忍者がにおいの強いものを摂取するのはあまり好まれることでは無いが、そんなものは任務中にのみ適用されるべき規定事項であるとわたしは思う。つまり現在口にしているコーヒーの存在を正当化しようと図っている訳であるが、目前の子供の脳の回転が嫌味なくらいに早いことを知っているので、無駄口を叩くことをやめた。揚げ足を取られて恥をかくだけである。大人しくマグカップに口を付ける。そして素直に疑問符を投げる。
「はあ、そりゃおめでとうございます。ご用件は身内自慢ですか?」
「辛辣だなちゃん、ここ最近まともな休みも無いからって」
「冗談ですよ、すみません」
名ばかりの週休二日制、月火は体力労働、水木金土日は机に張り付く仕事である。特別上忍に任命されてきゃいきゃい喜んでいた当時の自分が腹立たしい。中忍のままであれば、このような情報の海に溺れて固い椅子の所為で腰痛に悩まされることも無かっただろうに。ごりごり痛む腰を撫で、深く息を吐いてから再びコーヒーを喉に流し込む。
ランクごとに分けられた任務報告書の最終管理を行うのが、わたしの仕事のひとつである。情報の記録・管理の一切を任されているため、うっかりなミスを仕出かすと、ン年後に発見されてしょっ引かれる仕組みだ。おかしいだろう。年頃の若い女にさせる仕事じゃない。もっとこう、ベテランの人がいるだろうに。しかし、文句もコーヒーと一緒に飲み込まねばならない。あー。
マグカップを広い机の上の、書類から離れた場所に置く。もう湯気すら出ちゃいない。生ぬるい黒い液体は、安っぽい蛍光灯を浴びて不味そうに見える。いや、美味しいけども。
そもそも他人が訪れることを想定していないので、この部屋が混沌としている原因は全てわたしにあるのだが、だからと言って快適な空間を自らブチ壊すほどお人好しでは無い。コーヒーの匂いが嫌なら息でも止めてろという話である。
「ええと、シカマル君大きくなったね」
「アンタいつもそれ言ってるぜ」
相変わらず無愛想である。今年の中忍試験での唯一の合格者である彼の教育係も兼任しろと言うのだから、流石火影様、鬼畜の極みだ。
椅子の背凭れに体重を乗せると、ぎしぎしと嫌な音が立った。経費で椅子代出ないかな。シカマル君は何に興味を持った様子も無く、ただぼんやりと部屋を見渡している。掃除はしているが、見た目が汚いことは否定出来ない。火災が起きれば一発でおじゃんな部屋だ。
シカマル君をここへ連れてきた上忍、そして彼の父親であり、わたしも古くからお世話になっているシカクさんは、家主の許可無く窓を開けてしまった。止める声は喉に引っ掛かったまま、途端に肌を撫でる風を感じたので、わたしは急いで頼りない紙束の山脈に手を伸ばす。やべえ紙が飛び立つ!
「うわっちょ、シカクさん!」
「馬鹿息子を頼むぜ、ちゃん」
不敵に笑うシカクさんは大層かっこよい大人の男のひとであるが、今は正直憎いぞチクショウ。
窓から入り込む風が容赦無く書類を浮かせるので、左手で紙の束を机に押さえつけてわたしは椅子に座ったまま頭を下げた。下手に姿勢を崩すと、この風では雪崩が発生してしまう。床に散らばった紙を拾い上げるのは、量が量だけになかなか骨の折れる作業なのである。
奇妙な姿勢を維持したまま、暫くの沈黙を味わう。わたしもシカマル君も動かないのだ。わたしは書類の所為で動けないと表現するのが正しい。シカマル君は困惑していて動きを決めかねているように見える。シカクさんだけが可笑しそうに肩を震わせていて、「だから日頃からもっと人を頼れって言ってるだろう」と、まあ最もなことを述べた。分かってはいる。一人でこなせる仕事量では無いのだ。だからと言って、こんな暴挙に出ることも無かろうに。
いや、シカクさんはあまりにコーヒーくさい部屋に耐え切れずに換気をしたかったに違いない。せめて一言欲しかった。窓を開けない前提で溜め込んだ書類の山を何とかするまで待って欲しかったよチクショウ。チクショウが口癖になりつつあるよチクショウ。
わたしは随分恐ろしい顔をしていたのだろう、シカクさんの笑い声が引き攣った。
「……悪かったって、別嬪が台無しだぞ」
息を吐いたシカマル君が、シカクさんの代わりに窓に手を伸ばした。
めんどくせえ、という定番の呟きは、いつからか姿を見せなくなった。
「なあ」
書類を差し出しながら、シカマル君は窓の外に視線を飛ばしている。書類の端っこを摘むシカマル君の指と触れ合うことは無い。いつの間にか、本当に大きくなったなあと思う。背丈などわたしの肩より下にあった筈なのに。
シカマル君は随分仕事に慣れた。元々潜在能力の高い持ち主であるが、今やわたし以上に仕事をこなしているのではないだろうか。後輩の成長は早いものである。ていうかわたしがお世話する側の筈が、お世話されているような気もする。気のせいだと自分に言い聞かせている。
この部屋は最早わたしの家と成り果てている。台所も風呂もトイレも隣の部屋に備え付けで、シカマル君の教育係を任命されてから経費で落とした大きなソファーはベッドとしての役割を担っている。書類の山を除けば快適な生活空間なのだった。
そこに、人の手に捕まえられてやってきた野良猫のようなシカマル君が入ってきた訳だが、わたしの平和は乱されることなく、ただ記号の羅列と向き合えば良かった。今までと何ら変わりはない、平凡な社畜生活だ。
シカマル君にあれやこれやと教える必要は感じられなかったので、わたしの作業を見て勝手にすれば良いと簡単に考えていたのだが、わたしの判断はどうやら正しかったらしい。仕事の飲み込みは恐ろしいまでで、わたしの負担分が一気に減った。ありがたい話である。
本来、情報処理の担当の暗号班の所属だったわたしだが、封印術の能力を買われて書類整理係に転職をせざるを得なくなったのだと言うまでも無く、シカマル君はぼやきこそしないものの、ぼりぼり頭を掻きながら「知ってるッスよ」とだけ言った。何を何処まで、と追及する気にはならない。一を知れば十まで勝手に辿り着ける子なのだ。
今わたしが怯えているのは、心拍数やら体温が普段よりも少しだけ上昇しているのを気付かれないかどうかということだ。顔には出てないだろうが、シカマル君と一緒にいると以下略である。語りたくない。一体何時からとかも考えたくない。穏やかな日常こそ至高じゃないか?もう思考が混雑してきたから考えるのをやめようそうしよう。
そう言えば、シカマル君に声をかけられたのだった。好い加減に返事しないと。
「何?」
手渡された書類の上から順番に視線を滑らせる。ランクはA、ターゲットは雷の国へ続く森で、見境無く猟奇殺人を行ってる輩。おー物騒。見つけ次第、雲隠れへと連行。任務担当者は上忍二名と特別上忍一名のスリーマンセル。で、任務報告。標的に幻術を掛け、厳重に拘束し、雲隠れへ送還。雷影の判もある。うん、これは封印じゃなくて火影様に優先して報告する書類だな。
「…………年下って」
ええと、優先書類の山は、確か机の右奥の、
「……うん?」
それっきり黙り込んでしまったシカマル君は、わたしが視線で催促しようとも全く口を開く素振りすら見せない。年下? が、どうしたというのだろう。
山を崩さないように重しを一番上に乗せた。再びシカマル君を見やるとふわりと大きな欠伸をしている。やめろばか、欠伸はうつるんだぞと思った矢先に早速大欠伸である。わたしから女子力というものは消え去った。お母さんのお腹の中に置いてきてしまったに違いない。お母さん、取りに還っても良いかな。
生活を共にしていると、何かしら行動やら思考やらが似通ったものになってくるものだという。食事の内容だったり、手癖だったり、感情の起伏だったり。他人に指摘されなければ自覚すらままならなかったであろう事項は数え切れず、気が付けば二年半も仕事を同じくしていたのだから驚きだ。
二年半。あれ、それ、で会話が出来るようになった。ついでに言うなら目線で大体のことは通じるようにもなった。二年半も一緒にいると流石に心情も落ち着いた。多分。
「シカマル君、あれどこだっけ」
「Aランクの奴は昨日俺が火影様に提出してきた」
「おっけ、じゃあアカデミーのあれは?」
「アンタの左後ろの山。封印する奴だ」
「ありがと」
こんなんである。熟年夫婦のようだ、と思って、二人とも年寄り臭いから仕方無いと妙に納得した。いのちゃんには恐らく勘付かれているがこれも以下略。都合の悪いことは耳に入らない主義なんです。日本語おかしいけど気にしたら負け。
「茶」
「ありがと」
良い匂いと湯気の立った湯呑みを差し出されて、受け取る。この際いつもシカマル君の指に触れてしまうが不可抗力である。わたし悪くない。疚しいこともしてない。湯呑み受け取っただけ。うん。
扉から軽いノック音した。見知った気配だったので、いつも通り「どーぞー」気の抜けたような声でノックに答えると、ノブが回った。扉は立て付けが悪いので、ぎいぎいと歪な音を立てる。建物の床自体が傾いているから仕方無いのだ。いつかテンゾウさんに頼んで建て替えてもらいたいものだ。
「お前……コーヒーやめたのか」
部屋に入ってくるなりそう驚きを隠さずにまず述べたのは、砂隠れの上忍でわたしのよき友人であるテマリである。せめて挨拶くらいしてくれたって良いのにと思うが、彼女は気の知れた人間に対しては形式的なものを取っ払ってしまう傾向にあるらしい。不躾とも言える態度かもしれないが、壁が無いことこそ彼女の魅力だろう。ちょっと毒舌なきらいがあるけども。わたしの心臓はガラス製なのでたまに砕けるが、テマリは修理もしてくれるので問題無いのである。
中忍試験で木ノ葉に彼女が訪れた際、試験監督として会場内でうろちょろしていたのがわたしだった。同性で同い年で、共通の話題も多く、試験中にも関わらず随分親しくなって以来、定期的にテマリはわたしの職場へやってくる。砂と木ノ葉の近況などの情報交換が主だが、真面目な話題は最初だけで、徐々にどーでもいい雑談へ逸れてゆくのが常だ。
「え、やめてないけど」
「緑茶に団子なんて、随分渋いな」
「美味しいよ、テマリも食べる?」
黄な粉が表面に塗された串団子を差し出すと、彼女は少し目許を和らげて団子を咀嚼した。テマリは八重歯が可愛らしいと言うとこの間怒られたので(全力の照れ隠しである)、心のうちでにやにやしておくに留まる。
「あのアホ面の影響か」
「アホ面?」
「アホ面で悪かったな」
椅子の背凭れに体重を預けて、気だるげに(いつもだ)わたし達をシカマル君が見やる。テマリが何か含みのある笑い方をしたが、指摘するのも藪蛇な気がするのでわたしは黙っておく。テマリが食べ終えた串を指先でぷらぷらと弄ぶんでいる。
ああそうか、この二人は中忍試験の本戦で対峙したのだっけと思い出して、わたしはずるずる緑茶を啜る。言われてみれば、ここ最近は緑茶ばかり飲んでいる気がする。シカマル君が自宅から持ってきてくれたものがあるから、コーヒーよりも先に消費せねばと思って、
……いや、別に義務じゃない。シカマル君がコーヒーより緑茶が好きなだけだ。テマリは椅子に座ってだらだらしているわたしを見下ろして、ふうん、と息を吐いた。何を納得したと言うのか。
「閉鎖空間にずっといると、客観視出来なくなるというのは本当なんだな」
「何を」
「面白いから言わない」
テマリはにやっと笑って筆記具を取り出した。書類を口寄せして、最終事項(超機密内容)をここで記入するつもりなのだろう。
問い質せば、わたしの方が不利になるに決まってる。わざわざ墓穴に自分から足を突っ込む趣味は無いので、ずるずるお茶を啜って誤魔化すことにした。
性別の差を考えたり、年頃であるとかいうことを考えたりすると頭が沸騰しかねないので、わたしはいつだって大人しくしてきた。シカマル君の淹れてくれるお茶が飲めるだけで十分だ。嘘を述べたつもりは無い。ただ、最近、シカマル君の様子に小さな違和感を覚えただけである。
来週のBランク任務の情報整理が終わったので、一旦書類を封印しようとだらけていたソファーから立ち上がった時だった。足元に鎮座していた一枚の紙に気付かず、わたしは思い切りつるりと足を滑らせた。手元には任務資料。咄嗟にソファーの隣にある机に手を付こうとしたら、その机の上にあった書類の上に手を置いてしまった為に状況悪化。
雪崩発生。
うおあああと情けない叫び声を上げて、楽してソファーの上で受身を取ろうとしたのが間違いだったのか。花吹雪のように白が舞う。花弁にしてはでかすぎる。無駄な思考に割り込むように、ソファーの隣に立っていた筈のシカマル君が、いつの間にかわたしの後頭部を手で包んでいた。
床に落下していった書類が乾いた音を立てた。呼吸音すら大きく聞こえるほど、部屋の中には静寂が居座った。
心臓が口から出たって可笑しくない。何だこの状況。一気に脳味噌が逆上せていく。こんな状況を想像したことすら無いのに、対処法が練れる訳も無い。無駄に緊張して口から零れ出たのは心臓では無く、情けなくも引き攣った声だった。
「さ、流石に、これは、まずい」
何が、とシカマル君が笑う。全てだ、と答えてやろうと思って踏み止まる。上手すぎる具合にソファーの上に折り重なった我々の上には、雪のように紙が積もっている。どちらかが少しでも身動きすれば、ずべしゃあと派手な音を立てて更に床が真っ白になるだろう。いや、未記入で封印前の書類だからまだ良いか。
「良くねぇよ」
何が、と今度はわたしが笑った。シカマル君は一瞬目を丸くして、重たい息を吐いた。
「アンタは理解してるくせに、頑張って惚けようとしてんのが丸分かりなんだよ」
絶句してシカマル君を見やる。眉間の皺は深い。たまらなくなってわたしは視線を遠方へ投げた。顔を手で覆ってしまいたい。シカマル君がゆっくりと肘を折った。書類は意外にも大人しくしていて、シカマル君の行動は一体何処まで計算されているのかと考えてぞっとした。もう訳が分からない。理解の範疇をすっかり超えてしまっている。
シカマル君の指は少し震えている。わたしは全身が震えそうなのを精一杯抑えているのでおあいこだろう。そりゃ、二人でいて苦痛を感じることが無かったのだ、お互い期待していなかったと言えば嘘になるんじゃなかろうか。ああいや、もう墓穴なんて一つで良いのにわたしは馬鹿か。
結局のところ、己の臆病さ加減が露呈したに過ぎない。勘違いだったら恥ずかしいと、目を背けてばかりいたことすらお見通しだったかもしれないのだ。
「なあ」
いつもと変わらぬ声かけである。わたしは何、と返さねばならぬ。そうして書類のやり取りをして、わたしはコーヒーの代わりに緑茶を飲んで。
「いつまでも子供な訳ねェだろ」
上手く言葉が出ない。忍者としてこの失態はどうなんだろう。もう分かんねえよ近いよシカマル君、景色は白色とシカマル君ばかりで、遠方に投げた筈の視線は勝手に正面へ戻ってしまうのだ。
「おお、何という羞恥プレイ……」
「どっちが」
互いの耳に集まった血液が沸騰寸前であることなんて、指摘したら負けなのだ。