この、たった一年の差が、喉を掻き毟りたくなるようなもどかしさをわたしの中に植え付けている。
 あの人は次の春には此処を出て行く。戦に使われる忍びになるのだと、徹夜明けに杯を交わした席で聞いた事実が恨めしい。わたしはあの人のいない学園で、あの人のいない委員会を率いる長になって、あの人のいない日常を享受しなければならない。そういう義務だ。
 感傷的になって溜め息を吐くのは簡単だが、先輩を引き止めることはこんなにも難しい。待っててください、すぐに追いつきます? とんだ戯言だ。先輩に追いつける筈が無いのだ、常々全速力で駆け抜けている潮江先輩に、この女の足では追いつけない。姿が見えているだけマシなのだ、そう思って無理矢理自分を納得させるのも何度目か。もう数えるのもめんどくさい。
 じりじりと網膜を焼き付ける太陽の光は潮江先輩に似ている。見詰め続ければ焦げる運命だと率直に言われているようで気分が悪い。

「ほら、手ェ貸せ」
「ありがとうございます、でも大丈夫ですので、先輩どうぞお先に学園に、」
「バカタレ、もう日没だ」

 強引にわたしの腕を掴む潮江先輩を見上げる。鮮やかな橙色に目を細めた先輩は、幼子をあやすようにわたしの頭をわしゃわしゃ撫でる。この人は、年下はとりあえず撫でておけば良いと思っている。少しは食満先輩を見習って欲しい。中途半端な優しさを目の前に吊り下げられて期待をせずにいられない馬鹿なわたしの気持ちにもなってほしいものだ。先輩はわたしの心根など微塵も分かっちゃいない。必要が無いからだ、一年生でも理解出来る。
 潮江先輩の為にわざわざ斉藤に頼んで結ってもらった髪は、その潮江先輩の所為でぐしゃぐしゃになってしまった。皮肉なものだ。




 一つ山を越えた向こうにある大きな港で開かれている市で、とびきり美味いかすていらを買って来い、と学園長先生から直々にお使いに任命された潮江先輩が、そのお供にわたしを選んだことにさっぱり他意は無い。委員会の、頼れる右腕としての名札を持つ五年生くのたまならば、男よりは甘味に詳しい筈であるし、また学園長先生へ媚を売るのも容易いので、上手くいけばそのかすていらに自分達もありつけるかもしれない、という考えだ。
 最近の潮江先輩は随分忙しそうで、茶を一服、ということも出来ずに只管帳簿整理に追われていたから、自腹で甘味を買わなくても済むかもしれないという望みに賭けたくなったのかもしれない。そうでなければ六年生がわざわざ請け負う程のお使いでも無い。

「お前はこの山には慣れていないだろう? 日が暮れれば鬱陶しい山賊に出くわして、ますます帰りが遅くなる」

 わたしの前に立ちふさがった潮江先輩の表情は、逆光で窺えない。しかし険しい顔付きをしているだろうということぐらいは分かる。五年も委員会で傍にいて、顔は見ずとも纏う空気を見れば、先輩の考えは大体分かるようになった。この人は真っ直ぐで、日常では然程裏表が無いから。

「だから、どうぞお先にと」

 優しいのだ。その事実がやはり恨めしい。諦めようとするわたしの決心をいつだって呆気無く崩してしまう破壊力を、先輩は隠してもくれない。
 無駄な抵抗である。わたしは自覚しながら、わたしの腕を掴む先輩の手を剥がそうと、自らの手を重ねる。先輩の指がわたしの腕に食い込む。

「そんなに俺を悪漢にしたいのか」

 潮江先輩はわたしを睨み付けて溜め息を吐いた。まさか、とわたしは笑う。もう悪漢ですよ、とは言えない。

「うだうだ言う暇があったら言うこと聞け、バカタレ」
「大丈夫ですって、ちゃんと一人でも帰れますよ」
「……口の減らん奴だ」

 誰の所為だと思ってんですか、とは言わないでおく。そこまで可愛くない後輩に成り下がるのは本望じゃない。そうだ、いつだって可愛い後輩でいたかった。出来れば恋愛感情など抜きにして、ただ委員会としての繋がりがあるだけの、先輩と後輩でありたかった。
 何故わたしは好き好んでこんな苦境に自らを追い込んでいるのだろう。分からん。自分のことながら、さっぱり分からん。理屈じゃないと人は言う、全くその通りである。絵巻物に出てくる男女みたいに上手くは行かない。溜め息が出そうだったので飲み込む。

「先の実習に支障が出るぞ」

 潮江先輩はわたしの右の足首に視線を注いでいる。軽い捻挫だと主張しているのに、先輩は全く信用する素振りが無い。まあ当然なのだが。確かに軽い捻挫では無い。加えて地面に強く打ち付けてしまった所為で打撲と擦り傷も相乗されている。血が溢れていないだけ見た目は酷くない。見た目は。
 十四にもなってこんな情けない怪我をするとは思わなかった。浮かれていたのだ。潮江先輩の隣を歩いているという現実に。
 帰路の途中、山道で足を滑らせて何処までも転がっていってしまいそうな子供を助けたのだが、うっかりして自分も抜かるんだ地面に足を滑らせて、慌てて子供を抱えて太い木にしがみ付いて姿勢を保ったところ、木の根で皮膚を削ってしまい、捻挫、打撲、擦り傷である。五年生にもなって一年生みたいな怪我をしているのだから、わたしは本当に恥ずかしくなって御託を並べて頬の熱さを誤魔化すことにした。

「だから、大丈夫ですよ先輩。それよりも定刻に学園に戻れずに、学園長先生の機嫌を損ねる方が恐ろしいとは思いませんか」

 学園長先生が駄々を捏ね始めると非常にめんどくさい事態になることは、潮江先輩もよく理解しているところだろう。しかし、先輩は眉間の皺を深くしただけで、首を縦には振ってくれない。
 腕を掴む先輩の指先の力が先程よりも強い。ああ、潮江先輩苛立ってるな。原因がわたしであるというのが悲しい。だが、足手纏いになるのが一番嫌なのだ。何故先輩はわたしを置いていってくれないんだろう、もう泣きたい。

「お前は“大丈夫”と言って無理するのが趣味なのか?」
「酷い趣味ですね」
「何客観的になってんだバカタレ、頭も打ったか」
「先輩、あんまり暴言を吐かれると傷付きます」

 本心である。

「……もう良い」

 ぐい、と急に腕が引っ張られて、草履が地面をざりざりと軽く削った。先輩は遂に舌打ちをひとつ、そしてわたしの腕を地面と垂直に引っ張り上げて、そんなに軽くはない筈なのに素早くわたしを俵担ぎにして山道を歩き始めた。
 齢の差が、性の差が、あっさりと潮江先輩とわたしの間に太い境界線を描く。もう嫌だ。先輩の肩を手で押し返す。降ろしてくださいと懇願するも、先輩はわたしの背中と腰の後ろを強く押さえ込むので、腹を先輩の肩に押し付けるという微妙な体勢を維持しなければならなかった。
 半ば肩車に似た姿勢の所為で、普段は触れることの無い木から伸びた枝や葉が顔に当たる。痛い。よし、これを口実に降ろしてもらおう。わたしは只管進み続ける潮江先輩の背中を叩く。

「し、潮江先輩!」
「……ああすまん、枝に刺さるか」

 そうですそうです、だから降ろしてください、自分で歩きます! いえ、お先に帰ってください!

「バカタレ、誰が降ろすか」

 潮江先輩の顔は見えない。が、分かってしまった。ふっと息を緩めた潮江先輩はいま、口の端が吊り上がっている。長年の勘だ。
 わたしの膝頭を先輩の手が覆い、瞬時に重心をずらされる。わたしは急な動きに声を上げることも出来ず、ただ大人しく潮江先輩のされるがままになって、瞬きを繰り返す。背中と腰を押さえつけていた筈の先輩の手のひらが、今度はわたしの肩の位置にある。
 所謂、お姫様だっこ、という奴である。

「いや、そうじゃなくてですね!」

 わたしは足をじたばたさせて抵抗を試みるが、濃い隈に縁取られた眼で睨み付けられれば、身体は硬直する。ずきずきと痛む足首に負けない位、胃が痛い。かすていらが入っている木箱を胸に抱えながら、包まれている体温にどうしようもなく涙が出そうだ。

「は、はなしてください」

 もう日が落ちてきた。薄暗く陰鬱な空気を作り始めた獣道を先輩は止まること無く進む。わたしの声など一切無視である。が、ふと思い出したようにわたしが抱えるかすていら入りの木箱に視線を落として、また歩く速度を速めた。

「土産、落とすなよ」
「は、話を聞いてくだ」
「これ以上何を聞けってんだ」

 わたしの声など遮って、吐き捨てるように先輩は言う。




 学園までの道程で、先輩のおかげで山賊には遭遇しなかった。先輩は本当にわたしを降ろさなかった。心臓の音が先輩にも伝わってしまっているかもしれなかった。手汗が酷い。目の奥が熱い。
 先輩のぬくもりが、泣きたくなる程に嬉しくて、そして悲しい。喉から出そうな感情を必死に押し込めて、木箱の模様でも見て心を落ち着けようとしたが、無理だった。全く落ち着かない。無駄な動悸に眩暈すらする。
 期待しても無意味だと分かっている。こんな感情を抱いているのはわたしだけだ。
 わたしは木箱を抱えて必死に俯く。先輩の顔を見たら勝手に口が音を作り出しそうで怖い。もうじき学園に着くだろう。すっかり星空に囲まれて、わたしは唐突に空腹感を思い出す。ついでに足が痛いのも思い出す。

「……この際だから言っておくが」

 何だか久し振りに先輩の声を聞いた気がする。おかしなことだ。夕暮れから一切口を開いていないだけなのに。わたしは随分馴染んでしまった潮江先輩の体温から離れ難く思っている自分を嫌悪しながら、耳を傾ける。

以外に供を頼む気は、無いんだぞ」
「は」
「……いや、忘れろ」

 つい見上げてしまった潮江先輩の、その目の温度を見た瞬間、わたしは確かに呼吸を忘れた。

正しさと心中したいんだ

120506|ロカさん、リクエストありがとうございました