自室で本を読んでいると、天井裏からさんが顔を出した。さんがこうやって現れる時は主に委員会絡みだ。改めて考えてみると、一昨日から予算会議が始まったから、用件はきっと会計委員会へ説得と言う名の殴り込みをしに行こう、ということだろう。さんが満面の笑みを浮かべているのも頷ける。
嗚呼そうだ、一応さんのことを紹介しておくと、彼女はくのたま唯一の六年生で、火薬委員長を務めている。豆腐があまり好きでは無いらしく、食堂で俺に豆腐を恵んでくれる良い人だ。あ、ちなみにさんは喧嘩好きだから、怒らせるときっと死ぬ。潮江先輩が死んでいないのは奇跡に近いと思う。
さあ行くよ久々知。さんは俺の腕を掴むと、堂々と忍たま長屋の廊下を歩き始めた。本当は女子禁制なんだけど、さんは全く気にしていない。廊下で三郎と雷蔵に擦れ違った。苦笑を返されたが、俺にはイマイチ其の意味が分からない。だって、何時ものことだ。
「良いかい久々知、これは戦争だ」
満面の、しかし何処か黒いものを感じさせる笑顔を貼り付けて、さんはそう言った。此処はさんの自室だ。くのたま長屋も勿論のこと男子禁制な訳だけど、俺はさんに強制連行されてるから、お咎めは無しだ。廊下で擦れ違ったくのたま達は「先輩、頑張って下さいね」と声を掛けて去って行く。さんは其れに軽く手を振って答えている。
天日干しされていたのであろう、ふかふかの座布団に座らされ、俺は暫く暇を持て余すことになった。するとさんは気を利かせて本を貸してくれた。毒薬についての本だった。興味は其れ程無いが、他にすることも無いので読み進める。
十頁程読み終えたところでさんが大きく伸びをした。そして俺に饅頭を手渡し、簡単な説明をして自らは急須に茶を入れている。
「日頃の恨みを今晴らさずに何時晴らすと言うのか! ってね。とりあえず今回は潮江を戦闘不能にすることから始めようね」
俺が饅頭の中に粉状にされた下剤を仕込んでいると、さんが楽しげにそう言った。嗚呼、何故俺が下剤を仕込んでいるのかって?そんなのさんに頼まれたからに決まってる。これを食べるのはきっと恐らくかなりの高確率で潮江先輩だから、俺は特に気にも留めない。何時ものことだからだ。流石に低学年の奴らには食わせないだろう、さんも其処まで鬼じゃない。
「……喧嘩ですか?」
「違うよ、八つ当たり」
さんは俺の髪をわしゃわしゃと撫で回し、盆の上に真っ白な湯気が立ち昇っている中身は良く分からない湯呑みと、俺が手渡した下剤入りの饅頭を置いた。俺は湯呑みには触れていないから、其処に何が仕込まれているのかは分からない。まあ、茶が入っているのは確実だろうけど。
何の為に? 其れは火薬委員会の予算の為だ。毎度の如く削りに削られた予算を見て、遂に土井先生が悲鳴を上げたのだ。序でにきりきり痛むらしい腹を押さえてもいた。無理も無い、新しい薬莢すらまともに買い揃えることが難しくなる程の、本当に僅かな予算しか振り当てられていなかったのだから。
「今日は予算会議三日目だから、多分会計委員会は徹夜三日目。幾ら真夜中に暴れまくってる潮江でも一応は人間の筈だからちょっと位は弱ってても可笑しくは無い」
至って真面目な顔でひょうひょうとさんは言葉を並べる。何時ものことだから、俺も何時もの様に返答する。
「さんって結構失礼な発言しますよね」
「今更だね久々知」
はん、とさんは鼻で笑って、とりあえず盆を手に立ち上がった。
会計委員会が集まっている部屋の前で、さんは一度立ち止まった。行き成り攻撃を仕掛けるのかと思っていたが、先程準備していたあの熱々の正体不明の湯呑みと下剤入り饅頭を最大限に活かす為に、今回は強行突破すること無く、普通に差し入れを装って潮江先輩に一泡吹かせるらしい。
「久々知、ちょっと中覗いて」
言われるが侭にそっと障子を僅かに開け、中を覗く。
「…………」
そして閉めた。
「えっ何で閉めんの!」
さんが怪訝そうな顔をして俺を見る。だって仕方無い。障子を開けた瞬間に中にいた田村と目が合ったが、其の瞳は既に濁り切っていた。序でに言うと、中の空気は危険な香りがした。
会計委員会は多分徹夜三日目、というさんの先程の台詞を思い出す。まあ当然と言えば当然か。人は三日寝ないと死ぬそうだ。忍者になる為に睡眠を削る訓練は受けているが、だからと言って平気な訳が無い。会計委員会には同情する。火薬委員会ではそんなこと無いからな。
さんは俺の引き攣った笑みを見て状況を把握したらしく、其れは其れは悪い笑顔を浮かべた。
「失礼。死にそうな会計委員会の為に差し入れ持って来たよ」
さんがにっこり笑って障子を開けた。其の右手にある盆には普通の茶と普通の饅頭が下級生の人数分と、潮江先輩に特別作られた正体不明の湯呑みと下剤入り饅頭が乗っている。さんは生きる屍になっている下級生に普通の茶と普通の饅頭を配って、最後に潮江先輩に例の危険な湯呑みと饅頭を渡した。
潮江先輩は大して疑うことも無く、ただ簡素な礼を述べて湯呑みを口にした。何故あの堅物の潮江先輩が一寸も疑わないのかというと、日頃からさんは会計委員会へ差し入れをしているからだった。其の理由は、全ては今回の為だというのだから恐ろしい。さんは普段から全く手を抜かない。
下級生達は甘い饅頭にほっとしたのか、机に突っ伏して眠ってしまった。先に断っておくが、下級生が食べた饅頭や飲んだ茶には本当に何も仕込まれていない。つまり、下級生達の過労は当の昔に限界値に達していたという訳だ。潮江先輩も人使いが荒い。
「ぶふぁっ」
突然潮江先輩が咽た。げほげほと苦しそうに喉元を押さえている。皿の上には一口齧られた下剤入り饅頭が、そして飲み干してしまったらしい湯呑みが机の上で転がっている。
「……! き、貴様……!」
「あら、わたしは悪くないよ?疑わずに飲食したのは潮江だもの」
ねえ久々知、と同意を求められたので、適当に頷いておく。
「な、何入れやがった、」
「其れを言っちゃ詰まらんでしょうが。知りたかったら火薬委員会の予算を寄越しなさい」
「誰がやるか、バカタレィ!」
「なら力尽くで!」
「やれるもんならやってみやがれ!」
「言ったね? 後悔しないように精々頑張りなさいよ」
さんが俺に目配せした。下級生を其々の自室に送り届けて来いということだろう。俺はとりあえず抱えられるだけ下級生を抱えて部屋を後にする。過労の余りに意識を失っている体は例え下級生のものであったとしても、かなり重い。溜め息を吐いた。
さん、何時までも潮江先輩いじめてないで好い加減素直になれば良いのに。
思い返せば、に何かを盛られるのは初めてのことでは無かった。油断大敵火がボーボーだ、全く、馬鹿はどっちだ畜生。
「とりあえず予算寄越しなさい、そしたら解毒剤をあげないでも無いよ」
にやり、は笑ってクナイを投げ付けて来る。何とか手裏剣で応戦し、大きく舌打ちをした。これ位のことで予算をやる訳が無かろうがバカタレ、さっさと解毒薬を寄越せ!
「あーでももう手遅れかなあ、そろそろ体が熱くなってきたんじゃない?」
「何……」
言われてみれば全身が熱い気もする。重い蹴りを腹に沈めようとしてくるの足を交わし、大きく距離を取った。廊下でどたばたやっていたら教師の誰かに怒られる。しかしとやり合うとなると、短時間で終わったことは無い。
本格的に体が熱を訴え始めた。畜生、何の毒を盛りやがったんだこのアマ。長引いて寝込むことになるのはご免だ、かなり、とても不本意だが、諦めることにした。
「おい、!」
俺の顔面に向かっていたの拳を掴んで、言いたくは無いが如何しようも無いので、仕方無く降参の言葉を述べた。
「……予算、増やしてやるから、ちょっと攻撃すんの止めろ」
「待ってました!」
嬉しそうに顔を綻ばせて、が俺に抱き付いた。慌てて引っぺがそうとするが上手く体が動かない。熱い。本当に何の毒だったんだか。下っ腹が疼く。目の前が霞む。思わず歯軋りをすると、は嫌な笑みを浮かべて、嗚呼そうだ、と俺の名を呼んだ。
「媚薬を盛った、なんて言ったら如何する?」
「……気を失うたぁ、徹夜三日目ってのは恐ろしいもんね」
真っ赤な顔をして潮江は倒れてしまった。三日も寝ないから正常な判断が下せなくなるんだよ馬鹿。普段の潮江だったらわたしのこの馬鹿げた行為の意味を知って更に真っ赤になるのだろうけど、生憎睡眠不足で濃い隈を作ってる様な奴は気付くまい。自業自得だ。
閉じられた目許を指先でなぞる。疲れ切ってぴくりとも動かず、穏やかな寝息を立てている潮江を無理矢理に抱き上げて、わたしは自室に戻る為に踵を返した。流石に廊下に放置して風邪を引かせるのは良くない。
色々と仕返しだ、潮江の隣で寝てやる。朝起きてわたしを見て吃驚すれば良いんだ、こんな夜更かしギンギン野郎。嗚呼そうだ、寝巻きちょっと肌蹴させておこう。そんでもって潮江に寄りかかる様にして眠ってやろう。吃驚すれば良い。気付けば良い。
茶には本当に何も入っていなかったってこと、盛られたのは媚薬じゃなくて下剤だってこと、わたしがわざわざ抗議しに来たのは潮江に会いに来たからだってこと、其れからわたしは、……潮江には言ってやらないけど。