※暴力表現有り




 思い切り殴られて左の鼻の穴から出血した。吹っ飛んだ身体が廊下の壁にぶつかった為、背骨に嫌な予感がする。すぐ隣にある窓にぶつけられなくて良かったと思いながら、頬を殴れよ、と鼻を摘み言うと「口の中が切れると飯が食べられなくて可哀想だと思ったまでだ」何だか優しいのか酷いのかよく分からない台詞を返され、互いに沈黙した。上手く殴られたおかげで骨は折れていないようだ。しかし痛い。女を殴るっておまえ。
 基本的に食満は女の子を殴る趣味は無い筈だ。潮江と喧嘩している光景は日常であるが、この男は普通に親切だし、(潮江以外には)特別キレやすい性質でも無い筈なのだ。となると、今わたしが殴られたこの状況はどんな理由を付ければ良いのだろう? うーん、わかんね。
 唇の上を伝って流れる鼻血を手の甲で拭いながら、制服のスカートのポケットから駅前で配られていたちり紙を取り出し、とりあえず鼻の穴を覆う。制服のブラウスの白だけを見詰めながらわたしは尋ねる。

「シャツに血い付いた?」
「付いてない」

 不機嫌さをこれでもかと滲ませた声で返されて、ならば安心だ、と思ってわたしは只管俯き、じわじわティッシュに血液を染み込ませる。喉の奥には早くも鉄の味が滑り込んできていて大変不愉快だ。
 廊下に座り込んで血液を零さないように必死になっている姿は些か滑稽であろう。食満は鋭い目付きのままわたしを見下ろし、ふんと鼻を鳴らした。自業自得であると。わたしは納得出来ず、ただ鼻を摘む指先に力を込める。

「……あ゛ー、止まらん」

 何時までもだくだくと放出し続ける鼻を更に強めに摘んだ。今頃になって痛くなってきた鼻の奥を何とかしたいのだが、指を突っ込んでも如何にもならないので、勝手に出た涙を止めることすら敵わなかった。痛い。

「あ、こら泣くなよ、気分悪ィ」

 お前最低だな、とティッシュの奥で呟いた。聞き取れなかったらしい食満は「あ? 何て?」と普通に聞き返してきたが、泣いている女という立場を利用しないわたしではないので無視決定。誰か近くを通ってこの状況を誤解してくれ。
 浮気されたけど許した、その程度のことでこの男が何をそんなにムキになっているのかは知らないが、わたしの中では至って常識的なことだ。高校生の恋愛なぞ、恋愛ごっこに足らないではないか。真剣に付き合っている奴らの方が少ないとわたしは思っている。奴らは彼氏彼女がいるということ自体に憧れているだけだ。お遊戯なのだから適当にしていれば良いのだ。何れ黒歴史とやらに成り代わって酒を飲む時の笑いの種になるだけだ。

「……ちょっとは妬けよ」
「うわあ理不尽、ちょっと落ち着け」
「お前本当に高校生か? もっと純粋になれよ」

 おいおい勘弁してくれよ、わたしが純粋だった頃なんて精々幼稚園までだっつーの。小学生の頃から早熟だった近所に住む仙蔵に色々吹き込まれたわたしが無垢な乙女に戻れる訳があるまい。というか、食満の方がよっぽど乙女だ。お留三郎なだけに。わたしは納得してティッシュを鼻の穴に突っ込んだ。やっと血が止まったのだが、安心してまた噴出すと面倒なのでこの処理は避けられない。

「そもそも純粋な人は浮気なんかしないって。ていうかね、いっつも可愛い子に浮気されたら妬くどころか勝ち目が全く見られないって分かってる?」

 ちょっと鼻声なのは仕方無い。涙腺は漸く締まったようで、目尻に僅かに残った塩分が皮膚を引き攣らせている。

「あと胸のでかい子と足の綺麗な子ばっかり。あ゛ー背中痛いわー最悪だわー心抉られるわー何であんたわたしと付き合ってんの?」
「ふざけんな」
「ふざけてんのはあんたでしょ、堂々と浮気繰り返しても別に咎めないわたしが便利だから付き合っ」

 最後まで言うことは敵わず、わたしは胸倉を引っ掴まれて窓ガラスに押し付けられた。ひやりとした温度を後頭部に感じ、僅かに焦る。この暴力馬鹿は本当に馬鹿だから、ガラスを割ることなど造作も無い。頭切ったら縫わなきゃいけないのが面倒だ。下手したら出血多量で死ぬし。

「だから、妬いて欲しかったって言ってんだろうが」
「……まだまだ未熟な高校生が愛を語れるもんかね。わたしは食満の気持ちなんか分からないし、分かろうとするつもりも無いよ」
「じゃあ振れよ。嫌がらせされてまで付き合うのか」

 食満がわたしの足を踏み付けて、わたしは思わず悲鳴を上げた。わざわざ指先を踏みやがった。痛みに震えていると食満は器用に足先だけでわたしの履いていた校内用スリッパを取り上げ、サッカーボールのように蹴り上げて空中で掴んだ。お見事、と言いたくとも痛くて言えない。どんだけ強く踏んだんだコイツ。指先がじんじんしてまた勝手に涙が出そうだ。

「――こんだけデカデカと落書きされておいて、よく履けるな」
「いやあ、履けないより良いし、何よりその落書きを隠す為に自分で絵描いたりするのが楽しいんだよねー」

 我ながら立派な絵画作品がスリッパの中に潜んでいる。これを描き始めたらスリッパへの落書きは随分減った。落書きされる度にわたしがクオリティを上げて絵を完成させているからだろう。あの子達だって根は悪くないのだ。
 食満と付き合っているわたしに嫌がらせをしてくる女子は、基本的に良い子ばかりだ。だからわたしは今までに受けた仕打ちの中で怪我をしたり、心が折れるようなことは無かった。スリッパへの落書きと、よくぶつかられることぐらい。世の中にはもっと辛い思いをしている人もいるので、わたしは随分軽い方だ。

「……妬いてほしかっただけだっつの」
「ハイハイ、歪んだ愛情デスネ」

 食満は音が出そうな勢いでわたしを睨み付けた。何でわたしが悪者みたいになってんだ。悪いのは浮気ばっかりする食満じゃないか。
 切れ長の目や後輩に優しいところとか、何事にも一直線(過ぎる)なところとか、まあコイツは本当は良い奴だけど、確かにモテるけど。その事実を踏まえると尚更何故わたしと付き合うに至ったのかがよく分からなかった。敢えてわたしを選択することに何の意味があったのかも知らないし、というか多分意味など無いだろう。理由なんぞ考えていたら頭が痛くなってくるのでわたしは息を吐いてみた。

「溜め息吐くなよ」
「……いや、こんなベタな展開に吃驚しただけだよ。何、漫画の読み過ぎ? ドラマの見過ぎ?」
「お前はまず現実見ろ」

 ご尤もな台詞を頂戴し、とりあえず我に返ってみた。むずむずする鼻の穴に突っ込んでいたティッシュを引き抜き、真っ赤に染まったそれを見てちょっと嫌な気持ちになった。食満はさっさと目を手で覆っていて「早く捨てろ」と急かす。どうやら血は苦手らしい。男の人は大量の血を見ると失神するんだっけ。あ、出産の痛みを経験したら、だったか。何にせよ食満は血が苦手と判明したのでもうそれで良い。今度それでいじめてやろう。
 軽く鼻を摘んでみると、中の粘膜が血液で覆われた所為でぱりぱりに乾燥して奇妙な感覚がする。ずっと片足立ちでスリッパの返却を待機するわたしに同情の心でも湧いたのか、食満は居心地悪そうな顔をしてスリッパをわたしの足元に置いた。

「鼻痛い」
「……すまん」

 謝るなら最初からこんなことしなけりゃ良いのに。とは言わない。この男は頑固で、加えて同じようなことを何回も繰り返すから(殴られたのは初めてだったが)。どうせまた浮気するのだろう。今更傷付くものか。
 スリッパに足先を滑り込ませ、廊下から教室の中にあるゴミ箱へ血塗れのティッシュを投げ込んだ。赤色は見事ゴミ箱の中に収まった。投げ終えたことを横目で確認した食満がほっと息を吐いた。まるで駄目なおとこだ。おいマダオ。

「……食満もさあ、わたしなんかよりきちんと妬いてくれる可愛い女の子と真剣に付き合うべきだとわたしは思」

 言い終える前に食満が拳を握ったのが見えた。冗談だよ、と言わせて貰えるのだろうか。病院には行きたくないぞ。

傲慢と呼ばないで

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