下手糞な鳴き声を披露しているツクツクボウシが一匹。やけにゆっくりと鳴くので夏を惜しんでいるのかと思ったが、必死に残り物の雌を探して鳴いているだけだろうという結論に至った。随分お粗末な鳴き方なのであれでは雌に接近出来んだろう。
祓魔師になる為の学校へ通っている志摩とは随分会っていない。まだ半年程度だが、何十年と同じくらい長く感じた。東京でも女の子を追い掛け回しているのだろう。想像に難くない。教室でエロ本を開くのは如何にかするべき悪癖だと思っているが、それを告げること無く志摩は旅立ったので、どうなったかは知らない。
自ら京都に残ることを決めておいて、何と無様なのか。一生懸命頑張って入った進学校は、志摩も坊も子猫さんもいないから少しだけ色褪せて見える。友達はいっぱいいる。でも幼馴染の三人組がいないだけで、酷く落ち着かないのだ。自分で選んだくせに。
祓魔師になりたくないと思ったことは無かった。でも専門の学校に行かずとも日頃から京都でお手伝いをしているし、柔造さんや金造さんが色々教えてくれる。東京に行くには金がかかるし、わたしは祓魔師よりも普通の学校で勉強したかった。だからこの選択に後悔はしていない。だが寂しいという感情は、閉じ込めておくことが出来なかった。
自分で選んだ癖に。わたしはなんて馬鹿なのだろう。祓魔師になる為に、必ずしも塾に通わなければならないなんてことは無い、と言われたからか。いや、違う。傍で志摩を見ていられなくなったからだ。自分で自分の首を絞めるわたしの滑稽なこと。溜め息が出る。
「あ、さんやん」
フェイスタオルで額に浮いた汗を拭いながらの帰宅途中、驚いたような声音が鼓膜を震わせた。
半年の年月の重さを知った。わたしは自然な動作を心掛けながら、フェイスタオルを額から目許にずらす。浮き出た液体を拭って、背後を振り返る。ちゃらついた、へらへらした、情けない面構えの男がいた。帰ってきていたのか、と思う。しかし声にはならなかった。
中学三年の秋、そろそろ志望校を固め始める時期だった。内申点は良かったし、わたしは府立のトップレベルの高校への進学を希望していた。坊と子猫さんと柔造さんには伝えたが、志摩には伝えることが出来なかった。志摩はとても無責任な奴なので、何も考えずにわたしに正十字学園への進学を勧めるに決まっているからだ。
教室で机を寄せ合って、坊と子猫さんと志摩とわたしの四人で勉強会。志摩は放っておくと勉強をしない奴なので、坊が提案したことだった。やれば出来ることをしないで何時までもへらへらし続ける志摩の頭を何度殴っただろうか。殴った分だけ退化しているのかもしれぬ。
「正十字学園て、かわええ女の子いっぱいおるんやろか…」
一応問題を解いてはいるが、でれでれに溶けた笑顔でそんな妄想に身を投じているこいつを見ると、間違いなく退化していることが分かる。坊の眉間の皺がこれ以上深くなるのを妨げる為、わたしは適当で的確で完璧な返事「都会は綺麗な女の子が多いもんやし、大丈夫ちゃうの?」を用意した。誰か褒めて。
しかし、それだけでは志摩の妄想は止まらない。もうこの際だからわたしの進学先を仄めかす言葉をついでに吐いてやることにした。
「で、それがどないしたん」
志摩は一瞬ぽかんと口を開けて呆けた顔をして、そしてすぐに真顔になって「どないしたん、てさんも行きますやろ? さんと可愛い女の子について談義せなあきませんやんか」眉尻を下げて困った笑顔を作りながら尋ねてくる。まあ可愛い女の子は正義だが。さて如何返せばこいつは納得するのだろうと思考を飛ばしてみた。が、そんな簡単に答えが見つかる訳も無く、他に上手い表現が見つからないので普通に真実を述べた。
「わたしは行かんよ」
手にしていたシャーペンを机に落とすというかなりベタな表現をした志摩は、あんぐり口を開けて固まっている。リアクションが古すぎて最早ツッコミを入れる気にもならぬ。転がって机から落下しそうになったシャーペンを子猫さんが救出している。絶句している志摩を横目に、わたしは受験勉強用のちょっと難しめの問題集のページを捲った。昨日家で勉強していて、解き方がイマイチよく分からないものがあったので、坊に質問することで解決しようという魂胆である。
「京都(こっち)の高校と大学行くて、さん言うてはりましたよね」
子猫さんが手を止めて首を傾げながら言った。わたしは肯定して理科の問題集に視線を落とす。通し番号の五十二、星印の付いたその問題は有名私立の過去問からの抜擢だった。
「あ、坊、この電気回路の問題なんですけど」
「ん? ……ああ、直列と並列が同時にくっついとる奴はな……」
坊はさらさらと澱み無くシャーペンを動かし、とってもめんどくさい回路図に的確過ぎるヒントを書き込んでくれた。ヒントだけでええか、と聞く坊に頷いて、わたしはシャーペンのお尻で米神を押しながら思考に耽る。ええと、電流の流れが、
「え!? え!? 嘘ですやろ!?」
「志摩うるさい!」
志摩は本当に吃驚したようで、机を乗り出してわたしに顔を近付けてきた。近過ぎる。ぐいぐい顔を寄せてくるので手で思い切り拒絶する。くそっこいつ何でこない肌すべすべなんや、殺意湧く。わたしは小さく溜め息を吐いて、坊作のヒントを参考に計算式を組み立てる。
「嘘言うてもしゃあないやろ……」
わたしの声に冗談の色が含まれていないのを悟ったのか、志摩があわあわと挙動不審な動きを繰り返す。
「ぼ、坊ー! 坊からも説得したってください!」
「あぁ? 、お前まだ言うとらんかったんか」
呆れたように坊が言う。しゃーないやっちゃな。それだけ述べると坊は問題を解く作業に戻ってしまった。
「忘れとったんです、ふつーに」
勿論嘘だ。何だか言いにくくてだらだら月日を浪費した結果だ。
「そ、そんなん、俺の夢の学園生活が…」
「エロゲ的展開の?」
「そう! って何言わしますの!」
そんな学園生活にわたしは必要無い。間違い無く。生半可な気持ちで祓魔師になる為の塾に通えば周囲の人間の足を引っ張りまくることは避けられない。そんなことは望んでいない。わたしが地元に残るという選択肢は至って当然のものだった。
やっぱり坊のヒントは分かりやすくて良い。あっと言う間に問題が解けてしまった。礼を述べればそっぽを向いて照れるところが、坊の可愛いところだ。
なあなあさん、何でなん、なあなあ。困惑した声音で志摩がわたしの制服の袖を引っ張る。わたしはそんなことに喜んでいる自分を自覚して死にたくなった。どこまで、落ちぶれば、気が済むのか。
「……大丈夫や志摩、寮生活なあんたん為にエロ本くらいなら送ったげられるから」
「いや嬉しいけど! でもそうやなくて!」
「流石にAVはちょっとなあ……ほら、人の好みは千差万別やん? あんたの好みなんか知らんし……頑張ってネットで検索して我慢してくれん?」
「っちょ、ちょお!」
あれ、普段ならでれでれと顔を緩めて嬉しそうにする筈なのに、今日は珍しく頬が林檎だ。短時間で青くなったり赤くなったり忙しい奴だ。
「さんどないしたん!? そんな下ネタはっきり言う人やあらへんでしょ!?」
名も顔も知らぬ恐らく多勢の正十字学園の女子の皆さんに嫉妬するわたしは間違い無く阿呆だ。無益過ぎる。慣れない下ネタを吐き捨てて、話題をずらすことには成功したものの、胸の内の収まりが非常に悪い。
坊が呆れてわたしの頭を叩いた。子猫さんは心配そうにわたしを見ている。わたしは五月蝿い志摩を無視して、子猫さんが行き詰っている問題のヒントをノートの隅っこに書いて「子猫さん」、説明を始めた。子猫さんは大きくてまんまるな瞳でわたしを見上げて、声には出さずに「さん、ええんですか」と尋ねている。
志摩の顔は見なかった。見れなかった。わたしは子猫さんの視線に答えずに、プリントの上の明朝体の投げ掛ける質問文に対する解答を形作る。
ぎりぎり奥歯を噛み締めながらわたしは笑ってみせるのだ。お前なんかおらんでも、平気やと。
「あれ、さんどないしはったん?」
へらへら情けない面構えで、不思議そうにわたしを見る。何が不思議なものか。何が。何が!
引き攣る喉から妙な声が出ないように息を呑んだ。わたしは馬鹿だ。分かっていたのだ、ついて行かなければ後悔するなんて、考えなくても分かっていたのだ。志摩を見続けることが怖くて視線を逸らしたら、今度は志摩のことばかり考えているなんて、もう。
誰だ、恋が甘いとか言った奴は。こんな地獄の何処に糖分があるのだ。
「目ぇ真っ赤ですえ」
志摩が苦く笑いながらわたしの目尻を指先で追う。男の手だった。ただの助平な中学生の姿は其処に無く、たった半年で随分大人びた志摩がいる。脳内は確かに助平のままなのかもしれないが、顔立ちが随分垢抜けた印象だ。髪がピンクなどと頭の悪そうな色合いをしているのも原因かもしれない。
正十字学園とは違う、オーソドックスなセーラー服のスカートを握り締め、わたしは唇を噛んだ。それ以上志摩を見てはいられなかった。視線を彷徨わせるのも不恰好なので、地面を睨み付けて何とか呼吸をする。どないしよ。身体中が熱い。顔、発火しそう。脳味噌などでろでろに溶けて、目頭は真昼間の砂漠のような温度を持っている。
「ホンマどないしはったんさん、元気あらへんなあ」
わたしも正十字学園に行けば良かったのだろうか。熱い目の奥を誤魔化すように痛む鼻をすんと鳴らした。