※世界矛盾:転生逆流トリップ




「月が綺麗ですね」
「……え? あ、……は?」

 月光に目を細めて遠くを見つめていた鉢屋に、聞こえるか聞こえないかの曖昧な小さな声で呟いた。鉢屋はぼけっとした顔つきで一時停止した後、酷く狼狽しながら口許を手で押さえて、ちらちらとこちらに視線を寄越した。とても分かりやすい挙動不審。珍しいこともあるものだ、明日は雪でも降るかもしれない。何時でも不敵な笑みを絶やさずに、息を吐く様に皮肉を零す癖に、こんなにも呆気無く言葉を失うとは思いもしなかった。
 皆さーん、かの変装名人鉢屋三郎を簡単に黙らせる方法が此処にありましたよー、なんちって。
 夏目漱石が“I love you”を「月が綺麗ですね」と意訳したのは有名な話だが、何故室町時代で其れが通用してしまったのか。そりゃこの世界は何故かある程度の横文字が通じてしまうが(お約束なのだ、仕方あるまい)、幾ら何でも現在からはるかに先の時代に生きていた夏目漱石の言葉が通じてしまうのは如何なんだろう、有り得ない、と、思いたい。所詮はわたしの願望に過ぎないのだが。
 わたしは通じないことを前提として自己満足の告白紛いの行動に出たと言うのに、なんてことだ! 大きな誤算である。もうきっと誤魔化せない。鉢屋の頭の回転の速さには定評がある訳だし。
 あああああ言わなければ良かった、よくよく考えてみれば鉢屋は五感が人より優れているじゃないか、分かっていた上で何でそんなことを言おうと思ったんだろうわたしの馬鹿、あ、あああ!

「……そろそろ部屋戻るわ」

 わたしは最終手段“無かったことにする”を発動した。鉢屋は固まったまま動かない。わたしは其の侭自然に踵を返した。頼むから、ほんっとうに頼むから、今暫く何もしないでくれ鉢屋。瞬きと呼吸だけ繰り返してくれていたら其れで良いから。掘り返す様な台詞を吐かないで、本当に!
 急ぎ足にならない様に足を進める。逃げたら誰だって追いたくなるから、慎重にゆっくりと歩く。鉢屋が動く気配は無い。安堵の溜め息を零すのを我慢しながら、わたしは足裏の廊下のひんやりとした感覚に僅かに目蓋を下ろした。
 気が付くと受身を取っていた。床からの衝撃を吸収した左肩が鈍痛を訴えている。鉢屋に足を払われたのだ。何で? 知るか。
 廊下に無様に転がったわたしを鉢屋は静かに見下ろしている。
 わたしが動こうとしないからか、其れともただ面倒なだけなのかは分からないが、鉢屋は突っ立ったままだ。さっきの取り乱し様は夢だったのかと疑いたくなる位に、今現在の鉢屋は酷く落ち着いている。怒っている訳でも、悲しんでる訳でも、喜んでる訳でも無い様に見えた。見えただけで鉢屋が腹の底で何を考えているのかは分からないが。
 とりあえずずっと転がったままというのも嫌なので、上半身を起こしてみた。左半身が痛いので右肘で体を支えると、鉢屋がわたしの上に跨って胸倉を掴んで来た。苦しいので引き剥がそうとまだ痺れている左手で鉢屋の手に触れると、胸倉から其の手は離れた。
 離れたと思ったら、わたしは後頭部を廊下に打ちつけた。右肘を掴まれて引き寄せられたのだ。痛みで顔を顰めていると頭巾が解かれた。鉢屋は其れをぽいと廊下の何処かに投げ捨て、泣きそうな顔をした。
 拙い。大変宜しくない。わたしは本気で鉢屋を怒らせたのだ。目玉の淵に水分が溜まってうるうるとしている鉢屋を見たら、誰だって土下座してでも謝り倒したくなるだろう。鉢屋が泣きそうなところなんて、わたしは初めて見たものだから、其れはもう慌てるしかあるまい。
 変なこと言ってごめん、気にしないで、を言う為にわたしは喉を震わせようとして失敗した。鉢屋の指先がわたしのを絡め取って床に押し付けている。吃驚して声が引っ込んでしまった。
 現状を把握しよう。現在、大体夜。わたしは風呂に向かう途中で、鉢屋も多分同じだった。鉢屋が何処か切なげな表情をしていたものだから、わたしはうっかり口を滑らせて伝わる筈の無い思いを吐露してしまった。逃げようとしたら足払いを掛けられた。鉢屋はきっと怒っている。押し倒されたわたしは今からタコ殴りの刑なんだと思う。以上。
 だって、伝わる筈が無いと思っていたのだ。今でも疑っている。夏目漱石の言葉が如何して通じる? 訳分からん。




 ───いや、訳分からんのはわたしの方だ。
 わたしは平成に生きる女子高生だった。登校中、猛スピードの自転車に足先を轢かれて歩道で蹲って痛みを堪えていたら、これまた猛スピードで信号無視をした自動車が歩道に乗り上げてきて正面衝突、足痛い、鳩尾痛い、吹っ飛んだ体が住宅のコンクリート製の塀にぶつかって背中も痛い、意識朦朧としていたら上から植木鉢が落っこちて来た。後頭部にすごい衝撃を受けた後、頭の中身がジェットコースターに乗せられて、または幼児に振り回されたみたいにぐるぐるとした。気持ちが悪くて吐きそう、とか思ったのは覚えてる。でも其れ以降、如何なったのか全く分からない。
 漫画によくあるベタな展開だったなあと思いながら、次に目を覚ますとわたしは赤子だった。まともな言葉が口から出ない上、何時も以上に丸っこくて小さい手なんか見てしまったら、有り得ないけどわたしは赤子なんだと思うしかあるまい。おまけに何もかもが大きく見えた。視界が低いからだ。すごく奇妙だった。“わたし”としての意識を持ってる癖に、わたしはわたしの体じゃない。誰かのを乗っ取った?そんなの分かりっこない。
 ぼろっちい小屋みたいな家でお世話になった(育てられた、って言うのは傲慢過ぎる)。両親は忍者だったらしく、よくどちらかが家から姿を消した。漸く十を数える頃合いで、わたしは忍術学園に入学させられた。忍術学園?何処かで聞いた響きだな、なんて暢気に思っていたあの頃の自分殴りたい。
 入学して早々に出会った鉢屋三郎に、如何しようも無い感情を抱いてしまった。そもそも普通に女子高生している時分から鉢屋三郎というキャラクターが好きだった。此処が漫画、或いはアニメの中の世界であることをわたしは何時の間にか受け入れて、気が付けばくのたま五年生。あっれー、すごいすごい。
 鉢屋三郎とはなかなかに良い関係を築けていたんだと思う。一緒に悪戯して、勉強して、任務に出て、わたしは楽しくて満足していた。鉢屋もそう思っていたら、なんて傲慢な思いを捨てられなかった。其の結果がこれだ。
 嗚呼わたしは如何してこんなに馬鹿な行動を仕出かしたんだろう。色々と問題がありすぎる。解決策がまるで浮かばない。如何しよう。とりあえず泣いても良いか。

「な、何で泣く!」

 慌てて鉢屋の指先が乱暴にわたしの目尻に触れた。涙で皮膚が引き攣っているのをごしごしと擦られて、いってえ! と声を荒げたら、何だか余計に涙が出て酷いことになった。鉢屋は変わらずあたふたとしていて、今かなり珍しい状況だと思う。取り乱す鉢屋なんて、早々見れるものでは無い。
 とりあえず、何も無かったことにして欲しい。

「言い逃げる気か!」

 殴られた。
 勿論其のつもりだ、なんて言おうものならわたしは死ぬんじゃないかと思う。鉢屋は本気で焦っている。骨張った指先がわたしの顔を這って、ついでにむしゃくしゃした様に髪を掻き混ぜた。
 言ってしまったことは戻らない。時間は一応不可逆なのだ。例えわたしが平成の世からトリップしてきたとしても、若しかしたら其れはわたしの妄想で、虚実なのかもしれないのだ。兎に角、口を出た言葉を今更引っ込めることは出来ない。
 わたしは大人しく鉢屋が何かを言うのを待った。嫌われたかな。気まずい空気を吸うのは好きじゃない(誰だってそうだろう)。いっそ切り捨ててくれ、そっちの方が随分楽だ。

「……なあ、本心か」

 鉢屋は其れだけ言ってわたしから手を離した。あーそうだよ本心ですとも。じゃなきゃぽろっと口から出るもんか。
 じっとこちらに視線を向けてくる鉢屋に耐え切れず、わたしは視界そのものをずらした。やめろやめろ、そんな真剣な顔をするな。わたしのこの感情は真面目腐って受け止められる必要があるものじゃない。今すぐ笑い飛ばしてくれて構わないのだ。どうせ薄汚れているのだから。
 だがしかしけれども、わたしはこの世界が仮に二次元の中であったとしても、仮にわたしの妄想であったとしても、仮に現実であったとしても、嘘を吐かずに素直さを吐こうと思う。もう戻れないのだから、どちらにせよ傷はある。浅いか深いかなんてもう意味を成さない。

「本心だよ」

 ごめん鉢屋、言わなきゃ良かった。

お前の夜は何処にある

110201