「今日はわたしが奢るから何でも食べて良いよ」

 メニューを手渡すと、目玉を落っことしそうな顔をした銀ちゃんが何を思ったかメニューを手放してわたしの肩を鷲掴み、思いっきりゆさゆさと前後に揺らしてきた。当然そんなことをされて平気な訳が無いのでわたしは抗議の怒声を張り上げる。首が折れたら如何してくれるんだ(しかしわたしは骨太だという自覚があるので、多少のことでは折れないと思っている)。

「お、おまっ……そんなこと言って良いんですかァアァアア! 銀さん自重しないよ!? ホンット何でも食べちゃうよ!? ドクターストップなんてトイレに流してきちゃうよ!? 今更駄目って言ったって聞かないよォォオオ!?」

 銀ちゃんは鬼の様な形相をしている。鼻息も荒い。興奮し過ぎだ馬鹿者め。そりゃわたしは常にケチだから一緒に食事をしても必ず割勘にするし、「奢る」なんて言葉を発することは一度だって無かったと思う(「奢れ」と言ったことならあるが)。先程のわたしの言葉が嬉しいのはよく分かる、だからって此処まで興奮するこたぁ無いでしょーが。目が血走ってるよ銀ちゃん。力入れ過ぎだよ銀ちゃん、肩潰れる。
 ガクガクと視界がぶれるので、生命の危機を感じた。このままではわたしはきっと死ぬ。まだ死にたくない。ならば、することは一つ。

「と、兎に角、は、離せェェエエ!」

 銀ちゃんの両腕を掴んで甘味処の床に其の体を叩き付けることである。




「いやね、銀さんが悪かったってのはじゅーぶん分かるよ……でもねちゃん……何も全身に青痣が出来るまで地面に叩き付けなくても……」
「何か文句でも御座いますかねアホの坂田さん」
「すいやせんっしたァァアアアア!」
「分かればよろしいアホの坂田さん」

 語尾にアホの坂田さんと付けつつ、わたしはコーヒーを啜った。銀ちゃんは悩みに悩んで十分の時間を費やして決めたストロベリーパフェに舌鼓を打ちつつ、時折痛むらしい身体を擦っている。ちょっとやり過ぎたか。
 其れでも頬がゆるゆるになっている銀ちゃんはパフェ用の長いスプーンに小さく切られた苺と生クリームを掬って、「ほれ、あーんしろ、あーん」わたしの口元に其れを差し出してきた。普段なら有り得ないことだ。地球が逆回転でも始めたのかと思うが、わたしの奢りが本当に嬉しかったということが原因だと思うので、抵抗無く其れを口にした。
 甘いものはあまり好きじゃないけど、ちょっとだけ食べたい。そんな理由で何時も銀ちゃんのパフェを一口だけ勝手に強奪することは、嫌々ながらも銀ちゃんの中で常識として積み上げられていたらしい。其れに今回初めて妥協してくれたことが、何だかくすぐったい。
 よくよく考えたらこの行為はバカップルみたいで嫌悪したくなるが、わたしと銀ちゃんは攘夷時代からの仲であるので、もう家族の様な間柄だ。だから他の男には羞恥心を感じて到底出来ない様な気恥ずかしい行為を、さも当然の様にすることが出来るのだ。説明終わり。

「……で? 何か相談でもあんの、お前」

 ぷらぷらと長いスプーンを指先で揺らしながら銀ちゃんが首を傾げた。思わずわたしは窓の外遠くを見つめる。

「……今日は空からミサイルが江戸に向けて大量に落ちてくるのかなあ…」
「何でそうお前は素直じゃないんですかァ? 銀さんの親切心を何故そうして踏み躙るんですかァコノヤロー」
「冗談だよ、察しが良過ぎて気持ち悪かっただけ」
「貶してんじゃねーか」

 笑って謝ると、銀ちゃんはまァ良いや、とわたしから視線を外した。本当に珍しい。何時もならねちっこく愚痴を零し始めるのに、奢りの威力って凄い。金は人を変えるって嘘じゃなかったみたいだ。
 温いコーヒーを飲み込んで、わたしは口を開いた。

「……失恋したよ」

 銀ちゃんは一瞬全ての動きを止めたが、直ぐに何も無かった様にパフェを一口掬った。
 真剣に聞いて欲しい半分、恥ずかしくて聞き流して欲しい気持ちも半分あることを、何だかんだで銀ちゃんはよく分かってくれている。銀ちゃんは続きを催促すること無く、ゆっくりとパフェを食べている。視線は其のパフェに一直線。

「相手の意思があって初めて成り立つもんってやっぱ厄介だね。片想いしてる時は独り善がりでぼーっとしてても怒られないけど、恋が成立すると独り善がりは許されないってのがもうはっきり言ってめんどくさい。恋人になったら直ぐに行動しなきゃいけないモン? さっさと足開けって? めんどくさい」

 眉間に無意識の内にぐっと皺が寄るのが分かる。コーヒーを啜って銀ちゃんの無反応を尻目にわたしは愚痴を漏らす。

「記念日が如何とか、元カノのマウントとか、めんどくさいことばっかじゃん。嗚呼もうチクショー腹立ってきた」

 子供に戻りたい、とか言いながらテーブルの上のメニューに手を伸ばす。甘いもの以外で何か食べれそうなもの…コーヒーゼリーで良いや。ウェイトレスさんを呼び寄せて注文する。銀ちゃんが「コーヒー飲んでコーヒーゼリー食べんのかよ。トイレから出れなくなっても知らねェぞー」と笑った。コーヒーの利尿作用位知ってるよ。仕方無いじゃん、甘いもの食べられないんだから。
 溜め息を吐こうと思ったらウェイトレスさんがコーヒーゼリー持って来てくれたので笑顔でお礼を言う。

「あーもう本当にアイツくたばれば良いんだ、何、『ちゃんは愛が足りない』って、ほんと何。お前は何様だ、神様にでもなったつもりか。そもそも愛の定義が分からん。わたしに如何しろってんだ」

 コーヒーゼリーをスプーンでぐしゃぐしゃにしてコーヒーフレッシュを注ぐ。更にぐるぐる掻き回してスプーンで掬い上げて咀嚼する。うむ、美味い。銀ちゃんが何か冷たい目でわたしを見ているけど気にしない。

「……卑猥な食い方だなオイ」

 何が卑猥だ。コーヒーゼリーを女の人に例えるんじゃない馬鹿野郎。




 愚痴はそう長くは続かなかった。途中で本当にめんどくさくなって、わたしは今一体何をしているのだろう、非常に無駄な時間を過ごしているんじゃないかと思うと何だかもう全てが如何でも良くなってきて、とりあえず空っぽになったコーヒーゼリーのカップが可愛いウェイトレスさんに運ばれていくのをぼんやりと眺めていた。
 カップが厨房の奥に引っ込んでしまったので、ウェイトレスさんにコーヒーのおかわりを注文する。銀ちゃんは今度はチョコレートパフェを食べている。


「何」

 銀ちゃんの手が伸びてくる。あれ、何か視界が滲んでる。銀ちゃんがゆらゆらと歪んで見える。

「……泣いてんぞ、お前」

 銀ちゃんが死んだ魚の様な目に僅かな温もりを浮かべて、わたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪の毛が爆発した気がするけど元々天然パーマで悩んでる銀ちゃんの其れに比べたら多分マシなんだと思う。
 銀ちゃんのチョコレートパフェは残り半分程度になっている。さっきはゆっくり食べていた筈なのに、今度は早いな。
 頬っぺたを触ってみる。濡れている。今度は目尻を触ってみる。水分が多い。何時の間に泣いていたんだろうかと疑問に思うより早く、銀ちゃんが紙ナプキンをわたしの目に押し付けた。何時も銀ちゃんは乱雑だと思っていたけど、其の手付きは意外と優しい。

「あーアレだ、傷は思ったより深かったんだなァ」

 銀ちゃんが珍しく宥める様な優しい声で言った。重力に従って当たり前の様に涙が零れた。鼻水が出てきたので新たに紙ナプキンを鼻に押し当てる。何時もだったら「女らしくねェなあ」と笑う癖に、今は銀ちゃんは何も言わず、わたしの目許から紙ナプキンを遠ざけた。

「……こーして大人になってくのね、うん、ありがとう銀ちゃん」
「止せ、感謝の言葉なんか言われると背中が痒くならァ」

 銀ちゃんがそっぽを向いた。ぽりぽりと銀髪を掻いて、ゆっくりと瞬きをしてから銀ちゃんの死んだ魚の様な目がこちらを見据えた。……訂正、少しだけ其の瞳には光が戻っている。珍しいことだ。本当に。
 銀ちゃんが声を出さずに吐息を零した。唇だけが音も無く動く。其れを昔の癖で読み取ったわたしは思わずまた泣くことになる。
 もう好い加減俺にしとけ、だなんてさあ。

滑り落ちたルージュ

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