「おーい潮江、ちょっと借りたい物があるんだけど」
「ば、バカタレ! か、勝手に開けるなァ!」

 潮江が引っ繰り返った叫び声を必死に上げた。今更そんなこと言われても、わたしが何の断りも無しに部屋にずかずか入っていく様な奴であることを潮江は知っているのだから、潮江が気を付ければそれで済む話じゃないか。何でわたし怒られてんの(いや、今自分が無茶なことを口走っている自覚はあるけど)。
 とりあえず自分を無理矢理正当化させておいて、わたしは潮江の素っ頓狂な声を華麗に右から左へ聞き流す。天井裏から音も無く飛び降りると殺気が肌に突き刺さる。
 借りたいのは算盤だ。潮江が鍛錬に使っている(?)非常に重たくて使い勝手の悪いものでは無く、普通のだ。それは直ぐに見つかった。机の上。掻っ攫う。
 友人に算盤を借りパクされたことを忘れていたのだ。本日の授業で出された課題は如何しても面倒な計算が必要で、しかも提出は明日という鬼畜振りである。流石山本シナ先生、生徒に対して譲歩などしてくれない。

「んじゃあ借りてくね。近々返す」
「こ、こら! ふざけるな! 誰が貸すと言った!」
「わたし」
「死ね!」

 しかし潮江は怒鳴り散らすものの、わたしの顔をちらとも見ようとはしなかった。そんだけぺらぺらと人を罵る癖に、顔を見せないのは何か理由があるのだろう。気になる。純粋に。
 寝巻姿の潮江は最初からわたしには背を向けていて、布団の上で胡坐を組んでいた。本でも読んでいるのかと思ったが、忍者たるもの目を悪くするなど言語道断とか言ってた潮江は、本を読む時は必ず明かりの下で読むようにしていたから、それは無いだろう。じゃあ何だ? 顔を見られたら困るのか?
 例えば、暴君こと七松に顔面に酷い落書きをされたとか、犬猿の仲の食満にぶん殴られて人に見せられない程顔が腫れ上がっているとか、福富や山村に絡まれて機嫌の悪い立花に八つ当たりされてとても口に出すのも憚れる様な形状になってしまっているとか、色々と予想は出来るのだが。さて、どれが正解か。考え出せば幾らでも出てくるので、そろそろ思考を中断する。
 顔を覗き込もうとすると、潮江は思い切りわたしから顔を逸らす。そして決して体を正面から見せようとしない。特に下半身。器用なものである(普段とは違って)。堂々巡りを続けていたら、隙を見て潮江は布団の中に潜り込んでしまった。布団から食み出ている黒髪を眺めていると、枕の下から何かが出ているのに気付いた。
 紙だ。わたしは潮江が布団の中でぴくりとも動かないのを良いことに、そっとそれを引っ張ってみた。

「……うわお」

 紙の上にはでっかいお胸ですらりと美脚、着物が肌蹴て殆ど裸体、というより完全に裸体のお姉さんがいた。つまり春画である。わたしが思わず感嘆の声を出してしまったので、潮江が慌てて布団から出て来た。そしてわたしが春画を手にしているのを見るや否や、素早く引っ手繰ってまた布団の中へ。
 ははん、成る程、お楽しみ中だったのか。道理でわたしが部屋に入り込んだら何時も以上に突っ掛かってきた訳だ。忍の三禁云々と口を酸っぱくしている潮江でも、生理現象には敵わないのだろう。潮江も人間だったんだなあ。ちょっと感動したよ。寝なくても死なない新たな生物か何かかと思っていたから。

「五月蝿いとっとと出て行け! 算盤ちゃんと返せよ……!」

 もごもごと篭った声で潮江は念押しした。間抜けだ。此処に立花がいたらさぞ楽しく潮江をからかっていたことだろう。今いなくて良かったね潮江。あ、いないからこんなこと出来るのか。

「はいはい、仰せのままに?」

 返事の調子が気に食わなかったのかは知らないが、とんでもない勢いで枕が飛んできた。つくづく暴力的な奴である。




 太陽が一度沈んで顔を出して、もう一度引っ込んだ暗闇の頃。

「おーい潮江、返しに来たよ」
「ば、バカタレ! か、勝手に開けるなと言ってるだろうが!」

 おや何処かで聞いたような台詞だな、と思いつつ部屋に入り、算盤を机の上に返した。布団の上で胡坐を組んでいる潮江はやっぱりわたしには背を向けている。また邪魔しちゃったか。いやでもわたし悪くないよ。近々返しにくるって言ったのにそんなことしてる潮江が悪い。
 湯上りで下ろされてしっとりとしている潮江の髪が、なかなかどうして色っぽいことに気付いた。この前は髪が乾いていたからそんな風には思わなかったのだろう。あ、耳が真っ赤だ。眼の下に濃く刻まれた隈さえも色っぽく見えるのだから不思議なものだ。夜ってすげえな。
 潮江が動くよりも早く正面に回り込み、広げてあった紙を強奪する。はくはくと声にならずに口だけが動いている潮江はかなり滑稽だ。取り返すにも下手に動けばぽろりな潮江は悔しそうに歯噛みし、真っ赤な顔でわたしを見上げている。

「あれ」

 紙の上のお姉さんにでっかいお胸は付いていなかった。形の良い小振りのそれに、潮江の趣味は短期間でこんなに変わったのかと妙に感心した。まあ、胸はでかけりゃ良いってもんじゃないと思うけど。ちなみにすらりと美脚なのは変わっていなかった。良いよねえ美脚なお姉さん。
 声にならない叫び声を上げて悶絶している潮江は、前と同じく布団に潜り込んでしまった。からかい甲斐が無いなあ。少し残念である。

「そうだ、立花は?」
「……風呂」

 まるで中在家の様にもそもそと言ってのけた潮江に適当な礼を済ませ、お邪魔しましたーと明るく部屋を去った。二度と来るなとか男の敵だとか暴言が聞こえた気がするが、無視だ無視。

 それにしても、わたしが来ると分かってて何故そんなことをしていたのか。六年にもなって馬鹿か。笑って欲しいのか。
 ……。わざと?
 いやいや、そんな訳無かろう。潮江には羞恥心というものが備わっている筈だ。奴は真夜中の鍛錬でギンギンしている以外は割りとまともな男だ。あ、訂正、食満と喧嘩している時は理不尽で馬鹿だけど。序でに予算委員会の時はくたばれば良い程に嫌な奴だが。
 確かに月夜にギンギンしてるなんて聞くと変態の様だけど、本当に変態だったのか。それとも善法寺に薬でも盛られて頭破裂したか。分からん。わたしにはさっぱり分からん。
 ……。ろしゅちゅ……噛んだ。露出狂?
 可能性は否定出来ない。いたいけな下級生に池で眠ることを強要したり、いたいけな下級生に重たい算盤を使わせたり、いたいけな下級生に睡眠を禁じたり。哀れ会計委員会の後輩達よ。
 何だか色々と不安になった。このままでは潮江は、終に性的な意味で下級生を襲ったりするかもしれない。あな恐ろしや! 今の内に絞めておくべきか? きっとそうだろう。これも不憫な会計委員会に所属している下級生達の為だ。頑張れわたし!
 という訳で、再び潮江の部屋へ突入しようと思います隊長!

「……で、何をしようとしている

 障子に手を伸ばしたところで立花と出くわした。風呂上りでも真っ白な肌のままの立花は酷く訝しい視線を人に突き刺した。痛い痛い。わたしまだ何もしてないのに。とりあえず弁解から始めよう。

「会計委員会の後輩達の為に、潮江が今ろしゅちゅ、……露出狂であることを確かめようかと思いましてですね、突撃しようと計画を企てている最中なのですよ立花君」

 わたしが噛んだことに思い切り噴出して、肩をぷるぷるさせながら立花は目尻を指先で押さえた。涙が出る程面白かったのか、そうかそうか、流石鬼畜と有名な立花作法委員長様だ。

「今更君付けで呼ぶな気持ち悪い。……で、其処は私の部屋でもあるのだが?」
「そうおっしゃると思いましたのでどーぞわたくしの部屋で快適な睡眠を享受していただければと」
「ほお、気が利くじゃないか。珍しく」
「そんな珍しくを強調すんなよ悲しいな」

 顎に手を当てて立花は小さく唸った。わざとらしい。大方くのたま長屋に忍び込むのが面倒だとでも思っているのだろう。本当は造作も無いことだろうに。
 わたしは顔の前で両手を合わせて懇願の意思を示す。いや、別に立花がこの部屋にいてくれても何の問題も無いのだ。でも優しいさんは立花君を労わってわざわざ自室を提供しようと言っているのである。どーせ最終的に大暴れして潮江がめちゃくちゃになるのは目に見えている。となると、立花が二次災害を被らないとは限らないのだ。
 立花を怒らせると面倒だ。ねちねちとまるで本物の女の様に立花は陰湿な攻撃を仕掛けてくることだろう。ちょっと、いやかなり嫌だ。要するにわたしは保身の為に発言しているだけであるが、言わなきゃそんなの分からない。
 序でに立花が暇だと文句を言わない様に、余計な一言を贈呈しておこうと思う。

「わたしの部屋は物色しても高値で売り捌く用の春画以外に面白いものは無いと思うよ」
「……。安心しろ、普通に寝て明け方に戻る」

 呆れて溜め息を吐き捨てた立花は、情けをかけた苦笑では無く嘲笑をわたしに奉りやがり、おっと、言い過ぎた、艶々とした髪を丁寧に撫で付けながら「くれぐれも私の物には被害を加えるなよ」強く念押しし、踵を返した。

「あ、立花」

 呼び止められるとは思っていなかったのか、立花は少々気の抜けた顔付きでわたしを見た。何だ、用件があるなら早く言え、私は眠いのだ、と切れ長の眼が語っている。

「押入れに入ってるからね」
「……布団が?」
「春画が」
「……お前と会話するのは疲れる。私はもう行くぞ」
「へい、お休みなさい」
「お休み」

 今度こそ本当に踵を返し、何時もはきちりと引き伸ばされている背骨を僅かに丸め、立花はくのたま長屋へ足を進め始めた。ご協力感謝します立花様。でもそんなに疲れて嫌々と歩いているように見せかけて、実はすごくこの後の展開を楽しみにしていることは丸分かりなんですよ立花様。背中が丸まってる理由、笑ってるからだってわたし分かってる。
 とか余計なことは言わず、既に姿の見えなくなった立花にひらひら手を振って、わたしは障子を開け放つ。

「ところで潮江、露出狂?」
「は!?」

 部屋の中でわたしと立花の会話に聞き耳を立てていたらしい潮江は(勿論わたしは承知の上で会話していた訳だが)、素っ頓狂な声を上げた。今日は一人で遊んでいなかった様だ。潮江はやっぱり真っ赤な顔で黙りこくって硬直してしまった。
 この前の胸の小さなお姉さんの春画がわたしに似てたのは偶然かもしれないし、意図的なものかもしれない。まあわたしは美脚では無いので一致していたのは顔付きと胸だけだが。誰が描いたのかな、あの春画。まあぶつぶつ言っても仕方が無い、潮江に直接聞けば解決することである。肉体関係から始まる恋愛劇に碌な印象を持ってないが、人生色々、何事も経験してみなきゃ分からない。

「ねえ潮江、遊ぼうか」

 夜は長い。

踊らないふたり

120512