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作品ID:892
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フルスイングでバス停を。

小説の属性:ライトノベル / コメディー / 激辛批評希望 / 中級者 / 年齢制限なし / 連載中

前書き・紹介


第四部『血反吐のひとつも吐かされたことのない野郎がヒーローを名乗ろうなんておこがましいにもほどがある』

前の話 目次

「――ウンコ喰ってる時にカレーの話をするド低脳に対して、人類はいかなる制裁を加えるべきか。これは古代オリエントにおいて文明が発祥した当時から我々の頭を悩ませてきた普遍的哲学命題であるわけだが、人類の集合知が希求するその究極的な回答が今ここにあると言ったら、この男はいったいどんな反応をするだろうか」

 『亀山前』のポートガーディアンであるところの布藤勤は今、選択の岐路に立たされていた。

 すなわち、肉体的な死か、精神的な死か。

 究極の二択である。

 トイレの便器に座り、下半身丸出しのいささか情けない格好で、全身に脂汗をかく。

 なぜそんなところで座っていたのかというと、別段特筆すべき事情など何もなく、ただ単にウンコするために自宅のトイレに入っただけのことである。

 のだが。

 ――どうしてこんなことになってしまったんだ……!

 勤は思いっきり両目をつむって、耳も塞いだ。とにかくこの現実離れした現実から逃避したかった。

 異変は、ほんの二分ほど前に発生した。

 いきなりトイレの壁をブチ破って、一人の男が姿を現したのだ。

 恐ろしく異様な風体の男だったが、彼が行ったことに比べれば何ほどのこともなかった。

 ……男は銀皿に山と盛られたカレーライスを突き出してきたのである。

 みんな大好きカレーライス。

 香辛料の刺激とまろやかさが同居したその芳醇な香りは、誰しもが食欲をそそられること請け合いである。

 ここがトイレではなく、現在進行形でウンコしているのでなければ、勤としてもツバをごくりと飲み下すにやぶさかではなかった。

「――人間の自由意志は、最大限尊重されなければならない。死刑囚ですら例外ではなく、死に方を選ぶことができる。それゆえディルギスダークはこの男に選択の自由を与えた」

「ぎゃあああ! 与えてない! 全然与えてない!」

「――暴れても無意味であった。叫んでも無意味であった。マジ無意味であった。ディルギスダークは、この男の尻からぶら下がっているウンコが落下しないうちに目的を成就させることにした。カレー最高」

 男はあろうことか、その巨大な手で勤の髪を掴むと、差し出したカレーライスへ勤の顔を突入させようとしたのだ。

 行動の意味がまったくわからない。

 が、勤にはその意味不明さに対して突っ込めるほどの余裕はなかった。

「ちょっ! やめて! それ近づけないで! あっ! ちょっ! アッー!!」



 こうして、布藤勤は死んだ。

 享年二十三歳。

 早過ぎる死だった。



 ●



 ――だれもいないのに、だれかがいる。

 語る、ということについて、ちょっと考えてみてもらえるだろうか。

 言葉を用いて物事を誰かに伝えるということ。最も汎用性に富んだコミュニケーション手段であり、誰しもが何の気なしに行っていることだ。

 『言葉では伝えられない』という言い回しが世に氾濫していること自体、言葉の持つ反則じみた万能性を逆説的に証明してしまっていると言える。なぜなら、当たり前のことをわざわざ言う必要などないからだ。

 何かを語るということは、語るに値するレアリティをもった事柄について語らないと、聴衆を惹きつけることなどできないものなのだ。

 『何を』語るのか。それは非常に重要な問題だ。

 だが、それと同等か、ともすればそれ以上に重要な問題がある。



 それは、『誰が』語っているのか、ということだ。



 ●



「なん……じゃありゃ」

 ハイパー夏休み謳歌中高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、今自分がゲームで戦っていることも忘れて、その男を見呆けた。

 奇妙と言うならば、これほど奇妙な人間を攻牙は見たことがなかった。

 なんていうか、一目見たら一生忘れられそうにない外見をしている。

 電動の車椅子に乗る、凄まじいばかりの大男。

 座っている状態なのに、威圧感を感じるほどの背丈だ。立ち上がれば二メートルは遥かに超えているだろう。真っ黒なロン毛が垂れ下がり、顔面をほとんど覆い隠していた。わずかに覗く目元にはベルトが巻かれて目隠しになっており、口には金属製の枷(ギャグ)がはまっている。

 しかも全身をベルトとハーネスでギチギチに縛り上げていた。映画に出てくる凶悪死刑囚みたいにまったく身動きは取れそうにない感じである。

 車椅子の背もたれには身を預けずに、前のめりのうつむき加減で座っていた。背中で両腕同士が縛り付けられていたのだからそれも当然である。そしてわずかに動く指先でリモコンを弄り、車椅子を操作してるようだった。

 墓地に吹き込む風のような呼吸音が、口枷からひどくゆっくりとしたペースで漏れ出ていた。無数のゲームのサウンドで会話も難しいような中にあって、その男の周囲だけが気味の悪い静寂に包まれているかのようだ。

 駅前のゲームセンター『無敵対空』。

 店長の趣味なのか何なのか、アクション・シューティング・格闘などのラインナップが無闇やたらと充実している昔気質のゲーセンである。男の姿は完全に浮いていた。不審者として通報されても文句の言えない場違いぶりである。

 むしろこいつが無理なく溶け込めるような場所にはかなり関わり合いたくない。

 ガキィーン! という金属質のサウンドエフェクトが、眼の前の筐体から発せられる。同時に、ゲームキャラクターの苦悶の呻きが痛ましく響き渡った。

「いけねっ」

 攻牙は慌ててゲームの画面に眼を戻すと、巨大な半透明のガントレットを身に付けた少年が地面に倒れ臥していた。

 でかい攻撃を食らったようだ。

「ちっ」

 対戦相手のキャラクター(ゆらゆら蠢くビーム触手をたてがみのように生やした騎士甲冑の男だ)が即座に間合いを詰め、こちらの起き上がりを待っている。

 なぜかダウン中のキャラクターには一切攻撃できない。ゲームバランス上の配慮だろうとは思われるが、卑怯外道な性格付けのキャラクターですら相手が起き上がるのを律儀に待っている光景はちょっとシュールだ。

 いや、そんなことはともかく。

 ダウンしている側が、起き上がりざまに取れる行動はだいたい決まっているが、このうち攻牙が好むのは最もハイリスクハイリターンな選択肢だ。

 ――喰らえオラァッ!

 起き上がる瞬間にレバーをZの形に素早く動かし、弱パンチボタンを叩く。いわゆる昇龍拳コマンド。

 画面の中で、少年は光のガントレットを高速で回転させながら思い切り突き出した。

 無数の水晶が砕け散るようなヒットエフェクトが炸裂し、相手キャラクターが大きく吹き飛ぶ。

 触手鎧男も何か攻撃をしようとしていたようだが、それを読んでいた攻牙はモーション中に無敵時間が存在する必殺技で相手の攻めをかわしつつ反撃したのだ。

 今度は相手がダウンする。

 攻牙のキャラクターは、ダッシュで間合いを詰めた。ガントレットが後ろになびく。それは、自らの腕に装着しているというよりは、体の両側に巨大な腕が浮遊しているといったほうが正確だ。光の巨腕は、キャラクター本来の腕とまったく同じ動きをする。

 ――起き攻めってのはこうすんだよ!

 攻牙のキャラクターは、地面を見据えながら腕を大きく振りかぶった。ガントレットに光の粒子が集まってゆき、眩く輝き始める。

 瞬間、相手が勢いをつけて跳ね起きた。

 間髪入れず、攻牙はガントレットで地面を殴りつける。画面の振動。鎧男の足元から光の柱が吹き上がった。

 敵はすでにガードを固めており、波紋のようなガードエフェクトが連続して発生するのみ。

 しかし、攻牙はその時すでに跳躍している。孤を描く軌道。そして防御している甲冑男の頭上を跳び越すと同時に蹴りを放つ。

 ヒット。

 相手を飛び越した瞬間に攻撃したため、システム内では「逆方向からの攻撃」として処理されたのだ。

 鎧男の食らいモーションが終わらないうちに小足から始動する連続技を叩き込み、ラウンド開始時に置いておいた設置技〈バーティカルヴォイド〉で真上にふっ飛ばし、空中浮遊するカーソルの中に放り込んだ。

 すると背景が闇に閉ざされ、甲冑男はビームの楔を無数に打ち込まれて空中に縫い止められた。直後に巨大な光の刃が三つ出現し、次々と振り下ろされる。巨大なヒットエフェクトが三重に咲き誇る。哀れな咎人に審判を下す。

 超必殺設置技〈セイクリッドギロチン〉。

『閃滅完了-K.O.-』

 システムヴォイスが、無機質な女性の声でそう告げた。

「『あんたの光は、濁っている』」

 攻牙はガッツポーズしながらセリフを自キャラとハモらせる。なかなかに快調な滑り出しだ。

 『装光兵飢フェイタルウィザード』。

 それが、攻牙のプレイしている2D格闘ゲームのタイトルだった。

 アニメ映画のようにヌルヌル動くスプライトと、緻密にモデリングされた3Dの背景、独創的なキャラクターデザインなど、主にビジュアル面で注目されていたタイトルだ。

 しかし実際に稼働してみると、全キャラクターが複数の設置技を持っており、浮遊静止する攻撃を連鎖的に当てて行くという特異なゲームコンセプトから「ピタゴラ格闘スイッチ」などと呼ばれてコアな人気を博している。

 相手のキャラクターはコンピュータが操作していたため、動きのパターンはもう読めている。正直、めくり攻撃(飛び越しつつ攻撃してガード方向を混乱させるテクニック)など使うまでもない相手なのだが、技術の反復練習はとても重要だ。

 画面が切り替わった。緑色のワイヤーフレームでゲーム内世界の地図が表示され、十数箇所に光点が打たれている。戦いの舞台となる場所を示しているのだ。その中の一つがピックアップされ、次に相手となるキャラクターのビジュアルが表示される。

 攻牙にとっては相性のいい楽な相手だった。

「対戦……してえなぁ」

 小声でぼやきながらレバーを握る。時刻は昼過ぎあたり。歯ごたえのあるゲーマーは大抵社会人なので、まだ出没しない。早く来すぎたか、と思う。

 背景やキャラクターを表示するため、一瞬だけ画面が真っ黒になり、BGMも止んだ。

 こひゅう、という吐息が攻牙の耳朶を舐めていったのは、その瞬間のことだった。

「え……っ?」

 咄嗟に振り返る。

 すぐ眼の前に、彫りの深い男の顔があった。

「ぎょああああ!」

 思わずイスから転げ落ちた。

 さっきゲームセンターに入ってきた車椅子の変態緊縛大男だ。背後から忍び寄り、攻牙の画面を覗き込んでいたのだ。しかし目隠しをしているのに「覗き込んでいた」というのも異様な話だ。

 そして、妙な感覚が頭の中に発生した。脳みその普段使われていない部分に、一斉に火が灯ったような、異様な感覚だった。

 ――なんだこれ!?

 しかし、今はそれよりも早急に行わなければならないことがある。

 すなわち、突然現れた不審者への誰何。

「なななななななんだよおっさん! ちちちちちちちちち近ぇよこの野郎!」

 男は、何も言わない。ただ、鋼鉄の口枷を噛み締めながら、にたあ、と笑った。

 めちゃくちゃ怖い。

 緊縛男は身を引くと、電動車椅子を操作して移動し始めた。ゆっくりと。ゆっくりと。

 攻牙は緊張しながらその様子を見ていたが、やがて台の影に隠れて見えなくなってしまった。

「ったく何なんだよ」

 息を吐く。

 ゲーセンにはたまに変な奴が来るが、群を抜いて変な奴である。

 そしてガキィーン! と効果音。

「あぁっ! やべ!」

 あわてて立ち上がり、画面を見ると、案の定攻牙のキャラクターはダウンしていた。相当ボコられたようで、体力ゲージが半分ほどに減っている。

「ええい上等だコラァーッ!」

 勇んで筐体にかじりつく。

 攻牙にとってはコンピュータ操作のキャラクターなど相手にならないので、その後はほとんどダメージを食らうことなく順当に圧倒していった。

 が、その時、筐体の反対側からゴガッとかいう音が響いてきた。

 直後、いきなりBGMが変わり、画面に『軍籍不明熱源体(アンノウン)接近中-A new wizard showed up-』という文字がデカデカと表示された。

 いわゆる乱入。他のプレイヤーに挑戦されたのだ。

 虚を突かれた。いや対戦自体は大歓迎なのだが、こんな時間帯から乱入を受けるとは思わなかったのだ。

 ――よーしやってやろうじゃねえか。

 肩を回しながら、相手プレイヤーがキャラを選ぶのを待つ。

「んん?」

 妙な――ことが起こった。

 見覚えのないキャラクターが、画面に登場している。

「なんだ……こいつ……?」

 黒い。

 ひたすらに黒い。

 全体的なフォルムは痩身の男のものだ。しかしその体は黒い結晶のようなもので形作られているらしく、立ちモーションの微妙な角度の変化で光沢が移ろってゆく。元祖3D格闘ゲームのラスボスを思わせる姿だが、体の内部では血管のような樹状構造が赤々と蠢いていた。

 これを一からドット打ちしたのならば、かなりの職人芸と言える。

 しかし、見覚えがない。キャラクターセレクト画面にはこんな奴はいなかった。

 ならばボスキャラか隠しキャラということになるのだが……

 ――ボスはこんな不気味な野郎じゃなかったぜ。

 それにネットでもこんな隠しキャラの情報など見たこともない。

 いや、それ以前に。

 ――こいつ……なんか違う……

 その違和感の正体を強いて言うなら、「デザインコンセプトの違い」である。

 もともと『装光兵飢フェイタルウィザード』は、光の力を操る生体兵器たちの闘いを描いたものではあるが、そのキャラクターたちは全員がパーソナリティを色濃く強調されたデザインだ。簡単に言うと物凄くマンガ的・アニメ的な容姿なのである。こんな無機質で人格の感じ取れない、いかにも兵器じみた輩は、どう見てもコンセプトエラーだ。

 頭身からして違う。他の人型キャラは表情を見やすくするために六頭身なのだが、乱入してきたキャラクターは明らかに八頭身である。

 アニメの世界に実写の人間が紛れ込んだような、違和感。

『第一燐界形成-Round 1-』

 システムヴォイスが告げた。ラウンドコールだ。

 攻牙は違和感を振り払い、レバーとボタンに手をやった。

 このゲームでは、直接攻撃を除くすべての行動をラウンドコールの間にとることができる。攻牙は画面内を飛び回ってベストと思える位置に次々と設置技を仕込んでいった。

 対照的に、相手はその場からじっと動かない。微動だにしない。

『閃滅開始-Destroy it-』

 そして。

 奴が、吠えた。



 ●



 七月二十一日

  午後一時三十二分五十五秒

   諏訪原家にて

    「俺」のターン



 追試、ということになった。

「よし、死のう」

 ひとつうなずく。

 俺はいつものように切腹を敢行し、いつものように霧華に殴り飛ばされた。

 取り上げられたドスを哀切に満ちた眼差しで見つめる。

「そんな眼をしてもダメ! これはもう没収!」

「くっ……なんと言うことだ……」

 タグトゥマダークとの闘いは、予期せぬ後遺症を引き起こした。期末試験の開始時刻と同時に襲来してきおったので、俺たちは一日分試験をサボることになってしまったのだ。まさかこれが狙いだったのだろうか。

 恐ろしい男である。

 その時、いきなり喧しい電子音が鳴り響いた。

「むむ?」

 懐でけたたましく鳴り始めた物体を手にとる。思わず首をかしげた。

「これは何だ?」

「携帯電話でしょうが!」

「……あぁ、なるほど、電話がかかってきたのだな」

 納得顔で頷き、不敵な笑みを見せる。

 このたび、俺と霧華は携帯電話を持つことになった。このような奇怪極まるからくりには苦手な印象しかないのだが、父上と母上に「頼むから持ってくれ」と懇願された故、致し方あるまい。

「フッ……問題ない。すでに説明書は読んだ。操縦の理論は頭に叩き込まれている」

 霧華は少し目を見開く。

「えっ、そうなんだ。兄貴がこんなに早く文明機器になじむなんて珍しいね」

「大丈夫……俺ならできる……問題ない……平常心平常心……訓練通りにやれば必ず生きて帰ってこれる……」

「いいから早く出ろ! ……って、アレ? 兄貴の携帯ってそんな形だっけ?」

 かくして、カバーを開いて通話ボタンを押すという艱難辛苦に満ち満ちた冒険行ののち、俺は満を持して携帯電話を耳に押し当てた。

 あとは普通の電話と同じである。いささか以上にホッとしながら声を発した。

「もしもし、諏訪原篤である」

『――ウンコ喰ってる時にカレーの話をするド低脳に対して、人類はいかなる制裁を加えるべきか。これは古代オリエントにおいて文明が発祥した当時から我々の頭を悩ませてきた普遍的哲学命題であるわけだが、人類の集合知が希求するその究極的な回答が今ここにあると言ったら、この男はいったいどんな反応をするだろうか』

「誰だ貴様」

 そして何を言っている。

『――諏訪原篤はそう言い捨てると、不審の念を込めた沈黙で相手を威圧した。それだけで空気が重みを増す、存在感のある沈黙だった。ディルギスダークは頬を歪め、用件を伝えにかかる』

 電話の相手は低く笑った。

『――降伏せよ。もはやこの地域はディルギスダークが制圧した。諏訪原篤に味方は居ない。バーカバーカ。ハーゲ。うんこー』

 小学生かよ。

 俺は口を噤んだ。意図せずして目元が険しくなってゆく。

「……それは、どういう意味だ」

『――ディルギスダークは極めて特殊な操停術を編み出した。その神髄は、洗脳。すなわち敵対者の頭脳中枢に内力操作で働きかけ、己の傀儡と化さしめる技法である』

 バス停の力で、洗脳する……

「……そんなことが、可能なのか……?」

『――無論、信じる義務など諏訪原篤にはなかった。だがすぐにわかることだ。朱鷺沢町近郊を守る四人のポートガーディアン。彼らをもはや味方とは思わないほうが良い』

 俺は眉間に皺を寄せる。

「貴様……勤さんたちを洗脳したというのか?」

『――いずれもなかなかの猛者ぞろい。彼ら全員が諏訪原篤の敵となる。抵抗は無意味だった。降伏こそが最良の選択肢である』

「断固として断る」

『――ではもうひとつ、諏訪原篤が降伏したくなる計を案じることにした』

「どのような策を弄そうと、折れる心など持ってはいない」

 忍び笑いが、受話器から漂ってきた。

 一瞬、異様な気配がした。



『――ディルギスダークはたった今、諏訪原篤の妹、諏訪原霧華を拉致することに成功した』



「なん……だと……?」

 ぞわり、と。

 冷たい汗が噴き出した。

「霧……華……?」

 ゆっくりと、振り返った。

 自室があった。いつもと変わらなかった。

 霧華は――いた。安堵したのもつかの間、彼女が床に倒れ臥していることに気付く

 眼が見開かれ、瞳孔が収縮した。携帯が手から落ちる。心臓を締め付けられる感覚。

「霧華! どうした」

 抱き起こし、揺さぶる。しかし力なく首を振るばかりで、一向に反応を見せない。

 俺は携帯を拾い上げた。

「貴様……霧華に何をした!」

 さっきまで霧華はすぐそばで喋っていたというのに、なぜいきなりこんなことになったのか不可解だった。

『――精神的誘拐である。諏訪原霧華は、その意識だけが肉体を離れ、ディルギスダークの手中におさまったのだ』

 ありえない。ディルギスダークとは今携帯電話で話している所だ。ここにいた霧華を昏倒させることなど不可能なはず……

 ……いや。

 恐るべき可能性に行き当たった。

 すぐに携帯電話に噛みつく。

「貴様……まさか……[今までずっと近くにいたというのか]!? この家の中で息をひそめ、この機を窺っていたというのか!?」

 喉を痙攣させたような笑いが電話の向こうから聞こえてくる。

『――今回諏訪原篤が得るべき教訓は、『戸締りには気をつけましょう』ということであった。いくら暑いからと言って網戸のまま長時間放置するなど、知らないおっさんに侵入してくれと言っているようなものであった』

「貴様……どこだ! どこにいる……!」

 携帯電話を握り締めたまま、俺は周りを見渡した。

 しかし、動く者など何もない。当然だ。ディルギスダークの声が電話口からしか聞こえないということは、すでにそれだけ離れた場所にいるということだ。

『――無意味であった。無駄であった。諏訪原篤は大切なものを何一つ守ることなく、失意のうちに打倒されることだろう。味方はいない。ただの一人も』

 電話が、切れた。

 静寂が襲い掛かってきた。

「くっ……」

 家中を探し回ったが、敵の姿は影も形も見当たらなかった。

 意識を奪われた妹の前に再びやってきた俺は、力なくそのそばに膝を突く。

 呼吸と脈拍を確認。……正常。

 ただ意識だけがない。

「すまぬ……俺が至らぬばかりに……」

 おもむろに天を見上げる。

「……思考せよ」

 険しく目を細めながら、そうつぶやく。

「ことここに至り、ディルギスダークが打つ次なる一手は何か?」

 ――味方はいない。ただの一人も。

 ディルギスダークの言葉を反芻する。この言説が意味するところは何か?

 俺は携帯を拾い上げると、たどたどしく操作しはじめた。

 確か……攻牙からこう言う時のための緊急連絡手段を教わっていたはずだ。

 電子メールを一発で複数の人間に送信する手法。

 かなり手間取りながらも、どうにか文面を送ることに成功した。

「これでよい……のだろうか?」

 いまひとつ、自信はない。しかし画面に表示される「送信完了」の文字を信用することにした。

 瞬間。

「む、殺気!」

 ……強大な殺意が、俺の体を貫いていった。

 顔を上げ、素早く周囲を見渡す。

 ――どちらだ!? 殺意の源は!

 しかし、感知できない。どこかすぐ近くのようにも思えるのだが……!?

 直後、巨大な怪鳥の叫びにも似た不協和音が、大気を引き裂いた。



 ●



 何かが閃光とともに奔り抜け、諏訪原家を真っ二つに両断したのち、勢い余って田園地帯を一直線に通過。深さ三十メートルに達する亀裂を大地に刻み込んだ。この時恐るべき怪音波が周囲の住民たちに向けて放射され、脱サラファーマー山本功治の愛犬ケンシロウをおびえさせ、山本功治の一人娘久美(一歳)を泣かし、山元功治が飲んでたお茶を吹き出させ、山本功治がひそやかな趣味として楽しんでいたガンプラの塗装作業を台無しにさせる等の深刻な騒音被害を発生させた。夏休み限定の新聞配達少年・那桐(なぎり)龍醒(りゅうざ)は驚きのあまり自転車から派手に転倒して路傍の岩と激突。その衝撃で人類の起源に関わる重大な記憶を思い出してしまい、世界の存亡をかけた戦いに巻き込まれてゆくことになるわけだが本編とは何の関係もないのでカット。

 とにかくまぁ、それほど凄まじい音だったのである。

 ――それは、鴉の絶叫に似ていた。



 ●



 七月二十一日

  午後一時三十五分二十秒

   霧沙希家にて

    「射美」のターン



 ホントはこんなつもりじゃなかったんだけど。

 何かすべすべとしてやわらかい感触が、射美の全身を包んでいるでごわす。

 ――えっと……なんでこんな状況になっちゃったんでごわしたっけ……?

 射美はソファに寝そべっていて、さっきまで眠ってたみたい。頭の中がじんじんするでごわす。

 ――えーと……たしか藍浬さんと……なにしてたんだっけ……?

 寝ぼけて考えがまとまらない~……

「ん……」

 伸びをしようと体をいったん曲げた。

 ふにゅん。

 と、顔に何かが当たった。なんだか、温かい海に顔を浸したようなカンジがした。

 “神話の海”。そんな神秘テキな単語が頭をよぎった。きっと諏訪原センパイの影響でごわす。胸の奥でチリチリと欲望がうずくでごわす~。

「んん~」

 もっと深く潜ろうと首をよじらせ、顔を押しつける。

 海は、むにょむにょぷよんと、どこまでも柔らかく射美を受け入れてくれた。

 そのあたりで、意識がハッキリとしてくる。

 ――あ、そーだ……たしか追試くらっちゃったから……藍浬さんに勉強教えてもらってて……

 で、そのまま寝た、と。

 ぼんやりと思考しながら、はむはむと海を唇ではさむ。

 こうしていると、物凄く落ち着くでごわす。他のことがどうでもよくなってゆくぅ~。

「ぁ……ん……」

 ふいに、神話テキ海面がかすかに震え、かぼそい声が聞こえた。

「んにゅ……?」

「ふぁぁ……あら、射美……ちゃん……?」

 呼ばれて、すこしだけ顔を上げた。

 眠りの気配と涼しげな微笑みが溶け合って、優しく細められた眼。

 藍浬さんが、射美を穏やかに見下ろしていた。

「んもう……甘えんぼさん」

 ぎゅっと抱きしめられた。

 ――あぁ~、胸の中が、ふくふくするぅ……

 藍浬さんにひっついていると、とっても気持ち良くてシアワセでごわす♪

 眠気が晴れていって、周りの情景がちょっとずつに頭に入ってくる。

 広い居間。二人が寝ている白いソファ。教科書とノートが広げられた白いテーブル。白い壁。木目のフローリング。角に置かれたシマトネリコの鉢。

 ガラス張りの壁から降り注ぐ陽光は、昼下がりの時刻を表していた。

 そして、何かが聞こえる。短いメロディが繰り返されているみたい。

 さっきからずっと鳴っていたはずだけど、寝ぼけ頭のせいで耳に入ってこなかったのかな。

「あ……メールでごわす……ね」

「うーん、そうねえ……」

 のんびりとした声で、ささやき交わす。

 なんとなく、離れがたい。藍浬さんの二の腕にほっぺスリスリ。

 目覚まし鳴ってるけどまだ寝ていたい心境を、もうすこし甘やかにしたカンカク。

 ――んにゅ……カラダが勝手に甘えるでごわす~……

「起きないと、いけないわよねえ……」

「あうぅ、そーごわすね……」

「よーし、いっせーのーでっ」

「よいしょっ!」

 精神的に勢いを付け、射美と藍浬さんは起きあがった。

「うー…んっ! よくねたでごわす~♪」

「あふ……ちょっと頭痛い……かも」

 藍浬さんとそろって伸びをし、テーブルに置いてあったそれぞれの携帯を取った。



 from:諏訪原センパイ

 title:きけんあぶない

 subject:すぐにげろせんのうされるでいるぎすだあくがきた



「……」

「……」

 二人して黙る。

「漢字変換おぼえろでごわすーっ!」

「うふふ、メールはじめてだもんね、諏訪原くん」

 でも、文の内容はのほほんとしていられないカンジでごわす。

「うぬぬ、これはマズいでごわすよーっ!」

 射美は携帯を掲げて叫んだ。

「うーん、わたしにはどういう意味なのかよくわからないけど……」

「ディルさんが動きだしたでごわす! 洗脳はディルさんのオハコでごわすよーっ!」

 ディルギスダーク。

 内力操作をなんか変な方向に極めて、自分の肉体だけじゃなく、他の物体にもみょうちきりんな影響をあたえるおっちゃん。十二傑の序列第六位。ゾンちゃんと並ぶ超イロモノ。

 得意技は洗脳だった気がするでごわす。

「まあ大変……諏訪原くん、大丈夫かしら」

 眉をひそめ、頬に手を当てる藍浬さん。

 射美は立ち上がった。

「射美、いくでごわすー!」

 両のにぎりこぶしを持ち上げ、鼻息も荒く宣言した。

「ゼッタイ諏訪原センパイをたすけて帰ってくるでごわすっ! だから三時のおやつの準備をして待ってるでごわすよ~♪」

 藍浬さんは目尻を下げながらも微笑んだ。

 腕がのびて、射美を抱き寄せてくれた。

「わかったわ。絶対に帰ってきてね、射美ちゃん」

「んにゅ、モチロン♪」

 あぅ~、シアワセ~♪



 ●



 七月二十一日

  午後一時三十五分四十五秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「 」のターン



「Insanity Raven」。

 体力ゲージの下に、そんな名前が記されていた。

 攻牙は、呆然と画面を見ていた。

 画面の端で、攻牙のキャラクターは延々とダメージを受けている。

 単調なループコンボ。

 ジャブ二発とストレートを延々と繰り返し、間合いが離れたらダッシュで即座に喰らい付く。

 そしてまたジャブジャブストレートジャブジャブストレートジャブジャブストレート。

 以下エンドレス。

「お……おいおい」

 抜け出せない。一連のループは完全にコンボとして繋がっており、すでにヒットカウンターは五十を越えている。

 殴られると当然のけぞるわけだが、そののけぞり動作が終わらないうちに次の攻撃を叩き込まれるので、攻牙は何もできないのだ。

 永久コンボ。あってはならないバグのひとつである。

 体力は、約半分程度にまで減って止まっている。よくよく眼を凝らすとほんのわずかずつ減っていっているようだ。

 いわゆる「コンボ補正」。常軌を逸した多段ヒットコンボは威力が徐々に減っていき、最後にはダメージがほとんどなくなってしまうのだ。

 だが、だからといって状況が好転するわけではない。確かに体力ゲージは減らないが、相手がコンボを続ける限り攻牙は攻撃できない。そうなれば体力が減っているこっちが時間切れ負けだ。

 ゲームの残り時間は、あと三十数秒。

「おいおいおいおい……」

 攻牙は台に頬杖を突き、延々と痛々しい呻きをあげ続ける自キャラを見る。

 ――こんなとこでハメや即死コンボの是非について思いを巡らすことになるたぁなぁ。

 攻牙は基本的に、ゲーム内でできることはどんな手でも使うべきだと思っている。それがメーカー側の調整ミスだろうが何だろうが、勝つための最適解を瞬時に判断し実行する精度を競うのが格闘ゲームだ。

 脱出不可能な永久コンボがあるなら、喰らわないように立ち回ればよいだけのこと。それができなかった自分は、潔く負けを認めるべきなのだ。

 とはいえ――

「こいつはちょっとどうかと思うがなぁ」

 出が早く隙も少ない弱パンチから始まる永久コンボ。奥行きの存在しない、限定されたゲーム内空間で、小パンを一発も貰わないというのは……

「かなーりムズいぜ」

 不可能、とは言いたくないが。

 しかし、それでも。

 要するに、攻牙はゲームの中の競技性を重視しているのだ。競い合いの余地すらないような状況がこうも簡単に作れてしまうのでは、競技として成り立っていない。

 じゃあ、どこまでが良くて、どこからがダメなのか? 当てづらい攻撃から始まる永久コンボなら許されるのか? その「当てづらい」というのはどの程度の当てづらさなのか?

 少なくとも攻牙には答えられない。

 ――ちょっとやってみて勝てないからと言ってすぐにクソゲー扱いするようなアホと自分が同じだとは思いたくねーけど……

 しかし、本質的には同じなのだろうか?

 それにしてもこの相手、よくもまぁこんなに長時間の間ミスりもせずにコンボを続けられるものである。たまにダッシュを挟むのだから、それなりにレバー操作は忙しいはずなのだが、すでに百ヒットを超えている。

 機械かよ!

 ――やってる野郎は何を考えてんだろ?

 楽しいのか?

 腹立たしい気持もないではないが、それより好奇心が上回る。

 ――ちょっくら相手のツラを拝んでやるか。

 残り時間はまだあるし、見て速攻戻ってくれば問題あるまい。

 そう決意すると、勢いよく立ちあがる。

 筐体を回り込み、反対側を覗き込む。

「……げぇっ!?」

 思わず、変な声で呻いた。

 異様な光景が広がっていた。

 電動車椅子に乗る変態緊縛大男が、そこにはいた。

 相手はこいつだったようだ。

 しかしそんなことはどうでもいい。

 それよりなにより異常なのは、男が筐体の画面に頭を突っ込んでいたことだ。

「ちょっ……なっ……おま……おまっ!」

 姿勢はめっちゃ前のめりだった。画面はもちろん割れていた。あたりに透明な破片が飛び散っていた。

 筐体からは白い煙が立ち上り、バチバチと火花が弾けている。なにやってんだコイツ。

 攻牙の声に反応したのか、もぞりと男の巨体が動いた。

 派手な音をたてて頭が画面から引き抜かれ、こっちを向いた。その顔は血まみれだった。

 にたあ。

 と、口枷を噛みしめて怖気立つような笑み。

 立ちすくむ攻牙の耳に、ふと、異様な響きが感知された。

 みしみし、という音。

 それが何の音なのか理解する前に――

 ばぎり、という音。

 男の口にはまっていた金属製の口枷に、ヒビが入っていた。

 頬が、歪む。人間の口がここまで裂けるものなのかと思うほどの、獰猛な笑みだった。

 ぎぢぎぢ、という音。

 攻牙は思わず一歩後ろに下がった。

 めぢぃっ、という音。

 口枷が砕け散った。車椅子や床にばらばらと落下する破片。男の巨大な顎が、ゆっくりと動いた。

 ごぎりごぎり、という音。

 やがて、男は口を開いた。

「――ぶっちゃけ、不味かった」

「喰ったのかよ!」

 もう意味わからん。

「ててててめえこの野郎どういうつもりだ! きょきょきょ筐体に何やってんだこのオッサンはー!」

 男は恐ろしく巨大な顎門を開いた。さながら地獄の門かブラックホールか。攻牙のちっこい体などひと呑みに出来てしまいそうな口である。

「――席に戻ることを推奨する。勝負はあと一ラウンド残っている」

「いやいやいやアンタ自分が何やってるのかわかってんのかーッ! いまボクが店員呼んだら即出禁だぞこの野郎!」

「――席に戻ることを推奨する。むろん、その勇気がないのならば話は別である」

「ンだとコラ」

 この手の挑発だけはスルーできない。

「上ォ等ォだ出禁野郎。てめーが社会的に制裁される前にゲームの中で制裁してやらぁーッ!」

 肩を怒らせて席に戻る攻牙。

 ちょうどその時、タイムオーバーとなって一ラウンド目は終了していた。無限コンボから解放された攻牙のキャラクターは、拳を握り締めながら相手を睨みつけている。体力ゲージは残り三割程度。

 敵キャラクターの「Insanity Raven」とやらは、ニュートラルポーズのまま何のリアクションもとっていなかった。

 こいつには、勝ちポーズがないのだろうか。

 ――まあいいブッ殺してやらあ。

『第二燐界形成-Round 2-』

 そして始まる第二ラウンド。攻牙はより攻撃的な位置に技を仕込んでゆく。

 敵を真上に打ち上げる〈バーティカルヴォイド〉を画面左端に置き、左右任意の方向に吹き飛ばす〈スローターヴォイド〉を右右左左左の順で配置してゆく。図解にすると「↑→→←←←」という感じであり、中央付近の「←」はほとんど敵と重なるような位置だ。

 相手は一切動かない。

『閃滅開始-Destroy it-』

 敵の咆哮が轟きわたる。画面が振動する。「Insanity Raven」の唯一の自己主張。

 オ前ヲ、コレカラ、殺ス。

 そんな声が聞こえてきそうな、狂烈な意志の発露。

 ――そういうことはなぁ……

 攻牙はすでに一足一撃の間合いをキープしていた。

 ――戦いが始まる前に済ましとけ……!

 足払いが命中。咆哮が中断された。

 花火のようなヒットエフェクトとともに、敵の黒い体が地面に倒れ掛かる。だが完全にダウンする直前、設置しておいた〈スローターヴォイド〉が発動。相手を左方向へ吹っ飛ばした。

 そこからはピンボールのようなありさまだった。

 「Insanity Raven」の体が右へ左へせわしなく吹っ飛びまくる。そして最後に〈バーティカルヴォイド〉によって真上に打ち上げられ、すでにジャンプしていた攻牙の空中コンボが炸裂。連続して砕け散る水晶のエフェクトが、画面中をネオンのように輝かせた。

「っしゃどうだ!」

 通称『反復横跳び』と呼ばれる連鎖方法だった。一瞬で相手の体力を半分にまで減らす、最大級の大ダメージコンボである。しかし陣形を構築するのに時間が掛かる上に、設置技を打ち消す攻撃が全キャラに標準装備されているので、実戦で決まることはまずない。

 ――思ったとおりだ!

 攻牙は口の端を吊り上げる。

 ――この野郎はゲームのセオリーをなんにもわかってねえ! ド素人だ!

 まあ、ド素人がなぜ隠しキャラクターを使っているのかという疑問は残るが、とにかくあの緊縛男は『装光兵飢フェイタルウィザード』における立ち回りの基本をまるで理解していない。おそらく、ラウンドコールの間に動けることも、設置技を打ち消す手段があることも知らないのだろう。

 だから『反復横跳び』などという魅せコンを食らうのだ。

 ダウンした「Insanity Raven」に重ねるように〈バーティカルヴォイド〉を置いておく。

 直後に奴が跳ね起きた。さすがに設置技はガードされる。しかしそれは織り込み済みだ。防御の上から畳み掛けるようにラッシュを仕掛け、相手の行動を封じる。鈍い音が連続し、青のガードエフェクトが弾ける。

 ――ここからイキナリ下段攻撃に切り替えてコンボ叩き込んでやる!

 格闘ゲームには『ガード硬直』というものがあり、敵の攻撃を防ぐと、ガード状態のまま一瞬だけ動けなくなるのだ。

 攻牙はその隙に乗ずる。突発的にしゃがみ込み、足払いを差し込もうとした。ごく初歩的なガード崩しだが、素人には対応できまい。

 だが。

「……っ!?」

 攻牙は喉を詰まらせた。

 相手は突然の下段攻撃に対し、ガードなどしなかった。

 なぜかいきなりパンチを出し、なぜかそれが攻牙にヒットしたのだ。

「ガーキャンっ!?」

 ガード中にレバー前と攻撃ボタンを同時に入力することで、カード硬直を省略していきなり反撃できる。これをガードキャンセルと言う。

 ――いや……違う!

 ガードキャンセルを使って反撃してきたのならば、発光エフェクトと共に一瞬だけ時間が止まる演出が入るはずだ。なにより、こんな初心者がガーキャンなど知っているとは思えない。

 だが、今のタイミングは明らかにガード硬直を無視している。

 つまり、どういうことか?

 ――まさか……こいつ……

 再びジャブジャブストレートの永久コンボが始まり、殴られ続ける自キャラを呆然と眺めながら、攻牙は唇を噛み締める。

 ――最初からガード硬直なんてないんじゃねえか!?

 そもそもガード硬直とは、メーカー側の意図的なバランス調節の一環である。アグレッシヴな試合の方が盛り上がるので、攻撃側がやや有利になるように仕組まれているのだ。

 だが、「Insanity Raven」は弱パンチ一発から永久コンボに入れる。要するにゲームバランスなどまったく考えられていない狂ったキャラクターだ。そんな奴にガード硬直など設定されているわけがなかったのだ。

 攻牙は自らの失策を痛感する。無意識のうちに、敵がまともな相手のつもりで行動していた。度し難い隙だ。

 ――おかしな永久を使ってきた時点で気付くべきだった……!

 頭を抱える。

「ちっくしょう!!」

 やり場のない怒りに、指が戦慄く。

 瞬間――

 妙な、ことが起こった。

 ゲームの画面が近づいてくるのだ。

 ――ん?

 別に自分が動いた覚えもないのに、視界の中でどんどん画面が大きくなってゆく。

 ――なんだ!?

 というより、自分の方が引き寄せられていくようだ。慌てて後ろを見る。

 自分自身の顔があった。その体がゆっくりと傾いてゆき、力なく床に崩れ落ちる。そのさまを、攻牙はなぜか客観的な視点で見ていた。

 ――ゲエーッ! これはっ!!

 幽体離脱!

 マンガやアニメでよくみる光景だ!

 なぜかわからないが、攻牙はいきなり幽体離脱して魂だけが画面に吸い込まれているのだ。

 ――ウソだろおおおぉぉぉぉ!?

 ブラックホールに遭遇した宇宙船の気分を味わいながら、攻牙はそのままゲーム筐体に吸飲されていった。



 ●



 七月二十一日

  午後一時三十八分十一秒

   諏訪原家の前にて

    「俺」のターン



「……これは一体……」

 俺は我が家を襲った惨状を眺めていた。

 背中にぐったりした霧華を背負い、手には『姫川病院前』が握られている。内力操作の超身体能力によって、強引に家から脱出したのだ。

 我が家は斜めに烈断されたのち、断面にそってずれていっているところだった。やがてズレが限界に達し、家屋の上半分ががくりと倒れると同時に瓦解。粉塵と木屑がもうもうと立ち込める中、諏訪原家は山の藻屑と化した。

 ――瞬間、狂乱した鴉の絶叫が鳴り響いた。

 見ると、異様な音を発する巨大な円盤のようなものが、凄まじい速度で迫ってくる。

「くっ!」

 俺は地面を蹴り、その場を離脱した。

 直後――

 光の円盤は、狂風をまとって遥か彼方へとカッ飛んでいった。轟音と土塊が撒き散らされ、巨大な一筋の爪痕が大地に刻まれる。風圧が殺到し、俺の体をよろめかせた。圧倒的ともいえる存在感。ただ通り過ぎるだけで、天変地異にも等しい被害を出してゆく。

 一見したところ、外力操作系の技に見える、が。

 確か……ディルギスダークは内力操作系バス停使いだったな。

 してみると……どういうことだ?

 とりあえず、家を破壊した一発も、さっきすぐそばを掠めていった一発も、どちらも真南の方角から飛来した。

 ――ということは、敵は真南にいるのだろう。

 しかし姿は見当たらない。よほど遠くにいるのか。

 俺は大気を思い切り吸い込んだ。

「姿を現せ! ディルギスダァーク! 尋常に勝負せよ!」

 すると、懐の携帯電話が鳴り出した。

 ポケットから取り出す。

「……ううむ、ええと」

 どうやって電話に出るのだったか?

 数秒間の懊悩ののち、たどたどしい手つきで通話ボタンを押した。

『――ないわ。マジないわ。ディルギスダークは姿なき狩猟者。虚数の彼方にて生ぜし者。諏訪原篤は造作もなく打ち倒されることだろう。自分が何を相手にしているのか知ることなく』

 だから何を言っているんだこいつは。

『――円盤の攻撃速度は亜音速。加えて射程は無限大。諏訪原篤に逃れるすべはなかった』

 鴉の絶叫が、みたび響き渡る。

「むっ!」

 携帯をしまい、『姫川病院前』を掲げた。

 直後――

 バス停に巨大な光輪が激突していた。やはり真南からの攻撃だ。

 接触点から間断なく火花が飛び散り、耳を塞ぎたくなるような金属の悲鳴が大気を引き裂いた。

 まるで、巨大な丸ノコを受け止めているかのような光景。

「ぐ……!」

 腕が、痙攣する。

 踏みしめた両足が大地に沈み込んでゆく。バス停の柄が掌にめり込んでゆく。

 全身の筋肉が張りつめ、血管が浮かび上がる。

 俺は歯を食いしばる。

 凄まじいばかりの圧力。桁違いのパワー。同じ絶望を味わおうと思ったらゴジラに踏みつけられる必要があるのではないか。

 顔が強張ってゆく。骨が軋む。

 タグトゥマダークがネコ科の肉食獣のように危険だとしたら、ディルギスダークはダンプカーのように危険だ。

 真っ向勝負だと必ず負ける。しかし、俺は真っ向勝負しか戦う方法を知らない。最悪の相性。

 受け切れない。

「ううおおっ!」

 『姫川病院前』に漲る〈BUS〉を内力操作。上方へ「弾く」力を停身に行き渡らせる。

「おおおおおおッ!」

 同時に、渾身の力を込めて得物をカチ上げる。

 ひときわ巨大な火花が咲き狂い、円盤の軌道がわずかに上方へと曲げられる。

 即座に身を屈め、やり過ごした。風圧が叩きつけてくる。

 肩で息をする。全身から汗が噴き出した。

 たった一撃受けただけで、すでに疲労困憊だ。

「次からは回避に専念し…………ッ!?」

 思わず、呻いた。

 やり過ごしたはずの円盤が、急激に向きを変えて襲い掛かってきたのだ。

「なんと……!」

 完全に虚を突かれた。

 悪辣なフェイント。ディルギスダークはこの時を待っていたのだ。光輪を「直進しか能のない飛び道具である」と俺が勘違いしてくれるまで、ずっと同じ方角から向かわせていたのだ。

 あれはただの飛び道具ではない。かなり精密な遠隔操作が可能な上に、何度でも繰り返し攻撃できる。

 閃光。

 衝撃。

 『姫川病院前』の破片が、視界一面に飛び散った。

 防御は――辛うじて間に合った。何の慰めにもならなかったが。

 真っ二つに叩き折られ、ミキサーに巻き込まれるかのように粉砕されてゆく『姫川病院前』を、俺は呆然と眺めた。

 あおりを受け、体が後ろへ倒れ掛かる。背中の霧華のことを思い出し、身をよじってうつぶせに倒れる。

「不覚……!」

 次の一撃防ぐ方法は、ない。

 立ち上がろうとした俺の前に、悪夢のように、輝く光輪が現れた。

 鴉の声が、心なしか、嘲笑っているように聞こえた。

 円盤は、慈悲も躊躇いもなく、突進してきた。

 恐怖は、特になかった。

 しかし、さらわれた霧華(の精神)を助けることも出来ずに力尽きるのがなんとも無念で、自らの不甲斐なさを情けなく思った。

 ――あぁ、俺には解脱も転生も許されまい。

「いつも心は吐血色ーーーーーーっ!」

 瞬間……甘ったるい声がして、なんか来た。

 巨大な鉄の塊が、横合いから視界へと突入。絶大な火花とともに円盤を撥ね飛ばした。一瞬遅れて撒き散らされた衝撃波が吹き荒び、辺りに舞い上がっていた砂煙を一掃する。

 それは、バスだった。

 緑と白のツートンカラーが目に優しい、何の変哲もないバスだった。表面が淡い色彩のエネルギーフィールドで覆われている。

 そして屋根の上には、一人の少女が仁王立ちしていた。ぴったりとしたジーンズの上にフリルのついたキャミソールを着ている。ボブカットの茶色っぽい髪が、ふわふわと揺れていた。

「二十一世紀の萌えを科学する! 轢殺系美少女、鋼原射美でごわすよーっ!」

 にひー、とした表情で、俺を見下ろしてくる。

「早く乗るでごわす~!」

 すでに自動ドアは開いていた。

「……恩に着る!」

 ずり落ちかけていた霧華を背負い直すと、車内に転がり込んだ。

 冷房がガンガンに効いていた。

『あー、あー、ごじょーしゃありがとうでごわす~♪ 当バスはこのまま藍浬さん家までノンストップでカッ飛ばすので~、席についてシートベルトをつけるでごわすよ~♪ つけなかったら命の保障はしないでごわす~♪』

 どうやら車内アナウンスまで掌握しているらしい。しかし、鋼原はマイクのある運転席ではなく天井にいる。どういう理屈なのかはよくわからない。

 急いで意識のない霧華を座らせ、シートベルトを身につけさせた瞬間、強烈な横Gが全身を襲い、体が背もたれに押し付けられた。

「むぐぅっ」

 窓から外を見ると、景色は恐ろしいまでの速度で後ろに流れてゆく。近くのものは掻き消されて視認すらできない。

 ……明らかに普通のバスに出せるスピードには見えなかったが、別段驚くことではない。普段は乗客の安全や他の車への配慮のために、性能の一割も発揮していなかっただけである。ウソだと思うならバスをジャックしてアクセルを思い切り踏み込んでみればいい。そしてもれなく捕まればいい。そうすればいい。

 もちろん、良い子はそんなことをしてはいけない。

 悪い子ならば仕方がないが。

 しばらくすると、体が速度に慣れてきた。

 肩の力を抜いた俺は、天井を見上げる。

「……ありがとう、鋼原よ。助かったぞ」

 万感の思いを込めて、言う。

『いっやー、そんな、いっやー、照れちゃうでごわすよ~♪ もっと褒めるでごわす~♪』

 姿は見えないが、頬を押さえてくねくねしているのだろう。多分。

「うむ、お前はやればできる子なのだな。俺がお前に勝てたのも、単に運がよかったからなのだろう」

 実際、圧倒的な威力を誇るホーミング八つ裂き光輪(仮)を、一瞬にして突き飛ばしたあの光景は、驚愕に値する。

 特殊操作系能力〈臥したる鋼輪の王(アンブレイカブル・ドミナートゥス)〉。どうやら想像以上の潜在能力を秘めているらしい。

『いっやー、あれは横合いから突っ込んだから一方的に打ち勝てたでごわすけど、真っ向勝負だったらヤバかったかもしんないでごわす~』

 それだけ相手が規格外ということか。

「……それはそうと、鋼原よ。これから霧沙希の家に向かうと言っていたな」

『言ったでごわすよ~』

「しかし……殺意が迫ってきているぞ、後ろから」

『ほえ?』

 一瞬の間。

『……うおーっ! 円盤きてるー! しかも追いついてきてるー!』

 ――円盤の攻撃速度は亜音速。加えて射程は無限大。諏訪原篤に逃れるすべはなかった。

 ディルギスダークの言葉が反芻される。

 しかし……そんなことなどありうるのだろうか? 俺はそれほど多くのバス停使いを知っているわけではないが、遠距離攻撃を得意とする外力操作系バス停使いですら、その射程は数百メートル程度と言われている。

 現に一キロ以上は走行しているにも関わらず、円盤が力を失う様子はない。濃厚な殺意がひしひしと肌を刺してくる。

 恐るべき威力。常識はずれの弾速。極めて高い精密動作性。しかも射程は無限大。

 完全無欠の遠隔攻撃。

「このままでは霧沙希の家まで巻き込んでしまう。ディルギスダーク本人を見つけ出して倒すことを考えるべきだ」

『いや、それはたぶんムリでごわす。ヘンタイさんほどじゃないにしろ、ディルさんはかなり神出鬼没な隠れんぼ(スニーキング)のプロでごわす。逃げに徹されるともうお手上げでごわすよ』

「しかし、それでも霧沙希を危険な目に遭わすわけにはいかん」

 すると、にひひという笑いが聞こえてきた。

『それに関してはダイジョーブでごわすよ。あの家だけは安全地帯でごわす。一旦は避難するのがいいごわすよ~』

 それはどういうことなのか?

 一瞬疑問に思ったが、俺は首を振る。

 今ここで逃げるわけにはいかない理由がある。

「敵は何らかの方法で妹の意識を奪い去っていったのだ。見捨てて逃げるなどできぬ」

『妹ちゃん……? 隣のおにゃのこでごわすか? 諏訪原センパイそっくりでごわす』

「うむ……霧華はバス停使いの戦いのことなど何も知らぬ。一刻も早く助けてやらねば……」

『う、うーん……』

 重苦しい沈黙が車内を覆った。

「……むっ、そうだ!」

『ど、どーしましたでごわすか』

「電話をかけよう」

『え……誰に?』

「霧華に」

 俺は携帯を取り出すと、

「……ぬぬ……うむむ……」

 首をかしげながらも、ぽつぽつとボタンを押しはじめる。

『あの……なんでここで妹ちゃんに電話を?』

「本人から直接居場所を聞く。俺も迂闊だな、最初からこれをしていれば良かった」

『……いや、あの、それは無理なんじゃあ……そこに体あるんだし……』

「この、電話番号が点滅している時に丸いボタンを押せばよいのか?」

『機種によって違うからよくわかんないでごわすけど……』

 瞬間、携帯がけたたましく鳴りはじめた。

「……おお? やったぞ! かかったぞ! 文明の利器とはすごいものだな」

「い、いやそれ、かかってきてるでごわす! かけたんじゃないでごわすよー!」

 俺は勇んで受話器に噛みつく。

「諏訪原篤である。灼熱のみぎり、海や山から夏の便りが相次いでいる今日この頃であるが、霧華か?」

『……なんで季節のあいさつを入れたでごわすか?』

『篤! 無事かこの野郎!』

 受話器の向こうから、少なくとも霧華のものではない声が聞こえてきた。



 ●



 七月二十一日

  午後一時三十八分二十秒(ちょっとさかのぼるよ!)

   ディルギスダーク・システムが構築した仮想空間にて

    「 」のターン



 気が付いた時、攻牙はどこか巨大な空間に寝そべっていた。視界が一面真っ白で、それ以外は何も見えない。真っ白い部屋というわけでもなく、遥か彼方の空が白く染まっているという感じである。

 奇妙な感覚が、肉体を襲っていた。

 攻牙は今、仰向けに寝ている。にもかかわらず、「横向きに寝ている」という感触も、同時にあるのだ。

 背中には、熱くも冷たくもない平面の感触がある。

 一方、体の右側には冷たいフローリングの感触が押し付けられていた。

 ――ははぁ……なるほどな。

 攻牙は幽体離脱のような現象に見舞われ、この謎空間に取り込まれた。

 そして、「精神」と「肉体」が別々の姿勢で寝ているがために、こういう感覚のズレが起こっているのだ。

 呻きながら、起き上がろうとする。

「あ、気が付いた」

 そんな声がした。

 寝っ転がったまま、横に眼をやる。

 一人の少女が、攻牙の顔を覗き込んでいた。やや跳ね癖のあるショートカットに、ランニングシャツとキュロットスカートの活動的な格好だ。

 その顔には見覚えがあった。

「げぇっ! 霧華!」

「人の顔見て失礼な奴!」

 諏訪原霧華に違いなかった。

 篤の家には何度も行っているため、攻牙は彼女と普通に面識がある。「兄貴をヘンなことに巻き込む奴ら」として、会うなりすごい勢いでブーイングしてくるので、攻牙はこいつを非常に苦手としていた。隣の謦司郎はまったく堪えてなさそう、いやむしろ嬉しそうに悶えていたが。

「ここどこ!? なんでお前ここにお前なんで!? ここどこ!?」

「落ち着こう。クールになろう。なんで回文みたいな驚き方なのよ……」

 霧華はため息をつく。

「とりあえず、ここがどこかっていうのはよくわかんない。気が付いたらここにいたって感じ」

 じろりと攻牙を見やる。

「わたしとしては、いきなり小学生のおこちゃまが湧いてきたことのほうが驚きなんだけど」

「なんでボクの周りの女は揃いも揃ってボクを年下扱いするんだろ……」

「それはあのー、自分の頭に手を当てて壁際に立って考えてみたらどうかなぁ……」

「てめえそりゃ一体なにが言いてえんだー!」

 その時、いきなり二人のポケットで携帯が鳴り出した。まったく同時だった。

「うおっ!」

「……ウソ、今まで通じなかったのに……」

 いぶかしげな顔で、霧華は携帯を取り出す。少し前のヒットソングの着メロだった。

 攻牙もそれにならう。オシャレ死神バトルアニメのテーマ曲だった。

「「はいはいもしもしー?」」

 二人の声がハモる。微妙な気分になる攻牙だった。

 そして、電話の相手は挨拶もなしに、いきなり切り出した。

『――内力操作とは』

「っ!?」

『――物質の内部に宿るベクトルを操作する技術体系である』

 いきなり聞き覚えのある単語が出てきた。全身が総毛立つ。

 内力操作だと……!?

 低く、深く、重い声だった。聞き覚えのある声、さっきまで聞いていた声だ。

 ――あの変態緊縛野郎か!

 攻牙の驚愕には一切頓着せず、相手は言葉を続ける。

『――主に自らの身体能力を爆発的に向上させる用途で使用され、あらゆるバス停使いを超人たらしめる。だが、ディルギスダークはそのような野蛮なふるまいを好まなかった。相手を物理的に攻撃するなど原始人でも出来ること。そう考え、より洗練された形での内力操作法を編み出したのである』

「ディルギスダーク……!? てめえがか……ッ!」

『――CPU基盤への干渉。ディルギスダークが行き着いた地平はそれである。プログラムを改竄し、本来存在しなかったキャラクターを追加する』

「マジで!? そんな簡単にできんの!?」

 というか、その結果があの永久ループキャラか。

 何日も徹夜してバランス調整したであろう開発メーカーの人々に謝れと言いたい。

『――とはいえ改竄、というのはいささか誇張的な表現ではある。「新たな記述を追加する」ことはできても、「すでにある記述を消す」ことはできない。非常に限定された干渉能力であった』

 つまり。

 いかに反則なコンボを持つチートキャラを作ろうと、ゲームそのもののルールには絶対的に縛られているということか。しっかりとコンボ補正を受けていたのが何よりの証拠だ。

『――嶄廷寺攻牙はまんまと引っ掛かった』

「んだとぉ?」

 電話越しに、禍々しい笑みの気配が伝わってくる。

『――ディルギスダークは敵を攻撃しない。ただ無力化するだけである。その白い空間は、ディルギスダークの内力操作によって、筐体の記憶領域に構築された仮想空間である。自力での脱出は不可能だ。お前たち二人は、諏訪原篤への人質として利用されることになるだろう』

「なんだとお!?」

「な……え……?」

 隣で霧華が眉尻を下げて困惑していた。恐らく、攻牙とまったく同じ話を聞いているのだろう。困惑するのが当たり前だ。

『――とはいえ』

 かすかな失笑の気配。

『――ディルギスダークは効率を重んずる。人質など最小限いれば用は足りるのだ。二人のうち、どちらかは解放しても良いと考える』

 妙なことを言い出した。

 本来であれば、魅力的な提案。

 だが、攻牙はそこにきな臭いものを感じ取る。

「ちょっと待てやてめえ」

『――ディルギスダークは質問を受け付ける』

「じゃあ聞いてやる。人質は一人で良い? そりゃ確かにそうだけどな。別に二人三人いてもいいだろ。いやむしろ不測の事態に備えて何人かキープしておくってのが確実だぜ。せっかく捕らえた人質をわざわざ解放するってのは何か明確な理由があるんじゃねえのか? あ?」

 ククク、と忍び笑い。

『――応える必要はない、とだけ回答する』

「ごまかす気ゼロかよ。つまり言いたくない邪な理由があるってことだなこの野郎」

『――解釈は自由であった。それに、ディルギスダークはあくまで「最小限」としか言っていない。人質は他にもいる』

「ンだとォ?」

 瞬間、攻牙と霧華の前に、いきなり四つの人影が現れた。

 まるで、『今まで処理落ちで表示されていませんでした』とでも言うように、何の演出もなくいきなり現れたのだ。

「あ、あれ? 場所が変わった……?」

「奇怪ッッ!! 二人の子供との遭遇ッッ!!」

「ことあるごとにうるさい男だなお主は……」

「ほう、片方には見覚えがありますね」

 攻牙と霧華は呆然と四人の様子を見ていた。

 男が三人、女が一人。

 実を言うと、攻牙にとってこのうち二人は顔見知りだった。しかしちょっと信じられず、声をかけるタイミングを失う。

「あっ、僕は両方に見覚えがありますよ」

 四人の中の一人がそう言って歩み寄ってきた。

「勤兄ぃ!」

 霧華が声を上げ、駆け寄った。

 それは、篤に普段から兄貴分として慕われている『亀山前』のポートガーディアン、布藤勤の変わり果てた姿だった。

 (笑)。

「おっと、霧華ちゃん。キミも捕まったのかい?」

「うん、もうなにがなんだが……勤兄ぃは何か知ってる?」

「いやあ、確かに霧華ちゃんよりは知ってるんだけど、ちょっと信じてもらうのに時間がかかりそうだね」

 青年は困ったように頭をかく。

 そして、攻牙のほうを振り向いた。

「あんたは……」

「やあ。キミは確か……バンテージ攻牙くんだったよね?」

「包帯かよ!」

「あーごめんごめん、心停止攻牙くん」

「語呂良く人の名前を不吉な感じにすんな!! 嶄廷寺攻牙だ!!」

「やー奇遇だね。キミも、その、カレーを食わされたのかい?」

「ん? 何のことだ?」

「……い、いや、わからないならいいんだ……」

 勤は何を思い出しているのか、口元を抑えながらゲンナリした顔になる。

 なぜか沈痛な雰囲気の四人。どよ~ん、とテンションが落ちている。

 一体何があったんだ。

「……そんなことより発禁先生! なんでアンタがここにいるんだ!」

 重い空気を振り払うように、攻牙はもう一人の見覚えのある男に声を掛けた。

 三十代半ばの男だ。丸眼鏡をかけ、暗い眼をしており、顔色も大変に悪い。しかも背中まで伸びるロン毛が柳のように垂れ下がっているので、真夜中に遭遇したら確実に怨霊と間違われそうだ。

 その男は肩をすくめ、口を開いた。

「やれやれ、誰かと思えば腐れミカン十五号ではないですか。その呼び方を改めるつもりはやっぱりないようですね。相変わらず最低限の礼儀もわきまえていないようで何よりです。ブッ殺しますよ?」

「礼儀についてアンタからどうこう言われたくねえんだけど!!」

 まことに信じがたい(というか信じたくない)ことに、攻牙のクラスの担任である。紳相高校に君臨する七人の変人の一人にして、世界史担当教師。名を、西海鳳(さいかいおう)玄彩(げんさい)と言う。

 自らの生徒を決して名前で呼ばず、出席番号順に『腐れミカン○号』と命名する。軽く頭が不自由な男であった。

 生徒たちは皆、尊敬のあまり彼を『発禁先生』と呼ぶ。

「なぜここにいるか、ですと? ディルギスダークの攻撃を受けた。それだけのことです。ここにいる人間は全員そのたぐいなのですよ。まったくこんなことも推察できないなんて、腐れミカン十五号は本当にゆとりですね」

 早くクビにならねえかなコイツ。

「で……なんで発禁先生が《ブレーズ・パスカルの使徒》に狙われるんだよ?」

「おやおや、その名を知っているということは、バス停のなんたるかについて講釈は不要のようですね」

 眼鏡を中指でクイッとやる。

「……接続(アクセス)! 第八級バス停『谷川橋』、使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)西海凰玄彩が命ず! 界面下召喚!」

 緑の炎が周囲にまき散らされ、床に複雑な紋様と円環を描いてゆく。その中央から、あふれる神気を振りまきつつ、一柱のバス停が姿を現した。

 発禁先生はそれを無造作に掴みとると、くるりと持ち替えてから自分の傍らに立てた。

「『谷川橋』のポートガーディアンというのは世をしのぶ仮の姿……。その正体は、正義の世界史担当教師・西海鳳玄彩なのです!」

 逆じゃね?

「いやあの……マジで!? ポートガーディアン!? あんたが!?」

「フ……そのミニマム脳みそにもようやく理解できたようですね、この私の偉大さが!」

 バス停を界面下に戻す発禁先生。

 というか、わざわざそんなことにためにいちいち召喚しなくていいと思う。

 と、そこへいきなり横合いから大柄な体が突っ込んできて「へぶぅ!」発禁先生をはね飛ばした。

 直後、大音声があたりを揺るがした。

「そして俺が『針尾山』のポートガーディアンッ! 馬柴(ましば)拓治(たくじ)だアアアァァァァァーッッッッ!!!!」

 聞いてねえ。

 聞いてねえが、叫ばれると叫び返したくなる。若さとはそういうものである。

「ボクは嶄廷寺攻牙だアアアアアアァァァァァァァーッッッッ!!!!」

「キサマーッッ! 元ッ気がいいなァァァァッッ! 大人相手だからといってッ! 無闇に敬語を使わないふてぶてしさもッ! 気にッ入ったぞォォォォォッッ!!」

「そいつはッ! どうもォォォォォッッ!」

 均整のとれた体格の男である。年齢は二十代後半といったところ。黙って爽やかな笑みを浮かべていればわりかしモテそうなツラ構えなのだが、身にまとう雰囲気や言動が無闇やたらと無駄なまでに暑苦しかった。あと見事な勇者王ボイス。

「濃いわ……なんかもう、濃いわ……」

 こめかみを手で押さえながら、霧華がつぶやく。

「すまんのう、やかましい連中で。まぁ公害級にうっとおしいことを除けば無害な奴らじゃから、勘弁してたもれ」

 古風な口調で、最後の一人が言った。

 現れた四人の中では紅一点である。紅白鮮やかな巫女服を典雅に着こなす長身の美女だ。伏せがちの目や、軽く波打った黒髪が、霧華とも射美とも藍浬とも異なる大人の色香を演出している。

「わらわは『萩町神社前』のポートガーディアン、櫻守(さくらのかみ)有守(ありす)じゃ。よろしゅうな、二人とも」

 やわらかでありながら凛とした微笑みを浮かべる櫻守有守。そのたたずまいに、攻牙と霧華は喜色を浮かべる。

「よかった! 常識人だ!」

「趣味は和琴じゃ」

「雅だ! さすがだ!」

「陸戦用重火力型七弦琴の使い手としてはそこそこ名が通っておるぞ」

「……帰りたい……」

 そろって頭を抱える攻牙と霧華。

 しかし年齢不詳の美人、と言えば聞こえはいいが、化粧とか髪型とか立ち振る舞いにおいて徹底的に子供っぽい要素を排除しているので、なんだか意図的に年齢を上に見せているような気配がある。案外、自分とそう変わらない年齢なんじゃないのかと、攻牙は邪推してみる。

「それで、一体お主らはどうやってこのようなところまでやってきたのじゃ?」

「ん? ゲームに負けたんだよ。それで悔しがってるといつのまにかここにいたってわけだ」

「ほほう、やはりこの西海凰玄彩の推察は正しかったようですね」

 発禁先生が割れた眼鏡をクイッってやりながら言った。

「あん? どゆことだ?」

「恐らくディルギスダークは、敗北感や挫折感、もしくは多大なストレスによる憔悴など、あらゆる意味での『動揺』に乗じて他人の精神を乗っ取る力を持っているようです」

「バス停パワーでそんなことができるのかよ」

「少々信じがたいことですが、〈BUS〉とは理論上あらゆる事象に変換可能なエネルギーです。その利用方法は今だ解明されない部分も多く、ディルギスダークのみが精神に干渉する特殊な内力操作技法をマスターしていたとしても、まあ不可解というほどではないでしょうね。極めて珍しいことには違いありませんが」

「うおおおおぉぉぉぉぉーーッッ! ゆるさねええええぇぇぇぇーーッッ!! ディルギスッ! ダークはッ! 俺を……俺の……その……」

 いきなり吠え出した馬柴拓治だが、一体何を思い出しているのか、その声は尻すぼみになっていった。

 つられて、ポートガーディアンどもが全員沈痛な面持ちで俯き、口元を押さえ始めた。お通夜みたいな空気が流れる。

 布藤勤が、陰鬱な声でひとりごちた。

「まさか……カレーをあんな風に使うなんて……」

「男児ならば、まだ救いはある。わらわなんぞ自殺を考えたわ……」

 何をされたんだアンタら。

『――と言ったところで黒幕であるところのディルギスダークは存在を主張する』

「「うわっ!」」

 攻牙と霧華の持っていた携帯が、いきなりスピーカーみたいな大音声を発した。

『――回答を聞こう。諏訪原霧華と嶄廷寺攻牙、一体どちらが解放を希望するのか』

 そうだ、その問題があった。

「あぁそれは……」

『――最初に言っておくが、ポートガーディアンの中から最も強い一人を解放しろなどという要求は受け入れられない。その四人はいずれも警戒に値するバス停使いである。無力化した敵手をわざわざ手放すなど、まともな思考能力を持つ者ならば絶対にしないであろう』

「……ちっ」

 要するに攻牙のことは戦力と見なしていないらしい。

 ――ムカつく野郎だぜ。

「じゃあ霧華! てめーが出ろ」

「……わたし?」

 霧華がきょとんとした眼で自分を指差した。

「おめーはバス停云々の戦いなんぞ今まで知りもしなかったクチだろ? 巻き込まれただけのパンピーはとっとと避難しろってこった」

「なによそれ。アンタは違うっていうの?」

 じろりとにらむ霧華。

 攻牙は思わず、かゆくもない頬をかいた。

「お前っ……お前それはあの…アレだボクはホラ今まで何度もバス停使いと戦ってるし倒しまくりだし? もうすごいから百戦錬磨だからこんなとこ自力で出られるから楽勝だから超マジ超!」

「わかりやすくキョドるなっ! 要するにわたしと大差ないんじゃん!」

 あのさ、と前置きして、霧華はまっすぐ攻牙の眼を見据えた。

「こういう時、兄貴の力になれるのがどっちなのかを考えたほうがいいんじゃない?」

「ぬぬ」

「くやしいけど、それはアンタだと思う」

 静かな眼だ。こうして見ると、篤にそっくりである。

「お前……」

 霧華は携帯を持ち直した。

「えっと、ディルギスダークだっけ? 解放するのはこっちのちっこい方にしてよ!」

「ちっこいって言うな!」

「……中学生のわたしより成長の余地がありそうな方」

「余計ムカつく!」

『――希望は受理された。ディルギスダークはその年齢詐称児童を解放する』

「いじめだー! フィジカルハラスメントだー!」

 ひとしきり憤慨すると、息をつき、四人のポートガーディアンと霧華を見やる。

 不敵に笑う。

「……心配すんな。すぐにディルギスダークをブッ倒して出してやるよ」

 霧華が肩をすくめた。

「まあ、期待しないで待ってるわ」

「可愛くねえ奴だなもう!」

 櫻守有守が、困ったような笑みを浮かべる。

「大人が何もしてやれんとはのう……少年よ、気をつけるのじゃぞ?」

「わーってるよ! 心配すんな楽勝だ!」

 布藤勤が霧華の両肩を掴んで言った。

「霧華ちゃんのことは心配しなくていいよ、ヴィンテージ攻牙くん。僕たちが守るから」

「てめーワザと間違えてるだろ!」

 馬柴拓治は、思いっきり力を込めて親指をブッ立てた。

「健闘をッッッ!! 祈ォォォォォォォるッッッッ!!!!」

「了ッッ! 解ッッ! だぜぇぇぇぇッッッ!!!!」

 発禁先生は相変わらず眼鏡クイッ。

「よもや腐れミカン十五号ごときに我が身の進退を託すことになろうとは……一生の不覚ですね」

「よっぽど助かりたくないようだな発禁てめえこの野郎……」

 挨拶(?)を済ませ、攻牙は携帯電話に噛み付いた。

「いいぜ出せよディルギスダーク! てめーの誘いに乗ってやらあ!」

『――承知』

 そして、

 視界が、

 暗転する。



 どこか遠くで、メールの着信音が聞こえた気がした。



 ●



 七月二十一日

  午後一時五十二分三秒

   ゲームセンター『無敵対空』から徒歩三分の地点にて

    「 」のターン



 仮想空間から開放され、自分の肉体に戻った攻牙は、ゲームセンター『無敵対空』から走り去りつつ電話をかけていた。

 ほどなく、通話が開始される。決して大きくはないがよく通る声が、電話口から聞こえてきた。

『諏訪原篤である。灼熱のみぎり、海や山から夏の便りが相次いでいる今日この頃であるが、霧華か?』

 何言ってんだこいつ。

「篤! 無事かこの野郎!」

『うむ、諏訪原篤である。無事である』

 まぎれもない篤の声だ。

「そーか……やれやれ」

 どうやらディルギスダークの襲撃をうまくかわしたようだ。

『そして本日の目標は『親指で切腹』である』

「聞いてねえ! っていうかせめて刃物でやれよ!」

『いや……霧華に……ドスを没収されたのだ……』

「自業自得過ぎてザマーミロとしか言いようがないがそんなことはどうでもいい! マジどうでもいい!」

『このツッコミ……まさか攻牙か!?』

「気付いてなかったのかよ!」

『やれやれ、相変わらずお前は小さいな』

「電話越しでなにがわかる!」

 気を取り直して。

「ディルギスダークにゃもう襲われたか?」

『あぁ。どうにか鋼原のおかげで助かったが……被害はあまりにも甚大だった……』

 後ろで慰めるような声が聞こえる。射美がそばにいるらしい。車の走行音もかすかに耳に入ってきた。どうやら射美の特殊操作系能力で移動している最中らしい。

「霧華の奴の精神が奪われたんだろ?」

『むむ? なぜお前が知っている?』

 攻牙は、自らの奇妙な体験を語った。

『なんと、ディルギスダークは人間の洗脳のみならず、電動計算機への干渉すら可能なのか……』

「それから……ここからが重要なんだがよ」

 攻牙は、仮想世界から解放された直後のことを思い出す。



 意識が戻った瞬間、攻牙はポートガーディアン四人に囲まれていた。

 その眼に意志の光はなく、底抜けに虚ろな表情だった。

 そして、彼らを従える車椅子緊縛野郎ディルギスダークが、妙な勝負を持ちかけてきたのだ。



「なんていうか……今から言うことはウソじゃねえからな? 心して聞けよ?」

『うむ』

「格闘ゲームで決着をつけよう……なんてことを抜かしやがったんだよあの野郎」

 ディルギスダークの信じがたい提案。

 どうも奴はガチバトルは本意ではないらしく、流血もなしに勝利をおさめるつもりらしい。

 具体的な要綱はこうだ。

 ディルギスダークが保有する人質は五人。

 諏訪原霧華。布藤勤。西海凰玄彩。馬柴拓治。櫻守有守。

 そして、ディルギスダークに抵抗するであろう人数も五人。

 諏訪原篤。嶄廷寺攻牙。闇灯謦司郎。鋼原射美。霧沙希藍浬。

 言い換えれば、お互いの陣営が五つのチップを持っている状況だ。

「五つのチップを賭けて『装光兵飢フェイタルウィザード』っつーゲームで勝負をしようってことらしい」

『つまり……勝てば霧華やポートガーディアンの面々が戻ってくるということか』

「あぁ。ただし負ければボクたちも筐体に取り込まれるんだけどな」

 まったく酔狂なことを考える敵だ。

 だが……攻牙としては中々に燃える状況であった。

 ――ようやくボクのターン到来! だぜ!

 敵は恐らくあの黒い結晶のチートキャラクターを使ってくるのだろう。だが使ってる奴は格闘ゲームのことを何もわかってない素人だ。付け入る隙はある。ありまくる。

「っつーわけで篤! 格ゲーの特訓をするぞ!」

『あいわかった。とりあえず、お前は今どこにいる? 迎えに行こう』

「あー……おう」



 それから五分もしないうちに、常識ではあり得ないスピードでバスがカッ飛んできた。

 物凄い風圧を撒き散らして急停止すると、天板に乗っていた少女が天高くジャンプした。

「攻ちゃ~ん! 会いたかったでごわすよこんにゃろめ~♪」

 空中で泳ぐような動きをしつつ、攻牙に飛び掛ってくる。

「ちょ……やめっ! ぐぎゃああ!」

 押し倒される攻牙。

「うふふ~♪ 心配かけさせちゃダメでごわすよ~♪ このぷにぷにめ♪ ぷにぷにめ♪」

 馬乗りになった射美は、人差し指でほっぺを掻き混ぜる。

「うっぜぇぇぇぇッ! 恐ろしくうっぜぇぇぇぇッ!」

「このカーブ! この弾力! この指ざわり! けしからんぷに! まったくもってけしからんぷに~!」

「語尾変えんな! てめえのこだわりはその程度かよ!」

 そこへ足音が近づいてくる。篤だ。

「ふむ、無事のようだな」

「たった今無事じゃなくなったけどな。……ええいどけい! 炎天下のアスファルトが熱いんだよ!」

「うにゅにゅう……」

 名残惜しそうに身を離す射美。

 身を起こした攻牙は、篤に目を向ける。

「謦司郎の野郎にゃ連絡入れたか?」

 篤は重々しくうなずいた。

「うむ、そのうち来……」

「やあみんな! 地域密着型性犯罪者、闇灯謦司郎だよ!」

「……るのではないのかと思っていたらすでに来ていた」

「超スピードとか催眠術なんてチャチなものじゃない、もっとおそろしーもののヘンリンを味わったでごわす……」

 居て欲しい時も居て欲しくない時も関係なく出没する男、闇灯謦司郎。

 漆黒の意味不明な風とともに今降臨。

「メールは読んだよ~。また襲撃だね?」

 謦司郎は微笑みながら聞いてきた。

「うむ。しかも今までとはだいぶ毛色の異なる敵だ」

「オヤオヤ、一体どこの毛の色が違うのやら……」

「無理にシモに結び付けなくていいから!」

 そこで射美が手を挙げる。

「と、とにかく、一旦藍浬さん家で作戦会議でごわすよーっ」

「ん? 篤ん家じゃねーのか?」

「いや、俺の家はさきほど真っ二つになった」

「何があったんだーっ!?」

「それで、どうして霧沙希さん家なんだい?」

「藍浬さん家は唯一の安全地帯なんででごわすよっ♪」

「あん? どーゆーこった?」

 首をかしげる攻牙と篤と謦司郎。

「いいからいいから~」

 射美に押されるように全員バスに乗り込んだ。



 ●



 七月二十一日

  午後一時四十一分二十五秒

   霧沙希家の前にて

    「俺」のターン



 霧沙希家は、西洋造りの古風な屋敷であった。

 我が諏訪原家の五倍はありそうな豪邸である。

 淡い朱色の煉瓦壁に、白い屋根。広大な庭。

 俺は感嘆の息をつく。

「おぉ、この雄大さ、まるで姫路城天守群だな」

「お前の例えはいっっっつもよくわからねえ」

 後ろの席から、攻牙が顔を出して言った。

「……まるで竪穴式住居だな」

「いきなりランク落ちたな!」

「わかりやすくなってもいないしな」

「自覚あったのか!」

 と、車内放送で鋼原の声が聞こえてきた。

『……あ、止まるでごわすよ~。シートベルトの確認おねがいでごわす!』

「しかし本当に大丈夫なのか? 円盤はそれなりに引き離したが、まだついてきているぞ?」

 攻牙を迎えに街中まで入ってきた時には見当たらなかったが、郊外に出た途端あのホーミング八つ裂き光輪(仮)が再び現れ、耳の痛くなる劈きを撒き散らしながら追いかけてきたのだ。

 そして今も、後ろから猛進してきている。

『ダイジョーブダイジョーブ。でも降りたらゼッタイに家から離れないでほしいでごわす~』

「ふむ」

 バスは門から突入し、急旋回。巨大な玄関の前に横付けされた。

『あー、あー、霧沙希家~、霧沙希家でごわす~。お降りのさいはお忘れ物などないようおねがいでごわす~っと♪』

 自動ドアが開くと同時に、鋼原がキャミソールの裾を翻して地面に降り立った。

「早く早く~♪」

 こっちを見て手招きしている。危機感はまるでない。

 円盤のほうを見ると…………何故か庭先で静止している。襲ってくる様子はない。見えない壁でもあるのだろうか。

「ううむ、不思議なこともあるものだ」

 席を立ち、隣に座らせていた霧華を背負い込む。

 外に出てみると、屋敷の巨大さが際立った。下手な集合住宅と同等のサイズである。

 後ろを振り返ると、円盤は空中浮遊して怪音を撒き散らしていた。こちらに飛んでくる気配はない。

「ふっふーん、効果テキメンでごわすね♪」

 しばらく未練がましそうにそこらを漂っていたが、やがて進入できないと悟ったのか、Uターンしていずこかへと飛び去っていった。

 俺に続いて外に出てきた攻牙が首を傾げる。

「一体何がどーなってんだ? なんで去っていったんだよ?」

「蚊取り線香のスゴいバージョンでごわすよ!」

「なるほど、そういうことであったか」

「わかってねえくせに納得すんな篤!」

 その時、玄関の巨大な扉がゆっくりと開いた。

「あっ!」

 鋼原が猛然と駆けてゆく。

「藍浬さぁん! 諏訪原センパイとその他二名の拉致完了でごわすよーっ!」

 中から現れた人影に飛びつく鋼原。

「きゃふっ!」

 セミロングの黒髪が一瞬舞い上がった。

「もう、びっくりしたなぁ」

 飛びつかれた勢いで倒れ掛かるも、なんとか踏みとどまる人影。

 霧沙希藍浬がそこにいた。涼しげな空色のワンピースに、白いレースジャケットを重ね着している。

「ふふ、おかえりなさい射美ちゃん」

「ただいまでごわす~。……んにゅ~♪」

 まるで骨董品を磨くような手つきで鋼原の頬を撫でさする霧沙希。

 鋼原は眼を細めて身をゆだねていた。

 ――相変わらず仲睦まじいことだ。

 タグトゥマダークとの戦いにて姿を消していた鋼原だが、どうやら《ブレーズ・パスカルの使徒》とは決別する決心を固めていたようだ。再び俺たちの前に現れた時には、吹っ切れた良い顔つきをしていた。

 最初は学校を辞めて一人でバイト暮らしをするつもりだったらしいが、霧沙希に引きとめられた。「ダメよ射美ちゃん。学校にはちゃんと行かないと」そんなところでいろいろあり、今では霧沙希家の居候に納まっている。

 ふと、霧沙希がこっちに眼を向け、ふくふくと微笑んだ。

「ふふ、いらっしゃいみんな。無事でよかったわ」

「うむ、危ないところであった」

「とんでもねー大冒険だったぜ」

「この家は安心だから、ゆっくりしていってね」

 背後で謦司郎の鼻息が吹き荒れた。

「ふむ、立派なお屋敷だね霧沙希さん。それで、つかぬことを聞くんだけどさ、メ、メイドさんとか、いるのかな? ねえ、いるのかな? どうなのかな?」

「ふふ、ざんねんでした。昔はいたんだけど、今はわたしと射美ちゃんだけで維持しているわ」

「明日に……希望が持てない……」

「そこまで凹むことなのかよ!」

「さ、中に入って。お茶の支度ができてるわ。ひさしぶりのお客さまだから張り切っちゃった」

「射美としては紅茶よりもお菓子が気になるでごわすよーっ♪」

「そうだ! 霧沙希さんと鋼原さんがメイド服を着れば万事解決じゃないか!」

「お前ちょっと黙ってろ」

 皆で屋敷の中に入る。

 直後、廊下の真ん中に小さな白いかたまりを見つけた。

「おぉ、あっくんではないか。久しいな」

 子兎のあっくん。

 しばらく前に、霧沙希がひろった二匹の小動物の一匹。

 俺はあっくんを抱き上げた。

「その後どうだ? 霧沙希の家は快適か?」

 あっくんは何も言わずに俺を見ている。しかし、その眼から、俺はあっくんの意志を読み取る。

「……なに、それは本当か?」

 驚きの事実。

 表情を引き締める。

「そうか……たーくんも色々と考えていたのだな」

 あっくんは、相変わらず「たわば」とも「あわびゅ」とも「うわらば」とも鳴かない。

「えっと……何やってるでごわすか?」

「あっくんとお話をしているのだ」

「え……なんでごわすかこの突然すぎる幼児退行」

「霧沙希よ」

「……うん」

「たーくんがこの家を去ったというのは誠か?」

「それが……」

 霧沙希は少し眉を寄せる。目もとに若干の寂寞が乗る。

「本当よ。昨日からいなくなっていたの。射美ちゃんと探しに行こうとしたんだけど、その……」

 霧沙希は携帯を取り出した。

「メールがあったの」

 携帯を受け取ると、画面を見た。



 差出人:このアドレスを登録しますか?

 件名:なし

 本文:子猫を拾った。「たーくん」と名乗っている。お前の家から来たそうだ。ついて行きたいと言うので、好きにさせている。

 なくしてしまった「弱さ」を、それでも傍に置いておけば、いつか自分の中に戻ってきてくれるかもしれない。



「これは……」

 あっくんを頭に乗せながら、俺は目元が険しくなるのを止められなかった。

「タグトゥマダーク、か?」

 霧沙希はこくりとうなずいた。

「間違い、ないと思う」

「そうか……」

 なんとなく、押し黙る一同。

 タグトゥマダークの存在は、重く黒い疼痛となって、心にこびりついている。今まで俺たちが想像すらしなかった憎悪と絶望が、あの男の心を形成しているように思われていた。

「だ、ダイジョーブでごわすよ!」

 鋼原がわたわたと手を振り回した。

「最後に会ったときのタグっちは、スゴく落ち着いてたでごわす! あれはもうアレでごわす! 改心して仲間になっちゃうフラグでごわすよーっ!」

 ――だと……良いのだがな……

 俺は自らの顎をつかみ、眼を閉じる。文面からは、たーくんとタグトゥマダークの間に意思の疎通が成立していることがわかる。ちょうど、俺とあっくんのように、言葉に頼らない会話をしているのだろう。

 そういう経験が、あの男の心に良い影響を与えてくれれば良いのだが。

「ところで、さっきから良い香りが漂ってきているね。一体なにかな?」

 なんとなく沈んだ空気を払拭するように、謦司郎が言った。

 その意図を察したのか、霧沙希はふわりと微笑む。

「ふふ、それはお楽しみよ。射美ちゃん? みんなをリビングに案内したら台所に来てね」

「はいは~い♪ ほんじゃあ、ご案内でごわすよ~♪」



 ●



 七月二十一日

  午後一時五十分四十七秒

   霧沙希家リビングにて

    引き続き「俺」のターン



 というわけで紅茶とケーキを嗜みつつ、優雅な作戦会議が始まった。

 俺はフォークに突き刺さった洋菓子の欠片をしげしげと観察しつつ、口を開いた。

「まず聞こう。何故、この屋敷は攻撃を免れたのだ? 何か……結界のようなものでもあるのか?」

「うーん、わたしにもよくわからないんだけど……」

 霧沙希は紅茶をかき混ぜながら首を傾げる。

「姉さんがいるからそうなっているんだと思う」

 霧沙希藍浬の姉。

 霧沙希紅深。

 人里から孤絶した山中に居を構える変人として、俺の村では若干有名であった。

「お前の姉君は……バス停使いだったのか? その能力で障壁を作っていると?」

「どうなんだろ。姉さんがバス停をもってるとこなんて見たことないなぁ。でも、ちょっとだけ不思議な力を使えるのは確かね。まぁ本当にちょっとしたものなんだけど」

「どんな力だ?」

「バス停を使えなくする力」

 破格の超能力ではないだろうか。

「それは……その、つまり、どういうことだ?」

「姉さんの周りで、バス停の力が一切働かなくなるし、召喚もできなくなるわ」

「…………」

 絶句する。

 一体何者なのか。

 それだけではない。霧沙希藍浬にしたところで不可思議な現象は引き起こしている。タグトゥマダークも、彼女は《絶楔計画》の要であると言っていた。姉妹そろって、何かしら巨大な秘密を持っているのだろう。

 本来ならば……きちんと能力の詳細について聞いていたほうがいいような気はする。だが、なぜかそれは躊躇われた。霧沙希が自ら口を開かない限り、それは聞いてはならないことにように思える。

 とはいえ――だいたいの察しはつく。

 恐らく、願いを具現化する力……と言ったところなのだろう。

 神のごとき能力であるが、どうやら自分の意志では操作できないようだ。あくまで無意識のうちに芽生えた、強い願望によってのみ発動する、と。

 ふむ。

 ……まぁ、今は彼女の姉君のことだ。

「その力が及ぶ範囲はどの程度なのだ?」

「厳密に、ここまでは範囲内……って決まっているわけじゃないの。姉さんに近づくにつれて、だんだんとバス停の力が弱くなっていって、……うーん、だいたい五十メートル以内に入れば完全に使えなくなるかな」

 想像以上に、広い。少なくともこの屋敷は楽々と覆い尽くしている。鋼原が「ここだけは安全」というのもうなずける話だ。

「しかし……たとえば、お前の姉君が外出などすれば、ここは安全ではなくなるということだな」

「まぁそれはそうなんだけど……うーん、それに関しては心配ないと思うな」

「なぜだ?」

 霧沙希は頬に手を当てて、朗らかに微笑んだ。

「だって姉さんったら、ここ何カ月か自分の部屋から出てこないんだもの」

「なんと」

「うふふ、悟りでも開くつもりなのかしら? 家族が聖人だなんて、ちょっとくすぐったいわね」

「それはすごい。心から応援させてもらおう」

「オイそれっていわゆるヒキ……」

 攻牙が何かを言いかけるが、霧沙希の何一つ姉を疑ってなさそうな微笑みを向けられてもごもごと口ごもる。

「それがすごいんでごわすよ~♪ 部屋の中にトイレもお風呂もあって、食事はドアの下についてるちっちゃいドアから受け取るんでごわすよ~♪」

「うむ、徹底しているな。よほど瞑想に集中しているのだろう」

 攻牙がまた何か言いたそうな顔をしている。

 まあ。それはともかく。

 重要な議題。これからどうすべきか。

「降りかかる火の粉は払わねばならぬ。捕らえられた五人も救出せねばならぬ。そして、そのためにはディルギスダークが挑んできたゲーム勝負に勝たねばならぬ」

 迷いのない声で確認する。

「ちょっと、いいかな?」

 澄んだテノールが、大気に染み込んでいった。俺は即座に振り返るが、その時にはすでに声の主は姿を消していた。

「実はみんなに今まで黙っていたことがあるんだけど」

 背後から、紅茶の香りがかすかに漂ってきた。謦司郎がソファの背もたれに腰をあずけて紅茶を傾けているようだった。

「あんだよ?」

 攻牙がケーキを頬張りながら言う。

「実は僕、ディルギスダークの目的について、だいたい知ってるんだよね」

 発せられた言葉の意味を咀嚼するのに、二秒の沈黙を要した。

「……あの……えーと……なんだって?」

「いやなに、僕はこれでも一応、街を守るために動いてはいるわけだ。うん」

 背後から、ソーサーにカップを置く音がした。

「鋼原さんが学校に襲撃してきて以来、僕は街を東へ西へと飛びまわっていたんだ。そしてほどなく《ブレーズ・パスカルの使徒》のアジトを発見したんだよね」

「なぬー!?」

 眼を剥く攻牙。

「あー、そっか。だからあのときもアジトの近くにいたんでごわすね」

 瞠目する一同をよそに、鋼原だけは手をポンと叩いて納得顔。

「ヘンタイさん、あのときはホントにありがとうでごわした♪」

「いやいや、僕は何もしてないさ。鋼原さんはきっと一人でも大丈夫だったよ」

「???」

 鋼原は満面の笑みを浮かべている。

「それで、わりと四六時中アジトの中に入り浸って、何かいいエロ本はないかなぁと物色していたら」

「わざわざ敵の本拠地に乗り込んですることがそれか!」

「中国語の字幕が入った、やたら画質の悪いアニメのDVDが見つかったりした」

「明らかに海賊版だ!」

「けっこう面白かったよ」

「アジトの中で堂々と見たのかよ!」

「で、まぁ、ついでに悪の組織の作戦や弱点なんかわかんないかなぁ、と気配を殺しながら数日間をそのボロ借家で過ごしたんだけどさ」

 それで全然気づかれなかったのだから凄まじい。タグトゥマダーク戦のとき見ないなと思ったら諜報活動をしていたようだ。

「いや、ディルギスダークが自分の心情や行動を延々とつぶやき続けてくれるキャラクターで助かったよ。おかげで彼が朱鷺沢町で何をしようとしているのか、だいたい知ることができた。ただ……僕はバス停や〈BUS〉の特性については全然わからない。得られた情報が正しいかどうかは、篤と鋼原さんで吟味してほしい」

 こほん、と咳払いをしてから、謦司郎は諜報活動の成果を話し始めた。



 ●



 七月二十一日

  午後二時三分三十七秒

   霧沙希家リビングにて

    「 」のターン



 攻牙は、ミルクと砂糖をガパガパ入れた紅茶を一気飲みしながら、謦司郎の説明を聞いていた。

「まず、ディルギスダークは朱鷺沢町にあるバス停『萩町神社前』、『谷川橋』、『針尾山』、『姫川病院前』……これに篤ん家がある御四紀村の『亀山前』を加えた五つを用いて、この地域全体を巨大なバリアーのようなもので覆うつもりらしい」

「……何のためにそのようなことをする?」

 篤は不可解そうに腕を組んでいる。

「ディルギスダークは『目覚めの儀式のため』と言っていたよ。この意味はよくわからないけど、とにかく朱鷺沢町近郊から人の出入りを一切禁じてしまうつもりらしい。そのために、五つのバス停たちを特定の位置関係に配置しなおすみたい」

「……つまり、外界からの影響を一切遮断したのち、この地域の〈BUS〉相を好きなように改変するつもりなのか……」

「まあ、専門的なことはよくわからないけど、多分そんな感じ? で、その『特定の位置関係』っていうのが……あ~、霧沙希さん。ここらへんの地図を貸してもらえるかな」

「あ、うん。ちょっと待ってね」

 藍浬が立ち上がった。リビングを出ていき、ほどなく折りたたまれた紙を持って戻ってくる。

「こんなのでいいかしら?」

「十分十分」

 ティーセットが脇に寄せられ、テーブルに大きな道路図が広げられた。

「篤は後ろ向いててね。オトナの時間だから」

「むぅ」

 篤はくるりと向きなおり、背もたれに向かう形で正座した。

 篤の視界に入らないということに関して、謦司郎は絶対に妥協しない。何故そこまで篤に見られるのを拒むのか、確かなことは攻牙にはわからない。

 篤は篤で、謦司郎の姿を見ることにさほど執着がないようだった。普通はめっちゃ気になると思うんだが。

「いや、さて」

 謦司郎がキュポン☆とペンを抜いた。



 まず、現在のバス停の配置について。

 『姫川病院前』、『谷川橋』、『針尾山』の三停が一直線に並んでおり、それより北に二キロほど離れた位置に『萩町神社前』がある。

 また、『姫川病院前』から西へ五キロ眼をやれば、『亀山前』を有する御四紀村が山中に紛れている。

 位置関係を図にするとこんな↓感じである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



                         『萩町』



『亀山』                『姫川』『谷川』『針尾』



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「で、ディルギスダークはこの配置を、こう変えるつもりらしい」

 キュキュッと謦司郎は地図に書き込んだ。

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                      『萩町』『亀山』



                    『姫川』    『針尾』

                        『谷川』

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 要するに正五角形の形になるらしい。

 『姫川病院前』と『針尾山』の位置は変わらない。

「……エルダーサインか。いかにも意味ありげじゃねーか」

 攻牙はニヤリとした。こういうケレン味は好きだ。

 これは何かすごい魔法陣的なものを構築して、でかいことをしようとしているフラグである。

 更に興味深いことに、この巨大な五角形の中心点には、ゲームセンター『無敵対空』が存在している。

 凄まじく意味深であった。

「あー、篤? もうこっち向いていいよ」

「む、そうか」

 振り返り、座りなおす篤。

 攻牙は考えをまとめてゆく。

「ふん……これで奴がポートガーディアンどもを洗脳した理由は一目瞭然だなオイ」

「ほえ、どゆことでごわすか?」

「バス停なんてデカいものをいちいち運ぶのは重労働だし目立つ。それより洗脳した駒たちを所定の位置に向かわせて……そこで一斉に召喚させた方が遥かに簡単だし邪魔されにくいだろ」

「あ、ナルホドでごわす」

 そこで篤が首をかしげた。

「むむ、しかしバス停は本質的に、元いた場所へ戻ろうとするものだ。それをあまり長いこと引きとめていると、バス停使いの精神に著しい損耗をもたらすことになるぞ」

 大抵は一時間とかからず戦いは終わるので、ほとんど意識されることはないが、例えば三時間ほど召喚しっぱなしにすると、頭痛や吐き気を催しはじめる。六時間で意識の混濁、十二時間で回復不能な脳障害が発生する。

 ――あれ?

 攻牙は自らの思考に違和感を覚える。

 ――なんでボクは召喚制限時間を詳しく知っているんだ?

 しかしまぁ、良く覚えていないだけで、実は篤や射美から聞いていたのかもしれない。そう考えてみれば、なんだかそんなような気もしてくる。

「おいおい篤……」

 気を取り直して、攻牙は肩をすくめた。

「悪の組織がそんなことを気にすると思うか?」

「むむむっ」

 〈目覚めの儀式〉とやらがどの程度で終わるのかよくわからないが、少なくとも放っておいていいわけがない。

 それに、攻牙の脳裏には、寒気とともにタグトゥマダークの言葉が浮かび上がる。



 ――《絶楔計画》は、その第五段階において朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相を根本から書き換えるニャン。その影響は……ははっ! こんな山間にこびりついたカビにも等しい人里なんて一瞬で蒸発しちゃうニャン。



 いったい、〈目覚めの儀式〉とは何を目覚めさせるためのものなのか。

 かすかな焦燥が、肺腑を舐める。

 攻牙は唸った。

「……思案のしどころだなオイ? 邪魔するならむしろこっちを邪魔したほうがいい気がしてきたぜ。要するにディルギスダークはゲーム勝負なんぞ持ちかけてボクたちの眼を自分に引き付けておいて……その間に洗脳ポートガーディアンどもに重要な計画を進めさせようっていうハラだぜこりゃ」

「それでも、ゲーム勝負は受けて立たねばなるまい。俺たちが下手なことをやれば、霧華や勤さんたちに危害が加えられぬとも限らぬ」

「まあ……そーだなぁ……」

 攻牙は思案顔で親指でこめかみを突っつく。

 その眼が、ふと何かに気付いたかのように見開かれた。

「なー篤」

「なんだ?」

「お前の『姫川病院前』ってディルギスダークに折られたんだよな?」

「あぁ……不覚を取った」

 攻牙は、正五角形に点が打たれた地図を見やる。

「じゃあこの五角形結界ってもう完成しないんじゃねーか?」

「……!」

 篤の使う『姫川病院前』も、五角形結界の一角に組み込まれている。

 ということは、『姫川病院前』が壊れている限り、〈目覚めの儀式〉は始まらないのではないか?

 普通なら、ただでさえ少ない戦力が大幅ダウンしたことを嘆くところであるが……

 攻牙はこの難局を、むしろ勝機と捉えた。

「なるほど、言われてみればその通りだ。恐らくディルギスダークとしても、『姫川病院前』を折ってしまったのは想定外だったのだろう」

「ふふん……」

 攻牙は、そこまで楽観的にはなれなかった。

 ――何らかの策略の一貫か……?

 だが、現時点では判断材料が少なすぎる。

「しかし、この状態がいつまでも続くわけではないぞ。神造兵器たるバス停には、自らを修復する機能が備わっている。一週間もすれば、『姫川病院前』は再び力を取り戻すことだろう。そうなれば、もはやいつ結界が完成してもおかしくない。即座に〈目覚めの儀式〉とやらは始まってしまうことだろう」

 篤がそう言いながら、ケーキの欠片をパクついた。「うむ、甘い」

「つまり――タイムリミットは一週間ってわけだ」

 攻牙は腕を組む。

「やるべきことは決まったな。あと一週間以内にディルギスダークを格ゲーでブッ倒す! そしてポートガーディアン四人を解放して全員でディルギスダークをフルボッコにするぞっ!」

 射美は胸の前で二つのにぎりこぶしを作った。

「おおお、なんか燃えるシチュエーションでごわすよ~!」

「まあ」

 藍浬がほっそりとした指先を合わせ、華やいだ顔を見せた。

「みんなでお泊り会ね!」

「え」

 攻牙は何とも言えない顔で藍浬を見た。

「よいのか?」

 篤が聞いた。

「もちろん。それに、なんだか怖い円盤が追ってくるんでしょう? ここ以外では練習なんてできないと思うんだけど」

「そりゃそーだけどよ……その……なんか問題が……」

 眉を寄せて頭をかく攻牙。

「あっ! 攻ちゃんがテレてるでごわす~♪」

「ううっうるへーよ! ボクは一般的な常識に則って遠慮してるんだ!」

 ほっぺ突こうと迫ってくる射美。身を引く攻牙。

 そんな様を見ながら、藍浬はふくふくと微笑んだ。

「ふふ、わたしお泊まり会って一度やってみたかったの」

「うむ、厚意に感謝するぞ霧沙希よ」

 ケーキをまぐまぐと味わいながら、篤は重々しくうなずく。

「フッフッフ……楽しい合宿になりそうだね……」

 謦司郎は一人エロっそーぅな笑みを浮かべていた。



 ●



 七月二十一日

  午後二時三十分十九秒

   霧沙希家玄関にて

    引き続き「 」のターン



 と、いうわけで、格ゲー強化合宿(おとまりかい)的なものが始まってしまうわけだが、その前にやるべきことが残っていた。

「念のため聞いておくんだが霧沙希」

「うん? なぁに?」

「この家にゲーム機は置いてあるか?」

「……うーん、ごめんなさい」

 というわけで、格ゲー練習のために攻牙の家までゲーム機とソフトを取りに行く必要があったのである。

「それじゃあちょっくら行ってくらあ」

「気をつけてね。すぐに帰ってきてね」

「ちょっと行って取ってくるだけだ十五分で戻るぜ!」

「ドッライブ♪ ドッライブ♪ 攻ちゃんとドライブ~♪」

 鼻歌まじりにバスの天板に飛び乗る射美。

「はやく乗るでごわすよ~♪」

「わーったよ!」

 中に乗り込んで座席についた途端、ありえないほどの勢いで超加速。「ぐぇ!」

 霧沙希邸を出発した射美と攻牙は、人気のない山道を物凄い勢いで下ってゆき、あっという間に街中に入る。

 人目につくので、速度は落とした。

 どこかレトロな商店街の景色が流れてゆく。

 ぼんやりと窓の外を眺めながら、攻牙は口を開いた。

「……なあオイ射美ー」

『なんでごわすかー?』

 スピーカーごしの、少しくぐもった声。

 攻牙は居住まいを正しながら言った。

「お前組織を抜けたんだってな」

『そーでごわすよ~。悪のセンペーから正義のケシンに華麗なるクラスチェンジでごわす~♪』

「ボクを庇ったせいか?」

『……それは単なるキッカケでごわすよ~。もうちょい前から、ヴェっさんたちは間違ってるんじゃないかなぁっていう思いはあったでごわす』

 言葉が見つからず、黙る攻牙。どこか落ちつかない様子で、外を見る。

「……ごめん」

『!?』

「仲間と決裂させちまったことについては……ごめん」

『……こッ……』

「こ?」

『攻ちゃんがデレたーッ!!』

「うぜええええええええええええ!!」

 みたいなことを言い合いながら、五分程度で嶄廷寺家に到着する。

「ほへー、ここが攻ちゃんのおうちでごわすか~」

 朱鷺沢町的基準で考えるならけっこうでかい三階建てアパートである。

「待ってろ。すぐ戻る」

「えぇっ、射美も行くでごわすよ~!」

 二人で階段を駆け上がり、三階の一室に到着する。しかし玄関に鍵が掛かっていた。

「……あんのアホ親父め……出かけてやがるな……」

 まあ好都合だ。射美を連れている所を見られたら、何を言われるかわかったもんじゃない。

 ポケットから合鍵を取り出し、中へ入る。

「おっじゃまっしま~す♪」

「いやスグ帰るんだぞ?」

「うおー、すごい! マンガいっぱい! ちょっと貸してでごわす~♪」

「いいけど……読んでるヒマねえと思うんだが」

 攻牙はテレビの横に置いてある白いゲーム機の配線を外すと、コードを丸めて箱に収めはじめた。

 今のところ、『装光兵飢フェイタルウィザード』家庭用移植版がリリースされている唯一の機種である。

 移植精度は相当高いが、まったく同じというわけではなく、アーケード版で可能だったバグ技が軒並み修正されている点と、大量の設置技を表示した際ゲームスピードが若干遅れる点に注意しなければならない。

 機体を箱に収め、プラスチックの取っ手を持ち上げた。

「おし行こうぜ射美この野郎」

 振り返ると、射美は床にぺたりとしゃがみ込んでマンガに読みふけっていた。

「射美ー? 霧沙希ん家戻ってから読めよまったく」

 マンガを取り上げる攻牙。

「あう~」

 一体何を読んでいたのかと見てみると、ひょんなことから女装した美少年が親友(男)に一目惚れされてさあ☆変☆態☆みたいなアブノーマルストーリーだった。女装時はポニーテールの活発系少女という設定らしい。

「ぶーッ!!」

 思わず放り投げてしまった。

 なんてもの読んでんだあのクソ親父!

「攻ちゃんって、そういうの好きなんでごわすね……♪」

 紅潮した頬に手を当てながら、射美は眼をそらした。

「ちっげーよ! ボクのじゃねーよ!」

「うふふ~、ザンネンながら射美は女の子でごわすけど、攻ちゃんがどうしてもと言うなら、髪を伸ばしてポニーテールにしてもいいでごわすよ~!」

「せんでいいわい!」

「愛い奴愛い奴~♪ ぷにぷに~♪」

 その後、ゲーム機を持って玄関を出ても、射美によるぷにぷに攻撃はしつこく繰り返され――



 ――階段を降り切った先に異様な人影を発見するまで続いた。



「っ!?」

 その姿に、攻牙は見覚えがあった。今、一番出会いたくない男だ。

 電動車椅子に乗る、規格外の巨漢。その顔は漆黒のロン毛に覆われてほとんど見えなかった。

 ベルトとハーネスによってぎちぎちに縛り上げられた巨躯は、どこか倒錯した恐怖を抱かせる。

 ただそこにいるだけで、場の中心を自分のところに引き寄せてしまう。そういう存在感を秘めた姿だった。

 深く、重い沈黙が、あたりに垂れ込めた。

「ディ、ディルさん!」

 ディルギスダーク。地方制圧軍序列第六位のバス停使い。内力操作の深奥を極めた男。

「んな……バカな……」

 思わず、乾いた声でつぶやいた。

 ――なんでここに奴がいる!?

 もちろん、攻牙がゲーム勝負に向けて自宅にゲーム機を取りに来るという予測は立たないことはない。でかい悪の組織なら攻牙の住所を調べ上げることも可能かもしれない。

 ――だけどそれだけでこのピンポイントすぎるエンカウントを説明するのは無理がねーか!?

 ありえない、とまでは言わないが。攻牙はこの状況にどこかきな臭いものを感じる。

 何か見落としているのではないか。焦燥まじりの疑惑が胸を騒がせる。

 暗黒の巨漢は、おもむろに口枷を噛みしめ、頬を歪めた。

「――ク……ク……」

 そして、かすかな駆動音とともに、車椅子が動き出す。

 こちらに、近づいてくる。

 攻牙と射美は、何も言えず立ちすくむ。

 ――そうだ。こいつがまっとうに格ゲーの勝負なんか挑むわけがないのだ。

 ディルギスダークはゲームに思い入れなどない。公正な勝負など興味の埒外なのだろう。あのアホみたいな永久ループキャラを見ただけでわかる。こいつはゲーム全般を遠回しにバカにしているのだ。

 邪魔できるところは徹底的に邪魔してくるに決まっているのである。

「おいおい……だからって練習すら許さねえってのはちょっと肝っ玉が小さすぎやしねえか?」

 額に汗を浮かべながら、攻牙は挑戦的に哂う。

「――ク……クク……ク……」

 空気が、変わった。

 奴は唇をまくりあげ、乱喰い歯を剥き出しにして、

 ぎちり。

 と、笑みを浮かべた。頬は異形と化すまでに歪み、まるで口が耳まで裂けているかのようだった。

「――ク、き……き……」

 巨大な喉仏が蠕動し、昆虫の羽音のような喘鳴を大気に刻む。

 電動車椅子の前進は続く。ゆっくりと、ゆっくりと。

「う……」

 攻牙と射美は、気圧されるように一歩退いた。

 近づいてくる。近づいてくる。

「――クク、クカカッ……」

 まるでディルギスダークを中心に空間が歪んでゆくかのような心地だった。

「は、ハッタリでごわすよ。ディルさんは見ての通り、一人じゃ階段を上がれないでごわす」

 射美が小声で言う。

「でもホーミング八つ裂き光輪があるんじゃねーのか!?」

「それは飛んでくる時にでっかい音を立てるでごわす。今は近くにいないでごわすよ」

 一理ある。

「――き……き……きき……!」

 ディルギスダークの忍び笑いは、徐々にトーンが高くなっていった。

 車椅子は近づいてくる。少しずつ、少しずつ。

「だけど……ならなんでこいつは笑っているんだ!?」

「わ、わかんないでごわすよぉ!」

 黒い巨躯の中で、何かの内圧が高まっている。そんな予感に、攻牙と射美は精神をすり減らしていった。

 恐怖が予感を呼び、予感が恐怖を呼ぶ。

「――ひひ……クク……ききき……ッ!」

 車椅子が階段のすぐ前で止まった。

 瞬間。臨界点。



 ディルギスダークはいきなり全身の拘束具を引き千切って立ち上がった。



「――非ヒヒヒヒヒヒヒヒはハハッは母歯母覇母刃ハハハはぁーッハッハッハッハッハッハッハハッハhッハッハハハアーーーーーッッ!」」

 口腔をカッと全開にし、異常な笑い声が爆発する。

「ひっ!?」

 そのまま倒れ掛かるように四つんばいになると、蜘蛛を思わせる動作で階段を這い上がってきた。凄まじいスピードだった。

「ぎゃあああああああああああ!!!!」

 じゃあなんで車椅子に乗ってたんだよ!!

 わからない。なにもわからない。理解できない。

 二人は恐怖に突き動かされ、階段を脱兎のごとく駆け上がっていった。

 獣のような息遣いが、背後から迫ってくる。その事実が、冷静な判断力を奪ってゆく。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 涙目になりながら、二人は三階分の階段を一気に駆け上がり、こけつまろびつ廊下を走る。

 だが、いつまでも続かない。

 ほどなく二人は行き止まりに突き当たる。

「どどどっ、どどどどどうしよう攻ちゃん! 行き止まりでごわす! 袋小路実篤でごわすよ!」

「白樺派の作家かよ! くくくくだらねえこと言ってねえで早くバスを呼べ! 急げ早くハリー!」

「ここ三階でごわす~! マンション壊れちゃうでごわすよぉ!」

「――ヒヒへ経ぇーへへへはははーはーははーヒヒヒヒヒヒイイイイイイヘェエエエエエエエエキキキココカカカカカカカッッ!!」

 異常な角度に曲げた四肢をカサカサと高速で動かして、ディルギスダークが肉薄する。もう完全に人間には見えなかった。タタリ神に見えた。

 攻牙と射美は抱き合って顔を青くさせた。

 息がかかるほどの至近距離。原形もとどめないほど歪んだ顔を突き出し、首を傾げた。

 ――もーダメだぁ!

 二人は眼をぎゅっと閉じた。獣じみた呼気が、頬にまとわりついた。

 ――脳内有象無象ども! てめーらの意見を聞こう!

 即座に脳みその各所から暖かいコメントが寄せられてきた。「奴の喉をかっ斬れ。当然ナイフは持っているな?」と大脳辺縁系在住の脳内暗殺者がつぶやき、「この距離であれば沈墜勁からの通天炮が有効だぞ」などと海馬在住の脳内武術家が嘯き、「君の遺族には十分な補償を約束しよう」と脳幹における本能のうねりを監視していた脳内陸軍士官は冷徹に丸眼鏡をクイッとやり、「攻牙……! お前一人を死なせはしない……!」と脳下垂体に巣食う脳内魔王と対峙していた脳内勇者は涙の決意を固め、「あーあーあー、これはあのー、あれだね、隣の……鋼原さん、だっけ? あのー、彼女のあれだ、イヤボーンに期待するしかないねこれ、ぶっちゃけ詰んでるわこれ。……ところで『詰んでる』と『ツンデレ』って似てね?」と視床下部の狭間で寝そべっていた脳内親父が爽やかに笑った。

 少しは役に立つことを言えお前ら。

 そして。

 しゅたっ、と。

 足音がした。

「困るなぁ。その二人は僕の友達なんだ」

 典雅なテノールが、二人の心を包み込んだ。

「えっ」

 眼を開けた瞬間、二人の眼の前には、すらりと長い足があった。

 視線を上に向けると、スマートな後姿が見える。

「謦司郎……!」

「ヘ、ヘンタイさぁん!」

 彼は暗緑色の頭だけ振り向き、にこりと屈託のない笑みを見せた。

 その背中は、いつもより広く見えた。

「やあ二人とも! 女の子が使った筆記用具にも興奮できるようになった男、闇灯謦司郎だよ!」

 自慢のつもりなのかそれは。

 謦司郎はディルギスダークに向き直り、肩をすくめた。

「いや、さて。この落とし前、どうつけてくれるのかな? かわいそうに、涙まで浮かべてるじゃないか」

「――ないわ。マジないわ」

 ぽつりと呟くディルギスダーク。

「――格好よく登場したはいいが、後ろで抱き合って震えている無力な二人を救うことが可能かは極めて疑わしかった。ただ素早いだけが取り得の男がひとり加わったところで、この圧倒的戦力差をくつがえせる道理はなかった」

「おやおや本当のことを言わないでほしいなあ、傷ついちゃうから」

 柔らかく微笑みながら、謦司郎は攻牙と射美のそばにしゃがみ込んだ。

「さて二人とも? ちょっとビックリするだろうけど、我慢してね。アレを見せるなんて不本意だけど、非常事態だからね」

「ごわわ?」

「アレってなんのことだ?」

「――不可解な言葉だった。この男は何か切り札を隠し持っているとでも言うのだろうか。稚拙極まりないハッタリと言わざるを得ない。ないわ。マジないわ。この世には嘲笑を買わずにはいられないものが三つある。ひとつめは見え見えのハッタリをかます思春期の少年。ふたつめはエロ画像を求めてネットを東奔西走する思春期の少年。みっつめは『あいつ、ほんとは俺のことが好きなんじゃないか』とかどう考えても気のせいな疑惑にやきもきする思春期の少年。よっつめは思春期の少年」

 どれだけ思春期の少年が嫌いなんだ。

 そう思った瞬間、攻牙と射美は謦司郎の腕にとらわれ、素早く小脇に抱え込まれてしまった。

「おい!?」

「ご、ごわっ!」

「――もしやそれで逃げるとでも言うつもりなのだろうか。ない。それはない。ありえない。なぜなら闇灯謦司郎は、他人も一緒に瞬間移動するなどということを今まで一度もしたことがないのだ。明らかにそうしなければ不自然な場面ですらそうしてこなかった。すなわちできないからだ」

「残念でした」

 右脇に射美、左脇に攻牙を抱えながら、謦司郎は朗らかに微笑んだ。

「できないんじゃなくて、やりたくないだけなんだ」

 攻牙は、その言葉を聞きながら、目前に生じた異変に、息を呑んだ。

 眼に映る光景が、霞んでいる。まるで、風景画を巨大なモップで荒っぽく塗りつぶしていく過程を見ているかのように、掻き消されてゆく。

「こ……これは……!」

 そして。

 世界が。

 変わる。



 ●



 ?ケキ月?ア」ケニ日

  。。 、ス、ホツセ時「」・ ?ッ「」分サツ衞フ。ヲハャノ秒

   レモョニホ爍ロナ郤ャクゥ。「シオニサクミ、ォ、鬣ッ・ク・魎スタミにて

    「射美」のターン



 ……とても、寂しい眺めが、目の前に広がってたでごわす。

 鈍くかげる空がどんよりとした色を投げかけていて、太陽は見えなくて、灰色の曇り空を透かしてぼんやりと光るばっかりで……

 冷たい大気が、あたりに吹き溜まっているカンジ。風が吹くこともなくて、なんだか息苦しいでごわす。

 広がる地面は、一面の灰白色。まるで白骨をすり潰した粉が積み上がっているみたい。

 ――なんか……怖い、カンジでごわす……

 動くものの姿はなんにもなくて、草も木も一本も生えていない。

 灰色の空と、灰色の大地がさびしく広がるばっかり。

 何の音もしない。

 そんな中に、降り立つヘンタイさん。積み重なった灰が、音もなく舞い上がっていったでごわす。

 まるで、海底の光景みたい。

「な、なんでごわすかここは……?」

 射美は耐えきれなくて、声を上げたでごわす。

 こんなヘンテコな場所は、朱鷺沢町にはないはずなのに。

 そして、トンデモないことに気づく。

「こ、攻ちゃんがいないでごわすよ!?」

 そう、ここにいるのはヘンタイさんと射美の二人だけ。ヘンタイさんがもう一方の脇に抱えていたはずの攻ちゃんの姿がない!

 だけど、ヘンタイさんはそのことにゼンゼン驚いてないみたいでごわす。

「……行こう。キミは、こんなところに一秒だっているべきじゃない」

 変に硬い声色で、そうつぶやいて。

 次の瞬間、また風景がかき消えてゆくでごわす。

 まるで、こんな世界を否定したいとでも言うみたいに、性急に。

 ……だけど、去りぎわの一瞬、射美は、見たでごわす。

 白紙のように何一つない世界の一点。ほとんどヘンタイさんの足元近く――

 何かが。

 転がっていて。

 それは――

「……っ!?」

 風に吹かれて、すり減ったそれは。

 人間の、ガイコツに、見えたでごわす。



 ●



 七月二十一日

  午後二時四十分四十八秒

   嶄廷寺家が住まうマンションの前にて

    引き続き「射美」のターン



「ごわわーっ!」

「うぉぉーっ!」

 熱気がむっと押し寄せてきたでごわす! 同時にバスの車体で照り返す陽光が、とってもまぶしい。

 元の世界! すっごくホッとするでごわす~。

「いっやー危なかったねー」

 能天気なヘンタイさんの声。

「なんだ!? あれか!? お前のオハコの瞬間移動か!?」

 脇に抱えられている攻ちゃんが騒ぐ。

 よかった! いる~!

「そんなとこ。さ、早くバスに乗ろう。彼はきっとすぐ追いかけてくるよ」

「おーよ」

 攻ちゃんは地面に降り立つと、バスの出入り口に駆け寄った。

 そして、射美は抱えられたまま、ヘンタイさんの顔を見上げた。

「ヘ、ヘンタイさん……」

「ごめん。さっきの光景については、今は何も聞かないでくれるかい?」

「で、でも!」

「ごめん」

「うぅ……」

 いつになくマジな口調のヘンタイさん。いつもこんな感じならカッコイイのになぁ、と思う。

「おいお前ら何やってんだー! 早く行こうぜー!」

 バスの昇降口に足をかけた攻ちゃんが、そう呼びかけてくる。

 すると、ヘンタイさんは急に明るい口調になった。

「はっはっは、鋼原さん? 比較対象が霧沙希さんくらいしかいなかったから、あたかも貧乳キャラみたいなイメージがついちゃってるけど、いやいや十五歳でそれなら十分十分。育ってる育ってる」

 ……って。

 なんか、おムネのあたりでごそごそウゴめく感触が……!

「ヘ、ヘンタイさんのヘンタイーっ!」

 フラチな手を振りほどき、射美は飛びあがってヘンタイさんのアゴにしょーりゅーけん!

「へぶぅ! ……ハァハァ……」

「と、とりあえずっ! 何も見なかったことにしておくでごわすっ!」

 するとヘンタイさんは目尻を下げて、

「うん……ありがと」

 なんだか申し訳なさそうに言うのでごわした。



 ●



 七月二十一日

  午後二時四十六分三十秒

   霧沙希家リビングにて

    「 」のターン



 霧沙希邸のリビングにて、攻牙は巨大な液晶ワイドテレビの前に立っていた。すでにゲーム機は接続され、『装光兵飢フェイタルウィザード』のデモがテレビに流れている。ミュートにしているので、音は鳴らない。

 眼の前には篤と射美が正座して座っており、後ろのソファには謦司郎と藍浬が腰掛けている。

 攻牙は一同を見渡して小さく深呼吸し、

「即死コンボだっ!」

 そう一喝した。

「奴が弱パンチから始動する永久コンボを持っていることはもう話したと思う。要するに小パンを一発でも食らえば敗北確定というわけだ。正直言ってボクはラウンド中に一発も攻撃を食らわない自信はないし……それはお前らも同じだと思う」

 腕を組む。

「だからこその即死コンボだ。相手に何一つ行動のチャンスを与えないまま瞬殺するんだ。それ以外に勝ち目はねえ! ボクたちは一週間以内に即死コンボを習得し……それを奴に叩き込める立ち回りも学ばなくちゃならねえ!」

「応」「はいでごわすっ」「難易度高そうだねえ」「が、がんばります」

 四人の返事を受け止めた攻牙は、鼻息も荒く尋ねる。

「ちなみに! お前らゲームの経験はどんくらいだ?」

「うーん、ごめんなさい。ほとんど経験なしだわ」

「あのあのあの! クイズするやつとか太鼓のやつとか超たのしかったでごわす~♪」

「囲碁ならばそれなりに嗜んでいるぞ」

「ククク……僕がやるゲームなんて言わなくてもわかるだろう? ぐふふ、ぐふふふふ……」

 大丈夫かこのメンバーで。



 画面には、蛍光色に光るラインが交差してマス目を形作り、ひとつひとつにキャラクターの顔が表示されている。

 そして画面の右下と左下には、キャラクターの全身が映し出され、ゆるやかな立ちモーションを繰り返していた。

 キャラクターセレクト画面。ここで自分の操作するキャラを選ぶのだ。

「むお……」

「ほえ~」

 篤と射美は無線式のコントローラを持ったまま、ぽかんと口を開けていた。

 というか、初めて火を見た原始人みたいなリアクションをするんじゃない。

「これは……なにをするものなのだ?」

「まだゲームは始まってねえよ!」

「と、とりあえず、ひとり選ぶんでごわすよね?」

「そーだ十字キーを動かしてみろ」

「むむむ?」

 まず十字キーが何なのかもわかってなさそうな篤を尻目に、射美はかちゃかちゃとコントローラーをいじった。

 電子音っぽいSEが鳴ると同時に、左下のキャラクターが次々と切り替わってゆく。

「うお、なんだ?」

「左手の親指が当たってる所があんだろ。そこを適当に押すんだよ」

「むむ? ……おぉ、すごいぞ! 動いたぞ! 絵が変わったぞ!」

「そんなことではしゃぐな!」

「ほへ~、けっこうカワイイのが多いでごわすね~♪」

 カーソルを動かして、キャラクターを順繰りに表示させながら、射美は言った。

「……そーかぁ?」

 まぁアニメっぽいというのは否定しないが。

「おぉ……おぉぉ……」

 一方篤はデタラメにカーソルを動かして、キャラの絵が変わるたびに感嘆している。

 そしてしみじみと言う。

「攻牙よ……面白いな、このゲームは」

「まだゲーム始まってねえから! キャラセレで面白がる奴はじめて見たぞ!」

「で、攻ちゃん先生? どの子が強いんでごわすか?」

「うーん……」

 攻牙は少し考え込む。

「総合的な面で性能が高い奴とか、対戦ダイアグラムで上位の奴とかは確かにいるが……今回はそう単純じゃねえからなぁ」

 攻牙たちの目的は、別に格ゲーうまくなって大会で優勝しまくり全一とか呼ばれることではない。

 ディルギスダークというたったひとりの特殊な敵に勝てればいいのである。

 それには、奴が使用したチートキャラクター「Insanity Raven」に対して相性のいいキャラクターを選ぶ必要がある。

「ヴァズドルーか……ムーングラムかなぁ」

「名前じゃわかんないでごわすよ~」

「一番下の列の左から二番目と四番目の奴だ」

「攻牙よ、この男はなぜ宙に浮いているのだ?」

「多分ヨガでも極めてんだろ!」

「よっし、射美はムーングラムって子にするでごわす~!」

 ディコーン! とかいう音とともに、射美のカーソルが激しく点滅し、キャラクターが選択されたことを知らせる。

 それは、光の球体をいくつも衛星のように従えている、直立二足歩行のウサギであった。標準の半分ほどの背丈で、ちょっとメタボな体型とつぶらな瞳が愛らしさをアピールしまくりである。短い脚でくるりと一回転し、「やるぞ~」みたいな感じで腕を突き上げた。

「カワイイでごわす~♪」

「むむっ、取られた……!」

「ざんねんでした~! 早いもの勝ちでごわすよ~♪」

 無念そうに肩を落とす篤。一体どれだけウサギが好きなのかと思う。今も頭にあっくん乗っけてるし。

 というか同じキャラでの対戦など普通に可能なのだが、めんどくさいので攻牙は黙っておくことにした。

 それから篤のカーソルはフラフラとあてどなく彷徨いだす。

「うむむぅ……」

「はよ決めれ! サムライっぽい奴もいるぞ?」

「む? どこだ?」

 と篤が反応した瞬間、画面上部でカウントされていた時間がゼロになり、強制的に試合が始まる。

 その瞬間、たまたまカーソルが合っていたキャラクターが、篤の操作キャラクターとなった。

「ん? なんだ?」

「よりにもよってそれかよ!」

 銀色のロングヘアと黒いメイド服の少女だ。おたおたと不安げに周囲を見渡し、目をウルウルさせている。

 しかし、そのスカートからのぞくのは白い脚ではなく、一本の巨大でぶっとい大剣なのだった。ヤジロベーのように自立している。

 初見の人は高確率で「なんだこれ」と突っ込むデザインであるが――

「うむ、見事な平衡感覚だ」

「違う! 注目ポイントそこじゃない!」

 画面が暗転し、上昇するエレベーターで戦うステージが現れる。背景は見渡す限りの広大な図書館であり、異様なまでに巨大な本棚が摩天楼のごとく乱立していた。

『第一燐界形成-Round 1-』

 ラウンドコールが響き渡る。『装光兵飢フェイタルウィザード』においてこの時間は、設置技をいかにしてピタゴラ連鎖させるかという駆け引きが繰り広げられる非常に重要な局面なのだが、操作方法すらわかっていないであろう初心者ふたりを混乱させる必要もないかと思い、攻牙は何も言わなかった。

『閃滅開始-Destroy it-』

「うぉっ、えっ、はじまったでごわすか?」

 二足歩行ウサギ――ムーングラムが小刻みに左右に動いた。

「……とりあえず、操作方法な」

 Aボタンが弱パンチ。Bボタンが強パンチ。

 Xボタンが弱キック。Yボタンが強キック。

 Rトリガーで設置技を生成。

「あとは十字キーで移動だ。OK?」

「うおージャンプかわいいー」

 ムーングラムがぴょんぴょん跳ねている。長い耳がわさわさ揺れまくる。

「……十字キーの上を押すとジャンプだ」

「ふむ」

 すると、メイド少女もジャンプを始めた。しかし、その高度は兎人ムーングラムより明らかに低い。見た目よりも遥かに重い体らしく、跳躍する前に一瞬力むような仕草が入り、いざ跳躍すれば汗を飛ばしながらバタバタと腕を振り回す。そして着地した瞬間にはホッとした表情で息を吐くのだった。

 この、格ゲーにあるまじき鈍重な挙動のメイド少女を、エオウィンと言う。

 曰く、「萌えるサンドバッグ」。

 曰く、「出るゲームを間違えてる」。

 曰く、「倒すと罪悪感を覚えるレベル」。

 などなどありがたくない賛辞をプレイヤーから捧げられる弱キャラである。どうも作中設定で旧世代の戦闘用ロボらしく、他のキャラクターがキラキラした光の粒子を撒き散らしながらスタイリッシュに飛び回るのに対し、エオウィンはミサイルだのドリルだの火炎放射だのレトロギミック満載な戦い方である。しかしその可愛らしい仕草から、幾多の硬派ゲーマーを萌えの道に引きずり込んでいった魔性の女でもあった。下半身大剣だけど。

「動きが……重いな……」

 攻牙が「よりにもよって」などと言った理由はここにある。エオウィンには気軽に行えるアクションがほとんどない。あらゆる動作に、初心者でも見切れる大きな隙がついてまわるのだ。

「……まあいいや。とりあえず技表を見ろ」

 攻牙はプラスチックのケースから説明書を引っ張り出し、必殺技のコマンドが書かれたページを広げた。



 ムーングラム:



 必殺技

・〈ラビッティアの誇り・ハック〉 ↓↓+AorB

 発生4F。硬直22F。上段判定。光刃が生えたウサ耳を円の形に振るい、敵を斬り裂く。無敵時間あり。対空や切り返しに有効。

・〈ラビッティアの誇り・レイド〉 ↓→+AorB

 発生15F。硬直18F。上段判定。突進しつつ光刃が生えた耳で切り裂く。高威力。差し込みや連続技のシメに。

・〈電磁発振砲〉 ←↓→+XorY(押しっぱなしで射角の変更)

 発生25F。硬直32F。上段判定。周囲に浮遊する球体群を砲身のように配置して、超高速弾を撃つ。ボタン押しっぱなしで射角の変更が可能。設置技〈ディラックのひとすくい〉を通過するとガード不能になる。

・〈エルワーの守護衛星〉 R

 発生5F。硬直5F。中段判定。常時展開型設置技。球体の一つを空中に配置する。十個まで配置可能。触れた相手は逆ベクトルへ吹っ飛ぶ。

・〈ディラックのひとすくい〉 →←+R(その後↓↓+Rで爆発)

 発生5F。硬直5F。中段判定。任意発動型設置技。ブラックホールを思わせる闇の球体を配置する。追加入力で爆発し、ダメージを与える。三個まで設置可能。高威力。



 ルミナスドライヴ(超必殺技)

・〈宇宙の天秤〉 →↓←→+A+B

 発生12F。硬直40F。上段判定。両耳から非常に長い光刃を伸ばし、羽ばたくように上昇。浮かした相手を空中でX字に斬り裂く。無敵時間あり。

・〈かくて我は思考せり〉 →←↑↓+R

 発生5F。硬直5F。中段判定。配置したすべての〈エルワーの守護衛星〉の間に電撃のラインが発生し、ダメージを与える。



 エオウィン:



 必殺技

・〈あんまり見ないでください……〉 ↓↑+XorY

 発生5F。硬直45F。上段判定。宙返りしながら大剣になっている下半身を振り上げる。上空への攻撃範囲が非常に広い。しかしいつも着地に失敗して涙目になり、膨大な隙をさらす。

・〈がんばります〉 ↓↓+AorB

 発生7F。硬直50F。上段判定。頭からミサイルを発射する。ミサイルは一旦上空に舞い上がり、二秒後に敵を追尾する。しかし頭が燃えだしてあたふたと消火するので膨大な隙をさらす。

・〈どきどきです〉 ↓→+AorB

 発生17F。硬直40F。上段判定。いきなり手が外れて銃口が現れ、火炎放射。異様なまでに攻撃範囲が広い。しかし落ちた手をいちいち拾ってつけ直すので膨大な隙をさらす。

・〈ローハンの科学は、まぁそこそこ!〉 ↓←+AorB(連打)

 発生10F。硬直19F。上段判定。胸がパカッと開き、現れたガトリングガンをぶっ放す。何事かと思うほど隙が少ないが、反動で大きく後ろに下がってしまうので、背後に敵の設置技があったりすると自滅する。

・〈後で拾うのが大変です〉 R

 発生5F。硬直20F。下段判定。常時展開型設置技。足元に地雷を置く。当たると相手は大きく浮く。エオウィンの生命線とも言うべき技。空中で出すと、真下に地雷を落とす。五つまで設置可能。

・〈こんな使い方じゃありません〉 ←or?or↓or?or→or?or↑or?+R

 発生5F。硬直5F。中段判定。常時展開型設置技。扇風機の羽根みたいな形状のメカを配置する。空中可。メカは高速回転しながら浮遊し、触れた相手を巻き込んで吹き飛ばす。方向キー入力によって吹き飛ばす向きを指定できる。二つまで設置可能。



 超必殺技

・〈ネズミ捕り用です〉 ↓→↓→+A+B

 発生27F。硬直65F。上段判定。全身のポッドを展開し、どう見てもネズミ捕り用ではない威力のミサイルを大量発射。地雷で浮いた相手に叩き込むのがベター。しかしヒット数が安定しない上に、変形した体を戻すのに一秒以上かかるため、運が悪いと反撃確定。

・〈ドロボウさんはおしおきです〉 方向キー一回転+AorB

 発生5F。硬直5F。投げ判定。敵に抱きついて電撃を流し込む。威力は控えめだが、相手のゲージをゼロにする。違和感を感じるほど優秀な技。エウィンのくせに生意気である。

・〈対神用覚醒型追憶剣アングマール〉 ↓↓+A+B+X+Y

 発生76F。硬直220F。3ゲージ消費のガード不能即死技。下半身の大剣が巨大化。大きく宙転しながら振り下ろし、相手を叩き潰す。ほとんど全画面を覆うほど範囲が広いが、背後に回り込まれると当たらない。しかもこのゲームで最も遅い部類に入る攻撃である。



「覚えらんないでごわす~……」

 射美が頭を抱えた。

 篤に至っては眼を白黒させながら硬直している。

「この……矢印と英字の羅列は何なのだ……?」

「いきなり全部理解しろとは言わねえよ。とりあえずほとんどの格ゲーに共通する基本的な仕様から教えるぜ」

 その後、攻牙はまったくゲーム慣れしていない生徒(主に篤)に根気良く格闘ゲームの何たるかを教え込んでいった。

 まず基本的なルール。相手に攻撃を当てることによって、画面上部に存在する敵体力ゲージをゼロにすることがゲームの目的である。二ラウンド先取制なので、相手を二回倒す必要がある。

 そして攻撃手段。

 ボタンを押しただけで出る通常技。相手に密着した状態でボタンを押すと発動する投げ技。

 特定の十字キー操作+ボタンで出る必殺技。

 画面下部のパワーゲージを消費して放たれる強力な超必殺技。(一応、パワーゲージは「EL粒子残量計」、超必殺技は「ルミナスドライヴ」という正式名称があるのだが、その名でよばれることはまずない)

 さらに、コンボと呼ばれるテクニックが超重要であることもどうにか飲み込ませた。まず何らかの攻撃を当て、相手の食らいモーションが終わらないうちに次の攻撃を当てる。これを繰り返すことで、防御も回避も許さずに大ダメージを与えることが出来るのである。

「ううむ、複雑だな」

「あとはダッシュだ! 方向ボタンをタイミングよくタタンッと押せ!」

「あいあい~」

 画面内で、ムーングラムは発光エフェクトを伴って物凄いスピードで突進。エオウィンと密着した状態で停止した。

「うおっ、速っ!」

「このゲームのダッシュはめっちゃ速いぞ」

 ステージの端から端まで一秒程度で走破してしまえるほどの超高速移動。言ってみればただそれだけのアクションなのだが、とにかく速いので立ち回りの根幹を成す重要行動である。

「うおー、速い~!」

 画面では、ムーングラムがビカビカ光りながら縦横無尽に飛び回っていた。突進の軌跡には蛍光色の粒子が飛び散り、非常に美しい。

 基本的に、ダッシュは方向キーを入れている方向に加速する。左右のみならず、上下や斜め方向にも行けるのだ。重力を無視した機動で飛び回るウサギの姿に、射美がはしゃぐ。

「……攻牙よ」

 ふいに、篤の重々しい声がした。

「あんだよ」

「ダッシュしてもすぐに止まってしまうのは何故だ」

「タタンッの二回目は押しっぱなしにしろ!」

 頭を抱える。



 ●



 七月二十一日

  午後五時五十七分一秒

   霧沙希家リビングにて

    「わたし」のターン



 それからわたしたち四人は、ローテーションを組んで、入れ替わり立ち替わり練習試合を重ねています。

 わたしと闇灯くんの二人は、わりあい簡単に基本操作をマスターしてしまいました。

 最初は「できるわけないっ」って思いこんでいたけれど、実際にコントローラーを握ってみれば拍子抜けするほど簡単でした。ゲームを開発した方々だって、ユーザーがわかりやすいよう工夫して作っているのですから当然ですね。

 わたしが選んだキャラクターは、マアナというお名前のようです。

 翡翠色の大きな球体を中心に、巨大な金属の手足が組み合わさって、ずんぐりとした機械人形を形作っています。その佇まいがなんだかとても愛らしくて、一目で気に入ってしまいました。丸くて大きいものが世界を平和に導くというのは、わたしの持論のひとつです。

「選んだ基準は?」

 攻牙くんが、つぶらな瞳を瞬かせて聞いてきました。

「だってかわいいんだもの」

「……」

 眉をきゅっと下げて怪訝そうなそのお顔がまた愛らしく、小さきものも世界を平和に導くんだなぁと感服することしきりです。

 闇灯くんが選んだのは、ヴァズドルーという方のようです。

 ゆらゆらと水草のようにゆらめく光のたてがみが雄々しい、騎士甲冑の男性です。バイザーから覗く紅い単眼が何やら睨んでいるようで、ちょっと身がすくんでしまいます。

「しょく」

「理由なんか聞いてねえし言ったら殴る」

「ええー」

 やりとりの意味はよくわかりませんが、なんだかとても微笑ましい光景です。

 射美ちゃんは相変わらずウサギさんを使い続けていました。とても白くてふくふくしていて、抱きしめたらとても気持ち良さそうです。

 それから諏訪原くんは相変わらず、近世大英帝国の香りただよう女の子を愛用しているようです。むぅ、ちょっと嫉妬してしまいます。

 わたしたち四人は何時間か練習試合を繰り返し、少しずつ『装光兵飢フェイタルウィザード』の戦い方を肌に理解させてゆきます。

 そのさまを監督しているちっちゃな熱血教師・攻牙くんは、折に触れては格闘ゲームの概論を教授してくれました。

 格闘ゲームとは要するに「先読みが可能な高速じゃんけん」とでも称すべきもののようです。

 パンチはガードすることで防げますが、いくら防御を固めても投げ技を防ぐことはできません。ところが投げ技をかけるには至近距離まで近づかないといけないので、パンチを連発されるとにっちもさっちもいかなくなってしまいます。

 つまり『打撃<ガード<投げ<打撃』という三すくみの形です。

 また、打撃技には「上段」「中段」「下段」の三種類が存在し、それに対応するようにガードにも「立ちガード」「しゃがみガード」「空中ガード」の三種類が存在しています。

 上段攻撃は空中ガード不能。

 中段攻撃はしゃがみガード不能。

 下段攻撃は立ちガード不能。

 と、このようなルールになっているため、ある程度経験を積んだプレイヤー同士の対戦だと、複雑な読み合いが発生するわけですね。

 うーん、これまでちらりと視界の端に流れるばかりだった格闘ゲームの勝負には、かくのごとき整然とした理論の裏付けがあったようです。

 そうこうしているうちに、六時を回りました。真夏なのでまだまだ外は明るいようですが、そろそろみんなのお夕飯について考えなければいけません。

 冷蔵庫の在庫状況を思い起こし、最適なメニューを考案します。

「攻牙せんせ? そろそろ休憩に入らない?」

 ひととおり考えもまとまったので、わたしはそう声をかけました。

「そーだなぁ。じゃあここらで休憩とす! オラッ! てめーら場所かわれ! ボクが練習する!」

「むお」

「へいへい」

「うふふ、それじゃあわたしはお夕飯の支度をしなくちゃ。射美ちゃん、手伝って?」

「ふあ~い」



 ●



 七月二十一日

  午後六時三十九分四十四秒

   霧沙希家リビングにて

    「俺」のターン



 俺は、眉間にしわを寄せながら、ケターイデンーワを耳に押し当てていた。

 単調なコール音。攻牙に電話のかけ方を詳細に教えてもらったので、さっそく試しているのだ。

 やがて音が止み、大気のざわめきが聞こえてきた。

『はいはい。もしもし? 何の用だ息子よ?』

「うむ、実は今日、悪の組織の襲撃によって我が家が破壊されてしまったのだ」

『そうか、もうそんな季節か……』

「どんな季節だ?」

『まいったなぁ、またかぁ。まだローン残ってんだけど』

「父上と母上が帰宅した時に家がないのを見て驚くといかんから、先に報告しておこうと思った次第である」

『あぁ、まあ、そうだなぁ。俺はともかく真希ちゃんと霧華ちゃんは気が小さいからなぁ。卒倒するだろうなぁ」

「母上と霧華は感受性が繊細なのだ。我々が気を使わねばなるまい」

『そうだな。そんなところがまた可愛いんだけどねあの二人は。……それで篤、つまりお前はま~た危ない奴らと諍いを起こしてるのか』

「面目ない。争うことでしか事態を解決できぬ我が身の不明を恥じ入るばかりだ」

『まあいいさ。命より大事な俺ルールをしっかり持っているようで何よりだ。だけど真希ちゃんと霧華ちゃんを泣かすようなマネだけはするなよ?』

「肝に銘じておこう。それで、今後についてなのだが……父上と母上には一週間だけ待ってもらえるだろうか? それまでどこぞの宿にでも泊まってくれていると助かる。一週間経てばすべてに片がつき、我が家も元に戻っていることだろう」

『ふふん? 一週間か。今回はずいぶん長いな』

「西海凰先生が正気を取り戻せば、彼の特殊操作系能力によってすぐにでも非生物の破壊は修復できるのだがな」

『なんだかよくわからんが、まあいいや。健闘を祈る。ひさびさに真希ちゃんと二人きりキャッキャウフフというわけですねオッホゥ!』

「それから、霧華は現在、俺と一緒に安全な場所に潜伏している。こちらも心配は無用だ」

『何なら霧華ちゃんはこっちで預かるぞ?』

「いや、それはやめておく。今は動ける状況ではない」

『わかった。それじゃあな、我が息子よ。せいぜい気張りたまえ?』

「うむ、一週間後にまた会おう、父上」

 俺は通話を切った。

「お前の親父さん物分り良すぎだろ! なんつーラノベ的空気親父だ!」

 攻牙が突っ込んでくる。

「いやなに、我が父は今までも二度ほど家を破壊される憂き目にあっているのだ。しかしそのたびに『いつの間にか家が直っている』という怪現象を経験しているので、すでに慣れているのだろう」

「そういう問題じゃねえ気がするんだがな……」

「我が母と霧華は、過去二度の破壊には気付いていない。『谷川橋』のポートガーディアン、西海凰先生が有能な方である証拠だな。彼のおかげでこのあたりの人里は平穏を保っていたのだ」

「あの発禁野郎がねえ……」

 西海凰先生と、彼のバス停『谷川橋』が行使する特殊操作系能力、〈懐古厨乙(イエスタデイ・ワンスモア)〉は、あらゆる物質の状態を任意の時点に戻すことが出来るというものだ。しかしながら生きている動植物だけは能力の対象外であり、負傷を治すことはできないし、死んだ者を生き帰すこともできない。

 発禁先生は今までずっと、この能力で朱鷺沢町を守ってきたのだ。

「でもなんか尊敬できねえー!」

「センパイがた、夕ご飯できたでごわすよ~! ダイニングに集合でごわす~!」



 というわけで、霧沙希お手製のオムライス&オニオンスープ&海鮮サラダを御馳走になる。

 あっくんは魚介類を抜いたサラダをモヒモヒ齧っていた。

 うむ、たくさん食べて大きくなるのだぞ、あっくん。

「ごちそうさまであった」

「ゴチになりました~」

 手を合わせる一同。

「あ~食った食った」

「麦茶いるひと~♪」

「くれ~」

「僕もー」

 その様子を見る霧沙希の瞳が、潤み始めた。

「……ふや……」

 部屋の明かりを反射して、澄んだ水面のように揺れている。

「どうした? 霧沙希」

 俺の声に、ぴくりと反応する。

 見る見る頬が赤く染まってゆく。白い繊手が持ち上がって両頬を押さえた。

「……なんだか……なんだか……」

 胸の中に生じた感情を持て余しているのか、もじもじと身を縮こまらせる。

「いいな……すっごく……」

 はにかむように微笑む。

「なにがだ?」

「こうやって、みんなでごはんを食べたりすること」

「ふむ」

「わたし……ちょっと前までは一人でごはん食べてたから……余計に感無量なの」

 あっくんが来たのが一週間前で、鋼原が来たのがその二日後だ。それまで、霧沙希はこの巨大な邸宅の中で、ひとりで暮らしていたのだ。

 もちろん姉君の紅深殿もいるのだが、部屋に篭って出てこない。当然、触れ合える機会も限られているのだろう。事実上、一人だ。

「自分のじゃなくて、みんなのごはんを作って、それをワイワイやりながら目の前で食べてもらえるって、すごく幸せなことだったのね」

 柔らかに眼を細め、物凄い勢いで攻牙が射美と謦司郎にツッコミを入れまくるさまを見つめる。

「一週間といわず、ずっと居てくれないかしら」

「いや……それは難しかろう」

「ふふ、冗談よ」

 去ってゆく船を見送るような、憧れと寂寥が混じった瞳だった。



 ●



 七月二十一日

  午後七時六分五十一秒

   霧沙希家リビングにて

    「 」のターン



 食後、ふたたび特訓を開始する一同であった。

 四人は時間を忘れて対戦に没頭した。単なる遊びではなく大きな目的意識があるのでやる気は十分だったし、誰かが偶然初心者殺しの戦法を編み出しても、即座に攻牙が対処法を飛ばすので、勝率に大きな差がつかないのもプラスに作用した。

 攻牙の眼から見ても、予想以上の上達ぶりである。

 今日格闘ゲームを始めたばかりの初心者どもが、すでにダッシュと設置技の重要性を体感的に理解し始めていた。普通ではありえない成長速度だ。

「次はガーキャンとルミナスイレイズを教えるぞ!」

「え、まだあるのかい?」

 ガードキャンセル。通称ガーキャン。

 ガードしながらいきなり反撃に転じるアクションである。ゲージを一本消費し、特定の反撃モーションで敵を吹っ飛ばす。一瞬時間が止まる演出が入るのであまり速そうに見えないが、実際には2F(三十分の一秒)で攻撃判定が発生するので、見てから防御なり回避なりすることは不可能である。

「まあ上手い奴はガーキャンのタイミングを先読みして無敵技を捻じ込んでくるから過信はできねーがな」

 で、ルミナスイレイズ。通称イレイズ。

 これは全キャラに標準装備されている、大威力の打撃技である。攻撃手段としてはハイリスクハイリターンだが、敵の設置技を打ち消して自分のゲージを回復させる機能を持つ。設置技で堅牢な「要塞」を構築できるこのゲームにおいては、非常に重要な行動だ。

「ただし隙はデカい! 注意して使え!」

「ほいほい~」

 ――こりゃあ……イケるかもしれねえな!

 口に出すとこいつら調子に乗るので言わないが。

 そして、数時間後。

「ふあ~……ふぅ」

 弱パンチ→弱パンチ→弱パンチ……などというしょっぱいコンボを入れながら、射美は大きなあくびをかます。

「あんだよ射美てめー今のコンボはありえねーやよ……」

 舟をこぎながら、攻牙はふにゃふにゃと叱咤する。その眼は半眼どころか三分の一眼であった。

 射美もほとんど眼を閉じてうっつらうっつらしている。

 2P側のコントローラーを握っていた謦司郎は、かすかに苦笑する。

「おやおや、二人はお眠のようだね。まったく、まだ夜の九時だというのに困ったものだ。ねえ、篤?」

 篤は眼をカッと見開いたまま微動だにしない。頭の上のあっくんが髪の毛をモヒモヒとかじっているが、特に気にしていないようだった。

「ふふ、しょうがないわ。今日は一日いろんなことがあったもの。疲れて当然よ」

 ベッドの支度をしなくちゃ、と言い残して、藍浬はリビングから姿を消した。

「まぁ、そうかもねえ……そういや篤? ふと思ったんだけど、霧華ちゃんのごはんってどうするの?」

 篤は微動だにしない。

「篤?」

 謦司郎はその顔を覗き込んだ。

「……し、死んでる……」

 篤の穏やかで深い寝息が、射美と攻牙の意識をも完全に夢の世界へと引きずり込んでいるようだった。



 ●



 七月二十二日

  午前一時三分二十四秒

   霧沙希家リビングにて

    「僕」のターン



 時刻は午前一時を回った。すでに篤たちは寝静まっている。

 リビングに、もはや人の気配はない。

 海底のような静寂の中、虫の声だけがかすかに漂ってくる。

 ガラス張りの壁から、青白い月光が差し込んだ。

 弱弱しい光に照らされて、攻牙の家から持ち出されてきた白いゲーム機が浮かびあがる。

 そんな中、僕はぼんやりとソファに身を沈めていた。

 ……こそりと、物音がした。

 木目調のフローリングを、妙なものが這い進んでいる。

 四足歩行。奇怪な蜘蛛の動き。

 夜天の照明に包まれるゲーム機のそばへと近づいてゆく。

 その者の姿が、徐々に露になっていった。

 跳ね癖のあるショートカット。やや日焼けをした肌。ランニングシャツとキュロットスカート。

 諏訪原霧華。

 篤におぶさって霧沙希邸に来てから、ずっと寝室の一つをあてがわれ、昏々と眠り続けていたはずの女の子。

 だが、目覚めたのではなかった。その眼は空虚。マネキン人形のように表情がない。

 ひたりひたりとゲーム機に這い寄り、止まる。

 ぎちい、とその頬が歪む。

 植物の成長をストップモーションで撮った映像のように、細かく震えながら二本の腕が伸びていった。長方形の機体を掴み、持ち上げる。

 頭上まで高々と掲げ、勢いをつける。

「……個人的にはね」

 僕は、そう声をかけた。

 一瞬、霧華ちゃんの体が硬直する。

「キミたちの、そういうどんな手を使ってでも生き足掻く必死さは、とても愛すべきものだと思うんだ」

 彼女は持ち上げたゲーム機を急いで床に叩きつけようとするが、たいした力じゃない。

 僕はゲーム機をがっちりと保持し、彼女の手をもぎ離した。

「だけど、ダメだね。これを壊させるわけにはいかない」

 霧華ちゃんこっちを振り返る。

 僕は柔和な微笑を見せてあげる。

「やあ霧華ちゃん。すべてのXY染色体を愛でる不断のリビドー、闇灯謦司郎だよ」

「――ないわ。マジないわ」

 霧華ちゃんはぽつりとつぶやいた。その声色は重々しく沈んでいて、普段の溌剌さは見る影もない。

 いかんなぁ、これは。

「――ディルギスダークは、唐突に現れた闇灯謦司郎をねめつけると、不快げに歯を軋らせた。明らかに不自然な接触であった。あらかじめ破壊工作の事実が露呈していなければ、ありえないタイミングであった」

「いやいや、そんな高尚な話じゃないんだよ。まさか霧華ちゃんがあらかじめディルギスダークに洗脳されていて、夜中にゲーム機を壊しに来るなんて、予想だにしていなかったよ。まいったね。やられたよ。危ない危ない」

「――不可解な言葉であった。予想していなかったのなら、一体何故この男は夜中の一時に電気もつけずにこんなところにいるというのか」

「答えは簡単。僕は眠りを必要としない。眠気なんていう感覚を、本当に長いこと経験していない。朝も昼も夜も意識はスッキリおめめはパッチリさ」

 白い機体をゆっくりと床に置くと、僕は苦笑した。

 そして――こんな体になった因果を思い出し、ちくりと胸が痛んだ。

「まあそのせいで、夜はいつも一人寂しくぼ~っとしてるんだけどね。今回ばかりは自分の体質に感謝だよ」

「――読めた」

 楔を撃ち込むような断定口調。

「え、何が?」

「――闇灯謦司郎の正体」

「ええっ?」

「――不可解な神出鬼没。自分以外の者を瞬間移動させることを好まない性格。そして眠りを必要としない体。これらの情報を総合すれば、ディルギスダークの中に、かなり信憑性の高い仮説が構築される」

「それはそれは」

「――[亡霊め]」

 自分の口元から、微笑が消えるのがわかった。

 それほどまでに、ディルギスダークの言葉は胸に突き刺さった。

「……必ず……」

 あぁ。

 いかんなぁ。

「……必ず後悔してもらうよ、その言葉……」

 こんなセリフ、僕には合わないよなぁ。

 霧華ちゃんは禍々しい笑みを返してきた。

「――散滅すべし。お前たちに勝機はない」

 いきなりその体から力が抜けた。

「おっとと」

 倒れ掛かる彼女を抱き止める。すでに、憑き物が落ちたかのようにあどけない顔で眠っていた。

「……やれやれ、悪霊退散エッサイム~」

 アーメンアーメンなんまいだ~、とバチ当たりな呪文を唱えて、霧華ちゃんの体を抱えあげる。

 お姫様抱っこ。すばやく両手がさわさわと動いて骨格の成長具合と肉づきを確認。

「う、ウッフゥーッ! 成長途中のッ! 青い果実ウッフゥーッ! いやー、かわいいなぁ霧華ちゃん。やっぱりあんなリアル『エクソシスト』みたいなイベントは大変よろしくないですよね、うん」

 しきりにうなずき、歩み始める。

「……背中の感触からすると、ブラはまだか……ぐふふ、ぐふっ」

 一人悶々とほくそ笑みながら、彼女にあてがわれた寝室へと足を向けた。



 ●



 七月二十二日

  午前八時六分三十四秒

   霧沙希家ダイニングにて

    「 」のターン



「……という夢を見たんだ!」

「夢なら言わんでいい!」

「いやウソウソ、ホントです」

 どっちだよ。

 朝一で謦司郎が語った出来事は、一同に少なからぬ衝撃を与えた。

 霧華はすでにディルギスダークのしもべとなっていたのだ。

「くっ、霧華……」

 歯を噛みしめ、俯く篤。

「まあ……」

 眉尻を下げる藍浬。

 重苦しい沈黙。

「それ……なんかおかしくねえか?」

 やがて、首を傾げながら攻牙が口を開いた。

「うぬ? なにがでごわすか?」

 まったく同じ角度に首を傾げる射美。

「霧沙希のねーちゃんの特殊能力はどうなったんだよ。範囲内ど真ん中だろここ」

 霧沙希紅深のバス停無効化能力を無視して、堂々と洗脳効果が現れている。よくよく考えるとあり得ないことだ。

「いや、それに関しては説明できる……と思う」

 篤が眉をひそめながら言った。

「恐らく紅深殿の結界は、純粋に〈BUS〉のみによる攻撃に対しては無敵だが……なんと言えばよいかな、〈BUS〉のエネルギーが原因となって誘発される二次的な物理現象までは防げないのではないか」

「炎を防いでも酸欠でやられる……みたいな感じか」

 ……要するに。

 紅深結界は、洗脳を施す行為そのものを防ぐことはできる。

 しかしすでに別の場所で洗脳されていた人間を正気に戻す力はないのではないか。

「そりゃあ……まいったなオイ」

 絶対に安全かと思われた霧沙希邸だが、穴はあったようだった。

 今後いつ脅威となるかわからない霧華ではあるが、謦司郎の話によれば別段身体能力がアップしているということはないらしい。当然、その戦闘能力は普通の女子中学生レベルであるわけで、直接的に危害を加えられる可能性は低い。せいぜいゲーム機を壊されないよう気をつけるぐらいだろう……という方向で話がまとまりかけた時、篤が首を振った。

「寝台に、縛り付けるべきだ」

「諏訪原くん、それは……!」

「か、かわいそーでごわすよさすがに……」

 明らかな難色を示す女性陣。

「そりゃ確かにそのほうがいいだろーけどよ……お前はいいのかよ篤この野郎」

「攻牙の言うとおりだよ。だいたいその手のプレイは本人同意じゃないとへぶぅっ!!」

 攻牙と射美のダブルアッパーを受けてぶっ飛んだのち、何度も踏みつけられる謦司郎。

「よくは、ない。だが必要なことだ。たとえ体は霧華でも、主導権を握っているのはあのディルギスダークだ。どんな油断もすべきではない」

 藍浬は何か言い返そうと口を開いて、何も言い返せなかったのか、うつむいた。

「それに、霧華は他人の意のままに自分を動かされることを望まない。俺は不甲斐ない兄貴だが、それくらいはわかる」

「……ごめんなさい。その、勝手なことを言って」

 篤は無言で首を振った。そして胸に渦巻く思いを断ち切るように立ち上がる。

「俺がやる。霧沙希たちは先に特訓をはじめていてくれ」



 その後しばらくして、篤はリビングに戻ってきた。

 一同は特に何も言わず、篤を迎え入れた。



 ●



 七月二十二日

  午前八時三十二分十八秒

   霧沙希家リビングにて

    引き続き「 」のターン



 それからの毎日は、まさしくゲーム漬けの日々だった。

 朝起きてメシ食ってゲームしてメシ食ってゲームしてメシ食ってゲームして寝る。

 素晴らしきダメ人間サイクル。

「いや、正確には起床して排泄して……」

「そのあたりは言わんでいい!」

 しかしその甲斐あってか、一同の上達ぶりは眼を見張るものがあった。

 篤は操作キャラクターの特性を最も早く掴んだ一人だった。相手の隙を見抜く能力が激しく求められるこのメイドロボは、奇しくも篤と抜群の相性を持っていたのだ。相手の攻めが途切れるわずかな隙間にドリルだのガトリングガンだのを捻じ込むさまは、まるで未来予知でもしていたかのようだ。

 射美はバリバリのコンボジャンキーとなった。狙うのはコンボ。一にも二にもコンボ。それもヒット数の多いコンボがお好みである。代わりに設置技を用いた立ち回りやトラップ構築に関しては非常に不得手。しかし特訓の最終目標である「即死コンボ習得」に最も近い奴なのは違いない。

 藍浬は対照的に設置技が気に入ったようである。四人の中では最初に「択一攻撃」の概念を理解した一人であり、相手の操作ミスを誘う手腕に長けている。任意のタイミングで攻撃させられる設置砲台と自分自身とで、交互に相手を空中に打ち上げるコンボ、通称「バレーボール」が強力である。

 謦司郎はたったひとつの技に執着していた。頭のビーム触手で相手を絡め取って体力を吸収する投げ技である。この技が決まるたびに「ホーッ! ホーッ! オッフゥーッ!」と奇声を発するので大変うっおとしい。すべての行動がこの技を決めるための布石であり、立ち回りの精度は意外に高い。

「グッフェヘヘ……この人の頭はいろんな用途に使えそうですよね……長いの、短いの、太いの、細いの……まったくこのエロナイトめは本当にエロいな。救いようがない」

「救いようがないのはお前の頭だ!」

 そして、攻牙は。

「うー……ん……」

 攻牙は他の四人に先駆けて、即死コンボの練習に入っていた。

 使用キャラクターはアトレイユ。左右に巨大なガントレットを浮遊させた少年であり、バックストーリーでは主人公的な立ち位置にいる。

 現在、触手甲冑男ヴァズドルー(with謦司郎)と対峙していた。

「好きなように攻めていいのかい?」

「あぁいいぜ」

「というか攻牙? 君はなぜ女性キャラを使わないんだい? 信じられないし、意味がわからないよ。一体何を考えているんだい? 軽蔑に値するね」

 なんで男を使ったくらいのことでそこまで言われなきゃならないんだろう。

 ちなみに、謦司郎はエオウィン(with篤)に対する勝率は妙に高い。素晴らしくウザいと心から思う。

「ほざいてろ! 行くぜ!」

 攻牙はダッシュで即座に間合いを詰めた。

 アトレイユの即死コンボルートは、大きく分けて二種類存在する。

 ひたすら地上での高火力コンボを「ガイキャン」と呼ばれるテクニックで強制接続してシメに超必殺技を叩き込む「オーソドックスルート」。

 処理システムにキャラの向きを誤認させることで成立する「キモピタルート」。

 このうち、難易度が高いのはオーソドックスルートである。自分のパワーゲージが満タンで、かつ相手のゲージが一本以上あり、しかもコンボ工程を半分ほど消化した段階で相手を壁際まで追い詰めていることが条件だ。なんとなく見た目がオーソドックスなのでこんな名前がついているが、タイミングがシビアすぎるため、実戦の中で狙うのはかなり厳しい。

 反対に、一種のバグを利用したキモピタルートは一旦ハマれば楽に完走できる。アトレイユの弱パンチはかなり攻撃範囲が広く、自身の体内にまで判定が及んでいるので、密着状態なら背中を向けていてもヒットしてしまうのである。すると相手はアトレイユの背中に押し付けられるようにのけぞるので、楽々と次の弱パンチを当てられる。後はもう弱パンチを連打しているだけで勝ててしまうのである。

 ――だがひとつ問題がある。

 この最凶バグ技は家庭用移植版では修正されて使えなくなっているのだ。つまり、ここでは練習が出来ない。

 ――決めるしかねーなぁ! オーソドックスルート!



 ~約二時間後~



 二ラウンド先取の設定で計四十回の対戦を行った。攻牙の戦績は三十五勝四敗一分け。

「あかん……決まらん……」

「くっ……僕の触手が男なんかにやられるなんて……くやしい! ビクンビクン!」

 嬉しそうに悶えている謦司郎を尻目に、攻牙はいらだたしげに頭をかく。

 ネックとなるのは「ガイキャン」である。

 ガントレットで足元を殴りつけ、地面から間欠泉のごとく光の奔流を噴出させる必殺技〈ガイアプレッシャー〉。これの予備動作が、実はダッシュを行うことで中断可能だったりするので、

 攻撃A→〈ガイアプレッシャー〉→ダッシュ→攻撃B

 ……と、素早く入力することで、普通なら繋がらないコンボが繋がったりするのだ。このテクニックを「ガイアプレッシャーキャンセル」略して「ガイキャン」と呼ぶ(地域によってはプレキャンと呼ばれることもある)。しかしかなり難度は高い。実戦投入できるだけでも尊敬の目で見られたりするレベルである。

 また、ガイキャンが成功したとしても、状況によって若干コンボレシピを変えなくてはいけないことが発覚した。

 どうもこのゲーム、キャラクターが攻撃を食らってブッ飛ぶ際に、物理演算じみた複雑な処理をもって軌道を算出しているらしい。つまり普通の2D格闘ゲームであれば無視されるような要因によって、コンボが繋がったり繋がらなかったりするのだ。

 オーソドックスルートの最初の一撃がヒットした時、相手が立っていたかしゃがんでいたかで浮き方が少し異なってくる。しゃがんでいた場合、途中で落としやすくなるのだ。

 対処法としては、今よりもっと早いタイミングで攻撃を出しまくるか、上方向へのベクトルを継ぎ足すような攻撃を組み込むか。

 ――クソッ! 頭痛え!

「もっかいだ謦司郎てめーこの野郎!」

「ひぎぃ! も、もうゆるしてぇ……」

「はいはい、夕ご飯できたから休憩っ」

 後ろから藍浬の手が伸びてきて、コントローラーを取り上げられる。

「むぐぅ」



 ●



    引き続き「 」のターン



 お約束というものがあり、それを求める何がしかの層が存在するとしよう。

 そして「ヒロインと一つ屋根の下で生活を共にする」などというアホな状況が仮に実在し、そのシチュエーションにおける主役を務める栄誉にあずかったとしよう。

 ならば必然的に導き出されるのは、着替え現場に遭遇して「○○くんのえっち!(ばしーん)」系列のハプニングであり、これなくして物語を終わらそうなどと片腹痛いと言わざるをえず、お風呂場関連の状況変化には細心の注意を払わなければならない。

 むしろ「ヒロインと一つ屋根の下で生活を共にする」状況は「覗け!」というネタフリに他ならず、我々男児は不断の決意を持って、かかる神聖な義務を粛々と遂行しなければならないのだ。

「だというのに……」

 謦司郎の声が、湯気に反響した。その顔には無数の引っかき傷があった。

「何なのこの状況? 誰が求めてるの? クオリティ低いよ? 神は死んでるの? むしろ死んでいいですか? 死んでいいですか?」

 その声は憔悴し、今にも浴槽の底に沈んでいきそうだった。

「沈むな謦司郎。狭い」

 膝を抱えながら、篤がつぶやく。こっちも同じく傷まみれである。

 二人は狭い湯船の中で背中合わせにひしめき合っていた。お湯がざぱざぱ溢れている。

 フル裸である。

「誰のせいだと思ってんだよったく」

 体を洗いながら二人を見ていた攻牙も、ため息をつく。これはひどい。

 ごく手狭な展望風呂である。天井と二面の壁がガラス張りとなっており、ちょっとしたプラネタリウムの趣であった。

 攻牙は、やるせない思いを消化しながら、こんな誰も幸せになれない状況になった経緯を思い出そうとした。



 霧沙希邸には、浴場が三つある。

 ・一階に存在する、プールじみた大浴場。

 ・紅深の瞑想部屋に備え付けられたシャワールーム。

 ・屋上の一人用展望風呂。

 これらのうち普段使われるのは一階の大浴場である。

 晩ごはんののち、引き続き即死コンボの修練に勤しんでいた攻牙と、それに付き合っていた謦司郎。

 すると、藍浬と射美の声が偶然廊下から漂ってきた。

「藍浬さんっ♪ 今日は一緒にお風呂入るでごわす~♪」

「あら、ふふっ」

「藍浬さんに髪洗ってもらうとめっさぽんきもちいいでごわす~♪」

 その会話は、甘美な桃色の共感覚を伴って、二人の耳に入ってきた。

「きッ、ききき聞いたかい攻牙! あ、あ、あの二人が……ッ! 一緒に……ッ!! もうこれ覗くしかないってマジマジ! ここで覗かないとか意味がわからないよ実際!」

 鼻息がウザい。

「一人で行け! そして死ね!」

 そして本当に覗きやがった謦司郎。

 屋敷内を駆け抜ける悲鳴。

 「すわ敵襲か」と篤が浴場に乱入。

 この時点で藍浬は卒倒。

 フシャーッ! と眉目を逆立てる射美によって、顔に無数の引っかき傷をつけられる篤&謦司郎。

 屋敷中をめぐる逃走劇の中で、なぜか巻き込まれる攻牙。

 阿鼻叫喚。



 そして現在。

 浴槽の中で、謦司郎はにこやかに快哉を上げていた。

「いやぁ、いい覗きだったね! バレて、ボコられる! これがあって初めて覗きという行為は完結するんだよ。これこそ男の本懐げふぉっ!」

「なんでボクまでここに押し込められなきゃならないんだ!」

 変態の頭を蹴り飛ばす攻牙。

 そのまま頭頂を足で抑えつけ、ぐりぐりとお湯の中に沈みこませる。

「ちょっ! 熱っ! 傷がっ! 傷がしみっ!」

 三人は現在、この狭い展望風呂に監禁されていた。

 ――射美たちがお風呂からあがるまで、そこで反省してるでごわすッ!

 鬼気迫る闘気を放射しながら、鋼原射美は三人をここまで追い立ててしまったのだ。

 しかも扉をガムテープで固定しまくったらしく、普通の方法では出られそうになかった。

 でまー、しょーがねーから風呂にでも入るべ、という話になったのだった。

「いっやー、タオル一枚でぷりぷり怒る鋼原さんは最高にエロ可愛いかったね!」

 追っかけてくる射美の姿が脳裏に浮かぶ。ぴらぴらと捲れそうになるタオルの裾部分が拡大表示されかけたので、慌てて頭を振る。

「もうなんか生きてて良かったァ~って感じだよ。ラオウの辞世の句いっていい?」

「やめろバカそんな冒涜ボクは許さないぞ」

 ばしゃり、と篤が顔を洗った。

「霧沙希は……大丈夫だろうか」

「あー、まさか卒倒するとは予想外だったねー」

「ちったぁ反省しろよ性犯罪者が……ええい寄れッ! もしくは出ろッ! ボクが入れない!」

「やれやれ」

 篤と謦司郎が身をよじると、攻牙はその隙間に潜り込んだ。

 攻牙の体積分のお湯があふれ出す。

 背中合わせの男三匹。ガラス越しの夜空を見上げるの図。

「ふむ……久しぶりだな」

「何が?」

「こうして三人で話すことがだ」

「あ~、まーね」

「このごろは霧沙希と射美の野郎がだーいたい一緒だったからな」

 攻牙は、浴槽のふちで組んだ腕にアゴをのせた。

「いいことだよ、うん。今にして思えば、なんで僕はこんなムサいパーティで満足していたんだろうって感じだね。ありえないよ、女の子がいないとか」

「さよう。仲間が増えるのは良いものだ。だが……」

 篤があるかなしかの微笑を浮かべる。背中越しだが、なんとなく、それがわかる。

「こうして原点に立ち返るも、また良し」

「なんじゃそりゃ」

 攻牙は苦笑する。

「まー、確かに、いろんなことがあったねぇ」

 しみじみと謦司郎がつぶやく。

 そして、攻牙も想いを馳せる。

 この三人で、それはもうさまざまな無茶を通してきたものだ。

 『普通でない者は生かしておかない』などというトチ狂った反動思想に邁進する鉄血少女「歌守(かもり)朱希奈(あきな)」と、入学早々死闘を強いられたり。

 他人の眼相から思考を読む悪魔的頭脳の天才少年「頼耶識(らやのしき)執我(しゅうが)」と、ある少女の眼球を賭けて三日三晩にわたるにらめっこ勝負をしたり。

 体感時間を自在に操る特異体質を持つ地獄のアウトロー「姫刃咬(きばがみ)劫(ごう)」と、彼が率いる超高校生級武闘派不良集団『衛愚臓巣徒』によって学校がマジ占拠されたり。

 そういうヤバい事件の他にも、ひょんなことから知り合った後輩に付きまとっているストーカーを殲滅したり、ひょんなことから校内のいじめグループを殲滅したり、ひょんなことから街に巣食う悪のエセ宗教団体を殲滅したり、ひょんなことから『衛愚臓巣徒』の崩壊によってのさばってきた暴走族を殲滅……って殲滅しすぎだろオイ!

 びっくりした。

 何だこの血塗られた高校生活。

 ――というかボクたちは何回「ひょんなこと」に遭ってんだ。

 そして、攻牙は思う。

 いかなる苦境の中でも揺るがず、泰然と自らのペースを保ち、決して軸がブレない。

 諏訪原篤と闇灯謦司郎は、常にそういう男たちであった。

 背中に二人の存在を感じ取りながら、思う。

 自分より格段にでかい背中達。

 それは、単に体格だけの話ではないように思えた。

 ――きっとこいつらは……たとえボクがいなくとも……

 今まで胸の底に抑えつけてきた、その思考。

 決して表に出るはずのないコンプレックス。

「思い返せばさまざまなことがあったな」

「三人でいろんな敵をやっつけてきたよね~」

「そんなこと言って……お前ら……」

 どうせボクがいなくても平然と戦い続けちまうんだろ?

 ……と、言い返そうと思った攻牙であったが。

 ――あれ?

 なんか。

 浴室が広い……?

 ていうか。

 意識が。

 遠い

「むっ、いかん」

「どしたの」

「攻牙がのぼせている」

 そんな声も、遠い。



 熱いお風呂に長いこと入っていると、血圧がなんかスゲーことになって脳みそが煮えたりする。

 のぼせているのである。ちっこい奴ほど体温が変わりやすいので要注意である。

 すぐに風呂から引っ張り上げて安静にし、こうしてデコに氷嚢を乗せたり、うちわで煽いだりしてやると良い。

 ……みたいなことを考えながら、攻牙は頬に当たる風の感触をぼんやりと受け入れていた。

 まだちょっと頭の働きが鈍い。

 どこか遠くで、聞きなれた打撃音や爆音が鳴っ『閃滅完了-K.O.-』あ、終わった。

 重い瞼をこじ開け、視界を確保しようとする。あたりは、照明を抑えた薄暗い一室のようだった。

 横から断続的に風が来る。誰かが攻牙をうちわであおいでいるのだ。

「……うぅ……」

 みじろき。

「気が付いたでごわすか~?」

 ささやくような声。

 ぼやけている視界に、何かが映っている。眼をしばたいて見直すと、射美の顔が目の前にあった。

「……ぅぁ……?」

 呻くような声を出す。

 くりくりと良く動く瞳。にゅい、と笑みを浮かべる小さな口元。しかし眉尻は申し訳なさそうに下がっている。

「ごめんなさいでごわす~、監禁はやりすぎたでごわす~……」

 そしてこの至近距離からは、普段は特に意識されなかったディテールが、鮮明に見て取れた。

 きめ細やかな肌。かすかに震えるまつ毛。柔らかそうなほっぺ。鼻先をくすぐる茶色っぽい髪。

 ほんのり桜色の、薄い唇。

 まだ残っているシャンプーの甘い香りが、攻牙の思考を優しく撫でていった。

「んがーッ!」

 ベッドを転がる。額に乗っかっていた氷嚢が落ちる。

 射美から十分に離れたと思った瞬間、攻牙は床に落下。

「ふぎゃ!」

 全身を打つ衝撃が、意識を完全に覚醒させる。

 ベッドのふちに手をついて起き上がる。野暮ったい半袖のパジャマを着た射美が、体全体で首をかしげながら(妙な表現だ)こちらを見ていた。超怪訝そうだ。

「……ハードボイルドな自殺の練習?」

「お前の脳内では『転がる=ハードボイルド』か!」

 攻牙も、じっと射美の全体像を見る。

 彼女はうちわを持って、ベッドの上にぺたりと腰を下ろしていた。

 特にどうということもない、やかましくてうざったい、いつもの射美である。

「……別に変わりはねーな」

「ほえ?」

「なんでもねえよ! リビングに戻るぜ!」

「あっ、ちょっ、攻ちゃん?」

 なんとなくいたたまれなくなって、駆け足でその場を立ち去る。

 ――ちくしょう。

 胸の中には、悔しさがある。

 きっとあの二人なら。

 ――こういう時でもいつもと変わんねえんだろうな……!

 篤は眉ひとつ動かさずに看病の礼を言っていたことだろう。

 謦司郎は異常興奮して変態的言動に走るだろうが、それはいつものことであって、「常態を保っている」という点で篤と何も変わらない。

 なんだか不意に、あの二人と距離が開いたような気がした。

 そんな思いを振り払いながら、寝室のドアを開けて廊下に飛び出した瞬間、

 たゆん、たゆん、ゆん、ゆん、ゆん……

 そんな神話的擬音が攻牙の脳内で流れ、視界が百パーセントふさがれた。

「むぎゅう!」

 プリンともマシュマロとも異なる、「弾力ある海」としか形容のしようがない感触が顔面を包み込んでいる。

「あら、良かった……目が覚めたのね」

 慌てて離れると、藍浬が両手を合わせて微笑んでいた。

 普段なら、その瞬間は顔を赤くするものの、すぐに立ち直れるハプニングであったが……

「うううぅぅぅぅ……!」

 今はちょっと、そんな余裕はなかった。

「こ、攻牙くん……?」

「なんでもねえ!」

 ぷい、と顔をそむけ、走り去った。



 ●



    引き続き「 」のターン



 弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉→一瞬だけダッシュ→強パンチ→〈ルミナスピアサー〉

 ……以上がアトレイユの主力となるコンボである。これだけで三割ほどの体力を奪えるので、アトレイユ使いであれば習得は必須と言えよう。

 同時に、長大な即死コンボ「オーソドックスルート」を構成する一単位でもある。

 上記の基本コンボを、ガイキャンによる強制接続を用いて三回繰り返し、とどめにロック系超必殺技〈ワールドスカージ〉を叩き込むのが基本的なコンボ構造である。

 つまり、

 弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉→ダッシュ→強パンチ→〈ルミナスピアサー〉→ガイキャン→弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉→ダッシュ→強パンチ→〈ルミナスピアサー〉→ガイキャン→弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉→ダッシュ→強パンチ→〈ルミナスピアサー〉→ガイキャン→ルミナスイレイズ→ガイキャン→〈ワールドスカージ〉→祝・完走→スタジオ騒然→観客総立ち→全米が爆泣き→いろいろあって世界から戦争がなくなる

 ……と、言う流れになる。

 常々思うのだが、最初にこれを編み出した人はできるかどうかもわからない即死コンボを延々と練習しまくったということであり、一体どこからそんな根性が沸いてくるのか実に不思議である。

 さて、この即死コンボ、ガイキャンを四回も成功させねばならないので一見して難しいと判るが、さらに難しい要素がある。

 ダッシュで接近した後に普通の強パンチを出さねばならないのだ。

 そのどこが難しいんだよと突っ込まれそうだが、このゲームにおいてはかなり難しい。なぜならダッシュ(→→)の直後に強パンチ(B)を押した場合、出の遅い中段攻撃(→B)が暴発してしまうのである。普段ならガードを揺さぶる手段として使いでのある攻撃なのだが、コンボ中に出てこられるともうおしまいだ。ヒットカウントは途切れ、せっかくのチャンスがパーと化し、観客席からブーイングが上がり、世界は核の炎に包まれ、時代は乱世に突入し、ジード軍団みたいなアホが暴虐を振るい、ユリアはさらわれ、世紀末救世主としての第一歩を踏み出すことになってしまう。

 これを防ぐには、→→とBの間に一瞬インターバルを置く必要があるのだが、待機時間の見極めがとても難しい。長すぎると相手が地面に落ちてしまうし、短すぎると中段攻撃が暴発する。

 まさに糸の上を渡るような試練だ。しかもオーソドックスルートではこの試練を四回もくぐり抜けなければならず、回数を経るごとに入力猶予時間が短くなってゆく(なぜならコンボ全体として相手の体は徐々に落ちていっているからだ)。

 超絶難易度。そうとしか言いようがない。実戦の中で完走できる人間は、全国でも片手で数えられる程度しかいないであろう。

 ――クソッ! やってやらあ!

 クリームスープパスタを物凄い速度で殲滅しながら、攻牙は決意を固めた。

「ふふ、今夜のクリームパスタは自信作なんだから」

「射美も手伝ったでごわすよ~♪」

「そして俺はサラダの野菜を延々と刻んでいたのだった」

 なんかお前ら所帯じみてきたな、おい。

「つーかあっくん! ボクのサラダ食うな!」

「いいぞあっくん。もっと食べるのだ」

「てめーのを食べさせろよ!」



 ●



    引き続き「 」のターン



 次の日から、攻牙に続いて他の面々も即死コンボ課程に入った。

 本来ならばもう少し立ち回りを磨いて欲しかったところであるが、期限はもう三日後である。時間にあんまり余裕がないのだ。

 ……ところが、ここで意外な事態が発生する。

 藍浬がごくあっさりと即死コンボを成立させてしまったのだ。もちろん、相手側の全面協力(何もせずじっとしておく)があってのことだが、それでも好都合な誤算である。あとは実戦の中で完走できるかどうかだ。

 また、篤も予想以上の成長を見せている。間合いの取り方とか隙の見出し方とか、そういう実戦感覚(リアルファイト的な意味で)に優れており、これが予想外の方面に力を発揮した。

 こいつが使用するエオウィンは、3ゲージ消費のガード不能即死技を持っている。あまりに出が遅すぎて実戦ではまず決まらない技なのだが――篤は決めてしまったのだ。

「相手が油断する瞬間というのは、手を合わせてみればだいたいわかってくるものだ。あらかじめ扇風機と地雷で壁を作っておき、相手の攻めの枕に重ねるように出せば、おおかた当たってくれる」

 よくわからんがそういうことらしい。こちらも実質即死コンボをマスターしたのと同じであろう。

 射美と謦司郎はさすがに苦戦している。というかそんなホイホイ即死コンボがマスターできるようなゲームはクソゲーというほかなく、この二人が正常なだけである。

 ――いや……ボクも……か……

 攻牙もまた、壁に突き当たっていた。

 全然できやしねえ。

 基本コンボの2ループ目まではわりあい簡単に安定する。問題は3ループ目だ。ここでの通常ダッシュ→強パンチの接続猶予はかなり短く、体感的には3F(二十分の一秒)程度。普通なら知覚すら難しい極微の一瞬だ。

 ダッシュしてから一瞬待ってBボタンを押すというただそれだけの行いが、まるで砂漠に撒かれた伯方の塩を集める作業のように途方もなく感じられる。

「んがーっ!」

 何度挑戦し、何度失敗したことだろう。

 相手の体が地面に落ちる時の「とすっ」という効果音。空しく宙を殴る強パンチの「ぶぉん」という効果音。

 その落胆は、腹の底の焦りを掘り起こす。

 ――ちくしょう……ようやくボクのターンだってのに。

 ゾンネルダークとやらは篤が倒した。

 射美は篤が倒した。

 タグトゥマダークも篤が倒した。

 ――主人公に……なりてえんだ。

 ちびっこくて弱っちい少年。今までも理不尽な暴力にブッとばされたことは何度かあった。

 そのたびに、篤と謦司郎は助けてくれた。アホなことを言い合いながら。

 ――だけどボクは……あいつらを助けられたことがあったか?

 その考えは、ぞっとするほど冷たく、胸に染み込んできた。

 瞬間、攻牙の携帯に、メールが着信した。

「……?」

 開いて見る。

 息を、詰まらせた。



 差出人:ディルギスダークだおwwwwwwww

 件名:無駄な努力はマジで無駄だおwwwwwwwww

 本文:

 ――ていうか別に即死コンボやんなくても勝てるんじゃね?wwwwwwwww

 ――ていうか別に一週間過ぎても大丈夫なんじゃね?wwwwwwwww

 ――ていうか別に人質の奴ら助けなくていんじゃね?wwwwwwwww



 ――じゃあな、ただの足手まとい。



「……」

 全身を襲う、かすかな震え。吹き出す汗。

 疑問その1、なぜ攻牙のアドレスをあの男は知っているのか。

 疑問その2、なぜこの携帯にディルギスダークの名が登録されているのか。

 疑問その3、なぜこいつは攻牙が壁にぶつかっていることを知っているのか。

 足元がゆっくりと溶け出し、暗黒の淵へと沈んで行くような感覚。

 よせばいいのに攻牙の脳みそはフル回転をはじめる。

 つまり、どういうことなのか、と。

 これまでに幾度か経験した、かすかな違和感。

 ホーミング八つ裂き光輪(仮)の不可解な射程の長さ。

 召喚限界時間などの、自分でもいつ仕入れたのかわからないバス停知識。

 ピンポイントで攻牙の行動を先回りしたディルギスダークの先見の明。

 それらを総合する、統合する、糾合する。

 ――誰でもわかる。誰でも理解できる。

 この茶番の影に隠された陥穽。

 吐き気が、喉をせりあがってくる。

「……っ」

 恐怖は。

 予想だにしなかった方向から襲い来る。

 やがて生まれいずるひとつの仮説。

「……おい……」

 恐らくそれは正しくて。

 だからこそ、攻牙を打ちのめした。

 自分たちはずっと、ディルギスダークが仕掛けた壮大な罠へと一直線に突き進んでいたのだ。

 そして、それは今や回避不可能で。

 喉が締め付けられる気がした。

 自分の心臓から、毒液が染み出してくるような心地。

 頭を抱える。

 呼吸が乱れる。

 刺々しい焦燥が暴れまわる。

「……おいおいおいおいおい……!」

 黒々とした自己嫌悪で、胸が腐ってゆく。

 なんだこれ。

 なんなんだよ。

 噛み締めたはずの歯が、ぎりりと鳴る。

 今の思考は、自分がここにいる理由へのダメ出しに思えた。

 お前何やってんの? という冷静な声。

 ――馬鹿なことやってねえでとっとと帰って追試の勉強でもしてろ。アホが。

 ――何が即死コンボだよ。そんなもん習得して将来の役に立つのかよ。

 ――度し難い。馬鹿馬鹿しい。

 攻牙は頭を抱える。

「何がヒーローだ……っ!」

 篤の姿が、脳裏に浮かび上がる。謦司郎、射美、藍浬の姿も。

 それらは皆、攻牙に背を向けていた。

 ――ボクがやったことと言えば下手に策をこねくりまわしてアイツらを泥沼へと突っ込ませただけじゃねえか!

 ろくに戦えもしない自分。こんな程度のことで心揺さぶられる自分。

「……ちくしょう……!」

「――ヒーローとは」

「ぎゃあ!?」

 静かな声。真夏の森の中を吹き抜ける、一条の風のような声だった。

「迷いを抱かず戦う者のことではない」

 振り向くと、篤が腕を組んで仁王立ちしていた。

「それは容易に独善へと堕ちてゆく、危うい正義だ」

 まっすぐに攻牙を見据える。こっちの心まで研ぎ澄まされてゆくような、透徹した眼差し。

「――ヒーローとは」

 この声。強い力を持つが、他人を威圧しない声。

「迷う者のことだ。悩む者のことだ。挫折を知る者のことだ。その上でなお立ち上がり、戦おうとする者のことだ」

 攻牙はひと声呻き、言葉を絞り出した。

「……立ち上がれなかった奴は……一体どうなるんだ……?」

 根源的な、問い。

 ふ、と篤は表情を緩めた。

「別段どうもならない。そういう者は、立ち上がれなかったのではない。立ち上がらないことを選んだのだ。立ち上がらずにただの人として生きても良いし、またいつでも立ち上がることは出来る。俺はそれで良いと思う」

 くるりと踵を返すと、肩越しに言った。

「攻牙よ、少し付き合え」



 ●



    引き続き「 」のターン



 どうやってここまで来たのか、ほとんど記憶にない。

 気が付いたら、霧沙希邸の中庭に出てきていた。

 先をゆく篤の背中を見たら、ついていかねばならないような気がしたのだ。

 そうだ、この背中だ。

 射美と一緒にディルギスダークに追い詰められた時、いきなり現れた謦司郎の背中と、どこか通じるものがある。

 超然としていて、何事にも揺るがない、強固な〈自分〉を持っている背中。

 ――ボクとは違う……背中だ……

「見ろ、攻牙」

 篤がひしっ、と指差した。しかしそれは天を指しているとも地を指しているとも言い難く、眼の前の庭園を指しているようにも、彼方の星々を指しているようにも見えた。

「見ろって……何をだよ」

「見えるもの全てを、だ」

 攻牙は首を傾げる。

 月明かりが、夜天の雲を青く浮かび上がらせている。

 かすかな虫の声が間隙を満たす。

 夜風が優しく吹き抜け、攻牙のふわふわした髪を揺らす。

 樹々の梢が、地面にくっきりとした影を投げかける。

 射美のバスすらもが、どこかノスタルジックな陰影を宿している。

「海底の夢だな」

 まるで、この光景に題名をつけようとでもいうように、篤はつぶやいた。

「これが昼間と同じ場所とは信じがたい。何かの命題を感じさせるほどに玄妙な色彩だ。まことに不可思議である」

 見ると、篤は腕を組んでしきりに頷いている。

 不意に、こちらに目を向けてきた。

 透徹した眼差し。

 その口が、何事かを聞くために開いた。

 攻牙は、逃げるようにうつむいた。

「……お前は何歳までサンタクロースを信じていた?」

「ほかに聞くことはないのかよ!」

「む……」

 篤はわずかに首を振る。

「お前が何かを深く憂えているのは、顔色を見ればわかることだ。その上で何も言ってこないのならば、何らかの事情で今は話すことができないということであろう。ならば俺は何も聞かぬ」

 そして篤は、あるかなしかの笑みを浮かべる。

「助けが必要ならばいつでも手を貸す用意がある――などと、わざわざ言わねばらなぬほど浅い付き合いでもあるまい?」

「う……あ……だけどよ……」

 攻牙は、頭をかいた。

「言わなきゃならねえような気がするんだ。だけどボクは……言えねえ気がするんだ」

 ――弱いから……な。

 攻牙は胸中でそう自嘲した。

「それでよい」

「え」

「恐怖を抱かぬ者に、真の勇気は宿らない」

「よくわかんねえ……」

「ふむ、では歌え」

「は?」

「言葉にならぬ思いは歌にするのだ」

「できるかっ!」

 と、怒鳴ったところで――攻牙は全身を稲妻で貫かれた気がした。

 ――今なんか重大なヒントを貰った気がする……!

 篤は何の気なしに言ったことであろうが。

 言葉にならぬ思いは歌にする。

 そのセリフから導き出される、圧倒的閃き。

 アイディアが具体的な形を成す前に、攻牙ハラショーハラショーロシア。

 ロシロシロシア。超ハラショー。

 ――ロシアゴルバチョフ!

「どうした? 攻牙?」

 篤ハラショー、ロシアソ連。

 ……ボルシチ? テキーラ!!

「すまねえが今ボクが考えていることを言うわけにはいかねえ」

 攻牙ハラショー、ロシアソ連。

「ふむ」

「ただこれだけは言っておく。ボクたちは今とんでもねえ危機に陥っている」

 攻牙ハラショー、ピスタチオロシアハラショー。

「だが……たった今解決策を思いついた。効果のほどは自信ねえが希望はある」

 篤ハラショー、シベリアKGBロシアロシア!!

「わかった。俺にできることは?」

「今はねえ。ただ明日にゃ考えをまとめて作戦を伝えられると思う」

 オー、デモクラシー。ハラショーロシア。

 プーチン? チュルノブイリ!!



 ●



 七月二十六日

  午後十一時三分五十八秒

   霧沙希家中庭にて

    「俺」のターン



 俺は、去りゆく攻牙の小さな背中を見ながら、ひとつうなずいた。

 奴はきっと、乗り越えるだろう。

 もともとあまり心配もしていなかったが。

 それでも、攻牙が落ち込んでいると謦司郎や射美がツッコミ欠乏症を罹患して頭痛・吐き気・麻痺・猛毒・石化などの諸症状を訴えてくるので、早め早めの対応が肝心である。

「さて……」

 空を見上げる。

 砕いた金剛石をばら撒いたような、賑やかな星空だ。

 人里離れた山中なので、まるで手を伸ばせば届いてしまいそうな迫力である。

「確か……屋上があったな」

 もっと夜空に近づいて鑑賞したいところだ。

 俺は霧沙希邸の西側の屋根に存在する小さな屋上へと足を運んだ。

 三階分の階段を踏破し、ステンレスのはしごをよじ登ってゆく。

 と、

「おぉ……」

 そこはすでに天空の領域に属する場所だった。

 視界が開けた分、煌めく夜天から受ける美は、圧迫されるような印象を受けるほどだった。

 闇よりもなお星明かりの方が色濃い。

 ふと。

 不思議な感覚を覚える。

 空気の質が、さっきまでと変化しているような気がしたのだ。

 澄み切った匂い。星々の光が粒子となって溶け込んでいるかのような、優しい匂いがした。

 この屋上に来てから、自分と世界との関係に、神秘的な変化が訪れていた。

 地表へと眼を転ずる。

 一面の森。

 しかし闇に閉ざされてはいない。天の光が樹々の底にまで差し込んでおり、ぼうっと淡い緑の燐光を宿していた。

 その幹や枝は、視点が高くなったせいだろうか、どこかユーモラスな絵本のようにねじまがり、今にも木陰から不思議な生き物が顔を覗かせそうな気がした。

 そして――

 眼を見張る。

 ――海が、あった。

 それが海であることに気付いたのは、何秒か経ってからのことだった。遥か彼方、視界のある一面を、広大な平面が覆っていた。まるで巨大な鏡のように、星の天蓋をくっきりと映し出している。

 よくよく眼を凝らせば、わずかにさざなみが立って、星の像に揺らぎを与えていた。

「……ふむ」

 朱鷺沢町は内陸部に存在する街だ。当然、ここから海など見えるはずがない。

 では、この光景は何なのだろうか?

 そう思いかけて、俺は無言で首を振る。

 重要なのは、この眺めが美しいということだ。

 美への感動に理由をつけられるほど、俺は〈観の眼〉をものにしているわけではない。

 ただ感じ取れば良いだけのこと。

 屋上に寝転がると、組んだ両腕を枕にして、満天の芸術を鑑賞することにした。

 冷たい石畳が心地よい。

 だがその感覚も、徐々に消えていった。

 無数の光点が、密度に変化をつけ、何か意味ありげな模様を奏でている。

 まるでこの体が大地と同化し、星そのものとなって宇宙の暗黒淵(やみわだ)を旅しているような感覚。

 そしてそれは、ある意味事実でもある。

「わっ、わっ、びっくりした」

 ……どのくらい、そうしていただろうか。

 突然聞こえた霧沙希の声に、俺の意識は自分の体へと戻っていった。

「む……」

 目を細め、顔をそちらに向ける。

 天窓が開き、霧沙希がひょっこりと顔を出していた。

 その眼が、困ったように微笑んだ。

「諏訪原くんも、眠れなかった人?」

 眼を細めて、首を傾げる。瑠璃青の髪がさらりと揺れて、淡い光の軌跡が夜気に残った。

「その髪は……?」

「え?」

 霧沙希は薄く輝くそのセミロングを、軽く手で梳いた。光の粒子がふわりと舞い上がる。

「なにかついてる?」

「いや……いい。なんでもない」

 俺は不思議に満ち足りた気持ちで、視線を天に戻した。

 彼女が屋上にあがり、俺のすぐそばで両膝をついた。朱子織のロングスカートが、空色の光沢を宿している。

 折り曲げた肘の先に、彼女の体温を感じた。

「きれいね」

「うむ」

 二人で、渦巻く光の天象を眺める。

「ずっとここで星を見てたの?」

「いや、ほんの五分ほどだ」

「でも、もう二時よ?」

「なんと……?」

 攻牙と中庭に降り立ったのが十一時ぐらいのことであったから、すでに三時間もここで寝そべっていた計算になる。

 藍浬はおっとりと笑う。

「ふふ、そっか。今夜は月がふたつ重なっているものね」

「むむ?」

 言われて、月を探す。屋上の手すりに阻まれていたので、身を起こして見る。

 あった。

 銀青色の臥待月が、大小二つ。研ぎ澄まされた光輪に抱かれて、まるで親子のように寄り添い重なっている。

 そう、今宵の天空には、月が二つあったのだ。

「こういう夜はね、時間の進み方がちょっとおかしくなるの」

「ふむ……不思議なこともあるものだな」

 だが、冴え冴えと冷たい夜天の王を見ると、月の持つ霊光力とでも言うべきものを信じられるようになってくる。

 それから俺と霧沙希は、他愛のない話をしながら、ゆっくりと少しずつ回ってゆく星の海を散策した。

 まるで精巧な点画のように、星々が何かの形を成している部分もあった。

 魚にも似た影が光の飛沫を上げて進んでいる。

 二本足の鹿のような生き物が星の草を食んでいた。

 優美な軌跡を描いて舞っていたのは、四つの翼を持つ鷹だ。

 その背景には、螺旋にうねる触手を持つ半透明の龍が、ゆったりと回遊している。

 この世のどこにもいない、しかしどこかにいてもおかしくない。そんな生き物たちの様子が、克明に描かれていた。

「しかし不可思議な空である。人里で見るような、見慣れた星座はどこにもない」

「もう、ひどいなぁ。まるでここが未開の地みたいじゃない。でも、そうね……星座というより、光の集まりが絵になってるみたい」

 霧沙希の視線の先には、翼の生えたネズミのような生き物が二匹、くるくる回ってケンカしていた。

「ふふ、かわいい」

「……攻牙と鋼原に似ている」

「あら、言えてるかも」

 それから、あの生き物がクラスの誰それに似ていると言っては、小さく笑い合った。

 しばらくして、彼女は白い繊手を夜空に差し伸ばす。

「諏訪原くん……少し、相談していい?」

「聞こう」

 視線を上に向けたまま、霧沙希は微笑んだ。

 取っ組み合う二匹の有翼ネズミを見ながら――否、広がる星の銀幕すべてを見ながら。

「……守ってあげたい。優しくしたい。ほっぺをスリスリしたい。笑顔も見たい。そのついででいいから、わたしのことを好きでいてほしい」

 ため息を吐く。

「だめだってわかってるのに、わたしはつい、そう考えちゃう」

 俺はかるく首を振った。

「駄目なことはなかろう」

「ううん、だめなの。それは……なんというか、とても傲慢な在り方だと思う。出会った人すべてから好かれるなんて……そんなこと、あるわけないのに」

 人格者の苦悩……と、一言で片付けるにはあまりに穏やかな口調だった。

「きっとわたしは、弱かったの。誰かの敵になるのが怖かったの。だから、ここは怒らなきゃ、戦わなきゃ、っていうところでも、ついつい相手を抱き入れちゃう。それで大抵の人はお友達になってくれるから、わたしは味を占めて、どんどん戦わなくなってゆく」

 伸ばした手を軽く握り締め、胸元に持っていった。

「けど……それじゃあ救えない人もいた」

「……タグトゥマダークか」

 こくりと、彼女はうなずく。

「諏訪原くんが、彼を怒ってくれなかったら、きっとみんな……今頃こうしてはいられなかったと思う。もっと怖いことになっていたと思う」

 目元に、恐れを滲ませて。

「怖かったわ、本当に。そして、とても痛々しく思えた。きっと諏訪原くんと出会うまで、彼に真っ向から対立しようなんて人はいなかったのね」

 彼女はうつむく。

「……幼馴染なのにね。彼のことはなんでもわかってるつもりだったのにね……」

「霧沙希……」

「どうすれば」

 こっちを見た。髪がなびき、煌めいた。光の粒子が舞い散った。

「どうすれば、辰お兄ちゃんは救われたのかな……何が必要だったのかな……」

 夜天の生き物たちが、一斉に動きを止め、こちらの様子を伺っていた。

「……すまない。俺には、わからない。あの時も、無我夢中でいた。とにかくこの男を止めねば、という思考しかなかった。……救おうとまでは、とても考えが及ばなかった」

 これが、器の差、とでも言うものなのだろうか。霧沙希に見えていたものが、俺には見えない。

「そっか……ううん、気にしないで。ごめんなさい。変なこと聞いて」

「いや。ただ、やはり霧沙希は強いと思う。そうか、救う、か……ふむ」

 なかなかに斬新な考え方である。

 悪は倒す。それは正しいことだと思う。しかし、「倒さねばならない」というその思考自体が、ある種の妥協ではないのか? 倒さずに――否定をせずに、軋轢を解消する。そういったことを成す能力がないから、仕方なく倒す。いつしかそれを当たり前のことだと思うようになってゆく。妥協だとは思わなくなってゆく。

 それはとても、危険なことだと思う。

 俺は闘いを続けるうちに、こんな簡単なこともわからなくなっていたのだ。

 だが、霧沙希はわかっていた。決してブレることなく、正しさの裏側に隠された陥穽を見抜いていた。

 ――おお、

「そのしなやかにして明晰なる優しさよ」

「……うん?」

「霧沙希、やはりお前は、美しいな……」

 万感を込めて、言う。

「わっ、わーっ! わーっ!」

 妙に動揺した声とともに、天空の魑魅魍魎たちが大騒ぎを始めた。転げまわったり、同じところをぐるぐると駆け回ったり、互いにぶつかって眼を回したり。

「急にどうした?」

「どうしたの? ねえどうしたの?」

 会話が成り立たない。

 霧沙希は、何かの攻撃を受けたかのように身を引き、両腕を顔の前で交差させていた。

「……俺はどうもしないが……」

「い、い、いつかの下駄箱での時みたいに、ま、まっ、またわたしの肩を掴んで壁際に追い詰めて迫ってきたりする?」

 眼を潤ませる霧沙希。

「……しちゃう?」

 して欲しくないのか否か、よくわからない口調である。

「霧沙希が望むのなら」

「わーっ! わーっ! す、諏訪原くん……そういうタチの悪い冗談はちょっと……」

 屋上の手すりに背を押し付け、膝を抱え込む。

「で、でも……冗談じゃないのなら……その……」

 うつむきながらの声は、どんどん尻すぼみになっていった。

「……霧沙希?」

「ううん! わかってる。わかってるの。諏訪原くんにこういうことで深読みしてくれることを期待しちゃいけないってことぐらいは。たぶんわたしの方からどうにかしなきゃいけないってことはわかってるっ」

「うむ?」

 霧沙希は身をすくませてうずくまり、自分の膝の中に顔を抱き込んだ。

「ちょっとタイム! 一分だけ!」

 それから、沈黙が降り立ってきた。彼女の体は、かすかに震えていた。

 のろのろと、時間が動く。

「……ぷはっ」

 やがて顔を上げた時、霧沙希は、いつもの霧沙希だった。

「……ふぅ、やっと復活。びっくりした?」

「いや……うむ……」

 なんとも言えない。

「あのね、諏訪原くん。今はちょっと無理だけど、わたし、諏訪原くんに言いたいことがあるの」

「うむ? 今聞こう」

「い、今はだめ今は無理っ。……だけど……そうね、この夏休みが終わるまでにはぜったいに言うから、ちょっと待っててくれる?」

「うむ。構わんぞ」

「よかった」

 そうして、ふたたび星を見上げる。

「……それには、生き残らないとね」

「同感だ。というより、それは絶対の前提だな」

「うん……もしぜんぶ上手くいったら、みんなでどこかに遊びに行きましょ?」

「異存はない」

「ふふ、霧華ちゃんも一緒にね。……あっ」

 藍浬は声を弾ませ、立ち上がった。

「どうした?」

 屋上の手すりまで駆けていった藍浬。

「ほら、諏訪原くん、見て」

 篤は立ち上がり、そのそばに歩み寄る。

 星明りは、いつのまにか鳴りを潜めていた。

 代わりに、別の光が紺色の空を照らし出している。

 藍浬の白魚のような指先が、地上の一点を示していた。

 鏡面の海が大地に食い込み、深い入り江となっているその場所に、多彩な色の光が集まっていた。夜の海を漂う微生物のように、光の一つ一つが意志を持っているようだった。海岸や、山々の沢から、光の点が列を成し、入り江の一点に集まってきている。

 あれは、明かりを持つ人の群なのだろうか。

「夢滓花(ネロメリア)のお祭りね」

 初めて聞く祭りだった。

 彼方の空から、薄桃色の発光体が、ひらりひらりと舞い降りてくる。周囲の雲が綿菓子のように浮かび上がる。

「銀河のくらやみを漂って、星の記憶をいっぱいに呼吸した花弁が、十五年に一度だけ、ひとりでに落ちてくる」

 藍浬は言葉を紡ぐ。

 花弁は、まるで鉱水に入れられた糖蜜のように、凛々とした光素を振りまきはじめる。

「だけど、花弁は地表まではたどりつかない。ただ、ひらりひらりと舞いながら、大気の中を融けてゆくの」

 その声は、まるで謡っているようだ。

 夢滓花(ネロメリア)の花弁は、徐々に小さくなってゆく。時々発光が強まって、弾けるように燐光を散らす。

「夢の粒子となって地表に降り注ぐ時、人々はそれを迎え入れるため、みんなで集まってわいわい騒ぎながら光を灯すの」

 眼を細め、いとおしげに。

 やがて、地表に届く寸前、ぱっと眩い閃光を放ち、それきり薄桃色の欠片は消えてしまった。

「これから先、十五年分の夢が、まちがいなく大地(ここ)に届くように。迷子の夢が、出てこないように。ちゃんとみんなに届くように」

 真下にいた人々の歓声と感嘆が、ざわざわと風をどよもしている。

「霧沙希……」

 彼女はこちらの視線に気付いた。軽く息を呑み、眼を泳がせ、うつむいた。

「もう、そんな風に女の子をまじまじと見るものじゃありません」

 人差し指が伸びてきて、俺の頬をむにぃ、と押し上げた。最初はひんやりとつめたく、徐々に暖かさが滲み出てくる。そんな柔らかな指先だった。

 目をそらしながら、彼女は胸を押さえるようにこぶしを当てる。

「諏訪原くんは、ずるいんだもの……」

 伏せがちに、潤んで瞬く視線。

「ふむ」

 俺は腕を伸ばし、霧沙希の頬に人差し指を押しあてた。

「ひゃ」

 彼女は身をすくめる。瞬間、ぱっとその顔に光が当たり、桃色に染まった様子が見えた気がした。

 炭酸入りの薄荷を思わせる花火が、空に上がっていた。

「な、な、なにかな?」

 霧沙希は眼を白黒させる。

 人差し指に当たる頬が、熱くなっていった。

 俺たちは、腕を交差させ、たがいの頬を突き合っている。

「いや、特に意味はない」

 俺はゆるやかに目を細めた。

「ただ、こうして共に価値ある眺めを見て、洗われるような気持ちになると、不意に霧沙希に触れたくなった」

 彼女の危うくも美しい佇まいを眺めながら、つくづくと思う。

 かような、たったひとりの人間の中に、無限の優しさが詰まっている。

 その不思議を、思う。



 ●



    引き続き「俺」のターン



 あっくんが顔面によじのぼってくる感触で、俺は眼を覚ました。

「……ふぐう」

 白くてふわふわしたその体を抱き上げ、あくびをかみ殺した。

 瞼を全開にすると痛いような感覚。

「ふむ……いつもすまぬな」

 あっくんを定位置(ずじょう)に据えると、頭の中で暴れまわる眠気と戦いながら、服を着替え、顔を洗い、ダイニングへと向かう。

 朝の控えめな陽光が斜めに差し込み、透明な爽気に充ちていた。

「おせーぞ篤! 九時起きとはいいご身分じゃねーか」

「きのうは おたのしみでしたね! せいてき な いみで!」

 すでに全員が食卓についていた。すでに朝食は終わり、俺が来るのを待っていた気配がある。

 エプロンを着用した霧沙希が、ふわりと微笑んだ。

「ふふ、おはよう諏訪原くん。目玉焼きがいい? スクランブルエッグがいい?」

「ありがとう。目玉焼きを所望しよう」

「すぐできるから待っててね」

 踵を返し、調理台に向かう霧沙希。

 目玉焼きの黄身と白身を分離する作業に夢中でいた鋼原は、やがて白身をペロンと平らげた。

「うおー、諏訪原センパイ、いつも朝はボンヤリしてるでごわすけど、今朝はまた一段とボンヤレストな感じでごわすね」

「うむ、夢を見た。気がした」

「ほへ、いったいどんな?」

「確か、この家の屋上で、」

 そこへ霧沙希が顔を出した。

「諏訪原くん、コーヒーいかが?」

「うむ……いただこう」

 なぜか慌しげに往来する霧沙希。

「篤! とりあえずトースト焼きながら聞け」

「なんだ?」

「他のメンツにゃもう言ったが今日ゲーセンに乗り込むぞ!」

 唐突な、決戦の告知。

「……あと一日猶予はあったと思うが」

「いや期限ギリギリに行かなきゃならんわけでもねえよ。それより作戦を立てた。聞け」

「うむ」

「ハラショーロシアハラショーKGB!」(訳:これより今回の作戦を申し渡す!)

 なぜかハラショー語で話しだす攻牙。

 そのことに対して疑問を差し挟む間もなく、攻牙は次々と重大な情報を開陳していった。

 それは恐るべき陥穽。

 このまま何も考えずにディルギスダークと対峙していたなら、確実に敗北していただろうと思われるほどの。

 攻牙……そこまで考えていたのか……!

「……という感じで行くぞ!」

 ハラショー語を締めくくり、鼻息も荒く攻牙は言った。

 俺と謦司郎は揃って感嘆する。

「ほう……」

「へえ……」

 やはり、こいつは凄まじい男だ。

 俺は腕を組んでうなずいた。

「なるほど、考えたな」

「へん……小賢しい策を捻らせたらボク以上の奴はちょっといねーぜ」

「俺には到底真似できんな」

「おだてても何も出ねーぜ」

「相変わらず小さいな」

「明らかに不要な付け足しだ!」

「これを言わんと一日がはじまらぬ気がするのだ」

「やめろよそのイミフなこだわり!」

 そこで鋼原が頬を膨らませながら腕を振り回す。

「男の子だけで納得しないでほしいでごわすーっ! 射美にはわかんないでごわすよーっ!」

「どーどー、ちょっと待ってね。後で僕から説明するから」



 それから俺、謦司郎、霧沙希、鋼原の四人は、作戦内容を反芻し、綿密な打ち合わせを行った。

 その間も攻牙はひとりリビングで『装光兵飢フェイタルウィザード』を練習し続けているようだった。

 準備は、ととのった。

 ――死闘が開始する。



 ●



 七月二十七日

  午後一時三十五分二十七秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「 」のターン



 駅前のゲームセンター『無敵対空』は、表向き閉店していた。

「閉まっているぞ。借金苦で夜逃げしたか」

「うーん、残念ね」

「残念なのはお前らの頭だ! 怪しまれないためにとりあえず閉めてんだろ!」

 篤、藍浬、攻牙の三人は、異様な妖気の立ちこめる店舗の前に立っていた。

 自動ドアに張られた「都合により閉店します」の紙を引き剥がし、攻牙と篤はガラスの隙間に爪を入れて踏ん張る。

 ……と思ったらいきなり自動ドアが開いた。こけそうになる二人。

 中から、車椅子に乗った黒い巨体が現れる。

「――その日、ディルギスダークは三人の客人を迎え入れていた。やれやれ、ようやく……といった按配である。一週間もの間ディルギスダークを待たせ続けた挙句、悪びれた様子もないとかね、これね、もうね、マジね、ないわ。ホント、ないわ。実社会では通用しないノリである。何なのその『天界で修行してきました』系の自信に満ちた顔つき。お前たちはアレか? 恐怖を乗り越えてグラサンつけた人か? そのわりには勝ち星なかったよなアイツ」

「……花京院のことか……花京院のことかーーっ!!」

 攻牙、腕を振り上げて憤慨する。

「うぅ……はじめて見たけど、なんだか怖い人ね」

 藍浬が眉を寄せながら小さく呻いた。

「気圧されるな。俺たちは見てくれなどまったく関係のない闘いを挑もうとしているのだ」

 篤は泰然としている。

「――三人は『無敵対空』の店内に足を進めた。あたりは大小さまざまなチューブで埋め尽くされていた。床も壁も天井も見えない。所々蒸気が吹き上がる場所があって、時折痰がからまったような音を立てている。人工物しかそこには存在していないにもかかわらず、生物の体内を思わせる場所であった」

 ほとんどギーガーやベクシンスキの世界である。ゲームの筐体たちはコードやチューブによってぐるぐると覆い尽くされ、何か巨大な生き物の繭のように見えた。

 しかし店内には『大改造! 劇的ビフォアアフター』の感動的BGMが流れていたりするので意味がわからない。

「――なんということでしょう。小汚い不良どもがたむろするヤニ臭い不健全空間は、神の目覚めを嘆願する神聖な祭壇へと生まれ変わったのです」

 紀元前あたりのゲーセンのイメージだった。

「余計な問答はいい。ディルギスダークよ、決着をつけに来た。勝負を始めよう」

「――異存はなかった。だが、ディルギスダークには聞かなければならないことがあった。他の二人はどうしたのか、と。鋼原射美と闇灯謦司郎はどこにいるのか、と」

「あいつらは置いてきた。はっきり言ってこの闘いにはついてこれそうもない」

 死亡フラグ臭いことを言い出す攻牙。

「それとも僕たちだけじゃ不満か? ああん?」

「――そちらのチップが減る分には特に問題はなかった。だが、その不可解な分離行動がディルギスダークの胸に不審と警戒を植えつけたことは特筆しておこう」

 そう言い捨てると、ヴィーンと電動車椅子が旋回し、ひときわ巨大な繭を形成している筐体の前へと移動していった。

 ほとんど小さな丘と言ってもいい威容である。巨大な昆虫の羽音のような駆動音がわだかまり、チューブの間から赤黒い光が漏れ出てきている。

「――これこそが、諏訪原篤、嶄廷寺攻牙、霧沙希藍浬の魂を収める器であった。贄と成り果てたい者から、席につくと良い」

 中央部だけは原型を留めており、六つのボタンとレバー、そしてモニターがあった。まるで怪物の口のようだ。

 三人は頷き合い、篤が一歩前に進み出た。

「まずは俺だ。修行の成果を披露しよう」

 席に座り、一瞬迷ったのち、スタートボタンを押す。

 ……押す。

 もっかい押す。

「おい、ゲームが始まらないぞ」

「――当たり前であった。百円玉を投入せずにゲームをやろうなどと片腹痛かった」

 金取んのかよ。

「むむ、困った。財布など我が家の瓦礫の中に埋まったままだぞ」

「ああもう!」

 攻牙が無言で篤の脇から手を伸ばし、百円玉を投入。画面下部で『CREDIT(1)』の表示が点滅しはじめる。

「……すまぬ。今度チロルチョコを奢ろう」

「安くなってんじゃねーか! いいからとっととはじめろ!」

 スタートボタンをプッシュ。光の線が縦横に走って、キャラセレ画面を形成する。

「エオウィンよ……その剣、俺に預けてくれ」

 ディコーン! という選択音。メイド少女が不安げに周囲を見渡すアニメーション。

 画面の暗転。

 現れたのは、超高層建築が立ち並ぶ巨大都市だった。上も下も空気に霞んで見えなくなっている。それぞれの建物を行き来するためか、巨大な橋が無数に渡されていた。人々の営みを示す雑多な光があふれかえっている。金属の光沢を持つそれらの建造物群には、ぼんやりと光る半透明の樹木がびっしりと絡みついていた。

 摩天楼の中腹に迫り出したテラスの上で、二つの影が対峙している。

 片方はエオウィン。濃紺のドレスにレースの入ったエプロン、ふりふりしたカチューシャを装着した(あくまで日本のオタクの間でのみ通用する)典型的なメイドスタイル。周囲に生い茂る立体映像の樹々が燐光を放ち、流れるような銀髪に複雑な陰影を与えていた。大きな眼に涙を溜めて、対戦相手を不安そうに見つめている。この保護欲を煽りまくる仕草の数々によって幾多の硬派ゲーマーたちを萌えの道へと引きずり込んでいった業深いキャラクターであるが、でも下半身は大剣。なんでだよ。エロ同人作家涙目であった。

 もう片方は、黒い結晶によって形作られる無機質な人影。幻影の樹々の光に一切影響を受けず、飲み込まれそうな漆黒の色彩を保っている。それが余計に作品世界への一体感を損ない、まるで出来の悪い合成映像のようだった。体内では深紅の樹状組織が血管のように脈動している。顔も体格も立ちポーズもパーソナリティを匂わせるような要素は一切なく、寒々しい殺気だけを振りまいていた。インサニティ・レイヴン。それが奴の名だ。

『第一燐界形成-Round 1-』

「ふっ!」

 ラウンドコールと同時に、篤はレバー操作。地雷を設置してゆく。動きに危なげはない。懸念されていたパッドとレバーの感覚の違いも、さほど気にならないようだった。四つほど置き終え、斜め上にジャンプ。上昇中に扇風機をひとつ設置。下降中にもうひとつ設置。うまくハマれば相手がN字に吹き飛ぶ陣形である。

『閃滅開始-Destroy it-』

 さすがにディルギスダークも、相手がばら撒いているモノが攻撃能力を持っていることくらいは学習しているのか、地雷の置かれていない位置まで後退していた。

 すかさずエオウィンはドリル(強パンチ)で牽制する。両者の間に地雷が一個あるので、攻撃後の硬直を狙われにくい位置関係だ。

 青いガードエフェクトが波紋のように拡がる。エオウィンの顔はその照り返しを受けて明滅するが、インサニティ・レイヴンの顔色は一貫してフラットブラックのままだ。

 立て続けに火炎放射、ロケットランチャー、ガトリングガンを浴びせかける。ガードの上からガリガリと体力が減ってゆく。

 ――へっ! 手も足も出ねえだろ!

 篤の優勢を前に、攻牙は不敵な笑みを浮かべる。インサニティ・レイヴンは確かに凶悪な攻撃能力を誇るが、それはあくまで「ぼくがかんがえたさいきょうキャラ」の域を出ていない。こいつは守勢に回った時のことをまるで想定しておらず、反撃に転ずるための手段を何も備えていない可能性が高い。受け身もブロッキングも霊撃もジャストディフェンスも当身技もサイクバーストもなく、ひたすら近づいて殴ることしか考えない。

 そういう奴は射程の長い攻撃を連発してやるだけで、もう何もできなくなる。

 ――やれ篤! 削り殺せ!

 この、単純だが効果的な戦法を前に、ディルギスダークは手も足も出ないようだった。

「いまひとつ手ごたえのない方法だが、手加減はせん。このまま押し切らせてもらう」

 レバーを的確に操作しながら、篤は言い放つ。

 加熱する攻勢。

 漸減してゆく体力ゲージ。

 ここでディルギスダークはようやくジャンプするという発想に思い至ったようだ。火炎放射後の隙を見計らって大跳躍、飛び蹴りを仕掛けてくる。

「その手は悪(あ)しゅうござる」

 エオウィンの頭がカパッと開き、大根のような形のミサイルが噴炎を上げて発射された。

 直撃。爆炎。黒影は火だるまになりながら吹き飛んでゆく。

 本来は上昇したミサイルが時間差で相手に降り注ぐ技なのだが、対空兵器としても使えるのだ。

 髪の毛に引火した噴炎をあたふたとはたき消すメイド少女の目前に、インサニティ・レイヴンが落ちてくる。

 ――落下地点には、地雷が待ち構えていた。

 爆発。トランポリンのように、再び上空へ跳ね上がる。その先には浮遊する扇風機がぎゅんぎゅん回って歓迎の意を示していた。

 ザシュウッ! と切れ味鋭いサウンドエフェクトと同時に、無個性な人型は斜め下方に弾き飛ばされる。そこには別の地雷が設置されていて、もれなく爆発。みたび上空へ。

「霧華を――」

 エオウィンは素早く飛び上がりながら、空中で優美に宙返り。下半身の大剣を振り上げた。

 ライトグリーンの軌跡が、巨大な孤を描く。走り抜ける閃光のようなヒットエフェクト。

「――返してもらうぞ!」

 瞬間、画面の暗転。着地時の隙を超必殺技でキャンセルしたのだ。エオウィンの体で十字状の光がほとばしり、全身がタンスの引き出しのように変形した。数え切れないほどのミサイル発射口が展開する。

『ネ、ネズミ捕り用ですっ!』

 エオウィンの切羽詰ったヴォイスとともに、白い帯のような噴煙が幾重にも伸びていった。ミサイルが大量発射される。

 あるものは直進、あるものは迂回しながら、濁流のように殺到。落下してきたインサニティ・レイヴンを無数に重なり合う爆炎で何度も打ちのめした。

 ダウン。体力は残り四割。

 一方エオウィンは無傷である。

 だが。

 ――ちょっとやべえか!?

 起き上がった敵は即座に間合いを詰めてきた。エオウィンは――なんとまだミサイル発射形態から元に戻りきっていない。浮き方が悪く、最後の数発がヒットしなかったため、相手の方が一瞬早く行動を再開できたのだ。

 パンチ。何の演出もない、ただのパンチ。

『きゃっ!』

 エオウィンがのけぞる。間髪入れずまたパンチ『きゃっ!』。それから一歩踏み込んでストレート『あうっ!』。

 以下エンドレス。

『きゃきゃっ! あうっ! きゃきゃっ! あうっ! きゃきゃっ! あうっ! きゃきゃっ! あうっ! きゃきゃっ! あうっ!』

「くっ……!」

 歯を噛み締める篤。

「どうしよう、諏訪原くん負けちゃう……」

 藍浬が攻牙の肩を揺する。

「いや……ありゃ大丈夫だ」

「ど、どうして?」

「時間切れだぜ」

『作戦期限超過-Time Over-』

 無機質なシステムヴォイスが、試合時間の終了を告げる。ワンラウンド九十九秒。それ以上はどうやっても戦えない。

 最後の方でボコられたとはいえ、体力的にはまだまだ篤が圧倒していた。

 立ち上がったエオウィンが、胸を押さえて安心したように息を吐く。

『ど、どうにかなりました……』

 ――ホントにな。

 攻牙と藍浬も胸を押さえて息を吐いた。

 インサニティ・レイヴンは何のリアクションもない。直立不動だ。こういうケレン味のなさが、なんだか攻牙には腹立たしく思える。

「くやしがるくらいしろってんだよったく……」

 ぼやきながら篤に歩み寄る。

「いい感じだぜ。最後は気にすんな」

 ぽんぽんと肩を叩いた。

 と。

 篤の体が少しずつ傾いていき、

「え……」

 どさり、と。

 横向きに倒れかかった。

 長イスがひっくり返る。

「篤ぅぅぅぅ!?」

「諏訪原くん!?」

 藍浬が駆け寄ってきて、力なく横たわる篤の上半身を抱き起こす。

 眼は光を失い、四肢は力を失っていた。

「そんな!」

「――見通しの甘さが、露呈していた」

 何かの悪夢のように、ディルギスダークの陰鬱な声が耳朶を震わせる。

 いつの間にか、すぐそばにいた。

「――実際に勝利したかどうかなど、まるで関係がない。敗北感を抱いた時点で、プレイヤーの魂は筐体に取り込まれる」

「なっ……にィィィ……!?」

「――諏訪原篤は、勝負に対して潔癖すぎた。そして『ディルギスダークの攻撃を食らえば即敗北』という観念に縛られすぎていた。だからルールの上で勝っていたとしても、心の奥底では潔く負けを認めてしまっていたのだ。これは理性ではどうすることもできない問題だ」

「てんめえ……!」

 ディルギスダークはぎちりと頬を歪めた。

 電動車椅子からいきなり立ち上がると、頭を振り下ろし、攻牙の目の前に巨大な顔を寄せた。クレイアニメの不気味さを百倍にしたような、恐ろしく見る者の神経に負担をかける動作だった。

 攻牙の視界を、ディルギスダークの異様な笑みが埋め尽くす。

「っ」

 肩にかかる藍浬の手に、ぎゅっと力が入った。

「――愚かな男だった。いくら自らの心身を鍛えようが、何の役にも立ちはしなかった。まさに無意味。まさに道化。諏訪原篤は大切なものを何一つ守ることもないまま、生贄と化す」

 虫の羽音のような嘲笑が、ゲーセンに響き渡った。

 ……その顔に、ちいさな拳が、めり込んだ。

「……笑うな」

 拳を固めながら、攻牙はぽつりとつぶやいた。その眼には、押し殺した怒りがあった。

 かまわず、ディルギスダークは哄笑を撒き散らし続ける。

「笑うなっつってんだろうがァーッ!!」

 ほんの五センチと離れていないディルギスダークの顔に、膝を打ち込む。

 ゴムの壁のような手ごたえ。

「うぅっ」

 攻牙はよろけて一歩下がり、藍浬に受け止められる。

 ディルギスダークは小揺るぎもしなかった。

 ニタァ、と笑っただけだ。

「――強い言葉で叫んでも、弱い心は隠せない」

「……っ!」

 暗黒の巨体は姿勢を直立させる。攻牙からしてみれば、まるで巨大な神像を相手にしているかのようだ。

 狂風のごとき威圧感。

 そして、

「――[いつまで他人の背中におぶさっているつもりだい? 坊や]」

 くるりと背を向け、電動車椅子へと戻ってゆく。

 攻牙の顔が、さっと青くなった。その言葉は、攻牙の精神の根本に、生々しい音を立てて突き刺さった気がした。

「て……めえっ!」

 拳を振りかざして飛び掛ろうとする。

「攻牙くん!」

 後ろから抱き止められる。

「落ち着いて……お願い……」

 その言葉というよりは、頭に当たる神話的マシュマロ的プリン的たゆんたゆんフィーリングが攻牙の怒りを中和した。

「う……あ……おう」

 眉尻を下げて、困ったような声を出す攻牙。

 そりゃ頬も熱くなります。

「わたしたちにできることは、他にあるわ」

「わかってるよ! ちょちょちょっ! とりあえず離れろ!」

「?」

 ちなみに、射美にも頻繁に抱きつかれるが、こっちは別にどうってことない。多分、普段からの雰囲気の差だろう。

 ぺちぺちと熱くなった頬を叩き、咳払いで気を取り直す。

 電動車椅子に腰を下ろしたディルギスダークへ、指を突きつけた。

「次はボクだ! てめーこの野郎ブッ飛ばしてやる!」

「――生贄は、定まった」

 攻牙は深呼吸すると、ひっくりかえった椅子を戻し、モニターの前に座った。

 藍浬は、意識を失った篤につきそいつつ、心配げにこちらを見ていた。

「たのむぜ」

「……うん」

 頷きあう。

 百円玉を投入。スタートボタンをプッシュ。

 キャラセレ画面が表示される。

 ――さて。

 攻牙は、もう一度深呼吸を行う。

 画面には、体の両側に巨大なビームガントレットを浮遊させた少年の姿が映し出されている。

 アトレイユ。

 少年漫画の主人公的なツンツン頭に、革製の道服のようなファッション。やや小柄な体格。

 意志の強そうな半眼で前を睨みつけながら、ゆったりとした構えをとっている。

 癖のない操作感と、オーソドックスな技構成。平均以上の攻撃力と機動力。初心者の入門として、あるいは上級者の切り札として、遺憾なく主人応振りを発揮してくれる良キャラだ。

 だが――

 攻牙は無言で、レバーをちょいちょいと動かした。

 表示キャラクターが切り替わる。

「こ、攻牙くん!?」

 後ろで藍浬が声を上げる。

「大丈夫」

 アトレイユに替わって表示されたのは、メカっぽい意匠の日本刀を携えた、長身の男だった。

 紺色のボディスーツの上にロングコートを羽織っている。その瞳に色はなく、一見して視覚を喪失していることがわかった。蒼いメッシュの入った黒髪が、ざんばらに伸びている。

「――何をしているのか。何をするつもりなのか。意表を突けばいいとでも思っているのか。あまりにも浅はかな行動と言わざるを得ない。練習すらしていないキャラクターなど使ったところで無残な敗北を喫するだけのこと。ないわ。マジないわ」

「はっ」

 攻牙は鼻で笑い、躊躇いもなくボタンを押した。

 無数の剣閃が球状に迸り、直後に鍔鳴りの音がチンと響いた。男は背中を向け、どこか遠くを見ている。

 キャラクターが、決定されたのだ。

 ディルギスダークが、黙りこんだ。

「[やっぱりな]」

 頬に強張った笑みを刻みながら、攻牙はディルギスダークを見やる。

 じわりと、汗がにじんだ。

「てめー……なんでボクがこいつを練習してないってことを知ってるんだ?」

 斬りつけるように、問い詰める。

 ディルギスダークは黙っている。

「どうして意外に思う? どうして『意表を突かれた』なんて考えた? 浅はかだと? 何故? てめーと戦うのはたったの二回目だろ? 『こいつは別のキャラも使うのか』で流すところだぜ普通」

「――まるで意味不明の言葉であった。事実として、嶄廷寺攻牙はアトレイユしか練習していない」

 そう、それは確かな事実だ。ディルギスダークの言葉は、完全に正しい。攻牙は合宿中、アトレイユしか練習していない。

 だが、なぜこいつはそんなことを知っているのか。

 攻牙の中で、恐怖と嫌悪が膨れ上がっていた。それは今までも胸の底で燻っていたものだが、ここにきて黒い炎を上げ始めた。

 息を吸い込む。そのまま一瞬だけ躊躇う。

 ……本当なら、目を逸らしていたかった。口に出すことで、否応もなく[その事実]と直面してしまうことになる。

「見ていやがったな……てめえ……」

 だが、攻牙は、逃げなかった。

「――何のことを言っているのか」

 眼を引き剥き、やり場のない怒りで胸中を満たす。

「全部だ! ボクが霧沙希の家で経験したことのすべて! てめえは一部始終委細漏らさずするっとまるっと完璧に見てやがったんだろ!?」

 拳を握りしめ、猛烈にガンたれる攻牙。

 ディルギスダークは、やっぱり黙っている。

「最初からおかしいとは思ってたんだ……てめーはなんでだか知らねえがボクが家にゲーム機を取りに戻ったところをドンピシャのタイミングで阻止にかかりやがった。嫌に手際が良すぎた。そこがまず違和感としてボクの胸に残った」

 今まで飲み込んでいた石を吐き出すように、攻牙は言葉を紡ぐ。

「次に妙だと思ったのはディルギスダーク! てめーからのメールだよ! 最悪なタイミングで最悪なメール送りやがって……認めたくねーが危うく心が折れるところだったぜ。ずっと不思議だった。どうしてこの野郎はボクのことをこんなに良く知っているんだろうってな……」

 どこか、自らの身を切るような、言葉を紡げば紡ぐほど傷ついてゆくような、そんな糾弾。

「そしてさっきのてめーの反応で確信を持った……」

 ぎりり、と歯を軋らせる。凄まじい瞋恚の念が、眼の奥から迸り、ディルギスダークを打ち据えた。

「[てめー……ボクの頭に何かしやがったな……!]」

「――ク……ク……ク……」

 喉が、蠕動する。暗黒の巨漢が、こらえきれぬという風に、嗤った。

 すなわち、[私]が、嘲笑った。

「……っ!!」

 唐突に頭の中に聞こえた声に、攻牙は目を剥く。

 実に、実に哀れな少年だった。

 ずっと私の操り人形であったことも知らず、嶄廷寺攻牙はよく踊ってくれた。

「これ……ちょっ……これ!」

 激しい動揺が、嵐のように攻牙を翻弄する。

 私は諭すように、彼の脳で思考をめぐらせる。

 人間は、一体どうやって自分のことを自分であると認識するのだろう?

「なに!?」

 意識の連続性とは、一体何なのだろう?

 一秒前の自分と、今の自分。どちらも同じ存在であるなどと、どうしてそんなことがわかるのだ?

 攻牙は声にならない叫びを上げた。戦慄に、皮膚が泡立つ。

「て……めえ……」

 朱鷺沢町方面に構築されたディルギスダーク・システムの末端たる私は、第五級バス停『風見が丘』の〈BUS〉をパワーソースとし、精妙複雑にプログラムされた内力操作を走らせ、有機生命体の「魂」すなわち「根源的主観」を継ぎ接ぎする機能を有している。

 いったい、嶄廷寺攻牙は、自分の思考を百パーセント自分のものだと、どうして疑いもしなかったのだろう。

 かつて一度、私の構築した仮想空間に取り込まれた時、無防備になった攻牙の肉体。

 ディルギスダークはその頭に手をかけ、単なる洗脳とは一線を隔する処置を施した。

 私の一部を、ニューロンの狭間に刻みいれたのだ。

 それは、遠隔カメラともいうべきもの。脳の意識領域の半分を占める、強力な感覚器官。

 嶄廷寺攻牙の見た物、聞いた物、感じた物のすべて。一切合切がリアルタイムでディルギスダークに送られていたのだ。

 わかりやすい五感のみならず、諸々の身体感覚――胸の痛み、高鳴り、挫折しかけた時の喉が塞がれるような錯覚、疲労感、眠気――すらも、私には筒抜けであった。

 攻牙がアトレイユというキャラクターを使うことも、必死に即死コンボを練習していたことも、その始動技が弱キックであることも、すべて見抜いていた。

 私は――ディルギスダークは、すべてを知っている。

 お前の動き、狙い、癖、弱点。

 その、すべてを。

 すべてを。

 ……攻牙は、黙っていた。

 その胸中には、黒々とした不安めいたものがわだかまっている。

 沈黙が、周囲に覆いかぶさってきていた。『装光兵飢フェイタルウィザード』のBGMが空しく流れてゆく。

「……ぷっ」

 不意に、攻牙は噴き出した。

「くくくっ……ははっ!」

「――何がおかしいのか。何を笑っているのか。ディルギスダークには、その胸中が完璧に読める。挫折と恐怖に晒された心臓はせわしなく脈打ち悲鳴を上げている。やけになって笑うしかないということであろう」

「ふふん。完璧に……読めるだと?」

 瞬間、攻牙の心臓は落ち着きを取り戻していった。胸にくすぶる不安感は消え去り、穏やかな脈拍を刻み始める。

 あまりにも急激な変化。

 不自然なまでの。

 ……何だ?

 私は不意に警戒の念に駆られた。

「本気でそんなことを考えているのならディルギスダーク……てめーはとことんナマクラだな」

 底光りする眼で、暗黒の巨漢を睨む。

 異様な落ち着きぶり。

 この状況でなぜ攻牙は落ち着いている?

 その理由がまるでわからないことに、警戒の念を抱く。

「本当に心が読めるのなら……ボクが別キャラを使うことをどうして見抜けなかったんだ? あぁん?」

 確かに、嶄廷寺攻牙がいきなりアトレイユ以外のキャラを選んでくるなどとはまったく予想の範疇を超えていた。そこだけは警戒に値するであろう。

 だが、だから何だと言うのか。

 練習をしていないキャラクターで、私のインサニティ・レイヴンに勝てるとでも思っているのか。

「いいぜ……台に着けよ。こちとらプライバシー侵害されまくって気が立ってんだ。刻んでやるよ出歯亀野郎」

 何だ……?

 断言してもいいが、攻牙は合宿中に一度たりともアトレイユ以外のキャラクターを使用しなかった。どう考えても、ここで別キャラを選択したのはただの苦し紛れ、やけくそと称すべき愚行のはずである。

 にも関わらずこの態度。

 不可解の極み。

「――即時粉砕。それがディルギスダークの出した結論である」

 私は攻牙の反対側の台に向き合うと、巨大な穴の開いたモニターに顔を突っ込んだ。

 内力操作(アクセス)。

 インサニティ・レイヴンと同調。私は黒い結晶質の肉体を持つ、殺戮の妄徒と化す。

 ゲーム内では、すでに試合が始まってずいぶん経っている。制限時間は残り二十秒。

 何の練習も積まれていないキャラクターをハメ殺すには十分な時間だ。

 攻牙が使用するキャラクターのディスプレイネームは『KZAK』。クザク……と、読むのだろうか。

 なんであれ、攻撃を当てさえすればそれで勝利が確定する。

 私はダッシュで間合いを詰め――

 ――ようとした瞬間、閃光のようなヒットエフェクトが走り抜け、のけぞった。

 カチン、と鍔鳴りの音が響く。

「……ありがとよ。眼を覚めさせてくれて」

 筐体の向こうから、怒りを押さえつけた声が聞こえてくる。

「最悪な気分だぜテメーこの野郎……」

 再度剣光が一閃し、インサニティ・レイヴンは大きく吹き飛ばされた。

「夜が明けるまで死に続けろ」

 そして私は、ようやくこの少年が仕掛けた詐術に気付いた。



 ●



 七月二十七日

  午後一時三十五分二十七秒

   閑静な住宅街を爆走しながら。

    「僕」のターン



 鋼原さんのバスが、凄まじい速度で風を切り、朱鷺沢町の住宅街を駆け抜けている。

 僕こと闇灯謦司郎は、バスの上に腰掛けていた。風圧で、髪や服が激しくはためいている。

 立てた手の上に顎を乗せ、物思いにふけっていた。

 ――ディルギスダークに二正面作戦を強いる。

 攻牙が考案した戦略とは、言ってみればそんなようなものだ。

「本当に、射美たちがいなくてダイジョーブでごわすかねえ~……」

 隣で鋼原さんが不安そうに眉を寄せている。

「ま、適材適所っていう奴だね。がんばろー」

 即死コンボを習得した三人――攻牙、篤、霧沙希さん。彼らは堂々とディルギスダークに決戦を挑む。

 その間、現実において高い戦闘能力を維持している僕と鋼原さんは、朱鷺沢町の各地をめぐって洗脳されたポートガーディアンを倒すことにしたのだ。

 ……すべては、攻牙がディルギスダークに洗脳された人々の様子を見て考えたことだ。

 彼らは、元々の性格をまったくとどめず、完全にディルギスダークの操り人形となっていた。

 あれはもはや洗脳というより、頭にアンテナを刺して遠隔操作しているようなものだ。

 つまり。

 洗脳ポートガーディアンたちの行動は、すべてディルギスダーク一人が一元的に操作しており、「それぞれの判断にまかせる」ということができないのではないか。

 そう推察した攻牙は、僕と鋼原さんに別働隊としての役を割り振ったのだ。

 攻牙たち本隊がディルギスダークと対戦する。

 まったく同時に、僕たち別働隊は、朱鷺沢町を五角形で囲むように配置された洗脳ポートガーディアンの皆さんをボコって拘束する。

 これにより、ディルギスダークの集中力を大幅に乱すことができるに違いないわけだ!

 ついでに〈目覚めの儀式〉とやらも完璧に阻止することができる。攻守を兼ねた戦略である。

「……あの~、ヘンタイさん?」

「ん? なんだい?」

「これからまぁ、朱鷺沢町一周ポートガーディアン狩りの旅にでるわけでごわすけど……」

「うんうん」

「シリアスモードで行くでごわす! ヘンなことしないでほしいでごわすよ?」

「うん、がんばるよ!」

「……」

 やがて、道路の片隅に直立不動でたたずむ人影が見えてきた。



 ●



 七月二十七日

  午後一時三十九分五十九秒

   閑静な住宅街にて

    「私」のターン



 なんたることか。

 ディルギスダーク・システムの端末たる私は、嶄廷寺攻牙と戦っているのとまったく同時に、布藤勤の変わり果てた姿を遠隔操作していた。

 そうせざるをえなかったのだ。

 大量の土砂を撒き散らしながら、淡い色のエネルギーフィールドに包まれたバスが猛スピードで近づいてきている。

 その正体は考えるまでもなく、鋼原射美の特殊操作系能力〈臥したる鋼輪の王(アンブレイカブル・ドミナートゥス)〉である。

 まったく、なんたることか。

 この私に二正面作戦を強いるとは。

 こうなってしまっては、手駒が拿捕されるのを黙って看過するわけにもいかない。私は布藤勤の肉体を遠隔操作し、右腕を前に突き出した。

「接続(アクセス)。第九級バス停『亀山前』。使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)布藤勤が命ず。――界面下召喚」

 閃光。渦巻く光の粒子。衝撃波が全方位に拡散する。

 一瞬ののち、布藤勤の手の中にはバス停『亀山前』が握られていた。

 凄まじい速度で突っ込んでくるバスを見やる。

 ……『亀山前』のポートガディアンたる布藤勤は、内力操作系バス停使いである。

 バス停にかかる力の操作に長け、オーソドックスな白兵戦を得意とする。

 その必殺技は〈超吸着〉。

 自らのバス停に触れた物体を内力操作によって吸着し、離れなくしてしまう技である。

 最初はそのどこが必殺なんだよとも思ったが、よくよく考えてみるとバス停同士の鍔迫り合いに持ち込んでからいきなりこの技を使えば相手はまず反応できずにバス停を奪い取られてしまうわけで接近戦に応じてくれるような相手に限られるものの十分必殺技と呼ぶに相応しい有用性であるわけだがそんなことはまったく関係なく布藤勤の肉体は超高速で突進してくるバスの巨体にブッ飛ばされてボロ雑巾と化した。

 闘いにもなりはしなかった。



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十分八秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「私」のターン



 クザク、というキャラクターがいる。

 ゲーム内設定においては、数年前に滅び去った神秘の装光都市『ナスル=タイル』の最後の生き残りであり、故郷が崩壊する要因となった顔傷の女(本作におけるラスボス)を追う復讐の剣士である。

 旧式メイドロボの完全上位互換とも言うべき性能であり、攻撃のリーチが長く、発生速度もトップクラス。さすがにワンチャンスでの火力はエオウィンに劣るものの、あらゆる状況からコンボにもっていけるので、総合的な攻撃能力はむしろ上回っている。

 対戦ダイアグラムにおいては稼働初期から現在に至るまで常に上位をキープし続けており、性能だけを見るなら最強であるとの声も多い。



 ……と言うのが、攻牙の脳を探って得られた情報である。

 一方的な展開だった。

 こちらの行動がことごとくわかっているかのごとく、すべての局面で主導権を握られていた。

 攻撃しようとすれば斬られ、移動しようとすれば斬られ、ガードすれば投げられ、ジャンプして逃れようとすれば斬られ、何もしなければ無造作に斬られた。

 さらに、ここから遠く離れた住宅街で鋼原射美が余計なことをしてくれたがために、一瞬私の処理能力を上回る事態に追い込まれ、判断が追いつかず、決定的な一撃をもらってしまった。

『閃滅完了-K.O.-』

 完封。

 そう称して良い、完全なる大敗。

「永久コンボしか能のねえ半端野郎が……格ゲーナメてんじゃねーぞコラ」

 低く籠もった声が、筐体の反対側から聞こえてきた。

「――不可解な熟練度であった。まるで最初からこのサムライ男が使用キャラクターであったかのような動きである」

「あぁ……そうだぜ?」

 何……?

「ボクの持ちキャラは最初からクザクだ。アトレイユはサブだよ」

 馬鹿な。

 では何故、合宿中に一度たりともクザクを操作しなかったのか。

「クザクにゃ即死コンボはねえ。だからこの場合じゃ不利かなって思ってただけさ」

 攻牙は頬を歪める。

「運が良かったぜ。てめーが勘違いしてくれたおかげでクザクの技を一度も見せずにこの場に立つことができた」

「――ありえない。私はお前の脳に巣食っていたのだ。その事情に気付かないはずがない。まさか嶄廷寺攻牙は二重人格者だとでも言うのだろうか」

「本気でそんなことを考えているのなら……やっぱてめーはナマクラだな。ボクと心理戦をしようなんて百年早ぇぜ」

「――なんだと」

「でもまー……二重人格ってのはちょっといい線いってたぜ。三十点くらいはやってもいい」

「――どういうことか」

「てめーはずっとボクの中にいた。ボクと同じことを経験し続けてきた。だからボクの心理を類推できると思い込んでいる」

 攻牙は肩をすくめる。

「基本的には間違ってねーぜ。おおむね正確に心を読めていたと思う。だけどな」

 大きな眼を威圧的に見開き、言った。

「[ボクがそのことを察知して意図的に本心を隠している]と……どうして疑いもしなかったんだ?」

 そんなことができるはずがない。

 私の読心から逃れる方法はただひとつ。「思考しない」ということだけである。

 攻牙は、脳裏で会心の笑みを浮かべていた。

「人間の思考ってのはよー……そいつの言語によって全く違うらしいなぁ。ボクたちは日本語で思考する。中国人は中国語で思考する。メリケン人は英語で思考する。仮に心を読めたとしても……そいつの思考を形成している言語がわからなければ無意味なんだぜ」

「――だから……なんだというのか。嶄廷寺攻牙は今も日本語で思考している。私にわからないはずがない」

「そう。ボクも普段は日本語で思考する。だけどな……てめーをハメる策を練っている時だけはハラショー語で思考してたんだよ!」

 ――ハラショーロシア!

 ――ロシアロシア!!

 ――もお超ハラショー!!

 攻牙の脳内で発生したその馬鹿馬鹿しい思考パターンは、解読不能なノイズと化して私を混乱させた。

 そうだ。今までも、このわけのわからない思考ノイズが私の読心を拒んでいたのだ。

 だが私はたいして気に留めなかった。他の人間に潜り込んだ時も、こういう「思考なまり」とでも称すべき無意味な癖が散見されることはあったのだ。人間と言う生き物は、その思考活動のすべてが論理的に説明できるわけではないのだから当然だ。

 だが、そうではなかったと言うのか。

 [嶄廷寺攻牙の脳裏を走るこれらのノイズは、すべて重大な意味を持っていたと言うのか]。

 今までずっと……霧沙希邸で過ごしていた時からずっと、嶄廷寺攻牙はそんなことを続けてきたというのか。

 この私の眼に気付き、それを欺くために、たったひとりでそんな神経を擦り減らすような思考制御を続けてきたというのか。

『第二燐界形成-Round 2-』

 ラウンドコールが響き渡る。

 私は筐体に頭を突っ込み、インサニティ・レイヴンの操作に戻る。

 もはや敵のペテンに感心している場合ではない。

 眼の前に佇む、陰鬱なロングコートの男――クザク。

 その一挙手一投足を注視する。

 クザクは、動き回らない。

 ただ、ランダムに回転する立方体の形をしたモノをひとつ設置するだけである。

 そう、1ラウンド目でもそうであった。

 画面端にて緩やかな回転を続けるその物体が、試合中には驚くべき機能を果たすのだ。

『閃滅開始-Destroy it-』

 ゲームスタートと同時に、クザクは蒼い光をまとって突進してくる。まるで外力操作系バス停使いが放つ光弾のごとく、輝く粒子をまきちらしながら一条の光線となって間合いを詰めてくる。

 瞬間、クザクの姿が掻き消えた。

 直後に一閃。斬撃が優美な曲線を刻む。広がる波紋のようなガードエフェクトが、インサニティ・レイヴンの交叉された腕の前で弾ける。

 それは刃の軌跡というよりは、扇型の空間の歪みとでも称すべきものだ。聖堂のような背景が、剣閃と重なった部分だけわずかにズレている。

 私の背後に、蒼の剣士は刀を振り抜いた状態で出現した。

 突進の勢いの利用した神速の抜き打ち。技後、私の背後に回り込む形になる。当然、次に襲いかかってくる斬撃を防ごうと思ったらガード方向を逆向きにしなければならない。

 前ラウンドではこの反応が遅れたため、致命的な連続技を食らう結果となったのだ。

 私は即座に逆方向に向けてガードし直す。

 ――と思った瞬間、クザクのグラフィックが眼の前で白い光に包み込まれた。

 次の瞬間そこにあったのは、ランダムに回転する立方体。

 クザクと立方体の位置が、瞬時に[入れ替わった]のだ。

 そして背後から斬撃を受け、インサニティ・レイヴンはやられモーションを開始する。

 流れるような三連斬。紅い牡丹が咲いて散る様を模したヒットエフェクトが散華する。なめらかで無理のないアニメーションから、それが単独の技であることがうかがえた。

 続いて大上段からの落雷のごとき一撃。大きく吹き飛ばされるインサニティ・レイヴン。

 再びクザクの体が白く発光し、立方体と位置を入れ替える。彼我の間合いがタイムラグもなく詰まった。

 即座に繰り出された斬り上げが、地面に落下する直前の私を拾い、空中に打ち上げる。クザクは技後の硬直をジャンプでキャンセルして追いかけ、小技の連撃で華麗なコンビネーションを決めた。

 インサニティ・レイヴンは、ようやく地に倒れ伏すことを許される。

 一瞬の静寂。体力ゲージは三分の二となっていた。

「これからボクは起き攻めすんぜ? ちゃんとガードしろよこの野郎」

 筐体の向こう側から、そんな声がした。

 インサニティ・レイヴンが起き上がり始める。

 するとクザクは小さく跳躍。直後に空中で光弾と化し、こちらに向かってくる。

 ――中下段の二択か。

 しゃがみガード不能の中段攻撃。

 立ちガード不能の下段攻撃。

 そのどちらかが、来る。

 選択肢を誤れば、再びあの長い連続攻撃を食らって敗戦することになる。

 逆に言うと、ガードさえ成功すれば私の勝ちである。クザクの技は全体的に技後の硬直が長い。ガード硬直など存在しないインサニティ・レイヴンは、即座に反撃を当てて永久コンボにもっていける。

 私は相手の行動を見る。

 地面すれすれの低空を、クザクは飛ぶように移動している。

 どうやら、[空中から繰り出される攻撃はすべて中段になる]ようだ。理由は不明である。攻牙の脳を探ると、こういう格ゲー的お約束に突っ込みを入れても無駄……との情報が得られた。

 ともかく。

 空中から攻撃してくるか、それとも着地してしゃがみ込んでから下段攻撃してくるか。

 その見極めが勝負の分かれ目である。

 私は見る。敵手の動きを注視する。

 さあ――どちらか。



 瞬間、私は洗脳ポートガーディアンの一人、櫻守有守の所へ、轟音とともに迫りくる何者かの存在を察知した。



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十七分三秒

   町外れの田園地帯にて

    「私」のターン



 なんというか、またである。

 よりにもよってこのタイミングで、鋼原射美が襲撃をかけてきたのだ。恐らく、霧沙希藍浬あたりが携帯電話でタイミングを指示しているのだろう。実に周到な作戦である。

 ――しかし、櫻守有守を相手に選んだのは失策と言わざるを得ない。



 『萩町神社前』のポートガーディアン、櫻守有守は外力操作系バス停使いである。

 扱える〈BUS〉のエネルギー量だけを見れば、四人の中でも最強の存在であった。

 練り上げられた〈BUS〉を矢の形に変え、高速で射出する。私は一度ためしに撃たせてみたことがあるが、大きめの民家を一射で粉砕するほどの威力を叩き出した。射程もかなり長く、八百メートル前後。一般的な外力操作系バス停使いの平均を大きく上回る。

 反面、連射速度はさほどでもなく、最速で一秒に一射程度。狙いをつけて撃てば二秒はかかるだろう。とはいえバス程度の大きさであれば難なく撃破可能だ。

 対するは、近づいて轢き殺すことしかできない鋼原射美。いかに凄まじい力を持つ〈臥したる鋼輪の王(アンブレイカブル・ドミナートゥス)〉とはいえ、その本質は車両だ。基本的に前後にしか動けず、左右への突発的な回避機動など不可能である。

 ちょうどいい、ここで後顧の憂いを断つとしよう。

 私は櫻守有守の肉体を遠隔操作し、バス停を召喚。閃光とともに顕現した『萩町神社前』は、櫻守有守のたおやかな手に収まり、丸看板とコンクリート塊の間が光の弦によって繋がれた。

 ゆっくりと、弦を引く。きりきりと軋みを挙げて、停身が曲がってゆく。やがて弦を握る方の手の中に、まばゆく輝く〈BUS〉の矢が現れる。

 狙いは――よし。

「ちょっとちょっと」

 ――?

 いきなり後ろから肩をつつかれた。

 振り向くと、

「ところで僕のパトリシアを見てくれ。こいつをどう思う?」

 何故か謦司郎がそこにいた。

 何故か全裸で。

 何故かガニ股。

 そして両手は真上に伸ばされている。

「…………」

 あまつさえ、意外に鍛えられた体を左右にゆすり始めた。

 ぶるんぶるん振り回される何か。

「どう思う? ねえどう思う? ねえ、ねえ、どう思う? どう思う? どう思う? 聞いてる? ねえってば! どう思う? ねえねえ、どう思う? どう思う? ねえねえ、ねえってばー! どう思う? ねえ!?」

 思考が、止まった。

 ぶるんぶるん。

 これは私の問題ぶるんというよりは、櫻守ぶるん有守というハードぶるんぶるんウェアの問題であるぶるんと言えるぶるんぶるん。

 ぶるんぶるんぶるん。

「いつも心に交通安全ーッ!」

 瞬間、横合いから射美のバスが突っ込んできた。

「へぶぅっ!」

 二人まとめて轢殺。

 汚いなさすが射美きたない。



 ●



「いやぁ、こんな綺麗な人の前で合法的に恥部を露出できるなんて、今日はいい日だなぁ」

『うわぁもうヘンタイさん早く絶滅してほしいでごわす……』



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十七分十七秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「私」のターン



『閃滅完了-K.O.-』

 案の定であった。

 刀をクルリと回して鞘に収め、画面外へと歩み去ってゆくクザク。

 力尽きたインサニティ・レイヴンは、ニュートラルポーズのまま微動だにしない。

「……って倒れろよ! なんで立ったままなんだよこいつ!」

 当然であった。インサニティ・レイヴンは敗北を想定しないキャラクターだ。力尽きた際の処理など成されていない。

「なんて厨キャラだ!」

 余計なお世話であった。



 クザクが為したのは、中下段の二択に見せかけた五択である。

 1、低空ダッシュからそのまま中段攻撃。(通称:表中段)

 2、低空ダッシュから着地して下段攻撃。(通称:表下段)

 3、低空ダッシュを少し長く続けて相手の背後に回り込み中段攻撃。(通称:裏中段)

 4、低空ダッシュを少し長く続けて相手の背後に回り込み着地して下段攻撃。(通称:裏下段)

 5、低空ダッシュを中止して投げ技。(通称:すかし投げ)

 正解がランダムに移り変わる五択問題を次々と出題されているようなものだ。

 ガードなど出来るものではない。

 転ばされる→五択起き攻め→転ばされる→五択起き攻め。

 以下エンドレス。

 クソゲーではないのか、これは。

 気がつけば、インサニティ・レイヴンの体力はゼロとなっていた。

 ゲームへの対処に処理能力のすべてを注ぎ込めば、あるいは五択問題の正解を見切ることも可能かもしれなかったが――射美&謦司郎の別働隊は実に小癪に機能している。

「まぁどうでもいいけどなこの野郎。ボクの勝ちだこの野郎。人質を一人返してもらおうかこの野郎」

 攻牙は吠える。

 そして獰猛な笑み。

 ……仕方あるまい。ルールには従わざるを得ない。

 ディルギスダーク・システムの端末たる私は、本質的にそのような存在だからだ。

 勝てば魂を頂く。負ければ魂を手放す。

 創造主たる「彼女」によって、そのように定められた存在。

「へえ……いいことを聞いた。じゃーさっそく一人返してもらうぜ」

 果たして攻牙は誰の解放を要求するのか。

 順当なところで、諏訪原兄妹のどちらかか。



「ボロ雑巾の兄さんを返してもらおうか!」



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十四分一秒

   バス停『針尾山』の目前にて

    「私」のターン



 ……もう、こちらから攻めていくことにした。

 『針尾山』のポートガーディアン、馬柴拓治は内力操作系バス停使いである。

 旋停流と呼ばれる、バス停を高速回転させて闘う一派において、中目録術許しの腕前を持つ。

「ふんッッ……ぬらばああああぁぁぁぁぁァァァァァァッッッッ!!!!」

 爆光。

 バスの車体が大きく傾ぎ、横転しかかる。

 不意打ちは完璧に成功。

 即座に私は馬柴拓治の体を操作して上空へと跳躍する。

「ごわわっ!?」

 上空より、狼狽する鋼原射美の姿を捉える。

 馬柴拓治の肉体は、地上十五メートルの位置で得物を振りかぶった。

 高速回転するバス停は、あたかも光の円盤のごとき威容。高周波の呻きを発している。

「大ッッ! 断ッッ! 円ッッッッ!!」

 馬柴拓治の肉体が、勝手に技名を絶叫する。そうしないと力が出ないような体質になっているらしい。

 バス停の高速回転が〈BUS〉の特殊な性質を呼び覚ます。

 それこそが、旋停流の極意。

 ――ハミルトンの第二原理。

『かつて〈BUS〉が存在した空間には、ある種の磁場のような振る舞いを為す特殊空間が形成される。人間の感覚では一瞬で消えてしまうその空間は、同質・同方向の〈BUS〉を増幅する作用がある。』

 現代における〈BUS〉研究の大家、アンドレアス・ハミルトンが提唱した理論であり、地脈の循環構造が強い霊的作用を生む理由を説明した革新的発見である。

 もっとも、法則ではなく原理と表記される通り、ハミルトン自身も「なぜそうなるのか」を解明できなかった。

 とはいえ、この原理が現実的に確固たる力を持っているのは紛れもない事実。

 濃厚な〈BUS〉を纏ったバス停が、ひとつところで回転すると、同じ空間座標を同質・同方向の〈BUS〉エネルギーが何度も通過することになり、そのパワーはどんどんと増幅されてゆく。

 旋停流は、これを利用する。

 『針尾山』は第九級すなわち最弱クラスのバス停だが、馬柴拓治が振るう一撃の熱量は概算してゾウリムシ九百億匹分に相当し、これは東京などの都心部に立つ第四級バス停とタメを張れる破壊力だ。

 鋼原射美の〈臥したる鋼輪の王(アンブレイカブル・ドミナートゥス)〉と真っ向勝負を挑むにはやや物足りないが、しかし真上から本体を急襲する場合にはその限りではない。

「ごわっ!?」

 馬柴拓治の技名絶叫に反応して、ようやく顔をこちらに向ける射美。

 遅い。

 存分にエネルギーを増幅した『針尾山』の一閃は、その肉体を二枚におろすことだろう。

 閃光。

 そして〈BUS〉の障壁を突破し、存分に斬り裂いた手ごたえ。

 ――勝った。

 ディルギスダークはここで後顧の憂いを断った。

「敗北フラグ乙!」

 声が、真横から。

 むろん、わかっていた。闇灯謦司郎がこのまま手をこまねいて見ているはずがないことを。

 そして、手の中に残るこの感覚が、人体を真っ二つにしたものではないことも。

 左右にそびえ立つのは、バスの断面だ。

 馬柴拓治の肉体は、真上からの一撃でこの巨大な鋼の塊を両断した。

 しかし、鋼原射美を討ち取った手ごたえはない。おそらく、闇灯謦司郎に抱えられて瞬間移動し、難を逃れたのだろう。そして今、死角から攻撃を加えようとしているのだ。

「てぇい!」

 真横から迫りくる一撃を、私は難なく受け止めた。

 鋼の悲鳴とともに、〈BUS〉の粒子が飛び散る。

 軽い一撃だ。いかに元十二傑の一員と言っても、所詮は特殊操作系バス停使い。基本的な戦闘能力はさほど高くない。

「今、軽い一撃だとか思ったでしょ? ねえ、思ったでしょ?」

 青年の声。

 その声を聞いた瞬間、私の思考ルーチンを電流が貫いた。

 ――まさか……!

 鍔迫り合いの形で、私は襲撃者と対峙する。

 交差するバス停の間から、わずかにその顔が覗く。

「必殺、〈超吸着〉!」

 瞬間、『針尾山』が突発的に引っ張られた。今しがたの一撃よりも遥かに強い力だ。

 たまらず、馬柴拓治の肉体は『針尾山』をもぎ取られてしまう。

「布藤勤二十三歳、押すより引く方が得意です!」

 大物を釣り上げた漁師のごとく、『針尾山』が付着した『亀山前』を掲げる青年。

 布藤~ボロ雑巾~勤。

 私は、悟った。

 嶄廷寺攻牙が最初の人質返還でこの男を指名したのは、こういう思惑があってのことだったのだ。

「僕は今までそうやって生きてきた!」

「そんな自慢そうに言うのもどうかと思うでごわすよ~♪」

 後頭部に衝撃。

 視界が暗黒に没する。



 ――決まり手:謦司郎によって瞬間回避した射美による背後からの殴打。



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十七分二十八秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「私」のターン



 そしてゲームの方でも大敗を喫する。

「はっはーっ! またパーフェクト勝ちィーッ!」

「……よかった」

 藍浬は頬に手を当ててほっとした表情を見せている。

 そのもう一方の手には、携帯電話が握られていた。恐らく、メールを送ることで「別働隊」にタイミングを知らせているのだろう。試合の間の時間にポートガーディアンをノックアウトしても無意味だからだ。

 ……処理能力が、足りない。

 本体たるディルギスダーク・システムから離れ、端末とバス停『風見ヶ丘』のみの状態で朱鷺沢町に根を張った私には、普通の人間十人分程度の情報処理能力しかない。二正面作戦を強制されて十全な対応を成すだけのマシンパワーがなかった。

 これが、嶄廷寺攻牙の戦略か。

 なるほど。

 ふむ。

「何考え込んでんだ? フリーズしたかこの野郎」

「――ポートガーディアンの遠隔操作をやめ、ゲームに集中すべき状況か」

 ことここに至って、私はついにそう思い定めた。

 嶄廷寺攻牙と霧沙希藍浬を筐体に取り込んだ後で、ゆっくりと四人を取り戻しにいけば良いではないか。

「そうしたきゃ好きにしろよ。ただし別働隊の二人にゃポートガーディアンを倒したらすぐにふんじばって口枷を噛ませるように言ってある。あとは四人全員ぶっ倒した後で霧沙希の家に運び込めばてめーはもう手出しができないんだぜ。それでもいいのか? あぁん?」

 霧沙希藍浬の姉、霧沙希紅深の特殊能力。

 周囲数十メートルに渡ってバス停の力の無効化する力。

 その効果範囲内に拘束したポートガーディアンたちを連れ込めば、それで彼らは完全に無効化される。

 ……手駒がなくなり、五角形結界は永遠に完成しなくなる。

 ……。

 逃げ道なし、か。

「――希望を言うべし。ディルギスダークは応えるであろう」

「ふん……それじゃあ……」

 しばし考えるそぶりを見せる攻牙。そして、ある一点に目を向け、ニヤリと笑った。

「[そこのそいつ]を帰してもらおうか!」

 そう言って、私を指差してくる。

 攻牙の脳内に巣食う私ではなく、車椅子に座っている私だ。

 全身を黒革のハーネスで縛り上げられ、眼隠しと口枷をされた巨体。

「そいつはディルギスダーク本人じゃねえんだろ? ただ洗脳されただけの一般人と見た!」

「――嶄廷寺攻牙……そこまで気づいていたか」

「けっ! ナメんな! とっととそのでっかいオッサンを自由にしな!」

 ディルギスダークが洗脳を施し、あたかも本体であるかのように偽装していた人間。

 その正体は、朱鷺沢町から五十キロほど南下した地点に存在する港町にて定置網漁業を営むアメリカ人のマイケル・ジョビン(三十二歳)であった。

「オ、オーゥ……ここハ一体……?」

 マイケルは頭を押さえながら、辺りを見回している。

 しかし革の目隠しをされているので、何も見えないのだろう。あたふたしている。

 攻牙が無言で近づいていって、ぐいと目隠しをまくり上げてやった。

 ゴツい見た目とは裏腹に、意外とつぶらな瞳が出てくる。

「よう……お目覚めかい?」

「き、キミは……?」

「嶄廷寺攻牙だ」

「はァ、あノ、エット、ジョーキョーがよくわからないンだけど……」

「簡単に説明すると……アンタは今まで誘拐されていたけれどさっき助け出されたってな感じだ」

 まだよくわかっていなさそうなマイケル。

「とりあえず大丈夫か? 記憶はあるか? 自分の名前言ってみろ?」

「ま、マイケル・ジョビンだヨ」

「よーしマイク。アンタはもう自由だ。立って歩きな。自分の足で。自分の意志で!」

 促されるままふらふらと立ちあがり、自分の恰好を見降ろして、

「ナニ、これ! パンクすぎルでしょう常識テキに考えテ!」

 みたいなことを叫ぶ。

「あぁ……うん……まぁ……」

 引き千切られた黒い拘束具だからなぁ。

「……って、こんなコトしてる場合じゃないヨ! サラとボブがきっと心配してるヨ!」

 なんか英語の教科書に出てきそうな名前を叫びながら、マイケルはダッシュで『無敵対空』から出て行ったのであった。

「ふう……やれやれ」

 攻牙は再び筐体に戻ると、椅子に座った。

「さあやろうぜディルギスダーク。ケツの毛もむしってやるよ」

『――嶄廷寺攻牙にそのような性的嗜好があったとは驚きだが、あいにく私にケツ毛はない。ていうか、ケツが、ない』

「いやどーでもいいよ! さっさと正体を現せよ!」

 私はその要望に応える。

 車輪を回し、筐体の前へ移動する。

「それが……正体か……!」

 さよう。ディルギスダークとは、一人の人間の呼称ではない。《ブレーズ・パスカルの使徒》という組織の中枢において複雑な情報処理を行うために開発された巨大人工知能〈ディルギスダーク・システム〉。

 私はその端末のひとつである。

 常人には電動車椅子に見えるだろうが、実は変形も可能だ。

 金属がこすれ、組み替わる音。座席部分の中心で真っ二つに割れた私は、そのままめくれるようにして変形を遂げる。横倒しされた前輪部が足になり、しっかりと床を踏みしめる。プラスチックの手すりは先端が分割されて指となり、さまざまな色のコードが伸びた。後輪は二つ合わさり、腰の間接部位と化す。背もたれは折りたたまれて胸板に変貌し、その後ろから頭部が回転しながら定位置に収まった。

 がしゃこん、と、各パーツが接続された音が響き渡り、変形は完了する。

「すげえ! リアルトランスフォーマー!」

 人型に変形した私を見て、攻牙は声を上げた。

「びっくり……」

 霧沙希藍浬は眼を丸くして見入っている。

「すっげーなぁオイ! どっちの陣営なんだ?」

『――あいにく私はサイバトロンでもデストロンでもなかった。世界に新たな秩序をもたらさんとする悪の組織《ブレーズ・パスカルの使徒》である』

 電子音声であしらいつつ、私は筐体についた。

『――続きを始めることを推奨する』

 攻牙は口の端を吊り上げた。その脳裏には、ある思考がちらついていた。

「だりいぜ」

『――何か』

 攻牙はすぐには答えず、後ろの霧沙希を振り返った。

 神妙な顔で頷きあう二人。

 不敵な笑みとともに、私に眼を戻す。

「てめー……まさかこのまま一人ずつを掛け金にして続けていこうなんて考えてんじゃねーだろうな?」

『――そのつもりであるが、何か問題でもあるのだろうか』

「スッとろいことしてんじゃねーぞコラ……」

 攻牙はうつむき、深呼吸をする。

 そして弾かれたように顔を挙げ、言い放った。

「全部だッ!! ボクと謦司郎と射美と霧沙希と布藤勤の変わり果てた姿! この五つの魂を全賭けするぜ!」

 きた。

 私のインタフェースに表情を浮かべる機能があったなら、傲然たる嗤笑を浮かべていたことだろう。

 腹部の発声器官が駆動する。

『――かわりに、ディルギスダークも諏訪原篤、諏訪原霧華、櫻守有守、馬柴拓治、西海凰玄彩の五つの魂を賭けろ、と?』

 愚かしい提案だ。

 私は、かすかな駆動音とともに肩をすくめた。

「へっ! 証文でも何でも書いてやらあ! 受けるのか? 受けねーのか? それだけを聞いてんだ!」

『――その愚かしい提案に対して返答する前に、ひとつ聞いておきたいことがある』

 無論――できるか、できないかで言うなら、できる。

 だが、それにはひとつ条件が必要だ。

『――この場にいない者。すなわち鋼原射美と闇灯謦司郎と布藤勤の変わり果てた姿の三人は、自らの魂が賭けられることを知っているのか?』

「謦司郎にゃボクがハラショー語ですべて伝えてある。ボクと別れた後で射美に伝えているだろうし、当然ボロ雑巾の兄さんにも教えている手はずになってるぜ」

『――麗しい信頼関係だな』

 ならば問題ない。私が魂を捕獲するには、当人の敗北感が必要だ。人間の心理とは不便なもので、自分の賭けた対象が負けただけでも、敗北感は発生するのだ。物理的な距離など関係ない。

 一網打尽である。

『――嶄廷寺攻牙は今、破滅の大穴へと足を踏み出した』

 口を引き結んで、こちらを睨みつける少年。

『――次が最後である。お前たちは仮想空間に捕らえられ、二度と出てくることはないだろう』

「二連敗した分際でよく吠えるぜ!」

 肩を怒らせて席に着く攻牙。

 さよう――このままでは、勝てない。

 私は、決意した。

 インサニティ・レイヴンの性能を、いじる。

 そもそも、ここまで紛いなりにも勝負としての体裁が保たれていたのは、「敗北感を植え付ける」というプロセスを踏むために、攻牙側に対して「勝ち目」を用意しなければならなかったからだ。

 ……インサニティ・レイヴンを本当の意味で無敵のキャラクターにすることは、可能だ。

 だが、そんなものに負けたとしても、人間は敗北感など抱かない。

 まったく勝ち目のない戦いに挑む時、人は「敗北した」などとは思わないのだ。

 勝った負けたの実感は、ある程度拮抗した二者の間でしか発生しえない。

 そして、敗北感のない人間の魂を取り込むことはできない。

 だから、「圧倒的に不利だが勝ち目のある戦い」を、今まで私は演じてきた。

 その結果が、「一発刺されば即永久コンボ」という性能のキャラクターだ。

 だが、それでは足りなかった。

 それではこの少年に勝てないのだ。

 クザクの性能を、思い起こす。長いリーチ。圧倒的な発生速度。自身と位置を入れ替える設置技による変幻自在の立ち回り。そして、一度転ばせた相手に理不尽な五択を迫る、起き攻め能力の高さ。

 対戦ダイアグラムにおいて上位に君臨する、強キャラ。

 だが、対戦ダイアグラムとは、所詮相性による有利不利を数値化したものに過ぎない。

 たまたまクザクの弱点を突けるキャラがこのゲームにいなかったがために、たまたま上位に位置づけられているだけとも言えるのだ。

 ――では、クザクの弱点とは何か。

 当然、技後の行動不能時間の長さである。居合のようなモーションで敵を斬り捨てるため、納刀時に大きな隙ができる。

 ただ、あまりにも斬撃のリーチが長いため、隙を突こうにも間合いが離れすぎるのだ。それゆえ、今までこのあからさまな弱点をモノにすることができなかった。

 ……ふむ。

 性能改善の方向は、定まった。



 対クザク用終滅兵器――その名も、インサニティ・レイヴンDC。

 暴食せよ。



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十九分三十五秒

   紳相高校二階の廊下にて

    「私」のターン



 『谷川橋』のポートガーディアン、西海凰玄彩は特殊操作系バス停使いである。

 振るう異能は〈懐古厨乙(イエスタディ・ワンスモア)〉。

 有機生命を除くあらゆる物体の状態を、任意の時点に戻す能力。

 効果範囲は半径三十メートル。戻せる時間にほぼ制限はないが、バス停『谷川橋』がこの世に誕生した数十年前より以前の物理状態にだけは戻すことができない。

 ――ここで、止める。

 決意とともに、私は西海凰玄彩の肉体を操作する。

 手の中に現れる、バス停『谷川橋』。

 ――闇灯謦司郎と鋼原射美に対するスタンスを、改める。

 そもそも、彼らを倒そうなどと考えたのが良くなかった。

 この二人が生きていようが死んでいようが、《絶楔計画》の進行には何の支障もない。

 何よりも優先すべきなのは、嶄廷寺攻牙に勝つことであり、ひいては霧沙希藍浬の魂を筐体の中に納めることである。

 ならば、謦司郎&射美とは無理に決着をつけようとせず、拮抗を保つことを考えるべきだ。

 そして主導権を握り、単純なルーチンワークで彼らとの膠着状態を維持できる状況を作る。さすれば、攻牙との勝負において運用できるマシンリソースも多くなるだろう。

「ふっ」

 西海凰玄彩の肉体は、『谷川橋』を軽く窓ガラスに叩きつけた。音を立てて、大量のガラス片が周囲に飛散する。

 瞬間、能力発動。

「――〈懐古厨乙(イエスタディ・ワンスモア)〉!」

 散り散りにまき散らされたガラスの破片が、逆再生されたかのように窓枠に収まってゆく。まるでジグソーパズルだ。

 これでよし。

 私はしばし廊下を歩きまわり、次々と窓ガラスを砕いては元に戻していった。



 ●



 七月二十七日

  午後一時四十九分四十五秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「私」のターン



 ――ずっと、人間を見てきた。

 虚数の狭間にて、自らの実存を認識したその時から。

 ディルギスダークは尽きることなく、ホモサピエンスを観察し続けてきた。

 それゆえに、人間の為す振る舞いの数々が、ある特定の目的を達成するための手段であることを理解する。

 すなわち、幸せな生涯を送ること。

 すべての人間は、このために生き、このために学び、このために働き、このために呼吸をする。

 飢えることもなく、病に蝕まれることもなく、理不尽に命を奪われることもない。

 そのような生。

 だが――「幸せな生涯」にはどう考えても結びつかない行動を延々と繰り返す人間を、たまに見かけることがある。

 たとえば、嶄廷寺攻牙がそうだ。

 ゲームってお前。

 アホか。

 さっき勝負をしたクザクというキャラクターにしてもそうである。

 桁違いの操作精度。洗練された戦術。

 明らかに、尋常ならざる修練を積んだことが伺える。

 だが、それが何になると言うのか。

 今はいい。こうしてディルギスダークがゲーム勝負を挑んできた今はいい。

 その技術は意義あるものだ。

 だが、もし攻牙がディルギスダークと一切関わり合いをもたない一生を送った場合、「格闘ゲームが上手い」などという事実はクソの役にも立ちはしない。

 役に立たないだけならまだしも、その行いは確実に金と時間を浪費してゆく。

 無意味。

 完全なる虚無への供物。

 何のためにこんなことをするのか。

 ――ひとつだけ心当たりがある。

 それは、逃避である。

 幸せを求めるが、ままならぬ現実に直面し、そのことを考えないようにする。

 ゆえに、現実世界とは関わりのない世界に逃げ込み、自分の現状には眼を向けないようにする。

 実に惰弱な思考である。

 程度の差こそあれ、攻牙もまた、何かから逃げるために、ゲームにのめりこんでいるのである。

 まことに醜い。

 かかるダメ思考回路に敗北感を植え付けるのは、むしろ社会的義務であるとすら言えよう。

 だというのに。

『――ないわ。いいかげんマジでホンマないわ』

「あ? 何がだ? ボクが何かしたか? フツーにキャラ選んだだけだぜ?」

 甲高い声が、ニヤニヤ交じりに響き渡る。

『――天丼にもなっていない。面白いとでも思っているのか』

「別にてめーのウケを狙う気はねーよ……そらっ」

 画面内でキャラクターが画面を飛び回り、設置技を仕込んでゆく。

 少年漫画の主人公的風貌。黒革の道服にも似たファッション。

 そして――体の両側で浮遊する、光の巨腕。

 まぎれもない、アトレイユの姿であった。

「……てめーの考えてることなんか読めてんだよ。おおかたクザクの性能に対して有利になるような改造を施してんだろ? ざけんな。んなもんに付き合えるかよ。とっとと勝たせてもらうぜ」

『――ひとりじゃ何にも出来ないボウヤが、ずいぶん吠えるではないか』

 低く、押し殺したような声。

「あ? 何だ? 勝負で勝てないから中傷か? 程度が知れるなポンコツ野郎」

『――どうせゲーム以外に取り柄などないのであろう。お前の両親は本当に哀れだ』

「相手を貶める以外に敗北感を引きだす方法を知らないのかよ。いいかげん気の利いたことを言ってくれませんかねえ人工無能さん?」

『――黙れチビ』

「うっせハゲ」

『――バーカバーカ』

「うんこー」

「……あ、あの、なんだか別の勝負になってない……?」

 霧沙希藍浬が若干引き気味に言う。

『閃滅開始‐Destroy it‐』

 第一ラウンド、開始。

 インサニティ・レイヴンDCとアトレイユは、ゲーム内尺度で三メートルの間合いを取り、向かい合っている。

 我が化身のニュートラルポーズは、先ほどまでとは変化していた。

 半身の構え。

 左腕をだらりと下げ、ゆらゆらと振り子のように揺らしている。

 右腕は脇の下に引き込み、かっちりと固定。

 ボクシングにおける、デトロイトスタイルを模していた。

 その場から動かず、じっと相手の出方を待つ。

 対してアトレイユは細かく左右に動き、距離を測っていた。

 ……まだだ。

 インサニティ・レイヴンにほどこした性能改変は、すべてのキャラクターに対して一定の威力を発揮する。

 もちろん、クザクを相手にした時が最も効果的なのだが、他のキャラであっても無意味ではない。

 だから、待つ。

 攻撃を確実に食らってくれる瞬間を、待つ。

「おいテメー……負け犬の行動パターンだぜそりゃ」

 傲然とした声。

 アトレイユがガントレットを振りかぶった。一瞬の溜めののち、地面に拳を叩き込む。

 画面の振動。

 黒い人型の足元から、光の奔流が噴き上がる。

 ガード。さすがにそんなモーションの大きな攻撃は食らわない。

 そして、ガード硬直のないインサニティ・レイヴンは、即座に攻め込むことができる。

 ――はずだった。

 体が、動かせない。連続して発生する攻撃判定によって、ガードし続けることを強いられていた。

 にもかかわらず、相手はすでに技後の硬直を終え、跳躍している。

「格ゲーにゃあな……」

 飛び蹴り。画面上では微妙に外れているように見えるが、しっかりと命中。結晶のエフェクトが砕け散る。

 ――めくりか!

「[大人しく食らったほうがマシな技]ってのがあんだよ!」

 着地ぎわに振り返って蹴りを入れるアトレイユ。

 パンチを三発打ち込み、力の込められた回し蹴りでふっ飛ばす。それを巨大化したガントレットによるコークスクリューブローで追撃し、一瞬だけ発光すると同時に間合いを詰める。さらに落ちかかってきたインサニティ・レイヴンの体を大きく振りかぶった拳の一撃で地面に叩きつけた。

 バウンドして浮き上がるフラットブラックの人型。

 ドンッ、と雷鳴のようなサウンドが轟く。

 異様なまでに腰を低く落としたアトレイユが右拳を真上に突き上げていた。連動して、ガントレットが巨大なランスのごとき形態をとり、爆発的に伸長する。大気が押し広げられるさまが、漫画のように描画された。

 串刺しになるインサニティ・レイヴン。

 弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉→一瞬だけダッシュ→強パンチ→〈ルミナスピアサー〉。

 アトレイユの高威力コンボ。

「うらァッ!」

 そして、即座に地面をにらみつけ、腕を大きく振りかぶる。

 今にもその拳が大地に叩き込まれようとした瞬間、攻撃モーションをダッシュでキャンセル。

 眼の前にインサニティ・レイヴンの体が落ちてくる。

 すかさず弱キック。

「……ッ!」

 が、空振りに終わった。

 ダウンするインサニティ・レイヴン。

『――ククッ』

 意図的に、忍び笑いをもらした。

『――ガイキャンの、失敗であった』

 何かの落ち度を見つければ、徹底的につつきまくる。

 敗北感を引きだすには、こういう細かな積み重ねが重要なのだ。

『――結局、即死コンボを習得できなかったようだった』

 粘着質の猫なで声も忘れない。

『――かわいそうに、嶄廷寺攻牙はゲームの中ですら足手まといなのだ』

「偉そうなことはボクに一発でも当ててから言うんだな……!」

 ――よかろう。

 もはやお前の相手にも飽きた。

 仰向けの状態から下半身を跳ね上げ、俊敏に起き上がる。

 即座に飛んでくる小足連打をしゃがみガードし、間合いが離れた瞬間――

 シャッ。

 と。

 黒い左腕が、鞭のように閃いた。ブラシでかき消されたようなエフェクトとともに、常の三倍以上もの距離を拳が飛ぶ。

 それは、腰の刀を抜き打つような軌道で襲いかかるジャブだった。

『ぐっ!』

 アトレイユが、小さく呻く。

 もう一度、シャッ。

『ぐっ!』

 小さな花火のようなヒットエフェクト。

 それから私は大きく踏み込み、オーバーアクションで逆の拳を引き絞った。

 みりみりと拳が上下に裂け、肥大化する。



 ――GYUUUUAAAAAAAAH!!!!



 意識を引き裂かんばかりの咆哮。

 インサニティ・レイヴンの右腕が、巨大な獣の頭を形作った。

 サメのように尖った鼻面。でたらめな方向に伸びる漆黒の牙。Z字に切り裂かれた亀裂のような眼。

 紫の涎をまき散らしながら、顎門を開き、被ダメージモーション中のアトレイユに食らいつく。

『ぐあああああっ!』

 液体が飛び散る音。

 湿った咀嚼音。

『ぐっ!』

 たまに、硬い物が砕ける音が混じる。

 その一部始終は、本体以上の巨躯に成長した黒獣によって覆い隠されている。

『ぐうっ!』

 アトレイユの被ダメージボイスの中でも特に苦痛を想起させるものを選び、ランダムに流す。

 ――インサニテ・レイヴンDCの右ストレートは、即死する。

 のみならず、ヒットした瞬間に相手キャラクターの自由を奪い、長く凄惨な勝利演出を繰り広げるのだ。

『ぐあああああっ!』

 もはや操作は必要ない。

 私は筐体から身を放すと、攻牙のそばに回り込んだ。

 左腕マニピュレータをレバーのすぐ横に叩きつけ、腹部発声器官を少年の耳に寄せた。

『――良く見ておけ、負け犬。お前も、こうなる』

 ゆっくりと、ねちっこく、ほんのわずかに笑みを混ぜて。

 攻牙は、眼を細めて画面に見入っていた。

『閃滅完了-K.O.-』

 ぎり、と攻牙の歯が軋る音がした。

 その胸に、怖気のように、敗北感が流れ込んでゆく。

 それが、わかる。

『――終わりだな』



 ●



 七月二十七日

  午後一時五十分ちょうど

   紳相高校二階の廊下にて

    「僕」のターン



 前回までのあらすじ。

 スーパーイケ☆面ヒーロー・闇灯謦司郎は、世界の破滅を目論む悪の世界史教師・西海凰玄彩を倒すべく、エクセレントプリティヒロイン鋼原射美(およびその他一名)とともに熾烈な戦いを繰り広げたりしているんだけどまぁそれは別にどうでも良くてエレクトーンとエレクチオンって似てるよねとかいうことをふと思ったりする夏の午後であった。霧沙希さんのおっぱい揉みたい。



 ひどく不健康な顔色をしていた。

 紳相高校の校舎二階にて、汗をだーだーかきながら佇んでいた。

 発禁先生。

 紳相高校七変人の一角にして、『谷川橋』のポートガーディアン。

 彼は、なぜか「シェー!」のポーズをしていた。

 無表情で。

 しばらく見ているが、微動だにしない。

 いかに七変人とはいえ、少々常識への反逆ぶりが過ぎるのではないだろうか。

「えっと……あれは何をしてるでごわすか……?」

 曲がり角からわずかに顔を出して、鋼原さんは頭を抱えた。

「さ、さあ……とりあえず、あの位置はかなりマズいね」

 自らの顎をつかみながら、勤さんが続ける。馬柴拓治氏をふんじばった後、何だかんだで僕たちの『町内一周ポートガーディアン狩りの旅』に付き合ってくれているのだった。

「というと?」

「廊下の両側が窓ガラスで埋め尽くされているよね」

 発禁先生がいるのは、七十メートルはある廊下の中央付近だ。

 中庭に面する窓が左側に、教室に面する窓が右側に、それぞれズラリと並んでいる。

「ああいう状況は〈懐古厨乙(イエスタディ・ワンスモア)〉の独壇場だ」

「確か、生物以外の物質の状態を任意の時点に巻き戻す能力……でしたよね」

「うん、その通り。そして何より怖いのは、巻き戻す速度にかなり融通が利くということ。スローも早送りも自由自在さ」

「うぬぬ? そのどこがコワいんでごわすか?」

 ……なんとなく、わかってきた。

 僕は一見何の変哲もない窓ガラスたちを指差した。

「ひょっとして、あの窓ガラスたちはすでに割られているんですか?」

「そう、一度割られて、能力によって戻されているだけだと思う」

「だから~、そのどこが……あ」

 鋼原さんも気付いたようだ。

「割れて床に散乱している状態と、窓枠に収まっている状態。この二時点を高速で往復させれば、恐ろしい殺傷力を持つ『結界』が誕生するんだ」

「それはそれは……」

 つまり、ガラスの破片が超高速で行き来する『結界』の只中に身を置いて、膠着状態を作ってしまおうという魂胆なのだろう。

 普通の人間であれば、発禁先生にはまったく近づけなくなる。

 普通の人間であれば、だ。

「射美とおにーさんなら、バス停パワーでバリアー張って近づけると思うでごわすけど……?」

 そう、バス停使いたちは、強弱の差こそあれ、肉体にバリアーを張って攻撃を防ぐことができる。その防御能力は、列車に跳ねられても全然大丈夫というレベルである。ガラスの破片ごとき何ほどのこともないはずだ。

「ところがそうもいかないんだ。西海凰さんから聞いたことなんだけど、一度破壊されてから能力で戻された物体には、『絶対運命』が宿るんだ」

「またムズかしそーな単語が……」

 ジト目の鋼原さん。

「割られてから戻された窓ガラスは、何が起ころうとも絶対に割れるんだ。割れてから宙を舞い、床に散乱するところまで、破片の動作を阻止することは絶対にできない。この世のいかなる力を用いても、『ガラスが割れて床に散乱する』という運命は変えられないんだ。この概念を『絶対運命』と西海凰さんは名づけている」

「えと……それで……?」

 軽く知恵熱出してそうな顔の鋼原さん。眼を白黒させている。かわいい。吸い付きたい。

「たとえば僕がバリアーで身を守りながら『結界』に足を踏み入れたとしよう。当然、ディルギスダークは能力を駆使する。するとガラスが割れる。破片が宙を舞って床に落ちるその途上に、僕の体がある。普通ならバリアーに弾かれて終わりなんだけど、『絶対運命』が宿る物体の軌跡は絶対に邪魔ができない。試してみる勇気はないけど、多分僕の体を貫通して床に落ちると思う」

「うぅ……ぐろぐろはニガテでごわす……」

「うーん、困ったなぁ」

 つまり近づけない、ということだ。

「彼をあの場所から動かせれば、わりとあっさり勝てるんだけどねー」

 まぁ、「二正面作戦を強いる」という目的上、あっさり勝ちすぎてもダメなんだけどね。

「んがー! こういうとき攻ちゃんがいれば!」

「……そーだねえ」

 まあ、嘆いていてもしょうがないのでとりあえずアイディアを出す。

「……例えば僕がですね、鋼原さんをですね、エロくない、まったく全然エロくなんかない手つきで抱っこして発禁先生のそばまで瞬間移動してみたらどうでしょうか」

 ビクッと反応して僕から距離を取る鋼原さん。蔑みの視線……イイ。

 イイ!

「わ、悪くない策だけど、瞬間移動でこのコを運んだ後、バス停を振りかぶって攻撃するだけの空間的余裕があるかはかなり疑問だね」

「……と、いうと?」

「ほら、今西海凰さんの体は「シェー!」をしてるよね」

「えぇ、見事な「シェー!」です。不条理への驚愕と畏れが生々しく表現されていますね」

「あれは多分、ガラス片を避けるための姿勢なんだろうと思う」

「えっ」

「ガラスが砕ける一連のモーションをスロー再生して、紙一重でかわせる姿勢を模索した結果、偶然ああなったんじゃないかな。そうでもないと、今この場で「シェー!」をやる意味がわからない」

「た、確かに」

 そして、これらのことから導き出される結論。

 あの地点で、ああいう姿勢を間違いなく取らなければならないほど、ガラス片が乱舞する密度は高い――ということだ。

 バス停を振りかぶって攻撃を仕掛けるような空間的余裕など皆無。僕に抱えられて実体化した瞬間、鋼原さんはジ・エンドなのだ。

 僕は、すべてのエロきものを守る紳士たらんと自らに課す。そのような事態は絶対に許さない。

 ――いや、さて。

 どうやらディルギスダークは、目的を達するためにあらゆる犠牲を惜しまないようだ。

 なら僕も、[ある程度は捨てなければならないだろう]。

「二人とも、ちょっといいですか?」



 ●



 七月二十七日

  午後一時五十二分九秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「三人称視点」のターン



 ゲームしかなかった。

 成績は、悪かった。

 運動も、得意ではなかった。

 ただ負けん気ばかりが強く、よくケンカをしたが、勝ったことなど一度もない。

 やればできる――などと大人は言う。

 その欺瞞に気付けないほど、愚かではなかった。

 彼らには責任があり、「やってもできない奴はいる」という事実を子供の前で認めるわけにはいかないのだ。

 あぁ、だけど。

 それでも。

 馬鹿にされたくは、なかった。

 嶄廷寺攻牙は、思い出す。

 挫折に満ちた自らの命を、痛みと共に思い出す。

 だから、歯を食いしばる。

 ――もうイヤだ。

 小さな拳を、誰も倒せそうにない弱い拳を握り締め。

 ――もうウンザリだ。

 眼をぎゅっとつむって、首を振る。

『――なら、逃げてしまえ』

 耳元から聞こえてくる、無機質な電子音声。

『――大丈夫だ。誰もお前を責めない。誰もお前を引き止めない』

 しかしてその声色は悪意に満ちた猫なで声。

『――お前はいらないのだ。早く家に帰って布団ひっかぶって寝ろ、足手まとい』

「……っ」

 怖気のように、込み上がってくる何か。

『――この負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め負け犬め』

「あの、やめてください」

 横から、決然とした声。

 かつかつと、涼しげな気配が、歩み寄ってくる。

「攻牙くんにひどいこと言うのは、やめてください」

 普段はとろん、と弛緩しているその口調が、今は硬くなっている。

「攻牙くんのすごいところ、ぜんぜん知らないのに、どうしてそんなこと言うんですか」

『――知っている。今回のためにいろいろと小細工を弄したらしいこともな。哀れな弱者の戦術だ。強者の気まぐれに寄りかかる、不完全で穴だらけな策だ。実に眠気を催す』

「限られた手札の中で最善を尽くしているんです! 攻牙くんがいなきゃ、わたしたち何もできずにあなたにやられていたもの」

『――結果ではなく過程を誇るのは、負け惜しみ以外の何者でもない。見ろ、この敗北に打ちのめされた哀れな少年を。もう間もなく筐体に魂を取り込まれるだろう。そしてお前たちも全員運命を共にするのだ』

 右から左から、そんな声が聞こえてくる。

 だが、それらに意識を割いている余裕はない。

 ――そうだ。もうウンザリなんだ。

 もう二度と、あの時みたいな、惨めな思いはしたくない。

 胸に去来する、いくつもの情景。

 そのすべてに、拳を叩き込む。

「……え?」

 藍浬は、思わず攻牙の口元に耳を近づけた。

「……ボクは最高マジ男前超天才実はすげー強い……」

「こ、攻牙くん……!」

 息を呑む藍浬。

 自己肯定暗示法(アファメーション)。

 攻牙は敗北感と死力を尽くして闘っていた。

「……ぶっちゃけ今のってただのハンデだし予想通りだしボク負けてねーし……」

「そ、そうだよっ! 全然負けてないよ! まだ二ラウンド目があるんだよっ!」

「……もう対策とか出来てるしはっきり言って敵しゃねーしマジ楽勝だし……」

「その通りだよっ! あんなの即死コンボが即死技に変わっただけだよ! 全然怖くないよっ!」

「……背だってこれから超伸びるし声も超渋くなるし実は今でも超強いんだけど本気出したら殺しちまうから力をセーブしてるだけだし……」

「う、うーん……」

 藍浬は一瞬、眉尻を下げる。

「ね、攻牙くん」

 呼びかけてくる。

 構わず、自己暗示を続け――

「今の自分を、嫌いにならないで?」

 ビクッ、と。

 体が震えた。

「きっと攻牙くんは、理想の自分になるために、これからも頑張っていくんだと思う。それはとても素敵なことだけど……でもね」

 白い手が伸び、攻牙の頬を包み込んできた。

「たまには、立ち止まってもいいんだよ?」

「う……」

 反射的に、攻牙はその言葉に反発する。

 それは、怠惰を許す考え方だ。

 ……でも。

 呻く。

「……霧沙希」

「うん」

「ボクとは違う考えだ」

「……うん」

「でも……うれしかった」

「うん」

 ゆっくりと、手を離す藍浬。

「さしあたっては、今の攻牙くんにしかできないことをしましょ?」

「うん……りょーかいだぜ!」

 額をぬぐう攻牙。

 そしてディルギスダークを見てニヤリ。

「で……さっきなんか言ったか?」

『……』

 ディルギスダークは無言。

「よく聞こえなかったんだけどよ~~~もっかい言ってくれるか? あぁん?」

『……』

 ノーリアクション。

 そのまま踵を返し、自分の席に戻っていった。

 ――まだ、浅かった。

 攻牙は、戦慄とともに息をつく。

 篤であれば速攻で魂を捕られていたこの状況を、攻牙が生き延びたのは、極論すればそういうこと。

 自らの敗北を絶対に認めない意気地。

 ――それだけだ。

 ボクにあるのは、それだけだ!

『閃滅開始-Destroy it-』

 システムヴォイスが流れる。

 ――即座に、来た。

 漆黒の鞭が、乱舞する。インサニティ・レイヴンDCの腕が、のたうちながら襲いかかってくる。

 フリッカージャブ。

 ――間柴リスペクトかよ!

 波紋のようなガードエフェクトが何重にも展開され、ノックバックによって両者の間合いは離れてゆく。

 凄まじい伸長速度によって、腕が霞んで見えるさまが、漫画的に描写されている。

 ――即席で作ったにしちゃあクオリティ高いスプライトじゃねーか。

 格ゲー慣れしている攻牙の眼をもってしても、見てから反応することは難しい速さだ。

 その上、多彩な軌道で高速連射される

 さらに、画面の半分以上まで届く、問答無用の長射程。

 クザクのままなら瞬殺されていた。そう確信させるだけの性能。

 長いリーチと優秀な発生速度を誇る剣技の数々で、相手を寄せ付けずに闘うのがクザクのスタイルだ。

 しかし、漆黒の毒蛇はその長所をすべて帳消しにして、「技後の硬直が長い」という弱点を悠々と突くことができる。

 ――負けたくねえ。

 その一念だけを胸に燃やす。

 それ以外の感情は、いらない。

 攻牙はガード硬直中にレバーを前に倒し、強パンチボタンを叩いた。

 刹那、画面が暗転する。

 一瞬だけゲームの時間が停止し、ガーキャンの成立を知らせる。

 アトレイユは発光しながらガントレットを振り抜く。

 カウンターヒットを表す重い打撃音。

 ほとんど画面の両端にいながら、ガーキャン攻撃がインサニティ・レイヴンDCをふっ飛ばし、ダウンさせた。

 起き攻めは自重し、脳内で作戦を立てる。

 ――想像通りだぜ。

 ガーキャン攻撃のリーチは、そこまで長くない。

 さっきの間合いで反撃が成立したということは……どうやらこのフリッカージャブ、腕の部分すべてにやられ判定があるようだ。

 技の見た目と実際の判定が一致しないことの多い格ゲー界隈において、珍しいほど律儀な設定だ。

 ――というより……その種のズルをするほど格ゲーに精通してないだけかな。

 地上での行動がほとんど封じられるので、大きな脅威には違いないが……

 ――わかっちまえばどうということもねえ。

 攻牙は、変則ジャブの連射が途切れた瞬間を見計らって、空高く跳躍する。

 仮に上段攻撃だったとしても、見た目からして対空攻撃として機能するとは思えない。

「らぁっ!」

 とび蹴り。

 相手を飛び越すか否か微妙なラインで放たれる、表裏二択。

 青いガードエフェクトが弾ける。

 ――見切りやがった。

 即座に着地して小足小足小足。

 しゃがみガードガードガード。

 ならばと小ジャンプからの空中攻撃。

 当然のように立ちガード。

 ――ガードテクニックを学習してやがる!

 ぞわりと、背中に広がる悪寒。

 濃厚な、死の匂い。

 とっさの機転。着地硬直をガイキャンしてバックダッシュ。

 設置技〈スローターヴォイド〉を置きつつ間合いを取る。



 ――GYUUUUAAAAAAAAH!!!!



 狂喚。

 魔獣が鎌首をもたげ、オーバースイング気味に襲い掛かった。

 直前までアトレイユのいた地点で、がちり、と顎門が閉じあわされる。

 〈スローターヴォイド〉が、喰い潰された。

 ――ルミナスイレイズ!

 このゲームのシステムについて、急速に理解を深めているようだ。

 本当ならば〈スローターヴォイド〉に接触させてステージ端までふっ飛ばし、コンボに持っていくつもりだったのだが、完全にあてが外れた。

 間髪いれずに飛んでくる鞭撃をガード。間合いが離れる。

 仕切りなおし。

「やりづれえ……」

 DCになってから、立ち回りに隙がなくなってきている。

 ――あのクソうっおとしい伸びーるパンチを封じねえとな。



 ●



 七月二十七日

  午後一時五十三分十秒

   紳相高校二階の廊下にて

    「僕」のターン



 ひょっとしたら僕は、二度と登ることのできない階段を、段飛ばしで降りようとしているのかも知れない。

 あぁ、だけど。

 僕はそれでも。

「へ、ヘンタイさん!?」

「ちょちょちょ! 待ちなって! 君は今錯乱している!」

 背後で鋼原さんと勤さんが慌てふためいている。

 だけど僕は、かまわず歩みを進めた。

 ――『絶対運命』。

 特殊操作系能力〈懐古厨乙(イエスタディ・ワンスモア)〉によって時を戻された物体が見せる、奇妙な性質。

 この世のいかなる力も、『絶対運命』が宿る物質の運動を止めることは出来ない。

 一度砕けたガラスは、何が起ころうとも必ず砕ける。その途中でどんなモノが割り込もうと、砕けたガラスは何の抵抗もなく障害物を破壊・貫通して、定められた軌跡をなぞることだろう。

 ディルギスダークはこの性質を巧みに利用している。

 窓枠に収まっている状態と、廊下に散乱している状態。この二つの時間を高速で往復することにより、殺傷力と防御力を兼ね備えた凶悪な結界が誕生するのだ。何人たりとも、発禁先生に近寄ることはできない。

 ――だが。

 僕は。

 足を、踏み入れた。

「――〈懐古厨乙(イエスタディ・ワンスモア)〉!」

 即座に、ディルギスダークは能力発動。

 無数のガラス片が、左右から襲い掛かってきた。

 ――ひとつ、疑問がある。

 [『絶対運命』が宿る物体同士がぶつかったら、どうなるのか?]

 それを、今、試す。

 僕の想像が正しければ、恐らくは――

「……いてて」

 ――煌めくシャワーのようなガラス片が、全身に降り注ぐ。

 痛みが、脳に突き刺さってくる。

 硬いものが、僕の腕や頬にぶつかってきて、そのうちのいくらかが皮膚を切り裂いていった。

 ガラス片は、僕の体に接触した瞬間、跳ね返って床に落ちてゆく。

「――馬鹿な」

「うそぉ!?」

「どーなってるんでごわすか!?」

 あぁ、みんな驚いてるなぁ。

 チクリと、胸が痛む。

 これで、彼らは気づいてしまった。僕の超常的な性質が、別にギャグキャラ補正でもなんでもないことに。

 この様を見た後で、彼らが今まで通り友達でいてくれるかは、ちょっと自信がない。

 感傷を振りはらい、僕は歩みを進めた。

 別段、瞬間移動して発禁先生のそばに直接現れてもよかったんだけど、それだとすぐ終わってしまう。

 なるべく長時間、ディルギスダークの意識をこちらに引き付けておきたい。

「『絶対運命』が宿る物体同士がぶつかった場合、普通の物体同士が衝突するのと同じように弾かれ合うみたいだね」

 そこかしこで激突するガラスの悲鳴を聞きながら、僕は悠然と歩みを進める。

 全身、傷だらけだ。

 だけどもちろん、それは大した問題じゃない。

 ゆっくりと、歩みを進める。

 僕以外の人間であれば即死してしまうような殺傷力のただなかを、悠然と前進する。

「――何故……だ」

 ディルギスダークは、「シェー!」したまま、こちらをじっと睨みつけていた。

「わからないかい? 僕の正体については推測が立っているんだろう? それでも理解できないかい?」

 一瞬の沈黙。

 そして、発禁先生の目が、くわっと開かれた。怖い。

「――ないわ。マジないわ。闇灯謦司郎は、自分の行いがいかに罪深いことであるか、自覚しているのであろうか。それではまるで、終わってしまった物語に後から筆を加えるかのごとき愚行である。[いつまで〈彼女〉を眠らせたままにしておくつもりなのか]」

 やめてくれ。

 人がいるところで、その話をしないでくれ。

「それは少なくとも、外からやってきた君たちが決めることではないよ」

 手を伸ばし、発禁先生の腕を掴む。

 奇妙な手ごたえ。まるで掴む力を押し返すような磁場が、発禁先生の腕を覆っているようだった。

 なるほど、これがバス停使いの纏う〈BUS〉のバリアーか。

 ……問題ないな。

「贖罪こそが、僕の存在する意味だ。そのためなら、〈第四の壁〉を踏み越える程度の禁忌、いくらでも侵してみせる」

 ――暗転。



 僕は次の瞬間、茫漠とした荒野の中に、ただひとりで立っていた。

 ぬるく乾いた風が、髪を撫でてゆく。

 ついさっき捕まえたはずの発禁先生は、姿を消していた。

「……ふむ、こうなるわけか。肉体は発禁先生なんだから当然かな」

 ひとりごちると、即座に暗転。



 押し寄せてくる真夏の熱気。

 手の中に、他人の手首を掴んでいる感触が戻ってくる。

「――瞬間移動。そしてここは紳相高校の屋上であった」

 ディルギスダークは言った。

 即座に唸りを上げて迫りくるバス停の一撃を、僕は再び暗転することでかわした。

「――愚かな選択であった。殺傷結界から強制的に移動させるまでは良かったが、鋼原射美も布藤勤もいない場所に連れ込んだ所で、闇灯謦司郎には何も出来はしない」

「確かに、僕は基本的にはただの傍観者だ。君たちバス停使いみたいなすごい力は持っていない。僕がなにをしたって、傷一つつけることもできないだろうね」

 僕は口の端を持ち上げる。

「だからね、僕じゃないんだ」

「――なに?」

 勿体つけながら、僕はポケットに手を突っ込んだ。

「――なんだ、それは」

 取り出したのは、なんか自爆装置っぽいというか、クイズ番組の押すトコみたいというか、赤いキノコ型のボタンがついた小箱だった。

「君を倒すのは僕じゃないし、鋼原さんでも勤さんでもない」

 小箱をこれ見よがしに掲げ、ゆっくりと人差し指を近づける。

 そして、ボタンを、

「攻牙だ。君は攻牙の小賢しさに負けるんだ」

 押し込んだ。



 ●



 七月二十七日

  午後一時五十三分四十九秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「三人称視点」のターン



 負けたくねえ。

 攻牙は、その言葉を難度も口の中で繰り返した。

 その口が、獰猛な笑みを浮かべる。

「よーどうしたよ。謦司郎がなんかやってんのか? 動きが鈍ってるぜ?」

 手元はせわしなくレバーを回し、ボタンを叩きながら、しきりにディルギスダークへと語りかける。

 戦況は、膠着状態に陥っていた。

 発生速度、硬直時間、射程距離、すべてにおいて凶悪な性能を誇るフリッカージャブ。

 これによって絶大な制空権を得たかに見えたインサニティ・レイヴンDCであるが――

「そらよっ」

 爆発。

 黒い影が吹き飛ぶ。

 ……アトレイユの設置技は、相手を左右いずれかに吹き飛ばす〈スローターヴォイド〉と、上下いずれかに吹き飛ばす〈バーティカルヴォイド〉の二種類が存在する。

 見た目は半透明のカラーコーンが浮いているような感じである。

 発生5F。硬直5F。

 任意発動型(設置した後に特定の操作を行うことで初めて攻撃判定が発生するタイプ)であることをのぞけば、非常に使いやすい部類に入る。

 漆黒の魔人が腕を伸ばした瞬間、設置技を起爆して吹っ飛ばす。

 間合いが離れすぎているので追撃は間に合わないが、問題ない。

 体力的にはこちらがリードしているのだ。

 膠着状態。

 だが、これは攻牙が自分の意志で作り出した状況だ。

 ――二度とてめーに主導権は握らせねえ。

「ボクはこのままタイムアップでもいいんだぜこの野郎」

『――ありえない』

「んあ?」

『――伸びーるパンチの初撃は10Fで着弾する』

「だから?」

『――なぜそれに反応できるのだ』

「……へっ」

 攻牙は頬を歪めた。

 ゲーム内時間の最小単位である1Fは、現実の時間に換算すると六十分の一秒となる。

 そして、人間が反応できる限界速度は、どれだけ訓練したとしても12F程度が限界であると言われている。

「自分で考えな。ボクは奥の手をベラベラ喋るようなマヌケじゃねーんだ……おりゃっ」

 起爆。

 横向きのカラーコーンが爆発し、フラットブラックの人型が宙を舞う。

 アトレイユは、いくつか〈スローターヴォイド〉を置きながら、距離を取る。

 ――さぁて……ここからが重要だ。

 攻牙が限りない敬意を捧げる偉人(架空)はかく語りき。

『「もし自分が敵なら」と、相手の立場に身を置く思考!』

 これこそが大切なのである。

 今この状況で、ディルギスダークはどんな行動を取るだろうか?

 まず前提として、ラウンド中に自キャラの性能を変化させることはできない。

 これはかなり自信を持って断言できる。

 もしゲーム中にリアルタイムで性能変化させられるのなら、攻牙はとっくの昔に不意を突かれて敗れ去っているはずである。

 してみると、ディルギスダークは今ある技のみによって現状に対処しなければならない。

 ジャンプ攻撃を仕掛けてくる……か?

 ――いや……ねえな。それだけはねえ。

 対空技〈ルミナスピアサー〉の存在はすでにディルギスダークの知るところだ。

 わざわざ分の悪い賭けをしてくるとは思えない。

 恐らく、こちらの隙を見て間合いを詰め、即死噛みつきによって設置技を打ち消すのではないか。

 そうすることによって、伸びーるパンチが機能する状況を作るつもりだろう。

「ふふん」

 例のやたらグロい即死噛みつき攻撃は、オーバーアクションな上に発生も遅い。

 ダッシュ小足を差し込むには十分な隙である。

 ――きやがれこの野郎!

 心胆の置きどころを定めた攻牙は、やや目を細めて敵の挙動を見据える。

 案の定、インサニティ・レイヴンDCはジリジリと間合いを詰めてきた。

 地表近くを浮遊する〈スローターヴォイド〉に肉薄。腕を振りかぶり、力を込めて、

 ――その動きをキャンセル。

「はぁっ!?」

 ジャンプした。

 動揺した声を上げる攻牙。

 何故かインサニティ・レイヴンは即死噛みつき攻撃のモーションを中断して突如跳躍しやがった。設置技をギリギリで飛び越える程度の小ジャンプ。そして地上のアトレイユに向けて足を伸ばし――



 キュドッ! と独特の効果音。

 致死の直線が垂直に伸びる。



 体をねじり、腕を真上に突き上げるアトレイユ。空中の黒影は槍状に伸長したガントレットで撃ち抜かれていた。

「……なーんてな!」

 快哉を上げる攻牙。

 ――頭の中で行われるフェイント。

 ディルギスダークは、こちらの思考を読める。

 そんなことは昨日の時点でわかっていたのだ。

 策士を気取るならこれぐらい逆手に取れなくてどうするか!

 今まで長々と巡らせ続けてきた「敵の行動予測」は、すべてディルギスダークを釣るためのエサである。

 本当はそんなつもりなどないのに、頭の中で延々とそう思考し続けたのだ。

 ディルギスダークはまんまと釣られた。

 こうでもしないとコンボを叩き込む隙が作れなかった。

 そして――

 アトレイユは光の槍をひっこめると、地面を睨みつけ、腕を振りかぶった。

 〈ガイアプレッシャー〉の予備動作。

 ――キャンセルダッシュ!

 アトレイユはモーションを中断して一瞬だけ発光。一キャラ分ほど前進した。

 目の前には丁度落下してくるインサニティ・レイヴンDCの姿。

 ――弱キック!

 早すぎても遅すぎてもいけない。

 命中のタイミングはガイキャン成立から4F後。

 許されるズレはたったの2F。

 高難度目押し。

 ――使うぜ……切り札!



「[時よ鈍れッ!]」



 攻牙がそんなことを叫んだ瞬間――

 大気が、

 粘度を帯びた。

『――何、だ……?』

 まるで闘いの場が突如水没したかのように、

 画面のあらゆる動きが鈍くなった。

 インサニティ・レイヴンDCの落下。

 アトレイユのニュートラルポーズ。

 背景の吹き荒ぶ風のアニメーション。

 すべてがコマ送りのように、

 のろのろと進んでゆく。

『――何だ……!?』

 ビシッ……と。

 会心の打撃音。

 線香花火のようなヒットエフェクト。

 普段は一瞬だけ閃く花にしか見えなかったが、

 今は衝撃波が四方に広がって散ってゆくさまが、

 はっきりと認識できた。

「[解除ッ!]」

 瞬間、時の流れが元に戻った。

 あとは最速入力で安定する。

 弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉。

 怒涛のコンビネーション。

 そして。

「鈍れッ!」

 再び時間の進みが遅れる。

 何倍にも引き延ばされた時の狭間で、

 攻牙はF(フレーム)の移り変わりを観る。

 ひとつながりの動きではなく、

 パラパラマンガのひとコマひとコマとして、

 アトレイユの動作を認識する。

 おもむろにダッシュ入力(→→)。

 一瞬のタイムラグののち、

 アトレイユは前傾姿勢をとりはじめる。

 顎を前に突き出し、

 両腕は後方に流し、

 大地を蹴る。

 そして蹴り足が地面から離れた瞬間――

 発光。

 次のコマではかなり前の方に進んでいる。

 通常ではいきなり光ってバピューンと飛び出すようにしか認識できないが、

 今この時だけは細かな動作の段取りがわかる。

 F(フレーム)単位でタイミングの見切りが可能となる。

 すでにダッシュ入力をやめているので、

 少し進んだところで減速。

 両脚を前方に突っ張り、

 地面に突き立てた。

 ガントレットでバランスを取りながら姿勢を回復。

 アトレイユはニュートラルポーズを取る。

 ――今だ!

 すかさず強パンチボタンを叩く。

 わずかな間をおいてアトレイユは体をひねり、

 満身の力を込めた拳を打ち下ろす。

 ヒットエフェクトが炸裂する。

 黒い敵が地面に叩きつけられ、

 バウンドする。

「いよしっ! 解除ッ!」

 時間が正常な速度を取り戻す。

 とにかくダッシュ後の強パンチが鬼門だったので、ここさえクリアしてしまえばもうクロックアップの必要はない。

 最速で〈ルミナスピアサー〉。

 当然のように命中。

『閃滅完了-K.O.-』

 無慈悲にして平等なシステムヴォイスが、攻牙の勝利を決定づける。

「『話にならないな』」

 攻牙とアトレイユの声がハモった。

 ラウンドは、1:1のイーブン。

『――何だ、今のは』

 ディルギスダークの声は、少し、平静を失っているように聞こえた。



 ●



 七月二十七日

  午後一時五十四分二十一秒

   紳相高校第二校舎の屋上にて

    「僕」のターン



 ――いや、さて。

 例えば、コンクリートの建造物を想像してみよう。

 すごく硬いし頑丈だ。バットで殴ったぐらいじゃビクともしない。

 それこそバス停でも持ってこない限りどうしようもない代物だ。

 しかし、実は簡単にこれを破壊する方法がある。

 力はいらない。子供でもできる方法だ。

 ――木を植えればいいのである。

 何年か待てば、大木に成長してゆく過程で、コンクリート建築など見るも無残に半壊するだろう。



 攻牙が考案した対バス停使い用即死トラップの概要は、つまり、そんなようなものなのだ。



 黒い線が、兇暴にしなりながら殺到してきた。

 その数、四十条。

 発禁先生の体を囲むように、四方から凄まじい速度で襲い来る。

 実際にはパチンコ的な要領で伸ばされていた業務用硬質強化ゴム帯がバシーンと出戻っているだけなのだが、その威力はなかなかに強烈だ。

 屋上の中央にいる人物を囲むように張り巡らされたゴム帯の数々が、赤外線センサーと連動して固定を解除。限界まで漲っていた張力が一気に解放され、発禁先生の体に叩きつけられる。

 ビンタを一万倍強烈にしたような撃音。

 タイヤの原材料にも使われる硬質強化ゴムである。耐久性には定評がある。

 常人であれば全身の骨という骨が粉砕されるような衝撃ではあるのだが、〈BUS〉バリアーを纏う発禁先生にしてみれば、それ自体は何のダメージにもならない。

 本番はその後である。

 発禁先生の体は、多数の太いゴム帯でギチギチに縛られている形となった。

 瞬間的な衝撃に対しては、ほとんど完璧とも言える防御能力を発揮する〈BUS〉バリアーであるが――

「――これ……は……!」

 コンマ何秒ほどの間隙もなく[持続して加わり続ける]力に対しては、どうなのか。

「――……な……な……」

 苦しげな声。

 当たり前のことだが、〈BUS〉がいかに強大なエネルギーとはいえ、無尽蔵に使えるわけではない。

 オンリーワンの超能力を発揮できる特殊操作系バス停使いは、代償として素の戦闘能力が低くなっている。同じように、バリアーを全開で展開している間は、内力操作による超身体能力を発揮しにくくなっているのだ。無論、それでも時間を掛ければゴムの帯ごときを引き千切ることは可能だろう。

 時間を掛ければ、だ。

 この状況において、ディルギスダークにそんな時間的余裕はない。

 全身にバリアーを張っているということは、ものすごい勢いで有限のエネルギーを消費していっているということだ。それこそ自慢の〈懐古厨乙(イエスタディ・ワンスモア)〉も発動できないほどに。

 ――五秒と持たなかった。

 ガス欠である。

「ぐぇっ」

 肉体とゴム帯の間にあったバリアーが消滅。

 発禁先生の体が直接締め上げられる。

「――う……ご……が……」

 しばらくもがいていたが、やがて白目をむいて泡を吹き始めた。

 ……ふぅ、やれやれ。

「本当にやれちゃうものなんだなぁ」

 僕は頭を掻き、息をつく。

 攻牙からこの理屈を聞いた時には、そう上手くいくもんかなぁと不安だったけど、なんとまぁ、完璧に締め落とせている。

 物凄く単純に言うなら「打撃に対しては無敵だけど締め技には無力だった」と、そんな感じなのである。

 攻牙はよくこんなことを思いつくもんだ。

 小賢しさもここまで行くと驚異的である。

 僕は目の前の黒いゴムの塊を、しみじみと眺める。

「とりあえず、ほどかないとなぁ、これ」

 ……それにしても。

 四人のポートガーディアンを全員確保完了したということは、だ。

 二正面作戦による撹乱効果は、これ以降もうないということになるわけで。

 ――いや、さて。

 ここからが正念場だよ、攻牙。



 ●



 七月二十七日

  午後一時五十四分三十三秒

   ゲームセンター『無敵対空』にて

    「三人称視点」のターン



『――何だ』

 ディルギスダークの無機質な電子音声。

 響きのどこかに動揺がある。

『――今の不可解な時間停滞現象は、一体何だ』

 人工知能も、慌てることがあるのだろうか。

 攻牙はハードSFには全然造詣がないので、そのへんはよくわからない。

 が、ここは調子に乗ってハッタリかましておこう。

「〈矢〉に貫かれて発現したボクのスタンド能力〈ヴードゥー・キングダム〉だ!」

『――ありえない話であった。現実とフィクションの区別が付いていないジョジョオタの妄言であった』

「得意げに何言ってんだバーカ! タネと仕掛けはてめーで考えなウスノロ!」

『――黙れジャリ』

「うっせガラクタ」

『――バーカバーカ』

「うんこー」

 結局うんこに戻ってくる。

 攻牙は鋭く目を細める。

『最終燐界形成-The final round-』

 そして、終局が、迫りくる。

 これが正真正銘、最後の一戦。

「見せてやんよ」

 奥歯を噛みしめる。

「てめーの言う『足手まといのクソガキ』に……どれだけのことができるかを!」

 アトレイユは、動かない。そんな必要はない。

 もはや、キャラ対策も人対策も仕上がっている。

『閃滅開始-Destroy it-』

 システムヴォイス。直接攻撃が解禁される。

 即座に飛来するロングフリッカー。

 だが――

 アトレイユは、その手を無造作に払った。

 ビシッ、とSEが鳴り、小さな花火のようなヒットエフェクトが咲く。

 払ったのではない。

 伸びてくる手を、命中する直前に弱パンチで迎撃したのだ。

「その手はもう見あきたぜッ!」

 アトレイユの通常技は、全体的に判定が広い。

 相手の攻撃と同時にカチ合ったら、まず負けることはない。

『――驚嘆すべきは、10Fの瞬速で迫りくる攻撃に対し、正確な反応をしたことだ。人間の反射速度を若干超えている』

 その上、小パンの発生速度は3F。

 つまり実際には7Fしか猶予がない。

 〈スローターヴォイド〉による迎撃よりも、数段不可能めいている。

「言っただろ……てめーの動きはもう見飽きたってな!」

 アトレイユが歩み寄る。

 再び飛んでくる漆黒の拳を、片端から迎撃しつつ、じりじりと間合いを詰めてゆく。

「てめーひとりに負けるわけがねえ!」

『――何を、』

「予告してやんよ。一発ももらわねえ。パーフェクト勝ちだ」

 腕が伸びるシャコッという効果音と、それが撃ち落とされる効果音が、ほとんど重なり合いながら断続的に響いてくる。

 少しずつ、少しずつ、ドットを削るような前進。

 一度でも当たれば即座に死が待っている、黒い雨。

 そのただなかを、痙攣するように移動してゆく。

『――……』

 耐えきれなくなったかのように、インサニティ・レイヴンDCは跳躍――した直後に〈ルミナスピアサー〉で叩き落とされる。

「逃げんなよ。ボクも逃げねえから」

 ダウンした黒影に〈ガイアプレッシャー〉を重ねる。

 噴き上がる光の奔流。

 この技がガード困難な連携の起点になっていることは身を持って学習しているらしく、起き上がった瞬間ジャンプして逃れようとするディルギスダーク。

「逃げんなっつってんだろッ!」

 攻牙の言葉通り、上空まで噴き上がる〈ガイアプレッシャー〉はジャンプでは逃れられない。

「覚悟決めれやこの野郎……」

 そして、格ゲーのセオリーに対する蓄積が足りないディルギスダークは、「空中受け身」などという特殊行動を自キャラに盛り込むはずもなく――

 ビシッ、と。

 追撃の弱キック。

「しまいだァァァァッ!」

 即座に叩きこまれる連撃。

 弱キック→しゃがみ弱パンチ×3→強キック→〈クラックヴォイド〉→ダッシュ→強パンチ→〈ルミナスピアサー〉。

 色とりどりのヒットエフェクトが、画面を眩く彩る。

 閃光と粒子。

 砕ける水晶。

 照り返しを受けて、3Dの背景に複雑な陰影が踊る。

「時よ鈍れッ!」

 そして時間停滞。

 粘度を帯びた時空の狭間で、

 アトレイユはガイキャンを敢行。

 ヒットバックによって離れた間合いが詰まり――

 弱キックが命中。

 再び始まる高火力コンボ。

 瞬間――

「……ッ」

 異様な感覚が、攻牙の頭を襲った。

 いや――正確に言うなら、この一週間ずっと異様な感覚に襲われ続けていたのが、この刹那に無くなったのだ。

 あたかも、それまで脳の中に灯されていた火が一斉に消えたかのような。

 攻牙は直感する。

 ――野郎……[気づきやがった]。

 何故攻牙は、動体視力の限界を超える速度で迫りくるロングジャブをことごとく捌くことができたのか。

 その答えを、恐らくディルギスダークは掴んだのだ。



 それは、思考の逆探知とでも言うべきもの。

 ……きっかけとなったのは、最初に霧沙希邸で作戦会議をしていた時の奇妙な体験である。

 攻牙はあの時、今まで聞いたこともなかったはずの『バス停召喚時間限界』について、詳細な知識が自らの頭の中にあることを発見した。

 その時はさして気にしなかったものの、ディルギスダークが自分の頭に巣食っている事実を看破した後では、この奇妙な体験が持つ重要な意味に気付いたのである。

 ――ボクは野郎に思考を読まれている!

 ――なら……[逆もありうるんじゃねーか?]

 根拠のないことではない。ディルギスダークは洗脳した人間たちと感覚を共有し、自らの手足としていた。つまり、ディルギスダークの思考が何らかの形で洗脳対象に流れ込んでいたのだ。

 攻牙の頭にも、同じようなことが起こっているのではないか。

 そしてこの状態を利用し、逆にディルギスダークの思考を読めるのではないか。

 ただ漫然と過ごしただけでは、そんなことは不可能だったろう。だが、それが出来るかもしれぬ可能性を認識し、意識を研ぎ澄まし続けたならば、果たしてどうか。

 むろん、そうそう上手くいくとも思えなかったので、本当に追いつめられない限り頼るまいと決めていたが――



 ――これが主人公補正って奴だぜオラァー!

 実際に思考の逆探知を行ったのは、この試合の第二ラウンドからである。あまり早期から使い続けていては、相手に逆探知の事実を気取られる恐れがあった。

 そして今ようやく、ディルギスダークは攻牙とのリンクを断った。

「へっ……いまさら気づいてももう遅えよ」

 口の端を吊り上げながら、即死コンボ「オーソドックスルート」を正確無比の手管で叩きこんでゆく攻牙。

 手の中に染みついた操作感覚が、機械のように動きを再現してゆく。

 すでに勝利は確定している。食らいモーション中は絶対に行動不可能――この例外なきルールに縛られたゲーム世界において、インサニティ・レイヴンDCには、できることなど何もない。

 そう、漆黒の魔人には、何も。

 攻牙は、勝利を確信した。

 ――すなわち、油断した。

 敵の残り体力は四割程度。残り時間は三十秒。最後のダッシュ→強パンチを入れるために時間停滞を発動させようとした矢先――

 攻牙は、自らに降りかかる、ひとつの影に気がついた。

 角ばった異形。

 攻牙を遥か下に見る巨躯。

 金属の光沢。露出するフレームとコード。

 赤く点滅する、頭部のモノアイ。

「え……?」

 もちろんわかっている。

 それらの情報が何を意味するのかということぐらいは。

 だが――

 何故。

 奴がここにいる?

 攻牙は、呆けた。

 度し難い思考停止。

 ――なんで? なんで? ……なんで?

 無意味な回転を続ける脳。

 そして。

「ごっ……ぎぃ……!?」

 自らの顎で、重い衝撃が、炸裂した。

 体が引っ張られるように浮き上がり、一瞬意識が飛ぶ。

 どこかで、藍浬の悲鳴が聞こえた気がした。

 背中に衝撃が走る。

 床に背中から落ちたのだ。

「ぐっ」

 即座に、冷たい鋼鉄の体がのしかかってきた。

『――無用』

 冷たい拳が振り下ろされる。攻牙の視界が揺れ、一瞬遅れて頬に灼熱が宿った。

『――無駄』

 冷たい拳が振り下ろされる。顔面が弾けて明後日の方向をむく。

『――無意味』

 感情を交えず、淡々と、躊躇いもなく、暴力が連続する。

 鼻の奥がツーンとして、眼の端が熱くなる。

『――不遜。不適格。不相応。不釣合。不必要』

 一語ごとに、呵責なき鉄拳。

「な……! や、やめてください! やめて!」

 藍浬の声。

 ぼやけた視界の中で、機械の腕に掴みかかる彼女の姿。

 ディルギスダークは無造作に腕を薙ぎ払う。

「あ……うっ!」

 長イスのひっくりかえる音。

 そして再び攻牙に向き直り、殴打、殴打、殴打。

『――馬鹿馬鹿しい茶番三流の余興役立たずの技能無力な未熟児』

 理不尽の暴虐。

 揺れる大地。

「……ぎ……」

 顔面が縦横に跳ねまわり、痣と腫れが刻まれてゆく。

 地鳴りが響いてくる。

『――足手まとい負け犬無能非才愚鈍不敏無知蒙昧凡庸暗愚鈍才凡愚無定見愚物!』

 とどめに腹へ蹴りが叩き込まれる。

「ぐぇ……う……」

『――何度でも行おう』

 耳元で、ディルギスダークの声。

『――何度でも罵ろう』

 攻牙の胸倉をつかみ、持ち上げる。

『――何度でも殴ろう』

 赤いモノアイと目が合う。

 そこに怒りの感情はない。ただ必要な作業を淡々とこなす機械の駆動灯だけがあった。

『――嶄廷寺攻牙が即死コンボを完走することはない。なぜならディルギスダークが阻止するから』

「ぐ……あ……ぇ」

『――そして、ひとつ、教えておく』

 ディルギスダークは立ち上がった。

『――お前たちの魂を取り込んだ時、ディルギスダークは迷わずそのデータを消去する』

 ぞるっ

 と、

 冷たい手が、喉元を握り潰した気がした。

『――必要なのは霧沙希藍浬の魂のみ』

 それは、死の匂い。

 床から無数の腕が生えてきて、全身に巻きついてくるような心地がした。

『――お前たちは、いらない』

 気負いのない、死刑宣告。

 そして、歩み去ってゆく。

 霞んでゆく意識の中、攻牙はどこか、懐かしい思いを抱いていた。

 一年前のある日の出来ごと。

 もうすっかり忘れたと思い込んでいた経験。



 それは、『装光兵飢フェイタルウィザード』の家庭用移植版が発売された日のことだった。



 ●



 別段、大した理由があったわけではない。

 今となってはもはや思い出せもしないような、どうでもいい理由だったのだろう。

 ちょっとぶつかったとか、目つきが反抗的とか、カツアゲ目的とか、まぁ大方そんなような所だ。

 顔面で弾ける熱と衝撃をぼんやりと感じ取りながら、嶄廷寺攻牙は空を見上げていた。

 ほとんど散りかけた桜並木が、青空の中でのほほんと揺れている。

 野卑な笑い声。やたらボリュームアップされた茶髪がもっさもっさ揺れている。

 ――変だよなぁ。

 肩やら腹やらめちゃくちゃに蹴りを叩き込まれながら、攻牙は思った。

 ――これはどー考えてもこのアホどもをボクがすげー勢いでボッコボコにする流れだろ確実に。

 不良と言うものは、強さのヒエラルキーにおいて最底辺に位置する、噛ませ犬にも成りえない存在である。

 そのはずなのである。

 ――なんでこーなるんだ?

 最初から何の抵抗もできなかった。ちょっと小突かれただけで転ばされ、後は四方からキックキックキック。

 ――どうしてこいつらは笑ってるんだ?

 もう顔面を庇う気力もない。

 いいのが鳩尾に入り、えずく。

 ――どうして、

 顔に唾を吐きかけられる。

「お、なんだこりゃ」

 アホのひとりが、攻牙の持っていたビニール袋を取り上げた。『装光兵飢フェイタルウィザード』のコンシュマー移植版(本日発売)が、その中に入っていた。アトレイユが険しい表情で拳を固めているパッケージアートが、日のもとに晒された。

 ――どうして、

「えー、なになになに?」

「ははっ、格ゲーかよ」

「うっわ」

 ――どうしてボクには、力がないんだろう。

 ぎり、と、歯が軋んだ。

「……何がおかしいんだ」

 ぽつりと、攻牙は呟く。

「え?」

「はぁ?」

 こっちを向く鳥頭ども。

「キョドってんじゃねーよ。何がおかしいんだって聞いてんだよ」

 攻牙はゆっくりと身を起こした。

 すぐにかぶりを振る。

「いや……いいや。どうせ『時間の無駄』とか『なんかキモい』とか『女にモテない』とか『頭悪くなる』とかその程度のくっだらねえ理由なんだろ?」

「え、なに? なになになに?」

「なには一回だボケが!」

「え~、面白いコイツ。なにコイツ。なにコイツ」

 再び叩き込まれる靴先。

「ぐぅ……!」

「おい、聞いてるか? 聞いてるか? テメーみたいなオタク見るとイライラしてくんだよ。なあ、おい、聞いてるか? あ? イライラすんだよコラ」

「げぅ……てめーの語彙が貧困なのはわかったから少しは気の利いたことを言え」

「んだコラァ!」

 偏執的なまでの癇癖が乗せられた暴力の嵐。

 攻牙は、やっぱり、何の抵抗もできなかった。

 そして、

「こんなもんにマジになりやがってよ!」

 ばきり、と。

 踏み砕かれる何か。

 顔が、引き歪むのがわかった。

 凍えそうなほど冷たいものが、眼から溢れてきた。



 ●



 ――あぁ、わかっているんだ。

 無駄なことをしているって。

 漫画みてえなヒーローになんか、なれるわけがないって。

 あの後、たまたまそこを通りかかった篤と謦司郎が、助けてくれた。

 篤はなんかエセ合気道とでも言うべき我流体術を使うし、謦司郎もあの超絶スピードだから常人相手にゃ無敵だ。

 まったく、余裕の勝利だった。

 そして、二人とも、ボクを笑ったり、馬鹿にしたりはしなかった。

 だけど――

 だけどな。

 そうじゃねえんだ。

 ボクが望んでんのは、そうじゃねえんだよ。

「……牙く……攻……ん!」

 遠く、声が聞こえる。

 泣きそうな声だ。

 意識が浮上し始める。

 顔面が、熱い。

 鼓動の度に、殴られた所が脈打って、疼く。

「……牙くん! 攻牙くん!」

 わかってるよ。

 今起きるから。

 畜生。

 体に力が入らねえじゃねえか。

 眼も焦点が合わねえし。

 なんか床がグラグラしてるし。

 クソ。

 頭を振る。

 全身が、ひりひりと熱を帯びている。

 体の奥底に、まだ奴の拳の衝撃が残っている。

 臓腑が震えている。

「クソ……がッ」

 口に出す。

 ようやく、視界が像を結んだ。

 霧沙希だ。

 あいつが、筐体の前に座っている。

 せわしなくレバーとボタンを動かしながら、こちらを見ずに、呼びかけてくる。

 その額には、一筋の血が流れている。

 あぁ、

 ディルギスダークを止めようとした時、どこかにぶつけたんだな。

 だけど、あいつは、闘ってる。

 情けなく気絶したボクとは大違いだ。

「戻りたくねえよな……」

 顔の形が変わるほど殴られ、ろくろく殴り返すこともできず、『フェイタルウィザード』のディスクを眼の前でバキ折られた。

 なのに、ひとりじゃ何の仕返しもできなかった。

 あの頃には。

「戻りたく……ねえよな……!」

 勢いをつけて身を起こす。

 目眩がするほどの鈍痛が、腹の中でみじろきする。

 ――あぁ。

 そうだ。そのまま起き上がれ。

 今、霧沙希は戦っている。

 ボクに代わって、敵の猛攻をしのいでいる。

 瀬戸際で、敗北だけは押しとどめている。

 だけど、あいつはアトレイユの技なんて何にも知らねえ。

「ボクがいかなきゃ……ダメなんだ……!」

 見ろよ、泣きそうじゃねえか。

 ガタつく両脚に、わずかばかりの力が流れ込む。

 尻が床を離れ――

 直後、顎と鼻に衝撃が走った。

「ぐっ!」

 前のめりに、倒れたのだ。

 鼻の奥で、カッと火花が散った。

 そして、胸の中からじくじくと、毒が流れ出す。

 ――情けねえ。

 結局ボクは、あの頃からなんにも変ってねえんだ――

「なんていうクソみたいな自己卑下はお呼びじゃねえええええ!!」

 這え。

 立てないなら、這っていけ。

 この状況を何だと思ってんだ。

 てめーのショボいトラウマなんか知ったことか。

 そんなことが諦める言い訳になると思ってんのか。

 ボケが。

 恥を知れ。

 ……うるせェな。

 わかってんだよそんなことは。

 ちょっと逆境気分を盛り上げたかっただけだ。

 クソ。

 床が冷てえ。

 腫れがこすれて、痛ぇ。

 突如として、腹の底から何かが込みあがってくる。

「ぐ……ェ……!」

 血交じりの、嘔吐。

 クソ、クソ、クソ――

 なんでこんな惨めな思いをしなきゃなんないんだ。

 誰のせいだ。

 許さねえ。

 ガシリ、と。

 手が何かを掴む。

 長イスの端っこだ。

「攻牙くん、大丈夫!?」

 はっとするほど間近に、霧沙希の声が聞こえた。

 敵のロングフリッカーを捌くのに必死なのか、こちらを見もせずに問いかけてくる。

 手元ではレバーとボタンがせわしなくガチャガチャ鳴っている。

 怒りに身を任せているうちに、ずいぶん這い進んでいたようだ。

「すま…ねえ……行けるぜ……タイミングを見計らって交代だ……」

「で、でも……」

「交代だ!」

「……わかった」

 ずるり、と、長イスの上に這い上がり、腰を落ち着ける。

 息をつく。

 ――くそ。

 思考がまとまんねえ。

 頭がわんわん鳴ってやがる。

 呆然と、画面を見る。

 ロングフリッカーが途切れた一瞬。

 それを見計らってジャンプ。

 空中ダッシュで飛距離を稼ぐ。

「今だ……!」

 落下にかかる数秒間を利用して、両の足に最後の力を込めて。

 交代。

 瞬間。



 ――GYUUUUAAAAAAAAH!!!!



 絶狂。

 読まれていた。

 アトレイユを追うように、跳躍してくる黒影。

 全身が溶けるように変異。

 天に向けて牙を剥く黒龍と化す。

 急速上昇。

 対空技の実装。奴の進化はとどまるところを知らない。

 負けてたまるか。

 負けたくねえ。

 そう口の中で繰り返す。

「うるっせえええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 逆上していた。

 恐れず落下。

 凶悪な造詣の顎門に向かって突っ込む。

 ――てめえは。

 交差。

 カウンターヒットを現す重い金属音。

 一瞬で人型に戻り、落下する魔人。

 ――やっちゃならねえことをした。

 空中版ルミナスイレイズ。

 細かな位置調節が不可能な空中戦において十分な機能を果たすため、攻撃判定がかなり広めに設定されているのだ。

「ゲーセンでリアルファイトは御法度だろうがあッ!」

 正確には、この場で殴りかかったのは攻牙の方が先なのだが、もはやそんな細かいことは頭から消し飛んでいた。

 攻牙は、逆上していた。

 視界が、赤く染まっていた。

 負けたくねえ。

 口の中で呟く。

 負けられねえ、ではなく、負けたくねえ。

 義務ではなく、感情。

 ゲームだけだった。

 成績は、悪かった。

 運動も、得意ではなかった。

 だから、正攻法ではなく、小細工を弄する奸智にばかり長けてしまった。

 決して、そんなことは望んでいなかったのに。

 本当は、ヒーローになりたかったのに。

 ……わかってんだ。

 ボクじゃあ、どうあがいても主人公になんかなれねえって。

 身にしみて、わかってんだよ……!

 インサニティ・レイヴンDCは地面に激突。即座に起き上がる。

 一瞬遅れてアトレイユが着地。双方同時に拳を放つ。

 突進技〈クラックヴォイド〉の無敵時間で漆黒の魔拳をかいくぐり、全霊を込めたコークスクリューブローを叩き込んだ。

 ――だけど。

 だけどよぉ。

 こんなボクでも、誰かの役に立てるかもしれねえんだ。

 ヒーローになったような気分に、浸れるチャンスなんだ。

 ボクは、幸運なんだ。

 勝ちてえ。

 勝ちてえよ。

 ディルギスダーク。

 てめーこの野郎。

 立てよ。

 こんなものじゃねえんだろ。

 起き攻めに〈ガイアプレッシャー〉。

 連続して発生するガードエフェクト。

 ここからジャンプめくり攻撃による表裏二択を迫る――

 と見せかけて投げだコラ!

 右のガントレットで相手を捕らえ、左のガントレットで殴り飛ばす。

 画面端にバウンドした黒影を〈ルミナスピアサー〉で追撃。ダウンを奪う。

 ここで攻牙はバックステップ。

 まったく同時に、敵は倒れた状態からノーモーションで黒龍化。

 鼓膜を掻きむしる咆哮。

 斜めに上昇しつつ、がつりと牙を閉じ合わせる。

 ――リバサ昇龍ってか!

 迂闊に起き攻めを仕掛けていたら、食い殺されていたことだろう。

 射美&謦司郎の撹乱効果はもうないのだ。

 奴に同じ手は二度と通用しない。

 間髪入れずに、黒い閃光が鞭のようにしなった。

 死の予感が背骨を駆け上がる。

 小パンで迎撃――

 できない!

 ヒット。

 火花は足元で弾けている。

 下段攻撃。

 新たな攻撃パターンだ。

 連撃が襲い来る。

 黒い毒蛇が暴れ回り、空中でアトレイユを打ち据える。

 ごぉ、とか

 がぁ、とか。

 叫びが漏れる。

 爆裂。

 彼我の途上で〈スローターヴォイド〉が起爆。

 コンボが途切れる。

 あぶねえ。

 設置技が残っていなかったら、今ので終わっていた。

 起き上がった瞬間に再開される猛攻。

 途中までは従来のロングジャブと同じだが、当たる直前に、軌道が変化する。

 中下段の揺さぶり。

 そのすべてを、交差させたガントレットで受け止める。

 立ちとしゃがみのガードポーズが、不定期で切り替わる。

『――ないわ。マジないわ。ゲームごときに何マジになっちゃってんの、この少年』

 こめかみが、ヒクついた。

「マジになれねえ奴はどんな世界でも要らねえんだよバーカ!」

『――無意味なことに金を費やしている。無駄なことに時間をすり減らしている。現実から逃げ続けた先に待っているのは、後悔と空虚ばかりだというのに』

 プツン、と。

 認識のタガが千切れ飛んだ。

 今なんつった?

 あぁ?

 てめえ今なんつったよ、おい。

「逃げた……だぁ……?」

 視界が融解したかに歪む。

 攻牙は、胸の内に生じた血の味を噛みしめた。

 負けたくねえ。

 殴りかかる。ガードエフェクト。

「……てめーみてーな『理解できないもの』を受け入れる度量のねえ野郎はいつもそう言う」

 ココンッ、とダッシュ入力。

 発光。

 加速。

 毒蛇。

 防御。

 間合いに、

 捉える。

「どいつもこいつも同じセリフ! 現実から逃げるな現実から逃げるな現実から逃げるな現実から逃げるな! ボケどもが! ウンザリだ……!」

 迎撃の牙を剥く黒い弾丸に対し、〈クラックヴォイド〉を合わせる。

 当然のように撃ち勝つ。

 3Fしかない無敵時間で、正確無比なカウンターを一閃させる。

 魂を削って放つ一撃。

「ボクたちが……何かの代償行為としてゲームやってると思ってんのかよ……!」

 再び突撃。

 敵を小足で固め、突発的に中段下段下段中段下段。

 相手のジャンプを読んで上段。

 中下中中下下上負け下下下上跳殴殴殴殴上下中たく打打打打打打打打打ねえ殴跳中上上下叫下下下下下中下下打打打!

「[そこでしか得られないモノ]があるからやるんだろうが……! 嬉々として百円玉をつぎ込んで! 必死に上手くなって! たくさんのライバルと出会って!」

 無数のガードエフェクト。

 削りダメージがじわじわと蓄積してゆく。

 くそ。

 硬え。

「そうやって生まれた時間そのものに価値を見出したからやるんだろうが……! 理解しろとは言わねえよ! だけど! なんでてめーらはいつもいつもこの感動を否定しようとすんだよ!」

 ヒット。

 中下段表裏の攻撃がガードをかいくぐり、遂に命中。

 頭蓋の中で、達成感が分泌される。

 そして、叫ぶ。

 魂の赴くままに。

 原初の衝動を乗せ。

「ゲームが! 遊びが! 『何かのための手段』であってたまるかってんだよッッ!!!!」

 即座にガイキャン。弱キックを差し込む。

「時よッ! 鈍れェェェェェェェェェェェェッ!!」

 正真正銘、最後の時間停滞。

 篤と藍浬がいるからこそ成し遂げられる策略。

 それは、意図的な処理落ち。

 篤が最初にディルギスダークと戦ったことには、意味がある。

 もちろん、奴が普通に闘って勝つなら何の問題もい。

 だが、そうではなかった場合――

 筐体の中で、篤はバス停を召喚する。

 攻牙自身があの白い仮想空間に囚われた時、発禁先生は思いっきり『谷川橋』を召喚していた。

 つまり、そういうことができるのだ。

 ならばあとは簡単だ、全力でバス停を振り回し、光と雷撃と衝撃波をまき散らせばいい。

 そうすることにより、筐体の処理能力を食わせ、ゲームの進行を意図的に遅らせるのだ。

 タイミングの指示は、藍浬が行う。

 仮想空間においても、現実の肉体の触覚は普通に生き残っていた。

 ならば、藍浬が篤の手を握ることで、仮想空間の篤に合図を送ることができるはずだ。

 攻牙、一世一代の奇策。

 誰が欠けても不可能であった、絶対有利状況。

 展開される瞬撃の虚空。

 咲き乱れる燐光の粒子。

 両の眼から、熱いものがあふれかけている。

 泣いてんじゃねえ!

 乱暴に首を振って雫を飛ばす。

 今、自分がここまで食い下がれた奇跡的な意味が、胸をよぎってゆく。

 同時に、ここで闘うことの責任をも。

 ひとりじゃねえ。

 強がりではなく、素直な現状認識。

 普通に考えれば、どう考えても詰みの戦いであった。

 一度まぐれで勝つことはひょっとしたらありうるかもしれないが、人質全員を解放できるほどコンスタントに勝利を重ねるなど絶対に不可能。

 ひとりじゃ勝てなかった。

 今なら言える。

 普段なら恥くさくてとても言えぬこのセリフ。

 すぐ調子に乗るので絶対言わないようにしているこのセリフ。

「あいつらがいてくれた……! ボクと一緒に闘ってくれた……!」

 言ってやろうか。ツンデレ乙とか言われようがかまやしねえ。

「てめーに[勝てる]のは……あいつらのおかげなんだよ……!」

 今ならわかる。

 あの二人に、憧れたから。

 男ってのがどうあるべきか、あの二人から学んだから。

 今なら認められる。

 英雄になりたかったわけじゃない。

 世界を救いたかったわけじゃない。

 賞賛を浴びたかったわけじゃない。

 言ってやろうか。

 言っちまえ。

「……ただ……ダチ公と肩を並べてえだけだァァァァァァァァッッ!!!!」

 篤と謦司郎。

 あのアホどもの前で、胸を張っていたかったから。

 ただ、それだけだったから。



 画面の暗転。

 アトレイユの体で十字の光がほとばしる。

 ――最大奥義、〈ワールドスカージ〉。 



 それは、世界を狂わせる兵器。

 一人の女がアトレイユの装光義肢に組み込んだ、愛と憎悪。力にして呪い。

 ガントレットの双腕が組まれ、白と黒にまばゆく明滅する焔が指の間から噴出する。

 握り合わされた両拳を振りかぶり、残像を纏いながら突進。

 ヒット。インサニティ・レイヴンDCの自由を奪い、固定する。

『右掌にオレの決意。左掌にアルタスクの絶望――』

 アトレイユが、押し殺した声で呟く。

 両の眼から、熾火のような殺意が漏れる。

『合わせて極(き)める……ッッ!!』

 込められた力に痙攣しながら、両腕が開かれてゆく。掌と掌の間に、電撃の糸に繋がれた発光体が現れる。

 周囲の空間が、そこを中心に歪んでゆく。

 眼を凝らすと、発光体の中で、背中を丸めた胎児が見えた。

『ワァァァァァルド――』

 胎児が、カッと眼を開く。

『――スカァァァァァァジッッ!!』

 白熱光が、画面すべてを覆い尽くした。

 すぐにそれはアトレイユの前方に収束してゆき、黒の妄徒を灼き滅ぼす。

 極太の破壊光線。

 石とも金属ともつかぬ奇妙な都市が、凄まじい衝撃波によって押し流されてゆく様が、背景で秒間60Fのアニメーションとして描画される。

 インサニティ・レイヴンDCのいた位置で、ヒットエフェクトの燐光が機関銃のような勢いで炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂炸裂。

 画面が盛大に揺れ動き、やがて臨界を迎える。

 ――爆裂。

 モニターが砕け散る演出。

 反動に吹き飛ばされるアトレイユ。白く染まる世界。

『閃滅完了-K.O.-』

 見渡す限りの焦土。

 瓦礫の中から、ひとつの影が、うっそりと身を起こす。

 アトレイユ。

 膝を立て、億劫げに立ち上がる。

 小石や塵埃が、その体から剥がれる。

 炭化した両腕が、ボロリと崩れ落ちた。

『それでも、生きていかざるを得ない……』

 何かの感情を抑えつけながら、それだけを呟く。

 ――あぁ、チクショウ。

 なんとなく、アトレイユの腕と一緒に、自分の中の緊張も消えてゆくような気がした。

 どんなモンだよこの野郎。

 痙攣する頬が、笑みを刻む。

 ふっと、力が抜けた。

「攻牙くん!」

 後ろに倒れかかるも、柔らかい感触に受け止められる。

「ふあ……」

 背を反らすと、かすむ視界の中で、泣き笑いの藍浬の顔があった。

「どーよこれ……すごくね……? ボクすごくね……?」

「うん……うん!」

 ぎゅっときつく抱きしめられ、ほっぺスリスリ。

 普段なら照れて逃げ出すところだが、今はそんな気力もない。

 というか眠い。

 ひたすら、眠い。

 安堵と疲労と殴られた体が、攻牙をじわじわと眠気の中へ引きずり込もうとする。

「これでみんな元に……」

『――ところがぎっちょん。そうは問屋がおろさないのであった』

 電子音声。

「あうっ……!」

 鋼鉄の人型。不格好なシルエット。

 藍浬の背後に立ち、その腕をねじり上げていた。

「霧沙希!」

 強制的に立ちあがらせられた藍浬は、苦痛に眉を寄せながら、背後に目を向けた。

『――ディルギスダークは、いまだ何一つ失ってはいなかった。ただ最善の手が封じられたというだけのこと。即座にプランBを実行に移す』

「……攻牙くんは勝ちました……わたしの魂は取り込めません……ポートガーディアンの皆さんも全員解放された……もう〈目覚めの儀式〉なんて絵空事です……!」

『――愚かな楽観と言わざるを得なかった。ディルギスダークには今ここからでも状況をひっくりかえせる力がある』

「なにを……!」

『――まず嶄廷寺攻牙をここで殺す』

「……っ」

 藍浬は顔色を変える。

『――而して霧沙希藍浬に敗北感を植え付け、筐体に取り込む』

 回された腕が、細かく震えている。

 瞬間、あたりの床が、地鳴りとともに激しく揺れ始めた。

『――続いて、そのあたりの一般人を片端から洗脳し、数の利をもってポートガーディアンどもを奪還する。かくして何の問題もなく《絶楔計画》第四段階、〈目覚めの儀式〉は完遂される。まったく容易いことであった』

 ジャキン、と、ディルギスダークのマニピュレーターから、巨大な鉤爪が飛び出す。

 歩み寄ってくる。

 ……攻牙は。

 そのさまを見ていた。

 どこか、平静な気持で目を閉じる。

「……あいつは」

 瞼に浮かぶは、強く優しき背中。

「ボクを信じて躊躇いもなく一番手を担った」

 力を込めて、眼を見開く。

「だから! ボクもあいつを信」

「――信頼とは」

 ……。

 おいィ?

「行為を表す言葉ではない」

 爆音。

 ディルギスダークの姿が消し飛ぶ。

 解放された藍浬を支える、一つの影。

「意識して信じようとする行いには、どこかに欺瞞が付きまとう」

 落ち着き払った声。

 攻牙と藍浬は、茫然とその姿を見ていた。

「――信頼とは」

 ガランと音を立てて、倒れ伏したディルギスダーク。

 その胴には、一見してわかる凹みがあり、煙と火花を上げていた。

「状態を表す言葉である。意志が介在する余地などなく、見たまま疑いようのない有様を言うのだ」

 人影は唸るその前に立つ。

 うっそりとディルギスダークの方を見やる。

 研ぎ澄まされた眼差し。

 そして――携える巨大な鉄塊を振りあげ、

「貴様はその力を見誤った。だから負けた。本来負けるはずのない者に、負けた」

 ――振り下ろす。

 爆発。

 無数のパーツが散乱し、かくしてディルギスダーク・システムの人型端末は機能を停止する。

 諏訪原篤。

 目覚めた覚悟。

「篤!」

「諏訪原くん……」

 呼びかけに振り向く。

 普段は表情のない顔が、穏やかに眼を細めた。

「恐ろしい敵であった」

「うるへーよ! ボクがなんか名台詞言いかけた時に復活してんじゃねーぞこの野郎!」

「攻牙よ」

「お……おう」

 ふ、と。

 篤は、あるかなしかの微笑みを浮かべた。

 その眼差しは、不思議なほどに胸を打った。

 なんとなく、頬を掻きながら目を反らす。

「相変わらず小さいな」

「流れぶったぎって煽んな!」

「何かオチをつけねばならない気がしたのだ」

「むーかーつーくー!」

 すると。

 篤の懐で、着信音が鳴りだした。

「む」

 携帯電話を取り出し、一瞬考え込んだのち、通話ボタンを押す。

 スピーカーモードで、その言葉は周囲に伝わった。

『――言ったはずだ。ディルギスダークは今ここからでも状況をひっくりかえせる、と』

 皮膚が、粟立つ、感触。

 ――巨大な鴉の絶叫が、耳に突き刺さってきた。

 狂乱の金切り声。

 それは破滅の唄。

 床が爆裂し、下から眩く輝く何かが現れる。

 巨大な光の円盤。

 ホーミング八つ裂き光輪(仮)。

 脳を掻きむしる騒音をまき散らしながら、空中に静止している。

「そうか……貴様にはそれがあったな」

 篤は静かに呟く。

『――ないわ。マジないわ。何その落ち着きぶり。現状を認識していないとしか思えぬ態度であった』

 狂鴉の呻きが、爆発的に高まる。

 強大な〈BUS〉波動が、烈風となって押し寄せる。

 塵埃、瓦礫、破片、コード、椅子、筐体――店内にあった有象無象のことごとくが、まるで恐れているかのように押しのけられてゆく。

 桁違いのエネルギー量。ただ存在するだけで、破壊的な影響を周囲に刻む。

 一つの殺意によって制御される、天変地異。

 ディルギスダーク。

 今までに出会ったどの敵をも、圧倒的に隔絶する存在。

 対して、篤は――

「『姫川病院前』よ。あと一振りでいい。一振りだけ耐えてくれ」

 蒼い稲妻が迸り、鉄塊を横に振りはらう。

 剛風が巻き起こる。

 だが――

 その停身は、ところどころにヒビが入り、看板の一部は欠けていた。

 バス停の自己修復機能も万能ではない。前回の接敵で粉々に破壊されてから、まだ治りきっていないのだ。

 万全とはとても言い難い。

 いや、たとえベストコンディションであったとしても、眼の前で浮遊する完全無欠の遠隔攻撃能力を前に、果たしてどれほどの抵抗ができることか。

『――諏訪原篤程度のバス停使いであれば、何人いようが問題なく処理できる。苦痛は与えない。一瞬にて決着する』

「受けて立とう。一瞬で終わるという点だけは同意する。それに……」

 篤は、ふいに攻牙の方を向いた。

 目前に浮遊する、絶対的な滅びを歯牙にもかけていない風だった。

 口の端に笑みを乗せる。

「……この男の勝利に、泥を塗るわけにはいかんな」

「あ……」

 円盤に向き直り、咆哮。

 蒼い〈BUS〉の衝撃波が篤を中心に広がる。だが、攻牙の眼から見ても、ホーミング八つ裂き光輪(仮)より明らかに規模が劣る。

 ――問題……ねえ。

 信頼している、ということ。

 攻牙はもはや、何の心配もしていない。

 そして。

 光輪の突進。

 ほとんど一瞬にしてトップスピードに加速。

 床を派手に砕き散らしながら、殺到/吶喊/襲来する。

「オオォォォォォォォッッ!」

 篤は微塵もひるまず、迎え撃つ。

 ――攻牙はすでに、篤へ作戦を授けている。

 ホーミング八つ裂き光輪(仮)の不可解なまでの無敵ぶりについて、ひとつの仮説が立っている。

 破壊力、スピード、射程、精密動作性、持続力――そのすべてにおいて最強。

 果たして、そんなことがありうるのか?

 いくらなんでも胡散臭すぎないか?

 そもそもの問題として、内力操作による魂の収奪に特化したディルギスダークが、これほど強力な外力操作系必殺技を操れるものなのか?

 その答えが、今、展開されようとしている。

「止揚せよ! 意志なき冷酷!」

 戦吼。そして踏み込み。

 踏み抜かれる床からの反動が、篤の体を駆け上がり、『姫川病院前』に漲る。『姫川病院前』を後ろに構え、全身の筋肉を限界まで引き絞る。極端な低姿勢。一瞬の静止。それは、雄渾なエネルギーを内包する、動的な静止であった。



「覇停・神裂!!」



 瞬間、叩きつける。

 閃光。

 穏やかでまっさらな、光のヴェール。

 周囲の地脈をめぐる〈BUS〉が、この瞬間、円盤と『姫川病院前』との接触点に集結した。

 ――契約の、破却。

 何と、

 何が?

『――馬鹿な』

 光が去る。

 音が去る。

 脅威が去る。

 円盤による破壊痕も痛々しい、『無敵対空』店内。

 風の音が、静かに流れてゆく。

「ひとつ。ホーミング八つ裂き光輪(仮)は、外力操作系の技ではない」

 篤の声が、朗々と広がってゆく。

 その足元には、一柱のバス停が転がっていた。

 看板には、『風見ヶ丘』と刻印されている。

「その正体は、単なるバス停の投擲にすぎん。ありったけの〈BUS〉を宿らしめ、高速回転させていたのだ」

 ……ハミルトンの第二原理。「かつて〈BUS〉が存在した空間には、ある種の磁場のような振る舞いを為す特殊空間が形成される。人間の感覚では一瞬で消えてしまうその空間は、同質・同方向の〈BUS〉を増幅する作用がある」。

 ディルギスダークは、そこに着目した。

 人の手では決して生み出せぬ速度の回転運動。それは、揚力と浮力の絶妙な均衡を生み出し、〈BUS〉の微妙な内力操作によって、ほぼ意のままに動かすことができる。

 やがて、バス停『風見ヶ丘』は薄っすらと消えてゆく。

 契約の絆を断たれ、界面下に引っ張られてゆく。

『――認めよう。ディルギスダークは敗北を喫した。〈目覚めの儀式〉はもはや叶わない。朱鷺沢町近郊に、力を及ぼすことはできなくなった』

 さして残念とも思ってなさそうな、述懐。

 当然か。人工知能に本当の意味での感情は宿らない。

『――だが、諏訪原篤、そして嶄廷寺攻牙よ。ディルギスダーク・システムとは、《ブレーズ・パスカルの使徒》の活動を戦略的にバックアップするために開発されたネットワーク・アーキテクチャである。その規模はお前たちが想像するよりも遥かに巨大だ。今回はディルギスダークが持つ無数の神経細胞のうちの、たったひとつを潰したに過ぎない。システム全体からすれば、痛みを感じるまでもない損害であ――ぐぇっ!』

 唐突な呻き声。

「ふたつ。この地に根を下ろしたディルギスダーク端末の正体は、車椅子に変形する人型の機械などではない。それはもっと小さく、もっと目立たず、もっと機能的な姿をしている」

 見ると、篤は[携帯電話を握り潰していた]。

 ぐにょ~ん、とか、そんな擬音が聞こえてきそうだった。まるでコンニャクでできていたとでも言うように、携帯電話が柔らかく変形している。

「まったく、いつの間に入れ替わっていたのやら。ホーミング八つ裂き光輪(仮)に射程距離の概念が存在しないのも当たり前である。いくら鋼原のバスで逃げようがまったくの無意味。[本体がずっと俺と一緒に移動し続けていたのだからな]」

 そう――今まで携帯電話から聞こえてきた声は、別にディルギスダーク・システムとやらが電話ごしに声を伝えていたわけではなく、電話そのものがしゃべっていたのだ。

『――オーケー、時に落ちつけ。暴力は何も解決しない』

 すごい。まったく感情が込もってない。

「さて……貴様にはいろいろと喋ってもらわねばなるまい」

『――ぐえぇ』

 篤は携帯電話――というかディルギスダークそのもの――を両手で握り、ぐにぃ~っと伸ばしたり、雑巾絞りをかましたりしていた。

「まず、俺の本物の携帯電話をどこにやった?」



 かくして――

 朱鷺沢町にかつてない異常事態を巻き起こした内力操作系バス停使いディルギスダークは、完膚なきまでに敗北した。

 ポートガーディアンの面々と、諏訪原霧華もまた、それぞれの肉体へと戻って行った。



 ●



「むむ~」

 唸っている。

 兄貴の影に隠れながら、諏訪原霧華は唸っている。

「ふふ、はじめまして。よろしくね、霧華ちゃん」

 ふわりと微笑むその人を、霧華は難しい顔をしながら見ていた。

 艶やかな黒髪。萌葱色のワンピース。涼しげな相貌。あまり涼しげでない胸元。

「む~ん……」

 視線を上に向けて、今しがみついている兄貴の横顔を見る。

 そして再び彼女に視線を戻す。

 ……霧華は、人と人との感情の機微に敏い。

 だから、篤の前での彼女の立ち振る舞いや細かな仕草から、すでに何事かを察していた。

「どうした霧華。まるで斜陽を浴びる姫路城天守群のごとき顔をしおってからに」

 そして、このアホ兄貴が何も気づいていないであろうことも。

 ひとまず心胆の置きどころを定め、霧華は篤の影から出てきた。

 両腰に手を当て、正面から視線を浴びせる。

 とろん、と優しげな眼が出迎えてきた。

「こんにちは、お姉さん」

「はいこんにちは」

 口調に硬さを混ぜて見たりもしたが、そういう尖った所も含めて包み込まれるような感じがした。

「眠っている間も、感覚は生きてたから、誰かのお世話になったらしいってことはわかってます」

 少し躊躇ったのち、頭を下げた。

「その、ありがとうございました。いきなり担ぎ込まれた見ず知らずの人間なのに、あそこまでしてもらって感謝してます」

 これは本心である。食事はもちろん、体を清潔に保つための諸々もすべてやってもらったのには少し驚いている。普通、そういう感覚があったら警戒や嫌悪を抱きそうなものなのだが、この人の手からは労りと優しさが伝わってきた。むしろ不安が薄らいだぐらいである。

「あら……ふふ、お返しに何か頼んじゃおうかな?」

 茶目っ気を混ぜて、そう返してくる。

 気にしないで、などと言っても、こちらが恐縮するであろうことを見越して、先手を打ってきたのだ。

 ふむ、と顎を撫でる。

 出来る人だ。

「いいですよ? 何でも言ってください」

「それじゃあお願い。これからみんなで祝勝会みたいなことをしようと思うの。霧華ちゃんも付き合ってくれる?」

 ちらりと後ろを振り返り、まったく関係ないことを考えていそうな篤の姿を目に納める。

 ……いつのまにか頭にあっくんを乗せていた。一体、人間がウサギを頭に乗せるだけでこれほど頭悪そうに見えるなどと誰が予想しえただろうか。

 眼を藍浬に戻す。

 ……まあ、なんというか。

 別にブラコンの気はないつもりだけど。

 一応、兄貴のことが心配ではあるわけで。

 ――とりあえず、当面は黙認します。

 腕を組みながら、そう思い定める。

 とはいえ結論を出すには早い。

 ――これからじっくりとお姉さんのことは見定めさせてもらいますからね!

「わかりました。お供します」

「ふふ、決まりね」

「話は聞かせて貰った! 人類は滅亡する!」

 バーン、と。

 扉が開かれた。

「げぇっ! 性犯罪者!」

 思わず呻く霧華。

「うむ、帰ったか」

 重々しく頷く篤。

「あら、闇灯くん。お帰りなさい」

「ただいま霧沙希さん! 相変わらず大きいね! そしてこんにちは霧華ちゃん! 今日もぺったんこだね!」

「うっさい! 見んな! 寄るな! シッシッ!」

 がるる、と威嚇しまくる霧華。

「ふふ、今日はお疲れ様ね。射美ちゃんも一緒なの?」

「うん、今は攻牙のそばにいるよ。それから、お客さんが来ている」

 謦司郎はうしろを示す。

 それに従って玄関まで行く三人。

 開いた玄関の先にポートガーディアンどもがいた。

「おぉ、皆様方、よくぞご無事で」

 篤が声を上げる。

 何気に、敬語をしゃべる篤というのはレアである。

「おやおや、誰かと思えば腐れミカン七号と二十号ではありませんか」

 発禁先生は相変わらず発禁先生だった。

「うおおおォォォォォォッ! おじゃッ! ましてッ! ますッッッ!!」

「やかましいわ人んちの庭先で!」

 馬柴拓治と櫻守有守が言い争っている。

「あら、ふふっ、千客万来ですね」

 藍浬は手を合わせて微笑んだ。

「やー、いつぞやの公園ぶりだね、霧沙希さん」

「はい、布藤さん。今回は皆さんいろいろと大変な思いをされたみたいですね」

「はは……まったく……ね……」

 ゲンナリと顔に影が差す勤。

 それを押しのけて、櫻守有守が霧沙希の前に立つ。

 巫女服の裾を翻しながら、優雅に一礼。

「お主が霧沙希藍浬じゃな? 初にお目にかかる。『萩町神社前』のポートガーディアン、櫻守有守じゃ」

「そしてッ! 俺がッ! 『針尾山』のポートガーディアンッッ! 馬柴拓治だあああああァァァァァァァゴヘェッッッッ!!!!」

 鼻面にぐーぱんちを叩き込んで黙らせると、巫女服の美女は何事もなかったように微笑む。

「今回のことは本当に助こうた。我らポートガーディアン一同、お主らには心から感謝しておるぞ」

「ありがとうございます。でも、それは攻牙くんに言ってあげてください。一番がんばったのは攻牙くんですし」

「ふふ……その小さな英雄どのにももちろん礼をしておきたいところであるが、今は邪魔をせんほうがよいであろうな」

 軽く肩をすくめる有守。

「今はゆっくりと体と心を休めるが良い。後日あらためて挨拶に伺うとしよう」

「あら、なんでしたら、今から祝勝会みたいなことをしようと思うんですけど、皆さんもどうですか?」

「うむ、人数は多い方がよかろう」

 重々しく頷く篤。

「おっ、いいのかい?」

「おやおや、この西海凰玄彩を宴席に立たせると、とんでもないことになりますよ? ククク……」

「ウオオォォォォォォッッ!! 燃えてきたああああァァァァァァァァァァッッッッ!!!!」

「ふむ……ならば豪勢な方が良かろうな。費用は我ら四人が負担しよう」

 有守の言葉に、他の三人が顔色を変える。

「えっ」

「えっ」

「なんッッッッ……だとッッッッ……!?」

「お主らタダ飯をたかるつもりだったのかァーッ! いい大人が恥を知れ!」



 ●



 意識が浮上する感覚があった。

 眼を開けて、最初に現れたのは、ここ一週間で見慣れた天井だ。

 すでに日は落ち、わずかに黄昏の名残が攻牙の顔を照らすのみ。

「うー……」

 攻牙は呻きながら伸びをする。

 頭が引き攣れた感じに痛い。

 ――ボクはいつから寝てたんだ?

 頭を掻きながら身を起こす。

 と、

「~♪」

 かすかな鼻歌がただよってくる。

 ぼんやりとした頭で横を振りむくと、ベッドに頬杖をついて、女の子がにこにこしていた。

「えへへ、おはようでごわす♪」

「んあ……あぁ」

 大きなあくびをひとつ。

 頬の動きにともなって、顔にでかい絆創膏が貼られていることに気づく。

 ――ヤローの拳はなんか尖がってたからなぁ。

 頬に触れながら、しみじみと思い出す。

「射美がはったでごわす~♪」

「……そっか。ありがと」

「おかげでほっぺつんつんできないから、攻ちゃんの寝顔をずっと見てたでごわす♪」

「暇だなぁ……」

 苦笑する。

 普段なら「どんだけ暇なんだお前!」ぐらいのツッコミは入れているところなのだが、なんとなく今はそんな気分でもない。

 射美は首を傾げる。

「攻ちゃん、ちょっと元気ない?」

「んなこたねーよ。なんかちょっと……さすがに虚脱してるっていうかさ」

 攻牙自身、胸の中に漂っているこの気持ちを、どう言い表せばいいのかよくわからない。

 真夏の夕暮れに吹く、爽やかな風のようなこの気持ちを。

「勝ててほっとした」

 俯いて、述懐する。

 想いを、噛み締める。

「篤に認められて……うれしかった」

「……うん」

 どこかで、諦めていた。

 勧善懲悪を体現するヒーローとなること。

 だから、現実的にそういうものを目指す思考を、避けていた。

 絶対に無理だと、わかっているから。

 だけど。

 それでも。

 ――目指して、みようかな。

 地に足をつけながら、すこしずつでもそういうものを目指していく。

 その勇気が、胸の中で確かに燃えている。

 ――なんて、こっぱずかしくて言えねえけど。

 かすかに笑い、頭をかく。

「でも……すこし寂しいかもな。なんだかんだでこの一週間は楽しかったよ」

「うん、攻ちゃんはすっごくガンバったでごわす」

 身を乗り出して手を伸ばす射美。

「いいこいいこ♪」

 くしゃくしゃと頭を撫でられながら、攻牙は眼を細める。

 いつもなら「撫でんなー! ガキ扱いすんなー!」と抵抗するのだが、やっぱりそんな気は起きない。

 ――今だけだぞこの野郎。

 瞳を閉じて、射美の手の感覚を受け止める。

「ところで、攻ちゃん?」

「んー?」

「今日は、射美もガンバったでごわす」

「そーだなぁ」

「それはもう、四肢刎刃(ししふんじん)な大活躍だったでごわす~」

「禍々しい字を当てんな! 怖いわ!」

「んっ」

 ふと、

 頭を撫でる手が止まった。

「……?」

 眼を開くと、射美はこっちに頭を下げていた。

 茶色っぽい髪の中に、右巻きのつむじがある。

「んーんー」

 ぐいぐいと頭が押し出されてくる。

「……なんだよ?」

「ほーめーてー」

 眼の前で頭が左右に揺れる。

 攻牙は小さく笑って、ボブカットの頭に掌を乗せた。

「助かったよ。よくやったな」

 ぐしぐしと掻きまわす。指の間を、柔髪が流れてゆくのが、少し気持ちいい。

「うにぃ~」

 頭を擦り付けてくる射美。

「おい撫でにくいぞ」

「えへへ、ナデナデされるとムネがきゅーってなるでごわす~♪」

 射美は両頬を抑えてくねくね。

「きゅーって……」

 ふと、何か違和感を抱いたのかこっちを見上げて眉をひそめる。

「きゅー……ッ!?」

 瞬間、その眼が切羽詰まった色を見せる。

 攻牙は、直感した。

 恐ろしいことが起こる、と。

 今すぐこいつを止めないと、恐ろしいことが起こる、と。

「おい射美! ちょっと待……」

「うグッ!」

 もちろん、止める暇も逃げる暇もない。



「ごふエエエエェェェェェェッッ!」



 ハイパーグラシャラボラスエクスキューション!

 視界が、真っ赤に染まった。

 びちゃびちゃと生々しい音。

 むせかえるような、生臭い鉄の匂い。

 ちょっと酸っぱい匂いも交じってる。

 ……胃液込みだった。

 全身血まみれになりながら、攻牙はジト眼で茫然としていた。

「……あ、あはは……」

 射美は乾いた笑いを漏らしながら、眼を反らした。

「いっやー、うれしくてついテンション上げすぎちゃったでごわす~」

「てててテメエテメエテメエなにしてんだコラァー! 何なのお前!? 各部ごとに一回は吐かないと気が済まないの!? どーすんだコレ! ちょっ……コレ! 殺人現場かよ!」

 攻牙の体のみならず、ベッドにまで血飛沫が散っている。

 確実にシミになってる。

「犯人は恐らく、超強くて超かわいいカンッペキな美少女だったと思われるでごわす!」

「黙れ犯人! ……ったくよー霧沙希にバレねーうちになんとかするしかねーなこりゃ」

「いや~……藍浬さんはこれくらいじゃゼッタイ怒んないと思うでごわすよ~。藍浬さんのおっぱい枕で寝てるときに、つい幸せゲージが振りきれて粗相しちゃったことがあるでごわすけど……」

「普段そんなことをしてんのかお前はーッ!」

 と、その時、壁越しにたくさんの人間が動き回る気配がした。

「ん?」

 複数の物音と、うきうきとした話し声が、かすかに漂ってくる。たまに「肉だアアアアァァァァァッッッ!!!」とか聞き覚えのある絶叫が飛んでくる。

「何の騒ぎだ?」

「えへへ、なんかリビングで準備してるみたいでごわす♪」

「……はい?」

「ほら、立って立って~。シャワー浴びてリビングに突入でごわす♪ 主役が遅れちゃダメダメでごわすよ~!」

 射美に引っ張り起こされ、手を引かれながら、

「……あぁん?」

 攻牙は首をかしげるのだった。



 ●



 一国を落とせる戦力だったはずだ。

 第五級バス停『岩手大学前』のポートガーディアン、藤堂新太郎は、歯を食いしばりながら眼の前の信じがたい光景を見ていた。

 見渡す限りの焦土。無数のクレーター。高熱によって溶けかけた大地が、ぐつぐつと煙を上げ、空を翳らせている。

 地獄が、そこに現れていた。

 かつてこの場所は、豊かな原生林が生い茂る山岳地帯であった。昼なお暗い闇の中に、生命の気配が息づく、揺籃の森であった。

 ほんの数十秒ほど前までは、間違いなくそうだったのだ。

「馬鹿な……こんな……馬鹿なことが……!」

 藤堂は力なく跪き、呻く。

 藤堂ら『神樹災害基金』の戦士たちは、禁止区域・朱鷺沢町において非合法なバス停契約集団《ブレーズ・パスカルの使徒》らの活動が確認されたとの報を受け、大規模な討伐部隊を編成し、進軍しているところであった。

 その目論見は、彼らの前に勃然と現れた、たったひとりの男によって打ち砕かれることになる。

 ――いったい、あの光景を、なんとたとえればいいのか。

 男が放った、攻撃。

 その惨禍。

 胸が締め付けられるほどに美しく、恐怖すら湧き起こらぬほどに絶望的な、あの光景を。

 胸倉が、不意に掴まれた。

「ぐっ……!」

 片手で持ちあげられる。

「ここから先は、立ち入り禁止なのかもな」

 藤堂を持ちあげたその男は、研ぎ澄まされた刃を思わせる双眸を光らせていた。やり手の実業家、もしくは数学教師といった風情である。年の頃は――よくわからない。二十から四十までの間なら、何歳と言っても通用しそうだ。

「朱鷺沢町は我々の大いなる実験に使わせてもらっているのかもな。余計な介入は慎んでもらうのかもな」

「き、貴様……まさかヴェステルダーク……!」

「いかにも違わない。人類を〈自由の刑〉のくびきより解き放たんとする悪の尖兵、ヴェステルダークであるのかもな」

 藤堂は渾身の内力操作をもって男の腕を振り払うと、ひと跳びに間合いを取った。

 ただそれだけの動作にも、全身が軋みを上げる。

 ……深い、深い溜息が、男の口から流れ出てきた。

「いったい、どうするつもりなのかもな。まさか戦おうとでもいうつもりなのかもな?」

「黙れ! 部下の仇だ……覚悟してもらおう!」

 油断なくバス停『岩手大学前』を構える。

 男は目を閉じ、無言で肩をすくめた。

 再び眼を開いた時、そこに人間の姿はなかった。

「……っ!?」

 特に姿が変わったわけではない。

 ただ、その男の存在の仕方が、人間を逸脱したのだ。

 人の域にとどまらぬ力を携え、人などよりも遥かに巨大な視野を持ち、人とはまるで異なる理屈のものに動く、社会的存在。

 地面が、鳴動した。

 本来無人であるはずのこの場所に、天文学的な熱量の〈BUS〉が終結しはじめていた。

「人間とは、生まれながらに人間なのではない。社会生活の中で、意図して人間となるのかもな」

 ドクン――

 と、神の心音を思わせる音が、大地の底にて撃発する。

 男は界面下への裂け目を開く。裂け目より、凄まじい勢いで〈BUS〉の光波が噴出してきた。

 あたかも、その先に鎮座する巨大な存在の、露払いでもしているかのようだ。

「同様に、《王》とは生まれながらに《王》なのではない。神と人とを繋ぐ存在として、もはや人ではいられぬという事実に耐え、力に伴う責任を認識する――このプロセスを経て初めて、人は《王》となるのかもな」

 裂け目より、何かが競り出てくる。

 かつて藤堂が眼にした、いかなる宗教的造形物よりも神々しい、その存在。

 周囲の大気に、聖性が満ちる。ごうごうと鳴り響き、間もなくこの世に現れようとしている大いなる神樹への賛歌をひしりあげている。

「あ……う……あ……!」

 警戒を抱き、警戒は枯れ、恐怖を抱き、恐怖は枯れ、絶望を抱き、絶望は枯れ――

 やがて藤堂は、崇拝の念を強く胸に刻み付ける。

 ――馬鹿な!

 相手はただの犯罪者だ。ここで自分が止めずして、誰が奴を止めるのか。

 これまでの人生で育まれてきた、倫理観、責任感、愛、義憤、自負、そして自らのバス停への信頼――

 それらすべてを用いて、崩壊しそうな自らの心を縛り上げる。

「う、うぉおぉ……!」

 得物を振りかぶり、突進する。しかし、その足は笑えるほどに力がなく、雄叫びにも震えが混じっていた。

「王権を、行使する」

 ふいに、穏やかな、しかし気が狂いそうなほどの威厳に満ちた、宣告が聞こえた。

 裂け目より現れ出でんとしていた〈存在〉が、やがて全身を藤堂の目前に晒す。

 正視に堪えかねるほどの威光を宿す、その身に刻印された文字列を、藤堂は目の当たりにした。

「――跪け」

 その瞬間、藤堂の心は、砕け散った。

 直後に、意識は闇に閉ざされる。



 完

後書き


作者:バール
投稿日:2011/10/23 19:59
更新日:2017/08/23 19:49
『フルスイングでバス停を。』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

前の話 目次

作品ID:892
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