人妻とか似合いそう、と思った。
部内の練習試合の合間に、切原にフォームの指導をしている柳を遠目に見る。気温が体温を超えるような猛暑でも、柳はあの芥子色のジャージをきっちり着込んでいる。汗はかいている筈だが、本人の顔があまりにも涼しげなので、もしかしたら暑さを感知していないのかもしれないと人に誤解させる。一応彼は人間だ。立海のテニス部レギュラーは皆化け物じみているが、一応、人間だ。
腕にじわりと浮き出た汗を、首から提げたスポーツタオルで抑える。額から流れてくる汗が、拭うよりも早く目に入って悲鳴を上げかけたが堪えた。右目は三分の一程度死んだ。回復には涙が必要です。呪文唱えればさっさと回復するような身体だったら便利なのに。
背徳とかも似合いそう、と思った。
べたつく首筋を、タオルで擦る。へなへなになった繊維は上手く水分を吸い取ってくれず、ただ肌を刺激するだけだった。全身びしゃびしゃのわたしと裏腹に、柳は未だ清涼感溢れる空気を纏っている。ベンチにいるのにこの灼熱地獄、コート上など想像したくも無い。汗は止まる気配が無い。
俯く。スコアを書く為だ。前髪から水分が伝って、紙の上に落ちた。おお、やばい、急いで指先で拭うとスコアシートの選手名が滲んでしまった。読めないことは無いが、ピンポイントで“柳”が滲んでしまった。……。仕方無かったのだ、うん。
膝の裏が気持ち悪かったので、タオルを引っ張って塩分を吸収する。Tシャツの襟ぐりを指先で摘んでぱたぱたさせて、むわっとした空気を少しでも冷却させようと試みたが、まあ失敗した。多分わたしの座っているベンチは、お尻の形に水分の跡が出来ているだろう。憂鬱だ。
一通りの指導を終えた柳は、切原と向かい合ってネットを挟んでコートに立った。頬が少しだけ赤くなっている。暑さによるものか、日焼けなのかは分からない。直射日光が苦手なのにテニス部って、選択を間違えたんじゃないだろうか。室内競技にしておけば良かったのに。
でも結局、あれこれ似合いそうと思うのはわたしの主観なのであって、それが柳にそのまま反映される訳は無いのだ。わたしは柳をよこしまな目で見ている自覚はあるけど、それを告げたことは無いからきっと大丈夫な気がする。根拠が無いので信憑性に欠けるが、根拠を確認する為には必要以上に柳と接触しなければならず、そんなことが出来るならわたしも妄想を捏ね繰り回したりなどしない。ほんとうだ、誓って言える。幸村に誓うよ。
切原の攻撃的なサーブを、柳は的確に返す。バック側の後方に綺麗な放物線を描くボールを、切原が余裕のある身のこなしで追い付いて、今度は柳のバック側に回転を掛けて返した。しかしその動きを読み切っていた柳は既にボールの位置を捉え、鋭過ぎる打球を生み出している。得点は柳に加算される。
点数を書き込みながら、わたしは止まらない汗を拭い続ける。喉は既に乾燥しきっている。水分ください。冷たい麦茶が飲みたい。
そうだ、想像すれば良い。今は真冬で、吐く息が白くて、指先は真っ赤に悴んで、頬っぺたが冷たくなるのだ。……。無理だった。ていうか想像したら逆に現実の灼熱地獄がもっと酷くなった。死にそうだ。
忘れていたが、彼は中学三年生である。例え見た目が大学三回生に近くとも、まだ十五歳なのである。わたしと同い年なのである。中学生が人妻とか背徳とかが似合っちゃいけないのである。
「、赤也にスコアを見せてやってくれないか」
何時の間に練習試合が終わったのか、柳が隣に座り込んでいた。わたしは手元のスコアシートがきっちり埋まっていたことに感動しつつ(無意識に鉛筆を動かしていたようだ、わたし偉い)、ボードを切原に差し出した。肩で息をしている切原は必死にタオルで汗を拭っている。
クーラーボックスの中の氷水で冷やした柳のタオルを硬く絞り、手渡す。漸く柳が息を吐いた。二酸化炭素には微量の熱が篭っている。よく見れば、柳の首は顔より白い。タオルがその首を滑る。柳は日焼け止めを塗っていただろうか。
横からの視線によって、現実に引き戻された。そうだった、ぼーっとしている場合では無い。飲み物とタオルの補充、備品の在庫確認が今日のわたしの仕事である。切原が渋い顔でボードを返却してきたので、とりあえずお疲れ様と声だけ掛けておく。まだ汗は引かないらしい。他人のことは言えないが。
「」
声の方角へ顔を向けると、目の前が真っ白になったと思ったら、急激に暗くなった。何事かと声を上げるより早く、顔面を優しく何かが押さえ付けている。柔軟剤の匂い、冷えたそれはわたしの予想が外れていなければ柳のタオルだ。何時の間にか後頭部を大きな手が覆っている。タオルは額や米神に当てられていた。
タオル越しに柳を呼ぶと、少し冷やした方が良い、と静かな声が聞こえた。そんなに熱が篭っていただろうか、と考えたが、自然に首を横に傾げるような体勢にされた。頬に当たる布越しの熱は先程まで確実にコートにいたことを証明していた。
「やな、」
「十分面白いな」
唐突に褒められた。布が擦れる。肩が揺れているのだ。わたしの肩では無い、勿論切原でも無いだろう。何が可笑しいのか、柳は喉の奥で笑った。タオルは未だ額に当てられたままなので視界は暗く、固定された後頭部の所為で上半身は動かない。ハーフパンツからはみ出てベンチに触れている太ももが相変わらずべたべたする。
「赤也、先程の試合だが」
柳はわたしの顔にタオルを貼り付け、二の腕にわたしの頬を寄せさせたまま切原へ助言を呈し始めていた。鼻と口は覆われていないので呼吸こそ出来るが、タオルを押さえている手が一向に離れる素振りを見せないので必然的に戸惑う。何でこのままの姿勢なのか。手に握った鉛筆は手汗でびしゃびしゃだ。わたしのことは無視なのか、そうなのか。
切原の返事を聞きながら、もしやわたしの気持ち悪い呟きは全部声に出ていたのだろうかと不安になる。しかし今更どうしろと、もう汗しか分泌出来ないんだが。
「柳先輩、それバカップルみたいっスよ」
げんなりした切原の声がする。また柳の肩が揺れているのを頬で感じ、全て暑さの所為にしてしまえば解放されるのかと馬鹿な方向へ思考を飛ばした。もう楽になりたい、心臓五月蝿い。
「歳相応じゃないか? バカップルなんて」
弾んだ声で柳はそう言って、完敗したわたしにわざわざ同意を求めたのだった。