じわり、吹き零れる嫌な汗。どくりと不吉な音を奏でる心臓が煩わしい。
 わたしは一体、どこで選択肢を取り間違えてしまったのだろう。どうして、こんな状況に陥っている。怒りを隠し切れていない視線がわたしを下る。何時もの様は優しい筈の其の指先が、わたしの柔らかくも無く、滑らかでも無い肌を掠める。嗚呼、わたしは何を間違えたのか。




 校外実習は何時ものこと。上級生になったくのたまが一度は必ず選択を迫られる「色」の任務。校外実習とは、殿方を如何に上手く騙せるかを調べるもの。教師陣はくのたまの拙い色の使い方に苦笑したり、時には息を飲み込んで只見守ることしか出来ない時もあったりする。
 わたしは色の任務が好きでは無かったが、嫌いという訳でも無かった。自分が上手くやれば足を開く必要など無くて、お茶をご馳走になったり、艶やかな簪を貰ったり、得することばかりだ。上手くやれば。わたしには自信があったし、いざとなれば相手を失神させる位の技量は持っていた。
 過信は身を滅ぼす。
 教科書で何時か読んだ言葉がふと脳裏を掠める。嗚呼そうだ、わたしは過信していたのだ。だから。
 これは実習という名の任務だ。如何に上手く相手を騙せるか。如何に上手く逃げてみせるか。如何に上手く、くのたまの本質を隠して“女”として振る舞えるか。任務だ。任務なのだ。任務でしか無い。只の任務。任務。
 瞳は乾ききっていた。其の代わり、下半身から胸のあたりまでが妙に粘っこい白濁の液体に濡れて、酷く気分が悪い。嘔吐しそうなのを堪え、傍で無防備に眠る男を見やった。
 この男は、わたしがくのたまであることに気付いていない。わたしをひ弱な何処ぞの城の姫と思い込み、宿に連れ込んだ。人里に慣れていない、贅沢な城での生活に飽き飽きして、やっとの思いで初めて城の外に飛び出してきた姫を演じながら、わたしは男を気絶させる機会を探った。
 だが、不可能だった。
 男は忍の端くれだった。本人がそう言ったわけではない。これはわたしの勘だ。
 何時も全てが上手く行く筈が無いのに。わたしは何でこんなに馬鹿なんだろう。
 無防備に横たわっている男は、只眠っているように見えるが隙が少ない。眠りは恐らく浅い。わたしが身動ぎすると少しだけ男は反応を示す。わたしが逃げようとするのを察知しているのか如何かは知らないが。
 もうそろそろ時間だ。起こさないとこれ以上に減点される。そんなものは勘弁だ。

「……起きてくださいませ。もう、戻らねばなりませぬ……」

 肩を揺すると、わざとらしくゆっくりと瞳が姿を現す。男はにぃっと嫌な笑みを浮かべた。

「あんた、本当は何処のモンだ? 本当の姫さんじゃねぇんだろう?」
「……そうであったなら良かったのですけれど」
「……嘘は良くない。この暖かくなり始めた時期には多いんだ、実習生とやらがな」

 心臓が飛び出るかと思ったが、顔には出なかった。僅かに首を傾げて見せると、其れが幸いして、男はわたしが本当に只の姫であると勝手に確定してくれた様で、冗談だよ、とわたしの乱れた髪を撫で付けた。

「さて、風呂に入ったらもうさよならだ。良い思いさせてくれてありがとよ」
「……此方こそ、外の世界を知れて良かったです」

 社交辞令を済ませると、わたしは男に近付いた。男はわたしを抱き締める。待ちに待った瞬間だった。

「さよなら、お元気で」

 首筋に手刀を落とせば意外と呆気無く男は気を失い、だらりと腕が布団の上に垂れる。意識の無い体を布団の上に丁寧に寝かせ、其の布団で液体を拭った。
 宿の風呂に入ったら、さっさと帰ろう。減点されたくないなあ。というより、山本先生が其処にいることはもう既に承知なのだが。
 忍装束に着替え、部屋を出る前に男の着物から金目になりそうなものすべてを懐に入れて、わたしは部屋を出た。




 実習の点数は少しの減点があったものの、ほぼ満点近かった。思ったより高い評価に驚いた。足を開くことさえなければ、満点が取れたのだろう。山本先生は何も言わなかったが、わざと少しだけ悲しそうな目を向けてくれた。
 割り切っている。これは実習という名の任務だったのだ。忍であろうと思うのならば、避けては通れない道なのだ。わたしは忍たまと違って、くのたまなのだから。
 少し、いやかなり、下半身が痛い。あの男、やりたい放題にしてくれたからな。少しだけ下腹を擦りながら、お腹がすいたな、と思う。時刻は如何なっているのだろう。恐らく昼手前あたりだろう。太陽はまだ高くにある。
 食堂に着くと、おばちゃんが軽快に包丁で野菜を刻む音が響いていた。

「……?」

 はっとして振り向くと、其処にはわたしと同じ様に驚いた顔をした食満が立っていた。食満は暫く佇んでいたものの、何かを思い出したようにわたしの肩を鷲掴みにして詰め寄った。

「お前、怪我は!? 何も無いか!?」
「何、わたしがそんなヘマするとでも思ってんの? 失礼な奴」

 けらけら笑うと、食満がさっきよりも大きく目を見開いた。

「……首……」
「え?」

 わたしは鏡がないので自分の首の状態が如何なっているのかは分からないが、痛みはないし、至って普通だ。なのに、食満の視線はわたしの首元から外れることが無い。

「食満?」
「───誰にやられた」

 背筋が寒くなるような、ぞっとする、冷たい声だった。間違い無い。食満は怒っている。顔にこそ出ていないが、其の声音が物語っている。何時もの声より幾分か低い。

「あー、さっき実習で、」
「そうやって仕方無いと片付けるつもりだろう! お前の性格なんてよく分かってるんだよ!」

 其の瞳が、何時に無く怒りの色に濡れていることにわたしは息を呑んだ。だが、此処で怯む訳もない。わたしは何処までも負けず嫌いで、言い返すのは当然のこと。

「仕方無いじゃん! わたしがヘマしただけ!」

 そう言った途端、わたしの足が床から浮いた。食満の手が、強くわたしの胸倉を掴んでいるのだ。ぎりぎりと拳が震えている。

「…………」

 悔しそうに顔を歪めた食満は、わたしの胸倉を掴んでいた手を離し、俯いた。わたしは酸素を吸い込んで、声を出そうと試みたが、喉が引き攣って掠れた吐息が漏れただけだった。
 弱い者は守らなきゃいけない。わたしは弱くない。其処らの柔いおなごじゃ無い。わたしは守られるのでは無く、守る方だ。
 ぎしり、と床が鳴る。食満もわたしも顔を上げた。其処には、苦笑いを含めた表情で、今日のお昼をお盆に乗せたおばちゃんが、わたしたちを見ていた。




「……本当に怪我はしていないのか」
「何度も言ってるんだけどな、してないって」

 ずるずる味噌汁を啜り、わたしは手を合わせた。

「……ご馳走様でした」
「じゃあ、質問を変える。……何処までやられた」
「何処までって?」

 分かっていて、わざと質問をした。含み笑いをして食満を見る。
 だって、答えられる訳がない。最後までやられてしまった等と。悔しくて、机の下で拳を握った。爪が手のひらに食い込んで、ちょっと痛い。でも、あの痛みはこんなもんじゃなかった。

「其れを俺に言わせるのか」
「……組み付かれて終わり。まさか首やられてたなんて知らなかったんだよー」
「本当に?」
「嘘言って如何すんの」

 呆れた様な顔を作って、わたしはおばちゃんにお盆を返す。食満は腑に落ちない顔をしながら、わたしの後ろに続いた。
 そういえば、まだ授業中のはずだ。何故食満は此処にいるのだろう?

「六年は自習だ。其れより、其の首隠した方が良いぞ」
「ん」

 わたしは頭巾を取って、紙紐を抜き取る。でも、髪を下ろした位で其の痕は隠れるのだろうか。「隠れてるから大丈夫だ」と食満は眉尻を下げたから、隠れているのか。後で鏡を見ないとな。
 食満とは恋仲ではない。わたしに恋人はいない。食満には以前いたようだけれど、大分前に別れたのだと聞く。男なのだから女のひとりやふたり、と言ったら殴られた。食満はふざける時はきちんとふざけ、真面目な時は怖いくらい真面目なのだ。
 潔癖で、曲がることが嫌いな食満が、如何して薄汚れたわたしと一緒にいるのかは疑問だ。只、そんなことを言えば長いお説教を食らうに決まっているので、わたしは何も言わない。運が悪ければ、先程の様に宙に浮く羽目になる。ご免だ。

「……あんまり、無理すんなよ」

 食満がぽつりと呟いた。

「まあ、骨位は拾ってくれると有り難いかな」
「ふざけんな」

 わしゃわしゃ頭を撫でる食満の手のひらが、まだ少し震えていた。

床の間の柘榴

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