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作品ID:809
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Reptilia ?虫篭の少女達?

小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 休載中

前書き・紹介


第一章 日常に生きる少女 10

前の話 目次 次の話



 宿が開くのは八時であったが、その三十分前にはこの宿のオーナー達が来店していた。

 オーナーとはヤクザのことであり、虫篭におけるヤクザとは大政組の他においてない。

 娼婦達はホールに集めさせられ、一同に礼をさせられた。もちろん、真澄も例外ではない。黒服を着た従業員達も揃って同じようにしていた。

 皆が頭を下げている最中、真澄は顎をそっと上げて、視線を巡らせてヤクザ達を盗み見た。もちろん、訪れていたのは砂原達である。ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべて、砂原は煙草を銜える。取り巻きの一人が火を付けて下がった。ちなみに、ホールは禁煙である。

「儲かっているかね」 砂原は先頭に立つ店長に煙を吐きながら尋ねている。

 皺が刻み込まれているものの、骨張って、不気味な陰影の映る横顔。五十を過ぎているが、充分に残っている灰色の髪。くたびれたジャケットの袖口から覗く青白く細い手首。針金を曲げたような、食えない、底の見えない笑み。

 真澄はこっそり舌打ちした。それは砂原に対する純粋な憎悪からではなく、彼を見て、胸の内を騒がしくしている自分への不快感に起因するものだ。要は、ヤクザなどに気分を害されてしまう自分の不甲斐無さに腹が立つのだった。

 彼女の視線に気づいたのか、砂原が真澄へと向き、ニヤつきながら歩み寄ってきた。

「よう、真澄」 砂原は煙を吐いて、足元の絨毯に吸殻を落として踏み潰した。「調子はどうだ?」

「お陰さまで……」 真澄は営業用の微笑みを浮かべて、曖昧に返した。その実、背筋は冷たくなっている。

 砂原はその笑みが嘘である事を見抜いているように鼻を鳴らした。

「ガキはどうだ?」

 店の者達が息を呑んで固まるのが見ずともわかった。

 もちろん、ガキとはサキの事である。砂原はサキを妙に気にかけている節がある。彼女と親しい真澄にとっては、砂原の態度がとても不気味であった。

「いえ、別に……、どうとも」 真澄は曖昧に言葉を濁しながら、胸の内で理由の無い憎悪を燃やした。その熱で平静を保とうとしていた。

 砂原は肩を竦めると、またニヤリと顔を曲げて店長へ振り返った。

「我々も遊んでいっていいかね?」 砂原は言った。

「えぇ、えぇ、もちろんです。一番の上玉をご用意致しますよ」 店長が媚びへつらう。

 真澄だけでなく、その場にいた娼婦全員が静かに失念の息をついた。

 砂原は店長と二言三言話してから、一番人気の娘の腰に手を回して階段を昇った。彼の舎弟達も気に行った女達を無遠慮に選び、部屋に連れて行く。真澄は自分が選ばれないよう必死に祈っていた。と言っても、彼女より若く派手な女は沢山いるので、男が持つ単純にして馬鹿馬鹿しい本能に従えば、真澄が選ばれる道理はない。

 そう、純粋な性欲からの動機ならば、だ。

 真澄の目の前に舎弟の一人、背の高い男が立った。まだ若い。二十代半ば程だろうか。茶色い前髪の下には長い切創が斜めに走っていて、血の気が盛んそうな双眸も額の傷と同じくらい鋭い。極道面であるが、まぁ、顔立ちは悪くなかった。

 真澄はぎくりとして、その男を見据える。

「ミッチー、もしかしてそいつにする気か?」 吹き抜けの二階の廊下から、砂原が顔を突き出して言った。

「ミッチーってやめてくださいよ」 男はげんなりと砂原を見上げる。 「えぇ、俺は、この女にします」

 さぁっと、真澄のうなじから背中にかけて熱が引いた。

「あまりお勧めはしないな」 言葉とは裏腹に、砂原は愉快そうな表情だった。

 真澄は下手に発言するよりも黙っている事を選んだ。

「この女、砂原さんが言ってた、ガキが慕っている女でしょう?」

「そうだ」

「だからですよ……、そのガキに、大政組の事をもっと示さねぇと」

「殊勝な心掛けだこと」 砂原はくっくっと声を漏らして笑う。 「だが、生半可な覚悟ではやらねぇほうがいい」

「俺だって、いっぱしの組員ですよ」 道田が反論する。

「忠告はしたぜ」 しかし、砂原は意外に身を引いて、手をひらひら振った。そうして、女を連れて部屋へと入って行った。

 男はぽかんとそちらを見上げていたが、ゆっくりと真澄へ目線を戻す。舐め回すかのように真澄の全身に視線を這わせると、にやりと笑った。

「大政組の道田だ」 道田は野卑た笑みを浮かべて言った。

 とんだ災難……。

 真澄は舌打ちした。まったく、ついていない……。

「真澄です」 しかし、彼女は上品に微笑して見せて会釈した。それくらいの仮面をすぐに身につけられないようでは、この商売はできない。



 部屋に道田を招き入れ、彼の上着を真澄は預かってハンガーへと掛けた。道田は部屋へ入るなり靴も脱がずにベッドまで歩み、横柄に腰掛けた。

 真澄が如何にしようか思索している間に、彼の方が口を開いた。

「お前、サキってガキの専属嬢らしいな」 道田は煙草に火をつけながら訊いた。

「えぇ……」 真澄は壁際に立ち竦んで、ぎこちなく頷いた。

「俺が聞いた話じゃ、そのガキは十六歳の強化人間だっていうじゃねぇか」 道田は野蛮に口許を歪めて煙を吹いた。 「いつも、その小娘と何してんだ?」

 その質問を真澄はこれまでに幾度と訊かれた事があるが、この時ほど不快に感じた事はなかった。道田という男の笑みが、それほど邪悪性に特化していたからだ。

「何も……、あの子が希望するから、添い寝をしているだけです」

 はっ、と道田が鼻で笑った。

「随分いい御身分じゃねぇか。お前も、そのガキも」 彼は毒を吐くと、一旦煙草を口から離して、ベッド脇のテーブルに置かれたウォッカの瓶を取って中身を舐めた。

 真澄はシャワールームの照明を点けた。まず、お客と自分の体を洗う決まりがあるからだ。

 そう、これは商売。なじられても、口応えなどしてはいけない。

 真澄は気付かれないように深呼吸をし、胸の内に芽吹いていた憎悪の芽を手早く摘んだ。道田はもう一口、ウォッカを舐めていた。傲然とした態度だった。

「服、脱げ」 口端に流れた酒を拭いながら、道田が突然に言った。

「え?」 真澄は驚いて彼を見る。

「ここで脱げっつってんだよ」 道田は脚を組んで、命令する。

 真澄は困惑して、手をドレスの肩口に掛けたまま、立ち尽くした。

 道田の目付きが険しくなる。

「客の言う事が聞けねぇのか?」 どすを効かせた低い声。きっと、その声で本業のほうもこなしているのだろう。

 その声色に慄いたわけではなかったが、真澄は手が震えるのを感じた。単純に、屈辱心からの震えだった。いくら大政組だとはいえ、なぜこんな青二才に良いようにされなければいけないのだろう。

 やはり、筋者。碌なものじゃない。

 真澄は観念して、肩口に掛けていたその手でドレスを脱いだ。白い肌を露出させ、豊満な胸部も露わにした。道田が口笛を吹いて笑った。真澄は腰の部分のファスナーも後ろ手で開け、赤いドレスを脱ぎ棄てた。下着姿になったが、道田が顎でしゃくったので、仕方なくそれも脱いだ。普通にするよりも、恥辱の極みだった。これではまるでストリップだ、と悪態をつきそうになるのを懸命に堪えた。

 一糸纏わぬ姿の真澄を見て、道田は芝居がかった拍手をした。

「中々、上出来じゃねぇか」

 真澄は目を逸らして、歯噛みした。

 三十路を過ぎているものの、艶と張りの残るその妖艶な女体は、道田には意外だったらしい。元々、真澄は背が高く、モデルとまではいかないまでも、すらりと整った体つきをしている。道田のような野蛮な男を欲情させるには充分すぎるプロポーションと容姿だった。

「髪も解け」 道田は言う。

 命令通り、真澄はピンで畳んでいた後髪を解いた。首を振ると、長い黒髪が踊るようになびいて収まった。手入れは店の規則で行われているので、髪の質感はふんわりと優しい。

 真澄は自分のこの媚びるような髪の存在が気に食わなかった。だから、いつも畳んでいる。

「やっぱ、あれか?」 道田が笑いを堪えるように言う。 「ガキと寝る時も裸になったりすんのか?」

 真澄は歩みかけた脚をぴくっと留まらせた。

「いいえ」 真澄は無表情に彼を見据えて首を振った。

 サキの寝顔が脳裏に浮かんだ。子猫のように素直な表情。

 そして、起きている時の、常に思い詰めているような、暗く、冷たく、激情が込められた表情。

 それでいて、今日の、バルコニーや散髪の時に見せた、面映ゆそうに崩した表情。

 何故だろうか……。

 真澄は自問した。

 いつもそうであるし、今もそうだった。

 何故だろう?

 何故、こうして裸になって、客の相手をする時、サキの顔が思い浮かぶのだろうか。

 申し訳ない、とでも思っているのだろうか?

 それとも、助けてほしいと願っているのだろうか?

 彼女は一瞬のうちに考え、そして、ふいに笑みをこぼした。

 きっと、違う。

 そんな感情じゃない。

 例えば、子供の時に見上げた、渡り鳥の群れのような。

 例えば、夜空に浮かんだ三日月に腰掛ける、空想上の少年のような。

 憧憬。

 自由への憧れ。

 そう、わたしは、サキに憧れているのだ。

 あの子に、わたしは夢を見ているのだ。

 酷い大人……。

 サキが真澄を慕う度に、真澄は、胸が裂けそうになる。

 神を呪いたくなる気持ちで、いっぱいになる……。

「おい」 男の声。

 真澄ははっと我に返る。否、異常へと立ちかえったと言うべきだろうか。額に傷を走らせた極道の男が、ベッドの上で彼女を睨んでいた。

 なぜ、こんな事をしているのだろう、と真澄は客観的に考えた。一瞬の忘却が、彼女の感情に沈静を与えた。

「すみません、なんでもありません」 悠然と、真澄は微笑んでみせた。そして、シャワールームの戸を開けて、手で指した。 「最初はお身体を洗いましょう」

 道田はそちらを一瞥してから、再び微笑む真澄を睨み上げた。ゆっくりと腰を上げて、彼女の前へ立った。

 真澄が気圧されていると、その顎先を道田が乱暴に掴む。

「気にくわねぇな」

「え?」

 突然、道田の平手が真澄の頬を打った。動揺する間もなく、真澄は床に倒れる。キッと睨み上げると、その長い髪を引っ張られて、ベッドへと放られた。真澄は軋むマットの上で短い悲鳴を上げ、体を起こそうとするが、喉元を道田に押さえられ、身動きが取れなくなった。

 道田は瞳孔が収束した、キレた眼で真澄を見下ろしていた。

「何を……」 真澄は漏れるように息を吐き、言った。

「てめぇのその余裕ぶった表情が気にくわねぇんだよ」 道田はそう言うと、再び真澄を殴り付けた。

 鈍い痛みにひっ、と声が漏れる。頬を殴られ、あっという間に口内が血の味で満ちた。痺れるような痛覚の後に、再び重い衝撃が真澄の意識を揺さぶる。

 道田は殴打の手を止めて、真澄の痛ましい痣だらけの顔を前髪を掴んで引き寄せる。

「いいか、俺はな、大政組だぜ。あまりなめた態度取ってると、痛い目見せっぞ」 彼は真澄を突き飛ばす。 「俺は、生意気な女とガキが嫌いなんだよ」

 うつ伏せの姿勢で呻いていた真澄の尻を、道田の粗野な手が掴む。

「あと、一つ教えてやる……、俺は、女虐めねぇとヤれねぇ性質なんだ」

 道田の手の感触と低い囁きに、真澄は戦慄した。

 ズボンのチャックを開ける音がする。

「どうせ、この店はウチのもんなんだ。お前ら売女共も、俺らの所有物みてぇなもんさ。瑕つけようが勝手だ」 道田はそこで喉を鳴らすように笑った。

 真澄は寒気が止まらなかった。

 腫れた頬にある、鉄の味。

 痺れるような痛覚と違和感。

 自分の半身を蹂躙する、ざらざらとした手の感触。

 あぁ、当分、商売はできないな、と思った。

 全く、どうしてくれるのか……。

 真澄はぼんやりとした目線のまま、溜息をついた。そんな奇妙な余裕が彼女の内側に残留していた。

 きっと、腫れが引くまでは、お客も引いてしまうだろう。

 下品な連中に、下品な扱いを受けるのだろう。

 でも、それより。

 サキ。

 彼女の顔が思い浮かぶ。

 痣だらけの顔をサキに見せたら、きっと心配させてしまう。

 そう……。

 酷い大人だ、わたしは……。

 サキ……、ごめん。

 しかし、ふと、真澄の意識は現実へと向いた。

 めらめらと、胸の内で何かが燃え上がる。それは、爆発的な速度を持って、真澄の意思を刹那の間に支配した。

 ふざけるな!

 真澄は、ぐいっと道田の手から身を引いて、思い切り彼の股間部へ馬蹴りを繰り出した。

「うごっ」と形容すれば一番近いのかもしれないが、とにかく、言葉にならない声を上げて、道田が屈みこんだ。

 その隙に真澄は覆い被さりかけていた彼の体から這いだし、振り向きざまにその顔面へ渾身の張り手をお見舞いした。派手な音が立ち、道田がベッドから転げ落ちた。

 真澄は汗で垂れた前髪を掻き分けながら、荒ぶった呼吸を咄嗟に整えた。ずるずると道田の手がベッドの端を昇り、脂汗と苦悶を浮かべた彼の形相が浮かび上がった。

「て、めぇ……ッ」 道田は悪鬼の如く歯を剥きだして唸る。

「わたしの嫌いな男も教えてあげるわ」 真澄はシーツを引っ張って体を覆った。 「ゲスな性癖の持ち主と、己の度量も弁えない勘違い野郎よ。あんたは両方クリアってわけ!」

 真澄は道田の顔面へ、しなやかに蹴りを放った。踵が彼の鼻筋を砕いた感触があった。道田は鼻血を撒き散らしながら仰け反るが、しかし、さすがにタフなのだろう、真澄のその細い足をしっかり掴んでいた。

「て、てめぇ、売女のくせして、大政組に楯突くつもりかッ!」 道田が真澄の脚を引き、彼女もベッドから転落する。

 真澄は絨毯の上でもがきながら、必死に抵抗する。拳を振り上げかけた道田の両腕をかろうじて手で抑えた。

「あんた、自分の実力と組織の力を履き違えているみたいだけどね、てんで雲泥の差よ、このタコッ!」 真澄は抑える両腕を突っ張ったまま、力の限り叫んでやった。 「勘違いゲス野郎ッ!」

「殺すッ!」

 道田が真澄の腕を解き、彼女の腹部を拳打した。かはっ、と真澄は目を剥いて息を吐く。激痛がやってきた。もう一発殴られて、胃液が逆流するのがわかった。道田は既に、獣のような息遣いだった。

 死ぬかもしれない。真澄はそう思った。

 その時。

 聞き慣れない、甲高い音が立った。

 真澄は反射的にそちらへ向く。道田も跳ねるように体を震わせて、そちらを見た。

 窓の外には夜の大気と、僅かに届くネオンの光が混ざって、不穏な闇が広がっている。その闇を映し出す窓の一つが、粉々に打ち砕かれていた。破片が床に飛散していて、カーテンが入り込む夜の熱風に揺れていた。

 何が起きたのか、真澄は理解するのに時間がかかった。

 道田は呆けたように砕けた窓を眺めている。

 彼のほとんど頭上を、小柄な黒い影が過ぎた瞬間、ようやく真澄は理解した。

「サキ!」 無意識に彼女の名を叫んでいた。

 ほぼ同時に、道田の体が弾けるように吹っ飛び、壁際の酒のキャビネットに転がって突っ込んだ。

 真澄は素早くシーツを纏い、立ち上がる。殴られた痛みは忘れ去ってしまっていた。

 真澄に背を向ける恰好で、髪を短くしたばかりのサキが、ベッドの上に土足で立っていた。その鋭く尖った眼が殺意を含んで光り、キャビネットへもたれるように倒れている道田へ向けられていた。

「ごめん、真澄」 彼女が静かに言う。

「え?」

「すぐに終わるから、ちょっと待ってて」

 サキのその抑制された声色に、真澄は鳥肌が立った。言葉の節々から彼女の怒りが波動のように伝播していたからだ。それも並大抵の憤怒ではなかった。真澄はサキのそれほどまでに凝縮された感情を初めて見た。

 道田はキャビネットの割れたガラスで切ったのか、こめかみ辺りと鼻孔から血を流したまま、ふらふら立ち上がった。足許がおぼつかず、キャビネットの棚で体を支えている。

「てめぇが、サキか」 しかし、道田は笑っていた。 「人間じゃねぇんだってな?」

 しかし、完全に立ち上がる前に、サキが猛虎の如く飛び掛かった。殴り飛ばされ、さらに派手な音を立てながら道田が床へ叩きつけられる。しかし、彼はすぐさま身を起こし、さらに追い討ちをかけようとしたサキへ蹴りを放った。

 サキは腕で防ぎ、一旦、下がる。

「バケモンがッ」 道田が血の混じった唾を吐き、足許に転がっていた砕けた酒瓶を拾って、素早く構えた。眼が血走っていた。

 しかし、サキはいたって緩慢に、ジーンズのポケットへと手を潜らせる。そうして取り出したのは、折り畳まれたナイフだった。彼女が腕を振るうと、小気味良い音と共に鋭い刀身がぎらりと現れた。道田は一瞬、それに眼をやったが、狂った表情に変化はなかった。

「なぁ……」 サキは不思議と穏やかに語りかける。 「お前、砂原の部下か? わたしの名前、知っているみたいだけど、わたしの評判は聞いている?」

 だが、道田は答えず、サキを睨んだまま、じりじりと間を縮めている。

「お前さ、自分が何やったか、わかってんの?」 サキの声が、突如、冬の朝のガラス窓のような冷徹さを帯びた。 「お前、もう、死ぬしかないよ」

 その響きに、道田がうっと呻いて、体を硬直させた。

 傍で聞いている真澄にも、金縛りに似た緊張が走った。

「真澄以上だ。真澄以上の痛みと屈辱を与えて、じわじわ殺してやる」 サキが腰を落として、屈むように構えた。 「耳を切り落として、目ん玉引っこ抜いて、鼻を削いで、一本ずつゆっくり指を切断してやる。股間にぶら下がってる汚いものもな」

 真澄はただ、壁に背を預け、見守っているしかなかった。吐く息まで震えているのが、自分でわかった。

「上等じゃねぇか……」 道田のこめかみに青筋が浮かび、微量の血が噴きだした。 「やってみろや、クソガキッ!」

「やるっつってんだろ、カス」

 サキが跳んだ。

 ほぼ同時に、宙に向かって道田が酒瓶を投げつけた。

 しかし、サキは持ち前の反射神経で、それを的確に空中で弾いた。

 床に落ちた酒瓶が音を立てて割れる。

 真澄は、呆然とそれを見届け。

 また、鈍い音。

 そして、次に見た。

 サキが返り血を浴びるのを。彼女の細い手にはナイフはない。

 ナイフは、道田の左耳の根本の半ばほどまで食い込んで、ぶら下がっていた。

 夥しく噴出する血の雫。

 その数滴は、壁際にいる真澄の足元にまで飛散していた。

 道田が絶叫を上げて、身を曲げている。

 サキは冷静な手つきで彼の肩に左手を掛け、そして、右手で乱暴にナイフを取り除いた。

 さらに血。

 絶叫。

 真っ赤に染まって、取れかかった耳。それを真澄は見た。

 再び垂直に構えられたバタフライナイフ。

 サキの咆哮。

 血走った少女の眼。

 そして。

「やめなさいッ!」

 悲鳴に似た、己の叫び。

 俊敏にサキが振り向き。

 それと同時に、部屋の扉が勢いよく開いた。

「何事だッ!」 乱入してきたのは、店長と黒服達。

 真澄は茫洋と、そちらを見た。

 サキは彼らを凄まじい憎悪を込めて睨んでいる。

 その後には不思議な沈黙が支配し、誰もが唖然としていた。道田の黒板を引っ掻くような呻きだけが響いた。

 長い、長い、刹那の後。

 砂原が店の者達を掻き分けて現れた。

 彼は真っ先にサキを見、ゆったりと真澄の姿へ目を移して笑い、そして、床で激痛にもがく舎弟を眺めた。

「よう、サキ」 全てを認識し終えた砂原は煙草を取り出しながら、彼女へ目線を向けた。 「顔を合わせるのも、随分久しぶりだな」

「殺すぞ」 サキは射るように睨んで言い放つ。

「俺の可愛い舎弟が、羽目を外し過ぎたみたいだな」 引き笑いを漏らして、彼は煙草に火を付けた。その場にいた誰もが、火を差し出すなど忘れ去っていたからだ。

 真澄は固まったまま、対峙したこの街のビッグネーム達を見つめていた。

 サキが構えた。

「こいつは、真澄を侮辱した。傷つけたんだ」 サキの呼吸が荒くなっている。 「どういう新人教育してんだよ?」

「悪いね」 砂原は笑いを噛み殺すような面持ちで頷く。 「許してやってほしい」

「ハシャギが過ぎてんだよッ! こいつも、お前らもッ! 雑魚のくせに、虫酸が走んだよッ!」 サキは突然に激昂して怒鳴り散らした。

 砂原は煙を吐きながら肩を竦める。

「部下達にゃ言い聞かそう」 そして、砂原の眼が、冷厳な光を帯びて鋭くなった。 「ただ、ここで暴れてもらっちゃ困る」

 その場がピリッと緊張した。大気にヒビが入った、と言えば妥当だろうか。

 しかし、自分でも信じられない行動力だったが、真澄はなんとか体を動かし、サキの傍に立った。そっと囁く。

「お願い、サキ、これ以上、手荒な事はしないで。今日は帰りなさい」

 サキは答えなかったが、真澄へ向いた瞳には明らかに動揺が浮かんでいた。真澄に促されたのが、少なからず堪えたのだろう。

「助けてくれたのは本当に、感謝してる。サキがいなかったら、たぶん、もっと酷いことになってた」

「こいつら、許すの?」 サキが伏せるように、目を逸らして尋ねる。潜めている、というよりも消沈した小声だった。

「ええ、許すわ」 真澄はぎこちなく微笑んでみせた。そして、凄惨な様相の道田へと目を移す。 「ビンタも食らわせてやったし、鼻も蹴り潰してやったから」

 そこでサキは真澄の冗談に気付いたようだが、笑わなかった。

 ただ、哀しそうに顔を伏せていた。

「サキ」 真澄は呼びかける。

 手を伸ばすと、逃れるようにひらりと肩を引き、窓際に跳んだ。

 彼女は真澄を見、倒れている道田を一瞥し、砂原達を睨んだ。

「この事で、何か真澄に不都合があったら、承知しないからな」 サキは握っていた血塗れのナイフを畳んで仕舞った。

「心得た」 砂原がにやりと口角を上げて、両肩を揺らした。

 窓を乱暴に開け放って、サキは外へと飛び出した。その影は向かいの建物の壁へ移り、ネオンに照らされた闇の合間を駆けた。

 残された者達は皆、立ち尽くしていた。

「とんだ災難だったな」 砂原が吸殻を指で弾いて、言った。

 真澄へ言ったのか、耳の取れかかった道田へ言ったのか、それとも店の者達に言ったのか、わからなかった。恐らく、全員に向かって呟いたのだろう。

 真澄はサキの消えた窓辺に立ち、外の風景を眺めた。

 サキの姿を探したが、もういない。

 目の焦点をぼかした時、自分が泣いていることに気付いた。

 涙なんて、何年ぶりだろう?

 そっと指で払って、真澄は鼻を啜った。



後書き


作者:まっしぶ
投稿日:2011/07/14 10:33
更新日:2011/07/14 10:33
『Reptilia ?虫篭の少女達?』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。

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作品ID:809
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