算盤を弾きながらわたしは考えた。潮江はあのどす黒い隈さえ無ければそこそこ顔は整っていて、委員会中の無茶な行動を除けば割かしまともであると。立花にはあと一歩で敵わないようだが、座学の成績だって良い方だ。実技なら七松の暴君具合には負けるかもしれないが、充分に強いと言えるだろう。
 つまり、モテる要素は揃っている。だが潮江はモテない。何徹だと思わず尋ねたくなるような隈が原因か? いや、其れだけでは無い。無茶苦茶な委員会活動が原因か? いや、其れだけでも無い。真夜中に不自然な鳴き声を上げながら鍛錬をしているのが原因か? いや、……めんどくさい、キリが無くなってきた。
 よーするに潮江は自らの良い所を覆ってしまう程の負の部分が多過ぎる為にモテないのである。非常に残念だ。

「残念なのはお前の頭だ、全部口に出てるぞ」

 殺気の篭った目で潮江は此方を睨んできた。鬼の様な顔だ。特に目の下。
 周囲の下級生達はすっかり魂が抜け、机に顔を突っ伏して旅立ってしまっている。予算会議まであと一週間、しかしこの一週間が何よりキツイのだ。帳簿の纏めに始まり、安藤先生のどーでも良い洒落への対応、各委員会の委員長・委員長代理の意見を聞き、各委員会の顧問を訪ね、拷問並みに重い算盤を弾き、墨を零し、不眠不休で作業し続ける。手っ取り早く健康を損なうには会計委員会に入るのがお勧めである。誰か代わってくれ。

「なあ潮江、わたし寝たいんだ、下級生達もこのままじゃ可哀想だし布団敷こう、そうしよう」
「馬鹿たれ、まだ帳簿が二冊も残っているだろうが、其れ終わるまでは却下だ」

 ふん、と潮江は鼻息荒く筆を動かし続けている。こいつはもう人間じゃないのかもしれない。もう徹夜三日目、そしてこの三日目は峠だ。以降は素晴らしく頭が可笑しくなるので辛いのは今日までだ。だからこそ泣きたい。

「あー無理、もう無理、わたしは寝る! 田村を抱き枕にして寝てやる!」

 筆を硯の上に置き、わたしは後ろに倒れこんだ。隣には青い顔のままぴくりとも動かない田村がいる。嗚呼可哀想に、四年生で成長期真っ最中なのに充分な睡眠が取れない所為で随分細い体付きの田村。四年の中でも抜群に細いんじゃないだろうか。
 はあ、と潮江が溜め息を吐いた。筆を置いた音がする。お、やっと諦めたか!

、」
「何」
「ちょっとこっち来い」

 疲労を限界まで抱え込んだ顔付きの潮江が手招きする映像は、なかなかに恐怖である。加えて言うなら今の潮江に逆らうと更に恐怖が待っている。ああもうやだなあ、何考えてるのか分かりゃしないから怖いのだ。
 屍のようになっている田村を跨いで潮江の隣で胡坐を組む。寝させろよ、何だよもう。

「…………」

 無言の潮江の腕が伸びてきて、わたしの肩を掴むと引き寄せた。何故。固まるわたしを他所に潮江は其の頭をわたしの肩に乗せ、重い溜め息を吐いた。頬を潮江の髪がくすぐる。何故。何この状況。
 下級生達は深い眠りについているらしかった。潮江がこんな面白い行動をしているのに誰も何の反応も示さない。

「……胸無ぇなあ……」

 ぽつりと潮江が呟いた。視線は間違い無くわたしの胸元に注がれている。ほっとけ。

「将来の旦那様が大きくしてくれるから今は小さいんですー」
「変態臭い」
「お前がな」

 くつくつと潮江が喉の奥で笑う。不気味だ。そして分かるのは、今の潮江は正気では無いということだ。隈と言動の所為でおっさんに見られがちなこの男は、ぼちぼち純情なので下品なことはあまり口にはしない。立花のがよっぽど開放的に下の話をするだろう。つまり潮江はむっつり助平に属する。

「どうせお前は死ぬまで独り身だろう」
「潮江も人のこと言えなさそうだけど」
「俺は人並みに可愛い嫁さんを貰うから残念だったな」
「お前の妄想が残念だよ」

 何時の間にか肩を掴んでいた筈の手がわたしの腰を掴んでいる。くすぐったい。本当にむっつり助平だなこいつ。
 はあ、とまた潮江が息を吐いた。そんなに疲れているなら寝ろよ、馬鹿か。しかし潮江は額をわたしの肩に押し付けて微妙な息を零すばかりだ。発情期か?

「潮江、わたし眠たい」
「……寝るか」

 やっとまともな会話が成立したと思ったら、潮江の手が太ももを這っていた。思わず叩いてしまったら、ばちんと大きな音がした。しかし下級生達は目覚めること無く一定の呼吸を繰り返して動かない。序でに言うなら「寝るか」と言った潮江も動かない。

「離せよ」
「何を」
「いや、手をだよ手を。とりあえず布団敷こう、下級生達が寝違えたら可哀想だし」

 べったり貼り付く潮江を引き剥がそうとすると、潮江の手が遂に内腿に進入してきたので問答無用で殴り付けた。しかし眠さの余りに痛覚まで麻痺してるのか、またはそっち系の趣味でもあるのか、潮江は引き下がらない。何故!

「布団ぐらい敷かせてやれよ委員長! 予算会議までまだ一週間もあるんだぞ!」
「……分かった」

 漸く潮江から開放されてほっと一息吐く。押入れから人数分の布団を取り出し、ぐったりしている下級生を其の上に寝かせる。神崎が「僕は寝てましぇん……」と可哀想な寝言を言ったので、胸が痛い。
 さて、わたしも自分の分を敷くか、と思ったら、布団の数が足りないことに気付いてしまった。そういや何時もは潮江が自室から布団を一組持って来てたんだっけ。じゃあ潮江が床で寝れば良いや。


「ん?」

 振り返ると布団に寝そべって隣をぽんぽんと手で叩く潮江がいた。不思議な光景だ。あっはっは、嫌な予感しかしないぜ!

「ほら、寝るんだろ」
「潮江が其処退いてくれたら寝るよ」
「委員長を労われ」
「いや、わたしを労われよ、女だぞこっちは」
「だからだろ」
「何がだよ」

 嗚呼駄目だ、さっぱり会話が成り立っていない。目の据わった潮江は只管わたしを布団に引き込むことだけを考えているらしい。正常じゃない。ここでほいほい布団に潜ったらむっつり助平が暴走するのでは無いか。いや、確かにわたしは六年生にしちゃ色気もあったもんでは無いが、だからと言って軽はずみな行動を取って良いものか?
 だが眠気には勝てなかった。もう如何でも良い。大人しく布団を被って目を閉じる。体の線をなぞってくる潮江の手をたまに抓りながら、襲ってくる睡魔に身を委ねる。潮江はわたしの攻撃に懲りていないらしく、遂に貶していた筈の胸にまで手が伸びたので顔面を殴り付けた。

「あーもう鬱陶しい! 寝させろよ!」
「仕方無いだろ、最近その、………」

 急に黙りこくった潮江は本当に気持ち悪い。何なんだ、もじくさすんなよ女子かお前。お前の下の事情なんざ聞きたくもないわ。

「溜まってるなら抜いてきなって、きっとすっきり眠れるから」

 そして其のまま自室に帰れ、という意を込めたのだが通じなかった。潮江は本当に女子の様に目を潤ませて、無駄に腰に来る声音で囁く。

「だから、お前に…」
「寝させろっつってんだよ馬鹿!」

 寒気がした。今下級生がいきなり目覚めてくれないだろうかと思ったが、快適な睡眠の真っ只中にいる後輩達にわたしの願いは届かなかった。潮江はわたしに覆い被さるような姿勢のまま、此方を見下ろして動かない。睡眠不足によって充血した目がよろしくない光を帯びている。
 冷静になっている場合では無さそうだ。如何やら此処までが潮江の作戦だったらしい。まともな思考回路が戻っていない今、体力もじりじり減りつつある今、わたしに何が出来るだろうか。潮江の潮江が戦闘体勢に入る前に何とかしなくては。とりあえず殴っておこうか?

 朝、目覚めて潮江が大絶叫するのは最早お約束なのである。

蛹を開け

110505|飛鳥さん、リクエストありがとうございました