、電車に乗ろう」

 はて、この男は電車ヲタク、もとい鉄ちゃんであっただろうか。唐突過ぎる言葉に純粋な疑問符を飛ばしてぽかんと間抜けに口を開けて一時停止したわたしを、久々知は弁当であるらしい豆腐をスプーンで掬いながら(スプーンで食べる豆腐、とパッケージに印字されている)見詰めている。まばたきをする度に風が発生しそうだ。今度マスカラなりビューラーなりを使用してやりたい気持ちでいっぱいである。
 あまりに突然だったので、思考が電車から豆腐に移行し最終的に久々知の睫毛に落ち着くという迷走っぷりだったが、とりあえず我に返った。周囲は沈黙を守ったまんまだ。尾浜だけがのんびりと竹谷の弁当箱から野菜炒めの肉だけを器用に箸で摘んで口に放り込んでいる。

「しまった、言葉が足りなかったな、痴漢されるから一緒に電車に乗ってくれ」

 もっと意味が分からない。
 ツッコミどころが多過ぎて対応できない。まず一緒に電車に乗るという案自体がよく分からないし、痴漢される、と久々知が言ったのも現実かどうなのか。久々知は間違っても痴漢をする方では無いのは見たら分かる。綺麗な顔立ちをしているから妙なおっさんに狙われているのだろうか。

「うん」

 肯 定 さ れ た 。
 いよいよ訳が分からない。鉢屋は飲んでいた綾鷹が気管に入ったらしく先程から噎せ込んでいて、不破は久々知とわたしと手に持った菓子パンに視線を彷徨わせるのに必死で、竹谷は箸を手から滑らせ一時停止。尾浜以外は皆奇妙な顔で固まるしかなかった。
 二つの机をくっつけて六人でそれを囲んでせせこましく昼食を食べている今、誰一人ツッコミの役を買って出ようとはしなかった。各自思考整理をするだけで精一杯なのである。久々知、豆腐、電車、痴漢。久々知と豆腐の関連、理解できる。電車と痴漢の関連、これもまあ理解の範囲内だ。しかし久々知と痴漢、この組み合わせは想定していなかった。
 ペットボトルを握り潰してしまった所為で手をびしょびしょにし、ぜえぜえと肩で息をしながら漸く落ち着きを取り戻し始めた鉢屋が、胸を押さえながらか細い声で久々知に尋ねた。

「い、何時からなんだ……?」
「ここ二週間ずっと。最近酷くなってきて、毎回違う車両に乗るんだけど、不思議と見つかってしまうんだ」
「何、その痴漢エスパーなの?」
「さあ、そいつは俺より後から乗ってくるんだけど、必ず俺の背後に来るんだ」

 我々は背筋が凍りそうな思いで昼飯を食うことを忘れた。久々知は平然とした顔で豆腐を咀嚼している。二週間もそんな苦行に耐えていたというのか。知らない人に身体に接触されるのを、二週間も我慢していたというのか。今まで指摘こそしなかったが、久々知の神経は少し異常じゃないだろうか。通常なら精神的に病みかねん。
 竹谷の野菜炒めから肉が一切消えたので、尾浜は満足して自分のおにぎりに齧り付く。そしてもごもごしながら久々知に問う。

「何処触られたの?」

 それは果たして本当に今聞くべきことなのか?

「最初は尻だけだったんだが次第に前も触ら」
「かなりヤバいからな!! 何で逃げねぇんだよ!!」

 久々知が言い切るより早く、正気を取り戻したらしい竹谷が吼えた。昼休みの教室は一等騒がしいので竹谷の叫びすらあまり目立たない。近隣の女子グループが何事かと竹谷をちらっと見ただけだった。久々知は両手で耳を押さえて顔を歪めた。

「逃げるも何も、満員電車で身動きが取れない」
「あの時間帯の電車はずっと満員だしね……」

 不破が困った顔でとりあえずカスタードデニッシュを齧る。正論を吐く久々知は間違いなく優等生だが、たまには邪論から攻めるということも覚えるべきである。最後の一掬いを飲み込んで、久々知はご馳走様と綺麗に手を合わせた。空気が重い。

「……で、久々知さん、わたしが一緒にその電車に乗って、一体何が解決するんデスカネ」
「女子ってそういう対策に強そうだと思って」
「何でだよ!」

 まあ確かに、電車内に発生する痴漢というものは、女子高生であれば、寧ろ女性であれば何でも良いという輩も少なからずいるようで、わたしも痴漢された経験はある。まあ、座っている時に膝を撫でられたり肘で脇腹を突かれたりした程度のものだが。久々知の場合はわたしの手に負える範疇を超えてしまっているので、とてもじゃないが対処できそうになかった。無理無理。

、兵助を助けてやってくれ!」

 が、何か必死の形相でわたしの肩を掴み始めた竹谷が鬱陶しいことこの上ない。友達思いなのは分かるが、じゃあお前が助けてやれよ、むさ苦しい野球部が隣にいれば痴漢だって手を出しにくいだろうて。

「甘いな、男を狙ってくる痴漢なんだろ? 若しかしたらハチが本命タイプかもしれないじゃないか」
「鉢屋は何冷静に分析してんの? じゃあお前が行けよ」
「私は雷蔵と一緒に学校行くんだもん!」

 はいキャラ崩壊。不破絡みになるとわざとらしく幼児退行する鉢屋をどうにかする方法は無いのだろうか。無理だろうな。不破もへらへら笑っている場合じゃないんだぞ、お前に告白しようとする女子を鉢屋が全部射落として、一切不破に近付けないようにしていることにそろそろ気付け、不破は「僕モテないから…」なんて誤解している場合じゃない、モッテモテなんだぞ!
 ガチホモの概念をさっぱり忘れていた竹谷が震え始めた横で、尾浜はデザート(?)のぽたぽた焼きに齧り付いて笑う。

「良いじゃん、減るもんじゃないし」
「それもそうか」

 竹谷が隣で完全に沈黙。ファミリーパックのぽたぽた焼きを一枚尾浜から拝借し、袋の中で割る。おっさんに触られた程度で穢れる訳でも無いし、まあ良いか。




 良くなかった。
 満員電車の中では小声だって割と迷惑になるので、わたしと久々知は横に並んで互いに参考書に視線を落としていた。時たま久々知の方をちらっと見やるが、特に異変も無いようだった。
 と思ったのが間違いだった。久々知は既に尻を触られていた。わたしは無意味だった。
 参考書を見ているバヤイなどでは無い! 早急に久々知の後ろのおっさんを何とかせねばなるまいが、わたしにもこのおっさんが何時現れたのかさっぱりで、もう出鼻を挫かれておろおろするばかりであった。そして何より怖いのは、久々知は終始真顔で参考書を眺めていることである。身じろぎ一つしない。
 いやしろよ身じろぎくらい。満員電車と言えど僅かなデッドスペースは存在している訳であるから、足の位置を変えるとか、参考書を違う手で持ち直すとか、色々あるだろうにこのバカタレは! 一体何を考えてるのか、何も考えてないのか、豆腐とランデブーなのか? ああもうどうしよう!
 とりあえず痴漢が出たらその手を掴んで「この人痴漢です!」と高らかに宣言するのが一番良い気もするが、間違えて違う人の手を取ってしまったら冤罪で巻き添えを食らった人がとても可哀想な将来を歩むことになるので、無闇に乱暴な手段は取れない。この場合に有効なのは携帯の着メロを流すことだ。周囲の視線が自然と音源に集まるので、大抵の痴漢は手を引っ込めるらしい。まだ実行したことが無いので推測だが。
 仕方無いので手の甲で久々知の薄い肩を軽く叩く。名前を呼ばなかったわたし偉い。痴漢からストーカーに発展しない可能性はゼロでは無いので、出来る限り個人情報は漏らさないに限る。久々知は何度か睫毛をぱたぱたさせて、少しだけ顔をこちらに向けた。
 ……参考書に久々知と達筆な字で小さく記載されていたのは見なかったことにする。わたしの努力が水の泡じゃないか馬鹿か。ホンマにバカタレか。その偏差値は飾りなのか?
 気を取り直してわたしは携帯のメール作成画面を久々知に見せた。本文には『わたしの携帯に電話かけて』である。久々知は常時マナーモードなので、その設定を変えるよりも、マナーモードを解除したわたしの携帯に電話してもらう方が手っ取り早いのだ。事前に打ち合わせていた通り、久々知は表情一つ変えずに鞄から携帯を取り出し、軽やかに操作した。
 果たしてわたしの携帯からは静かな満員電車内ではよく通る、某ロックバンドのサビが唐突に流れ始めた。周囲の人間の肩が跳ねるのを見て申し訳無く思いながら、久々知の背後のおっさんを見やる。こちらからは上手いことその顔が死角で見えなくなっていて、おっさん無駄な技術持ってるなと苛立った。わたしは小さな声ですみません、と言って着信を切る。
 久々知の表情は変わらなかった。そしてその尻に触れている手も変わらなかった。
 おうおっさん良い度胸だ。売られた喧嘩は買う主義なんでね、高値で買わせていただきますよ、ええ。

「あ、なあ、この問題なんだけど」

 久々知君、君は平然とわたしに参考書の応用問題について真顔で尋ねているバヤイであると本当に考えているのか?

「この数列の漸化式が、」
「何故わたしに数学の問題を聞くのばかなの?」
「階差の階差だと思うんだけどさ、」
「人の話聞けよ」

 やはり久々知の突出した偏差値はお刺身についてる菊の花同然だったらしい。何で数学が苦手なわたしに、しかも嫌いな漸化式の問題について聞くのか? お前はそんな数式に悩まされる以前に尻をわさわさしている手について悩まんかいチクショウが。
 放置していたおっさんの手付きが段々と大胆になってくる。わたしだけが慌てている滑稽なこの現状に、久々知はブレザーの胸ポケットからシャーペンすら取り出して参考書に何やら書き込み始めた。おっさんに尻を触られながら、顔色一つ変えず、漸化式を解くこの男子高校生、うん、異常だ。
 自分の手には負えないことを引き受けてしまったことを今更後悔する。ていうかせめて嫌な顔ぐらいすれば良いのだ、久々知も。わたしに助けを求めておきながら、実際現場に立ち会うと別にその手を気にしていないような印象さえ受けてしまう。分からん。こいつ一体何考えてんだ。そんなに漸化式は魅力的か。
 学校の最寄り駅まで、あと三駅。最寄り駅の手前で更に人が入ってくることを考えると、少しでも余裕のある今のうちに対策を取らねば危険だ。わたしは唇を噛み締めて、久々知の背中に腕を伸ばす。少しずつ腕を下げる。
 おっさんの手にわたしの手が触れた瞬間、その手の甲を爪を立てて思い切り抓り上げた。これくらいしても許されるだろう、痴漢ダメ絶対。おっさんの手が久々知から完全に離れたのを横目で確認し、こんな満員電車の中を逃げようとするおっさんの腕を手の甲から引っ張る。丁度電車が止まった所為もあって、車内の人が揺れたのも利用し、腕の持ち主の耳元に背伸びをして、わたしは笑顔で囁いた。

「人生棒に振りますか?」

 色々と腹立たしすぎて声が震えた。




、恰好良かった」
 ぼけっと感心したように久々知が言う。その手には未だ参考書が開かれたままだ。わたしはそれを無理矢理閉じさせて、ふかーい溜め息を吐き捨てた。もう暫く漸化式とは顔を合わせたくない。
 紙パックのいちごミルクを飲んでいた尾浜が、事の次第を説明しろと五月蝿いので、仕方無く一から十まで喋り倒すこととなった。武勇伝でも何でも無い。久々知は今日もしっかりと豆腐を食べている。こいつの精神は一体どうなっているのだ、本当に人間なのか? わたしは今、久々知が「俺、三人目だと思うから」とか言い出しても納得出来るぞ。
 手の甲の皮が引き千切られるのを危惧したのか、おっさんはすんなりとわたしの言葉に耳を傾けた。結果、おっさんの降りる駅がわたし達の降りる駅と一致したので、電車を出てすぐ駅員さんに突き出した。おっさんは自分のしたことを認めて、且つ今まで何度も犯行を繰り返していたらしい。
 竹谷がドン引きした目でわたしを見詰めてくるのでとりあえず一発殴っておいた。わたしは何も間違ってない。頼まれたから仕事をこなしただけである。文句があるなら自分がやれば良かったのだ、竹谷よ。

「うんうん、に頼んで正解だったじゃないか」
「鉢屋は黙れ」
「褒めてるのに」

 他人事だと思って心の底から面白がっている鉢屋は、自分の弁当箱の黒豆をそっと箸で持ち上げて差し出してきた。食えってか。口を開けると黒豆はあっさり放り込まれた。お、これ市販のじゃないな、美味しい。鉢屋はにやにや笑いながら「新婚さんごっこー」などと言って黒豆をわたしの口に押し付ける。朝から疲れたのでツッコミを入れる気にもならない。黒豆は美味しいので普通に頂く。

偉いねー、冤罪じゃないかちゃんと確認したんだ」
「当然ですー」

 ぐりぐり頭を撫で回してくる尾浜の手を払い、わたしは自分の弁当箱に手を付ける。尾浜は付き合う彼女がフリーかどうかをちゃんと確認する癖を付けておくべきだと言うと、てへっと笑って誤魔化された。可愛い顔してゲスである。夜道の背後に気をつけた方が良い。
 不破が「お疲れさま」とチロルチョコをくれたので、ありがたく拝借しておく。涙が出そうである。彼氏にするなら絶対に不破が良い。不破は良いお嫁さんになるよ、と言いかけて、鉢屋が五月蝿くなりそうだったので白米と共に飲み込んだ。
 机の上に鎮座させたチロルチョコを何時食べようか悩みながら卵焼きを咀嚼していると、久々知が右手をわたしに差し出してきた。一同は不思議そうに久々知を見やる。カーディガンの裾から伸びる、相変わらず豆腐のように真っ白な指先は長く、手だけ見てたら間違い無く男なのにな、と思った。長い睫毛が震える。
 久々知はスプーンで食べる豆腐を食べてる時と同じ表情で、今にも溶けそうな声音で言った。

、末永くよろしく」

 ……あ?

ランチに毒薬

130106