憧れるな、と言われることの方が土台無理な話なのだ。

「は?」

 ぽかん、と口を開けて間抜けな、しかし何をしてもその顔立ちの美しさが崩れることの無い白石は、ただわたしを凝視している。見なくても分かるので、わたしは白石を見ない。廊下の隅の取れない汚れなんかを見詰め続けることで、何とか平常心を保っているように見せかけておく。ちょっとでも触れられたら呆気無く倒壊する自信がある。
 確実に寿命が縮まっている。心臓はずっと五月蝿い。背筋の汗が止まらない。手のひらだってべとついたまま、口の中は妙に渇いて唾液が粘つく。頭はずっとくらくらしている。
 当事者になるのは怖い。クラスでは目立たないグループの一員で、教室の隅っこで数人と小さくお喋りしていれば、傍観者まではいかなくとも出来事の中心に居座ることにはならないだろうと、幼稚園の頃から知っていた。わたしはずっとそうだった。××君がすき、という仲良しの○○ちゃんの、可愛らしい片想いのお話に耳を傾けるだけで良い。本を読めば恋愛はこと足りる。わざわざ自身が動く気にはどうしてもなれなかった。
 しかし、その真っ直ぐな姿に、惹かれるのは仕方無かった。
 何も掴むものが無いから、制服のスカートを握り締める。恐怖は容易く入り込んでくる。境界線は、引いていた筈だった。怖い。スカートは手汗ですぐにぐしゃぐしゃになってしまうだろう。わたしの心境によく似ている。




 家が隣で、生まれた時から家族ぐるみの付き合いだった。醤油や味噌の貸し借りもするくらい、家同士の仲が良かった。二家族で旅行することすらあった。白石の母親とわたしの母親が同級生だったのも大きな要因だろう。本当に仲が良かった。
 少なくとも小学生までは平和だった。男子と女子の垣根は低く、壁も溝も存在しなかったからだ。わたしは白石のことを蔵とか蔵ちゃんとか呼んで、白石もわたしをと呼んだ。 わたしは目立たなかった。白石は幼い頃から目立つタイプだったが、特に問題にはならなかった。
 白石はよくお姉さんに無理矢理スカートを穿かされて、それがまた見事に似合ってしまうから傑作だった。わたしが持っていた赤いリボンで白石の亜麻色の髪を結わうと、誰が見ても女の子だと勘違いする素晴らしい出来栄えで、実際その姿のまま公園に行ったら知らないおじさんに「可愛い姉妹やな」と言われたぐらいである。それまで女装を嫌がっていた白石は、何を間違ったのか、吹っ切れたのか、笑いが取れるなら何でも良いのか、その時から特に気にする素振りを見せなくなった。
 良い友人だった。白石は頭も運動神経も良くて、困った時には随分と頼もしい存在だった。ちょっと妙な性癖があるところを除けば、性格だって良い。加えて努力を怠らない。悪いところを見つける方が難しいような、そんな人間だった。
 だからこそ、中学で突如発生した隔たりにわたしは困惑した。二年生で白石がテニス部の部長になって、全国大会に出て、その輝かしい成績以上の白石の魅力に気付いた女子の数は数え切れず、女装の恐ろしく似合う白石は、間違いなく男だった。
 わたしは地味な人生を送りたかった。
 わたしはテニス部と関わりを持たないように努めた。一切の交流を遮断することに余力を注いだ。しかし白石が小さい頃からの習慣をいつまでも忘れようとしない所為で、「何でさんなん?」とわたしは様々な女の子達にイチャモンを突き付けられ続けているのだ。可愛い女の子達を敵に回すのは非常に怖い。かと言って味方になってほしい訳でも無いが。
 異性の友人というものは、本人達の意思と関係無く周囲から誤解されやすい。常識だ。それに白石が悪いのだ。何時まで小学生のノリを引き摺っているのか。仮にも思春期の中学生だぞ、男女だぞ、ちょっと気まずくなったりするのが当然じゃないのか? わたしは頭を抱える。わたしは悪くない。そうして自己を正当化していないと気が狂いそうだ。
 優しい奴だから、幼馴染のわたしを何時までも気遣おうとする。もうそんなことしなくて良いのに。わたしはずるいから指摘しない。白石が自ら離れてくれるのを待ってる。身勝手だ。おかげで正当化が呼吸するのと同じくらいに簡単に出来るようになってしまった。




 全てを過去の話にしようとしている。そうすればわたしは喧騒の無い日常を過ごすことが約束されるからだ。

「……何で?」

 呆然とわたしを見詰める白石を、正面から見返すことは難しい。純粋な疑問が浮かんだ瞳を直視なんて出来ない。上履きの踵をわざと踏みながら、視線を足元へ固定する。しかしこれでは白石を説得し難いことに気付き、顔を上げた。目を合わせられないなら白石の眉間を見詰めていれば良いのだ。目玉はやっぱり見れない。

「何でも」
「理由言うてくれな分からんわ」
「言っても納得してくれへんやろから、言わへん」

 語尾が震えそうになるのを必死に堪えて吐き捨てる。さもどーでも良い、と印象付ける為に。投げ遣りに、横暴に、理不尽に聞こえれば良い。さっさと離れてほしい。もう正直顔も見たくない。後悔してしまうのが分かっているからだ。
 いや、もう後悔ならしている。こんな選択肢しか掴めなかったことを、呪いたくなるくらい後悔している。わたしは自分の為に、白石を傷付けている。

、言うてくれやな分からんて」

 白石はわたしに説得を試みる。わたしは頭を振る。無理だ、無理だ。今更どんな顔をして言えば良い、自分はこうだ、と言い聞かせてきたことを、どうやって覆せば良い? 自己保身しか考えてこなかった。降り掛かる火の粉の傍には寄りたくなかった。わたしは、友人すら切り捨てる。最低だと言われてもおかしくない。それで良いのだ。

「なあ」

 困った顔でわたしの肩を掴む白石の手を、乱暴に振り払う。

「もう関わるんやめてや」

 息を呑む白石に、あちこちの神経が悲鳴を上げる。零れた声は自分で拾うことも出来ず、確実に白石の耳に入っただろう。納得出来ないと、思い切り傷付いた顔で迫ってくる友人を、やはり拒絶する。最初からこうしておけば良かったのだ。和歌とか少女漫画とかの世界でよくある“出会わなければ良かった”に非常に共感する。
 振り払った自分の指先が必要以上に痛んでいるように錯覚しながら、わたしは堪らずばたばたと走り出した。白石の足なら簡単に追い付いてしまうだろうから、女子トイレに逃げ込む。一番奥の個室の、洋式トイレの蓋の上に座り込んで、重い息を吐く。
 放課後の校舎には吹奏楽部の、まだ歪な音色が反響するばかりだ。きっと女子トイレの入り口付近で白石は足を止めている。性差を、感じれば良い。お前は男で、わたしは女だ。脆い扉を開ける勇気が無いのなら引き返せば良い。
 悔しくて涙が出た。全く止まってくれる様子は無い。わたしの意思など知ったことでは無いと、塩水は洪水を引き起こして止まない。ぐずぐずと洟を啜り、みっともない嗚咽を晒す。泣きたい訳では無い。寧ろ言いたかったことが言えたのだから、晴れ晴れと歯を見せて笑うべきなのだ。
 一度崩壊した涙腺は、修復に長い時間を要する。
 わたしは子供だ。完璧には程遠い。大声で泣き叫べば楽になることぐらい知っているけれど、それを実行出来る程に幼くは無い。でも感情を手のひらの上で転がせる大人とも、また違う。育ち過ぎた子供、未熟過ぎる大人。中学生なんてそんなもの。自分を罵るのは簡単だ、なのに白石を詰ることが出来ないまま、わたしは汚い顔を手で覆う。隠れてしまえ。

「すきやよ」

 こんなこと、誰も聞いてないから言えるのだ。

火傷の花

120816