長く濃い睫毛の縁取り、短めに切られた前髪は、大きな瞳の印象付けに一役買っている。常日頃からあまり揺らぐことをせず、真っ直ぐに前を見据えるその眼球は、今は落ち着きを失っていた。
 揺れているのではない。据わっているのともまた違う。薄い水の膜で目玉は潤んでいた。零れるぎりぎり一歩手前で踏み止まって、今にも溢れそうな涙を抱え込んだ瞳で、久々知はわたしを見ている。宿った考えをそこから読み取るのは簡単だった。
 実習から帰還した彼はぼろぼろだったが、怪我をしている様子はなかった。しかし頭巾を含め、忍び装束は何かに濡れていた。濃紺だったはずの色が黒く湿っているから、大体の想像はつく。指摘すれば泣いてしまうだろうか。そんなに柔な男でもないかもしれないが。
 わたしはぐるぐると頭の中だけで自問自答を繰り返し、挙句、選択することを面倒がって、とりあえず小さく息を吐いた。そして吸う。余計な言葉も一緒に。
「お帰り、久々知」
 最低限のありきたりな言葉だ。久々知は慎重に目蓋を一度落とし、またわたしを見据えた。薄い唇を噛んで、聞き取りにくい低く掠れた声でただいまを言った。
 張り詰めた空気が小さな皹を孕んで、力尽きたように彼は膝を折った。わたしの自室の前のつめたい廊下の上で座り込んで、ゆっくりとこちらを見上げる。睫毛に雫が付いている。僅か震えて、彼はまた俯いた。
「今日の夕餉には豆腐が出るそうだよ。待っててあげるから、先に風呂入っておいでよ。まだ他の五年は帰ってないから、一緒に食べよう」
 一息に幼子を宥めるような言葉を投げてみたが、久々知は顔を上げようとはしなかった。
「ちょっと失礼」
 わたしは返事のない久々知の頭巾の結び目を解いた。鉄の匂いが染み付いた長布を適当に畳み、忍び装束の上着を剥ぐ。俯いたまま、されるがままに中着と袴姿になった久々知の手を引いて、風呂場へ連行することにした。しかしあまりにも足取りが覚束ないので、結局背負った。
 久々知は男の割りに軽かった。きっと背負うと言っても引き摺ることになるだろうと思っていたのだが、すんなりとわたしの背に縋ったのだから驚きだ。女と比べればそりゃ重いが、それでもくのたまのわたしが背負えるのだから、久々知の衰弱振りがよく分かるものだ。
 厳しい実習だとは聞いていた。三日間に及ぶそれの過酷さは、まあ何となくは理解する。くのたまの実習に比べて、圧倒的に血なまぐさいだろうから。
 今の時間帯は丁度男湯らしいが、脱衣所は無人だった。風呂場に気配もないのでゆっくりと入れるだろうと言うと、久々知が小さくそうだな、と返した。だが、彼はわたしの背から離れなかった。脱力した四股に力を込めることすら困難な程に疲労しているのかもしれない。
「早くしないと夕餉、食い逸れるかもしれないよ」
 漸くのろのろとわたしから距離を取った。
「あ、着替え忘れた。部屋にある?」
「……ああ」
「じゃあ取って来るから風呂入って。頭巾と上着は洗っておくから。ぼーっとしてのぼせんなよ」
 久々知の反応は薄かった。いつもきちりと伸び切っている背筋が、重みに耐えれぬように僅かに丸まっている。一年生じゃあるまいし、放って置いてもきっと湯船には入るだろう。わたしは踵を返し、彼の自室へ向かった。



 脱衣所に戻ってくると、中着と袴姿のままでぺったり座り込んだ久々知がまだそこにいた。四年の綾部の言葉を借りて言うなら「おやまあ」である。虚ろな視線を床に投げ付けたまま微動だにしない。
「流石に風邪ひくよ。ほら、着替え取ってきたから」
 さっさと入って来なって、と言うも今度は反応そのものがなかった。余程疲労が溜まっているのだろうと判断して、わたしは足袋を脱いで裾を紐で縛り、風呂場に足を踏み入れる。湯船に桶を突っ込み、適度にお湯を掬う。床に桶を置き、脱衣所にある手拭いを一枚拝借してそれを湯に浸す。きつく絞る。
 砂埃に濡れた久々知の顔をそれで丁寧に拭う。目ぇ閉じて、と言えば彼は大人しく従った。眉の辺りにこびり付いていた他人の血を拭き取り、汚れた手拭いを洗い、絞り、再び丁寧にその顔を綺麗にしていく。大きな怪我がなくて良かった。
 全く風呂に入る素振りを見せないので、今度は首や腕も拭く。足袋も脱がせて足の指一本一本を手拭いで包んだら、くすぐったかったのか漸く久々知が表情を崩した。少しほっとした。
 実習において何かを押し殺さなければいけないようなものであった場合、呑まれてしまう生徒は多い。血の匂いに飲み込まれて、沈んで見えなくなってしまう。命を奪うことに耐え切れず、帰って来れない。持ち合わせている何かが欠け、崩れてしまう。そんな事例は何度も耳にした。
 久々知もそうなのかと思った。だが笑えただけ幾分マシだ。完全に侵食されていたならば、死んでいたのは瞳だけなんてありえない。
「背中は拭いてあげるから、前は自分でやって」
「……うん」
 今度は返事があった。が、やはり動こうとはしない。だらりと力を失った指先が床に軽く触れている。白い肌は陶器の様で、何処かに温度を落としてきてしまったように見えた。
 ははあ成る程、久々知が盗られたのは温もりか。ならばこれ以上は無駄だ。方法を変えよう。
「久々知」
 一声だけ掛けて、久々知を肩に担ぐ。先程より僅かに重みが増した気がして、頬が少し緩んだ。わたしは風呂場の戸を開き、頭上に消えかかった疑問符を浮かべる久々知を、湯船へ目掛けて投げ飛ばした。五年も忍術学園に身を置いているのだから、きっと本能で受身を取るであろうことを予想して。
 湯と身体がぶつかって派手な音を立てた。大袈裟な程に水飛沫が周囲を濡らす。
「な、何するんだ!」
 袴と髪から滴をぽたぽたと垂らし、久々知は急いで湯船から上がってきた。その顔には赤みが戻り、大きな目を吊り上げてわたしを睨み付けている。
 わたしはわざと大きな笑い声を上げた。更に疑問符を付け加えた頭をぽんぽんと撫でて、漸く生き返った久々知をぎゅうと抱き寄せる。
「お帰り、久々知」

芍薬は毒にも姿を変える

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