屋上の貯水タンクの裏の隅っこで、壁に凭れながら仁王が穏やかな寝息を立てている。しかし他人を騙すのを生き甲斐としているような男だ、高確率で狸寝入りだろう。弱い風で銀髪がさらさら揺れていて、絵になり過ぎていて怖い。
 同じクラスの仁王が授業開始時から教室にいなかったのでサボっているとは分かっていたが、まさか定番の屋上にいるとは思わなかった。仁王なら体育館の倉庫のマットや保健室のベッドで寝ていてもおかしくない。寝顔は普段より少しあどけなくて、無防備な姿をこんなにもあっさりと晒しているなんて、かなり珍しい。例え狸寝入りだとしても。なので、殊更じっと観察するしかあるまい。仁王は美人である。美形である。女の子達が放っておかないのも充分に頷ける輩だ、見なきゃ損である。
 でもわたしの用事は仁王には無い。先生の都合で理科の授業が自習になったため、この隙に屋上でおにぎりを早弁し、他の教科の予習復習を終わらせたいのだ。教室には真面目に自習している生徒や、きゃあきゃあお喋りをしている女の子の集団、他諸々がいるので、そんな中でおにぎりをもさもさするのは流石に気が引ける。しかし、今日は朝から重労働で既に空腹感でいっぱいなのである。この自習時間の次は昼休みだが、わたしのお腹は限界値を全力で示している。ということで、選択肢はひとつ。
 わたしの席は教室の後ろの扉に一番近かったので、簡単に抜け出すことが出来た。荷物をばらばらに持ってくるのが面倒で、スクールバッグに全部詰め込んだ。持ち手は肩に食い込んでいる。仁王の長い足を踏まないように、大きな足音を立てないように、そして仁王にコンクリート越しの微妙な振動を与えないように、慎重に歩を進める。どうせ狸寝入りだろうけど、起こしてしまっては非常にめんどくさい。
 屋上は勿論風が強いが、貯水タンクの裏は強風に煽られることが無いと以前仁王に教わった。わたしは投げ出された仁王の長い足を乗り越え、遂に目的地へと辿り着く。人が二、三人座ればいっぱいになってしまうそのスペースに、出来るだけ仁王から離れた位置へ腰を下ろそうとした。
 意気込んだ瞬間、右足首を強い力で掴まれ、思わず引き攣りかけた声を喉の奥に押し込める。若干予想していたのでふらつくだけに留まるが、やはり心臓に悪い。分かり切った犯人を睨み付け、わたしは重たいスクールバッグを抱え直した。おにぎり食いたいんだってば。

「折角お前さんを待っててやったのに、無視することなかろ?」

 にやりと笑う銀髪の詐欺師は手を離す様子が無い。やっぱり狸寝入りだった。待ってた、なんて言葉を信用して良いものか。とりあえず頼んだ覚えは無い。
 仁王はわたしのスクールバッグにちらと視線をやって、ふうんと声を零した。お前さん真面目やの、と仁王は呟く。わたしのこれからの行動はお見通しのようであるが、わたしは別に優等生じゃない。家で勉強するのが嫌なだけである。放課後はテニス部のマネージャー業務で忙しいから、休み時間を利用して一日の勉強を終わらせているだけだ。
 仁王はわたしをじっと見上げている。

「まあ、座りんしゃい」

 仁王は自分のすぐ隣を手で叩いて示す。近い。わたしは顔を顰める。

「……遠慮しとく」

 そうだ、朝練の関係で部室の鍵はわたしが持っている。最初から部室に行けば良かったのかもしれない。ただ、どんなに懸命に掃除しても汗と埃の匂いが消えないあの部屋でおにぎりを食べるのに、抵抗を覚えない女子がいないだろうか。反語表現である。仁王はふっと柔らかく口許を緩めた。珍しい。

「なら起こして」

 なら、って何だ。ん、と仁王がわたしに手を伸ばす。だが片手は足首に固定されたままである。どうしろと。訳の分からん奴である。いつものことだが。
 恐らく痛み放題である筈の色素の抜かれた髪は、普通ならば(否、ここまで脱色すること自体が普通では無いが)ぎしぎしに軋んでいてもおかしくないのに、実際は風に煽られてふわふわとしている。ゆるく繰り返されるまばたきが、長い睫毛を強調させる。

「先に足から手を離してよ」
「離したら俺を置いてどっか行くじゃろ」
「うん」

 即答すれば、仁王はやれやれとわざとらしく首を振ってみせた。非常に胡散臭い。仁王の長い指が靴下越しに足首の骨をなぞる。こいつは一体何がしたいんだろうと思うものの、尋ねてまともな返答が来るとも思えないので諦める。仁王はちょっと拗ねたような表情を作ってわたしに手を伸ばし続ける。

「可愛げ無いのう、ほれ、起こしんしゃい」
「人の話聞け」

 にやにやと笑うだけの仁王は、わたしの提案に従うつもりなど毛頭無いらしい。肩を圧迫するスクールバッグを一度抱え直し、伸ばされた仁王の手を掴む。
 引っ張ったつもりが、逆に強く引っ張られて完全に体勢を崩した。床に膝を打ち付ける一歩手前で、仁王が器用にわたしを膝の上に導いて、無駄な至近距離を作り上げた。近い。仁王は下睫毛まで長いなんてあまり有益でもなさそうな情報を手に入れてしまった。仁王の太ももにわたしの右膝小僧が乗っているこの状況、誰かに見られたらわたしは即お陀仏である。やめてくれ。
 仁王の手が離れない。流石に日頃から鍛えているだけはある、幾ら引っ張っても無駄だった。わたしの抵抗を軽く捻り潰しながら、仁王は首を傾げてみせた。

「最近しつこい奴がおっての、助けてくれんか?」

 唐突に何を言うのか。仁王は漸くわたしの手を離して、しかし足首は開放せず、少し上目遣いで眉を下げる。くそう、絵になるからむかつく。仁王の指が足の甲を這う。
 まあどう評価してもこいつの顔立ちが整っていることに変わりは無い。思春期の女子がこいつを追い掛け回す心理が分からない訳では無い。仁王は恋愛に関してだらしない印象を持たれがちであるが、実際は割りと一途で、そして彼女が出来ても噂にすらならない。仁王は付き合う女の子を大事にする方だし、少なくとも無駄にその女の子を傷付けたりしない。
 そんな仁王が先週別れた女の子は、家の事情で遠方に引っ越したのが原因だと柳が言っていた。仁王の“本当の”恋愛事情を知っているのはテニス部の一部の人間に限られる。データ収集が趣味の参謀・柳、何処から情報を仕入れてくるのか一切謎の部長・幸村、仁王と割りと距離が近い似非紳士・柳生、そして毎日雑務に追われるマネージャー・わたし。大体この面子で情報が行き交うのみだ。

「柳生に頼めば?」
「何言うちょる、男なんかに頼めんわ」

 わたしは膝小僧を仁王の上から退け、膝立ちでとりあえず距離を作る。お前さん、分かっとらんのう。失礼な。

「なんぼ言うても納得してくれんきに、仮の彼女でも作れば大人しゅうなるかと思うてな」

 わたしはなかなかの重量を誇るスクールバッグを仁王の身体すれすれに落としてやった。流石にぎょっとした顔付きで足首から手を離してくれたので、わたしは満足して鈍器になり得る荷物をもう一度抱え上げる。仁王は溜め息を吐いて蔑んだ目でわたしを見る。

「……こんなに真面目に相談しちょるのに、は鬼じゃ」
「知るか。あのね、あんたの仮の彼女ってことが世間に露見したらどうなるかなんて考えなくても分かるじゃん? 有能なマネージャーを殺す気ですか」
「ほう、何処かの? 有能なマネージャーさんは」

 きょろきょろ視線を彷徨わせる仁王の横に再び鈍器を落下させる。ずどん、と床が振動する。肩を跳ねさせた仁王を無視し、わたしは中途半端にしゃがんで本気で仁王の指を引き剥がす作業に取り掛かる。それでも仁王は離そうとしない。何て奴だ。

「諦めんしゃい」

 くつくつと本当に楽しそうに笑う。腹立たしさの余りスクールバッグを振り回してやろうかとも思ったが、流石に怪我をしかねないので(わたしの手が)、言葉の通り諦め、仕方無く貯水タンクの裏に並んで腰を下ろす。わたしはすかさずおにぎりに齧り付く。米うまい。屋上なのに日差しも緩和されて眩しくなくて良い。わたしが右、仁王が左に座ったので、利き腕がぶつかることも無く平和である。米うまい。
 無心におにぎりを貪るわたしをからかうのも飽きたのか、仁王は勝手にわたしのスクールバッグを物色している。ウォークマンを取り出して、アーティスト欄を眺めている。暫く曲を物色していた仁王は、すごく自然にわたしのイヤフォンを装着して目を閉じた。何でこいつこんなに綺麗なんだむかつく。
 おにぎりが腹に収まって満足したので、わたしはおにぎりを包んでいたラップを畳み、ずるずるスクールバッグを引き摺り寄せて、ペンケースを取り出す。暫く英語の問題集と格闘していると、イヤフォンを外した仁王がわたしの制服の袖を引っ張った。

「……のう、ほんまに頼めんかの」

 仁王の真意が何であるかを考える。テニス部で口裏合わせやすいからか。いや、他にもマネージャーいるのに、わたしに限定する必要は無いだろう。他のマネージャーは可愛い子ばっかりだから、……そうか、そうだな、あんな可愛い子が女子集団にいじめられるのを見るのは心が痛いな。
 いや、わたしだっていじめられたくないんですけど。もう部活で幸村にいじめられてるから十分なんですけど。

を親友と見越して頼んでるんじゃが……」

 仁王は困った顔をしている。わたしは何時お前の親友になったんだ。知らんぞ。吃驚だぞ。というか、仁王の口から“親友”などという言葉が飛び出たことにも吃驚である。お前そんなキャラじゃないだろ。間違い無くお得意の詐欺である。

「お前さんなら無駄に気遣いせんでもええし、何かあってもお互い遠慮せんじゃろ」
「そりゃね」

 シャーペンの頭をノックしながら返答する。

「な、ええじゃろ?」
「それ、何時までやらなきゃいけないの」
「適当に」

 ばしんと仁王の頭を叩いて、ペットボトルのお茶を喉に流し込む。適当とか。めんどくさい、わたしは平和に生きたいんだ。テニス部のマネージャーというだけでどんなに面倒ごとを背負っているか。痛い痛いと大袈裟に喚く仁王を横目に、とりあえず腹の虫が去ったお腹を撫でた。
 白い水蒸気の塊がぽこぽこと浮かんでいる青空を見上げ、欠伸をひとつ。腹が満たされば次にやってくるのは睡魔である。目蓋を擦って英文に目を落とすと、少しばかり低い声が鼓膜を震わせた。



 仁王が問題集を取り上げて、不機嫌そうに顔を覗き込んでくる。何だよもう。わたしは貯水タンクに背中を押し付けて距離を開けた。イチイチ何故近付くのか。美形だから心臓に悪いって分かっててやってる辺りが本当に腹立たしい。
 コンクリートを踏み締める音がした。
 背筋に嫌な汗が流れる。目前の仁王は既にいやらしく笑っている。試合中とかに見せる、詐欺師の顔だ。足音はゆっくりと近付いてくる。ほぼ確定で、仁王が先刻からぶつぶつ文句を言っていた“しつこい奴”だろう。今授業中ですよ。どんだけ仁王に熱心なんですか。授業をサボっておにぎり食ってたわたしが言えた台詞では無いが。
 仁王の柔らかな前髪が、わたしの前髪に混ざる。子供のように楽しそうな空気を振り撒いている仁王はやっぱり綺麗だ。これだから美形は。こちらの心臓を何度握り潰せば気が済むのか。

「っちょ、」

 骨張った手がわたしの頬と首を包む。ああくそ、やめてくれ、面倒ごとに巻き込まれるのは好きじゃない。足音はじわじわ大きくなる。貯水タンクの裏を覗かれたら全てが終わる。わたしの少しだけ穏やかな日常は殺されるだろう。マネージャーってこんなことしなきゃならない義務は無い筈だが。
 スカート越しのコンクリートの硬さは容赦無く下半身を痛め付ける。息をするように人を騙す仁王が、結構真剣な眼差しを向けてくるのも、恐らくお得意のペテンの内だ。わたしは勝手に五月蝿くなる心臓を押さえつけ、どうやってこの状況を打破するかを必死に考える。いかん、脳味噌がオーバーヒート。
 わたしは無意識に後ずさる。が、背後の貯水タンクに邪魔されて動けない。しかしまあ、仁王のペテンは本当にすごい。熱の篭った眼差しを向けられるのは初めてだ。これも演技なのだと思うと、こいつの役者魂には尊敬の念すら覚える。
 そうだ、こいつは舞台上の役者で、わたしは観客。役者が観客席まで降りてくるサービスみたいなのはあるが、今回の場合は些か過剰じゃなかろうか。何故この舞台役者は観客を舞台上に引き摺り上げようとしているのか? 意図が読めない。分からないことは恐怖に繋がる。囁きが鼓膜を震わせる。

「ええじゃろ?」

 何も良くない。まだ死にたくない。遂に足音が止まった。わたしの視界は仁王の手に塞がれて、もう成す術が無い。

「なあ、好いとおよ?」

 情けないことに、取って付けたような虚言を放つこいつを引き剥がせないのだ。

素足の戦場

120620