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作品ID:830
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慕情

小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 連載中

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目次



 一面白の空虚も体の重さも酸素の薄さも、一年もすれば慣れるだろうとタカをくくっていたのだがそれは間違いだった。

 幅広の緩やかな階段を三段。それを上るとモスクのような屋根をした母屋。屋根の真ん中には文字盤のない大きな時計。それを中央にシンメトリーで配置されている巨大な砂時計と 二本のオベリスク。

 それ以外は何も、ない。

 あるのは静寂と、空虚だけ。

 いるのは自分と、息子だけ。



 この部屋で過ごしてもう一年近くになる。

 下界の時間ではたった一日でも、今確かに自分達親子は二人きりで十か月以上も過ごしているのだ。



 数か月みっちり鍛えたところ息子は超化に成功した。……よかった。やっぱりこの子の潜在能力の高さは間違いではないのだ。

 日増しに逞しくなっていく様を、この子が産まれてから今までで一番近くで見守ってやれている。期待に応えてどんどん力を伸ばしていく息子。そのまばゆい黄金の髪を見るたびに、翡翠色の透き通る瞳を見るたびに、己の血を引いていることを実感する。

 ああ、なんていう気持ちなのだろう。言葉をあまり知らない自分では、言い表すことができない。



 そしてこの一年近くでの息子の変化は超化とそれに伴うパワーアップだけではない。

 こうして見てみると本当に背が伸びた。成長期なのだ。自分がこのくらいの頃は少しも背が伸びなかったというのに。この部屋に入った時より随分大きくなった。修行を始める前にかなり短く切ってやった髪もやっぱり伸びている。日に日に大きくなる背丈を見るたびに、気づけばえりあしが伸びているのを見るたびに、あいつの血を引いていることを実感する。

 ……目を細める。この気持ちを表す言葉を見つける意味さえないのかも知れない。



 今、十歳。

 他のどんなものよりも、愛しくて、大切で、守るべき、自分とあいつの。



 でも逆に、頼らなければならないかも知れないという矛盾。最後には全てを任せるかもしれないという罪悪感。荷が重すぎやしないかと心配になる反面、必ずやってくれるという期待。我が子が幼くしてこのような巨大な力を持っているという、それは自分の血によるものだという奢り。

 ……それと、頂点を極めたつもりでいた自分が超えられた、という、落胆。



 息子でなければきっと、我慢できなかった。

 他の誰かだったらきっと必至になって挑んで、何度でも挑んで、倒さないと気が済まなかったと思う。

 誰よりも強く。それだけで生きてきたような人生だ。実際、今までどんなにやられそうになっても必ず敵を倒して前進してきた。これまでそうであったようにこれからもそうでありたいと思っている。



 ここへ来た時父親ぶって、自分を超えてもらうつもりだ、などと言ったが。

 ……なんという皮肉だ。

 これからは息子の背中を追いかけていかなけれなならない。そう考えると自嘲の混じったしらけた鼻息が漏れたが、笑いごとではない。これが、サイヤ人というものだ。たとえ親であれ子であれ、力の強さがすべてなのだ。より強い力を持っているものだけが生き残ることを許されているのだ。



 ----では、この部屋を出たあとの自分は?

 背筋を抜ける嫌な感覚に眉をひそめる。



 一面白の空虚が黒い悪寒を誘い、重い重力が体全体にのしかかり、酸素の薄さは呼吸を速める。

 やっぱりここは、こたえる。何もしていなくてもだ。

 と、急にあいつの顔が浮かんだ。

 ……会いたい。会って、抱きしめてもらいたい。

 情けなくて誰にも覗かせない自分の心の裡を、あの温もりで埋めてほしい。



 悟飯のこの姿を見たら、きっと驚いて、また怒るんだろう。かわいい悟飯をこんなにして、と。しばらく口をきいてもらえないかな?

 でも、大丈夫。

 どうやったら許してくれるかを知っている自分を、どうかずるいと言わないでくれ。





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  窓から流れ込んでくる空気は塩気を含んでいて不快に肌にまとわりつく。

 自宅は危険だというので逃れてきた、かつて夫が過ごしていたこの家でもう何日も世話になっているがやっぱり慣れない。山の気候と海の気候は全く違うのだからこのじっとりとした熱気を帯びた風に自分が違和感を覚えるのは致し方のないことだ。首筋にはうっすらと汗が滲む。何もしていなくてもだ。

 しかし何かをしていないと気がまぎれない。……そうだ、ここにいる皆に茶でも入れよう。そんな、してもしなくてもいいことでも、やっていれば時間は過ぎる。二人が帰ってくるまで。



 こうしている今も、厳しい特訓をしているのだろうか。快気いくばくもない夫の体が心配でならない。その夫が連れて行った息子は大丈夫だろうか。もうじき帰ってくるのだろうか。帰って来てくれるだろうか。



 一日で一年分の時間を過ごすことができる不可思議な部屋があるという。それを聞いたとき単純に、そうなのか、と思った。普通はそんな部屋があること自体信じられないことだし、ましてやそれが神の神殿内にあるだなんて、誰かが聞いたらあいつは気がふれたのだと言って笑うだろう。でも夫やここにいる連中にとってはさほど驚くようなことではない。自分もそういう感覚にはすっかり慣れてしまっている。どんな願いでもかなう球だとか、夫が宇宙人だとか、未来から誰が来たとか、もうずっとそんな中で暮らしているのだ。今更、その部屋のことで何を驚いたりすることがあるだろう。

 夫はそこで修行をすると言った。そこに息子を連れて行って鍛えてやりたいとも言った。



 ------冗談じゃない。

 これが本音だった。しかし。

 もう言っても無駄だということはこれまでの結婚生活の中で嫌というほど学ばされていた。納得できなくて怒鳴ってわめいて、挙句、喧嘩になったり険悪な雰囲気になったことも何回あったか知れない。でももう無駄なのだ。この人はそういう人だ。これがこの人という人だ。こと戦いとなると、誰の言うことも聞きはしない。もちろん自分の言うことだって。自分が行く道を自分で決めて、何があってもその通りにする人なのだ。それが結局嫁を泣かせて息子を危険にさらすような結果になるのだとしても。



 諦めとも違う、妥協とも違う、慣れとも違う、言うなればそう、理解に近いものなのかもしれない。



 誰よりも強く。それだけで生きているような人だ。それがわかっているのならもう気持ちよく行かせてやるしかない、初めてそう思った。夫は戦闘民族だ。自分とは根本的に違う生き物だ。そんなのでも自分で選んだ人だ。この人、と思ってついて来たのだ。だから自分は妻として、あの人を受け入れるだけ。



 もちろん全面的に賛成することなんてできっこない。夫は自らがそうしたくてたまらないのだからともかく、息子が命の危機にかかわるような危険な目に会うかも知れないのだ。

 愛しくてたまらない、かわいいかわいい、あの人と、私の。

 でもあの人が、夫がそうするのだというのなら。

 自分は信じて送り出して、ただ待つのだ。無事を祈って。

 今までも何回も経験したではないか。またそれと同じことをするだけだ。

 大丈夫。私は、大丈夫。



 しかしどんなことにも動じなくなっている自分も、悟飯のこととなると話は別らしい。 

 うだるような暑さに汗ばんでいた体はいとも簡単にその熱を手放し、滲んだ汗は冷や汗に変わり、背筋は凍りつく。







 誰。

 この子は一体、誰。





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 水面を見ると巨大な魚影が見えた。

 見ろよ、ほらでっけえ魚いるぞ、この湖。

 不安そうな表情をする息子は、いつもは大好きな自然や魚にも全く興味を示そうとせず、しきりにこんなにのんびりしていて大丈夫なのかと焦りを隠そうとはしない。

 心配するな、何とかなる。限界まで修行したんだ。あとはゆっくり休もう。

 複雑そうな顔をして見上げてくるその瞳を直視できなくて、ごまかすように弁当に目線を向ける。

 うまそうだなー!

 ちょっと不自然に大きくなってしまった声に気付かれていないだろうか。

 

 そう、限界までやったのだ。

 自分はもうあれ以上、無理だと思った。これまで過酷な修行をすれば必ずパワーアップして来られた。でもあんなに毎日やったのに、壁を越えてからの伸びが自分にはなかった。己の伸びしろはもう全部使い果たしてしまったのだろうか。



 ……やっぱりなんとか息子を怒りで興奮させて『その力』を確認しておくべきだっただろうか。もう少し長く部屋に残って集中的に特訓すれば『その瞬間』の『その力』を実際に見ることはきっと可能だった。何故そうしなかったかはあまり考えたくない。自分の汚い部分が一気に飛び出して来そうな気がして。

 軽く頭を振った。よそう、今は。考えても仕方のないことだ。もう部屋からは出てきているし、もう入ることもないのだから。気にしてないでのんびりやろうとさっき息子に言ったのは自分ではないか。きっと、大丈夫だ。この息子は、やれる子だ、強い子なのだ。

 …………自分よりも。





 息子のこの姿を見た妻ははじめは絶叫していた。不良だなんだと騒いでいた。でも今はこのままでいないとならない事情を説明すると、なんとも切なげな瞳をして口を閉ざした。少しはらはらしながらそのまま黙っていると、しばらくして短く静かに言った。わかった、と。



 苦労をかけていると思う。

 こいつがどんなに悟飯のことを愛しているか、どんなに将来を心配しているか、自分が一番よく知っているのだから。こいつが思い描いていた子育てや教育から息子を引き剥がしているのはこの自分だ。悪いと思う。申し訳ないと思う。でも今だけは仕方がない。こうしないと、すべてが終わりになってしまうのだから。ひいては、この子の将来を守るためだ。

 しかし、その未来を守るのがほかでもない、本人になりそうだということは、そのことだけは、言うまい。

 ……とても言えない。



 でもこいつのことだから気付かれてしまうかもしれない。もしかしたら、もう。今だって、食べる時までその恰好はやめてくれなどと口では言いながら、すでに受け入れてくれているのがわかる。相変わらず美味い飯をたくさん用意してくれて、自分はろくに食べずに息子やこちらの皿に料理をよそっている。だがその実、息子が食べている様子をじっと見ているその目の奥が揺れているのがわかる。本心では受け入れがたい現実を、それでも必死で許容しようとしているのがわかってしまう。

 そんな妻から目を離せないでいると気づかれてこちらに顔を向けてきた。何でもない風にがっついてみせたけれど、うすく微笑んで頷かれてしまった。向こうもきっとお見通しなのだ。黙っていても、無駄だとわかる。何もかもを誤魔化し切ることなんて、きっとできない。



 食べ終わって木陰で息子と並んで寝ころんだ。レジャーシートの上では皿を片づける音がしている。その音であいつが近くにいることを実感してほっとする。



 晴れた空にはいくつか白い雲が漂っている。その一つを見て、神殿を出てすぐかつての師匠の一人である白い仙猫の元へ立ち寄ったことを思い出した。

 初めて息子を連れて行った。自分にむかって大きくなった、という仙猫と、隣にいる逞しい息子の姿に時の流れを感じずにはいられなかった。



 必死で登ったカリン塔。ボールを落とされて慌てて拾いに行ってはまた登った。聖なる水だと言われれば夢中になって奪いにかかった。猛毒だと言われる水も力を引き出すと言われれば、死にかけても吐き出さずにこらえた。あの頃は自分が一分一秒ごとに強くなっていった実感があった。それまでがたいしたことがなかったといえども与えられる興奮は大きかった。



 あの頃……あの時は……



 ぼんやりとそのようなことを考えてハッとしてしまった。なにを振り返っているのだ。振り返るな。いや、そんなんじゃない。おとついあそこへ寄ったから、ちょっと思いだしただけだ。大したことじゃない。それに、あの部屋で何か大発見でもしたのかと問われたことと、やっぱりあの化け物の方が実力が上だと言われたことがあったからだ。それでちょっと、らしくなく切なくなって、ふと、昔を懐かしんだだけだ。それだけだ。



 言い聞かせるように頭の中でそう言ったが何とも言えない気分になって目を閉じたまま顔をしかめてごろりと横に寝返った。初夏の風はあと七日で忌まわしい大会が開かれることを完全に無視するかのように爽やかに、優しく吹き抜けていく。車のトランクを開けて片付けをしているあいつの匂いをかすかに乗せて。





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 ハンドルを握るその横顔はきっと他の誰かから見るといつも通りのあの人に見えるのだろう。カメハウスに戻って来た時も仲間の誰もから、なぜそんなに落ち着いているのかとか、余裕だなとか、相変わらず能天気だとまで言われていたぐらいだ。

 時々後部座席に座る息子に声をかけながら笑うこの笑顔は、妻である自分でさえ、うっかりするとその中にひた隠している別の色を見落としてしまいそうになる。



 あの部屋から戻ってから夫の様子がおかしい。

 どこが、と言われると非常に難しい。いつも通りの穏やかで優しく、能天気なその様。でもどこか『いつも通り』すぎやしないか。装っているのではないかという疑念が頭をもたげる。

 今日のこのピクニックにしてもそうだ。おとつい帰って来たばかりで、ゆっくりしたいなどと言っていたからてっきり家で過ごすと思っていたのに突然ドライブすると言いだして。いつもならこっちがどんなに騒いでもちょっとやそっとでは修行を休もうともしないくせに、たったあと七日で決戦を迎える今になって、急に家族と過ごす時間を儲けようとしてくる。何もない時ならこのように出かけることだって珍しくない。でも今は夫が人生をかけている『戦い』を目前に控えているのだ。



 あの部屋で一体何があったのだろう。





 約二週間前、人造人間なるものが襲ってくると言われていた五月十二日。

 その日が近づくにつれ、この人はいつになくぴりぴりしていた。もちろん当たり散らしたりはしないものの、何気に見せる表情がいつもは家では見せない側面だったり、眠りにくそうにしている日もあった。得体のしれない人造人間の目的が自分の殺害だという限り、さすがに心中穏やかでなかったろうし、今思えば体調もおもわしくなかったのだ。今となってみては、焦っていたのだと思う。



 でもこの今の感じはあのぴりぴりした感じとは違う。笑っている目の奥に、疲れの色が滲んでいる。めったに見せない、憔悴した瞳。誤魔化そうとしているのはきっと自分を、悟飯を気遣っているからだ。だってこの人は優しいから。だから私は誤魔化されてやらなければ。



 言いたくないなら言わなくてもいいではないか。

 漏れ伝わってきてしまうその心のざわめきを、気づいていないふりをしてあげればいいのだ。そしてその疲れた心と体を自分が癒してやるのだ。それが自分に出来る唯一のことなのだから。



 



 もうあと七日で人類が滅亡するかもしれないというだけあって、どの商店もシャッターを降ろしている。ひとっこひとりいない山道を走りながらカーステレオから流れるメロディーをぼんやりと聞く。すると急に臨時ニュース速報に切り替わった。なんでも国立防衛軍が例の化け物を襲撃するのだという。



 ふいにおとついカメハウスで見た化け物本人によるテレビ中継が鮮明に蘇ってきた。この上なく忌まわしく、それでいて馬鹿げているとしか思えないような告知をしたあと、そいつは方手から激しい閃光を放ちテレビ局の壁を破壊し、その向こうにあった街も一瞬にして消し飛ばしてしまった。それを見た時自分の顔が憎悪にゆがむのがわかった。

 しかしそれは町の人たちがかわいそうだとか、殺されたテレビ局の人が気の毒とか、そういう憐れみや正義感からくるような立派なものではなかった。



 これが、こういうことを普通にやってのけるような世界が、夫の棲む世界なのだ。

 今までの、宇宙を含め、夫や息子が巻き込まれてきた度重なる戦闘のうち、一体何度このように町や山が吹き飛び、敵が、仲間が、殺し、殺されてきたのだろう。そしてそれを夫や、幼い息子は一体どのような心境で見て来たのだろう。目の前で人が殴り殴られ、吹き飛ばされ、絶命させられるその瞬間を。

 思い出すとまた自然と眉をひそめて目をすがめてしまう。



 普通ではない世界。

 あの化け物が放ったような力などを使って、七日後に夫は殺し合いをするのだ。『戦い』などと言っても、その実は殺し合いなのだ。

 地球のためだと皆が言う。夫が、息子が、自分達がやらなければと言う……。



 スピーカーから聞こえていた国立防衛軍の激しい攻撃の音が急に止み、かわりにノイズだけが虚しく車内にこだました。怒りの色を滲ませた夫は先に帰ってくれ、と、ピッコロに用事が出来たと言って車を降りたかと思うとフッ……と一瞬で消えてしまった。



 初めて会った時から、普通の世界に棲んでいないことはわかっていたはずだ。

 しかしここまで人知を超えた域に来てしまうとは。地球の未来をよもや自分の夫や息子が背負うことになろうとは。

 ……ではこうなるとわかっていたら、この現実が見えていたなら、果たして自分はこの人を諦めて、別の人生を歩んでいたのだろうか?





 呪いたくても呪えない、己が選んだ、いばらの道。





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 息子の友達だという幼いナメック星人を新しい神に据えてドラゴンボールを復活させた。そして息子をそのまま神殿へ預けて一人で帰ってきた。案の定、一人で帰ってきた自分に妻は眉をひそめてなぜそんなことをしたのだと聞いてきた。



 たまには、二人っきりもいいだろ?



 そう言って後ろから軽くのしかかると意外や意外、そうだな、と言って腕に頬を寄せてきた。てっきり怒りだすと思っていたのにどうしたのだろう。預けてきた場所が神殿だから安心、という他に何かあるのだろうか。



 ……でも、これでいい。こうしたかったのだから。

 そのままリビングのカーペットの上になだれ込む。二人だけで、その日までの時間を過ごしたい。そのために一人で帰って来たのだ。今はこいつの、この体温だけを感じていたい。

 今腕の中の妻は母の仮面をすっかり脱いでいる。揺れる視界の中でなんとか開いたその半目でただのひとりの女としてこの自分を見てくれる。

 化け物も、戦いも、地球の未来も関係ない。

 今、自分が必要としているのは己がただのひとりの男だという事を教えてくれる、こいつの存在だけだ。





 



 



 自分の体が大き過ぎて二人で入るには湯船も狭い。

 息子と入ることはしょっちゅうあるが、こうして二人で入るのは一体いつぶりのことだろう。前に座らせた妻の首筋に鼻先を埋めて目を閉じた。

 ------まずい、と思った。

 やわらかなこいつの香りと柔らかいうなじ。脱力して身をゆだねると自然と目頭が熱くなってしまったのだ。 完全に自分を解放してこいつに身をゆだねきってしまうと、自分はこうも情けないものなのか。



 長い一年だった。

 あの部屋で過ごした約一年で直面した事実と、感じてしまった己の限界と、どこか緊張していた疲れとで、思っていたより自分がぎりぎりの状態であったという事を思い知る。

 ……ああ、こいつがいてくれなければ。無茶ばかりの自分をこうして包み込んでくれる。ただ黙って許してくれて、甘えさせてくれて、癒してくれる。



 ……すると突然妻が静かな声でそっと、悟飯が赤ん坊のころによく歌ってやっていた子守唄を歌い始めた。まるで何もかもを見透かして、大丈夫、と、わかってる、とでも言うかのように。





 

 坊や男児(おとこ)だ よしよし泣くな

 親がないとて 泣くものか

 お月様さえ ただひとり

 泣かずにいるから よしよし泣くな









 黙って聞いていると妻がそっと囁いた。



『悟空さ、悟飯が強いのはおめぇの息子だからだよ』





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 肩口にあてられた夫の頬が熱く濡れている。

 今二人で浸かっている湯の温かさとはまた別の、もっともっと熱い雫が肩にかかる。



 この人が今抱えている疲労を、緊張を、重圧を、不安を、疑念を、少しでもやわらげてあげたい。

 この自分にしか出来ない抱擁を、安らぎを、安心を、解放を、そして何より、自信を与えてあげたい。



 昔よく息子に歌っていた子守唄を、今日はこの人のために。

 大丈夫。あなたは大丈夫。きっと上手くいく。あなたは誰よりも強い信念と、まっすぐな心を持っているから。だから自分を信じて、前を向いて。



 今心を読んでる? だとしたら。

 何度でも言ってあげる。あなたは大丈夫。世界一、ううん、宇宙一強いのは、力だけじゃない。その心も、今でもちゃんと透き通っていて、強い芯が通っているのだから。だから、大丈夫。



 夫が頬を擦りつけてきた。

 体に回された太い腕を何度も撫でた。ぬぐってもぬぐっても心の一番深いところから滲み出てくる黒いもやを必死で追いやりながら。



 考えるな。自分が今それに取り込まれるわけにはいかない。

 想像するな。起こってもいないことで絶望に浸る必要はない。

 言葉にするな。現実になってしまうかもしれないなら、何があっても言うまい。





 黙って身を預けていると夫が少し鼻にかかった声で、でも確かな口調でしっかりと言った。



『悟飯を産んでくれて……ありがとな』





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『その日』までの残りの六日間、悟空とチチはほとんど外に出ることがなかった。二人とも必要としているのがお互いの他には何もなかったからだ。



 悟空はチチに癒しと甘えを求めた。チチは悟空にだけ向ける愛情を再確認した。

 今、久しぶりに二人きりで過ごすことによって自分が親であることも、戦士であることも、主婦であるとこも、世界の危機であることも、すべてを忘れることができた。

 

 どんなに普通とは違う世界で生きて来ていても、結局は二人とも単なるひとりの男と女だ。頑張り過ぎれば疲れるし、腹が立てば怒るし、落ち込めば泣くし、嬉しければ抱き合う。そういう当たり前の感情を、当たり前のように、誰の目を気にすることなくぶつけあった。



 変わった形の結婚だった。理解されない部分も多い始まりだった。時にはもう駄目かと思った時もあった。修復不可能かと思われるほどの深い隔たりができたことがあったのは事実だ。でも。それでも。こうしているとよくわかる。実感として強く感じている。なぜ別れずに今まで連れ添って来たのかが。そしてこれからもそうでありたいと、一生を添い遂げたいのだと。



 それは愛に他ならなかった。



 一方通行から始まった恋はやがて成就し、宝物が生まれてより深い絆を結んだ。絆は次第に見えない糸になり二人の心をつないで、それはゆっくりと愛に形を変えたのだった。悟空はチチをいつでも守ってきたが、その悟空の心を守っているのは他ならぬチチであった。それが二人だけの愛の形だった。

 

 六日間、この愛を悟空とチチは大切に抱きしめあった。なぜ、いま、こうしているかをお互いに口にはせずに。ただただ、その体温を、匂いを、柔らかさを、力強さを、噛みしめるように。



 やがて夜は明ける。

 このまま朝が来なければいいのにと願いながらそれを決して口にせずに。戦いのことを話すこともなく。悟飯の名前さえも紡がずに。またこうして新しい朝を共に迎えることだけを、そのことだけを祈りながら。













 見送りに出た玄関先でついにチチは言ったのだった。そしてそれに悟空は答えたのだった。



 いつもと変わらない風景の中を、いつもと変わらない胴着で出ていく。

 風はチチの横髪を揺らし、涼しげに通り過ぎていく。裏の笹がざわざわと揺れて、横の小川は変わらずにせせらぐ。

 生きて戻る。

 その二人のささやかな愛の見返りを、どうかこの日常のなかに取り戻せるようにと。



















《完》

後書き


作者:ナナコ
投稿日:2011/08/01 14:48
更新日:2011/08/01 14:48
『慕情』の著作権は、すべて作者 ナナコ様に属します。

目次

作品ID:830
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