ブラインドタッチでノートパソコンとずっと向かい合ってばかりいると、ふいに集中力が途切れた時に視界がぶれる。二重に重なって見える文字や画像にぎょっとして、かたく目を閉じて背伸びをする。肩の骨が軋む音が耳元で聞こえた。
授業が終わったのが十五時半、HRと清掃が終わったのが十五時四十五分、そして現在十七時三十分。部活動をしていない一般生徒の最終下校時刻は十八時だ。生徒会の活動は部活動と同等に認められているので、十九時までは作業をしていられる。しかしお腹がすいた。帰りにコンビニで肉まんでも買おうかな。
立ち上げていたエクセルを上書き保存して、首を回せばごきごきと鳴った。掃除はしている筈なのに埃の匂いがする生徒会室は、わたし以外には誰もいない。わたしは椅子の上で踏ん反り返って蛍光灯を見詰める。腹の虫が騒ぎ始めている。
廊下から僅かな足音が聞こえた。生徒会室は静寂の真っ只中なので、それは小さな足音だったがよく耳に届いた。ドアが三度ノックされ、わたしが間延びした「どーぞー」返事をすると、ぎいぎい音を立ててドアが開いた。生徒会室のドアは立て付けが悪いので、いつも歪で耳障りな音がする。
「お疲れさま」
「はーいおつかれー」
ぐでぐでと椅子の上でだらけるわたしを見て、生徒会室に入ってきた柳は苦笑した。既に制服姿である。柳は律儀だ。大会などが近い時を除けば、部活にも生徒会にもちゃんと顔を出す。他の生徒会役員なんてみんな部活一色なのに、運動部の中でも特に厳しいテニス部と生徒会を両立させている柳はものすごい奴だ、とわたしは感心している。まあ真似はしたくないが。
わたしの横にあった椅子を引いて、柳が座りながらわたしの頭をぽんぽんと撫でた。わたしは目蓋を落として大きな手のひらを享受する。疲れた、と声にならない声で呟くと、柳はノートパソコンを覗き込み、参考程度に開いていた昨年度予算のPDFファイルを勝手に閉じてしまった。今見ていても無駄だと判断したのだろう。別に良いけど。
「どこまで進んだ?」
「……各部の予算編成は出来たよ」
柳は聡明過ぎて、言葉の裏を容易く読み取ってしまう。昨年度の決算はまだだけど、とは言わなかったのに、柳はわたしの頭を鷲掴んで溜め息を吐いた。
「決算を先に終わらせないでどうする」
「去年の予算と会計報告が一致しない部活が多いんだもんよ」
「どこだ」
わたしは机の上に散乱している去年の予算申込書と会計報告書を手繰り寄せ、赤ペンで殴り書きと形容するのが正しいような暴れっぷりを見せているプリント上部に視線を落とす。書いたのはわたしであるがここまで男らしく書く必要も無かったと今更に後悔した。先に後悔出来る訳も無いので仕方あるまい。自分の感情に素直だっただけである。子供だから許されるよきっと。
柳の手はわたしの頭部から離れる様子が無い。寧ろ器用にツボを押してくださっている。かなり気持ち良いので寝たらどうしよ「こら、寝るな」う。しかし絶妙な力加減なのが悪い。
労わられているのか、詰られているのかを考えるのも疲れてしまった。柳は職に困ったらマッサージ師にでもなれば良い。就職難とか云々言われているが、柳なら引く手数多のモッテモテに違いない。就職活動生から妬まれるね。あれ、何の話をしてたんだっけか。
椅子からはみ出た柳の長い足を見つつ、わたしは手元の荒ぶった赤ペンの軌跡を読み上げた。
「……えーと、陸上、軽音、サッカー、ハンド」
「呼び出せ」
柳の言葉には有無を言わせない強い力がある。相変わらずの美しい菩薩のような顔をしておきながら、その強制力たるや実は真田を上回るとわたしは思っている。そろそろ見詰めるのも辛くなってきたパソコンの画面を視界に入れないようにして、わたしはわざとらしく溜め息を吐いてみせた。
「明日の昼休み潰れるとか……」
言った途端、柳は眉ひとつ動かす素振りも見せず、わたしの頭に添えた指先に力を込めてきた。みしみしと頭蓋骨から嫌な音が出ている、命の危機である。ごめんなさいごめんなさい申し訳ありません二度と言いません、と声を張り上げると「五月蝿い」一刀両断、何と鬼畜な。
生徒総会が近いので、出来る限り早く決算報告書を完成させなければいけないのは理解出来る。しかし放課後中細かい数字と向き合ってエクセル編集をしなきゃならんわたしの気持ちも考えて欲しい。今度は柳が溜め息を吐いて、漸くわたしの頭から手を離してくださった。
お腹すいた疲れた眠い、と三段活用を披露したが、柳からの反応は薄かった。戯言だよ分かってるよ。言ってもお腹はいっぱいにならないし、疲れは取れないし、眠気は飛んでいかない。肩に岩でも乗ってるような感覚を覚えながら、わたしは会計報告がちゃらんぽらんな部活の各々の報告書を束から引き抜いた。とりあえずこの四つの部活の代表者を近日中に呼び出してお説教せねばなるまい。
柳の手が憎憎しき会計報告書を奪っていった。そうそう、仕事もついでに奪ってくれ。
「付き合ってやるから我慢しろ」
「ええー……」
そりゃ一人で対応するのは割と骨が折れる作業であるし(奴らは生徒会の言い分に真っ向から反抗してくる)、柳がいればそりゃもう論理的反論に関しては百人力なのだが、昼寝に使うための貴重な昼休みが浪費されるとなるとなかなか辛いものがあるのだ。決算と予算編成以外にも割と仕事が振り当てられていて、正直ここ一週間の睡眠時間の平均は減少傾向だ。成長期にあるまじき事態だ。
明確な返事をせずに椅子に座ったまま背筋を伸ばしたり肩を鳴らしたりしていると、柳が徐に胸ポケットからひらひらしたものを取り出した。折りたたまれた紙のようだ。何それと尋ねると、柳の長い指先が紙を開く。ポップな字体が踊るチラシには、見慣れた美味しそうな、
「此処にミスドの割引クーポンが」
「柳愛してる!」
反射で出た言葉に我ながら引いた。ドン引いた。口軽すぎる上に最上級だった。柳は暫く息を止めて硬直した後、珍しく大袈裟な咳払いをかましてきた。おおう、そんな咳払いをすると喉を痛めますよお兄さん。
微妙な空気が流れた後、柳が小さく肩を揺らした。笑いを堪えているらしい。お互い疲れているからまともな思考回路を形成できていないのだ、きっとそうだ。腹を抱えて机に突っ伏して笑いを堪え始めた柳に、お前キャラ崩壊してないかと言うのも憚られる。お前の所為だと更に笑われるのがオチだ。
机の上でくしゃっとなった柳の前髪が、手櫛だけでちゃんと元通りになるのを想像していると、柳はゆっくりと姿勢を元に戻した。わたしの顔を見るなりまた吹き出しやがったが、つられてわたしも吹き出してしまったのでもう何も言えない。
「……お前は、随分、口が軽いな」
「わざとですよ」
「分かっているさ」
このような応酬は普段から繰り広げているので、お互いに引き際も分かっている。椅子の背凭れに頭を預けて、天井の蛍光灯でも見ておく。柳がドーナツを食べる様子を思い浮かべると、何だかむずむずした。やっぱり柳には和菓子だよなあ。抹茶味のドーナツならギリギリ違和感が無いかもしれない。
別に、柳が洋菓子やジャンクフードを食べないという訳では無い。ただ、とことん似合わないなあと思うだけである。柳はテニス部じゃなかったら茶道か弓道をやっていただろうと勝手に思いながら、受け取った割引クーポンを指でなぞった。百円セールじゃない時に、何と贅沢な。思わずにやけると柳が吹き出した。意外にもこの男の笑いの沸点は低い。能面を被っているだけで。
柳の奢りでミスドなんて素晴らしいねとげらげら笑うと、そうかお前が奢ってくれるのかと柳がアルカイックスマイルをぶち込んできたので素直にごめんなさいをした。
「そういや柳、荷物は部室?」
手ぶらで生徒会室に入ってきたことを思い出して聞くと、柳は壁に掛かった時計をちらりと見て、少し苦い顔をした。十八時五十分。柳は口を開いたものの、何かを言おうと迷って、暫く沈黙した。
「……ああ、そうだな、そろそろ取りに行くか」
「……今日何かある日だっけ?」
必死に今日の日付を思い出そうとしたが、六月であるということしか覚えていなかった。いや、単に頭が働いていないだけだ。数字の羅列ばかり見ていたので、脳内が数字で洪水状態である。
「誕生日だな」
今日は火曜日だなと同じテンションだった。うっかりさらっと聞き流してあ~そうだっけね、深夜アニメは何やってるんだっけ、とか言いかけそうになったのを必死に殺した。今度は冷や汗が洪水状態である。そういや柳の誕生日は六月四日だった。今思い出した。ゲームのロクヨンの日だねアハハと笑った二年前を思い出した。柳の髪が風にさらさら靡いて、黙って座ってたら女の子に見えると言った、二年前のおめでとうを。ちなみに一昨年も去年も無難に図書カードを贈呈したのも思い出した。
思い出さなければ良かった。今年のわたしは時間に追われて慌てん坊将軍ではないか。何も持ってないぞ。財布の中身も侘しいし、使いかけの図書カードしか入ってないぞ。誰か助けてくれなんだぞ。すっげー日本語おかしいんだぞ。手汗も洪水状態なんだぞ。
しかし、慌てても事態は一向に回復しない。柳はわたしとは対称的に涼しい顔をしてわたしのシャーペンを弄んでいる。こいつには暑さとか湿度とか通用しないのか。隣にいるわたしの影響を何ら受けていないと? ちくせうめ。
柳は何を欲しがっていただろう? 分からん。本の虫で、テニスが好きで、柳のことを表面上しか知らないわたしには難しい問題だ。いやだから、毎年無難に図書カードを渡していたんじゃないか。わたしは馬鹿か。
何時までも項垂れていても柳は菩薩スマイルで椅子に座ったままだ。わたしは試されているのだろう。あっちこっちへ視線を彷徨わせて、なす術も無くなったので、椅子の向きは変えずに身体の正面を柳に向けた。だってこれしか残っていない。
「………オメデトーゴザイマス」
「ありがとう」
うわー会話を終わらせやがった。何か膨らましてくれるかと期待したのに、全力で裏切ってくるなんてと泣き真似をしたが、柳はふっと鼻で笑ってただ手を差し出してきた。何をご所望でございますかと聞くのも恐ろしい。答えを間違えれば一週間はねちねち言われるに違いない。柳は根に持つタイプなのだ。多分テニス部で初対面の時に女子だと思って柳ちゃんと呼んだこともしっかり覚えているのだろう。
何か免罪符はないだろうかと鞄の中を漁ると、たった一枚の紙切れが出てきた。ちなみにミスドのクーポンでは無い。
「……食堂の食券ならあるけど」
苦し紛れに放った一言は、これまた意外にも柳の口許を緩めた。
「そうだな、明後日の昼休みはどうだ?」
「え、一緒に行く系ですか」
「は薄味派だろう?」
「……よくご存知で」
「当然だ」
ふふ、と柳が笑って、わたしの手から食券をそっと抜き取った。果たして柳の所持しているノートの中身はどうなっているのか、想像するだけで寒気がする。何でもかんでも数式に還元されてるとまでは思わないが、このマメな男のことだ、どーでも良い情報から機密事項まで事細かに記載されているのだろう。
食券は柳のシャツの胸ポケットに収まった。そろそろ出るぞ、と柳が音も立てずに立ち上がる。机の上の報告書の角を揃え、分厚くなったファイルに報告書を挟み、わたしも漸く立ち上がった。
きっと柳は、追いかけてくる女の子達から逃れるために、ひっそり逃亡していたのだろう。誰より頭の回転が速い柳だ、部室に荷物を置いておくことで部室付近にいるのではないかと思わせて、面倒ごとを避けていたに違いない。贅沢な悩みで羨ましい限りだ。
「あー肉まん食べたいなあ」
「ふむ、駅前のコンビニで奢ってくれるんだな、良いだろう」
「えっ昼休みは」
「そんな些細なことに拘っていて疲れないのか?」
「柳には言われたくないよ……」
本棚にファイルを仕舞い、ぐっと背伸びをしてから鞄を手に取る。柳は机の上でじっとしていた生徒会室の鍵を拾って、足音も無く出口へと向かう。疲れているのに足取りだけは軽かった。
部屋の電気を消して、柳の後ろに続いて生徒会室を出ようとしたところで、不意に柳が振り返った。廊下も既に薄暗く、辺りに人の気配は感じられない。柳が少し屈んで、僅かに首を傾げた。
「付き合ってくれるか」
さて、ここでわたしの選ぶべき返答は、一体何だったのだろう。お互いに言わんでも分かるだろうという姿勢は変わらない。冗談と真面目な話をしている時の空気が違うから、無駄な弁解は必要ないのだ。だからこそ、わたしは柳の真意を見抜かなければならない。
唐突に、スカートのポケットに入っていた抹茶味のミルキーの存在を思い出す。わたしはそれをポケットから引っ張り出して、わたしが動くのを待っている柳の手のひらに押し付けた。好みは大体同じだ。だから、言わなくても分かる。
押し付けた手のひらが、柳の指に絡め取られた。間に挟まったミルキーが溶けて包装紙にべちゃっとくっ付いてしまうのを危惧しつつ、尊い犠牲だと割り切って笑う我々は、さぞ奇妙なことだろう。
「俺も口が軽くてな」
「知ってるよ」
生徒会室の鍵を閉めて、わたしも柳も苦笑した。