※夢主→廉造→勝呂




さんは、ずるいわ」

 唐突に廉造はそう零した。思わず背後を振り返って凝視すれば、廉造は常日頃浮かべている胡散臭い笑顔を何処かにやって、わたしを真っ直ぐ見ていた。その目に篭った熱は低くない上に、薄っすら水分の膜まで張っているのが分かってわたしは逃げ出したくなった。泣きたいのはこっちである。
 坊と猫さんは二人して買い物に出掛けてしまった。参考書やらを購入する為らしい。わたしと廉造はお留守番なのである。此処は女子寮内のわたしの部屋で本来男子禁制であるが、多分その規則を守っている人間は少ないので怒られるとしても廉造だけだ。わたしが男子寮に行っても良かったが、廉造が此方に来るのが早かった。先程までわたしは数学の問題を解き、廉造はベッドの上に転がって持参した女の人の裸体でいっぱいの本を見ていた筈なのだが。
 エロ本は閉じられてわたしの枕元でじっとしている。表紙の水着姿のお姉さんの白くて柔らかそうな胸と太ももとが眩しいので是非とも表紙を裏返して頂きたいが、廉造が何時に無く真面目な顔をしているので茶化すのは気が引けた。何故わたしが気を遣わねばならぬ、わたしの部屋だというのに。

「やって、さんは坊と付き合えるでしょ、」

 親指を折って廉造はわたしを見た。

「坊と結婚出来るでしょ、」

 人差し指も折って廉造は瞬きをした。

「坊のお子を産むことかて出来る、……ずるいですやん」

 中指まで折って廉造はそう吐き捨てた。ずるいと小さく繰り返した。能面の様な顔で言うものだからその迫力、思わずごめんなさいと謝りたくなる程である。部屋の空気は七月の癖に冷蔵庫並に下がった。首筋を流れた汗は脂汗では無い。ずるいずるいと子供のように繰り返す廉造の、目玉に篭った憎しみの色を直視出来ないわたしである。




 廉造は何時だってへらへら情けない笑みを晒しながら、今まで一度たりともわたし達の前でまともな本音をその口から出すことは無かった。女の子に対しては本音で生きてきたのかもしれないが。本音というか、本能というか。
 ……否、本当は違うことを知っている。廉造は坊を好き過ぎる余り、坊に勘付かれることを恐れて女の子に走っているだけだ。だから女の子と長続きしていない、未だ嘗て三ヶ月を越えた女の子をわたしは知らない。外見上可愛くて、性格の優しい女の子ばかりと付き合っているのは、出来る限り坊と掛け離れた人を選ぶことで坊を諦められる、若しくは忘れられるかもしれない、と考えてのことだったのだろう。恐らく逆効果だが。
 廉造は柔らかくて甘い匂いのする女の子を抱き締めて、全く正反対の、硬い肉に身体を包んだ、少しだけ汗の匂いがする坊を反射で思い出しているのだ。馬鹿か。何て滑稽な。わたしは笑う。本当に逆効果だ。廉造はそのことに気付いていないから余計に性質が悪い。
 優し過ぎるというのは結局誰にも優しくないことだと誰かが言っていたが正しくその通りであろう。女の子はふわふわして可愛くてあったかくて綺麗で輝いているものだと廉造は言う。盲目的に信じている。でもそんな女の子は一握りで、どろどろした気持ちを抱え込んでいたり鬱々としていたり意地汚くて前を向かない子だっているのに。まあそれがわたしだと指摘するまでも無い。何故なら廉造はわたしを見ない。
 恋愛は対等でなければならない、とわたしは思う。愛情は足りなくても、また与え過ぎてもいけない。対等に向き合っていないとどちらかが潰れる。関係が嫌になるのは目に見えている。その点廉造と女の子はまるで吊り合っていない。廉造は坊に求めるものを女の子に求め、そんなことは知らない女の子は溢れんばかりの愛情を欲しがる。天秤が傾き過ぎている。
 基本的に廉造は女の子に対しては紳士的で、多少の助平心があるにせよ、期待させるのも上手い。言葉を操る舌先が器用なのだ。だがそのよく回る口は時々余計な一言を零し、最終的に女の子を怒らせてしまう。
 廉造が女の子に振られる瞬間は幾度と見ている。大抵廉造は張り手を食らって、女の子は可愛い顔を涙でぐしゃぐしゃにして叫ぶのだ。

『廉造君、あたしより好きな人おるんやろ!?』

 その度廉造が青白い顔で声も出せずに突っ立っているのを、何度も見てきた。ずっと。




 女の子の鋭利な言葉に明らかに傷付いて、血の気の引いた顔のまま、廉造は決まってわたしに声を掛ける。いつもだ。わたしも随分慣れた。

『なあなあさん、遊びに行かへん?』

 にこにこ笑う廉造の胡散臭さは普段の七割り増しで、でもわたしはその笑顔にわざと騙されてやるのだ。こいつは一人でいられない。誰かが傍にいないと笑えない。だから、手頃な距離にいるわたしを誘う。猫さんでは駄目なのだ、彼は潔癖で、聡いひとだから、廉造は自分を見抜かれるのを恐れている。坊なんてもっと駄目だ。そんな訳で、わたしはその時だけ廉造に手を握られてデート紛いのことをする。
 映画館、水族館、動物園、ゲーセン、カラオケ。中学生の行動範囲なんてこんなものだ。地元だと同級生に出くわす可能性が高いから、大阪や兵庫や奈良に行って遊んだ。計九回。つまり九回廉造は女の子と付き合って振られている。
 高校生になって、早くも二回遊んだ。東京には地元の同級生がいないから、適当にぶらぶら買い物をした。廉造は必ずアクセサリーショップに寄る。ピアスコーナーを通り過ぎようとして立ち止まる。わたしは今まで敢えて何も指摘はしなかったが、今回はついうっかり口から余計な一言が出てしまった。

『あ、これ坊のしてはるのんとよう似てる』

 うっかりというか、八割わざとなのだが、廉造には効果覿面で見事に動揺してくれた。わたしは何にも分かってない振りを続けながら適当に会話を切り出す。

『なあ、坊の誕生日プレゼント、そろそろ買わなあかんやろ?猫さんはもう買ってしもたんやって。廉造はどないすんの?』
『……え、あ、せやなあ……さんは何にしはるの?』
『んー、悩んでるとこ。カチューシャはしえみちゃんがあげるって言うてたし、出雲ちゃんはスポーツタオル、朔子ちゃんはタンブラーやて』
『そうなんや……ピアス、は、また穴増やしはるかもしれへんしなあ』

 あれ以上増えたら痛々しくて見てられへんわ、と視線を彷徨わせながら廉造は頭を掻いた。動揺がここまでバレバレなのも珍しい。わたしは細々とした繊細で折れそうな、きらきら可愛らしいピアスを手にとってみた。心臓に穴が開いていても、耳たぶに穴の開いていないわたしには縁の無いものだ。

『何か二人で一緒に買う? そしたらちょい値段張ってもいけるやろ』
『おん、そうしよ! せやったら……やっぱ実用的なもん?』
『珍し、廉造がまともなこと言うとる』
『珍しないですー! もー、さんひどいわあ』
『知るか』

 酷いのはお前だ。こんな時しか呼び出されないわたしがどんなに惨めかお前に分かるか。




 すん、と廉造が鼻を鳴らした。
 傷を隠すのが病的に上手い廉造は、何でもかんでも自分の中に溜め込んで、何もあらしませんよと笑うような奴だ。流れるように日々を生きて、めんどくさいことを嫌い、怠惰と可愛い女の子を愛し、坊と猫さんの一歩後ろで傍観を決め込む。その姿勢は幼い頃から殆ど変わっていないが、明確に変化したものがあるとするなら、その目の熱だ。
 きっともう廉造は色々と我慢ならないのだ。溜まりに溜まった不満やら憤りやら悲しみやらで腹をいっぱいにしているのだから当然だ。寧ろ今まで良く耐えた方だと思う。
 シャーペンを問題集に挟み込んで、わたしはきちんと背後の廉造に向かい合った。壁に掛けてある時計の秒針が喧しい。のっぺりと表情を無くしていた廉造は、

「俺の方が、」

 不自然に言い留まって、俯いた。片手で顔を覆って小さく肩を震わせている。間違っても笑いを堪えているのでは無いだろう。淡い青色の水玉模様のベッドシーツに小さな水溜りが幾つか発生し始めたのがその証拠だ。
 廉造は投げ出していた足を折って、膝を立てて其処に顔を埋めてしまった。旋毛がよく見える。髪の根元が僅かに黒くなっていて、ピンクなんぞに染めるからやとわたしは頭の中だけで笑った。ピンクやない、これはピンクがかった茶色なんです、と廉造が反論したことを思い出す。何だか随分前のことのように思えた。
 諦め癖のある廉造が食い下がることなど珍しい。故に今の廉造の発言は、心のうちに留めておくことすら出来なくなるほどに溢れてしまっている感情の一部が露見したに過ぎない。ならば限界だったのだろう、此処まで追い詰められているなどとは思わなかったが。
 視線をこちらに寄越すこと無く、廉造は震えて掠れ切った声を絞り出した。

「なあ、さん、」

 今直ぐ泣いてやろうか。そうしたらこの男は一体どんな行動を起こすのだろう? わたしは今、ものすごく廉造を困らせたかった。心臓が痛くなるような思いをさせてやりたかった。目の奥に溜まった熱を吐き出したくてたまらない。平常を保てる自信が全く無い。

「坊だけは、坊だけは好きにならんでください」

 前を見てみろよ志摩廉造。

「……安心しい、わたしの家から坊には嫁がれへんわ」

 わたしは呆れた声音で返事をした。事実だし、確かにわたしは坊が好きだが、それは男女間のものでは無く、幼馴染としてだ。廉造だってよく分かっている筈なのに。
 馬鹿な廉造。現実がちっとも見えちゃいない。わたしが今まで見てきたのは坊の隣にいる廉造だ。

「……俺は、さんを、親友やと、思てます」

 頭をフライパンでぶん殴られたような衝撃が走った。

「せやから、……お願いや、」

 顔を上げた廉造の、痛々しい表情を前にわたしは一言も口を開けなかった。潤んで洪水を起こしている垂れ目に篭った熱はわたしに向けられたものでは無いのに、真っ直ぐに見詰められて少し胸が高鳴った。現金だ。
 いま、まちがいなく、れんぞうはわたしをみている。

「────坊を、盗らんとって」




 廉造がそういう意味で坊を好いていたのは知っていた。多分中学生の頃から廉造は自覚したのだと思う。わたしが廉造を好きだという自覚を持ったのが小学五年生の時で、その時からずっと廉造を見てきたから何となく分かる。しかしただの憶測であるので確定は不可能だ。
 男女の壁は厚く、高かった。
 坊に一番近い女は多分わたしだ。幼馴染としてなら廉造も猫さんも同じ距離の筈だが、異性としてなら間違い無く一番だ。でもわたしも坊も互いを異性として意識したことが無いのでそんなのは無駄な話なのだが、多分廉造は充分誤解して帰ってこれなくなっている。悲しいことだ。
 小さな嗚咽が耳に刺さる。再び膝を抱えて丸くなってしまった廉造に言葉をぶつけたところで解決しないし、かと言って如何することも出来ない。今更勉強を再開する気にもならない。一体何をしろと。呼吸を繰り返すだけで良いのか。

「なんでおれはおとこで、ぼんもおとこで、さんはおんななんやろ……」
「親の遺伝子に聞きい」
「好きなんや、でも自分の、立場は、分かっとるつもりなんや、やから、」
「……もう黙りよし!」

 ぐしゃりともう解き終わった数学のプリントを握って丸めてゴミ箱に渾身の力で投げ入れた。綺麗な放物線を描くこと無く、叩き付けられるように直線的な運動をしたプリントはゴミ箱のふちに当たって落ちた。わたしは立ち上がって、くしゃくしゃのプリントを拾い上げて引き裂いた。わざと派手な音を立てて破いた。細かく千切って今度こそゴミ箱の中に沈めた。ばらばらの数式がこちらを見上げている。廉造とは視線が合わない。
 唇を噛んだら血が出た。拳を作ったら爪が手のひらに食い込んだ。ああくそ、一体わたしが何をした。

「俺、さんになれたら良かったんに、なあ」

 ふるえる声で廉造は言った。語尾に含まれた嘲笑は廉造だけで無くわたしにも深く深く突き刺さって、暫くはきっと抜けないだろう。最悪だ。
 畜生、わたしは坊になりたい。

ピアスホールには恋が住んでる

120315