「あ、おかえり」
「……ただいま」

 ごく一般的な、帰宅した者と自宅で待機する者の挨拶である。しかし、状況が状況だけにわたしの喉は思い切り絞められた感覚に陥り、かすっかすの声音でしか返答が許されなかった。おっさんみたいな声で返事してしまったことを恥じることなど頭のうちに無い。現状把握で精一杯だ。
 下宿しているおんぼろアパートの一室の鍵を、この男に手渡した覚えは無かった。合鍵など作っていない。わたしは先程自分の手で自宅のドアの鍵を開けたのだ。
 誰もいない筈の一室に帰ってきたら、まあ見知った男がわたしを出迎えた。この時点で不法侵入を訴えれば勝てるが、問題は山積みである。男は、濡れていた。普段はふわふわとしている髪が肌に張り付いている。家主に無断で風呂に入ったのだろう。加えて、男は人のTシャツを勝手に着ていた。この間ライブに行った時に購入した、わたしの好きなバンドのTシャツである。わたしは怒り狂う権利を持っている筈だ。そのTシャツ、まだ新品だったのに。
 百歩どころか千歩譲って、風呂とTシャツの件は水に流すとする。あくまでも仮定である。本当に水に流すつもりなど更々無い。問題の山の、天辺に位置するものに比べたら、という話なのである。
 フローリングに倒れこんだ、見知らぬ女の子。恐らく大学生だとは思う。白のロングスカートがくしゃくしゃになって足元で鎮座していて、薄い青のドット柄のシャツがぎりぎり薄い肩に引っ掛かっている。パステルピンクを貴重としたフリルたっぷりの下着が胸の上までずり上げられていて、真っ白な太ももにはブラジャーとお揃いの色のパンツが絡まっている。
 女の子は気絶しているらしい。顔はミルクティー色のボブにされた髪が隠していて見えないが、こんな状態で指一つ動かさない様子から察するに、そうだろう。心底同情する。
 が、わたしが主張したいのはそんなことでは無いのだ。ピッチャー、振りかぶって、

「うっわ、ちょ、待てばか!!」
「馬鹿はお前だ死にさらせ!!」

 心理学の教科書を投げた。




 激情に駆られて思わず暴力的な行為をしてしまったので、現状の補足説明に入る。
 わたしの部屋へ不法侵入し、女の子とアレをソレしていた男は名を鉢屋三郎と言い、何かと取っている講義が被る上にわざわざ教室の前の方に座るわたしの隣やら近辺を占領することを趣味としている男である。その意図は全く読めない。というか、こいつの脳内の構造からしてよく分からない。頭脳は皮肉にも明晰らしいが、有効活用する場を完全に間違えているので宝の持ち腐れだ。あと、天才と変人を兼ね備えている系統の人間である。紙一重では無いところがポイントである。

「本気で投げる奴があるか……」

 ぶつぶつ文句を言いながら、鉢屋はフローリングの掃除をしている。床に散乱した液体を四つん這いで雑巾で拭う姿は間抜けそのものであるざまあみろ。文句など受け付けるものか、自分で汚したのだから自分で綺麗にしやがれってんだ。わたしはとりあえず冷蔵庫からアイスコーヒーの紙パックを取り出して、グラスに注いで煽る。
 廊下に落ちていた女の子の持ち物らしきショルダーバッグをベッドの横に置いて、わたしのベッドで昏々と眠る(まだ気絶している?)女の子を見やる。うちの大学の子だろうか。分からぬ。何分わたしの大学での交流関係の薄さには定評がある。別に、中学とか高校みたいに友達が一定数以上いないと立場が悪くなるということも無いのだから。ちなみに勿論女の子は鉢屋に運ばせた。鉢屋が女の子を抱き上げた時に、その色素の薄い髪から甘い匂いがした。良い匂いだ。

「はあ? お前頭可笑しいんじゃねえの」

 鉢屋が嗤う。可笑しいのはお前の頭だ。女の子の髪って本当に良いにおいがするなあ、と思って、自分もシャンプーを変えようかなとちょっと考える。でもどうせドラッグストアで安売りしてるシャンプーしか買わない自分だから、想像するだけで終わるのだが。
 恐らく鉢屋はピッキングでもしたんだろう。わたしは部屋の戸締りを忘れたことは無い。それに鉢屋ならその程度の防犯なら破れるに違いない。針金曲げてちょちょっとやれば直ぐ開くようなドアなのかもしれない。おんぼろアパートだしな。
 アイスコーヒーを喉に流し込んでいるわたしを見て、鉢屋は図々しくも俺にもくれとか言うので無視した。何でわたしがこいつにそこまでしてやらなければならない? ああ腹立たしい。

「……悪かったよ」

 史上最強に薄っぺらい謝罪の言葉だ。一ミリたりともそんなことは思っていないだろう。本当に悪いと思っているなら他人の家で女の子を抱いたりするものか。あほか。あほなんだな。いくら勉強が出来ても道徳とか倫理とかがさっぱりではないか。あほか。
 鉢屋がわたしの自宅を知っていることも、どうせその女の子が遊びであろうということも、面倒なのでわざわざ質問もしないし指摘もしない。グラスの残りのコーヒーを飲み干すと、物欲しげな顔をした鉢屋と目が合う。こいつ、こんな表情作るのもきっと呼吸するのと同じ位簡単に出来るのだろう。わざわざ乗ってやる必要は無い。

「悪かったって」

 観念したのか、鉢屋はのそのそと腰を上げてわたしの手からグラスを自然に奪った。そして勝手に冷蔵庫の中を物色し、目当ての紙パックを取り出してわたしのグラスに注ぐ。新しいグラスを出してやるのも今更なので、もう好きにさせておく。食器棚の下の戸棚からうすしお味のポテトチップスを取り出す。お菓子専用のその戸棚の中身が勝手に減っているのではないかと疑ってみたが、杞憂に終わった。流石に人の家の食い物まで物色する趣味は無いらしい。
 スマートフォンの画面に指を滑らせて、とりあえず証拠写真でも撮っておくことにした。ベッドの上の女の子と、冷蔵庫にアイスコーヒーを戻す鉢屋の横顔までバッチリなカメラアングル。無駄に高画質。シャッター音と同時に鉢屋が吃驚してこちらを見た。意外だ、鉢屋なら撮られる前に気付いてしまうだろうと思っていたのに。

「何撮ってんだ」
「不破に報告」
「なっ、ちょ、」

 途端に慌て出した鉢屋がわたしに腕を伸ばしてくる。既に不破へ先程の写真を添付したメールを送り付けたことを確認し、うあーと鉢屋は項垂れた。言っておくが自業自得である。馬鹿め。日頃から不破には女の子を大事にしなさいと説教されている鉢屋にとって、割と痛手になったに違いない。メール本文にはの部屋でうふんあはんしてた鉢屋を目撃、対応はそちらに任せます、と書いた。鉢屋と違って不破は真っ当な人間なので、こってり絞られるが良い。鉢屋と不破が似ているのは見た目だけの話だ。
 うすしお味と書いておきながらしお味より塩分が多いことを知った日のショックを思い出しながら、それを口に放り込む。鉢屋は沈んだ顔持ちのままポテチに手を伸ばし勝手に食べた。器用な輩である。この世の終わりのような顔をしながら食欲を満たそうとしている。
 ぱりぱりと原材料じゃがいものそれを食みながら、沈黙を共有する。女の子は睫毛の一本すら揺れず、昏々と眠りについている。自室が異様な空間になってしまっているのにどうしようもないのは歯痒いが、かと言って女の子を叩き起こして鉢屋と共に追い出してしまうとわたしは鬼同然の認識を受けるだろう。嫌だ。自室なのに寛げないなんてどうかしてる。
 まあわたしの部屋だ、わたしの好きなようにして何が悪い。ベッド脇の小さなローテーブルに学校の帰り道で購入した雑誌を広げ、ポテチの袋の中をガサガサ漁りながら足を投げ出して座り込む。硬めのビニール袋は割と騒音だが、可愛い女の子が覚醒する様子は無い。この子は鉢屋からどんだけダメージ受けたんだろう。……流石に考察するのは止めておこう。
 いや、人ん家でヤッちゃったてへぺろ、など許されるべき事項じゃない。女の子の意思の有無は別にして(だって可愛いから)、鉢屋には何らかの謝罪を要求する権利がわたしにはある筈だ。何してもらおうかな、学食一ヶ月奢り? 一ヶ月パシリ? 普通すぎて面白味に欠けるな、どうしてやろうか。

「なあ

 指先の塩分を舐め取りながら鉢屋が視線をわたしに向ける。こいつは本当に何を考えてるんだろう。その眼からはこちらが意識しなければ何も読み取れない。理解しようとするのも面倒で、ゆっくりとわたしの隣に座り込んで伸びてきた細長い腕に好きにさせておくことにした。

「ごめんな」

 一体何に対する謝罪だろう? 心当たりがありすぎて一体どれに謝られているのかさっぱりだ。わたしは突然の申し訳なさを滲み出した声に驚いて、何も言葉を出すことが出来なかった。
 間違いだったかもしれん。鉢屋はわたしの頭を撫でた。存外優しい手付きだった。鉢屋との距離感は、片目を閉じた時に似ているとぼんやり思う。

「お前が傷付いていない振りをするのを見るのが、一等好きなんだよ」

 そしてこいつの性格の悪さは、何百年経っても変わらない。

檸檬殺人事件

121116