「こんなとこで死なせてやんない」
逆光でが一体どんな表情を浮かべているのか、俺には分からなかった。俺の頬に添えられたの掌は汗ばんでいるのに、ひやりと冷たい。指先が頬をくすぐる様に撫でて、は先程の言葉の意味を俺が問うよりも早くに立ち上がった。起き上がることすら出来ない俺は、其の俺より遥かに小さく頼りない背中を眺めることしか出来ない。
「食満は先ず無事に学園卒業するでしょ、結構良いとこの城に就職してがっつり稼いで、忍じゃなくてふつーの人とふつーの恋でもして、これからぼちぼち幸せな人生送る義務がある訳よ、お分かり? そーゆー訳で暫く其処で寝ててよ、……終わらせてくるから」
指折り、一方的に喋り尽くした後、は腰元の刀を抜いた。俺から離れていく。姿勢を低くして斬り掛かって来る忍を足先で器用に薙ぎ払い、そいつの首筋に撫でる様に刀身を滑らせたのが見えた。ばっと大袈裟な位に血飛沫が上がる。ばたばたと地面に落ちる赤は当然の全身にも降り注いでいる。だが、そんなことを気にする素振りを見せず、は再び動き始めた。動くと髪に浴びた返り血が雫を作って宙に舞った。
四方から飛んできた手裏剣を全て刀で叩き落し、其の隙に近付いて来た敵の腹部に刃を力強く突き立てて、勢い良く引き抜いたのがぼんやり見えた。敵はゆっくりと倒れていく。は其の喉元に一度刃を刺して、完全に死んだことを確認した。人間の血と膏に塗れた刀身はもう何も切れないことを分かって、は飛び掛ってきた敵の喉元に器用に其れを投げ刺した。絶命した敵の腰元から代わりの刀をは抜き取った。
また赤が散る。
、と呼ぼうと思ったが、喉からは空気が漏れただけで、言葉には出来なかった。が何を思ってさっき戯言の様なものを口走ったのか、俺には全く分からなかった。
敵のクナイがの項を掠めて、赤い一線が僅かに宙に舞った。は一瞬だけ顔を歪めたものの、直ぐにクナイを放った敵の首を撥ねた。痛みを感じないのだろうか、と考えて掻き消した。そんな訳無い。
大量のクナイが再びを襲う。ぐっとが痛みを噛み殺す為に呻いて、逆に飛んで来たクナイを掴んで敵に刺し返す。
呻き声を上げて敵が次々と倒れていく。俺とを睨み付けながら事切れて行く忍達は、怨念を込めた眼差しを消すこと無く死んでいく。を睨み付けたまま。死に際に安らかな表情を浮かべた奴なんていない。
の肩に矢が刺さった。またぐっと小さく息を詰めて、は矢の飛んで来た方向へ風魔手裏剣を投げ付ける。勿論其の速さは目で追うのがやっとだから、避けることは不可能だろう。肉の斬れる音がして、同時に断末魔が響く。
ぜえぜえと息を荒げながらも、は決して動くことを止めなかった。
もう止めろ。もう良いんだ。そんなに苦しい思いをしてまで、俺を守る必要がお前にあるのか?
は舞う様に軽やかな動きで首を撥ねて行く。ごとりと地面に落ちる其れらは自分の状態を上手く把握出来ずに死んだのだろう、唖然とした表情を其処に貼り付けていた。は首を失った胴体を盾にして敵からの避け切れない攻撃を防いでいる。
真っ赤な鮮血に濡れて、が一体何を考えているのか、俺には分からなかった。確実に敵を仕留めてはいるものの、の生傷も比例して増えていく。余計に赤が増えた。
の左の肩口に刺さった矢の直ぐ近くに、今度はクナイが突き刺さった。ぎりぎりと其の刃を骨にまで食い込ませる勢いで、敵は死ぬのを覚悟でクナイを握る指先に力を込めている。其の指はもう真っ白になるまでの力が篭っていた。は其の男を蹴飛ばして、乱暴にクナイを抜き、男の眉間に投げ付けた。
が一度だけふらりと体を揺らした。そろそろ止血をしないと危ない。だが、俺は今如何することも出来ないのだ。両足は骨が折れていて立てない。右肩から先は感覚が既に無い。視界だけは鮮明だが、其れも真っ赤だ。唯一動きそうなのは左手だけ。
敵は相変わらずの肌に傷口を広げている。に向かって左手を伸ばすが、全く届きそうに無い。
もう止めろ。止めてくれ。戯言を抜かす必要も無い。苦しまなくて良いんだ、、頼むから、なあ、死ぬなって、なあ、、
記憶が途切れている。
「留さん!」
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔をした伊作が、俺を覗き込んでいる。嗅ぎ慣れた薬品の匂いに、此処が保健室であることに気付く。良かった良かったと泣き喚いている伊作に僅かに苦笑した。嗚呼、俺は生きている。そう思ってはっとした。は、は一体如何なった?
「……ああっもうっ、留さんの馬鹿!」
伊作がまた顔を歪めて、手加減しつつも俺の頭を叩いた。其れだけで視界がぐるぐると回って嘔吐しそうになり、必死に其れを飲み込んだ。喉が気持ち悪い。苦い様な辛い様な味がして、酷く気分が悪い。
背中に手を入れられて、そっと上半身を起こされる。伊作がずくずくと洟を啜って、目許をごしごしと擦っている。おいおい、忍が泣くな、一応卵だけど。
「生きてるよう」
伊作は涙声で言った。当然の様に再び俺の頭を殴った。吐いても良いか。
日の光がよく当たる部屋の片隅には眠っていた。布団から出ている手は真っ白な包帯で覆い尽くされて肌なんか見えない。何事も無かったかの様に、穏やかな顔をしている。だが額には包帯が巻かれていたし、其の包帯は右目までを覆っている。頬や鼻筋に幾つもの傷があった。唇がかさついていて痛そうだ。あちらこちらにかさぶたがあった。
「……留さん、お粥あるよ。とりあえず食べて」
漸く落ち着いたらしい伊作に言われて、はじめて自分が今空腹であることに気付く。ぎゅるぎゅると腹が鳴った。居心地が悪くて視線を伊作から逸らすと、伊作は仕方無いよと苦笑した。
「十日も寝たきりだったんだもの、君」
「……十日!?」
「あ、こら! 大声出さない! が起きちゃうだろ!」
お前が一番大声出してるじゃねーか、とは言わないでおく。
十日。明らかに寝過ぎだ。いやそうじゃない。俺が目覚めたのが十日目、なら俺より重傷なが起きるのは一体何時だ?考えてぞっとする。若しかしたら、もう二度と目覚めないかもしれない、
「……縁起でも無いこと考えてそうだから言うけど、は留さんと違って二日前に目が覚めたよ。でもやっぱり身体が言うことを聞かないみたいだから、保健室で安静にして貰ってるんだ」
「……お前、何時の間に読心術がそんなに上手くなったんだ」
「さあね。でも馬鹿な留さんが考えてることなんてとても分かりやすいよ」
だから先ずはお粥を食べて。不機嫌そうに鼻を鳴らした伊作がそう言って匙を寄越した。小さな土鍋の中に湯気を立てた白い粥が見えた。
粥を食べながら考える。
先日、俺とは学園長から直接、ドクササコ城の近辺の偵察を命じられた。何でも盗賊が自棄に多く出回っているらしく、近隣の村に被害が出ているので、とりあえずは偵察、余裕があるなら盗賊退治。最高学年で就職前の俺達の力試し、というのもあったのだろう。は暗殺術に長けたくノたまだったし、俺も弱い訳では無いから、特に不安を感じることなく任務に向かった。
盗賊は現れた。しかし、生きてはいなかった。俺達が遭遇した時には既に死体の山となっていた。誰の仕業かを考えるより早く、俺は行き成り誰かに襲い掛かられていた。
何処の忍だったのかは分からない。だが、間違いなく雑魚では無かった。俺は早速右肩を壊され、痛みを堪える隙に両足を折られた。間抜けな話だ。が一緒にいるからと何処かで油断していたのだ。
は一先ず俺を抱えて撤退しようとしたが、敵に囲まれた為に諦めた。そして俺の代わりに敵を倒した。本当に間抜けな話だ。
溜息を吐いた。粥に乗った梅干しの味も分からない。情けなくて何も考えたくない。不貞寝してやろうかと思ったが、未だ腹が鳴っているので仕方無く粥を啜った。熱い茶を喉に流し込む。何もかも流し切って忘れられてしまえば良いのにと思った。
「あれ、起きてるじゃん」
「!」
顔を上げるとが口許に手を当てて、こちらを覗き込んでいた。包帯で肌の殆どが見えないが、覆われていない左目がきゅうと細められているので、が笑ったことを知る。の手が俺の頭をぐしゃぐしゃと掻き回してくるので、何か反論しようと思うのだが、何も言葉が思い浮かばない。ただを見つめていることしか出来なかった。
「あっ、こら! まだ安静にしてなさい!」
怒った伊作が俺の寝ている布団に躓いて頭からすっ転んだ。
「十日もぴくりとも動かないもんだからさ、結構心配したんだよ」
は俺の枕元に座って力無く笑った。何時もの様にげらげらとは笑わないは、やっぱりまだ本調子には遠いのだろう。腕に巻かれた包帯は血が滲み出てきている。薬草を擂り潰していた伊作が目を三角にして「もう! じっとしてろって言っただろ!」怒鳴った。
「あーはいはいごめんなさい、包帯換えてくれるんだっけ?」
「ちょっと、傷口開いちゃってるって如何いうことなのかな? 利き腕だから多少は仕方無いけど、あんまり動かすなって言った筈だよね?」
完全に怒った伊作が「僕が良いって言うまで二度と動かすんじゃねーぞ」と満面の笑みを浮べて言った。流石のも大人しく返事をして、伊作に腕を差し出した。
「こっちだって、お前を心配した」
「はは、誰の所為だと思ってんの」
ぐっと息が詰まった。を直視出来ず、気まずい表情を隠せない侭俺はそっぽを向いた。冗談だってば、とが左手で無理矢理俺の頭を掴んで目を合わせてきた。其処に怒りの感情は見えない。
「……わたしが勝手に動いたんだよ。逃げようと思えば如何にかして逃げれたんだ」
何処か申し訳なさそうな顔をしてから、は俺の髪から手を離して、伊作に差し出した腕を動かさずに膝を丸め、其処に顎を乗せて目蓋を落とした。
「食満となら上手くやれるんじゃないかって勝手に思い込んでね。……まあ、結果として上手くいかなかったけどさ」
ぱちぱちと瞬きをした。そんなことを思ってくれていたのか。ちょっと嬉しい。と心の中だけで呟いておく。は苦笑してぽりぽりと頬を掻いた。
「普通、囮になるのはどちらかと言えば弱い奴がなるもんだけど、本当は囮のが強くないと逆にしんどいと思わない?」
俺の返事を聞かずには続けた。
「囮は時間稼ぎをしなきゃいけないから、弱いと意味無いじゃんか」
「……確かに」
「わたしは食満を逃がしたかったんだよ」
でも其の足じゃ助けが来ない限り如何頑張っても無駄だったね、とは困った様に笑った。伊作は丁寧にの腕に包帯を巻きつけている。ゆっくりと行っているのは恐らく故意にだ。
自然な動作で俺の湯呑みに口を付けたに今更怒る気にもなれず、俺は布団の上に倒れた。
護られたくなかった、俺は護りたかったんだ。そんなこと言える筈も無く、頭を撫でてくるの手を甘んじて受け入れている。六年生にもなって、ましてや就職前に何てザマだろう。腹の中がぐるぐると渦巻いて気持ち悪い。
「食満」
薄らと目蓋を押し上げる。
「わたしの目の前では死ぬなよ」
悔しさに涙が出そうだった。違う。違う。俺はお前を守りたいんだ。守られることが嫌なんじゃない。ただお前が俺の目の前で死ぬのだけはご免なんだ。
に押し込められて喉の奥で蹲ってしまった言葉を引っ掻き出すことは、今の俺には容易くは無い。