※鉢屋の出生やら諸々捏造




 食堂に入ると、実習帰りの六年の集団ががつがつと食事をしている場面に遭遇した。流れている空気は決して穏やかなものでは無い。
 を探すと、食満先輩の右横で味噌汁を啜っていた。食満先輩と潮江先輩は、何時もの様に睨み合いながら箸を動かしている。其の三人と違う机で立花先輩と中在家先輩が静かに料理を咀嚼している。七松先輩はすごい勢いで米を掻っ込んでいる。善法寺先輩は苦笑しながらゆったりと切干し大根を口にしていた。
 六年は誰もが全身どろどろで、表情には珍しくも疲れが見え隠れしている。さぞかし今回の実習は酷い内容だったに違いない。私達五年に与えられた実習も決して生易しいものでは無かったが、やはり一年の差は大きい。其れが如何しようも無く歯痒い。
 しかし私は其のまま苛立ちを露出させる程低脳では無いので、何時も通り皮肉な笑みを浮かべてに声を掛けた。

「三郎様も実習帰りだったのですね。お疲れ様です」

 食満先輩の横で食事をしていたが僅かに首を傾げて口の端を吊り上げた。彼女も泥に汚れ、あちらこちらに生傷が浮かんでいる。よく見れば他の先輩方も傷だらけであった。最上級生が梃子摺る程の実習か。内容は何となく分かる。
 に返事をすること無く、私は食券を片手に雷蔵の後ろに並んだ。早速雷蔵は焼き魚定食か煮魚定食のどちらにするかで迷っている。
 ちらりと横目でを見ると、彼女は特に気にした素振りも無く、ぽりぽりと胡瓜の漬物を齧っている。潮江先輩と食満先輩は目から火花を散らしている。そろそろ危ないと思ったのか、が二人に拳骨を喰らわせて、何でも無い様にまた食事に戻った。二人は頭を抱えて机に突っ伏したまま、暫く悶えていた。がげらげら笑い声を上げたのと同時に、なかなか定食を決められない雷蔵に代わって、おばちゃんに焼き魚定食を二つ注文した。




 一族の末裔だ。私が七歳の時、つまりが八歳の時に、が仕えていた城が破れ、一族はを残して散ってしまった。本来ならば鉢屋はに仕える一族だったのだが、生きているのが一人だったので、自然と立場が逆転した。特に珍しいことでは無い。
 は自ら鉢屋に仕えることを望んだ。自分一人では犬死するのが目に見えている、名も知らぬ格下の連中に使われる位なら鉢屋に利用されたい。そんな馬鹿なことを当然の様には言ったので、鉢屋の長は其れを承諾し、を私の右腕として使うことにした。何せの実力は既に其の時点で折り紙付きで、元々鉢屋は喉から手が出る程欲しい人材だったのだ。
 三郎、と気兼ね無く私を呼び捨てにして、姉の様に接してくれたはいなくなった。代わりに三郎様、と私を呼んで敬語を並べ、何でも私に従うが其処にいた。今までと変わりなく沢山の知らない忍術を教えてくれる。優しくしてくれる。私の我侭を聞いてくれる。だが其の存在は、昔とは違って途端に色褪せてしまった。だから如何すれば良いか、なんて簡単な問題では無いことも、もう分かっていた。

「あ、こら! 傷擦っちゃ駄目って何度言ったら分かるの!」
「あーすまんすまん、痒くてつい」
「仕方ねぇなあ、ほら、こっち向きな」

 突然善法寺先輩が悲鳴を上げている。苦笑するは食満先輩に顎を掴まれて、傷に濡れた頬を水を含んだ手拭いで押さえられている。痛いからもっと優しくしやがれ、なんて軽口を叩いているは、何故だか幸せそうに見えた。
 煮魚の味が分からない。ただ口に入れて噛み締めて飲み込む、其の一連の動作を繰り返して、私はやっと空になった食器をおばちゃんの元へ持って行く。

「全く、何時になったら大人しくなるんだお前は」
「潮江に言われたか無いよ、食満と何時も暴れてる癖に」

 一段と六年ががやがやして五月蝿い。私は雷蔵が食べ終わるのをまだかまだかと待っていた。の笑い顔が胸につっかえて気分が悪かった。
 私に向けられたの心からの笑顔の最後が何時だったのかさえ、遠い記憶だ。




 実習明けなので明日の授業は無い。体を休めようと思って布団に潜り込んだのは良かったのだが、何故か目が冴えて全く眠れない。ごろごろと何度も寝返りを打って、溜め息を吐き捨てて宙を睨む。体は確かに疲れている。なのに寝付けないとは如何いうことだ。

「三郎様、胃が痛むのですか」

 自室の天井裏から行き成り顔を出したが薬包紙を手に私に尋ねた。恐らく其れは胃薬なのだろうが、生憎胃は痛くない。心配そうに眉尻を微かに下げているを見ずに、

「必要無い」

 素っ気無く言い返して、私は再びごろりと朝から敷いたままの布団の上に転がる。は音を立てずに床に下りると、私の額に手を伸ばしてきた。熱なんか無い。ただ実習明けで疲れているだけだ。其の傷だらけの白い手を振り払って、私は布団に顔を埋めた。
 雷蔵は風呂だろうか。彼がいたならと適当な会話を繰り広げてくれるのだが。いない奴に頼ることは出来ないので私はが去るのをただ待った。
 は私がぴくりとも動かないのと同様に、私の枕元でじっと座っている。気配が全く動かない。戻れと言うことすら億劫で、私は何度か静かに瞬きを繰り返した。睫毛が枕に擦れる。
 私が戻れと言えば、は直ぐにでもこの部屋を去るだろう。は本当に無理難題で無い限り、私の言ったことは全て守る。だが、今はそんな気分にはなれなかった。命令するのは慣れている筈なのに、今はそんなことをしたくない。
 何刻経ったのか分からない。雷蔵はまだ帰って来ない。あいつは長風呂を好むので、多分もう暫くは帰って来ない気がする。

「三郎様」

 痺れを切らしたのか、小さくが私の額に再び手を置いた。払い除けるのも面倒だ。視界が霞んでいるので、如何やら頭がはっきりと回っていないらしい。首に指先を当てられて、脈を測られていることを知る。の温い手の温度を感じながら、私は目蓋を落とす。




 目覚めると雷蔵が酷い寝相で隣の布団にいた。夜はまだ明けていない。薄っすらと明るみ始めた東の空を見やって、私は上半身を起こした。
 額から温くなった手拭いがぽたりと落ちた。枕元には湯呑みと薬包紙が盆の上に乗っている。
 何時の間に眠ったのか定かでは無い。まだぼんやりとしている頭ではまともな思考が働かないので、私はもう一度布団に身を沈める。雷蔵が起きるのはまだ先だ。布団を頭まで被って、私は睡魔が襲ってくるのをゆっくりと待ち構えていた。
 は私以外の人間にはあまり敬語を用いない。教師陣や利吉さん、鉢屋の人間には別だが。彼女の言葉遣いは女らしく無い。どちらかと言えば口は悪い方だと思う。くのたまとして其れで良いのかと思ったが、授業中は普通のくのたまと変わらぬ喋り方をしていたので問題は無いのだろう。
 幼い頃は私はよく其の毒舌に苦しめられた。は正論を述べるのが非常に上手かった。私はぐうの音も出ず、ぎりぎりと歯を食い縛って悔しがるしか無かった。に口先の喧嘩で勝てたことは一度も無い。きっとこれからも勝てないだろう。
 枕に顔を押し付ける。呼吸が苦しいが、いっそこのまま窒息死してしまえば楽になれるのにと思った。
 私が阿と言えば、彼女は当然といった顔で吽と返す。今まで其れを疑問に思うことすら無かった自分が恨めしい。彼女は確かに私の従者だ。そして私は主なのだ。頭では理解出来ている。だが感情が追いつかない。
 いっそ口に出してしまえば楽になるのかもしれない。だがこの感情を腹の内で飼い馴らすには、まだ時間が足りないのだ。

切り札なんてありません

100826