熱いコーヒーをゆっくりと啜る。わたしはかなりの猫舌なので、温かい飲み物、或いは出来立ての料理を口にする時はかなり神経をすり減らさなければならない。直ぐに舌先を火傷するか、上顎の皮が捲れるか、そういった症状が現れてしまうのだ。非常に面倒な体質であると思う。猫舌の遺伝子をばっちり受け継いでしまったことが悲しい。
わたしは机の上に聳え立った紙束に視線をやって溜め息を吐いた。相変わらず書類は減量というものを知らないらしい。何時になったら消え去るのだろうか、と考えてみたが未来は決して明るくなかったので、またゆっくりとコーヒーを啜った。
現実逃避もそろそろ限界である。コーヒーばかり飲んでいても仕事は進んでくれないので、わたしは紙の山を切り崩しに掛かった。
白い山の一部をぺらぺら捲って内容を軽く確認する。任務資料が幾分か出て来たので、慌てて分ける。アカデミーの教育制度に関する書類やら、訳の分からない暗号文やら、それはもう兎に角何の区別も無く山に紛れていたのだった。泣きそう。何で内容ごちゃごちゃなんだ。
とりあえず任務資料だけ先に纏めて、それをランク別に並べ替える。流石にSランク任務の資料は紛れていなかったので安心だが、Bランク任務の資料がかなり多くて冷や汗が出た。ランクが上がれば上がる程、情報が少なければ少ない程、比例して任務が危険になるのは常識だ。何でわたしが書類整理した時に限って出てくるんだろう。
漸く冷めてきたコーヒーを飲み込む。うん、温くて美味い。
「終わりそうか」
「無理です」
重そうに書類を抱えた日向上忍に尋ねられて即答すると、彼は眉間に皺を刻んだ。
コーヒーの入っていたマグカップはもう空っぽになってしまった。後でまた淹れよう。眠気覚ましだ。
そういや申し遅れたが、わたしは日向上忍の部下である。右腕と名乗って良いのか分からないので、部下だ。一応特別上忍だったりする。其処はまあ、頑張ったのだ、色々と。
日向上忍は整理し終えたらしい書類達を一度わたしの机に置いて、小さく吐息を零した。だが直ぐに書類を持って踵を返すと、わたしに視線を向けないまま、僅かに顔を後ろに向けた。表情は見えないけれど、きっと疲れ切った顔をしているのだろう。わたしと同じく。
「後でコーヒー淹れてくれるか」
「了解です」
日向上忍が書類を抱え直して部屋を出た。遠ざかる足音を耳にしながら、わたしは書類と睨めっこを再開した。
目が疲れたのでぐりぐりと目頭を押す。目薬は……家に忘れたんだっけ。多分充血しているだろなあ、やだなあ、と思っていたところに日向上忍が帰って来た。疲労の色がさっきよりも酷くなっている。大丈夫なんだろうか。
日向上忍は椅子に深く腰掛けると、背凭れにだらりと体を預けて思い切り体を伸ばした。バキボキみしみしと骨の軋む音がする。今日は一日中デスクワークだったから仕方無い。後で肩でも揉んであげたら良いのだろうか。馴れ馴れし過ぎるって怒られるかな。
インスタントコーヒーの粉をスプーンで掬ってマグカップの中に零す。ポットからお湯を注いでよく混ぜて、部屋に設置してある小さな冷蔵庫から取り出した牛乳を投入する。牛乳はあくまで少しだけだ。わたしはたっぷり牛乳を入れて温くなったコーヒーを飲むのも好きだが、彼は苦手らしい。
マグカップを日向上忍の机の上にそっと置いて、ふと窓の外を見た。日向上忍が礼を言ったのを聞き流して、わたしは思わず疑問を口にした。
「……眩しい……?」
ぎらぎらと輝く光が山の向こうから発せられ始めていた。思わず目を細めてそれを眺める。嗚呼、何でこんなに目に痛いんだ。疲れてるのは一因かもしれないけれど、太陽光ってこんなにも攻撃的なものだっけ。目がしょぼしょぼする。
わたしは書類整理を始めた時間を思い出そうとした。確か、朝七時に火影様に呼び出されて、日向上忍と一緒に仕事を始めた。途中で日向上忍と一緒にお昼ご飯を食べに行って、どんどん増える書類に嫌になってちょっと昼寝して、でも日向上忍は真面目に仕事してるからという理由でわたしも暫く頑張った。
晩ご飯はテンテンが差し入れしてくれた焼飯を食べて、それからずっと書類と向かい合っていた気がする。コーヒー飲みながら。
「……日付変わってる……?」
「今気付いたのか」
驚いた様な呆れた様な声で日向上忍が笑った。あーその笑顔も眩しいので止めてください、泣きそうです。
家から持って来た枕を机の上に置いて、わたしは横を向いて頭を預けた。寝よう。目が痛くて仕事にならない。徹夜なんて嫌だ。日向上忍に無理矢理起こされるまで寝てやる。
ちなみに枕を所持しているのは日常的なので、もう日向上忍から鋭いツッコミを頂くことは無い。
大体何でデスクワークをわたしなんかにお任せになるんだ、火影様は。時間が掛かること等明らかな筈なのに。もやもや考えていたら腹が立ってきた。枕に顔を埋める。
「日向上忍、適当に、起こして下さい……」
枕で声が潰れたが、日向上忍はこれ位のことを聞き間違える人では無いので、わたしは安心して深く目蓋を閉じる。彼はとても優しいので、わたしは何時もだらけてしまう。後に怒られるか呆れられるか、どちらかの反応を示されるが、別に今更苦痛では無い。
おやすみなさい、ともにゃもにゃ呟いたら、緩やかに意識が吹っ飛んだ。
ぱちり、と目蓋が自然と開く。よく寝た。時計を見ると寝る宣言をしてからきっかり一時間三十分が経過していた。思い切り背伸びをして背骨がぼきぼきと鳴る音を聞いた後、日向上忍が何とも形容し難い目でこちらを見ていた。そんな顔しなくても。わたし悪いことしてませんよ。
机の上から手を付けていない書類を引っ張ってきて、仕事を再開する。一度眠ったお陰で意外と素早く書類の内容を理解出来て、何だか嬉しくなる。
「……何故、“日向上忍”なんだ」
唐突にそんなことを尋ねられてわたしはぼーっとしてしまった。行き成り如何したんだろう日向上忍。でもわたしは今とっても機嫌が良いのであまり気にならない。ふんふん音痴な鼻歌を零しながら、わたしは上機嫌に答えた。
「尊敬の念を込めてるのですよ」
「敬語も」
「目上の方にタメ口なんて怖くて出来ないです」
「同年だろうが」
「や、実力社会ですって」
はは、と笑って書類をホチキスで纏める。日向上忍は何か納得がいかないのか、眉間に深い皺を刻んで床を睨み付けている。怖い表情なのであまり見ない様にする。日向上忍は怒ると本当に怖いのだ。
わたしは日向上忍に本気で憧れているのだ。いっそ弟子にして欲しい位に。でもわたしは柔拳を扱える程チャクラコントロールが秀でている訳でも無いから、到底無理な話なのだ。ということで、わたしは勝手に日向上忍を尊敬することで自己満足しているのであった。
はあ、と日向上忍が溜め息を吐いた。やっぱり疲れてるんだろうなあ。日向上忍も仮眠取って下さって結構ですよ、と言うと、再び溜め息を吐かれた。わたしまた何か馬鹿なことを仕出かしたんだろうか。
あれっちょっと日向上忍、それはわたしの枕ですよ!