久々知兵助は極度の鈍感だ。
 真面目で成績優秀、常識も大体持ち合わせているこの男の唯一の欠点がそれだ。もう吃驚するくらい鈍感だ。尚且つ奴は天然だ。例えば純粋な恋心の吐露を「あ? うん、ありがとう」の一言で流してしまうとか、実習で作ったビスコイトを手渡すと「ありがとう、五年の皆で食うよ」とか。ああ、これは勿論わたしのことではなくて、友人のことなのだが。
 忍たまとしては抜け目ないのに、甚だ疑問である。
 別に久々知が鈍感であるが故に迷惑を被ることなんて普通はないのだが、生憎わたしは彼に一方的に想いを寄せている最中なのでとても困っている。本当に馬鹿げている。忍の三禁なんてまともに口に出せやしない。当の昔に分かってはいるのだ、こんな感情を抱えても意味はないということは、既にわたしの中で知識としてあるのだ。だけど。
 恋慕の情とは、本当に面倒なものだ。自分でも如何することが出来ない。勝手に目線が久々知を追う。組み手をすると身体が勝手に意識して竦む。会話が弾むと気持ちは昂る。
 本日も五年の連中と一緒に朝餉を囲み、久々知の隣へ座ることに成功した。わたしが何か行動を起こした所で久々知は特段気付かない。色々と諦めている。別に良いのだ、気にしてなんかいない。久々知が夢中なのは豆腐だけだ。常識。
 ぽりぽりとお新香を齧っていると、小鉢の中で綺麗な形を崩すことなく座っている白くて四角い食べ物を久々知がいつものように「頂戴」と言った。わたしは食堂のおばちゃんの視線を避けつつ無言でそれを差し出す。ありがとう、と彼はやはりいつものようにお礼を言って、そっと豆腐に醤油を掛けた。
 今日も元気に鈍感なことで。
 漆黒の艶々な髪を触りたいだとか、豆腐みたいに白い肌を触りたいだとか、その声を独占したいだとか、その手を掴まえたいだとか。わたしはくのたまだけど一応思春期の女なのだ。色々妄想するし、その欲望を叶えたいとも思っている。わたしの煩悩は正しく百八つある気がする。潮江先輩に殴られそう。
 久々知という言葉の並びを口にするだけで胸が痛む。全く面倒な感情だ。他人のことを考えるだけで泣きそうになるのなんて初めてだから、余計に煩わしく感じる。
 長い睫毛が震える様子だとか、忍たまの友の頁を指先で捲る仕草だとか、眩しそうに大きな目を細める時だとか。目蓋を下ろせば直ぐに思い浮かべられるわたしは病気か。愛しいだなんて感情を抱え込んでいることは罪か。わたしは神様なんか信じちゃいないので、聞くとしたらシナ先生かな。でもきっと、真面目な答えは与えてくれないだろう。
 薬か何かでこの有りっ丈の思いを掻き消したり、薄めたりすることができたならどんなに良かっただろう。そうしたらわたしは、ただくのたまとして日々を繰り返すだけなのに。好き過ぎて困るだなんて、余りにも情けない。



 放課後、わたしは図書室で借りてきた大量の本を読み耽って時間を潰すことにした。期限は一週間後だから読む時間は十分にあるけど、今から授業の予習をするのは気が向かないし、かと言って他にすることもないのだ。本は良い。面白いし、他に何も考えなくて済む。今日みたいに悩み焦り時間を無駄にするような日には持って来いだ。
 深緑の葉を沢山茂らせている校庭の大木の根元に寝転がって、まだまだ沈みそうにない太陽を直視しないよう注意しながら空を見上げていた。快晴。青空。風がすっかり暖かくて気持ちが良い。やっぱり昼寝してから読書しようかな。うとうととまどろむのは、それはそれは心地良い。
 意識がぼんやりとしている最中、不意に鉢屋の姿が視界に入った気がした。
 気の所為ではなかった。鉢屋はわたしに気付くと軽やかな足取りで寄ってきた。仰向けに寝転がっているわたしを覗き込むようにして見下してくる。にやにやとした笑みは絶対に不破が浮かべないものだ。鉢屋はこちらの直ぐ傍に腰を下ろした。
「お前も大変だなあ」
 ほっとけ。悩みたくて悩んでるんじゃないんだ。
 胡坐をかいた鉢屋はわたしの前髪を勝手に触りながら、挑発を止めない。非常に鬱陶しい。
「悩んでる割に何も行動してないだろ」
 そうなんだよねえ、と反論せずに肯定したら、鉢屋はわたしを凝視した。普段なら五月蝿いくたばれ位の暴言を吐き捨てるところだから、かなり意外だったのだろう。不本意だが、鉢屋の言っていることは正論なのだ。
 しかしまあ、伝子さんを見るような目つきで見るのはやめていただきたい。傷付く。
「おいおい、諦めてたら始まらないぞ」
「や、まあ、そりゃ分かってんだけどね。でも友人として見られなくなったら一巻の終わりだと思うと」
 つい本音が零れた。口が緩くなっていたようだ。
「うわ、臆病者」
「何とでも言えば良いのだよ変(装名)人」
 ゆっくりと起き上がって、積み重ねてあった本を一冊手に取る。鉢屋は飽きることなくわたしを凝視していたかと思えば、急に腹を抱えて笑い出した。気持ちが悪い。何か変なもんでも食ったんだろうか。
「……良いことを教えてやろうか」
 何を企んでいるのか知ろうという気持ちは湧かないが、かなり邪悪な顔をしていることから、とりあえず良くないことだというのは明確だ。鉢屋の企みごと、もとい悪戯なるものは本格的過ぎて冗談で収まり切らない。今まで数限りない悪戯を繰り返してきた男の考えることなんて、さっぱり理解出来ない。少なくとも平凡なわたしには。
 断りの返答を投げ付けようと思い、わたしは前髪を摘んでいる鉢屋の手首を掴み、引き離そうとした。すると何を思ったのか、鉢屋が悪魔と間違うような微笑を浮かべ(不破に怒られろ)、こちらに顔を近付けた。彼はわたしに掴まれている腕をそのままわたしの頭上に掲げ、胡坐を解いて膝立ちで中腰の体勢を取る。
 何がしたいんだこいつ。
 思わず眉間に皺を寄せると「可愛くねーの」と彼は不機嫌そうに呟いた。全く意味が分からないので深く説明していただきたいが、暫くしてくつくつと喉の奥で可笑しそうに笑って、わたしから離れた。
「兵助は鈍感な上に思い込んだら案外突っ走る奴だ」
「はあ」
 鉢屋は苛立ったように自分の頭を掻き毟ってわたしを睨む。何で睨まれなきゃならんのだ。
「さっきの私とお前、私の遠く背後から見たら、如何見えると思う?」
「めんどくさい、端的にどうぞ」
「少しは頭を使え」
「さて、何でしょうねえ」
「男女が顔をくっ付けてたら、即ち口を吸っているに決まっているだろうが」
「うっわあ有り得ん気持ち悪い」
「天下の鉢屋三郎様に向かって何だその言い分は」
「あーすみません、心の中を曝け出してしまいました~」
 鉢屋の拳が飛んできたので受け流す。こいつはくのたまだから手加減するとかないもんな、いつだって本気で悪ふざけをする奴だから性質が悪い。悪気しかないし。全く救いようがないのだ。
「仕方ないな……この心優しい鉢屋三郎様が更に親切に教えてやろうじゃないか」
「何を」
「さっき兵助が私の遠く背後にいたりしたんだな、これが」
「ふうん」
 ごん、と鉢屋の拳がわたしの脳天を揺るがす音を立てた。痛みに反論するよりも早く、引き攣った笑みを浮かべた鉢屋に睨み付けられる。表情筋の器用な奴だ。
 久々知の気配は感じられなかった。鉢屋曰く、私達の姿を確認するや否や逃走した、だそうで。
「なあお前、私を馬鹿にしてんの?」
「今更だあ」
「もう一度殴られたいか」
「嫌だよ」
 わたしを殴ることに漸く飽きたらしい鉢屋は目頭を押さえて溜め息を吐いた。お前本当に馬鹿だね。思ったよりも柔らかい声音で、再度わたしの隣に腰を下ろした。彼は性悪だけど、本質的には誰よりも優しい奴なんだと思う。そんなこと言ったら調子に乗るだろうから、絶対に言ってはやらないけれど。
 積み上げていた図書室の本を一冊手に取った鉢屋は、ぱらぱらと頁を捲り始めた。読んではいない。眺めているだけだ。
「兵助は恋愛感情そのものが欠落してる、というわけではない」
 鉢屋が本を静かに閉じた。本の山の天辺にそれを戻して、ごろりと仰向けに寝転がって空を見ている。
「望みが全くないと思うか?」
 柔らかい風が吹いて、鉢屋の、不破とそっくりな髪を揺らした。わたしは木に凭れて笑った。
「自惚れろって?」
「それ以外にどう解釈できるよ、今の話」
「珍しいこともあるもんだ、慰められた」
「慰めてやった、感謝しろ」
「食券一枚あげるよ」
 鉢屋の返事を待たずにわたしは腰を上げた。大量の本を抱える。久々知は大体この時間であれば図書室で自習しているはずだ。今からでも遅くないらしいから、諦めるのだけは止しておこう。



 走り去った女の後姿を眺めながら、私は余りにも可笑しくてけらけら笑ってしまった。兵助はかなり鈍感だが、あいつもそれに十分張り合える。間違いなく。互いに本当のことを何も知らないのだ。
 兵助が豆腐を当然のように強請るのはあいつだけで、自覚のない恋慕にもやもやして煮え滾っていることも、私がさっき冗談半分で起こした行動に兵助が殺気を滲ませたことも。
 何年も見ていると、流石に苛々するものだ。お子様の恋愛なんて全く面白くない。本当ならばこんな面倒な役回りはお断りなんだが、雷蔵もハチも勘も私に押し付けやがったので仕方なかった。
 兵助が一年の時からずっとあいつを好いていたことは、皆が知っている。知らないのは本人だけなのだから。
 一仕事を終えた私はごろごろと寝返りを打って、目蓋を下ろした。



 図書室に辿り着くと、自習中の久々知を発見した。わたしはその二つ隣の席に腰を下ろし、吐息だけで彼の名を呼んだ。久々知はびくりと肩を揺らして、大きな目を見開いてわたしの姿を確認したが、直ぐに机に向き直ってしまう。
 何時もならその姿を見つめるだけで満足だった。でも今のわたしは変だ。全く満たされないのだ。鉢屋に奇妙なことを言われたからだと分かっている。それでも。
 長い睫毛が震えている。眉間に皺が寄っている。いつもと変わらない姿勢の正しさと、綺麗な筆の持ち方。胸がしくしく痛む。こんな感情を持ったまま、果たして生きていけるのだろうか。否、そんなことを誰に問うても無駄だ。
 ここで会話するのは危険なので(中在家先輩的な意味で)、わたしは紙に筆を走らせた。それを久々知の視界に入るようにぴらぴらとさせる。死んだら如何しよう。久々知の返答次第で全てが決まる。
 願わくば。あ、神様なんて信じてないから、やっぱりシナ先生に祈ろう。
『自惚れても良いですか』
 真っ赤になった久々知が何か音を紡ぐまで、あと僅か。

花霞に迷わないよ

100502|只野かえでさん、リクエストありがとうございました