最前列では黒板が近過ぎて、板書をする時に必要以上に顔を上げなければならないから、かえって辛い。後方の席ではお喋りに花を咲かせる人が多いから、講義を真面目に聞きたい人間にとってはあまりにも苦痛だ。真ん中の方は前の席に背の高い人が座ると黒板が見えにくくて面倒だ。そうして消去法を重ね、わたしは最も快適な席を探し当てた。

「あ、やべ」

 前から四列目、右の通路側の一番端。三つ椅子が並んだ長机の、真ん中には荷物を置く。その横にはシャーペンの背をノックして慌てている食満の姿がある。面倒なのでペンケースの中に行儀良く収まっているシャー芯のケースを丸ごと手渡せば、たったそれだけのことなのに砂漠で遭難中に水分を得た旅人みたいな反応を示すから、こいつは純粋だなあとぼんやり思う。

「筆記用具揃ってるじゃん、偉い偉い」
「喧嘩売ってんのか」

 折角褒めてやったのに、お気に召さなかったのか、食満は形の良い眉を吊り上げてから軽快に笑った。いつまでも小学生みたいな男である。この図体にはもうランドセルなど滑稽な代物にしかならないが。
 わざわざ少し身を乗り出して、食満がなあなあと嘆願するような声を出す。眉尻の下がった情けない顔は、もう見飽きてしまった。

「なあ、ノート見せて」
「何で」
「この前聞き逃したとこがあって」
「またかよ」
「頼む
「頼まれたくない」
「オムライス作るから!」
「乗った!」

 ノートをせがまれるのも何回目か。深夜にスタジオ練習など入れるから悪いのだ。いや、確かにライブ前のスタジオ練習は不可避だが。食満の作るオムライスが格別に美味しいことを知っているわたしは、まあ良いかと納得してみせた。
 机の横に立て掛けられた黒い物体を見て、どうせ講義開始ギリギリまで寝ていて、部室にギターを置いてくる時間が無かったのだと推測する。机の横にそんなものを置いていると後ろの席の人の視界を塞いでしまうことを危惧し、わたしはわざわざ席を立って食満のギターを回収し、わたしの右横の教室の壁に立てかけた。視界を防ぐだけじゃなくて、机と机の間の細い通路にギターなんぞを置けば蹴られる心配だってあるだろうに。阿呆か。
 小さな出席票にちまちまと字を書く食満は、こちらも見ずにありがとうとだけ言って、机の上に出したわたしのノートを勝手に掻っ攫う。お前、そのありがとうは何に向けてるんだ。ギターかノートか、それとも短縮して両方か。別に構わないけど。自分が卑屈みたいで嫌じゃないか。
 学校の最寄り駅の近くのスーパーで買ったペットボトル飲料を机の上に出す。お菓子もおまけする。講義が始まるまであと五分。大学に着くまでの道のりで既に朝食を消化してしまっているわたしは、こうして非常食でも口にしないと講義の最中でも構わず腹の虫が鳴る。期間限定に弱すぎる自分を心の中でぶん殴りながら、お菓子のパッケージを開ける。
 開けた途端に食満の、半袖で覆われてる部分だけが白い腕が伸びてくる。個別包装になっているチョコ菓子を長い指が摘んで、礼も言わずにビニル包装を破る。親しき仲にも、と考えてわたしは首を振った。親しいを通り越して最早家族のようになっている。
 座席の真ん中に置いたわたしの鞄の隣にある、黄緑色のリュックを勝手に漁る。無論、食満のリュックである。ごそごそすると食満の非常食のラムネが出てきた。チョコレートで糖分を摂るよりブドウ糖を吸収できるラムネの方が良いよ、と善法寺が言ったのを守っているのだろうか。または、軽音の後輩に餌付けするもののかもしれない。
 緑色のキャップを外し、ラムネを三粒頂戴する。こんなもので腹が膨れる訳も無いのだが、この講義が終われば昼休憩なので、多少誤魔化せればそれで良い。
 適当な挨拶、適当な会話、投げ槍な雰囲気。知ってる人が見れば“熟年夫婦”、知らない人が見れば“遠慮が無さ過ぎる友人”である。付き合い始めたのは一回生の冬で、今が三回生の秋なので、まあそれなりに長続きしているのだった。絶対すぐに別れると思った、と善法寺は笑うし、軽音の後輩の鉢屋なんかは「先輩方が付き合ってるって、今もデマだと思ってますよ」だそうだ。




 講義が始まって三十分もすると、食満はぼちぼち欠伸を零し始める。講義が退屈なのではなく、ただ単に睡眠不足と集中力が切れたのが原因である。食満は講義は真面目に受けるタイプの学生である。論文だってライブが立て込まなければきちんと仕上げるし、実は普段からちゃんと勉強しているのである。意外な話である。
 DTMがどうとか、ペダルがどうとか、ギターに詳しくないわたしにはさっぱりな話題をいつも大袈裟なくらい抱えて、食満は部室や自室で楽しそうである。楽しいが故にうっかり夜が更けることもザラで、いつになったらコイツの阿呆は治るのかとわたしは心配になる。音楽に集中すると寝食を忘れる輩なので、食満の下宿先の近くに住んでる久々知に世話をよく頼むのだが、毎度あの大きな瞳で「ご自分でやったらどうですか」と訴えられるので、そろそろわたしが何とかしなれければならないのだろう。正直嫌だ。
 下宿の食満と違って、わたしは通いだ。電車で一時間半の距離である。わたしは毎日ちゃんと自宅に帰るし、食満の家に泊まることは滅多に無い。機材と雑誌と漫画が溢れかえる食満の部屋で寝るためには、まず布団が足りないし、お互いに誠意が足りない。どちらも遠慮をしないので面倒なことになるのだ。

「……寝てるよ」

 隣に囁く。寝てない、とのご返事である。別に良いけどさ。食満が単位を落としたところでわたしは痛くも痒くも無いのだし、親切心で起こしてやる余裕も、実際はあまり無い。わたしだって眠たいのだ。この講義は抽象的な話ばかりで、ちっとも具体性を伴っていない。事例が一切出てこないのに、この理論を活用できるのだろうか。不思議だ。
 十分経つといよいよ眠気のピークが到来したらしく、眉間を指で押さえたり、目薬を点したりと懸命な努力を重ねているのだが、どれも大した効果は得られないらしい。顰め面で瞬きをしているなと思うと、ついに少し俯いて動かなくなった。ああ、落ちた。
 黒板に白い文字が滞りなく増えてゆく。具体例は自分で考えつつ、ノートにまとめる。哲学みたいなものだと思えば、この講義はとても楽しい。
 爽やかな秋風が窓を通り抜けて、学生の髪を弄ぶ。食満の黒髪もさらさらと揺れた。目蓋の落とされた横顔は、黙っていれば絵になるのに。食満の睫毛は長い。吊り上がった眦に相応しい。少し長い前髪が揺れている。ライブの時はピンで横流しに留めているけど、もう少し短い方がわたしの好みである。絶対こいつ言うこと聞かないけど。
 ふ、と食満が瞬きをした。たった五分寝てただけか、つまらない。食満は腕時計をちらと見やり、たった五分でかなり白の増えた黒板を見て、慌ててシャーペンを握り直した。お間抜けだなあとわたしが思って生暖かい眼差しを注いでやると、気付いた食満が横目で何だよと尋ねてくる。機嫌は、寝起きだからあんまり良くなさそうだ。

「別に。あ、その理論の逆パターンはこれ」

 口頭だけの説明をノートに付け加えておくのは、もうずっとわたしの役目になっている。食満は講義はちゃんと聞いているけど、板書しかしないのでうっかりと阿呆なミスを仕出かすことが多く、わたしが手助けしてやっているのだ。何でだ。お人好しすぎるだろわたし。

「おう、サンキュー」

 この時だけは、投げ槍な雰囲気が砕けて、緩んだ顔を拝むことができる。この顔に弱いという自覚はあるので、わたしは溜め息を一つ吐いて自分のノートに視線を戻す。が、黒板を見ようと顔を上げると、横目にその姿が飛び込んできてしまう。
 再び欠伸をする食満が、秋風に目を細めた。前髪を、長い指が払う。少し伏せられた目蓋が長い睫毛を強調して、不意に心臓が吃驚した。いや、特別なことは何もしてない。ただ、指先で前髪を流しただけだ。何でわたしはどぎまぎしてんだろう。
 教授はチョークを消費するのを少し止めて、口頭での解説を始めてしまった。待って、わたし今身体の中がうるさくてそれどころじゃない。

酸化の手順

130916|ショウコさん、リクエストありがとうございました