きちりと背骨を伸ばして文机に向かう先輩は、時折首を傾げながら筆先を紙に滑らせている。時折僅かに手を止めて、小さく穏やかな呼吸を零している。それは熱心に耳を傾けて漸く聞き取れる程度のもので、紙を擦る筆の音であっさりと掻き消される。
 先輩の自室に勝手に出入りするようになって、丸二年が経つ。
 初めは勉強を教えてもらうためだった筈なのに、いつの間にやら私はこの部屋へ入り浸るようになっていた。居心地が良過ぎるのだと思う。雷蔵のいる自室すら上回る、独特の穏やかな空間なのだ。気が付いた時には離れ難くなっていた。
 雷蔵が「また先輩のところ? あまりお邪魔してはいけないよ」と言うのも、最早数え切れなくなっている。暇があれば先輩の部屋で何もせずに寝転んだり、積まれた本を読んだり、他愛のない会話を混ぜ、時たま杯を交わした。
 先輩は私を咎めようとはしなかった。今だってそんな素振りを見せない。だからだらだらと甘え続けているのかもしれない。
 そして今日、私は先輩が敷いたままだった布団の上でごろりと寝そべり、淡くしゃぼんの匂いがする枕を抱えて薄い背中を眺めている。
「何を書いているのですか」
 訊ねると先輩は手を止めた。しかしこちらを振り返ってはくれない。廊下から流れ込んだ蒸し暑い空気が先輩の髪を躍らせる。白い手で紙の端を押さえて風で飛ばないようにして、先輩は筆を置いた。
「手紙だよ」
「誰に」
 さあて、誰が良いかな。先輩は喉の奥でくつくつ笑った。肩が揺れて、その振動で髪も左右に振れる。しゃぼんの匂いはしなかった。
 相手を考えずに手紙を書く訳がない。手紙は自分以外の誰かのために書くのであって、そしてその“誰か”を設定しないことには話は始まらない。先輩はわざと可笑しなことを言う人だから(この私以上に)、今のも何か意図があったのだろう。しかし正確に読み取ることは出来なかった。
「あー、じゃあ鉢屋にしよう」
「じゃあって何です、じゃあって」
 適当に呟いてみせた先輩へ、些か悲しい、と呟いて、私は枕を胸に押し当てたまま寝返りを打つ。自分の体温で熱を帯びた敷布団が汗で湿ってしまっては良くない。同時に先輩を直視出来る自信がなかったのだ。今の私はきっと情けない面構えをしていることだろう。
 最初から私に向けた手紙であれば良かったのに。
 先輩が立ち上がった気配を背中で感じる。私は腹の中の赤子の如く身体を丸め、枕に鼻先を押し付ける。目蓋は落とす。口を開けば先輩の名前しか呼べない様な気がした。
「あれま、今日は随分寂しがりやだなあ鉢屋」
 苦笑の混じった声音が柔く鼓膜を突く。私は一等強く枕を抱き締めた。
「あは、おい鉢屋、抱き締めて良いかなあ」
 私の返事を聞かず、先輩の腕が私の体に伸びた。享受する。頭巾の結び目が解かれて、髷を結わう紐も奪われた。雷蔵に限りなく近く模した柔らかでたっぷりと量のある髪が、先輩の指先によく絡む。耳の後ろ辺りから髪を掻き揚げられて、思わず肩が跳ねた。先輩はずっとにこにこ笑っていることだろう。にやにやかもしれない。
 先輩の手が、枕を抱える私の手首を握った。成されるがまま、私は体中の力を抜いた。そろりと目を開けると少し驚いたような顔が見えた。頭上に。
「……目ぇ閉じてよ」
「嫌ですよ」
 首の後ろにも手が回って、私の体は引っ繰り返されて上半身を起こし、先輩の腕の中に落ち着いた。鎖骨の辺りしか見えない。ずりずりと体を引き摺ってもっと密着させた。先輩がくすぐったそうにしたから、顎を小さな肩に乗せた。先輩はもっとくすぐったそうに身を捩る。
「まるで子供が出来た気分」
「……まだ早いでしょう」
「じゃあ後で?」
 先輩の方がよっぽど子供のような顔をしているであろうことを敢えて指摘はしなかった。恐らくきらきらとした無垢な表情を浮かべているだろうに、似合わず下品なことを言うものだから、私は溜め息を吐いた。先輩は肝心な時以外、とても素直な人だ。己の欲望には忠実に従って生きている。
 そもそも私と先輩はそんな関係じゃない。仲の良過ぎる先輩と後輩、ただそれだけである。本音と冗談を上手い具合に混ぜる人だから、微妙な言い回しで嘘か真かを判断しなければならない。
「……しませんよ、暑いのに」
「暑くなけりゃするの?」
「……」
「冗談だって、怒るな怒るな」
 私の揚げ足ばかりを取る先輩の手が、まるで宥めるみたいに背中を優しく叩く。それが何だかとても可笑しくて、幼子みたいに私は笑って、怒ってませんよと言った。じわじわ滲み出た汗が先輩に移ってしまえば良いと思いながら、私はまどろみながら先輩の耳元に頭を寄せた。暑いなあと呟いた声がどちらのものだったかは、覚えていない。



 薄っすらと目を開くと、廊下から差し込む夕焼けが目に痛い。二人の体の重みでぺしゃんこになった布団の上にいた。先輩の肩を枕代わりにして、どうやらあのまま眠ってしまっていたらしい。まだはっきりと覚醒しない意識を頭に、先輩を起こすべきか否かを考える。そろそろ夕餉の支度が始まる頃か。ならば起こさなければ。
 しかし先輩を起こそうとした筈の私が起き上がれなかった。先輩の腕が頭の後ろと背中にあって、変な格好で先輩にくっついていた所為か、体のあちこちが軋む。足は痺れているらしかった。ぴりぴりとする足先で先輩の脛を軽く突いてみたら、電撃が走って一気に弛緩した。
「……はちやー、おはよー……」
 さっきの攻撃で目が覚めたのか、先輩がぐしゃぐしゃと私の髪を掻き回してえへらと笑った。
「笑ってないで起きてくださいよ」
「あーはいはい、まるでかあさまだねえはちや……」
「……夕餉に遅れても良いんですね?」
「あ、困る、お腹空いた」
 途端にはっきりとした口調に戻るので、私は少し拍子抜けした。先輩らしくない舌足らずな声は、こうして先輩の布団で昼寝をした後は必ず耳に出来るのだ。この時だけ先輩が幼子のように見えて、私としては心が安らぐのでずうっと聞いていたい位だが、そう上手くもいかない。
 よっこいしょ、と年寄り染みた台詞を口にして、先輩はゆっくりと起き上がった。足、楽になるまで座ってなさい。先輩が髪を結い直しながらそう言ってくれたので、私はもう一度布団に転がった。
「あとねえ鉢屋、お前わたしに夢見過ぎだよ。間違いなくお前の好みにゃ合わん」
 先輩はからから笑って私の前髪を掻き混ぜた。分かってますよ。でもあなたの寝惚けた時の声は嘘ではないから、如何しても。
 なんて口にすることが出来る訳でもなく、静かに目を伏せる。こら寝るな、人を起こしておいて、と先輩が脇を擽ってくる。急いで飛び起きて逆襲する。序でに胸を触ったら「残念、鷲掴む程もないぞ」……何でそう下品なんですか。いや、触った私が言うのも可笑しいが。



 夕餉を終え、風呂上りに私は再び先輩の部屋でごろごろとしていた。先輩は手紙の続きを書いていた。さらさらと流れる音が暫くすると止んで、白い指先が私を手招いた。
「出来た。あげる」
 先輩はにこにこしながら淡い青色をした手紙を私に差し出した。とりあえず受け取って、
「……縁起が悪いからこんなもの、捨てますよ」
「えー、折角鉢屋のために書いたのに」
「よく言いますよ、妥協して私宛てにした癖に」
 誤魔化すように笑う先輩の頬に手を伸ばす。ゆるゆる撫でて、白いそれを指先で摘む。いひゃい、と間抜けな声がした。その声に被せ、先輩の手のひらに紙の束を押し付けた。ちょっと中身を読んだだけで、それが何なのか分かって、本能で受け取りたくないと思ったのだ。
 相手のいない手紙。遺書。
 先輩は私の手の上にもうひとつの手を重ね、視線を落とした。しかし表情は読み取り切れない。
「貰ってよ」
「嫌ですよ」
 無駄な問答を何度か繰り返し、遂に私は手紙を、わざとびりびり派手な音を立てて破った。しかし先輩は苦笑するばかりで私を責めることをしない。
「せんぱい」
 舌足らずな、掠れた声が出たことに自分でも驚く。同時に視界が歪み始めているのにも気付いて、愕然とした。先輩は私の前髪をくしゃくしゃ撫でて、額を合わせてきた。
 近過ぎて先輩の顔をよく把握出来ない。目尻から色々なものが零れそうになるのを堪えると、喉の奥がきゅうとした。先輩は穏やかな呼吸を行い、私の背中を赤子をあやすように叩く。私はいつまでも子供なのだ。
「……死なないで、ください」
「うん、鉢屋が学園を卒業するまでは、頑張って生きるよ」
 先輩が私を強く抱き寄せた。私は先輩の肩口に口を押し当て、何時もの様に目蓋を落とす。緩やかで優しい眠りに辿り着けたら良い。私も先輩も余計なことは一切なしにして、死とは無関係の夢を見られたら。
 細切れになった青い手紙は床の上に散らばったまま、先輩の悲しみを抱えてじいとしていた。

勿忘草色の手紙

101031