幼馴染というじれったい距離を二十数年続けてきて、今更頑丈に構成されたこの関係をぶち壊すには些か勇気が足りないわたしである。よくある少女漫画の王道パターンだ。最もわたしが報われる見込みが全く見受けられないので、甘ったるい少女漫画には成り得そうにも無かったが。バッドエンドに全力疾走中だ。
 蝮ちゃんは良い子だ。柔造が惚れるのもよく分かる(柔造が口に出しているところにはお目にかかったことが無いが、多分そうに違いない)。わたしの立場的には二人の恋路を邪魔する悪役でなければならないのだろうが、如何せんもう疲れた。十数年片想いをしたら好い加減諦めようという気持ちになるものだ。とか言いつつ引き摺っているのはわたしだけど。勝手に疲れているのもわたしだけど。言わなければ分からないので問題無い。
 縁側で桶に水を張って足を突っ込んでこの世を恨んで沈んで転がっているわたしを助けてくれるご都合主義の神様はいないし、待つのは暗い未来ばかりである。就職してるだけマシか。あ、神様はあかんな、仏様なら構わんか。仏教やし。
 腹の内はすっかり黒コゲで、ずくずくに膿んで汚い。思わず腹を切り開いて中に食器洗い用洗剤をぶちまけてスポンジでごしごし擦ってやりたくなる程には。恋をすると人は変わると言う。成る程、わたしだって生まれたての頃は柔軟剤で洗い立てのような白さと輝きを持った腹を持っていたことだろう。今のこの薄汚さにはほとほと涙が出る。だが涙の前に鼻水が出るので上手く感傷にも浸れない。わたしはつくづく残念な人間だと思う。
 恋愛感情というものは一種の精神病に値するものであると言うから、わたしはさっさと入院でもして特効薬を作ってもらい、腹の内をすっかり真っ白にして新しく生まれ変わるべきなのだ。と、決心しても行動を起こさないので、一生経ってもきっと精神病を抱えたまんまだ。
 ところで、何時までも見合い話を断り続けるわたしに母親が好い加減ブチ切れる寸前であることは見れば分かるので、そろそろ何とかしなければならないのが最近の悩みだ。だがやる気が出ない。全く出ない。さっぱり出ない。当分の言い訳は「仕事忙しい」「もっと上目指したい」「高給取りになったらおかんも楽出来るやろ」の三点である。この言い訳の三種の神器ももうじき時効だ。三十路までに結婚するのが一般常識などと誰が決めた爆発しろと思うのだが、このままずるずる独り身でいる為の新しい言い訳を考えるのも面倒だ。
 あーあ、もし蝮ちゃんが性格悪くて顔もよろしくなくてスタイル悪くてどーしよーもない人やったら良かったのに。まあ有り得ない。現実は其の真逆だ。蝮ちゃんは悪くない。悪いのはわたしだ。だって蝮ちゃんは可愛い。わたしがもし男だったら即嫁にしてたね! いっそ柔造が蝮ちゃんと今直ぐ結婚してくれれば諦める覚悟も出来るだろうに。
 後悔しても反省しても懺悔しても腹がじゅくじゅく膿んでいることに変わりは無いので、もういっそくたばるのが一番良いのではないかと思い始めた今日この頃。いのちだいじに! という言葉があったよなあと思うと如何してもあと一歩が踏み出せないのはわたしがチキンだからである。でも鶏にはなれないし歌が上手い訳でも無いのでただの役立たずなチキンなのである。
 柔造はモテる。かなりモテる。死ぬほどモテる。顔も良いし祓魔師としても充分に強い、一族の跡取りだし基本的に親切で優しくて子供好き、充分にモテる要素を兼ね備えてる。何かこうしてつらつらと長所を述べているとわたしは本当に柔造馬鹿なのだと思い知らされて非常に惨めだ。思わず身長を伸ばしたくなる。
 自分の惨めさを隠すために真実を述べると、志摩家の男達は全員何かしらよくモテるのである。そして女の子と付き合ってもあまり長続きしない。志摩家の連中は見た目以上にあっさりし過ぎていたり、アホだったり、助平だったりするからだろう。其れでも女の子達は寄ってくる。わたしも其の一部と変わりゃしないのだが。
 何故わたしは女なのだろう。何故わたしは柔造と同い年なのだろう。男だったら友情で完結させられたのに。柔造より年下だったらまだ道は開けたかもしれないのに。
 もしもの話を考えると決まって気分が悪くなるのだが、自虐的なのか、現実を認めたくないからなのか、どーしても思索に耽ってしまうのだ。めんどくせえ。何でわたしはこうなんだろう。ただの幼馴染のツラを被って女になれる瞬間をまだかまだかと待ち構えている。なんて滑稽な。そして無様だ。
 自分を客観的に見詰めてみよう。今年で二十五歳、女、独り身、柔造しか目に入らない、外見はそこらに転がっているレベル、祓魔師上二級、称号は竜騎士と詠唱騎士、このままだと孤独死する可能性九割。……いやあ危険だ。この現状は非常によろしくない。何とかせねば。祓魔師として食っていくのに充分な金は稼げるが、人生は全く充実しないだろうし。リアルが充実してる人は皆爆発しろよ。
 いっそ鶏になりたい。コケコッコ。

、ちょっと今時間くれん?」

 柔造が声を掛けてきたので、わたしは手拭いで足先の水分を拭って立ち上がった。柔造が勝手に我が家に入り込んでくるのは何十年も経て培われた常識であり、わたしが柔造を見ただけでちょっと元気になるのも常識なのだ。わたしはもう末期患者に違いない。誰か薬を。
 柔造の言う「ちょっと今時間くれん?」は大抵わたしが柔造と付き合っている女の子との別れ話に付き合うというもので、これもまた少女漫画で使い古されたテンプレートであるのだが、夢も希望もクソも無い。あるのは必ずわたし以上に可愛らしい若しくは綺麗な女の人がさめざめと泣いて柔造に縋るか、またはどかんとブチ切れてわたしを散々に罵って柔造かわたしに手を上げようとして失敗し、煮え切らない腹を抱えて逃亡してしまうか。やっぱりよくある使い古された典型的パターンだ。
 柔造は別れた女の人を追いかけることをしない。理由は聞いたことが無いから全く分からない。推測しようとしてもわたしなんかが柔造の考えてることを理解出来そうにないので、そもそも尋ねることを諦めている。何で柔造は蝮ちゃんが好きなのにわざわざ他の女の人と付き合って、そしてわたしを別れる理由の題材にするのだろうと思いながら、わたしは言いたいことを全て真っ黒な腹に押し込めて柔造の後ろを歩く。横なんか歩けるものか。
 夏はゆっくりと其の姿を隠し始め、穏やかな秋風が吹き始めている。まだ数匹のツクツクボウシが寂しげに腹を震わせ、秋の入り口を拒んでいるようだった。太陽は真夏に比べれば少しは温度を下げたのかもしれないが、じりじりと肌を焼く感覚から言えば大して変わらない。
 冬眠したいと思った。太陽はもうちょっと人に優しくなるべきだ。オゾン層頑張れ。

「横きいや」
「……いらん、ご近所さんに誤解させたない」
「ほうか」

 わたしの心情を透視しているのかどうかは知らないが、柔造は毎回そう口にする。ふざけてそう言っているなら一発殴ってすっきりするところだが、この時の柔造は至って真面目な空気を纏っているのでわたしもふざける訳にはいかないのだった。何でこんなことに、と毎回思っている。
 お見合いを受けてみるのも良いかもしれない。もう柔造を見詰めるのにも飽きなければいけない頃合いだ。二十五と言えば結婚適齢期真っ盛り、夢を見続けるだけでは生きていけない。おかんがどでかい火山を噴火させて襲ってくる前に手を打つ必要がある。何とかせねば。だが柔造を見るとそんな気持ちは宇宙の彼方へあっさり吹っ飛び、だらだら月日を浪費するばかりである。
 この度の女の人は一般人らしいので、祓魔師の格好をしている訳にもいかず(今までは大抵任務を終えたばかりの頃合いに柔造に拉致されていたので私服を考える必要は無かった)、しかし暑いので、そして面倒なので普段着の浴衣で出向くことにしたのは間違いだったかもしれない。草履をぺたぺた鳴らしながらの炎天下はなかなか苦行だった。足の指が日焼けする。日焼け止めはべたべたするから嫌いだ。




 小さなカフェで待ち合わせをしているらしい。だがこの道筋は如何考えてもわたしが気に入りでよく入り浸っている店に繋がるものと同じであり、わたしの予想を裏切ることなく柔造は其の店を指差して「あこや」と言ったので、わたしはこれから死刑される人と同じような気持ちになった。よりにもよって何で其の店なのか。何度でも言おう、わたしの気に入りの店であると。
 店の主人はわたしが一人でないことを確認して吃驚した顔をした。此処でコーヒーを飲みながら新聞を読むというおっさんのような行動しかしないわたしであるから、まあ吃驚するのも仕方無いがちょっと失礼ではあるまいか、とりあえずコーヒーください。
 主人は祓魔師だったから、勿論柔造のことも知っていた。俺はもう引退したんやと言って結構お洒落なカフェを営んでいる主人は、興味津々な目付きでわたし達を見ている。

「何やちゃん、ようやっと捕まえたんか」
「ちゃいますよ、残念ながら」

 僅かに含みを持たせた言葉に柔造がどんな反応をするかと思っていたが、生憎華麗にスルーされた。まあお分かりの通り柔造の眼中にわたしはいないということだ。悲しいわあ。
 主人は苦笑してコーヒーを淹れる作業に取り掛かった。柔造は少しばかりきょろきょろ視線を彷徨わせている。女の人はまだ来ていない。




 わたし達がカフェに入って数分後にやって来た今回柔造と付き合っていた女の人もまた可愛らしい人で、こんなに可憐な人を振って柔造は一体何がしたいのかと思わず怒鳴り散らしそうになったが、見掛けによらず手が先に出るタイプだったらしい女性にわたしは思い切り激しく頬をひっ叩かれて死にたくなった。誰が好き好んでこんな可愛い人にビンタされなきゃならんのだ。どうせなら抱き締めて欲しい。荒んだ心を優しく慰めてくれないだろうか。溜め息が出る。
 しかも其の女性の綺麗に施されたネイルアートの飾りが頬を引っ掻いたらしく、さっきからずっと目の際が痛い。女の人は柔造に一方的に言葉をぶつけ、最後にわたしを綺麗に睨み付けてお帰りになった。嵐は去った。
 わたしはまだ湯気の出ているコーヒーに息を吹きかけながら飲み、柔造は少々傷付いた顔のままわたしの隣に座って項垂れている。まさかこんな泥沼展開が繰り広げられるなどと予想していなかったであろう主人は、わたわた慌ててわたしと柔造にチーズケーキを出してくれた。此処のチーズケーキは絶品で、しかも料金をおまけしてくれるという主人の太っ腹さには涙が出そうだ。しかし涙を浮かべてお礼を言えば主人の慌て度は更に上昇することが分かっているので、出来るだけ涙腺を引き締めて笑顔でチーズケーキを食した。美味い。柔造も複雑そうな顔は何処やら、とりあえず笑顔で美味しそうにチーズケーキを食べていたが、食べ終われば陰鬱な空気を再び抱えて項垂れてしまった。こんな光景を見ている主人の方が泣きそうな顔をしていた。
 家帰りてえ。




 とりあえず帰路を辿る。太陽はまだ高い位置で紫外線をがんがん放出中。柔造はばちんと叩かれたわたしの頬を心配そうに見て、何時も通りにすまんかった、と言った。何時ものことなのだ。本当に手を出されたのは初めてだけど。分かっていながらわたしを連れて行くのはアレか、そんなにわたしを傷つけたいのか、そんなに憎いか畜生、わたしがお前に何したよ、と思ったところで自分の何時もの行動を振り返り、仕方無いのかもしれないと思ってしまった。

「大丈夫か? すまんかった、手え出すと思わんかって」
「痛い。アイス奢ってくれたら許したろ」
「安いやっちゃな」
「じゃあハーゲン」
「ゴリゴリ君でええな?」
「こんケチンボ!」

 即答する柔造を軽く殴って冗談めかしてそう言うと、柔造はけらけら笑ってからホンマすまんな、と悲しげな顔をした。ちょっとだけ優越感を味わったことで腹の汚れは少しでも薄れたのかもしれないが、心の傷は倍なのでプラマイゼロだ。
 手え出すと思わんかって? まあ今まで手を出してきて未遂に終わった女性はいたが、其の考えは甘い。皆わたしをとんでもない目付きで睨み付けていたことを知らない訳ではあるまいに、ずれた発言をする柔造に少し苛立った。このまま嫌いになれたら幸せだろうに、なあ自分。
 首筋にじわりと汗が浮く。額も僅かに湿っぽくなっていて、わたしは手の甲で其れを拭った。目尻の傷から血は出てるだろうか。わたしの心臓からは既にだくだくと流れているが。

「あ、ちょおこっち向け」
「あん?」

 柔造の骨張っている大きな手が渾身の一撃を食らった頬に添えられた。

「あーやっぱし傷出来とる……すまんかった」

 血は出ていたらしい。まあ軽い怪我であるからすぐ治るだろう。何度も謝ってくる柔造に何だか申し訳無くなってきて、居心地が悪い。

「何回謝るん、もうええよ、アイス奢ってくれた、ら、」

 何かが目尻を這った。ぴりぴりとした痛みが同時に走って、随分近くにある柔造の顔に先程の感覚が舌によるものだったと知り、何もかもが吹っ飛んだ。アイスで全部チャラにする予定が、何てこった。

「じゅう、」

 喉から出た声はかすっかすで、ついでに膝ががくがく震えているのを自覚する。今何が起きた。柔造は今何をした? 同情からこんなことする奴だっけか。分からん。何せこんなことは初めてだ。如何反応すれば良いのだろう、誰か頼む教えてくれ。

「……どないした、間抜け面晒して?」

 仏様、これは苦行ですか、其れともご褒美ですか、もしや幸せフラグですか、其れともただの痛い勘違いですか、とりあえずわたし今すぐ大往生出来る自信あります、死ぬなら今ですか。

「……何顔赤うしとんねん、あほ」

 こっちが恥ずかしわ、と柔造がわたしの前髪をくしゃくしゃ掻き回すように撫でて、困ったように笑った。恥ずかしいのはこっちやアホンダラ、其の笑顔が一体どれだけの破壊力を持っとるか自覚しろやホンマに。普通の女子ならコロッといってまうぞ。わたしなんかは一撃必殺や、間違いなく。

「うん、わたし柔造好きやで」

 撫でられた頭が沸騰寸前で何も考えられない。さっきの笑顔のダメージが酷すぎて膝が今にも崩れそうで、頬が勝手に吊り上ってしまう。何か可笑しな返答というか爆弾を投下してしまったような気がするけど最早如何でも良い。きっと死ぬなら今だ。
 という訳で意識をすっ飛ばしてしまったわたしは、其の後の柔造が真っ赤な顔で炎天下に立ち竦んでわたしを抱えていたことなど知らないのである。後の展開なぞ知らん。なるようになるしかないのだ。思い描いていたバッドエンドはちょっと回避出来る可能性が上がったことだろう、ならばめでたしめでたし、これにて一件落着で良いやんか。

骨からでまかせ

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