[これ]を人間だと思っていたのかがわからなかった。
 だってそうだろう。こんな風に立つ人間はいない。こんな風に動く人間はいない。夜翅・アウスフォレスの佇まいには、周囲の環境との相互関係が存在しない。
 最果ての地に空から降り来たり、深々と突き立ってどうにも動かせなくなった、材質も意味も不明な黒き墓標。
 しいて「それ」を表現しようとしたら、そのような言い回しにならざるを得ない。
 この世界すべてを合わせたのと同じだけの質量が、夜翅の中に眠っているような気がした。
 足が、竦む。満足に身動きのできない水中で、想像を絶する巨大生物と出くわした時にも似た戦慄。息が詰まる。毛穴が開く。脂汗が浮かぶ。だが――それら内心の恐慌が、行動の障害になることはなかった。ぬるい鍛え方はしていないし、潜った修羅場の数が違うのだ。
 とはいえ、本当にこれをどうにかすることなどできるのか。[これをどうにかする意味などあるのか]。不合理な疑問が後から後から湧き出てきて止まらない。
「――ないよ」
 童女が、押し殺したような声で言う。
「なに――」
「[これ]をどうにかできるのは僕だけだ。お願いだから下がってください」
 初めて童女の口調をある程度長く聞き――やはりこの子供は維沙なのではないのかと論理破綻した錯覚をする。
 口調に覚えがあり過ぎるのだ。だが――してみると――つまりどういうことか? その益体もない思考は、流体のごとく踏み込んできた夜翅の黒影によって中断された。
 混沌とした粘液を曳くかのごとき太刀筋が童女の首を狙い、対処を阻害するために死(チョキ)をほのめかす。じゃんけんを見せ札にして斬撃の回避が不可能な体勢に追い込む。基礎にして奥義の戦技。
 素直な立ち回りだ。……[素直すぎる]。
 動作ひとつひとつの精度は畏怖と戦慄を呼び覚ます神域の冴えだが、それらを運用する戦略に、人域を踏破せし者特有の「異形の思想性」がない。
 協力――とは言えないまでも、二人掛かりで夜翅に攻めかかり、しかして手傷すら与えられていないのだから、明らかに夜翅の実力は刈舞を上回る。薄氷の上を進むような攻防を渡っているはずなのに、「なにをしてくるかわからない」怖さだけは感じない。
 どこか――[借り物の武器を振るっているような]。途轍もなく鋭利で、致命的な武器を無数に持っているが、それらに対して何の思い入れもなく、どれひとつとして習熟し、極めつくそうという気概がない。
 そのような印象が、夜翅の武術からは漂ってくる。
 とはいえ、対応能力の高さは素直に人後を絶する。盤外戦術なしでこの牙城を崩すことは不可能だろう。
 まったく予期しない遭遇であったため、刈舞にはこれといって備えは存在していなかった。頬に、汗が浮き出る。
 ――その、瞬間。
 夜翅の長身が、びくりと痙攣した。
「え……?」
 暗黒の眼球が真円に見開かれ――次の瞬間、夜翅の右肩から左腰にかけて一本の線が走り、そこから黒い粘液が迸り出た。
 ずるり、と。
 斜めに裁断された上半身にズレが生じ、やがて崩落するように頽れ、倒れ伏した。
 不気味に脈動する黒き粘液が、切断面からひり出されるように流出する。血飛沫のように吹き上がったりはしない。あまりの不可解さとおぞましさに、刈舞は一歩下がった。
 これは、なんだ。そして今何が起きた。
 こつ、こつ、と足音が遠ざかってゆく。
 見ると、着流しに羽織をかけた小柄な老爺が、悠然と歩み去ってゆくところであった。その足取りには迷いも淀みもない。
 チン、と涼やかな鍔鳴り。
「ふぅむ、思わず体が動いてしまいましたが、これはどうしたものでございましょうかね。二回戦の相手を図らずもここで斬ってしまったことになるのでございますが……司法剣死官どの、この場合、法的にはどのような扱いになるので?」
 一回戦で罪憐・ルシリウスを下し、狼淵・ザラガに〈深淵〉の何たるかを叩き込んだ老剣鬼が、そこにはいた。
「そ、それは……いや、そんなことよりも、いったいいつのまに居たのですか、螺導・ソーンドリスどの!」
「近くに殺意と緊張を強く発する〈魂〉の匂いを感じ取ったので、戯れに見物に来てみれば、珍妙な事態になっておりましたので、まぁさして関りもなきことではありますが、いらぬおせっかいをさせていただきました」
 〈魂〉の、匂い。
 狼淵・ザラガ伝いに、深淵接続者なるものの存在を刈舞はすでに知っていた。ゆえに、この発言の意味が理解できなかったわけではないが――
 ……どうやって?
 もちろん、この老剣鬼の剣腕が神域の高みにあることは重々承知しているが、それでも夜翅・アウスフォレスを尋常な剣技で一太刀のもとに両断するなど、いくらなんでも不可能ごとにしか思えない。刈舞は己の見立てに対しては自信を持っていた。夜翅・アウスフォレスの実力は、いま手合わせした範囲においても十分に八鱗覇濤出場者の平均を超える勇者の中の勇者である。螺導と比べても、そう大きく劣るものではなかった。それが、蓋を開けてみればこの結果である。
「さて、それにしても面妖な死にざま。明らかに尋常な人間の類ではございませんな」
 螺導の言葉に従って、夜翅の両断された死体を見る。
 鮮血など一滴も流れ出ず、黒き粘液に塗れている。常人にあり得ない死に方なのは間違いない。
 そばにしゃがみ込み、子細に観察しながら匂いを嗅ぐ。
 ……不可解なほどに、何の悪臭も漂ってこなかった。およそ生きものの死骸に相応しい有様ではない。
 懐から硝子の小瓶と鉄の鑷子を取り出し、粘液を採取しようとする。
 ほんのわずかな量をすくい上げたにも関わらず、どっしりとした重さを指先に感じた。
 ――これは、なんだ……?
 間近で見る。匂いはやはりまったくない。そして、黒い液体の中に金色の何かが蠢いていた。墨汁の海の中を小金の魚が泳いでいるかのように、浮き沈みを繰り返し、静止するということがない。
「……拷問具、そのものですな」
 後ろから、老爺の声。刈舞の主観を簒奪して、同じものを見ていたか。
「そんな馬鹿な。血液がすべて拷問具と入れ替わっていたとでも?」
「されど、やつがれもまた黒の拷問具を身に宿せし身の上なれば、この粘性と光沢、内部の小金の吹き溜まりなど、ことごとく黒の拷問具の特徴でございます。まず、間違いないかと」
 だが、そうであるなら――つまり、どういうことだ?
 夜翅・アウスフォレスの肉体では、何が起こっていたのか?
 まさか、本当に?
 血液が、すべて拷問具と置換されていたと?
 ぞっとする。いよいよもって夜翅・アウスフォレスとは何なのだ。
 その、瞬間。
 びちゃり、と。
 闇色の汚泥が、蠢いた。
 ――まさか、
 途轍もない危惧に突き動かされるように夜翅の死体に目を戻し――
「な……ッ!?」
 思わず、声を上げた。
 まさか夜翅の両断死体が粘液に引っ張られてくっつき、再生し、再び立ち上がるのでは――などという予想を明確に外す光景がそこにあった。
 [消えていた]。
 そこには何もなかった。雑居長屋(インスラ)の屋上が広がっているだけで、一瞬前までそこに謎めいた死骸があったことを偲ばせるようなものは何もなかった。
 粘液の一滴すら消え失せていた。
「これは……!?」
 慌てて周囲を警戒する。考えられる展開としては、黒き粘液がすべて自律行動し、夜翅の肉体を動かしてどこかに身を隠した――というものだが、その予想に反して、いくら待っても不意打ちの一つも来ることはなかった。
 意味の分からないことが起こり過ぎである。
 刈舞は自らの正気を疑いながら、ともかくもう一人の当事者である童女に話を聞こうと、そちらに目を向けた。
 しかし、彼女も消えていた。まるで夜翅と同時に蒸発したとでも言うように。彼女がいたことを示す痕跡は、どれだけ見回しても一切見つけられなかった。
 刈舞は頭を抱え、呻いた。理性が軋んでいた。
「螺導どの、私は幻覚でも見ていたのでしょうか……?」
「まさかまさか。直前まで、確かにここにはあどけない童女がおりましたとも。やつがれが保障いたしまする」
 では、一体何が起こったと言うのか?
 刈舞は、さきほどから一言もしゃべっていない維沙に目を向けた。
「維沙どの、あなたは何か知りませんか?」
「……消えた瞬間を、見た」
「なんと」
「あなたが目を離した隙にどこかに身を隠したんじゃない。何の比喩でもなく、消えたんだ。煙のように」
「そんな、馬鹿なことが……」
 何らかの拷問具の作用か? だが、それにしても意味不明が過ぎる。

 ●

 狼淵・ザラガが目を覚ました時、そこは〈深淵〉ではなかったし、寂紅との再会が叶ったりもしなかった。
 相も変わらずクソみたいな世界の、クソみたいな餓天宗の寺院であることだけがわかった。全身の傷に包帯が巻かれ、完璧に処置されている。
 全身が、だるい。目覚めたばかりだというのに、もう疲れていた。血を流し過ぎたようだ。
 起き上がる気力もなく、ぼんやりと天井を見上げる。こぢんまりとした病室だった。
 そして、自らの身体感覚の微妙な差異や、包帯の隙間にわずかに見える皮膚の色の違いから、自分が刃蘭・アイオリアの肉体に宿っている事実を認識する。
 途方に暮れた。維沙になんて顔して会えばいいんだ。怖がられたらちょっと凹むな。
「――皇帝を斬ったとき、」
 唐突に聞こえてきた青年の声に、狼淵は飛び上がった。まるで気配を感じなかったから。
 慌てて声の方向を見ると、いけ好かない青瓢箪の貴公子――魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスが、こちらに目を向けもせずに佇んでいた。
「鏖我・ラドキュロク・アギュギテス・インペラトル・サルバドル・ギステニア陛下は、確かに微笑まれた。余の初太刀を受け、今まさに両断されるその瞬間に浮かべていたのは、怒りでも驚愕でも困惑でもなく、ただひたすらに、慈愛と寛容だけがあった。そのことが、今でも余の中で最も気にくわぬ記憶としてこびりついておる」
「なっ……えっ……」
 こいつは何を言っている?
 こいつが? 皇帝を? だとしたら、今までの忠義に満ちた物腰は何だったのか? 認めたくはないが、狼淵も皇帝の聖骸を目の当たりにしたとき、言い知れぬ圧力と感動を味わわされた。あれを前にして、忠誠心を抱かずに済むとしたら、むしろそっちに理由が必要なほどだった。
 ゆえに、今まで魔月が徹底的に皇帝を立て、皇帝について言及するときには常に自分を下に置く言動をしていたことについても、特に違和感を抱くことはなかった。
 だが――であるならば?
「陛下を弑し奉ったこと、無論のこと微塵も後悔などしてはおらぬ。あれは絶対に必要なことであった。余が危惧しているのは、自らが殺される結果すらも、かの御方の計画のうちなのではないのかということだ。人類は、果たして本当にかの現人神のくびきを逃れることができたのか? それとも、より巨大で見えないくびきに繋がれただけなのか? その見極めは、余にもつかぬ」
「ちょ、ちょっとまてよ!」
「なんだ」
 話の腰を折るな、と言いたげなしかめ面で、魔月は口を閉じた。
「あんたが!? 皇帝を!?」
「そう言ったつもりだが」
「なんで!?」
 以前とはまったく変わってしまった自分の声への違和感をこらえ、今は問い質すべきことを優先させた。
「……そうか、そこから話さねば理解できんか。これだから……」
 興味の薄そうな半眼が、狼淵を見ている。
 およそ温もりや共感の感じられない冷笑を頬に刻み、魔月は語る。
「まずは、我が祖先の犯した、愚かな過ちから語らねばなるまいな」
「祖先、だと」
 それが皇帝殺しとどう関係があるのか。
「七代前の我が先祖、楊蘭(ヨウラン)・ディプロア・カナニアス。この愚劣な男こそが、こんにちの全人類の苦悶と絶望を導いた遠因ともいえる存在である。奴はいささか、少しばかり、軍事的才能に恵まれ、そしてそれ以上に個人的野心を友とし、なにより自分の頭では何も考えず、周りの吹聴する価値観を疑いもせずに鵜呑みにして行動を起こす猿以下の暗君であった」
 狼淵は、意外な思いに打たれる。
 この正論だけを書き連ねた冷たい石碑のごとき男が、あからさまな嫌悪を示している。
「奴はその僅かばかりの軍事的才能によって、異律者(サテュロス)の軍勢に対する劇的な勝利を収めた。それは、長らく版図を削り取られる一方であった当時の愚民どもにとって、なにがしかの希望に映ったのであろう。楊蘭を英雄視し、祭り上げ、この男こそ人類の剣と誉めそやした。大局的思考というものをひとかけらも持たぬ我が先祖は、それにすっかりと気をよくした。人類の未来を切り開けるのは自分だけだなどと思い上がった」
 ため息をつき、眉間を揉み解す魔月。
「奴は方々に金を無心し、兵を募り、物資を調達した。時流は奴を後押しした。本当に、運にだけは恵まれた男だった。そのまま何の罪悪感も抱かず、異律者の支配領域に軍勢とともに攻め入った」
「罪悪感、だと……?」
「快進撃を、続けた。実際のところ異律者からしてみても、楊蘭という男は今までに見たことのない類の人類だった。逃げ惑うでも、身を護るためでもなく、積極的に自分たちを攻撃し、殲滅しようとする軍勢と、彼らは初めて相対したのだ。楊蘭の軍は〈帝国〉の版図をから大きく東に進撃した。熱に浮かされた行軍だった。愚かな使命感に燃える兵士たちはほとんど休息らしい休息も取らずに進み続けた。このまま人類の領域を残らず奪取せんと。だが――限界が訪れた」
 鼻で嗤う。
「救いようのない愚物であった。兵站線は伸びきり、攻勢限界点をとうの昔に通過していた。軍隊とは集めればそれでいいわけではない。一万人を集めれば、それは一万人分の食料を毎日用意し続けねばならないということを意味する。自明の理であるにもかかわらず、楊蘭はこれを理解しなかった。精神論と使命感と宗教的情熱だけでどうにかしようとした。そして、兵士らは奴についていけなくなった。持ち込んだ糧食などすぐに底をつき、そして〈帝国〉本土と楊蘭の軍を結ぶ兵站線は再び異律者の支配領域の中に沈んだ。だが、楊蘭は退却することに我慢ならなかった。〈帝国〉本土のほとんどの者らも、楊蘭の退却を容認しなかった。せっかく、そしてようやく、異律者から奪い返した版図を、再び奪われるなど誰も肯んじ得なかった。ゆえに、人類は総出を挙げて愚挙に出た」
 いらいらと、魔月の指が机を引っ掻いている。
 無能が嫌い、ということなのか。特に、やる気に満ち溢れた無能が。
「兵站線が維持できないのならば、ここに根拠地を作り上げればよい。楊蘭はそう考えた。そして従軍僧侶として同行していた餓天法師にその旨を伝え、奴の意志は即座に〈帝国〉上層部の知るところとなる」
「は? いや、ちょっと待て、意味がよくわからねえぞ。なんて即座に話が伝わってんだ。遠く離れた場所にいたんじゃないのか」
 話の腰を折るな、と言いたげに秀麗な眉をしかめ、魔月はため息をついた。
「どうやってこの広大極まる〈帝国〉を、陛下と公王(ディクタトル)らは一度の政変も許さず維持してこれたと思っておる。餓天法師どもは超自然的な要因によって自我を統一されておるのだ。ゆえにある餓天法師個体の知るところは、別の餓天法師個体に即座に知るところとなる」
「なっ……」
 それがどれほど埒外の反則であるか、さすがに想像できないわけではない。餓天法師に額づかれる皇帝は、玉座から一歩も動かずして〈帝国〉全土の様子を俯瞰できると言って良いのだ。なにしろ餓天法師はどこにでもいる。
「ゆえに、本土の貴族たちは総力をあげ、民草を搾取し、湯水のように金と人員を投入し、糧食と建築資材と追加戦力を楊蘭のもとへと送り込んだ。たどり着くまでに甚大な被害こそ被ったものの、奇跡的に楊蘭軍との合流が成功し、即座に[その場に]都市を築き上げ始めた。――それがこんにちの我が封土、光都カザフである」
「それが、なんなんだ。いいことじゃねえか」
 ため息。これだから賎民は、と毒づく。
「これがどれほど愚かなことか、理解できぬか。敵対種族の勢力圏に囲まれた、地形的に何の要害でもないただの平地に都市を築くということが、のちのちいかなる禍根を残すか、理解できぬか」
 その口調には、いつもの嘲弄だけではない、何か切実な響きがあった。
「わ……かんねえよ。誰も彼もてめえみてえに学があるわけじゃねえんだよ」
 ため息。だが、魔月は匙を投げるつもりはないようだった。
「楊蘭は、カザフを維持することに執着しつづけた。かの都市の戦略的な無価値さを無視してな。どの貴族も、カザフを守るためならば税を上げ、兵員と物資を供出することに、何のためらいも抱かなかった。そして――カザフは全人類にとっての負債となった。繰り返すが、光都カザフに戦略的な価値などない。ただ異律者の支配領域に張り出しているというだけで、攻めるに安く、守るに難く、特にこれと言って希少な資源を産出するわけでもなく、またひっきりなしに異律者の襲撃を受けるがゆえに開墾は遅々として進まず、経済的に自立できず、無尽蔵に莫大な金を食い続ける。なのに誰一人としてこの不要どころか有害でしかない都市を維持・防衛し続けることに疑問を抱かなかった。余にはその感情論に共感することは不可能である。なぜ。なぜ、よりにもよってあのような場所なのだ。異律者の襲撃に対する防衛拠点とするならば、もっと適切な場所などいくらでもあったはずだ。なぜこの自明の理を楊蘭は理解できなかったのか」
 だが、狼淵には、当時の人々の気持ちが少しだけ理解できた。新たに建立された都市は、人類にとっては反攻と希望の象徴だったのだろう。異律者に対する最初の勝利の結晶、何が何でも手放したくはなかったのだ。そうでなければ、折れてしまったのだろう。それほどに、人類は精神的に追い詰められていたのだ。
「そして――カザフを掌の中に留めたいという全人類の非合理な欲求は、〈環兵制〉なる史上最悪の法を発案させ、あろうことかそれは皇帝陛下の勅によって発布された。カナニアス家当主をカザフ領主に封じ、かの都市が異律者の脅威に晒されたときは〈帝国〉臣民すべてが一丸となって資金と物資と人員を提供することを、全人類の最も基本的な義務と位置付けたのだ。のちに法は改正され、カザフ以外のあらゆる都市にも同様に適用されるものとなったが、そもそも異律者の襲撃のほとんどはカザフに押し寄せるのだから、その実態には何の変化もないとみて良いだろう」
 魔月は口の端を歪め、全人類を嘲笑した。
「かくして、すべての人類は、終わりなき搾取と貧困の渦中に叩き落とされることが確定した。カザフを守るという無意味な意地のために、凄まじいばかりの負担を〈帝国〉全土が負った」
「負担って……どれぐらいだよ……」
 半ば話についていけない狼淵は、ようやくそれだけを発言した。
「正確な数値は計り知れぬが、全人類の生産能力の、およそ数百倍程度であろうな」
「なっ……んな馬鹿な。そんな状態が何百年も続けられるわけがねえ! それに、ただひとつの都市を守るだけで、いくらなんでもそこまで金がかかるわけねえだろ!」
「教養なき農奴階級の貴様には想像もつかんであろうな。異律者との戦争は、たとえ勝ったとしても、ひとかけらも利益が発生しないという点で、非常に特異な経済活動である。また、ただひとつの都市だけ守っていればよいという認識は誤りである。確かに異律者の襲撃はほとんどカザフに集中しているが、しかし他の方面への襲撃がまったくないわけではない。それらわずかな例外でも、放置すれば一つの都市が滅ぼし尽くされる可能性を孕む以上、〈帝国〉東部に位置する都市すべてに常備軍を配備するよりほかにないのだ。実際に異律者の破壊と殺戮によって生じる損失よりも、そうした常備軍の維持にかかる費用の方が、負担としては耐えがたかった。……〈環兵制〉さえなくば、このようなことにはならなかったのだ。一つの都市、一つの封土が独力で異律者の襲撃に持ちこたえられる道理などなく、戦線は強制的に後退し、やがて必然的に〈帝国〉中央部と東部を隔てる大河ヌヴィエールへと収斂してゆくことであろう。だが、現実はそうはならなかった。膨れ上がり続ける戦費を確保するために銀貨(デナリウス)の質を落として大量に鋳造し、必然として貨幣価値の暴落を招き、需要の拡大によらぬそれは臣民生活を直撃し、それがまた経済需要の低下を招く。かようにして〈帝国〉は衰退と荒廃の一途を辿っていったのだ」
「それ、で……あんたは、どうするつもりなんだ……」
 この状況を。
 〈帝国〉を。
「知れたこと。戦線を後退させ、東部地域をすべて破棄し、大河ヌヴィエールに絶対防衛線を敷くこと。我が計略、我が犠牲、我が生涯は、そのためにあった。すべては貴種の義務を果たさんがため」
「待てよ! それは、つまり、東っかわの人間すべてを見殺しにするってことか!?」
「それ以外の意味に聞こえたか?」
「それ、そこまでする意味があるのか!? あんた、目的と手段を取り違えてないか!?」
「ある。何の変哲もない平地に人類の防衛線を敷く、現在の体制こそがそもそも異常なのだ。このせいで慢性的な経済危機はいつまでも好転の兆しすら見えぬ。そして人類の力は際限なく削がれ続ける。だが、ヌヴィエールに沿って要塞線を引き、大河を渡らんとする異律者を機械的に撃退する体制さえ整えば、戦費の九割以上を受かせることができる。奴らに高度な渡河作戦を考案する創造性などないからな。そもそも身体能力において人類を圧倒する種族と、尋常に干戈を交えるなど非効率の極みである。流れに揉まれ、溺れかけながら近寄ってくる獣を、一方的に射殺し続けることができれば、人類の双肩にかかる負担は微々たるものになり、技術や産業の発展に振り向けられる余力が生まれ、数十年後には正々堂々と異律者を圧倒できるほどの地力を人類は身につけられることであろう。完全なる勝利は、それ以外にない」
「じゃあ……カザフを捨てたのは……」
「計画の最初の一歩として不可欠な要素であったが故」
「大人しく捕まったのは」
「カザフを手放したくないという不条理な感情論をなだめるため、誰かが責任を取らねばならなかった」
「皇帝を、殺したのは」
「〈環兵制〉の法的根拠を消し去るため。カザフの放棄さえ成れば、不要なことであったが、しかし、人類の地力を上げる速度をなるべく上げるために、一応弑し奉ることにした。なにより――」
 魔月はそこで、嗤った。だが、その笑顔がいかなる感情の発露であるのか、狼淵には理解できなかった。
「――彼には、できたのだ」
「なに?」
「貴様も陛下のご遺体を目に触れる栄を賜ったのであればわかるであろう。かの現人神の、人後に絶する威厳と尊厳の結晶のごときお姿を」
「あぁ」
「想像を絶する荘厳さに、その場に跪きたい衝動を抑えることに苦労させられたであろう? 陛下を弑逆し奉るためにここに来た貴様ですら」
「……そうだな」
「[ゆえに、陛下は人類の敵なのだ]」
「話が見えねえよ!」
「かの絶対的な御威光は、生前の陛下ともなればさらに強烈にして神聖なるものであった。もはや物理的な圧を錯覚するほどまでの。で、あるならば――皇帝陛下ならば、いともたやすくできたはずなのだ。〈帝国〉全土を自らの足元に跪かせ、あらゆる紛争を調停し、民族主義者どもの暴走を止め、全人類を異律者との戦いのためにまとめ上げ、一丸となって立ち向かわせることができたはずなのだ」
 だんだんと、魔月が何を言いたいのかがわかってきた。
「余は、アギュギテムに来るまでは、所詮は神の子と言えど限界があるのであろうと思っておった。皇帝陛下は、自らの持てる力量のすべてを振るい、人類社会の安寧がために不断の努力を続けておられるのだろう、と。その凡庸な予想は、上向きにも下向きにも裏切られた。絶句したものよ。これほどの絶大な威光を放ちながら、あのお方は人類社会を今のままでよしとされてきたのだ。無数の非効率と、際限ない貧困と、終わらぬ戦禍を、どうにかできる手段を持ちながら放置してきたのだ」
「それは……」
「力が及ばず、〈帝国〉を現状のまま甘んじさせているのならば、余はあのお方を許すことができた。もしくは自分に現状を好転させられる力があることに気づけないほど愚鈍なのであれば、放置もした。だが、違った。できるはずであるのに、彼は何もしなかった。ただあの壮大優麗なる山河のごとき笑みを浮かべながら、臣民らが塗炭の苦しみの中で喘いでいるさまを御覧じていたのだ」
 魔月はここで、かぶりを振る。
「勘違いするでないぞ。余は義憤に駆られたわけではない。怒りや憎しみなど皇帝陛下に対してひとかけらも抱こうはずもない。今でもあの御方への敬意と崇敬は変わらぬ。だが――余は余を規定し、その法(のり)に忠実に生きることにしておる。かかる現状がある以上、皇帝陛下が余の計画に賛同し、力添えをしていただける可能性などあるまい。むしろ邪魔をされる可能性の方が高かろう。そうなったとき、余はあのお方に万に一つも勝機を持てぬ」
 ゆえに、皇帝を殺した、と。
「……なぁ」
「何か」
「あんたは、皇帝を殺した瞬間、どう思った? 何か、感情は動いたのか?」
 不可解そうな顔で、こちらを見てくる。
「好む、好まざるの問題ではない。成すべきことを成したまで」
「そういうことじゃねえよ」
 狼淵は、頭を掻く。
「あんたが徹底的に自分の感情にゃ主導権を握らせない人間だってことは知ってるよ。そうだとしても、それでも、おれはあんたが感情を持たない人間には見えない」
「であるならば、なんだと言うのか」
「[おためごかしはやめて、本音を話せっつってんだよ]」
「本音だと?」
「さっきからお前が語ってんのはぜんぶ「手段」だ。「目的」じゃない」
「目的など知れたこと。貴種の義務である。それ以外の何だと思っていたのだ?」
「嘘だ。もしそうなら、てめぇの嫁さんをカザフに置いて、見捨てる決断をしたとき、あんなに気持ちが高揚するわけがねえ」
「何を……」
 魔月は一瞬、不可解げな顔になったが、すぐに何事かを察したようだ。
「なるほど、余と貴様が最初に会ったとき、剣を交わしたことがあったな。そのときに追憶剣の権能でもって余の記憶を盗んだか」
「あぁ……今の今まで、かみ砕いて理解する暇もなかったがな」
「で? 余以上に余の人生に詳しくなった貴様は、いったいどうやって目の前の気に入らない男をやりこめようと思っているのだ? 聞かせてみるがよい」
「あんた、「自分がどうして今の自分のような人間になったのか」を疑問に思っているよな。何かを意図的に忘れていて、その中に答えがあるのではとかなんとか」
「あぁ、そうだな」
「[ねえよ]」
 魔月は無言で、真っすぐに、こちらを見てくる。
「あんたがなんでそんな人非人になったのか、なんて、そんな問いに対応するような答えなんて、ないよ」
「……どういうことか」
 狼淵は。
 胸に、毒が滲んでくるのを感じた。刃蘭と対峙したときにも感じなかった、それは嫌悪の情であった。自らの裡にそのような感情が宿ること自体に、狼淵は救いのなさを感じる。
「……大切なものがあった。喪いたくない奴がいた。許せない奴がいた。救わなきゃいけない奴がいた。そういう人間の目から、あんたの一生涯をかいつまんだ時に抱く、感想ってのを教えてやる」
 端的に、嫌だった。
 そのことを口に出すのが。そして、この貴公子とこれ以上接触を持ち続けること自体が。
「あんたの頭がおかしいことに、理由なんてないんだよ。あんたはおれなんかよりずっと恵まれていた。何不自由なく豊かな暮らしを送り、二親からも、妹たちからも愛され、家臣や下々の連中からは敬意と期待を寄せられていた。あんたの人格を傷つけ、歪ませるようなものは、あんたの人生にはなかった。[あんたの記憶に]、[欠落なんてないんだ]」

 ●

 ――まず感じたのは嫌悪。
 魔月には、父がいた。厳しく魔月に貴種の義務を説き、武芸と戦術と経済学、司法を叩き込んだ。しかし、魔月が完璧にその鍛錬に応え続けるのを前に、少しだけうろたえたような顔を見せた。そして苦笑しながら魔月の頭に乗せてきた掌は、思いがけず温かかった。たまに遠乗りや狩りに連れて行ってくれ、そこでは少々子供っぽい一面を見せもした。
 だから魔月は、父親を嫌悪した。
 魔月には、母親がいた。厳しい父をよく立て、支え、魔月と三人の妹たちを無償の慈しみで包み込んだ。常に微笑みながら、魔月を案じていた。長男として培うべきすべてを幼い時分に叩き込まれる我が子に、辛くはないかとしきりに聞いてきた。魔月が首を振ると、一瞬涙を見せながらも、ふわりと抱きしめてくれた。
 だから魔月は、母親を嫌悪した。
 魔月には、三人の妹がいた。物心つく前からあにうえあにうえと後ろをついてきた、三人娘たち。貴公子として完璧な成長を見せる魔月に対して、穢れない憧れの眼差しを注ぎ、兄の中から失われてゆく子供らしさを惜しむように、ことあるごとに茶会に誘い、詩集を読んでくれるようせがみ、お兄様以下の男なんかに嫁ぎたくありませんと他愛ない我儘を言いもした。
 だから魔月は、妹たち全員を嫌悪した。
 我慢ならぬほど不快な者たちであった。だが同時に、この憎悪と不快感がなぜ発生しているのか、魔月は自分の心理機序を理解できなかった。人は慈しまれ、愛されたとき、また慈しみと愛を返すものである。皆、そう言っていたし、いかなる書物にもそう書かれていた。例外は、なかった。
 ゆえに魔月は、自分に対する理解を深めるとっかかりを長らく得られなかった。
 だから、自分が特別に偏屈なだけの人間であり、たぶんこの世のどこかには友誼を結べる存在もいるのだろう、と楽観的に考えていた。
 そんなものは、一人たりとも現れなかった。
 基本的に、魔月の主観において、人間は二つに大別される。「不快な人間」と、「我慢ならないほど不快な人間」だ。
 例外は、皇帝陛下のみと言って良かった。かの現人神と対峙したときだけ、魔月は全人類に向ける嫌悪と憎悪を忘れることができた。
 ――だから狼淵は、魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスという男の事実を、彼自身にわからせる必要があった。
「あんたは、生まれながらに、[そう]なんだよ。そこに理由と呼べそうなものなんざ何もねえんだ。その嫌悪と憎悪の責任を負うべき人間なんて、あんた自身を含めてこの世に一人たりともいねえんだよ」
 吐き捨てるような口調になるのを、狼淵はこらえることができなかった。理解し合えると思っていた。魔月の孤独と痛みを理解すれば、もう少しマシな関係を築けるのではないかと期待もしていた。だが、実際に奴と言う人間を理解してみれた結果、溝はますます深まるばかりだった。
「……理由が、ない?」
「あぁ」
「人格を歪まされるような原体験など、余の人生にはなかったと?」
「あぁ。あんたは、今の世の中じゃ、たぶん望むべくもないほど幸運な人生を歩んできたよ。あんたの〈魂〉が救いようもなく歪む、どんな出来事も起こらなかった」
「あぁ……」
 魔月は、深く、深く、嘆息した。どこか、長年の荷を下ろしたような、安らぎにも似た感情のこもるため息だった。
 そうして、人間のフリをやめた結果、そこに表出したのは、正視をはばかられるような気持ちの悪い肉塊だった。「偏屈で冷酷な貴公子」という意味付けを剥奪された結果、狼淵は目の前のこの存在に対して適切な名前を付けることがどうしてもできなかった。
「あんたは何も忘れちゃいない。あんたは生まれながらに最初からそうだった。化け物が、人間らしく振舞うことができない自分をいぶかしんで、どうして自分は人間じゃないんだろう、なんて的外れな疑問を抱き、無意味な思索に明け暮れてきた。それがあんただよ。ありもしない理由なんて、探す必要はなかったんだ」
「そう、なのか……」
 魔月は安らぎを得ていた。生理的嫌悪を覚える存在が、自分には共感不可能な悟りと安堵を得ているそのさまに、狼淵は嘔吐を催しそうになった。
 寂静剣オムニブスがこの身に顕現したとき、狼淵は「すべての人々のために」戦い、生きることを決意した。だが、目の前の[これ]は、その神聖で清浄なはずの決意を、ただ存在し、呼吸しているだけで侮辱し、冒涜していた。
 ――おれにこいつは救えない。この世の誰にも、こいつは救えない。
 これで魔月が、自らの感情に振り回され、他の人類を虐げ殺すことだけに邁進する存在であったならば、狼淵は大きく心を乱されることはなかったであろう。それはただの猛獣であり、災害であり、共感や配慮など不要な事物であるから。
 だが――魔月は人の理に歩み寄り、人が正義と掲げるものを模倣し、そしてその模倣は完璧で筋が通っていた。人ではない者が、人を人足らしめるものの尊さをひとかけらも理解しないまま、完璧に正義の擬態を行っていた。
 ――やめろよ、クソ野郎。おれたちをこれ以上馬鹿にするのは。
 その言葉を、すんでのところで飲み下す。
「どんな気分だ? ええ? もう悩む必要はないんだぜ」
「あぁ、安らかな気持ちだ。余は、ずっと、ずっとずっとずっとずっと、気持ち悪かった。なによりその嫌悪の理由がわからないことが不快だった。いつしか、人類への嫌悪そのものよりも、自分が理解できないことのほうが、不快の度合いとしては大きくなっていた。だが……そうか。余は、別に思い煩う必要はなかったのだな。いや、感謝する。もっとも大きな不快の源を消し去ってくれて。その功になんと報いればよいのであろうな」
「やめろよ……ッ」
「今、余が感じている安堵がどれほど大きいか、どうやって貴様に理解してもらえればよいのだろうな。……ふむ、想像して見よ。貴様以外のすべての人間が、余と同じような人格の持ち主である世界を。貴様はそこで、ただひとり血の通った人間として生きている」
 魔月は、下卑た嗤笑すら浮かべていた。
「……どう思う? なァ、どう思う? そんな世界にいるとして、お前は何を感じる? なァ、なァ!」
「……ッ」
 考えるまでもない。
「気色が悪かろう? 救いがなかろう? 逃げ場も、希望もなかろう?」
 その嗜虐心に満ちた猫なで声が、正確に狼淵の胸を抉り裂いた。
 そうだ。救いなどない。そのような世界で、生きる意味など見いだせないだろう。会う人間すべてが魔月と同じ精神性など、気が狂うほどの嫌悪しか感じない。
「[余が今生きている世界が]、[まさしくそれだ]」
 毒の切っ先のように捩じり込まれたその言葉に、狼淵は拳を握り締める。骨が軋む感触。爪が掌に食い込む。
「……だったらなんなんだよクソ野郎。同情でもしろってのか」
「まさか。そんなつもりはない。だが余には余なりの苦労もあったと言うことだ。だが、今、余は迷いと不明のすべてから解き放たれておる。自らの生に、不可解な点はもはやない。[貴様らの苦しみが]、[余の喜びなのだ]。それだけが事実だった。お前たちが、生きているということそのものに起因する苦しみに喘ぎ、苦悶し、絶望する様を見るのが何よりも愉快だ。本当にせいせいする。胸の透く思いだ。あぁ、自らの素直な気持ちを認め、赦すのは、こんなにも清々しいのだな。本当に、感謝してもしたりぬよ。これからも余のために苦しんで苦しんで苦しみ抜いてくれ。滅ぶなど許さん。死人はもはや苦しまぬ。そのためならば、この命を捧げても惜しくはないのだ。惨めに喘げ。醜く相争え。裏切れ。奪え。殺せ。犯せ。すべて余の〈魂〉を寿ぐ神楽なれば」
 くつくつ、と、こらえきれぬのか、片手で顔面を覆いながら、人型の悪意は肩を震わせた。
「お前たちが自らの愚かしさで自滅するところなどは最高の肴だ。これに比べれば、余自身が手を下して植え付けた苦悶など、味わいの底が浅い。そのような養殖ものの絶望などでは余は満足できぬのだ。フ、ククク、クハッ」
「……出ていけ」
 絞り出すように、狼淵は言う。
 もうこれ以上、一瞬たりとも目の前のこの存在と同じ空気を吸うことに耐えられなかった。
「失せろ。視界に入るな……ッ」
「おや、気分を害したのかね。それはそれは、気付かずすまんな。いや実際のところ、怒らせるつもりはまったくなかったのだ。本当にな。だが、ククク、余が素直な気持ちを吐露すると、お前たちは決まって汚物を見るような目で余を見てくるのでな、フフッ、それがどうにも、フフフ、愉快でしょうがないのだ。いや、本当にすまんな!」
 ――口を、閉じろと、言ったんだ。
 その言葉は、実際には発せられぬまま狼淵の内部を傷つけながら沈められていった。
「人類(おまえたち)は、人類(おまえたち)らしく生きる限り、何がどう転ぼうと、幸せになどなれない。決して、それを掴めはしない。なぜなら生活水準と幸福度の間にはいかなる相関関係もないのだから。たとえ異律者(サテュロス)を絶滅させようと。たとえ身分制度を廃そうと。たとえどれほど平均寿命が延びようと。たとえどれほど豊かで平和な世を作り上げようと。お前たちは、決して、幸せになどなれはしない。それがいいし、それでいい」
 魔月の顔が、妄りがましく緩む。その瞳の奥には冷たい渾沌と灼熱の嫌悪が渦巻いていた。
「ゆえに、託すぞ。人の世を続かせろ。そして人間どもを永劫、苦しめ続けろ。資本を増大させ、医療を充実させ、教育と法治を強力に布き、個々人の苦しみを増大させろ。愚かなものは苦痛に鈍感だ。ひとりたりともそのような逃げ道を許すな。お前たちの苦悶が、余の喜びだ。永遠に絶望しろ。そのために余は身命を捧げてやる。そうとも――」
 ふと。
 貴公子の顔が穏やかに凪ぐ。
「――お前たちは余の生きがいなのだ」
 そう言い残し、魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスは踵を返し、部屋を出て行った。

後書き

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作者:バール
投稿日:2021/05/16 22:39
更新日:2021/05/18 19:56
『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

前の話 目次

作品ID:2304
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