「オイ坂田テメエふざけんじゃねぇぞォオオオ!」

 玄関を破壊する勢いで乗り込んできたのは万事屋銀ちゃんの向かいに住んでいるだった。到底女とは思えないドエライ叫び声が耳に痛い。銀さん何も悪いことした覚えないんですけどォ、と返せば既に室内に入っていたに殴られた。

「いってェエエエエ! てめェ何しやがる!」
「ああん!? そりゃこっちの台詞だ!」

 般若の様な顔つきで迫られれば自然と後ずさるものだ。ずりずりと床に尻を付けたまま後ろへ後ろへ、を繰り返していたら遂に背中が壁にくっ付いた。やべェ。逃げ場が無い。今此処でもう一度拳を振るわれたらお仕舞いだ。俺死ぬ。
 本能で腕を顔の前で交差させて硬く目を閉じた。ら、拳は降ってこなかった。代わりにぞっとする程冷たい手が俺の手首を掴み、其の温度と同じ位の低さの声音で以って耳元では囁いた。

「なんか、男がわたしん家に住み着いちゃった」
「……は?」

 てっきり罵詈雑言がやってくるに違いないと思い込んでいた俺は、予想外の台詞に拍子抜けして変な声が出た。だから如何した、問い返せば再び頭を叩かれた。……問い返さなきゃ良かった。コイツは本当に女なのか。怪力め(言ったら殺されるから言わねェけどよ)。

「新八君いる?」

 さっきの般若顔は何処へ行ったのか、は幾分落ち着いた様子で尋ねた。買い物行ってる、と言えばかなり悲しそうな顔をして納得した様だった。何、全部銀さんが悪いの?
 は今度は俺を殴り付けること無く、しかし代わりに勝手に冷蔵庫を開け、中に入っていた俺のおやつのシュークリームに齧り付いた。あ、ああああああそれ有名な洋菓子店の、一日十個限定の、ああああああ! とは言えず、俺は悲しいかな目を伏せて現状から逃避した。くそう。ジャンプ読んで悲しみを誤魔化そう。
 しかし幾らジャンプを読み耽ったところで視界に其の姿は入ってくる訳だ。生クリームとカスタードの混じったシュークリームを実に美味しそうに平らげて、はご馳走様を言った。ホントにな。腹立つゥウウ。

「……奴の大食いは異常だ」
「待て、銀さんにも分かるように話せ」

 唐突過ぎる話の切り出し方に戸惑う。はああ悪い悪い、と全く反省した様子も無く笑って、勝手に緑茶を飲んでいる。其の湯呑み銀さんのなんですけど、とかもう言えない。

「だってさ、一日に消費される米の量が半端じゃないんだよ。まるで神楽ちゃん見てるみたいで、いやでも神楽ちゃんなら話聞いてくれるけど、奴はもう、……あー腹立ってきた、とりあえず坂田殴って良い?」
「何でそうなンだよ!? 銀さんの人権をもっと尊重してくださいィイイ!」
「五月蝿い天パ」

 脳天を揺るがす様な、有りっ丈の力が込められたチョップだった。




 坂田がぴくりとも動かなくなってしまったので、自宅に戻った。動かない坂田なんていじったって(八つ当たりしたって)面白くない。まあ、某有名店の美味しいシュークリームを食せたので良しとしよう。コーヒーでも飲んで一息吐こうか。

「あ、オカエリ、さん」

 わたしの現実は今すぐ非現実になるべきであると思う、まる。
 炬燵に足を突っ込んで、わたしの気に入りの買い溜めしておいた醤油煎餅を平らげているこの男、勿論わたしの親族では無い。ご近所さんでも無い。ましてや恋人でも愛人でも無い。分類的に一昨日まで“赤の他人”だった筈なのだ。いや、今でも赤の他人であるとわたしは信じている。誰かわたしを肯定してくれ!

「あ、さん、お煎餅無くなっちゃった」
「無くなっちゃったじゃねえよお前何なの人のおやつを遠慮も無くボリボリと」

 すっからかんになってしまった醤油煎餅の袋に、悲しさのあまり涙が出そうだ。ずるずる緑茶を飲んでいるこの男は何時見てもへらへらと不愉快なチャラい笑みを浮かべているし、悲しいのか腹が立つのか分からなくなってきた。とりあえず殴ろう。

「もう、物騒だなあ」
「不審者に言われたかないわ」
「だから名乗ったじゃん」
「名乗って不審者卒業出来る訳無いだろ」

 何時までも胡散臭い笑みを浮かべたままなので、鉛丹色の三つ網を思い切り引っ張った。もうハゲろお前。渾身の力を込めてやろうかとさえ思ったが、この男はとっても裏がありそうな予感がするのであくまでも小娘の精一杯の力程度に留めておく。
 痛いなあと、本当は痛みなんてさらさら感じていない様な響きで声を放ち、今度は蜜柑に手を伸ばしやがった。今に我が家の食べ物は姿を消すだろう。こいつの胃袋はブラックホールにでも繋がっているんだろうか。迷惑だ。
 寒いので炬燵に足を潜らせる。今更この男に何を言ったところで右から入って左へ抜けていくのは分かっている。無駄な体力を消耗したくは無い。大きな溜め息を吐いてわたしも蜜柑の皮を捲る。




 事の次第は一昨日の晩のことだった。書店の仕事を終えてくたくたになった体で帰宅すると、玄関にこの男が座り込んで眠っていたのだ。目を閉じていただけだったのかもしれないが、疲労の溜まった頭では上手く思考を運べなかった。この寒空の中では可哀想だろうと僅かな慈悲の心を出したのが、やっぱり全ての間違いだったのだと思う。
 どちらにせよ男を起こさねばならなかった。この男にどんな事情があるのかは知れないが、玄関の前に座り込んでいるイケメンがいれば目立つ。暗がりでも鉛丹色の三つ網が遠目でもよく分かって、尚更放置する訳にはいかなかった。
 かぶき町には可愛い女の子がいっぱいいる。しかし顔の整った男というのは少ないのだ。人口の圧倒的多数をおじさんが占めているからである。もしこのチャイナ服を放置して噂でも立てられたらとんでもない。バイトに支障が出る。
 ねえねえ聞いた~? さんってかっこいい男の子ポイして玄関の前に放置プレイしてたんだって~。
 なんて言われた日には引越しか。とりあえず、そりゃ駄目だ。色々と有り得ない。
 恋人の一人もいない寂しい女のわたしである。一人暮らしの女の家に男を上げるのは世間一般常識としてアウトだ。だが向かいには喧嘩出来る位に親しい友人の坂田がいるし、何かあれば奴を頼れば良いだろう。何てったって万事屋なのだし。
 一番大きな理由としては、このイケメンがわたしに手を出すと思えないからだ。大方腹でも減って動けなくなっているだけだろう。飯だけ食わせて何処かに行ってもらえば良い。そう考えていた一昨日の自分を殴りたい。
 玄関の鍵を開ける前に男の肩を叩く。もぞもぞと男は頭を振り、青い目でわたしを見上げた。やっぱりイケメンだった。

「あのー、こんなとこで何してらっしゃるんですか」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、三つ網男はにっこりと笑んだ。思えばこれだって胡散臭い笑い方だったに違いない。暗がりでよく分からなかった自分をやっぱり殴りたい畜生。

「何か食べ物、ありませんか」

 加えて男は美声だった。そして想像通りの返答にわたしは玄関の鍵を開ける。やっぱり腹が減っていただけだったのだろう。冷静になって考えてみればこの男が殺人犯だったり、泥棒する気でいたりするのかもしれないという仮定を立てるべきだったのだが、如何せんわたしも腹が減っていた。

「今から晩ご飯にするので、適当なもので良いんでしたら、どうぞ」

 丁寧に男は礼を言って立ち上がった。がらがらと引き戸を開け、ブーツを脱ぐ。男は何の躊躇いも無く自然に敷居を跨いだ。……もしや、こいつこーゆーことに慣れているのではあるまいな。と、此処で漸く不審に思い始めたわたしは、もう遅かった。
 蜜柑のスジをあまり取らずに其のまま口に放り込む。炬燵に蜜柑は既に冬の定番だが、なかなか如何してこの定番は良いものだ。

「ねえさん」
「何」

 本屋で大きくコーナーを取られた元俳優の書いた処女作を読もうとした途端、男は其れを取り上げてにっこり笑う。炬燵の中で絡まっている足が解けそうに無いのがまた不思議だ。寒いから人肌に縋ろうという気持ちは分からんでも無いけれど。
 男の足の指がわたしの脹脛をなぞった。理由は知らない。そういやコイツ裸足だ。そりゃ寒い訳だ。いや、違う、そうじゃない。

「俺、殺そうと思えば今直ぐ殺せるんだよ?」

 あなたを。
 取り上げられた本のことも、炬燵の上でタコになっている蜜柑の皮も、外に干したままの洗濯物も、今日作るつもりだった晩ご飯も、全てが頭から吹っ飛んだ。
 男は笑っている。青い目を歪ませて、其れは其れは楽しそうな子供の笑みを貼り付けている。そして其の青に映るわたしは酷い間抜け面で、状況を上手く判断出来ないことを顕わにしていた。
 殺す? わたしを? うん、まあ見知らぬ人間を家に上げた時点で疑うべきだったのだから、可笑しくは無い。腹が減っている殺人犯だったのだ。わたしを殺したくてうずうずしていたのだとしたら、当然だ。
 男の足の指に生えた爪がわたしの足を包むタイツを引っ掻く。百五十デニールという厚さのこのタイツを破くのは至難の業だとは思うのだが、この男には然程影響が無い気がしてならない。もう一本の足がわたしのものに添えられて軽く圧迫した。骨が折れることを想像して背筋が寒くなった。

「あ、待って、実家の母さんに電話させて、あと色んなコンセント引っこ抜いて、洗濯物は取り込んで、冷蔵庫で腐るとえげつないモンは今食べて、辞表書いて、生ゴミ処理、ええと、あ、遺書って必要?」

 急いで炬燵から足を抜いて立ち上がったわたしを男は見据え、くすくすと可愛らしい声を出した。わたしは至って真面目に言った。実家の母さんには「宇宙人に求婚されて何処かの星に住むことになった、わたしもこれで流行のリア充だよ」と言って二度と会えなくなっても可笑しくない言い訳を述べれば安心だし、仕事場には迷惑を掛けない様にする必要があるし、家宅捜査とかに至った時に腐った匂いがしたら辛いだろうし、とか、諸々と考えた結果がこれだ。

さん、真顔で面白いこと言うね」
「…………」

 まあ座りなよ、と男が言う。誰の家だと思ってるんだと文句を投げ付けたい心地だが、殺されても可笑しくない今、下手なことは出来ない。

「殺さないよ、さんは強い子を産みそうだから」
「……は?」
「俺、そーゆー女は殺すの趣味じゃ無いんだ」

 本日三つ目の蜜柑を食べ始めた男に怪訝な顔を向けてしまったのは仕方無いことだろう。何、電波発言。安産型とでも言いたいのか?デリカシーという言葉を知らんのか。とりあえずわたしは殺されないということで良いのか。じゃあ炬燵に入ろう。寒い。
 しかし再び足が足に絡め取られ、嫌な予感しかしない。というか、この男何時出て行くんだろう。ずっと居座っていそうな気がしてならないのだが。わたしは自分以外を養える程の財力は無いし、実家に金をせびる真似は絶対にしたくない。結論として、このチャイナ服を追い出さないとわたしは生きていけない。

「え、だって俺家無いんだよ? さんは可哀想な俺を見捨てる気?」
「自分で可哀想とか言うな。不審者丸出しの癖に」

 わたしは男の手から本を取り返す。何とか賞を取ったというこの本が面白いのかを判断すべく、表紙を捲る。

「……俺は神楽の兄だよ」

 ……。わたしは表紙を戻し、立ち上がって背後にある本棚へ其れを仕舞う。読むのはまた今度だ。今其れどころじゃない。炬燵に戻って男を凝視する。
 鉛丹色の髪は、確かに向かいの万事屋に住む神楽ちゃんと似通っている。目蓋が押し上げられた時に覗く青い目も神楽ちゃんと同じだ(温度差はあるにせよ)。兄だ、と言って納得は出来る。其の食欲も。だが、信用には足らない。

「ね、さん」

 男は初めてわたしに手を伸ばした(足はもう伸ばされていたが)。わたしの前髪を指先で摘んだりして遊んでいる。振り払おうとしたら引っこ抜かれるかもしれない。嫌だな。

「名前で呼んでよ」

 男の指先が頬に移る。これだからイケメンはいけない。自分に自信があるからこんなことが簡単に出来るのだ。わたしは奥歯を噛み締め、其の手首に手を添える。腹括るのは侍だけだろうと思いつつ、攘夷時代が忘れられない自分を笑う。目蓋を下ろした。

「神威さん、住むなら働け」
さんの為なら良いよ」

 憎めないのは、コイツの顔が本当にわたしの好みだったから、と言い訳をしておこう。後で困らないように。

さざんかのたくらみごと。

101228|ミキさん、リクエストありがとうございました